上杉 鷹山 (うえすぎ ようざん) [English]
出典: 百科事典
上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり、1751年9月9日 - 1822年4月2日)は、江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。 家系日向高鍋藩主・秋月種美の次男で、母は筑前秋月藩主・黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩第4代藩主・上杉綱憲の娘である。このことが縁で、10歳で米沢藩の第8代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。 兄弟のうち、兄の秋月種茂は高鍋藩主を継いだ。弟のうちで他に大名となった者に人吉藩主・相良晃長がおり、治憲と同様に幼くして相良家に養子に入ったものの、早世した[2]。 正室は重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)。側室のお豊の方(綱憲の六男・勝延の娘で、重定や春姫の従妹にあたる)との間に長男・顕孝(第10代藩主・治広の世子)と次男・寛之助(満1歳半(数え2歳)で夭折)の2人の子がいる。 上杉家において女系の血統に基づく相続は(より近縁であるが)先例があり、綱憲は第3代藩主・綱勝の妹・富子の子(父は高家・吉良義央)であったし、初代藩主・景勝からして藩祖・謙信の姉・仙桃院の子であった。 ただし、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に勝熙、勝意、勝定、定興の4人の男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで第10代藩主となった。また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・勝周に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の勝承(第2代藩主)や勝職(旗本金田正矩となる)がいた。勝承は重定の養子の候補にもなっていた。 生涯寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。 宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服し、勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の偏諱を授かり、治憲と改名する。明和4年(1767年)に家督を継ぐ。 上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ[要出典]、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった[3]。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。 深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、
といった洒落巷談が流行っていたほどである。 加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。 新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた[4]。 天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。 安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。 これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。 天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。 享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号す[5]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。 文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。 官歴
伝国の辞伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。
以下が意訳である。
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。 妻子
人物・逸話
「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」 武田信玄(1521-1573)の名言を模範にしたもの。
老婆の手紙安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。
ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士達に言ったところ、殿様お屋敷(米沢城[10])の北門に(門番に話を通しておくから)というのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主治憲であった。 お侍どころかお殿様であったので腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。なお「トウベイ」とは屋号と推定されている。 講談「水戸黄門漫遊記」のように、お忍びの殿様が庶民を手助けしてくれる話はよく語られるが、こうした実例が示されることは他に存在しないであろう。 遠山村では安永元年(1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国周代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったものである。4反の籍田で収穫された米は、謙信公御堂と白子神社、城内春日神社に奉納され、残りは下級武士に配給された。これは歴代藩主に受け継がれた。 この手紙の逸話については、莅戸善政の記録に、該当すると思われる記述がある。 手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されている。ほぼ片仮名で書かれ、現代人にも容易に読むことができる。当時の識字率、書法の一例としても興味深い。 改革について鷹山存命中の藩政改革は、重定の寵臣で専制的な森平右衛門を粛清した竹俣当綱をリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。 米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。 鷹山の推奨したウコギの垣根も、若葉は食用で苦味があるが、高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。 我が国で最も古く公娼制度の廃止にも取り組んだ。これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという。 年譜
脚注
参考文献
関連書籍
題材とした作品
テレビドラマ関連項目
外部リンク
Uesugi HarunoriUesugi Harunori (上杉 治憲?, September 9, 1751 – April 2, 1822) was a Japanese daimyo, the 9th head of the Yonezawa domain (today's Yonezawa and Okitama region), and a descendant of Fujiwara no Yoshikado.[1] Born in Edo, he was the second son of a daimyo of the Akizuki clan, who controlled part of Hyūga Province. His mother was a granddaughter of the fourth head of Yonezawa. His childhood names were "Matsusaburō" (松三郎) and "Naomatsu" (直松). He was adopted by Uesugi Shigesada, then daimyo of Yonezawa, and in 1767 he succeeded Shigesada. After retirement, he adopted the gō, or pen name, Yōzan (鷹山). He was brought at age 16 to the Yonezawa area from a small fief in southern Kyūshū as an adopted son of the Uesugi clan. Today, he is best remembered for his financial reforms, and he is often cited as an example of a good governor of a domain. Yonezawa had been in debt for roughly a hundred years when Harunori took over; Shigesada even considered returning the domain to the shogunate as a last resort. However, he was convinced by his father-in-law, the daimyo of Owari province, to instead resign as daimyo. It was under these conditions that Harunori came to be daimyo of Yonezawa. He introduced strict disciplinary measures, and ordered the execution of several karō (advisors) who opposed his plans. As a result of various measures he took, Yonezawa became fairly prosperous, and did not suffer much from the famine which swept Japan in the Tenmei era (1781-9). For instance the Uesugis chose to keep all their retainers but cut all salaries to one-sixth of their former level. Yozan also cut his own living expenses, wearing cotton clothes instead of silk and having his meals consist of one bowl of soup and one vegetable. He reduced his living allowance from 1500 ryo per year to 209 ryo and the number of maidservants from 50 to nine. He also set policies encouraging new industry such as weaving, pottery and papermaking and encouraged existing enterprises such as paraffin, raw silk and linen. Education was necessary to create the brilliant men required to enrich the country, and he reopened the clan school which had closed down due to financial constraints and invited scholars from Edo to teach. He also established a medical school to teach the latest medical knowledge from Holland. Another policy change ensured adequate water from the mountains for the rice fields by enlisting retainers and samurai to dig irrigation ditches and to repair dikes. Administrative reform and personnel promotion based on merit, not class, eliminated waste and simplified public offices. When Yozan came to power, the total debt of the fief had reached the level of 200,000 ryo; by 1823 the entire amount of the debt had been repaid. In 1830, less than a decade after Harunori's death, Yonezawa was officially declared by the shogunate to be a paragon of a well-governed domain. He revealed his views on governance and the role of a feudal lord in a letter to his son Haruhiro:
Additionally, his views on self-discipline are well known in Japanese culture:[3]
Notes
References[edit]
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