風土記奈良時代の初め、713年(和銅6)5月、元明天皇は諸国に風土記(ふどき)の編纂を命じた(この時点では風土記という名称は用いられていない)。官撰の地誌。詔により撰進したのは各国国庁。漢文体を主体とした文体で書かれた。『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、 【郡郷の名(好字を用いて)・産物 ・土地の肥沃の状態 ・地名の起源 ・伝えられている旧聞異事 】 が挙げられている。完全に現存するものはないが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。 谷村文庫 『日本総国風土記 出雲』 京都大学附属図書館所蔵 出雲風土記(島根県皇典) 国立国会図書館、 紀伊続風土記 国立国会図書館、 肥前国風土記 早稲田大学蔵書 古風土記検索、 風土記リンク 播磨国風土記令規定の郡・里となっており、霊亀ニ年[七一五]の郡郷里制への移行前に成立したようにみえる。したがって編集者は官命のあった和銅六年[七一三]から霊亀ニ年の国司が候補となる。国守の巨勢邑治(こせのおおち)・大石王・石川君子が編纂のトップで、実務は和銅五年七月に播磨大目だった楽浪(ささなみ)[高丘]河内かと推測される。しかし郡里制の記載があるからといってもそれが成立時点を意味するとはかぎらず、また郡郷里制への転換を霊亀三年とみる説もあり、成立年代と編集者は定説をえていない。さて、『播磨国風土記』の原本ははるか昔に失われ、現存するのは三条西家に伝来した古写本である。平安中期ごろのものかといわれ、現在は国宝で天理大学附属天理図書館が所蔵する。 流布については、たとえば『常陸国風土記』は加賀前田家本がもとで、水戸彰考館が借覧・筆写して巷間に行きわたった。これに対して『播磨国風土記』は、いわゆる完本五風土記のなかでもっとも流布がおくれた。はやくは元禄十六年[一七〇三]に前田綱紀が三条西家本を見たというが、これを筆写したのは寛政八年[一七九六]の柳原紀光、嘉永五年[一八五二]の谷善臣であった。これではじめて世に紹介され、文久三年[一八六三]に初稿ができた栗田寛の『標注古風土記』[明治三十二年刊]と明治二十年刊行の敷田年治著『標注播磨国風土記』で一般に流布した。 風土記と古代史文献 和銅六年(七一三)五月、政府は、地名にふさわしい文字をあてさせるとともに、国内の特産物や地名の由来・地味また古老たちの伝えるさまざまないいつたえなどを諸国が記録して上申するよう命じた。この上申書は、のちに『風土記』とよばれた。 古代の日本のすがたを描く材料にはいろいろあり、国家の来歴を記したものや貴族・官人たちの執務上の関心事から編纂されたものも参考になり、木簡や古文書もたいせつである。しかし当時の為政者たちの政治思想にも影響され、民衆の生活ぶりや生の声を伝えることが少ない。そこで『万葉集』や『日本霊異記』などにみられる人々の記述がたいせつになるが、『風土記』からは、恋愛・怨恨・争奪など人々のたくましい生活ぶりや願望を数多く読みとることができる。 播磨の神々の足跡 埴岡の里(神河町) 埴岡(はにをか)の里。埴岡と号(なづ)くる所以は、昔、大汝の命と小比古尼(すくなひこね)の命と、相争ひて云(の)りたまひしく、「埴の荷を担(にな)ひて遠く行くと、屎下(くそま)らずして遠く行くと、この二つの事、何(いづ)れか能(よ)く為(せ)む」とのりたまひき。・・・・かく相争ひて行きたまひき。数日を逕(へ)て、大汝の命云りたまひしく、「我は忍び行きあへず」とのりたまふすなはち坐して屎下りたまひき。尓時(そのとき)、小比古尼の命咲(わら)ひて曰(の)りたまひしく、「然(しか)り。苦し」とのりたまひて、亦(また)その埴をこの岡に擲ちたまひき。故れ、埴岡と号く。(神前郡埴岡里) 父の神の船、振興す能(あた)はずて、ついに打ち破らえき。所以に、其処(そこ)を船丘お号け、波丘と号く。琴落ちし処は、すなはち琴神丘と号け、箱落ちし処は、すなはち箱丘と号け、梳匣(くしげ)落ちし処は、すなはち匣(くしげ)丘と号け、箕(み)落ちし処は、すなはち箕形丘と号け、甕(みか)落ちし処は、すなはち甕丘と号け、稲落ちし処は、すなはち稲牟礼(いなむれ)の丘と号け、冑(かぶと)落ちし処は、すなはち冑丘と号け、沈石(いかり)落ちし処は、すなはち沈石丘と号け、綱落ちし処は、すなはち藤丘と号け、鹿落ちし処は、すなはち鹿丘と号け、犬落ちし処は、すなはち犬丘と号け、蚕子(ひめこ)落ちし処は、すなはち日女道(ひめぢ)丘と号く。(餝摩郡伊和里) 姫路市中心部にあった十四丘の由来を説明している。子神の火明(ほあかり)命が粗暴なので、大汝命は置き去りにして船出しようとした。それに気づいた子神は風波をおこし、船を破壊した。このとき船の積載物などが落ち、その落ちたものが丘の名の由来になったという。霧や霞にかすむなかに浮かんで見える丘を俯瞰して、ちりばめられた地名から神々の争いの一幕を連想したのだろうか。十四丘の一つである日女道(ひめぢ)丘(姫山)の神は、大汝少日子根(おおなむちすくなひこね)命の求愛をうけ、筥(はこ)丘に食物などを供えたという。ここは神々の集い憩う楽園であった。 古代びとの地域交流 『播磨国風土記』からは、幾内と周縁部では近江・大和・摂津・河内・和泉・紀伊との、山陰では丹波・但馬・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見との交流、また西隣の吉備との交渉もみられる。こうした諸国との行き来は、考古学的な調査でも裏付けられている。幾内周辺の摂津・河内でよくみられる簾(すだれ)のような文様がほどこされ、粘土に雲母(うんも)が入っている土器がある。これと同様なものが、播磨でもみつかっている。 大雀(おほさざき)の天皇の御世に、人を遣りて、意伎(おき)・出雲・伯耆・因幡・但馬の五の国の造等を喚(め)したまひき。是の時に、五の国の造、すなはち召しの使もて水手(かこ)と為て、京に向かひき。これをもちて罪と為したまひ、すなはち播磨の国に退ひて、田を作らしめたまふ。(餝摩郡餝摩御宅) 冑岡は、伊与都比古(いよつひこ)の神と宇知賀久牟豊富(うちかくむとよほ)の命と、相闘ひし時に、冑、この岡に堕ちき。故れ、冑岡と曰ふ。(神前郡冑岡) 中播磨の地域紹介へ 史跡・寺院・文化財 伝統行事、歳時記 播州地方の方言 伝統工芸 肥前国風土記
肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記である。
成立年代については郷里制が行政区域として採用されていること、軍事面に関する記事についても詳細に記されていることから、天平3年(732年)の節度使設置以後、同11年(740年)の郷里制廃止以前に限定する見解が有力とされているが、確証はない。豊後国風土記との共通点が多いことから、大宰府が主導して管下の各令制国において同時期に編纂されたとする見方もある 風土記において主要部とされている国名や郡名の由来については簡略に記されているに過ぎず、現存の本を簡略版とする見方が有力視されている。 景行天皇や神功皇后の伝説と密接な関係にある説話や土蜘蛛・女性賊長にまつわる説話が多く記載されているのも特徴である。 『日本書紀』などの先行史料の影響を強く受けている記述がある。鎌倉時代に書写されたと考えられている猪熊家伝来の本は国宝の指定を受けている。 吉野ヶ里遺跡 肥前国分寺の跡を見て沈んだ心を立て直すべく、吉野ケ里遺跡に足を運んだ。 昭和61年(1986)偶然に見つかった弥生遺跡は、その後の発掘調査が進むにつれて、『魏志倭人伝』に記された卑弥呼の国を彷彿とさせるような、巨大な環濠集落であることが明らかになってきた。環濠で囲まれた集落全体は40ヘクタール(12万坪)にも及ぶ広大なもので、V字型に掘られた外濠の深さは、3.5メートル、幅は5〜6メートル。堀の外側に土塁を積み上げ、その上に木の柵を巡らしている。 肥前国府から国分寺を通り、この吉野ヶ里から筑後国府まで、一直線に古代の官道が走っていた。さらに筑後国府から北に折れ太宰府までが一直線上に並ぶ。古代人の主要官道上に、この遺跡が存在することは、弥生時代以降も発展を続け、文化や軍事の一大拠点だったことを思わせる。 太宰府・肥前国府・筑後国府と吉野ケ里遺跡の位置関係 常陸国風土記常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与していると言われている。 常陸国は、大化改新(645年)の頃に誕生し、現在の石岡市に国府と国分寺が置かれた。その下に新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれた。 本書における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。 「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」 「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」 又、常陸国風土記が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。 豊後国風土記豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された豊後国(現在の大分県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つ。概要 『豊後国風土記』の正確な成立年代は不詳であるが、『日本書紀』中の景行紀とほぼ一致する記事が含まれること等から、720年以降で、遅くとも740年頃までの間であると考えられる。また、編者も不詳であるが、太宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として太宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10か月ほどで完成させたともいわれる。 文献としての体裁を保つ数少ない風土記の1つであり、その存在は『出雲国風土記』とともに近世以降確認されていた。しかし、現存する写本は、巻首と各郡首はそろっているものの、他は欠落した部分が多い。そのため、主に抄本と考えられ、文の量も現存するうちでは最も少ない。また、抄本であること、『日本書紀』の記述と一致する記事が含まれること等から、後世の偽撰とする説がある。 構成と内容 巻首には国名の由来が記載され、それに続いて、日田、玖珠、直入、大野、海部、大分、速見、国埼の各郡の名前の由来及び各地の伝承等が記載されている。地名はその由来を景行天皇の九州巡幸に求めたものが多い。また土蜘蛛の記述を多く含むことも大きな特徴と言える。 国名の由来 景行天皇の命で国を治めていた菟名手(うなで)が豊前国仲津郡(現在の大分県中津市)を訪れたところ、白鳥が飛来し、はじめは餅に化し、その後、冬にもかかわらず何千株もの芋草(里芋)に化して茂った。菟名手がこれを天皇に報告したところ、天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を「豊国」と名付けた。これが後に二つの国に分かれて豊後となった。 郡とその名前の由来
なお、各郡の読みは、『和名類聚抄』に記載された読みを現代仮名遣いで表記したものである。
風土記
古風土記奈良時代の初め、713年(和銅6)5月、元明天皇は諸国に風土記(ふどき)の編纂を命じた(この時点では風土記という名称は用いられていない)。官撰の地誌。詔により撰進したのは各国国庁。漢文体を主体とした文体で書かれた。 『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、
が挙げられている。 完全に現存するものはないが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。 各国の風土記畿内東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道外部リンク
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