偶成 <松平春嶽> ぐうせい <まつだいらしゅんがく>
眼に見る年年 開化の新たなるを
才を研き智を磨き 競うて身を謀る
翻って愁う習俗の 浮薄に流るるを
能く忠誠を守るは 幾人か有る
めにみるねんねん かいかのあらたなるを
さいをみがきちをみがき きそうてみをはかる
ひるがえってうれうしゅうぞくの ふはくにながるるを
よくちゅうせいをまもるは いくにんかある
西欧文明が流入して世の中は開化に向かって進んでいる。人々は競って技術や知識を学び立身出世を図っている。
昔は天下のために学んだのであるが、今は軽薄に流れていて愁うべきことである。こういう時期に天下国家のために志を果たしている人はどれ位いるだろうか。それを思うとさびしいことである。
松平春嶽 1828−1890
幕末の福井藩主。名は慶永(よしなが)、号は春嶽。文政11年田安(たやす)家に生まれる。ペリー浦賀来航を期に富国強兵と藩政改革に着手、橋本左内を登用し推進させた。安政の大獄に連坐して大老井伊直弼に隠居謹慎を命ぜられたが桜田門外の変後、解かれ幕府政治総裁職となり、幕政の改革をはかり、公武合体を推進した。大政奉還の際には将軍慶喜に返還をすすめ断行させた。新政府に迎えられて議定となる。明治23年6月病没、年63。
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