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   上杉 鷹山 (うえすぎ ようざん)   [English]

出典: 百科事典

 
上杉鷹山 (上杉 治憲)
上杉鷹山.jpg
上杉鷹山
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延4年7月20日1751年9月9日
死没 文政5年3月11日1822年4月2日
改名 幼名:松三郎(秋月氏時代)→ 直松/:勝興→治憲
別名 通称:直丸/出家号:鷹山
戒名 元徳院殿聖翁文心大居士
墓所 山形県米沢市松岬神社、上杉家御廟
官位 従四位下弾正大弼侍従越前守、贈従三位[1]
幕府 江戸幕府
出羽国米沢藩
氏族 秋月氏上杉氏
父母 父:秋月種美、母:黒田長貞の娘・春姫
養父:上杉重定
兄弟 秋月種茂治憲鷹山)、相良晃長中条信義、他
正室:上杉重定の娘・幸姫
側室:上杉勝延の娘・お豊の方
顕孝寛之助、養子:治広
上杉神社に立つ銅像

江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。


上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり、1751年9月9日 - 1822年4月2日)は、江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。

家系

日向高鍋藩主・秋月種美の次男で、母は筑前秋月藩主・黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫米沢藩第4代藩主・上杉綱憲の娘である。このことが縁で、10歳で米沢藩の第8代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。

兄弟のうち、兄の秋月種茂は高鍋藩主を継いだ。弟のうちで他に大名となった者に人吉藩主・相良晃長がおり、治憲と同様に幼くして相良家に養子に入ったものの、早世した[2]

正室は重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)。側室のお豊の方(綱憲の六男・勝延の娘で、重定や春姫の従妹にあたる)との間に長男・顕孝(第10代藩主・治広の世子)と次男・寛之助(満1歳半(数え2歳)で夭折)の2人の子がいる。

上杉家において女系の血統に基づく相続は(より近縁であるが)先例があり、綱憲は第3代藩主・綱勝の妹・富子の子(父は高家吉良義央)であったし、初代藩主・景勝からして藩祖・謙信の姉・仙桃院の子であった。

ただし、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に勝熙勝意勝定定興の4人の男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで第10代藩主となった。また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・勝周に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の勝承(第2代藩主)や勝職(旗本金田正矩となる)がいた。勝承は重定の養子の候補にもなっていた。

生涯

寛延4年7月20日1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。

宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服し、勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府第10代将軍徳川家治偏諱を授かり、治憲と改名する。明和4年(1767年)に家督を継ぐ。

上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ[要出典]会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった[3]。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。

深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、

「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」

といった洒落巷談が流行っていたほどである。

加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。

新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた[4]

天明年間には天明の大飢饉東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

安永2年6月27日1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。

これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。

享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号す[5]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。

文政5年3月11日1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。

官歴

伝国の辞

伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日  治憲 花押
治広殿  机前

以下が意訳である。

一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、”君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

妻子

  • 正室の幸姫(よしひめ)は重定の次女(同母の姉妹は夭折)で、治憲の2歳年下であったが、脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は1769年(明和6年)に治憲と婚礼を挙げ、1782年(天明2年)に30歳で死去するという短い生涯であった。治憲は幸姫を邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、ある意味2人は仲睦まじく暮らした。重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという(現代の観点からは奇妙に感じるが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていないのである)。
  • 後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、1770年(明和7年)に治憲より10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方(初め、お琴の方と称す)を側室に迎えた。お豊の方は教養が高く、歌道をたしなんだという。しかし、お豊の方との子である長男・顕孝と次男・寛之助は2人よりも早く死去し、お豊の方以外に側室を迎えることもなかったため、治憲の血筋は結局残らなかった。
  • 養子として当主になった者が養父の実子に家督を譲るのは順養子と呼ばれ、江戸時代ではさして珍しいことではない。しかし、治憲があえて35歳の若さで隠居し、家督を治広に譲ったのは、重定が存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。なお、治広には同母兄の勝煕がいたが、それを差し置いての後継指名であった。

人物・逸話

  • 頑健な体格ではなかったが、元来頑丈で大病でも病床についたことはなかったようである[6]
  • 米沢の名産である笹野一刀彫の「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴という。
  • 煙草を愛好していた。また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。
  • 有名な「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり[7]」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『書経』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[8]

  「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」 武田信玄(1521-1573)の名言を模範にしたもの。

  • 伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と文政4年(1821年)とある[9]
  • 2007年に『讀賣新聞』が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも、理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。
  • 米沢藩中興の祖である鷹山は、現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。
  • 当時、米沢藩で奸臣と見なされていた直江兼続[要出典]の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた。
  • 江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに改革に専念する理由もあったからという考察がある。なお、幕府は諸大名が隠居後に領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。
  • 藩主の称号は謙信以来の御屋形様であり、隠居した先代は大殿様であった。治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、中殿様と呼ばれている。
  • 天明7年(1787年)8月に実父の秋月種美の危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。

老婆の手紙

安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。

一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレべク候
ソシテマメニソタテラルべククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候
老婆の手紙と足袋(米沢市宮坂考古館所蔵)

ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士達に言ったところ、殿様お屋敷(米沢城[10])の北門に(門番に話を通しておくから)というのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主治憲であった。

お侍どころかお殿様であったので腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。なお「トウベイ」とは屋号と推定されている。

講談「水戸黄門漫遊記」のように、お忍びの殿様が庶民を手助けしてくれる話はよく語られるが、こうした実例が示されることは他に存在しないであろう。

遠山村では安永元年(1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったものである。4反の籍田で収穫された米は、謙信公御堂白子神社、城内春日神社に奉納され、残りは下級武士に配給された。これは歴代藩主に受け継がれた。

この手紙の逸話については、莅戸善政の記録に、該当すると思われる記述がある。

手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されている。ほぼ片仮名で書かれ、現代人にも容易に読むことができる。当時の識字率書法の一例としても興味深い。

改革について

鷹山存命中の藩政改革は、重定の寵臣で専制的な森平右衛門を粛清した竹俣当綱をリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。

米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。

鷹山の推奨したウコギの垣根も、若葉は食用で苦味があるが、高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。

我が国で最も古く公娼制度の廃止にも取り組んだ。これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという。

年譜

  • 宝暦元年(1751年)、高鍋藩江戸藩邸にて、秋月種美と春姫(黒田長貞の娘)の次男として誕生。幼名は直松。
  • 宝暦9年(1759年)、米沢藩主上杉重定との養子内約。
  • 宝暦10年(1760年)、重定の世子となり、直丸に改名。8月、上杉家桜田藩邸へ移る。
  • 明和元年(1764年)、細井平州が師となる。将軍徳川家治に上杉家世子として御目見。重定、幕府への領土返上を舅の尾張藩主徳川宗勝[11]に相談し、強く諌められる。
  • 明和2年(1765年)、竹俣当綱、奉行となる。
  • 明和3年(1766年)、元服、勝興と名乗る。従四位下弾正大弼に叙任さる。将軍より偏諱を与えられ治憲と改名。
  • 明和4年(1767年)、重定隠居。治憲が米沢藩主となる。
  • 明和6年(1769年)、莅戸善政、米沢町奉行となり藩政にかかわる。幸姫と婚礼をあげる。10月、初めて米沢に入る。
  • 明和7年(1770年)、上杉勝延の末娘お琴(お豊と改名)を側室とする。
  • 安永元年(1772年)、藩財政改革で『会計一円帳』作成開始。米沢の遠山村にて籍田の礼を始める。
  • 安永2年(1773年)、七家騒動。
  • 安永5年(1776年)、学館を再興し、来訪した細井平州により「興譲館」と命名さる。
  • 安永6年(1777年)、義倉を設立。
  • 安永7年(1778年)、重定のために能役者金剛三郎を米沢に招く。以後、金剛流が米沢に広まる。
  • 天明2年(1782年)、幸姫病没。義弟(重定実子)で世子の勝憲が元服、中務大輔に叙任され、将軍より偏諱を与えられ治広と改名。治憲実子の直丸を治広世子とし、顕孝と改名。竹俣当綱失脚。天明の大飢饉( - 1786年)、それまでの改革が挫折する。
  • 天明3年(1783年)、改革挫折で莅戸善政辞任、隠居。大凶作で11万石の被害。
  • 天明4年(1784年)、長雨続く。治憲、謙信公御堂にこもり断食して祈願す。20年計画での籾5000俵、麦2500俵の備蓄計画開始。
  • 天明5年(1785年)、治憲隠居。治広が家督を継ぎ、ここで「伝国の辞」を贈る。顕孝傅役に世子心得を与える(「なせばなる」)。
  • 寛政3年(1791年)、莅戸善政、再勤を命じられ改革が再度始まる(寛三の改革)。
  • 寛政6年(1794年)、実子の顕孝が疱瘡で病没。代わりに宮松(斉定)が治広の世子となる。治憲は宮松と共に寝起きして、自ら教育に当たる。
  • 寛政7年(1795年)、北条郷新堰(黒井堰)完成。公娼廃止の法令を出す。
  • 寛政8年(1796年)、細井平州、三度米沢に来訪。治憲は関根普門院に師を出迎える。
  • 享和2年(1802年)、総髪となって鷹山と号す。『かてもの』刊行。
  • 文化5年(1808年)、治広世子の定祥が元服、中務大輔に叙任され、将軍徳川家斉より偏諱を与えられ斉定と改名。
  • 文化9年(1812年)、治広が中風で隠居。斉定が家督を継ぎ、従四位下弾正大弼に叙任さる。
  • 文政4年(1821年)、お豊の方死去。
  • 文政5年(1822年)、逝去。
  • 文政6年(1823年)、米沢藩の借財、完済さる。斉定、藩士一同とともに謙信公御堂にこれを報告。

脚注

  1. ^ a b 故上杉輝虎外四名贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A10110299500 
  2. ^ 末期養子の禁に抵触して無嗣断絶となるのを回避するため替え玉の藩主が擁立された、その最初の例となった。なお、当初は治憲が相良家の養子に所望されていたが、すでに上杉家との養子話が進行中だったため弟が選ばれた経緯があった。
  3. ^ 実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していた。
  4. ^ 海音寺潮五郎『武将列伝 江戸篇』(新装版 文春文庫 か 2-57) 文藝春秋(2008年7月10日) ISBN-13: 978-4167135577
  5. ^ なお、武鑑の『諸大名御隠居方並御家督』で治憲の表記が「米沢侍従越前守藤原治憲」から「米沢侍従鷹山藤原治憲」に変更されたのは文化9年(1812年)からである。
  6. ^ 『上杉鷹山』吉川弘文館
  7. ^ 伝国社 特別展「上杉鷹山~改革への道~” (日本語). 米沢市上杉博物館. 2009年7月20日閲覧。
  8. ^ 現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々は武田信玄の名言をコピーしたもので、武田信玄の名言「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」を変えて言ったものとされる。「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、山本五十六(武田家家臣山本勘助の子孫と伝えられる山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。[要出典]
  9. ^ 三重県立博物館"崇廣堂扁額"
  10. ^ 米沢城は東門が正門で藩主専用、北門が藩士、出入りの者の通用門である。
  11. ^ このように言われているが、この時、宗勝は既に死亡している。実際には徳川宗睦と思われる。

参考文献

  • 内村鑑三著、鈴木範久訳『代表的日本人』(岩波文庫)
  • 横山昭男編『上杉鷹山のすべて』(新人物往来社、1989年)
  • 横山昭男『上杉鷹山』(吉川弘文館 人物叢書、1968年)
  • 安彦孝次郎『上杉鷹山の人間と生涯』(1942年/サイエンティスト社、1994年三訂版)
  • 加来耕三『異端の変革者 上杉鷹山』(集英社、2001年)
  • 『三百藩藩主人名辞典一』(新人物往来社)
  • 山本七平『日本資本主義の精神』(ビジネス社)

関連書籍

  • 下村千秋『上杉鷹山』(新潮社、1942年)
  • 五十公野清一『上杉鷹山の人間愛』(大鵬社、1943年)
  • 渡辺与五郎『近世日本経済史 上杉鷹山と米沢藩政史』(文化書房博文社、1973年)
  • 渡部図南夫『上杉鷹山公』(鉱脈社、1978年)
  • 童門冬二『経営革命の祖上杉鷹山の研究 危機を乗り切るリーダーの条件』(PHP研究所、1982年)
  • 鈴村進『上杉鷹山に学ぶ』(三笠書房・知的生きかた文庫、1989年)
  • 加来耕三『上杉鷹山危機突破の行動哲学』(二見書房、1993年)
  • 高野澄『上杉鷹山の指導力』(PHP研究所、1993年 のち文庫)
  • 嶋津義忠『上杉鷹山 財政危機を打開した名君の生涯』(PHP文庫、2002年)

題材とした作品

  • 童門冬二『小説 上杉鷹山』(学陽書房、1983年 のち集英社文庫、人物文庫)
  • 童門冬二『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫、1990年)ISBN 4569562736
  • 鈴村進『「人間通」の名指導者 上杉鷹山に学ぶ』(三笠書房、1992年)
  • 藤沢周平漆の実のみのる国』(文藝春秋、1997年 のち文庫)
  • 嶋津義忠『上杉鷹山 財政危機を打開した名君の生涯』(PHP文庫、2002年)
  • 長谷川伸『上杉太平記』(1941年)(徳間文庫)、「全集第6巻」(朝日新聞社、1972年)
  • 和田伝『上杉鷹山 勤倹殖産の父』(偕成社、1952年)  
  • 風巻絃一『春の鷹 小説・上杉鷹山』(春陽文庫 1993年)
  • 八幡和郎『小説伝記上杉鷹山』(PHPエディターズ・グループ 2008年)

テレビドラマ

関連項目

外部リンク

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Uesugi Harunori

Uesugi Harunori

Uesugi Harunori (上杉 治憲?, September 9, 1751 – April 2, 1822) was a Japanese daimyo, the 9th head of the Yonezawa domain (today's Yonezawa and Okitama region), and a descendant of Fujiwara no Yoshikado.[1] Born in Edo, he was the second son of a daimyo of the Akizuki clan, who controlled part of Hyūga Province. His mother was a granddaughter of the fourth head of Yonezawa. His childhood names were "Matsusaburō" (松三郎) and "Naomatsu" (直松). He was adopted by Uesugi Shigesada, then daimyo of Yonezawa, and in 1767 he succeeded Shigesada. After retirement, he adopted the , or pen name, Yōzan (鷹山). He was brought at age 16 to the Yonezawa area from a small fief in southern Kyūshū as an adopted son of the Uesugi clan.

Today, he is best remembered for his financial reforms, and he is often cited as an example of a good governor of a domain. Yonezawa had been in debt for roughly a hundred years when Harunori took over; Shigesada even considered returning the domain to the shogunate as a last resort. However, he was convinced by his father-in-law, the daimyo of Owari province, to instead resign as daimyo. It was under these conditions that Harunori came to be daimyo of Yonezawa. He introduced strict disciplinary measures, and ordered the execution of several karō (advisors) who opposed his plans. As a result of various measures he took, Yonezawa became fairly prosperous, and did not suffer much from the famine which swept Japan in the Tenmei era (1781-9). For instance the Uesugis chose to keep all their retainers but cut all salaries to one-sixth of their former level. Yozan also cut his own living expenses, wearing cotton clothes instead of silk and having his meals consist of one bowl of soup and one vegetable. He reduced his living allowance from 1500 ryo per year to 209 ryo and the number of maidservants from 50 to nine. He also set policies encouraging new industry such as weaving, pottery and papermaking and encouraged existing enterprises such as paraffin, raw silk and linen. Education was necessary to create the brilliant men required to enrich the country, and he reopened the clan school which had closed down due to financial constraints and invited scholars from Edo to teach. He also established a medical school to teach the latest medical knowledge from Holland. Another policy change ensured adequate water from the mountains for the rice fields by enlisting retainers and samurai to dig irrigation ditches and to repair dikes. Administrative reform and personnel promotion based on merit, not class, eliminated waste and simplified public offices. When Yozan came to power, the total debt of the fief had reached the level of 200,000 ryo; by 1823 the entire amount of the debt had been repaid. In 1830, less than a decade after Harunori's death, Yonezawa was officially declared by the shogunate to be a paragon of a well-governed domain.

He revealed his views on governance and the role of a feudal lord in a letter to his son Haruhiro:

The state (国家, kokka) is inherited from one's ancestors and passed on to one's descendants; it should not be administered selfishly.

The people belong to the state; they should not be administered selfishly.
The lord exists for the sake of the state and the people: the state and the people do not exist for the sake of the lord.[2]

Additionally, his views on self-discipline are well known in Japanese culture:[3]

If you put your mind to it, you can do it;

If you do not, you cannot -- that is true for all things.
When something cannot be done, you are the one to blame
For not putting your heart into it.

Notes

The emblem (mon) of the Uesugi clan
  1. Jump up ^ Papinot, Edmund. (2003). Nobiliare du japon -- Sakai, pp. 67; Papinot, Jacques Edmond Joseph. (1906). Dictionnaire d’histoire et de géographie du Japon; retrieved 2012-11-7.
  2. Jump up ^ Ravinia, Mark. (1995). “State-Building and Political Economy in Early-Modern Japan,” Journal of Asian Studies 54.4.
  3. Jump up ^ Otani, Monshu Koshin (2009). The Buddha's Wish for the World. American Buddhist Study Center Press. p. 75. ISBN 0-9764594-2-6. 

References[edit]