西郷隆盛   [English]

出典: 百科事典

西郷 隆盛
Takamori Saigo.jpg
エドアルド・キヨッソーネ作の版画
(西郷の親戚を参考に想像で描写)
渾名 大西郷、南洲翁、西郷どん
生誕 1828年1月23日
日本の旗 薩摩国鹿児島城下加治屋町
(現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町)
死没 1877年9月24日(満49歳没)
日本の旗 鹿児島県鹿児島府下山下町
(現在の鹿児島県鹿児島市城山町[注 1]
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1872年 - 1873年
最終階級 陸軍大将(元は階級としての元帥
除隊後 教育者
墓所 南洲神社

西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛文政10年12月7日1828年1月23日) - 明治10年(1877年9月24日)は、日本武士薩摩藩士)、軍人政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通長州藩木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。

略歴

薩摩国薩摩藩の下級藩士西郷吉兵衛隆盛の長男。名()は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争北越戦争新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。

薩摩藩の下級武士であったが、藩主島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島流罪に遭う。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変江藤新平板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱神風連の乱秋月の乱萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山自刃した。

死後十数年を経て名誉を回復され、位階正三位。功により、継嗣の寅太郎侯爵を賜る。

生涯

本項で、年月日は明治5年12月2日までは旧暦太陰太陽暦)である天保暦明治6年1月1日以後は新暦太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの( )内にグレゴリオ暦を書く。

幼少・青年時代

生誕地付近(鹿児島市加治屋町)

文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の第1子として生まれる。西郷家の家格は御小姓与であり、下から2番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏系譜参照)を称するが明確ではない。先祖は肥後国菊池家の家臣で、江戸時代元禄年間に島津家々臣になる。

天保10年(1839年)、郷中(ごじゅう)仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しその仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めたが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組(にせこ)に昇進する。

郡方書役時代

弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。

伊藤茂右衛門に陽明学福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、近思録崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)・税所喜三左衛門(篤)・吉井幸輔(友実)・伊地知竜右衛門(正治)・有村俊斎(海江田信義)らとつくった(このメンバーが精忠組のもとになった)。

斉彬時代

嘉永4年(1851年)2月2日、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀(敏(敏子)であったとも云われる)と結婚したが、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。

安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。

安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸藩徳川斉昭に持って行く。12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であり、西郷はその手足となって活動した。

安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩長岡監物津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟・吉二郎が御勘定所書役、三弟・信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた(大久保利正助も共に徒目付になった)。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。安政5年(1858年)1、2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。

5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。直弼は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を実施した(兵を率いて東上するつもりであったともいわれる)が、7月16日、急逝した。7月19日、斉彬の弟・島津久光の子・忠義が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。

大島潜居前後

安政5年(1858年)7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老・井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。

9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向国)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。月照・平野らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生し同志の税所喜三左衛門がその看病にあたったが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕・重助を連れて引き上げた。

12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。12月末日、菊池源吾[注 2]と変名して、鹿児島から山川郷へ出航した。安政6年(1859年)1月4日、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門(次郎)等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。

島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通・税所篤・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も送られ、西郷も返書を出して情報入手につとめた。この間、11月、龍家の一族、佐栄志の娘・とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目・藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活になじみ、万延元年(1860年)11月2日には菊次郎が誕生した。文久元年(1861年)9月、三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾と名乗った。11月、見聞役・木場伝内(木場清生)と知り合った(のち木場は大坂留守居役・京都留守居役となり西郷を助けた)。

寺田屋騒動前後

文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日に召還状を受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち、文久2年(1862年)1月14日に阿丹崎を出帆し、口永良部島枕崎を経て2月12日に鹿児島へ着いた。2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門[注 3]と改名した。同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ(地ゴロは田舎者という意味)」なので周旋は無理だと言ったので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。

下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、3月22日、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。しかし、4月6日、姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から西郷が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒し、西郷・村田・森山の捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは10日、鹿児島へ向けて船で護送された。

一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結している真木保臣(和泉)・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣した。奈良原らは激派を説得したが聞かれず、やむなく有馬新七ら8名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹永山弥一郎なども含まれていた。護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島(村田新八『宇留満乃日記』参照)へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。

徳之島・沖永良部島遠流

文久2年(1862年)6月11日、西郷は山川を出帆し、村田も遅れて出帆したが、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で出会い、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し、奄美を経て(以上は「宇留満乃日記」に詳しい)、やっと7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。

徳之島岡前の勝伝宅で落ち着いていた8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。これより前の7月下旬、鹿児島では弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行・家財は没収され、最悪の状態に追い込まれていた。

藩命で舟牢に入れられて、閏8月初め、徳之島岡前を出発し、14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。しかし、10月、間切横目・土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。4月には同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている。

文久3年(1863年)7月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦しようとした。10月、土持がつくってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていたとき、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、『与人役大躰』『間切横目大躰』を書いて島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換はかかさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木保臣などと書簡を交わした。

この頃、本土では、薩摩の意見も取り入れ、文久2年(1862年)7月に松平春嶽が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏8月に会津藩主・松平容保京都守護職桑名藩主・松平定敬京都所司代となって、幕権に回復傾向が見られる一方、文久3年(1863年)5月に長州藩米艦砲撃事件、8月に奈良五条の天誅組の変と長州への七卿落ち八月十八日の政変)、10月に生野の変など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕権の失墜をはかっていた。

もともと公武合体派とはいっても、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権をめざす薩摩藩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていたが、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。元治元年(1864年)2月21日、吉井友実・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えにきた。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って(村田の兄宛書簡あり。無断で連れ帰ったとも、そうではなかったともいう)帰還の途についた。

禁門の変前後

元治元年(1864年)2月28日に鹿児島に帰った西郷は足が立たなかった。29日、這いずりながら斉彬の墓参をしたという。3月4日、村田新八をともなって鹿児島を出帆し、14日に京都に到着し、19日に軍賦役(軍司令官)に任命された。京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。そこで、藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採ることで、この難局を乗り越えようとした[1]

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。文久3年(1863年)半ばに、南北戦争(1861年-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり、日本綿・茶の買い付けが盛んに行なわれた結果、両品の日本からの輸出量が極端に増加した。このことから日本中の綿・茶値段は高騰し、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができたのである。世人は物価の高騰を怒ったのであるが、攘夷派は攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を怒ったのである。その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件加徳丸事件が起きた[1]

こうして形成された薩摩藩への悪評(世論も大きな影響を持っていた)は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、西郷は6月11日に大坂留守居・木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ[2]、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した[3]

4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談のうえで断った。しかし、18日、長州勢(長州因州備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷と伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した(禁門の変)。このとき、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らがとった中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛久坂玄瑞・真木保臣ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩奸会賊」と呼ばれるようになった。

第一次長州征伐前後

元治元年(1864年)7月23日に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張をはかるべく、それに応じた。8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。この間の9月中旬、西郷は大坂で勝海舟と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。10月初旬、御側役・代々小番[注 4]となり、大島吉之助[注 5]から西郷吉之助に改めた。

10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督・松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾がはかられ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。

第二次長州征伐と薩長同盟

慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ますと、人の勧めもあって、1月28日に家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚した。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと平行して大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩などを遊説していたが、3月中旬に上京した。この頃幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。

5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組[注 6]に任命された[4]。この頃、将軍・徳川家茂は、勅書を無視して、紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。翌23日、家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京した。この頃、長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。

9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるみ、9月21日、朝廷は幕府に長州再征の勅許を下した。また、10月1日に前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった。

慶応2年(1866年)1月8日、西郷は村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。21日(22日という説もある)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、3月4日に小松帯刀・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが入れられると、5月1日から小松・桂らと藩政改革にあたった。

第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大島口・小倉口は高杉晋作の電撃作戦と奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で勝利し、大村益次郎が指揮した山陰口も連戦連勝し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。一方、幕府は、7月30日に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て、21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の7月12日、西郷に嫡男・寅太郎が誕生し、9月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された[4][注 7]。 しかし病気を理由に大目付役は返上した。

大政奉還と王政復古

慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩乾退助谷干城らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ(この密約は、戊辰戦争の際に乾が迅衝隊を率いて出征し達成されることとなる)。6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。16日、西郷と小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、江戸市内へ伊牟田尚平益満休之助相楽総三らを派遣し、破壊工作(江戸や近辺の放火強盗による人心攪乱)を行わせ幕府を挑発した。22日には西郷が坂本龍馬・後藤象二郎福岡孝弟らと会し、薩土盟約が成立した。

9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している[4])。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。

密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津忠義を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。

戊辰戦争

慶応4年(1868年)1月3日、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。西郷はこの3日には伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認した。6日、徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中大目付外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去した。新政府は7日に慶喜追討令を出し、9日に有栖川宮熾仁親王東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。

西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。占領後、三島を本陣としたのち、静岡に引き返した。3月9日、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し、徳川処分案7ヶ条を示した。その後、大総督府からの3月15日江戸総攻撃の命令を受け取ると、静岡を発し、11日に江戸に着き、池上本門寺の本陣に入った。

3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。当時、薩摩藩の後ろ盾となっていたイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため、「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だった。橋本屋での2回目の会談で海舟から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に赴き、12日、大総督・有栖川宮に謁見して勝案を示し、さらに静岡を発して京都に赴き、20日、朝議にかけて了承を得た。江戸へ帰った西郷は4月4日、勅使・橋本実梁らと江戸城に乗り込み、田安慶頼に勅書を伝え、4月11日に江戸城明け渡し(無血開城)が行なわれた。

江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。 5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した[4]

北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。来て間もない14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。藩の差引の立場から北陸道本営(新発田)には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。

薩摩藩参政時代

明治2年(1869年)2月25日、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。以来、藩政の改革[注 8]や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。

5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた[4]。明治3年(1870年)1月18日に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。

大政改革と廃藩置県

明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して[5]、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した[6]。 12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。

明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事・山内豊範、大参事・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎に会い、勉強するように励ました[7]

2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5,000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった[8](ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。

  • 太政大臣(三条実美
  • 右大臣兼外務卿(岩倉具視)
  • 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信
  • 大蔵卿(大久保利通)
  • 文部卿(大木喬任
  • 兵部大輔(山縣有朋)


この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。

留守政府

軍服姿の西郷隆盛
床次正精作。床次は薩摩藩士族で西郷とは面識があり、床次の描く西郷の顔は実物によく似ていると言われている。

明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文山口尚芳外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞・村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、同5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督・山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年(1873年)5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。

なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節団出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。

明治六年政変

朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことが発端だが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷と板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し[9]、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した[10]

明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国後、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。

議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。西郷派遣については、16日に三条実美の同意を得て、17日の閣議で決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。

以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸孝允・大久保利通・大隈重信大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣・岩倉も辞意を表明する事態に至った。これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷と板垣退助・副島種臣・江藤新平らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。

9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった。

翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。

このとき、西郷の推挙で兵部大輔・大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」[11]という内容の書簡を太政大臣・三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。

私学校

私学校正門跡(鹿児島市)

下野した西郷は、明治6年(1873年)11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督となった三弟・西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った。

西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった[注 9]。 そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令・大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた[12]。 私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。

明治8年から明治9年(1876年)にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月と翌年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府晋介・辺見十郎太・河野主一郎・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。

西南戦争前夜

明治9年(1876年)3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、

  • 前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。
  • 今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。
  • 今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。

などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。

一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、

  • 鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。
  • 大警視・川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。

などの処置をした。

これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた[13]。 また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。

挙兵

明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った。

ル・モンド(Illustré)の速報記事に描かれた西郷軍[注 10](1877年)
官軍と西郷軍の激突を描いた浮世絵。中央に西郷隆盛が描かれている。

2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟・小兵衞が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が中原尚雄から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたことなどを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると[注 11]、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令・大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した[注 12]。 西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。

募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった[注 13]。 翌14日、私学校本校横の練兵場[注 14]で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。

熊本の戦い

2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した。

これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田新八・別府晋介(五箇小隊)は木留に、桐野利秋(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。

3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山弥一郎が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上四郎が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蜷踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。

薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票西郷札)がつくられた。

宮崎の戦い

人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊・破竹隊・行進隊・佐土原隊の約1,000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1,000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。

31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した[15]。その間の12日、参軍・山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野・村田・池上は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。

8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300-500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[15][注 15]。 突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。

城山決戦

南洲翁終焉之地の碑(鹿児島市城山町)

9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。

9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。享年51(満49歳没)。

西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた[注 16]。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。

午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で山縣有朋と旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令・岩村通俊が記した[16]。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、総指揮を執った山縣有朋の検分ののちに手厚く葬られた[注 17]

死後

明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士。

人物

愛称

「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。最敬意を表した呼び方は「南洲翁」である。

「うーとん」「うどめ」などのあだ名の由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である。西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。

身体的特徴

  • 身長:179cm[注 18]
  • 喫煙者であるが、酒は弱く下戸であった。

肖像

大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。

死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったが、キヨッソーネは上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている[17]

なお、西郷が明治天皇や坂本龍馬や桂小五郎、勝海舟といった維新頃の人物と集団撮影したと称されている写真(通称・フルベッキ写真)が存在するが、西郷は当時すでに肥満しており、この写真で西郷とされている人物のように痩躯ではなかった。また、その他様々な点からこの写真は別の来歴を持つ写真であることが証明されている。

思想

西郷隆盛が揮毫した敬天愛人
  • 「敬天愛人」
  • 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」[18]
  • 「児孫のために美田を買わず」
  • 「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
  • 「急速は事を破り、寧耐は事を成す」
  • 「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」
  • 「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」
  • 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」
  • 人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。

持病

肥満
高島鞆之助の証言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたという。
鹿児島は養豚の盛んな地であり、西郷は脂身のついた豚肉が大好物だった。また、甘い物も好物であった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。
治療方法は2種用いられていた。一つは蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として飲む方法であり、もう一つは運動をする方法であった。後者については『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。
フィラリア
西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である象皮症を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年はに乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。
西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である[19]。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている[20]

先生の肥大は、始めからじゃ無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことじゃ。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかった。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑だった。[21]

逸話

  • 幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
  • 西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
  • 坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いた際、自宅は雨洩りがしていた。夫人の糸子が「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と言ったところ、西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と叱ったため、隣室で休んでいた龍馬は感心したという。
  • 青年壮年期においては妻のほか愛人を囲うなど享楽的な側面も見せた。祇園の芸妓だった君尾の回想をまとめた『維新侠艶録』や勝海舟の『氷川清話』によると、肥満の女性が好みで、そのエピソードは歌舞伎の演目『西郷と豚姫』でも今に伝わっている。しかし、晩年は禁欲的な態度に徹した。
  • 郷土の名物、黒豚の肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
  • 沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は『社倉趣意書』を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。
  • 西郷隆盛が士族兵制論者か徴兵制支持者なのか、当時の政府関係者ですら意見が分かれており、谷干城鳥尾小弥太は前者を、平田東助は後者であったとする見解を採っている。御親兵導入の経緯などからすれば、士族兵制論者と見るのが妥当であるが、山縣有朋の失脚後も西郷は山縣の徴兵制構想をそのまま継続させたことから、親兵・近衛を通じて形成された山縣に対する西郷の個人的信頼から徴兵令実施を受け入れたと考えられている。ちなみに廃藩置県導入の際に西郷を最終的に同意させたのも山縣であった。
  • 晩餐会の席で「作法を知らない」と言って、スープ皿を手に持ってスープを飲み干すなど、飾らない西郷の人柄を、明治天皇はとても気に入っていたと言われる。
  • 没年月日(1877年9月24日)がグレゴリオ暦なので、一部の西郷研究者からは生年月日も天保暦からグレゴリオ暦に直して1828年1月23日にすべきだと言う声も上がっている。

伝説

西郷星の出現
西南戦争後も西郷は生存
西南戦争後も西郷は中国大陸に逃れて生存しているという風聞が広まっていた。明治24年(1891年)にロシア皇太子(後のニコライ2世)が来日し、鹿児島へも立ち寄ると、西郷が皇太子と共に帰国するという風説もあった。大津事件を起こした津田三蔵は西南戦争に下士官として従軍しており、西南戦争での栄光がなくなると思い、凶行に及んだといわれている。
台湾に西郷の子孫あり
嘉永4年(1851年)、薩摩藩主・島津斉彬より台湾偵察の密命を受け、若き日の西郷隆盛は、台湾北部基隆から小さな漁村であった宜蘭県蘇澳鎮南方澳に密かに上陸、そこで琉球人を装って暮らした。およそ半年で西郷は鹿児島に帰るが、南方澳で西郷の世話をして懇ろの仲になっていた娘(平埔族)が程なく男児を出産した。この西郷の血筋は孫(呉亀力と伝わる)の代で絶えたという。

系譜

家系

隆盛は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水西郷氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。

藤原鎌足─不比等─房前─(8代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後国菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える)=吉兵衛─覚左衛門─吉左衛門=龍右衛門隆充(実は覚左衛門弟)─吉兵衛隆盛─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎

親族

西郷には三度の結婚経験がある。

1度目は嘉永5年(1852年)、28歳のとき両親にすすめられて伊集院兼寛の姉すが(須賀)と結婚した。しかしながら藩主の代わりに江戸におもむくなど隆盛は不在が多く、彼女は実家に帰り別れた。

2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。35歳の安政7年(1860年)1月2日菊次郎(後の京都市市長)・文久2年(1862年)にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。この子供たちは庶子として扱われた。文久元年(1861年)末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。

3度目の妻は慶応元年(1865年)、39歳のときに岩山八郎太の23歳の娘、糸子と結婚。寅太郎[22]侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子・菊次郎、お菊を引き取った。第2次佐藤内閣第2次改造内閣法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。ちなみに、寅太郎は武豊武幸四郎曾祖父の兄弟である園田実徳の娘・ノブと結婚しているため、彼らは遠縁に当たる。またチェリストの大藤桂子も子孫である。

西郷への影響

人物

島津斉彬
西郷は水戸学派国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。
当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。
斉彬が病没した際は、西郷は墓前の前で切腹しようとして、月照上人に止められたという。
勝海舟
西郷は大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。
坂本龍馬
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と龍馬の度量を知り合った有志達の中で最高かつ底知れないものと感嘆している。
藤田東湖
「先生と話していると清水を浴びたような少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった」と西郷自身洩らしていた。西郷の著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。
橋本左内
初対面では、自分よりも若くひ弱そうな左内を見くびっていた。しかし、左内の思想を聞きとても感服したという。
ナポレオン・ボナパルト
那波列翁(ナポレオン)伝というナポレオンの生涯を綴った伝記を読み、そこには一兵士から身を起こし、不屈の精神で国を統率していったナポレオンの波乱に満ちた生涯が書かれていた。西郷は新しい日本を模索していく中でその生き様に強く共感し、この伝記を愛読し、ナポレオンを敬愛していた。

学問

朱子学

朱熹近思録
西郷はお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。朱子学では、自己と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。西郷の思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。
特に大義名分論は西郷の行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。
これは水戸学派や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観(皇国史観。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。
佐藤一斎言志四録』(言志録)
西郷が手写した『言志録』が残っており[23]、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。

陽明学

西郷は短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。

春日潜庵
西郷は幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟・小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらから西郷が陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。
川口雪篷
沖永良部島に遠島されたときに西郷と知遇を得た書家であり、西郷没後に遺族の扶養に勤めた人物である。頭山満の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した雪篷から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者・大塩平八郎の書『洗心洞剳記』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。

評価

同時代[

  • 島津斉彬
    • 「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」
    • 「私、家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。西郷一人は、薩国貴重の大宝なり。しかしながら彼は独立の気象あるが故に、彼を使ふ者、我ならではあるまじく候」
  • 木戸孝允は西南戦争勃発の知らせを受けて、「西郷隆盛とは12年来の知人であった。同氏が国家に尽したところは少なくない。忠実、寡欲、果断な男ではあるが、欠点は大局を見ることが出来ない事で、そのため、その名を損じ、その身を亡ぼそうとしているのは誠に遺憾だ。第一次長州戦争の際、同氏は尾張藩を助けたが、彼に悪意が無かったことは、その後の交際において氷解した。薩長同盟は自分と同氏との誓いが始まりであったし、その結果、ついに維新の大業をとげることができた。それなのに、同氏の今日を思うと、忍に耐えざるものがある」と『木戸孝允日記』で述べている。
  • 坂本龍馬 「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」
  • 中岡慎太郎 「学識あり、胆略あり、常に寡言にして最も思慮深く、雄断に長じ、偶々(たまたま)一言を出せば確然人の肺腑を貫く。且つ徳高くして人を服し、艱難を経て事に老練す。その誠実、武市(半平太)に似て学識これ有る者、実に知行合一の人物也、是れ即ち洛西第一の英雄」
  • 増田宋太郎 「一日西郷に接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくのあらず。ただ死生をともにせんのみ」
  • 岡倉天心は英文著書『日本の目覚め他』で、西郷隆盛を「日本のガリバルディ」と紹介した。三宅雪嶺にも「西郷隆盛とガリバルジー」[24]がある。
  • 大隈重信 「維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余等も亦尊敬しつつありと雖も、其政治上の能力は果して充分なりや」[25]

現代

  • 今でも西郷は鹿児島県人に絶大な人気がある一方で盟友の大久保利通の人気は極端に低い。不人気の理由は、明治維新に貢献した武士を士族と改め武士達のプライドを傷つけたこと、廃藩置県を断行したこと、そして西南戦争時に西郷に対して政府軍を派兵したことなどである。
  • 平成22年(2010年)に九州新幹線鹿児島ルート全線開通に向けてマスコットキャラクター「西郷どーん」が披露されたが、熊本駅のカウントダウンボードは熊本県民から「西郷隆盛は熊本には合わない」と指摘されたため西郷どーんではなく熊本県のキャラクター「くまモン」が描かれたバージョンになった[26]
  • 中華人民共和国出身で現在は日本に帰化している評論家の石平は、征韓論が却下された後、政府の有力者でありながらクーデターを起こす事なく帰郷した事を、「権力に執着しない日本人らしい潔さ」として評価している。

銅像・墓所・霊廟・神社

高村光雲作(犬は後藤貞行作)西郷隆盛像上野恩賜公園、東京都台東区)

東京都台東区上野恩賜公園、鹿児島県鹿児島市、鹿児島県霧島市溝辺町にそれぞれ銅像が建っている。

墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市宮崎県都城市、鹿児島県和泊町沖永良部島にある。

関連作品

伝記・小説

映画

テレビドラマ

歌謡曲

脚注

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  1. ^ 城山町は1965年に山下町より分割され成立した町である
  2. ^ 肥後国の菊池氏を祖としていたので、「吾が源は菊池なり」という意で付けたと云われる。
  3. ^ 大島に三年住んでいたという洒落。
  4. ^ 一代小番が側役以上側用人以下に昇進すると代々小番となり地頭を兼務する。側役は代々小番昇進時の役職としてはオーソドクス。この後、側用人に進むことが多い
  5. ^ 『詳説西郷隆盛年譜』によれば、この名は沖永良部島在島以来らしい。
  6. ^ 当番頭以上寺社奉行以下に進んだ家格代々小番は寄合並(一身家老組)となるのは薩摩藩の慣例
  7. ^ なお、薩摩藩では大目付と若年寄は家老候補である。また、大目付と若年寄になった時点で寄合並から寄合に昇格するが、大目付を辞退しているので西郷は大番頭、陸軍掛・家老座出席と考えられるので寄合並のまま。
  8. ^ 藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした。
  9. ^ この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい。
  10. ^ 写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。
  11. ^ 8日に口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載。
  12. ^ 野村の口供書は『薩南血涙史』に掲載。
  13. ^ のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた。
  14. ^ 旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『翔ぶが如く』など、伊敷練兵場としているものが多いが、誤りである。[14]
  15. ^ 『鎮西戦闘鄙言』では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする。
  16. ^ 折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている。
  17. ^ 首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば今村均著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である千田登文であった。
  18. ^ 西郷隆盛像を作成した安藤照の長年に亘る研究結果が「身長五尺九寸余」

出典

  1. ^ a b 『鹿児島県史』第三巻
  2. ^ 『西郷隆盛全集』第一巻
  3. ^ 『西郷隆盛全集』第五巻
  4. ^ a b c d e 『詳説西郷隆盛年譜』
  5. ^ 丁丑公論』に詳しい
  6. ^ 『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五
  7. ^ 『西南記伝』引東郷平八郎実話
  8. ^ 『西南記伝』
  9. ^ 『鹿児島県史料・忠義公史料』第7巻
  10. ^ 国立公文書館、文献参照
  11. ^ 『前原一誠年譜』
  12. ^ 『大山県令と私学校』。この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある。
  13. ^ 薩南血涙史
  14. ^ 『西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について』
  15. ^ a b 『大西郷突囲戦史』
  16. ^ 『西南戦争と県令岩村通俊』
  17. ^ 明治美術会 /(財)印刷局朝陽会 編『お雇い外国人キヨッソーネ研究』中央公論美術出版、1999年、23頁
  18. ^ 南洲翁遺訓』より。近代デジタルライブラリー所蔵の『言志録講話』に収録された「西郷南洲翁遺訓」を参照。
  19. ^ 『西南役側面史』
  20. ^ 『ハエ・蚊とその駆除』
  21. ^ 『西南記伝』引高島鞆之助実話。高島は元陸軍中将、枢密院顧問官。西南戦争時は別動第一旅団長
  22. ^ もう一人の西郷さん2 ~西郷寅太郎と習志野~ 新ならしの散策 №26(習志野市広報 平成10年2月15日号)
  23. ^ 『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』山田済斎編、岩波書店〈岩波文庫〉、1939年、ISBN 4-00-331011-X / 〈ワイド版岩波文庫〉、2006年1月、ISBN 4-00-007265-X に収録された「手抄言志録」を参照。
  24. ^ 各.中央公論社で、『日本の名著.39 岡倉天心・志賀重昂』、『同.37 陸羯南・三宅雪嶺』に所収されている。
  25. ^ 大隈伯百話近代デジタルライブラリー『大隈伯百話』
  26. ^ 西郷さんNG、クマに変更 新幹線熊本駅のPRキャラ 47NEWS

主な参考文献

<注>西郷隆盛に関係する文献は膨大な数にのぼる。当然以下には基本文献をあげているが、それ以外は本稿を書くに当たって、なんらかの論拠にしたものだけに限定している。

著作文献

資料・研究・論文等

  • 「花房外務大丞外数名差遣」(『太政類典・第二編・明治四年~明治十年』第90巻、明治5年8月18日の条、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01000019400、国立公文書館
  • 「行在所達第四号」(『太政官布告 陸軍省達 総督本営』明治10年2月25日の条、作成者: 太政官、太政大臣三條實美、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04017622000、国立公文書館
  • 日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、1911年
  • 加治木常樹『薩南血涙史』、1912年(復刻版、青潮社、1988年)
  • 日本史籍協会編『西郷隆盛文書』、1923年(原本は島津家臨時編輯所編『西郷隆盛書翰集』、作成年不明)
  • 大西郷全集刊行会編『大西郷全集』、大西郷全集刊行会、1926年
  • 香春建一『大西郷突囲戦史』、改造社、1937年
  • 香春建一『西郷臨末記』、改造社、1937年
  • 竹内才次郎『西南役前後の思出の記』、自家出版非売品、1937年
  • 下田一喜編『西南役側面史』、西南戦争六十年会、1938年
  • 大久保利謙等編『鹿児島県史』、鹿児島県、1941年
  • 大山柏『戊辰役戦史』、時事通信社、1968年12月1日
  • 西郷吉之助編『西郷南洲史料』、東西文化調査会、1969年
  • 鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料』第7巻、、一五二文書、1980年
  • 風間三郎編『西南戦争従軍記』、南方新社、1999年
  • 東郷実晴「村田新八と宇留満乃日記」(『敬天愛人』第4号、西郷南洲顕彰会)
  • 山田尚二「村田新八の喜界島遠島」(『敬天愛人』第4号、西郷南洲顕彰会)
  • 中井平一郎「西南役と延岡」(『敬天愛人』第6号、西郷南洲顕彰会)
  • 東郷實晴「西南戦争と県令岩村通俊」(『敬天愛人』第6号、西郷南洲顕彰会)
  • 芳即正「県令大山綱良と私学校」(『敬天愛人』第8号、西郷南洲顕彰会)
  • 山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(『敬天愛人』第10号特別号、西郷南洲顕彰会)
  • 山田尚二「西南戦争年譜」(『敬天愛人』第15号、西郷南洲顕彰会)
  • 塩満郁夫「鹿児島籠城記」(『敬天愛人』第15号、西郷南洲顕彰会)
  • 吉満庄司「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」(『敬天愛人』第20号、西郷南洲顕彰会)
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」(『敬天愛人』第20号、西郷南洲顕彰会)
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」(『敬天愛人』第21号、西郷南洲顕彰会)
  • 平田信芳「島津応吉邸門前」(『敬天愛人』第21号、西郷南洲顕彰会)
  • 和田義人、篠永哲、中生男『ハエ・蚊とその駆除』、財団法人 日本環境衛生センター、1990年2月20日、ISBN 4-88893-058-9

西南戦争

関連項目

外部リンク

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Saigō Takamori

From Wikipedia, the free encyclopedia
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In this Japanese name, the family name is "Saigō".
Saigō Takamori
198x
Saigō Takamori, by Edoardo Chiossone.
Born January 23, 1828
Kajiya-cho, Kagoshima-Joka, Satsuma domain
Died September 24, 1877(1877-09-24) (aged 49)
Yamashita-cho, Kagoshima-Fuka, Kagoshima prefecture
Occupation Samurai, politician
Parent(s) Father: Saigo Kichibei Mother: Masa ?
Kanji for "Saigō Takamori".

Saigō Takamori (Takanaga) (西郷 隆盛 (隆永)?, January 23, 1828 – September 24, 1877) was one of the most influential samurai in Japanese history, living during the late Edo Period and early Meiji Era. He has been dubbed the last true samurai.[1] He was born Saigō Kokichi (西郷 小吉), and received the given name Takamori in adulthood. He wrote poetry under the name Saigō Nanshū (西郷 南洲).[2] His younger brother was Gensui The Marquis Saigō Tsugumichi.

Early life

The birthplace at Kajiya-chō, Kagoshima

Saigō Takamori was born in the Satsuma Domain (modern Kagoshima Prefecture) on January 23, 1828, or December 7 in the lunar calendar in the tenth year of the Bunsei era. Saigō served as a low-ranking samurai official in his early career. He was recruited to travel to Edo (modern Tokyo) in 1854 to assist the Daimyo of Satsuma, Shimazu Nariakira, in the Kōbu gattai movement (promoting reconciliation and closer ties between the Tokugawa shogunate and the Imperial court).

Saigō’s activity in Edo came to an abrupt end with the Ansei Purge by Tairō Ii Naosuke against anti-Shogunal activities, and the sudden death of Shimazu Nariakira. Saigō fled back to Kagoshima, where he was arrested and banished to Amami Ōshima island. He was recalled briefly in 1861, only to be banished again, to the more remote island of Okinoerabu, south of Amami Oshima, by the new Satsuma Daimyo Shimazu Hisamitsu. Hisamitsu pardoned Saigō in 1864 and sent him to Kyoto to handle the domain's interests towards the imperial court.

Meiji Restoration

Upon assuming command of the Satsuma Soldiers based in Kyoto, Saigō quickly formed an alliance with samurai from Aizu domain against the forces of rival Chōshū domain, and prevented that domain from seizing control of the Kyoto Imperial Palace in the Kinmon Incident. In August 1864, Saigō was one of the military commanders of the punitive expedition mounted by the Tokugawa bakufu against Chōshū over the incident, but in secret he was conducting negotiations with Chōshū leaders, which later led to the Satcho Alliance. When the Tokugawa bakufu sent a second punitive expedition against Chōshū in June 1866, Satsuma remained neutral.

Saigō Takamori (with tall helmet) inspecting Chōshū troops at the Battle of Toba-Fushimi.

In November 1867, Shogun Tokugawa Yoshinobu resigned, returning power to the Emperor in what came to be known as the Meiji Restoration. However, Saigō was one of the most vocal and vehement opponents to the negotiated solution, demanding that the Tokugawa be stripped of their lands and special status. His intransigence was one of the major causes of the subsequent Boshin War.

During the Boshin War, Saigō led the imperial forces at the Battle of Toba-Fushimi, and then led the imperial army toward Edo, where he accepted the surrender of Edo Castle from Katsu Kaishū.

Meiji bureaucrat

Saigō Takamori in French-inspired uniform.[3]
The Seikanron debate. Saigō Takamori is sitting in the center. 1877 painting.

Although Ōkubo Toshimichi and others were more active and influential in establishing the new Meiji government, Saigō retained a key role, and his cooperation was essential in the abolition of the han system and the establishment of a conscript army. In 1871 he was left in charge of the caretaker government during the absence of the Iwakura Mission (1871–72).

Saigō initially disagreed with the modernization of Japan and the opening of commerce with the West. He famously opposed the construction of a railway network, insisting that money should rather be spent on military modernization.[4]

Saigō did insist, however, that Japan should go to war with Korea in the Seikanron debate of 1873 due to Korea's refusal to recognize the legitimacy of the Emperor Meiji as head of state of the Empire of Japan, and insulting treatment meted out to Japanese envoys attempting to establish trade and diplomatic relations. At one point, he offered to visit Korea in person and to provoke a casus belli by behaving in such an insulting manner that the Koreans would be forced to kill him. However, the other Japanese leaders strongly opposed these plans, partly from budgetary considerations, and partly from realization of the weakness of Japan compared with the western countries from what they had witnessed during the Iwakura Mission. Saigō resigned from all of his government positions in protest and returned to his hometown of Kagoshima.

Satsuma Rebellion (1877)

Main article: Satsuma Rebellion
Saigō preparing for war.

Shortly thereafter, a private military academy was established in Kagoshima for the faithful samurai who had also resigned their posts in order to follow him from Tokyo. These disaffected samurai came to dominate the Kagoshima government, and fearing a rebellion, the government sent warships to Kagoshima to remove weapons from the Kagoshima arsenal. Ironically, this provoked open conflict, although with the elimination of samurai rice stipends in 1877, tensions were already extremely high. Although greatly dismayed by the revolt, Saigō was reluctantly persuaded to lead the rebels against the central government.

The rebellion was suppressed in a few months by the central government's army, a huge mixed force of 300,000 samurai officers and conscript soldiers under Kawamura Sumiyoshi. The Imperial troops were modern in all aspects of warfare, using howitzers and observation balloons. The Satsuma rebels numbered around 40,000, dwindling to about 400 at the final stand at the Battle of Shiroyama. Although they fought for the preservation of the role of the samurai, they used Western military methods, guns and cannons; all contemporary depictions of Saigō Takamori depict him garbed in Western-style uniform. At the end of the conflict, running out of material and ammunition, they had to fall back to close-quarter tactics and the use of swords, bows and arrows.

Saigō Takamori (upper right) directing his troops at the Battle of Shiroyama.
The deathplace monument at Shiroyama-chō, Kagoshima

During the battle, Saigō was badly injured in the hip. However, the exact manner of his death is unknown. The accounts of his subordinates claim either that he uprighted himself and committed seppuku after his injury, or that he requested that the comrade Beppu Shinsuke assist his suicide. In debate, some scholars have suggested that neither is the case, and that Saigō may have gone into shock following his wound, losing his ability to speak. Several comrades upon seeing him in this state, would have severed his head, assisting him in the warrior's suicide they knew he would have wished. Later, they would have said that he committed seppuku in order to preserve his status as a true samurai.[5] It is not clear what was done with Saigo's head immediately after his death. Some legends say Saigo's manservant hid the head, and it was later found by a government soldier. In any case, the head was somehow retrieved by the government forces and was reunited with Saigo's body, which was laid next to that of his deputies Kirino and Murata. This was witnessed by the American sea captain John Capen Hubbard. A myth persists that the head was never found. In any event, Saigo's death brought the Satsuma Rebellion to an end.

Legends about Saigō

Saigō Takamori Gunmusho (軍務所) banknote, issued in 1877 to finance his war effort. Japan Currency Museum.
Saigō Takamori (seated, in Western uniform), surrounded by his officers, in samurai attire. News article in Le Monde Illustré, 1877.

Many legends sprang up concerning Saigō, many of which denied his death. Many people in Japan expected him to return from British Raj India or Qing Dynasty China or to sail back with Tsesarevich Alexander of Russia to overthrow injustice. It was even recorded that his image appeared in a comet near the close of the 19th century, an ill omen to his enemies. Unable to overcome the affection that the people had for this paragon of traditional samurai virtues, the Meiji Era government pardoned him posthumously on February 22, 1889.

Artworks depicting Saigō

Saigō Takamori's statue near the southern entrance of Ueno Park.

A famous bronze statue of Saigō in hunting attire with his dog stands in Ueno Park, Tokyo. Made by Takamura Kōun, it was unveiled on 18 December 1898. Saigō met the noted British diplomat Ernest Satow in the 1860s, as recorded in the latter's A Diplomat in Japan, and Satow was present at the unveiling as recorded in his diary.

A reproduction of the same statue stands on Okinoerabujima, where Saigō had been exiled.[6]

A Japanese hand fan commemorating the event, which survives in the collection of the Staten Island Historical Society in New York, features a depiction of Saigo Takamori in a scene labeled (in English) ”THE BATTLE NEAR THE CITADEL OF KUMAMOTO.”[7]

Popular culture

Saigō's last stand against the Meiji government in the Battle of Shiroyama was the historical basis for the 2003 film The Last Samurai. Katsumoto, played by Ken Watanabe in the movie, is based on Saigō.

An animated version of Saigō appears during the final scene of the 1985 anime film Kamui no Ken. Saigō is a supporting character in the 2008 NHK Taiga drama Atsuhime, played by Ozawa Yukiyoshi.

Saigō appears as a general in the game Shogun 2: Fall of the Samurai during Japan's Meiji Restoration

Saigō Tokumori from the manga-anime Gintama is also based on him.

A casual discussion of Saigo's calligraphy is made by characters in the novel A Mature Woman, by Saiichi Maruya. Saigo's calligraphy is described as being "very eccentric - unnervingly, unpleasantly so."

See also

Notes

  1. Jump up ^ History Channel The Samurai, video documentary
  2. Jump up ^ Ravina, Mark. The Last Samurai: The Life and Battles of Saigō Takamori. John Wiley and Sons, 2011. Names, Romanizations, and Spelling (page 1 of 2). Retrieved from Google Books on August 7, 2011. ISBN 1-118-04556-4, ISBN 978-1-118-04556-5.
  3. Jump up ^ Colonel C.Munier, 1874
  4. Jump up ^ On Saigō and the establishment of a railway
  5. Jump up ^ Andrew M. Beierle (ed.). "The Real Last Samurai". Emory Magazine. Emory University. Retrieved 10 April 2009. 
  6. Jump up ^ Man, John. "In the Footsteps of the Real Last Samurai." SOAS World. 37 (Spring 2011). p30.
  7. Jump up ^ "Fan, 1877-1890". Online Collections Database. Staten Island Historical Society. Retrieved 2 December 2011. 

References[edit]

External links