道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝燈国師、承陽大師。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。 生い立ち道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。 一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった[1]。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。 四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。 伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、(世の無常を感じ出家を志した)道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を(その花に群がっていた虫ごと)むしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。 主な活動
教義
著書
参考文献
関連書籍
脚注
関連項目外部リンク正法眼蔵百科事典
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、正法眼藏)は、主に禅僧である道元が執筆した仏教思想書を指す。正法眼蔵という言葉は、本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味する。禅家はこれをもって教外別伝の心印となす。[1]著者によって大別すると、次の3種類に分かれる。
ここでは、2番目の道元著(仮字)『正法眼蔵』について述べる。 仮名版と漢字版の正法眼蔵日本曹洞宗の開祖である道元が、1231年から示寂する1253年まで生涯をかけて著した87巻(=75巻+12巻)に及ぶ大著であり、日本曹洞禅思想の神髄が説かれている。道元は、中国曹洞宗の如浄の法を継ぎ、さらに道元独自の思想深化発展がなされている。 真理を正しく伝えたいという考えから、日本語かつ仮名で著述している。当時(鎌倉時代)の仏教者の主著は、全て漢文で書かれていた(法然、親鸞『教行信証』、栄西、日蓮、…)。古い巻の記述を書き直し、新しい巻を追加して、全部で100巻にまで拡充するつもりであったが、87巻で病のため完成できなかった。その後、拾遺として4巻が発見され、追加されている。 (仮字)『正法眼蔵』は、道元の禅思想を表現するために、語録から特に公案で使われてきた重要な問答を取り出し、それに説明注釈する形で教えを述べている。その種本が(真字)『正法眼蔵』であり、10種類ぐらいの禅語録から、道元がみて重要な300則の禅問答を抜き出している。ただし、そのまま写したのではなく、(抜き出した段階で既に)道元の思想によって若干の変更が加えられていることが、研究の結果分かっている。 真筆と諸版道元真筆とされるものは、正法眼蔵嗣書(しょうぼうげんぞうししょ、伊予松平家旧蔵、駒澤大学禅文化歴史博物館所蔵)[2]、正法眼蔵「山水経」(愛知県全久院所蔵)など[3]10数種が残っている。 また、道元の死後直後から、後継者らにより頻繁に書写され、各地に分散していく。現在では次の6系統が確認されている。
最後に開版(出版)された95巻本には、『正法眼蔵』とは呼べない文章も混入している[4]。 大久保道舟などを先駆とする精緻な研究結果から、現在では、旧稿75巻+新稿12巻に整理され、これが学会で合意されている[5]。 修證義特に在家への布教を念頭において、正法眼蔵から重要な点を抜粋したものに修証義(しゅしょうぎ)がある。 主な刊行書籍原本・注釈
現代語訳
巻名75巻本
12巻本
別巻
その他
脚注関連項目
外部リンク |