学問のすゝめ

著者 福澤諭吉小幡篤次郎(初編のみ)
訳者 デヴィッド・A・ディルワースほか
発行日 初編 1872年(明治5年)2月
二編 1873年(明治6年)11月
三編 1873年(明治6年)12月
四編 1874年(明治7年)1月
五編 1874年(明治7年)1月
六編 1874年(明治7年)2月
七編 1874年(明治7年)3月
八編 1874年(明治7年)4月
九編 1874年(明治7年)5月
十編 1874年(明治7年)6月
十一編 1874年(明治7年)7月
十二編 1874年(明治7年)12月
十三編 1874年(明治7年)12月
十四編 1875年(明治8年)3月
十五編 1876年(明治9年)7月
十六編 1876年(明治9年)8月
十七編 1876年(明治9年)11月
発行元 福澤諭吉
日本の旗 日本
形態 パンフレット
『学問のすゝめ』は菓子の名にも冠されている

学問のすゝめ』(がくもんのすすめ)は、福沢諭吉の著書のひとつ。初編のみの共著者に小幡篤次郎がいる。

沿革

原則的にそれぞれ独立した17つのテーマからなる、初編から十七編の17の分冊であった。 1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れたとの事である。

最終的には300万部以上売れたとされ[1]、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10セラーであったと言える。

内容

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福沢の言

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節はあまりに有名である。 誤解されることが多いが、この「ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[2]

この引用に対応する下の句とも言える一文は、

「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」

である。つまり、

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」

ということである。

以上の言葉は初編からの引用であるが、虚実渦巻く理想と現実の境を学問によって黎明するといった意図が読み取れる。全体として学問の有無が人生に与える影響を説いており、日本国民の行くべき道を指し示した。したがって『学問のすゝめ』なのである。

彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3] [4]

更に古文や漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者や朱子学者が使うような難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算、基本的な道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]

文章の特徴

当時としてはかなり平易な文章だといえる。そのため小学校の教科書にも用いられた。当時の文章に多く見られる特徴と同じように、比喩的な表現が多く、特にユーモラスな比喩が多い。「力士に腕を折られる」や「商家の跡取り息子が身代を潰す」等、福沢諭吉の人間性を見る上でも、当時の世相を見る上でも興味深い表現が多い。

また一編、一編が簡潔で、一つの論旨を比喩や故事、時に外来語まで用いて説いている。

批判

『学問のすすめ』への批判は、特に第6編「国法の貴きを論ず」と第7編「国民の職分を論ず」に集中していた。『福沢全集』(巻之一)の「緒言」によると、批判の評論は1873年明治6年)から1874年明治7年)にかけて激しくなり、「明治七年の末に至りては攻撃罵詈こうげきばりの罵詈頂上ちやうじやうを極め遠近ゑんきんより脅迫状けふはくじやう到來たうらい、友人の忠告ちうこく等今は殆んど身邊しんぺんあやうきほどの塲合ばあいに迫り」というほどであった[6]

赤穂不義士論

第6編「国法の貴きを論ず」において、赤穂浪士の討ち入りは私的制裁であって正しくないと論じている。さらに、浅野内匠頭が切腹になったのに吉良上野介が無罪になったことの不当性を、本来は幕府に訴えて、裁判により明らかにすべきであると論じている。この部分が、赤穂浪士を真の義士でないと称した論として、批判の対象となった。

楠公権助論

第7編「国民の職分を論ず」において、主君のために自分の命を投げ出す忠君義士の討死と、主人の使いに出て一両の金を落としてしまい命令を守れなかったために首をくくった権助(下男、飯炊き男、下僕のこと)の死を同一視している。さらに、共に私的な満足のための死であり、世の文明の役には立たないと論じている。この部分が、英雄の楠木正成(楠公)が湊川の戦いで討死したことと、権助の死を同じく無益な死と論じたものと解釈されて、批判の対象となった[7]

『学問のすゝめ之評』

福澤は、上記の批判に対して、慶應義塾 五九樓仙萬(ごくろうせんばん)というペンネームで「学問のすすめ之評」という弁明の論文を記して投稿し、『郵便報知新聞』明治7年11月5日号付録に掲載された。さらに、『朝野新聞』同年11月7日号に「学問ノススメ之評」として転載され、『日新眞事誌』同年11月8 - 9日号、『横浜毎日新聞』同年11月9日号にも掲載された[8]

この投書が掲載されてから、「物論ぶつろん漸くしづまりて爾来じらい世間に攻撃こうげきの聲を聞かず」という事になった。

「学問のすゝめ之評」は以下の文献に収録されている。

本書をモチーフにしたタイトルの作品・商品

有名な作品であるため、他の作品・商品に本書をもじった名前が使われることがある。

パロディ

書誌情報

福沢諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』(初版、1872年)

初版本

大分県中津市内の福沢諭吉旧居記念館内に初版本を展示している。

1968年日本近代文学館から「名著複刻全集 近代文学館 明治前期 29」として『学問のすすめ 全』(初編)が復刻されている。

小室正紀西川俊作編 『福澤諭吉著作集〈第3巻〉学問のすゝめ慶應義塾大学出版会2002年ISBN 978-4766408799 には、『学問のすゝめ 全』(初編)初版本の影印が収録されている。

版本

現代語訳

英訳

マンガ

CD

ニンテンドーDS

脚注

  1. ^ 福澤は「学問のすゝめ」について『福澤全集緒言』の中で次のように述べている。

    學問がくもんのすゝめは一より十七に至るまで十七編の小册子せうさつし何れも紙數かみかず十枚ばかりのものなれば其發賣はつばい頗る多く毎編まいへん凡そ二十萬とするも十七編合して三百四十萬册は國中に流布るふしたるはずなり

    福澤諭吉、『福澤全集緒言』、p. 81

  2. ^ 慶應義塾豆百科』のNo.22「考証・天は人の上に人を造らず……」を参照。
  3. ^ 福澤は『学問ノススメ 2版』の中で次のように述べている。

    西洋ノ諺ニ愚民ノ上ニ苛キ政府アリトハコノ事ナリコハ政府ノ苛キニアラズ愚民ノ自カラ招ク災ナリ愚民ノ上ニ苛キ政府アレバ良民ノ上ニハ良キ政府アルノ理ナリ

    福澤諭吉、『学問ノススメ 2版』

  4. ^ 福澤は『学問ノススメ 2版』の中で次のように述べている。

    文盲ノ民ホド憐ムベク亦惡ムベキモノハアラス智惠ナキノ極ハ耻ヲ知ラサルニ至リ己ガ無智ヲ以テ貧究ニ陷リ飢寒ニ迫ルトキハ己ガ身ヲ罪セズシテ妄ニ傍ノ富ル人ヲ怨ミ甚シキハ徒黨ヲ結ビ強訴一揆ナドヽテ亂妨ニ及ブコトアリ耻ヲ知ラザルトヤ云ハン法ヲ恐レズトヤ云ハン

    福澤諭吉、『学問ノススメ 2版』

  5. ^ 福澤は『学問ノススメ 2版』の中で次のように述べている。

    ○學問トハ唯ムヅカシキ字ヲ知リ解シ難キ古文ヲ讀ミ和歌ヲ樂ミ詩ヲ作ルナド世上ニ實ノナキ文學ヲ云フニアラズコレ等ノ文學モ自カラ人ノ心を悦バシメ隨分調法ナル者ナレドモ古來世間ノ儒者和學者ナドノ申スヤウサマデアガメ貴ムベキ者ニアラズ

    福澤諭吉、『学問ノススメ 2版』

  6. ^ 慶應義塾 2001収録の1874年明治7年)11月6日大槻磐渓あて書簡、および補注400-404頁を参照。
  7. ^ 丸山 2001、306頁
  8. ^ 丸山 2001、307頁

参考文献

関連項目

外部リンク