温故知新TOP  Shinran-TannishTOP  ShinranEnglish  TannishoEnglish    般若心経  高野山・空海 (性霊集)


Tannishō (歎異抄・英訳 現代語訳 原文 )english


Chapter I Chapter Ⅱ Chapter ⅢChapter Ⅳ Chapter Ⅴ Chapter Ⅵ Chapter ⅦChapter ⅧChapter ⅨChapter Ⅹ ChapterⅪChapterⅫ Chapter XIII ChapterXIV ChapterXV Chapter XVI ChapterXVII Chapter XVIII Epilogue Record流罪記録

Prologue
In reflecting upon my foolish thoughts and thinking of the past and present, I deeply regret that there are views deviating from the which was taught orally by our late master, and I fear that doubts and confusion may arise among the followers who come after us. Unless we rely upon a good teacher with whom, fortunately, our karmic destinies are bound, how can we possibly enter the true gate of effortless practice? Do not violate the fundamentals of Other Power by imposing upon it your own interpretations. .

プロローグ
自分の愚かな考えを振り返ったり、過去や現在の事を考えたりすると、私は、親鸞さまから口で教えられた真実信心をさけている見方があったと深く後悔します。 そして、私達の後を追う者の中に疑いや混乱が起こるのではないかと心配に思うのです。幸いに私達の業の運命によって、 良き先輩に頼らなければ、私達はどうしたら努力の必要がない修行の本当の道に入ることが可能であろうか?(可能でないだろう)。 あなた自身の解釈を押しつける事によって、他力の原理に破ってはいけません。 ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、

先師親鸞の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに幸ひに有縁の知識によらずはいかでか易行の一門に入ることを得んや。 まつたく自見の覚語をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ

Thus have I committed to writing some words of the late Shinran which still ring clearly in my ears. My sole purpose is to dispel the clouds of doubt in the minds of the practicers with the same aspiration.

したがって、私は、はっきりと今でも耳に鳴っている故親鸞さまのお言葉をおそれおおくも記すのであります。私の唯一の目的は、 同じ望みを持っ仲間達のこころにある疑いの雲を晴らすことなのです。

よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。 ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。


Chapter I
When the thought of saying the nembutsu emerges decisively from within, having entrusted ourselves to the inconceivable power of Amida's vow which saves us, enabling us to be born in the Pure Land, in that very moment we receive the ultimate benefit of being grasped never to be abandoned.

第1章
念仏を称える思いが決定的に内から現れるとき、私達を救うという阿弥陀様の願いである不可思議な力に自分達をゆだね、 私達を浄土に生まれさせ、そのまさしくその瞬間に、私達を決して見捨てず、必ずつかみ取るという究極の利益を受けるのです。

一  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、 すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

Amida's Primal Vow does not discriminate between the young and old, good and evil; true entrusting alone is essential. The reason is that the Vow is directed to the being burdened with the weight of karmic evil and burning with the flames of blind passion.

阿弥陀の本願は老若、善、および悪を区別しません。信心ひとつだけが不可欠なのです。理由は、その願いが、悪業の罪深さを背負った、 また、煩悩の炎で燃えている私達に向けられるているからです。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。 そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

Thus, in entrusting ourselves to the Primal Vow, no other form of good is necessary, for there is no good that surpasses the nembutsu. And evil need not be feared, for there is no evil which can obstruct the working of Amida's Primal Vow したがって、本願に自分達を任せるのに、どんな善も必要でない。よって念仏を凌ぐどんな善もないのです。そして、悪を恐れる必要もないのです。

よって、阿弥陀の本願の働きを妨げることができるどんな悪もないのです。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。 悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。


Chapter II
I believe that the reason you have come here, crossing over more than ten provinces at the risk of your lives, is solely to ascertain the path that leads to birth in the Pure Land. But if you suspect that I know ways other than the nembutsu to attain birth, or that I am versed in the scriptures connected with it, you are greatly mistaken. If that be the case, there are many eminent scholars in the monasteries of Nara and Mt. Hiei, so you should go see them and ask them in detail about the way to attain birth in the Pure Land.

第2章
命の危険もかえりみず十カ国以上の国を越えて、あなた方がここに来た理由は、ただ、ひたすら浄土に生まれることを導く道を確かめるためであったろうと、 うかがえるのであります。しかし、もし、あなたが、往生するために念仏の他に方法があることを私が知っているのではないかと疑い、 あるいは、私がそれに関係した聖教に精通しているのではないかと疑うならば、あなたは大いに間違えている。多くの著名な学者が奈良や比延山のお寺にたくさんいるので、 あなたは、彼らに、会いに行って、彼らに浄土に往生する方法を詳しく聞けばいいでしょう。

二 おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。 しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。 もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

As for myself, Shinran, I simply receive the words of my dear teacher, Honen, "Just say the nembutsu and be saved by Amida," and entrust myself to the Primal Vow. Besides this, there is nothing else.

自分(親鸞)に関して、私は素直に私の親愛なる教師(法然)のお言葉、「ただ念仏だけ称えて、阿弥陀によって救われなさい。」を受け、本願に自分を任せするだけです。 これをさしおいて、他に何もない。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

I really do not know whether the nembutsu may be the cause for my birth in the Pure Land, or the act that shall condemn me to hell. But I have nothing to regret, even if I should have been deceived by my teacher, and, saying the nembutsu, fall into hell. The reason is that if I were capable of realizing Buddhahood by other religious practices and yet fell into hell for saying the nembutsu, I might have dire regrets for having been deceived. But since I am absolutely incapable of any religious practice, hell is my only home.

私は、念仏が浄土に生まれる要因なのか、それとも、地獄におとしめる行為かどうなのかは本当に知らないのです。 しかし、たとえ、先生にだまされて、念仏を称えて、地獄に堕ちたとしても後悔するものはなにもなありません。 理由は、もし私が他の宗教修行によって悟りを得るの可能性があるのに、念仏を称えて地獄に落ちたら、私がだまされたと思って後悔するかもしれません。 しかし、私はどんな宗教修行も絶対にできないので、地獄は私の唯一の家である。

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、 また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。 たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏し自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、 すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

If Amida's Primal Vow is true, Sakyamuni's teaching cannot be false. If the Buddha's teaching is true, Shan-tao's commentaries cannot be false. If Shan-tao's commentaries are true, how can Honen's words be empty? If Honen's words are true, what I, Shinran, say cannot be meaningless. In essence, such is the true entrusting of this foolish one. Now, whether you accept the nembutsu, entrusting yourself to it, or reject it, that is your own decision.

阿弥陀の本願が本当であるならば、釈迦の教えは誤っているはずがない。仏陀の教育が本当であるならば、善導の論は誤っているはずがない。 善導の論が本当であるならば、法然の言葉はどうして、むなしいことがあろうか。(そんなことはない)  法然の言葉が正しいならば、私(親鸞)が言うことは無意味であるはずがない。要するに、愚かな者の信心はそのようなものなのです。 さあ!あなたが念仏を受け入れ、それに、自らを任せるか、または、それを拒絶するかどうかは、あなた自身が決めることなのです。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、 法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。 詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。 て地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、


Chapter III
Even a good person attains birth in the Pure Land, how much more so the evil person.

第3章
良い人さえ浄土での生まれる、悪人はなおさらである。

三 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

But the peoples of the world constantly say, even the evil person attains birth, how much more so the good person. Although this appears to be sound at first glance, it goes against the intention of the Primal Vow of Other Power. The reason is that since the person of self-power, being conscious of doing good, lacks the thought of entrusting himself completely to Other Power, he is not the focus of the Primal Vow of Amida. But when he turns over self-power and entrusts himself to Other Power, he attains birth in the land of True Fulfillment
※ attains birth往生する   the focus of Amida 阿弥陀様の目当て  

しかし、世間の人々は普通こう言います、悪人ですら往生するのだから、 善人だったらなおさら往生すると。これは一見、的を得たように見えるが、それは他力の本願の意志に反するのです。 理由は、自分の力をたよりにする人は、良い行いをするのにおいて意識的になり、他力に自分を完全に任せるという思いが欠けているからです。 そういう人は、阿弥陀の本願の目当てでないのです。 しかし、自力をひっくり返して、他力に自分を任せるとき、彼は真実報土の往生するのです。

しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。 そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

The Primal Vow was established out of deep compassion for us who cannot become freed from the bondage of birth and-death through any religious practice, due to the abundance of blind passion. Since its basic intention is to effect the enlightenment of such an evil one, the evil person who entrusts himself to Other Power is truly the one who attains birth in the Pure Land. Thus, even the good person attains birth, how much more so the evil person! ※ evil person悪人  

本願は、生死の束縛から解放されることができない我々のために深い慈悲から設立されました。盲目の情熱の豊富によるためでもある。 その基本的な意志は、そのような悪人の啓発に作用することであるので、本当に、他力に自分を任せる悪人は、本当に浄土に生まれる人なのです。 このように、善人でさえ往生するのだから、どれほど多くの悪人はなおさらのことである!

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。


Chapter IV
There is a difference in compassion between the Path of Sages and the Path of Pure Land. The compassion in the Path of Sages is expressed through pity, sympathy, and care for all beings, but truly rare is it that one can help another as completely as one desires. ※ compassion 慈悲

第4章
聖道門と浄土門の間には、慈悲に違いがある。聖道門の慈悲はすべての存在のためにあわれみ、共感、および世話をすることが述べられていますが、 1人が別の人を望んでいるように完全に救うことができるのは本当にまれでなのです。

(4) 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、 ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。

The compassion in the Path of Pure Land is to quickly attain Buddhahood, saying the nembutsu, and with the true heart of compassion and love save all beings as we desire. ※ attain Buddhahood成仏する  

浄土門の慈悲は 念仏を称えて、即座に仏になり、慈愛の真実心で我々が望んでいるように、すべての人を救うことなのです。

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。

In this life no matter how much pity and sympathy we may feel for others, it is impossible to help another as we truly wish; thus our compassion is inconsistent and limited. Only the saying of nembutsu manifests the complete and never ending compassion which is true, real, and sincere

この人生では、たとえどんなに、他の人に対して哀れみ・同情を感じたとしても、私達の思い通りにその人を救うことは、不可能です;  したがって、我々の慈悲は矛盾して限られます。念仏の称えることだけが、本当で、現実味のある、 誠の、完全で決して尽きることがない慈悲を明らかにするのです。

今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、 この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。


Chapter V
I, Shinran, have never even once uttered the nembutsu for the sake of my father and mother. The reason is that all beings have been fathers and mothers, brothers and sisters, in the timeless process of birth-and-death. When I attain Buddhahood in the next birth, each and everyone will be saved.

第5章
私(親鸞)は私の父と母のために念仏を一度でさえ発声したことがありません。理由は、すべての人々が、生死の永遠の過程で、 父や、母や、兄弟や姉妹であるということだからです。私が次の生で成仏するとき、それぞれ皆は救われるでしょう。

五 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・ 兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。

If it were a good accomplished by my own powers, then I could transfer the accumulated merits of nembutsu to save my father and mother. But since this is not the case, when we become free from self-power and quickly attain the enlightenment of the Pure L and, we will save those bound closest to us through transcendental powers, no matter how deeply they are immersed in karmic suffering of the six realms of existence and the four modes of birth

それが私自身の力によって達成される利益であるならば、私は、私の父と母を救うために念仏の蓄積された利益を届けることができようが。 しかし、これはそのケースでないので、我々が自己パワーから自由になって、すぐに浄土の悟りに達するとき、 我々の超越的な力によって私達の近くにいる縛られたものを救うでしょう。それらがどれくらい深く6道や四生の業苦に浸っていてでもある。.

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、 六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。


Chapter VI
It is utterly unthinkable that among the followers of single-hearted nembutsu practice there are arguments about "my disciples" and "other's disciples."

第6章
純真な念仏修行のともがらの中に「私の弟子」と「他の人の弟子」の議論があるのは、全く思いもよらない。

六 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。

As for myself, Shinran, I do not have a single disciple. If I could make others say the nembutsu through my own devices, they would be my disciples. But how arrogant to claim as disciples those who live the nembutsu through the sole working of Amida's compassion.Shinran、

自分に関して、私には、弟子1人もいません。私が他の人たちに私自身のおもいで念仏を言わせることができるなら、 彼らは私の弟子であるだろうに。しかし、阿弥陀の慈悲の唯一のはたらきで念仏に生きる人々を弟子として主張するなんて、なんと横柄なことであろうか。

親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。

If the karmic condition is to come together, we shall be together; if the karmic condition is to be separated, we shall be separated. How absurd that some people assert that if one goes against his own teacher and says the nembutsu under another, he cannot attain birth in the Pure Land. Are they saying that they will take back the true entrusting which is a gift from Amida as if it belonged to them? Impossible that such a thing should happen.

業の状態が集まれば、我々は一緒になるだろう; 業の状態が切り離されれば、我々は切り離されるだろう。ある人が彼自身の教師に反して、 別の人の下で念仏を称えるなら、浄土に往生できないと断言する人もいるが、それは、何とも、とんでもないことです。 そういう人は 、念仏をまるで彼らの物のようにして、本当は、阿弥陀様からの贈り物である信心なのに、我が物としようとしているのだろうか?そのようなことは、 あってはならないことであります。

つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、 ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、 とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。

When we live according to the reality of "made to be come so by itself," we shall know gratitude to the Buddha, as well as to our teachers

「それ自体によって、そのようにならしめられる」という現実に従って生きるとき、我々は仏陀、および教師に対して感謝を知るでしょう。

自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。


Chapter VII
In the person of nembutsu opens up the great path of unobstructed freedom. The reason is that the gods of heaven and earth bow before the practicer of true entrusting, and those of the world of demons and rival paths cannot obstruct his way. The consequences of karmic evil cannot bear fruit, nor does any form of good equal his. Thus, it is called the great path of unobstructed freedom

第7章
念仏の人は、妨げられていない自由の大きな道を開拓します。理由は天地の神が信心の行者の前でひれ伏し、そして、 悪霊や外道の世界のものは(信心の行者)の道を妨げることはできないからです。悪業の結果は実を結ぶことができない、 そして、どんなフォームの利益も彼のものと等しくない。したがって、それは妨げられていない自由の大きい道と呼ばれます。

七 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。


Chapter VIII
The saying of nembutsu is neither a religious practice nor a good act. Since it is practiced without my calculation, it is "non-practice." Since it is also not a good created by my calculation, it is "non-good." Since it is nothing but Other Power, completely separated from self-power, it is neither a religious practice nor a good act on the part of the practicer
※ calculation はからい Other Power 他力 self-power 自力 practice 、act 行

第8章
念仏の称えることは宗教修行でも善行でもない。私の計らいで行ぜられないので、それは"「非行」"である。 また、私の計らいで作られた利益でないので、それは「非善」である。ただ自力と完全に切り離される他力であるので、 それは行者にとっては宗教修行や善行でもない。

八 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。 わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云云。


Chapter IX
"Although I say the nembutsu, I rarely experience joyful happiness nor do I have the desire to immediately go to the Pure Land. What should be done about this? ," I asked. Then he responded, "I, Shinran, have been having the same question also, and now you, Yui-en, have the same thought."

第9章
「念仏を称えますが、私はめったに楽しい幸福を経験しなし、すぐに浄土に行きたいとは思いません。このことについて、 どうしたらいいでしょうか」と私は尋ねた。すると、彼は答えました、「私(親鸞)も、同じ疑問をずっと持っていました。、 そして、今度は、あなた(唯円)は同じように思っていたのですね」と。

九 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、 唯円房おなじこころにてありけり。

"When I carefully consider the matter, my birth in the Pure Land is settled without doubt for the very reason that I do not rejoice at that which should have me bursting with joy. It is the working of blind passion which suppresses the heart that would rejoice and prevents its fullest expression. All this the Buddha already knew and called us foolish beings filled with blind passion; thus, when we realize that the compassionate Vow of Other Power is for beings like ourselves, the Vow becomes even more reliable and dependable. " ※ blind passion 煩悩

「私が慎重にこのことを考えると、浄土に生まれることは、疑いなく決まっていることだ、喜びで、はじけるはずなのに喜べないので、 ますますそれは決定している。喜ぶ心を我慢したり、その心の完全な表現を抑えたりする煩悩が働いているのである。 だから、このことのを佛はすでにお知りになって、私達を煩悩で満ちた愚かな人間とお呼びになったのです。このように、 私達が他力の慈悲深い願いが、私達のような者のためにあったとわかったとき、その願いは、もっと、頼もしく、頼りにさえもなるのです。

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、 他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

"The working of blind passion also causes us not to want to go to the Pure Land and makes us feel uneasy worrying about death when we become even slightly ill. Impossible it seems to leave this old house of agitation where we have wandered aimlessly since the beginning of time, nor can we long for the Pure Land of peace which we have yet to know. This is due to blind passion so truly powerful and overwhelming. But no matter how reluctant we may be, when our life in this world comes to an end, beyond our control, than for the first time we go to the land of Fulfillment. Those who do not want to go immediately are the special concern of true compassion. For this very reason the Vow of true compassion is completely dependable, and our birth in the Pure Land is absolutely certain. " ※blind passion  煩悩

「盲目の情熱の働きはまた、我々が浄土に行きたくないのを引き起こして、我々に我々がちょとした病気にさえなる時も、 死が心配であるという不安を感じさせる。」始めから目的もなくぶらついていたような、扇動のこの古い家を、去ることは不可能なことであって、 まだ知らない平和な浄土を切望できないものである。これは、本当に、強力で圧倒的な盲目的な情熱のためである。 しかし、我々がどんなに気が進まなくても、この世での私達の命がつきるとき、我々のコントロールを超えて、まず最初に報土に行くでしょう。 すぐに行きたがっていない人々は本当の慈悲の特に心配な対象なのです。このために、本当の慈悲の願いが、完全に頼りになり、 浄土往生は完全に決定することは当然なことでしょう。

また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、 娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。 これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。

"If our hearts were filled with joyful happiness and we desired to go swiftly to the Pure Land, we might be misled and suspect that perhaps we are free of blind passion "

「我々の心が楽しい幸福で満たされて、我々が、迅速に浄土に行くのを望んでいるならば、誤って、恐らく我々には煩悩がないと疑うだろうに」 踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。


Chapter X
The master Shinran said, in the nembutsu no selfworking is true working; it is beyond description, explanation, and conceivability. ※ The master 聖人

第10章
親鸞聖人は、念仏において、義でないのが本当の義であると言った; それは、筆舌に尽しがたい、また、説明、および思議もしがたいものなのです。

十 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

Special Preface While the master was still living, those who journeyed together with great difficulty to the distant capital with the same aspiration, and who, united in true entrusting, set their hearts on the coming land of Fulfillment, all listened at the same time to his real thoughts. But now I hear that among the countless people young and old who say the nembutsu, following after them, there are some who frequently express erroneous views never taught by the master. Such groundless views call for discussion which follows.

特別な序文 聖人がまだ生きていた間、重大な困難と共に、同じ切望で遠い都に旅をして、また、信心で結ばれた方、そしてまた、 心を報土にゆだね、同時に聖人のお心を聞きますが、今度は、私は、彼らのあとについて行っていて、念仏を言う老若、無数の人々の中に、 聖人よって決して教えられなかった誤った考えを頻繁を言い表す数人がいると聞く。そのような根拠のない考えは以下の議論を呼ぶものです。  

そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、 同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義ど もを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。


Chapter XI
In meeting unlettered people who say the nembutsu some people bother them with such questions as, "Do you say the nembutsu by entrusting yourself to the inconceivable power of the Vow or to the inconceivable power of the Name?" They fail to clarify the two forms of inconceivable powers and their significance. Thus, they confuse the minds of the people. We must turn our attention to this matter and carefully consider the connection between the two.

第11章
念仏を申す、文字の読めない方に会うと、このような質問で彼らを悩ませる者もいる。その質問というのは 「願の不可思議な力に自分自身を信じさせて念仏を申すのですか、それとも、名号の不可思議な力信じて念仏申すのですか」。 彼らは、不可思議の力やそれらの重要性の2つのフォーム明らかにし損なっております。したがって、それらは人々の心を混乱させる。 我々はこの事柄への我々の興味を寄せて、慎重に2との関係を考えなければならない。

十一 一文不通のともがらの念仏申すにあうて、 「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、 ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。

By virtue of the inconceivable power of the Vow, Amida Buddha devised the Name easy to uphold and pronounce and, thereby, promised to take in all who say the Name. Thus, when we entrust ourselves to the inconceivable power of Amida's compassionate vow which saves us to deliver us from birth-and death, and when we realize that the saying of nembutsu occurs because of the Tathagata's working, since our own calculation is not involved, we are in accord with the Primal Vow and will be born in the land of True Fulfillment. ※ entrust ourselves 

お任せする 願の思いもよらないパワーによって、阿弥陀仏陀は、称えやすく、発音しやすい名号を発明して、その結果、 名号を言うすべての者を受け入れると約束したのである。したがって、生死から我々を救い出すための阿弥陀の情け深い誓いの、 思いもよらないパワーに自分達を任せるとき、また、我々自身の計算がかかわらない所で起った念仏を称えているのだと気づいたとき、 私達自身の計らいが、関わらなくなるので、我々は本願に合って、実報土に生まれるようになるだろう。

誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、 まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、 すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。

When we entrust ourselves to the inconceivable power of the Primal Vow as the heart of the matter, then the inconceivable power of the Name is also naturally found together with it. The inconceivable powers of the Vow and of the Name are therefore one, and not the slightest difference between the two exists.

また、我々が心の問題として本願の思いもよらないパワーに自分達を任せると、名号の思いもよらないパワーも、それと共に自然に見つけられる。 したがって、願と名号の思いもよらない力は1である、そして、2つの間のいずれの最もわずかな違いも存在していない。 これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。

Next, he who inserts his own calculations into the consideration of good and evil, believing that the former helps and the latter hinders birth in the Pure Land, fails to entrust himself to the inconceivable power of the Vow. Rather, he strives in his own efforts to achieve birth; he claims the nembutsu which he utters as his own practice. Such a person also fails to entrust himself to the inconceivable power of the Name.

次に、彼自身の計らいを善悪の判断に考慮を入れる人は、前者(善)が助けて、後者(悪)が浄土での出生を妨げると信じて、 願の思いもよらないパワーに自分を任せない。むしろ、彼は出生を達成するために、自分自身の努力に努めるのである。 彼自身の行として発っする念仏を主張する。また、そのような人は名号の思いもよらないパワーに自分を任せられないのです。

つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、 わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざる なり。

However, even though he fails to entrust himself, he will be born in the borderland, the realm of indolence, the castle of doubt, or the palace of womb to be born eventually in the land of Fulfillment by virtue of the Vow which vowed that unless all beings are saved, Amida will not have attained Buddhahood. All this is due to the inconceivable power of the Name. Since this is due to none other than the inconceivable power of the Vow, the Vow and the Name are one and the same.

しかしながら、たとえ自分をゆだね損ねても、彼は辺地、怠惰の領域、疑いの城、子宮の城に生まれるでしょう。 そこは、もしすべての人々が救われないならば、阿弥陀が成仏しないと誓われた願の徳によって生まれる報土でもあった。 これは、すべて、不可思議な名号の力のおかげであり、また、これは、願の思いもよらないパワーのために他ならないので、 願と名号は1つであり、全く同じである。

信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、 つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。


Chapter XII
Some people say that those who do not read and study the sutras and commentaries cannot be certain of birth in the Pure Land. This view is hardly worthy of serious consideration.

第12章
経と論を読んだり、勉強しない人々は浄土に往生することは確信できないと言う人もいる。この見方は重大な考慮にほとんど値しない。

十二 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。

All the sutras which reveal the essentials of the truth of Other Power simply state: By saying the nembutsu, entrusting oneself to the Primal Vow, one attains Buddahood. What further knowledge is required for birth in the Pure Land? Truly, those who are still confused about this should by all means study hard and realize the purpose of the Primal Vow. If the true meaning of the sacred texts is not clearly understood, even though one reads and studies the sutras and commentaries, it is a great pity. ※ attains Buddahood 

佛に成る 他力の真実の神髄をあかす全ての、お経はこのように述べております。念仏を申すことによって、本願に自らを任せて、人は仏に成る。 どんな知識が浄土に往生するのに必要であるというのか? 本当に、これに関してまだ混乱している人々は必ず、一生懸命、勉強して、本願の目的を知るべきです。 たとえ経と論を読んで勉強しても、神聖なテキストの本当の意味が明確に理解していなければ、それはすばらしい遺憾なことである。  

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。 まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、 聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。

Since the Name is devised to be easily said by the unlettered who cannot even grasp the basic meaning of the sutras and commentaries, such utterance is called effortless practice. Learning is a requirement in the Path of Sages; thus, it is called difficult practice. There are some who mistakenly pursue knowledge for the sake of fame and profit; their birth in the next life is doubtful, so reads an attesting passage. ※ effortless practice 易行   difficult practice 難行

名号は、経の基本的な意味を理解することさえできない無教育の人たちに容易に称えられるために、工夫されてできたものであるので、 そのような発声は易行と呼ばれる。学習は聖道門の要件である。したがって、それは難行と呼ばれる。名声と利益のために知識を誤って追求する者もいる。 来世の生は、疑わしいので、証明された節を読むのです。

一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。 あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。

Today, the people of single-hearted nembutsu and those of the Path of Sages fall into dispute, claiming that one school is superior and the other inferior. Thus, enemies of dharma appear, and slandering of dharma occurs. But is this not slandering and destroying one's own dharma?

今日、純真な念仏の人々と聖道門のものは論争に陥り、この宗派が優れていて、他のは劣っていると主張している。 したがって、法敵が現れ、そして、法論も起こる。しかし、これは、自分自身の法を中傷して、滅ぼしている事と同じ事ではないですか?

当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。 これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。

Even if all the schools together proclaim, "The nembutsu is for those who are foolish; its teaching is shallow and base," do not object. Instead, simply reply, "We are taught that foolish people of inferior capacity like ourselves, unlettered and ignorant, will be saved by entrusting ourselves to Amida. As we accept this and entrust ourselves, it is the supreme dharma for us, regardless of how base it my seem to people of superior capacity. No matter how superb other teachings may be, if they are beyond our realization and mastery, we cannot uphold them. Since it is the basic intention of the Buddhas that we shall all together go beyond birth-and-death, you should not hinder us." In this way, if we have no rancor, who would want to hurt us? Furthermore, an attesting passage states, "Where there are arguments, various kinds of blind passion are awakened; the wise should avoid them. ※attesting passage 証文

たとえ、すべての宗派が一緒になって「念仏は愚かなそれらのためのものであって、その教えは、浅く、ベーシックなものである。」と、 言っても、反対するな。代わりに、「自分達のような劣った容量の愚かな無教育の、そして、無知な私達は 、阿弥陀に自分達を任せることによって救われると教えられている。」と返答するだけにしなさい。我々がこれを受け入れて、自分達をゆだねるとき、 それが我々にとって最高の達磨であり、優れた資質の人々にとって、わたしが、いかにベーシックかということに関わらずである。 他の教えがどんなに、ずば抜けても、それらが我々の認識と優越を超えているならば、我々はそれらを指示することはできない。 「私達が、みんな一緒に生死を越え、あなたはそれを妨げるべきでない。」ということは仏陀の基本的な意図なので、このように、 私達がどんな恨みもないならば、だれが私達を傷つけたいものか。しかも、証文は言っています。淨論のあるところ、いろいろな種類の煩悩が起こるのです。 賢者はそれらを避けるべきです。

たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、 「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、 われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。 われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、 あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。

The late master also said, "The Buddha predicted that there will be people who shall entrust themselves to this dharma and people who shall slander it. I have already entrusted myself to the dharma, and there are those who slander it- by this we know that the Buddha's words are true. In fact, we should realize that our birth is even more firmly settled. If, contrary to this, no one denounced the nembutsu, we might wonder why there are no slanderers, even though there are believers. But this, of course, does not mean that the teaching should necessarily become the object of slander. The Buddha taught this because he knew that both those who entrust them selves and those who slander would exist. His teaching was designed to dispel any doubts that might arise in us."

また、故聖人はこのようにもおっしゃいました。「仏陀は、法を中傷するものと、法に自分たちを任せるものといると予知した。」と。 私は既に達磨に自分を任せた、そして、法を中傷する人々がいる。これによって、我々は、仏陀の言葉が正しいのを知る。事実、 我々は、我々の生が、 よりしっかり決められているとさえ知るべきである。もし、これとは逆に、念仏を糾弾しないならば、 我々は、なぜ中傷がないのかしらと思うだろう。たとえ、法を信じる人がいたとしてでもである。しかし、これは、もちろん、 教えが必ず中傷の対象という意味ではありません。佛は、自分自身を任せる人や、中傷する人の両方がいる事を知っていたのでこれを教えたのです。 佛の教えは、私達の中に起こる、いかなる疑いをも、晴らすように説かれている。

故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。 またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。 あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。 かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、 説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。

Is knowledge meant to be no more than a means of defending against criticism and for engaging in arguments and debates? If one truly studies, he will come to see more clearly the intention of the Buddha. Realizing the boundlessness of true compassion, such a student will teach those who are unsure of being born in the Pure Land because of their nature of the Primal Vow does not discriminate between the good and evil, the pure and impure. Only then will learning be meaningful.

知識は、非難に対する議論や、淨論やデイベートに防御するためのもの以上のものなのでしょうか?  もし本当に勉強したら、彼は、より明確に仏陀の意志を見るようになるだろう。本当の慈悲の広大無辺を知って、 そのような学生は、浄土に生まれるのが心配な人々に、教えるでしょう。なぜなら、本願の本質は善悪や純粋・不純を区別しないからである。 だから、学ぶことは重要なことなのです。

今の世には、学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられ候ふにや。 学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、 本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。

People who insist that knowledge is essential frighten those who live the nembutsu in accord with the Primal Vow. Such pedagogues are demons obstructing the dharma and hated enemies of the Buddha. They not only lack the more true entrusting of Other Power, but they wrongly mislead others. They should stand in fear lest they go against the teaching of our late master. And they should be filled with remorse for going against Amida's Primal Vow. ※live the nembutsu 

念仏に生きる 知識が不可欠であると主張する人々は、本願に合っている念仏に生きている人々を怯えさせる。 そのような教師は法を妨げる鬼であり、仏陀の嫌いな敵である。かれらは他力の信心を欠くだけでなく、彼らは他のものを間違って誤導してしまう。 彼らは、我々の先の聖人の教えに反するといけないので、恐れを持って慎むべきである。そして、かれらは阿弥陀の本願に反して行っているため、 後悔で満たされるべきである。

たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいひおどさるること、 法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。つつしんでおそるべし、 先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。


Chapter XIII
Some people say that those who do not fear committing evil because of the inconceivable power of Amida's Vow are guilty of taking pride in the Primal Vow and, therefore, will not attain birth. This betrays doubt in the Primal Vow and shows a lack of understanding of good and evil resulting from past karma.

第13章 阿弥陀の願の不可思議の力によって悪を犯すのに恐れを持たない人々は、本願にプライドをもつ事は罪なことであり、 それ故、往生しないと言う人もいる。これは、本願に疑いを暴露することになり、過去の宿縁から生じる善悪の理解の欠如を示す。

十三 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。 この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

Good thoughts arise in our minds due to the effect of past good, and we are made to think and do evil due to the working of karmic evil. The late master said, "We should know that even as trifling a thing as the speck of dust on the tip of a rabbit's hair or a sheep's fleece is the product of the evil of past karma." At another time he asked me, "Would you accept anything I say, Yui-en?"

過去の良いの努力のため、良い考えが我々の心で起こって、悪業の働きによって、悪を思い、行ってしまうように、 させられるのです。故聖人はおっしゃるには「我々は、ちょうどウサギの髪や羊の毛先のほこりの細粒のような、ささいなものでも、 過去の宿縁の悪の生成物であると知るべきである」。別の時に、彼は、「あなたは私が言うものは何でも受け入れるますか、唯円?」 と私にお尋になりました。

よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。 故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。  またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、

"Of course, I will," I replied.

私は、「もちろん、私はそうするでしょう。」と返答しました。

仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、

"Are you sure that you won't disobey me?," he repeated, and when I again agreed, he continued, "Go, then, and kill a thousand people and your birth in the Pure Land is settled."

「あなたは私に背かないのを確信しているか?」。彼は繰り返した、そして、私が再び同意したとき、続けてこういいました。 「それなら、1,000人の人を殺しに行きなさい。そうすれば、浄土でのあなたの往生は決着をつけられる。」と。

「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「 たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」

"Then why did you just say that you would not disobey what I, Shinran, said?" And then he went on, "By this we know that if we could act according to our thoughts, we could kill a thousand people for the sake of birth in the Pure Land- if so required. We do not kill, not because our thoughts are good but because we do not have the karma to kill even a single person. Yet, even though we do not want to injure anyone, we may be led to kill a hundred or a thousand people."

「ん~、なぜ、あなたは、私(親鸞)が言ったことに背かないと、単に言ったのですか?」そして、彼は続けて、 「これで、もし私達の考えに従って我々が行動することができるなら、浄土の往生のために1,000人の人を殺すことができるとわかるが、 そう言われても、私達は殺せません。それは、私達の心が良いのではなく、たった1人の人でさえ殺す業を持っていないからである。 でも、たとえ、私達が他の人を傷つけたくないと思っていても、私達は何百、何千という人々を殺しうることがあると言うことである。」

と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、 申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。 なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。 しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。 また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と

"Even though that is your order," I protested, "and even with all that is in me, I cannot kill even a single person." The gist of this statement is that when we think good thoughts, we think we are good; and when we think evil thoughts, we think we are evil, not realizing fully that it is the inconceivable power of the Vow that makes our salvation possible. ※ good thoughts 良きこころ evil thoughts 悪しきこころ inconceivable power 不可思議な力 「

それがあなたの命令でも、また、私と同じように全ての人にとっても、私は、1人の人ですら殺せない。」と、 私は言いました。この言葉の要点は、良いこころを思うのは、我々が、良いのだからと思い、悪しきこころを思うのは、 我々が、悪いのだと考えるものである。私達の救いを可能にしているものは、願いの不可思議な力であることを、きちんと理解していないのである。

仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、 願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。か。

Once there was a man who fell into wrong views proclaiming that he would purposefully do evil as a way for attaining birth, since the Vow is directed to those who commit evil. Thus saying, he performed many evils. When Shinran heard about this, he admonished in a letter, "Do not take poison just because there is an antidote." He made this point to correct such wrong attachments, but not at all to say that evil is an obstacle to attaining birth.

かつて

、邪見に陥った人がいて、その人は、わざと、往生のために悪いことを、あえて犯した方がいいと言い放っていました。 なぜなら、願が悪を犯す人々に向けられているからだというのです。したがって、言うとおりに、彼は多くの悪を犯したのです。 親鸞がこれを聞いていたとき、「解毒剤があるからといって、毒を飲むな。」と、彼は手紙で訓戒した。 彼はそのような間違った執着を正すことを指し示した。でも、悪が往生の妨げになるという風に言う気は、もうとうない。

そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて 、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、 あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。

Shinran, furthermore, said, "If upholding the precepts and the disciplines are required for entrusting ourselves to the Primal Vow, how could we ever hope to go beyond birth-and death? It is only by encountering the Primal Vow that such hopeless beings as ourselves become prideful and haughty. And yet evil can never be committed, unless it is within us."

しかも親鸞はこのようにも言いました「もし、戒律を持つことが、本願を信心することに必要とされるなら、 私達は、どうやって生死を越えていくのに望みをも持つべきなのでしょうか。私達のように、そのような希望のない者が、 プライドを持って、高慢になるには本願に身を任せるしかない。だからといって、悪は決して犯されてはならない。 たとえ、私達の中にそれがなくてもである。 その上、「教訓と規律が本願に自分達を任せるのに必要であることを是認するならば、 我々は、生滅を越えるのをどうしたら望むことができたか?」と、親鸞は言った。本願に遭遇するのによっ 自分達のような絶望的な存在は単にpridefulで横柄になる。「そして、我々の中にそれがない場合、まだ悪を決して犯すことができない。」

持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、 げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。

Again, he said, "People who make a living by casting nets or fishing in the seas and rivers, those who sustain themselves by hunting beasts and catching birds in the moors and mountains, and people who pass their lives by trading and cultivating the fields are all alike." In the words of Shinran, "Under the influence of our karmic past we human beings will do anything."

また、聖人はこのようにも言いました。「海や川で網を投げたり、釣りをしたりして生計を立てる人々、荒野や山で獣類を狩ったり、 鳥を捕らえたりして自分たちを支えて、交易をしたり、畑を耕したりして、命をつないでいる人々、このような人は、みんな同じである。 親鸞が言うには、「だれでも過去の業の影響を受けて、私達、人間は何でもするのでしょう。」と。  

また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、 商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、 聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、

And yet, in recent years people put on the guise of striving on the nembutsu path. They claim that only the good people should say the nembutsu. Or they post restrictions in the gathering places, proclaiming that those who commit certain acts are prohibited from entering. Are these not the sort of people who show outwardly how wise, virtuous, and diligent they are, while inwardly cherishing vanity and falsehood?

そして、いまでも、このごろは、念仏門でに見せかけに努力するものもいる。彼らは、良い人々だけが念仏を言うべきであると主張する。 または、確かな行をおこなった人々が入ることが禁止されていると宣言して、彼らは集会場所で制限を掲示するのです。 これらは内部は虚栄と虚偽を可愛がっていて、外面的には、いかに賢明で、徳が高く、勤勉であるかを示す種類の人々なのでないでしょうか?

当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、 なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、 内には虚仮をいだけるものか。

Karmic evil committed because of taking pride in the Vow is also an effect of past karma. Thus, leave everything good and evil to the working of karma and single-heartedly entrust yourself to the Primal Vow. Such is the way of Other Power. In Essentials of Faith Alone it is said, " To what extent does one know the power of Amida's compassion when he believes that salvation is impossible because of his karmic evil?" For the very reason that we are guilty of taking pride in the Primal Vow, the true entrusting of Other Power is settled.

また、願にプライドを持つために犯される悪業は過去の宿縁の結果である。したがって、業のかかわる、すべての善悪を捨てなさい、 そして、一心に自らを本願に任せなさい。他力はそうしたものである。『唯信抄』では、「悪業のため、救済は不可能だと思うとき、 その人は、阿弥陀の慈悲の力が、どの範囲に向けられるのか知ればいいのでしょう。」我々が本願を自慢することに関して有罪であることは、 まさしくその理由で、他力に本当にゆだねることは決定されている。

願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。 されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。『唯信抄』にも、 「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。

We can be free of taking pride in the Primal Vow only after having extinguished karmic evil and blind passion . But if blind passion is extinguished, one is a Buddha; and for a Buddha the Vow realized through five kalpas of profound thought would be of no use.

我々は、悪業や煩悩を消滅した後にだけ、本願を自慢することから逃れられる。しかし、もし、煩悩が消滅されれば、 その人は、佛であり、仏に成るために、五劫の深遠な考えのを通して成就された願は無駄に成るだろう。

おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、 すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。

Since the people who censure others for taking pride in the Primal Vow themselves are filled with blind passion and impurities, are they also not guilty of taking pride in the Primal Vow? If so, what is the evil that takes pride in the Primal Vow, and what is the evil that does not take pride in the Primal Vow? Indeed, all this debate is immature and shallow.

本願にプライドを持つことに対して、他の人を非難する人々は、煩悩や不純で満たされているので、 彼らも本願にプライドを持つことに無罪であると言えるのだろうか? そうだとすれば、本願にプライドを持つことは何が悪で、 本願にプライドを持たないことの何が悪なのでしょうか。実は、このすべての討論が未熟であって、浅い考えなのです。

本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。 いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきこと


Chapter XIV
Some people say that one should believe that heavy evils of eight billion kalpas can be extinguished in the single utterance of nembutsu. This view refers to an evil person, guilty of ten vices and five transgressions, who has never said the nembutsu in his lifetime but who for the first time on his deathbed is told by a good teacher that if he says the nembutsu once, he shall extinguish the evils of eight billion kalpas, and if he says the nembutsu ten times, he shall extinguish the evils of eighty billion kalpas and thus attain birth. Is the single utterance or ten utterances meant to show the relative weights of ten vices and five transgressions? If so, this has to do with the utility of nembutsu in extinguishing evil. This is far from our under standing. The reason is that in the awakening of one thought moment, having been illuminated by Amida's light, we are endowed with the diamond-like entrusting, and, thus, we are already included in the stage of the truly settled. When our life comes to an end, all the blind passions and evil hindrances are immediately transformed into the realization of the "wisdom of non-origination."

第14章
念仏のただ一声で80億劫の重い悪を消すことができると信じるべきであると言う人もいる。 この見方は、10悪5逆の悪人に対して言えることです。その人は、人生で、1度も念仏を称えたことがない人です。 でも、臨終の時、初めて、先師に、このように告げられます。もし、1度でも念仏を言えば、50億劫項の悪を消す事ができるでしょう。 また、もし、10回、念仏を言えば、800億の悪を消す事ができるでしょう。そして、往生するでしょうと。1声と10声のどちらが、 10悪と5逆の相関的な罪の重さを示すために意味のあることなのでしょうか。もしそうなら、 念仏を悪を消すための有益性として考えなければならない。これは、かなり私達が立っている視点からは離れている。 それは、一念を認識するとき、阿弥陀の光に照らされて、私達は、ダイアモンドのような信心を恵まれ、すでに、 正定じゅの位に含まれるからである。命終わるとき、すべての煩悩、悪 障は、起源のない智慧の認識へと即座にかえられる。

十四 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、 はじめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・ 五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆゑは、 弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、 命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。

Realizing that without this compassionate vow, wretched and evil beings such as ourselves can never go beyond birth and death, we should know that all the nembutsu said through out our lifetimes simply express gratitude for the benevolence and the virtues of Tathagata's compassion.

この慈悲深い願いなしに、それを知ろうとするから、私達のような浅はかな悪人は、決して、生死を越えることができないのである。 私達は、日常を通して出てくる全ての念仏が、ちょうど、如来の慈悲の善意や美徳への感謝を表していると知るべきなのでしょう。

この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、 みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。

To believe that each saying of nembutsu extinguishes evil is to aspire to birth by eliminating evil through one's own efforts. If so, since every thought that we think throughout our life binds us to birth-and-death, we must say the nembutsu, continuously and consistently, until the final moment, for the sake of attaining birth. But karmic consequences being decisive, we may end our life by encountering unforeseen accidents, or be tormented by illness, without ever attaining right mindedness. Saying the nembutsu in such a state would be, indeed, most difficult. How are we to extinguish evil during such a time? If evil does not disappear, then is attaining birth impossible

念仏を称えるそれぞれが悪を消すと信じるのは、自分自身の努力による悪を排除するのによって往生に求めることである。 そうだとすれば、我々が我々の人生を通して考える全ての考えが生死に我々を縛るのであって、我々は連続して一貫して、 最後の瞬間まで、往生するために念仏を言わなければならないことになる。しかし、業の結果が決定的である場合、 真実の心をいまだ達しないままに、我々は予期しない事故に遭遇したり、病気で苦しんだりして、 我々の人生を終わらせるしかないのかもしれない。そのような状態で念仏を言うのは最も難しいだろう。我々はそのような時、 どのように悪を消せばいいのだろうか?もし悪が消えなければ、往生は不可能なのではないか??

念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。 もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、 いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、 正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。 そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。

When we entrust ourselves to the Vow that grasps us never to abandon, we shall quickly attain birth- regardless of whether we commit evils for incomprehensible reasons, and even end our lives without saying the nembutsu. And when we spontaneously say the nembutsu, our trust in Amida becomes stronger and our gratitude to Tathagata deepens as we approach the moment of supreme enlightenment. To desire to extinguish evil is the thought of self-power, the basic intent of those who hope to achieve right-mindedness at the moment of death. This shows the lack of true entrusting to Other Power.

決して私達を放棄せずつかみ取るというその願いにお任せすると、訳の分からない理由で罪を犯したかどうか、や、 念仏を称えないで命を終えたとしても、それらに関わらず、私達は、すぐ往生するでしょう。そして、我々が自然に念仏を言うとき、 阿弥陀への我々の信用は、 より強くなる、そして、我々が最高の啓発の瞬間に近づくのに従って、如来における我々の謝意は深まる。 悪を消すのを望むのは、自己パワーという考えであり、臨終に及んで誠実さを達成するのを望んでいる人々の基本的な意図である。 これは他力へ本当にゆだねることが不足していることを示す。

摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、 念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、 いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、 臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。


Chapter XV
Some people say that enlightenment is already attained in this very body filled with blind passion. This is completely out of the question. 

第15章
さとりは、すでに、煩悩で満たされたまっさしくこの身に成就されているという人もいる。これは完全に論外である。

一五 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。

The doctrine of attaining Buddhahood in this very body is the essential teaching of Shingon Esoterism and the ultimate attainment of the three esoteric practices. And the purification of the six sense-organs is the teaching of the One Vehicle Lotus Sutra and the result attained through the four blissful practices. These are all difficult practices performed by those of superior religious capacity, the enlightenment realized through perfecting meditation. In contrast, the enlightenment that unfolds in the next birth is the essence of the Pure Land teaching of Other Power; it is the way of true entrusting which is settled. This is also the effortless practice to be undertaken by those of inferior religious capacity, the dharma in which the discrimination between good and evil is non-existent. ※ the enlightenment さとり effortless practice  易行

このまさしくそのボディーにさとりを得るという教義は真言秘教の不可欠な教えであり、3つの難解な行の究極の到達である。 そして、6つの感覚器官の浄化は法華一乗の所説であり、4つの幸せな行を通してその結果を得るのである。 これらのすべて優れた宗教容量のものによって実行される難しい行があり、その悟りは瞑想を完成することによって認識されるものです。 対照的に、来世の悟りは他力の浄土教の本質である。それは決着をつけられた真実信心の道である。 また、これは劣った宗教容量のものによって引き受けられるべき易行である。善悪の区別の法は存在しない。  

即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、 観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

Since it is extremely difficult to sunder blind passion and evil hindrances in this life, the virtuous monks who practice Shingon and Tendai disciplines also pray for enlightenment in the birth to come. How much more so for people like our selves! Although the observance of precepts and wisdom are lacking, when we have crossed the painful ocean of birth-and death on the vessel of Amida's Vow and have reached the shore of the land of Fulfillment, the dark clouds of blind passion immediately vanish and the moon of enlightenment of dharma as-it-is appears instantaneously. Having become one with Unhindered Light that illuminates the ten quarters, we bring benefits to all beings. This is true enlightenment ※Unhindered Light 無碍光

この人生で煩悩と悪障を離すのが非常に難しいので、また、真言と天台の律を実施する徳の高い僧は、来迎往生の悟りのために祈る。 私達のような人々にとっては、どれくらいそのようにしなければならないのでしょうか。教訓の遵守と知恵は欠けているが、 我々は阿弥陀の願の船に乗って生滅の苦痛な海洋に交差して、報土の陸の岸に着いたときは、煩悩の暗い雲はすぐに消え失せ、 まさしく、法の悟りの月は即座に現れる。10方を照らす無碍の光明と一体となるので、私達は、全ての人々に、利益をもたらすのです。 これは本当のさとりです。.

おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、 なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、 報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、 一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。

Do those who believe that they attain enlightenment in this very body reveal themselves, as did Sakyamuni, in various manifestations of enlightenment, do they possess the thirty two features and eighty characteristics of an enlightened being, and do they benefit all beings by expounding the dharma? This is what constitutes enlightenment in this life. In a poem Shinran writes:

釈迦牟尼がしたように、このまさしくそのボディーで悟りを得ると信じる方々は自らを明らかにしたり、 また、悟りのさまざまな明らかの仕方がある中で、三十二相・八十の人々を悟らせる性格を持ち、 さらに、法を述べることによって人々を利するのでしょうか。これこそ、この人生で悟りを開くものなもです。 詩に、親鸞はお書きになっています。

この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、 三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。 『和讃』(高僧和讃・七七)にいはく、

When the entrusting of diamond-like firmness Is settled, at that very moment Amida's light grasps us and protects us  And we go beyond birth-and-death forever.

ダイヤモンドのような堅固な信心が定まるとき、そのまさしくその瞬間に、阿弥陀の光が我々を包んで、我々を守るのです。そして、 我々は永遠に、生死を越えるのです。 「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」 と候ふは、

This means that when true entrusting is settled, Amida grasps us never to abandon, and we no longer transmigrate in the six realms of existence. Thus, we go beyond birth-and death forever. When we realize this, how can we confuse it with the enlightenment in this life? How sad to have such a misunderstanding! As the late master taught, "In the true teaching of Pure Land I have been taught that in this life we entrust ourselves to the Primal Vow and in that land attain supreme enlightenment." ※entrusting 信心 transmigrate in the six realms of existence 六道を輪廻する

これは、本当の信心が定まるとき、阿弥陀は決して私達を見捨てず摂取します。また我々は、もはや存在の6つの分野で転生しないのである。 したがって、我々は、永久に、生死を越える。これがわかるとき、この人生で、悟りを得て、我々はどうしてそれを間違えることがあろうか?  そのように間違うとは、何と悲しいことか。 故聖人教えられたように、「浄土の本当の教えでは、 私は我々がこの人生では本願に自分達を任せて、浄土では最高の悟り得るのです。」

信心の定まるときに、 ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。 かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、 かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。


Chapter XVI
Some people say that if a practicer of true entrusting should unexpectedly become angry, act wantonly, or argue with fellow practicers, they should by all means undertake the turning-of-mind. Does this mean that we must sunder evil and practice good? ※ the turning-of-mind 回心

第16章
真実信心の行者は、もし不意に立腹し、気ままに行動し、または仲間の行者と言い争そえば、必ず、こころをひるがえすべきである。 これは、我々が悪を離して、善を行じなければならないことを意味するのでしょうか。

一六 信心の行者、 自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋・同侶にもあひて口論をもしては、かならず回心すべしといふこと。 この条、断悪修善のここちか。

In the person of single-hearted nembutsu the turning-of mind occurs only once. The turning-of-mind refers to the transformation of heart of those ignorant of the true teaching of the Primal Vow of Other Power who, being granted Amida's true wisdom and realizing the impossibility of attaining birth with everyday mind, abandons the old mind and entrusts himself to the Primal Vow.

純真な念仏の人にとって、回心は一度だけおこる。回心は、他力の本願の真実の教えに無知な人々のこころの変化を言うのであって、 その人達は、阿弥陀の本当の知恵が与えられて、日常のこころで往生できることは、不可能ということがわかっている。 だから、その人達は、古いこころを捨てて、本願に身を任せるのです。  

一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。 その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、 もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ。

If we had to undertake the turning-of-mind day and night about every deed in order to attain birth, since our lives may come to an end between the moment the exhaled breath is inhaled, we may die before the turning-of-mind or cultivating tenderness and forbearance. Then the Vow which grasps us never to abandon would have been meaningless.

もし、私達が、往生するために、全ての行為に対して、昼夜とわず、回心しなければならないなら、私達の命は、吐き出された息を吸う間に、 すぐに終わってしまうので、私達は、回心したり、柔らかさと慎みさを開拓する前に死んでしまうでしょう。だから、私達を滅して放棄せず、 つかみ取る願いが、全然意味がないものであろうか。

一切の事に、あしたゆふべに回心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、 入るほどをまたずしてをはることなれば、回心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのち尽き〔な〕ば、 摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。

Even though some say that they entrust themselves to the power of the Vow, actually they feel that only the good are saved, no matter how great the inconceivable power of the Vow which saves the evil doer. To that extent they doubt the power of the Vow, lack the thought of entrusting to Other Power, and will be born in the borderland. How lamentable this is!

願のパワーに自分たちを任せると言う人々がいるが、実際は、彼らは、善だけが救われると感じている。たとえ、 悪の行為者を救う願の不可思議なパワーがどんなに大きくてでもある。その程度まで、かれらは願のパワーを疑って、 他力を任せるという考えを欠いて、辺地に生まれるのです。これは何と悲しいことでしょうか!

口には願力をたのみたてまつるといひて、 こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、 願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。

Once true entrusting is settled, we realize that since our birth is due to the working of Amida, it is not due to our calculation. Even though we do evil, we should even more think of the power of the Vow. Then the thought of tenderness and forbearance will become manifest by virtue of "made to become so by itself" ※the working of Amida 阿弥陀様のお働き is due to ~       ~のおかげである  virtue of "made to become so by itself"自然のことわり

一度真実信心が定まれば、私達は、私達の生は阿弥陀様のお働きのおかげであり、私達の計らいのためではないとわかります。 たとえ我々が悪を犯しても、私達は、もっと願力を考えさえすべきである。それから、柔らかさと慎みさという考えが、「それ自身によって、 そうならしめられる」という徳によって明白になるのです。

信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、 わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。

In all matters regarding birth it is not necessary to contrive or design but always to remember and become enthralled with the deep and profound compassion of Amida. Then we shall be able to say the nembutsu, "made to become so by itself." When I do not contrive, it is called "made to become so by itself." This is none other than Other Power. And yet to my regret I hear that people speak knowingly about "being made so by itself" as though it were something special. How deplorable this is!

往生に関するすべての事柄では、どうにかしようとか、何かを企てよう、必要なことではなく、いつも阿弥陀の深くて深遠な慈悲を思いだし、 夢中になることが必要なことなのです。その時、我々は「自然に」念仏を言うことができるだろう。私が無理にどうにかしようとしなければ、 それは「自然」ということです。これはまさしく他力である。そして、まだ残念なことに、私は、人々が、知ったかぶりをして、 自然が、何か特別なもののように話すのを聞くのです。これは何と嘆かわしいことでしょう!

すべてよろづのことにつけて、 往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。 これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、 われ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。


Chapter XVII
Some people say that those born in the borderland will eventually fall into hell. In what attesting passage is this found?

第17章
辺地に生まれる人々は最終的に地獄に堕ちるという人々がいます。これは、証文の中に見られる言葉なのでしょうか? This is what found in attesting passage.

(17) 辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文にみえ候ふぞや。

That this is asserted by those who claim to be scholars is truly deplorable. How do they read the sutras, commentaries, and teachings? I was taught that people who lack true entrusting because they doubt the Primal Vow are born in the border land where they atone for the evil karma of doubt and ultimately gain enlightenment in the land of Fulfillment.

本当に、これが学者であると主張する人々によって断言されるのは、嘆かわしい。彼らはどのように経、論評、および教えを読んでいるのでしょうか?  私は、真実信心を欠いた者は、本願を疑うので、疑いの悪業をつぐない、最終的には、報土で悟りを得るという辺地に生まれると教えられました。

学生だつるひとのなかに、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教をば、いかやうにみなされて候ふらん。 信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。

Since true entrusting is very rare, many people are led to the temporary land. And yet to contend that they are ultimately hopeless is to accuse the Buddha of falsehood.

本当の信心は非常にまれであるので、多くの人々が一時的な化土に導かれる。そして、彼らが結局絶望的であるとまだ主張しているのは、 仏陀の虚偽を責めることになります。

信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、 如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。


Chapter XVIII
Some people say that the amount of offerings made to the Buddha dharma will determine the size that we will become as Buddhas

第18章
仏陀の法に作られた施しの量が、私達が佛のようになる大きさを決めるなどと言う人がいる。

(18) 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。

First of all, is it possible to determine the size of Buddha, whether great or small? Even though the size of Buddha in the Pure Land is described in a sutra, it is the manifestation of the dharmakaya-as-compassion. When one attains enlightenment of dharma-as-it-is, how can size be a factor, since such shapes as long or short, square or round, do not exist, and it transcends color, whether blue, yellow, red, white, or black?

まず、大きいか、または小さいかという仏陀のサイズを決定するのは可能である。たとえ浄土の仏陀のサイズが経に説明されても、 それは慈悲としての報身の顕現なのです。ある人が、法の悟りを悟るとき、そのような形が、長いとか、短いとか、角張っているかとか、 丸いかとかいなど、大きさは、関係あるのだろうか。そんなのは存在しない。それは、青黄赤白黒など色を越えている。 この条、不可説なり、 不可説なり。比興のことなり。

 まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、 それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、 なにをもつてか大小を定むべきや。

Some say that they see the transformed Buddha in uttering nembutsu. Could they have based their view on such statements as "In loud utterance one sees a big Buddha, and in quiet utterance one sees a small Buddha" and applied it here?

念仏を称えているとき化佛を見たという人がいる。彼らは、自分たちの視点を「やかましい発声で、人は大きい仏陀を見て、静かな発声では、 小さい仏陀しか見れない」というような言及に基礎付け、それを、ここで取り付けるのでしょうか。

念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、

Furthermore, although offerings can be part of the practice of selfless giving, no matter how many valuables we give to the Buddha or present to our teachers, the deed is meaningless if true entrusting is lacking. If one gives himself up to Other Power and true entrusting is deep, even though one does not give even a single sheet of paper or half a coin to the Buddha dharma, he is in accord with the will of the Vow. offerings  

施すこと その上、施すことは無私無欲の行の一部であると言えようが、たとえ、どんなに多く価値ある物を仏にあげたり、 先師にプレゼントしても、その行為は真実信心が欠けていたならば無意味でしょう。もし、ある人が、他力を崇め、信心が深ければ、 たとえ、たった1枚の紙、あるいは、半分のコインでさえ仏陀の法に与えなくても、彼は願の意志に一致している。 もしこのことわりなんどにばし、 ひきかけられ候ふやらん。かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。 一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。

Do people intimidate their fellow practicers, using the dharma as a pretext, to fulfill their own selfish desires?

それら自身の利己的な願望を実現させるのに、口実として法を使って、仲間の行者を威圧するのですか?

すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


Epilogue
I feel that the preceding views all arise as the result of differences regarding true entrusting. According to the late master Shinran, it was likewise at the time of his teacher Honen among whose disciples were only a few people who truly entrusted themselves to Amida. Once this caused Shinran to enter into an argument with his fellow disciples. When he said, "Shinran's entrusting and Honen's entrusting are identical," Seikan, Nenbutsu, and others strongly refuted it, saying:

エピローグ
私は、これまでの見方が全て、真実信心によって異なる結果として起こっているというふうに感じる。故親鸞聖人によると、 阿弥陀様に本当にお任せになったのは、ほんの数人の弟子達だけだったという法然の時代と同じと言うことです。 一度、これは親鸞に彼の仲間の弟子との議論を始めさせたのである。「親鸞の信心と法然の信心は同じである」と、彼が言ったとき、 勢観房、念仏坊、および他のものはそれを強く反駁したのである。 offerings

  右条々は、みなもつて信心の異なるよりことおこり候ふか。 故聖人(親鸞)の御物語に、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、 親鸞、御同朋の御なかにして御相論のこと候ひけり。そのゆゑは、「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、 勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、

"How can you say that our master's entrusting and your entrusting are identical!" To this Shinran replied,

「あなたは、我々の法然上人の信心とあなたの信心が同じであるとは、どうしたら言うことができるか?!」と親鸞に逆に尋ねられた

「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、

"Our master's wisdom and learning are truly profound and to claim that ours are identical is preposterous. But as far as the true entrusting which leads to birth is concerned, there is no difference at all. They are one and the same."

「本当に、我々の聖人の知恵と教養は深遠である、そして、我々のものがそれと同じであると主張するのは不合理である。」 しかし、往生を導く真実信心に関する限り、どんな違いも全くない。「それらは全く同じである。」

「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがことならめ。往生の信心においては、まつたく異なることなし、 ただ一つなり」と御返答ありけれども、

Still they continued pressing Shinran, challenging him by saying, "How can that possibly be!" Finally they decided to settle the dispute once and for all, so they related the details to their master Honen. When this was presented to him, Honen said,

それでも、彼らは、「それはどうしたら言えることができるか?!」と彼に挑戦して、親鸞を押し続けた。 最終的に彼らが、きっぱり論争に決着をつけると決めたので、彼らは法然聖人に詳細に説明した。これが彼に提示されたとき、法然は言った。

なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにてを定むべきにて、 この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、

"The entrusting of Honen is a gift granted by the Tathagata, and the entrusting of Shinran is also a gift from the Tathagata. Thus, they are the same. People who entrust differently will probably not go to the same Pure Land as I."

「法然の信心は如来によって与えられた贈り物である、そして、また、親鸞の信心も如来からの贈り物である。」したがって、それらは同じである。 「異なってゆだねる人々は、たぶん私と同じ浄土に行かないでしょう。」

「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、 善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、 よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば

Such was the case in earlier times, and it seems that among the followers of single-hearted nembutsu today there are some who do not share the same entrusting as that of Shinran. Although what I have said may be very repetitious, I have put all this down in writing.

最初の頃はそのようなケースでした、そして、純真な念仏の行者の中に、今日、親鸞のものと同じ信心を共有しない者がいるようである。 私が言ったことは非常に反復的であるかもしれないが、私は文章に、このすべてを書き記すのです。

当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。いづれもいづれも繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。

Since my life like a dew drop still hangs on this body which is like withered grass, I am able to hear the doubts of my fellow practicers and am able to tell them what I have learned from my master. But I fear and lament that after my eyes close there may arise chaos because of divergent views.

枯れた草のようなこの身にしがみついている露の滴のような私の人生なので、私は、私の仲間の行者の疑いを聞くことができて、 聖人から学んだ事を彼らに教えることができる。しかし、私は、私の目が閉じた後に、互いに相違する視点によるカオスが起こるかもしれないのを恐れて、 悲しむのである。

露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと〔の〕御不審をもうけたまはり、 聖人(親鸞)の仰せの候ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、 かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、自他の是非

When you are confused by people who advocate such views as the above, you should carefully read the scriptures approved and used by our late master. Generally among scriptures you will find a mixture of teachings which are true and real and which are accommodating and tentative. The master's basic idea was to abandon the teachings accommodating the needs of the people and chose the real, to reject the tentatively presented and select the true. Be very careful to discern such distinctions in the scriptures. I have listed a few passages which attest to true entrusting and have included them into this tract for easy reference. ※accommodating 方便の

上のような視点を支持する人々によって混乱するとき、あなたは我々の先の聖人によって承認されて、使用された聖書を注意して読むべきである。 一般に、聖書の中では、あなたは真実で本当のもの、または、方便で一時的な教えの2つが混じり合ったものを見つけるだろう。聖人の基本的な考え方は、 人々が必要とする方便の教えを捨て、真実を選ぶことであり、方便的に提示されているのを拒絶して、真実を選択する事です。 聖書におけるそのような区別を裁量するのに非常に注意しなさい。私は信心を証明するいくつかの証文を記載して、 容易に参照できるようにこの書にそれらを書き添えました。

いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、 故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。おほよそ聖教には、 真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。 かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候うて、 目やすにしてこの書に添へまゐらせて候ふなり。

The master constantly said, "When I ponder on the compassionate vow of Amida, established through five kalpas of profound thought, it was for myself, Shinran, alone. Because I am a being burdened so heavily with karma, I feel even more deeply grateful to the Primal Vow which is decisively made to save me." ※five kalpas of profound thought 五劫思惟

聖人は、つねにこのように言っていました。「阿弥陀の慈悲のい願を熟考するとき、その願いは、五劫思惟によって設立さたのであり、 それは私自身、親鸞一人ためであったのだなと思うのです。」と。「宿縁でそれほど大いに負担される存在であるので、 私は深く私が決定的に救わされる本願にさらにありがたくと感じるのです。」

聖人(親鸞)のつねの仰せには、 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、 たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、

As I now reflect upon these words, it is no different from the maxim of Shan-tao: "Truly know that this self is a foolish being of karmic evil, repeating birth-and-death since beginningless eons ago, forever drowning and wandering without ever knowing the path of liberation."

私がいま、これらの言葉につくづく考えると、それは善導の格言と異なっていない「本当に、この自己が無始以来の悪業をもった、 生死を繰り返して、救いの道さえ知らないで、いつまでも、おぼれて、放浪している、愚かな存在であることを知りなさい、」

いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」 (散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。

How grateful I am that Shinran expressed this in his own person to make us deeply realize that we do not know the depth of karmic evil and that we do not know the height of Tathagata's benevolence, all of which cause us to live in utter confusion.

私は何とありがたいことなのでしょう。 親鸞聖人が、我々が業の悪の深さを知らないで、また如来の慈善の貴高さを知らないということを、 深く知らしめるに、聖人自身の中に、これを示してくれた事に対して。すべて、全くの混乱の中で生きる私達に起因することなのです。

さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、 おもひしらせんがためにて候ひけり。

In reality, all of us, including myself, talk only about what is good and evil without realizing the Tathagata's benevolence. According to the master, he said, "I do not know what the two, good and evil, really mean. I could say that I know what good is, if I knew good as thorou and I could say that I know what evil is, if I knew evil as thorou.

ほんとうは、自分を含む我々が皆、単に如来の慈善を知らないで善悪であることに関して話す。 聖人によると、「私は2(善悪)が本当に意味することを知らない。」と、彼は言った。私が如来(thorou)として善を知っているならば、 私が、善が何であるかを知っていると言うことができるだろうに。(また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、 悪を知ったといえるからである。)

まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。 聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、 善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、

However, I am an ordinary man who offered all evil passions, and this world is the world which changes as at once as the house which burns brightly. All, empty, pretend, true, say, one, nothing. It became orders.

しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩を そなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、 すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである 」 と仰せになりました。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、 ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。

Really, the person and other we also have one what the mind aches especially , though they all complain against each other only empty things.

本当に、わたしも他の人も,みなむなしいことばかりをいいあってはおりますが、とりわけ心の痛むことが一つあります。

まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。

when they discuss against each other about entraceting of practcing Nenbutu deflecting is to put it well when it is saint's orders that the saint is not up to orders at all because the other party is not allowed to count when the ideal way of the belief is discussed about prayer each other and it explains to other people, and he(she) makes the discussion stopped.It is a truly miserable, unbearable desire. It is known to have described up to now enough, and I think that it wants you to know.

それは、念仏することについて、お互いに信心のあり方を論じあい、また他の人に説き聞かせるとき、 相手にものをいわせず、議論をやめさせるために、親鸞聖人がまったく仰せになっていないことまで聖人の仰せであるといい張ることです。 まことに情けなく、やりきれない思いです。これまで述べてきたことを十分にわきまえ、心得ていただきたいことと思います。

そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、 まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。

Though this is not a selfish word, because it doesn't have a right reason explained in the sutra and written by late teachers, and also it does not have enough profound meaning of Buddha's teaching,. so it loses right meanig and might be strange..  

これは決してわたし一人の勝手な言葉ではありませんが、経典や祖師方の書かれたものに説かれた道理も知らず、 仏の教えの深い意味を十分に心得ているわけでもありませんから、きっとおかしなものになっていることでしょう。

これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、 さだめてをかしきことにてこそ候はめども、

however; I remembered Master sayings not less than 1/100 of them, and wrote them down.

けれども、今は亡き親鸞聖人が仰せになっておられたことの百分の一ほど、ほんのわずかばかりを思い出して、ここに書き記したのです。

古親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。

How sad staying without fortunately becoming a prayer body but dying at once in the paradise of the truth in the paradise of the expedient is! It wrote like the belief in the ascetic of the same prayer never to differ while giving it to the tear, and this was written. It is named, "Nagecotonashou". Please do not show it except the person who receives the same teaching.

幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土へ往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、何と悲しいことでしょう。 同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。「 歎異抄 」 と名づけておきます。  同じ教えを受けた人以外には見せないでください。

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。 一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。


(banishment record)
Master Honen revived a sect of the Nenbutu based on other power of Primal vow, and made know to the world at the post -Toba retired emperor reign. Monks in Koufuku-ji Temple assumed the teaching which disobeyed Buddha's teaching. and appealed to the court.. And, Disciples of Master Hounen punished according to a groundless rumor that there was lawless behavior were following Master Honen and seven disciples became banishments, and four others were punished to capital crime.

(流罪記録)
後鳥羽上皇の御治世のころ、法然上人は、他力本願念仏の一宗を興し、世にひろめられた。 そのとき、興福寺の僧たちが、 それは仏の教えに背くものであるとして朝廷に訴えた。 そして、法然上人のお弟子のなかで無法な振舞いがあったという根も葉もないうわさによって、 処罰された人々は次の通りである。 法然上人、およびそのお弟子の七人は流罪となり、また、お弟子の四人は死罪に処せられた。

後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。ときに、興福寺の僧侶、敵奏のうへ、御弟子のうち、狼籍子細あるよし、 無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数のこと。一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。

Master Hounen was panished to Hata in the country of Tosa.. His name is Fujii Motohiko as a criminal's name, sex was male, and, etc. and the age was 76 years old. Shinran was panished to Echigo's country. His name was Fujii Yoshinobu as a criminal's name, and etc. and the age was 35 years old Joumonbou was to Bingo's country, Zenkoubou ThouSai was to Hakujyu's country, Koukakubou was to Izu's country, Houbonbou Gyouku was to Sado's country. All of them were panished. Though Joukakubou Kozai and Zenebou were also panished, two of them were taken safely becouse Master Jichin in Mudou-temple appealed to release them.

法然上人は、土佐の国の幡多というところに流罪となり、罪人の名としては藤井元彦、男性などとあり、年齢は七十六歳であった。 親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人の名としては藤井善信などとあり、年齢は三十五歳であった。 浄聞房は備後の国に、禅光房澄西は伯耆の国に、 好覚房は伊豆の国に、法本房行空は佐渡の国に流罪となった。  成覚房幸西と善恵房の二人は、同じく流罪と決まったが、 無動寺の慈鎮和尚が願い出て二人の身柄を引き受けたという。 聖人(法然)は土佐国幡多といふ所へ流罪、罪名、藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。 親鸞は越後国、罪名、藤井善信云々、生年三十五歳なり。  浄聞房 備後国 澄西禅光房 伯耆国 好覚房 伊豆国 行空法本房 佐渡国 幸西成覚房・善恵房二人、同遠流に定まる。 しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると云々。

It is said that people punished to five banishments were eight people of the above-mentioned. People punished to capital crime were 1, Zenzenfsanishii, 2,Shounegafsa, 3, Shasfsa, 4, Anrakubou

流罪に処せられた人々は、以上の八人であったという。 死罪に処せられた人々は、 一、善綽房西意、 二、性願房、 三、住蓮房、 四、安楽房であった。

遠流の人々。以上八人なりと云々。 死罪に行はるる人々  一番 西意善綽房  二番 性願房  三番 住蓮房  四番 安楽房

 二位法印尊長の沙汰なり 。  親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗にあらず、しかるあひだ、禿の字をもつて姓となして、奏聞を経られをはんぬ。 かの御申し状、いまに外記庁に納まると云々。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり。右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。 無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。                         
釈蓮如(花押) 歎異抄

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