東京大学大学院工学系研究科は、完全な光量子ビットの量子テレポーテーションに成功したと発表した。同研究科教授の古澤明氏らによる成果で、古澤氏は「完全な量子テレポーテーションの実証は、世界で初めて」と言う。研究成果に関する論文は、英国科学雑誌「Nature」にも掲載されている。
量子テレポーテーションは、光子に載せた量子ビット*1)の信号(光量子ビット)を、ある送信者から離れた場所にいる受信者へ転送する技術。これまでにない大容量通信を実現するとされる量子力学の原理を応用した「量子通信」を実現する上で最も重要な技術とされている。また、量子テレポーテーションを行う装置を組み合わせることで、超高速な処理性能を持つ「量子コンピュータ」も構築できる。
*1)0と1の重ね合わせで表示される情報単位。重ね合わせとは0と1が同時並行で存在するような一種の中間状態で、ミクロな量子力学の世界の特有の状態。重ね合わせをうまく利用することで、高い処理性能の情報処理が実現できる
左=量子力学を応用した情報処理の可能性。右=量子ビットと量子テレポーテーションのイメージ (クリックで拡大) 出典:東京大学
光量子ビットの量子テレポーテーションを実現する装置は1997年に、オーストリアのインスブルック大学などの研究チームが世界で初めて実現されたとされる。ただこの装置は、いくつかの問題点があり、「実用にほど遠い不完全なものだ」(古澤氏)とする。
1997年にインスブルック大学などが開発した量子テレポーテーション装置のイメージ 出典:東京大学
インスブルック大学などが開発した量子テレポーテーション装置は、転送後の光量子ビットを測定し、都合の良い事象のみを選び出す「条件付き」で転送成功が保証されていた。光量子ビットは、測定を行った時点で消滅する。成功判定の測定を実施した時点で量子ビットは失われるため、量子ビット自体を情報処理に使用することができなかった。古澤氏は、「われわれは、(インスブルック大学などが開発した量子テレポーテーション装置が)情報処理に使えないという点で、“量子テレポーテーションに成功した”とは言えないと考え、主張してきた」と語る。
またインスブルック大学などが開発した量子テレポーテーション手法は、量子ビットの転送効率が極めて低いという課題があるという。量子ビットを転送するために必要な量子エンタングルメント*2)の生成手法が、原理的に低い確率でしか動作しないとされる。古澤氏らは「最近の技術レベルを用いても100個の量子ビットを送信した時に正しく受信されるものは1個未満だろう」とする。そのため効率性が悪い点でも、実用化に向けた大きな課題を抱えた。
*2)量子もつれとも呼ばれる。2個以上の量子が特殊な相関を持っている状況を指す。この相関は、量子同士が離れていても成立する。量子テレポーテーションはこの相関の応用している。例えば、“A”が「0」の時には“B”は「1」、“A”が「1」の場合には“B”は「0」という相関があると仮定する。その場合“A”の内容を測定した時点で、“B”の内容も同時に判明する。これは、“A”から“B”へあたかも情報が瞬間移動したかのように見える。そのため、量子“テレポーテーション”と呼ばれる。ただ、送信側での測定結果は、古典通信と呼ばれる従来技術による通信で、受信側に伝える必要がある。
これに対し古澤氏らは1998年に、光の波動を用いた量子テレポーテーション手法を実証した。この手法は、光量子ビットのような光子の状態ではなく、光の波としての状態(振幅や位相)を転送するもの。この手法では、テレポーテーションが行われた場合に誤動作することがない(動作確率100%)とされ、テレポーテーションの有無さえ確認できれば、量子を測定する成功判定が不要で、情報処理に量子を使用できる。さらに量子エンタングルメントを生成する原理にも利点を持つ。高エネルギーの光ビームを結晶中で2つの光ビームに変換するプロセスを用いて常に生成する技術を使うため、光のエネルギーさえ高めれば、容易に量子エンタングルメントを生成できるとされる。
1998年に古澤明氏らが開発した光の波動を用いた量子テレポーテーション装置のイメージ 出典:東京大学
しかし、この光の波動を用いた量子テレポーテーション手法はこれまで、十分な光のエネルギーを用いることができなかったといった理由から完全な量子エンタングルメントを生成できなかった。そのため、転送時にノイズが光の波動に加わってしまい、「不完全な技術」とされてきた。
今回、古澤氏らの研究チームは、光の波動の量子テレポーテーション技術を光量子ビットに適用させた「ハイブリッド方式」という手法を実現した。
光の波動の量子テレポーテーション技術を光量子ビットに適用させた「ハイブリッド方式」のイメージ (クリックで拡大) 出典:東京大学
光の波動は、単一周波数の連続的な波の光だ。一方の光量子ビットは、時間幅の狭いパルス状の光であり、物理的性質が全く異なる。ただ、光量子ビットのパルス状の光は、複数の異なる周波数の波が重なったものと見なすことができる。
そこで古澤氏らは、複数の周波数の光の連続波を転送することで、あたかも光量子ビットを転送する手法での量子テレポーテーションの実現に着手。今回、光の波動を広い周波数範囲(広帯域)で転送できる技術と、光量子ビットが持つ周波数の範囲を狭める狭帯域化技術を合わせて開発することで、光の波動で、光量子ビットを転送するハイブリッド方式の量子テレポーテーションを実現させた。
このハイブリッド方式により、量子ビットの情報をノイズに乱されること無く転送することが可能になり、光の波動の量子テレポーテーションでの課題を解消した。
実際のハイブリッド方式の量子テレポーテーション装置の写真。4.2×1.5mの大きさがあり、ミラーやレンズなどの光学機器を配置しレーザー光の経路を作っている。使われているミラー、レンズの数は500枚以上。古澤明氏は、「温度変化などでも位置ずれしない独自の固定具を独自に開発できたことも装置実現の大きな要因だ」とした。なお、巨大な装置だが、「光導波路を使った光IC化は十分可能」(古澤氏)という (クリックで拡大) 出典:東京大学
開発したハイブリッド方式の装置での実証の結果、無条件で常に動作することを確認した。また、従来の装置には存在しない「古典情報チャネルゲイン*3)」を調整すれば量子ビットの情報を劣化させることも同時に確認した。
*3)送信側での量子の測定値(光の振幅、位相のデータ)を、古典通信(電気的通信)で送った際、受信側でその測定値の電気的信号を増幅する際の信号増幅率のこと。従来の光量子ビットのテレポーテーション装置にゲインは存在しなかった。
これらの結果、量子ビット転送効率は約61%だったとする。古澤氏は、「従来の光量子ビット方式の装置の100倍以上の高い効率。転送した量子ビットにエラーが生じることもなく、成功判定の必要もない。原理的に、光のエネルギーが高い光を用いて高品質な量子エンタングルメントを生成できれば、100%の転送効率が実現できる」としている。
古澤氏らの研究チームは今後、装置の改良を行いさらに転送効率を高める他、量子コンピュータの実現に向けて転送を繰り返すシステムへの拡張などを行っていくという。