葉隠聞書 |
葉隠聞書 |
葉隠聞書 |
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『葉隠』は、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」(巻一・2)という一文によって知られ、 この一文によって「日本武道第一の書」(栗原荒野『校註葉隠』解説 昭和15年刊)、あるいは「どこを切っても、鮮血のほとばしるやうな本」(古川哲史 岩波文庫『葉隠』解説 昭和32年刊)と 評されてきた本であることは周知のとおりである。だが、『葉隠』の説く「武士道」が、武闘を意味する「武道」だけをいうのではなく、「奉公」、即ち「日々の勤め」をも含めて問題としたものであること、また、「死ぬ事」という言葉も、実際に命を断つことではなく、「心組(こころぐみ)」、つまり、「心の持ち様」を説いたものであることに注意したいのである。 『葉隠』が、平和時における侍の、人間としての心の持ち様を説いた本であったということになれば、人間いかに生きるべきかを問い求めている現代人にとっても、大いに資するところのある本だというべきであろう。 この『葉隠』が、江戸時代から明治末年まで広く読まれたことは、多くの写本が残されていることに端的に示されており、現存する写本の数は、四十点を越えるだろうといわれている。いま紹介している佐賀大学の小城鍋島文庫にも、この九冊本以外に六巻四冊(巻一・二、七・ 八、十一欠)の水町本、また一冊本の『葉隠抜書』があって、小城藩においても、やはりよく読まれていたことが知られるのである。
武士道といふは、死ぬことと見付けたり。 |
江戸中期の武士道書。十一巻。享保元年(1716)成立。正しくは『葉隠聞書(はがくれききがき)』。 肥前(佐賀)鍋島氏の家臣山本常朝(じょうちょう)(1659〜1719)の談話を門人の田代陳基(のぶとも)が採録したもの。なお、「常朝(じょうちょう)」とは四十二歳での出家以後の訓(よ)み、出家以前は「常朝(つねとも)」と訓んだ。 第一巻、第二巻は常朝自身の教訓、第三巻から第五巻は鍋島直茂、勝茂、光茂など佐賀藩主の言行、第六巻から第九巻までは佐賀藩のことと佐賀藩士の言行、第十巻は他国の武士の言行など、第十一巻は前十巻の補遺という構成になっている。 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句はとくに有名。別名『鍋島(なべしま)論語』。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかりなり。別に仔細(しさい)なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風(かみがたふう)の打ち上(あが)りたる武道なるべし。(聞書第一)人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候。(聞書第一) 幻(げん)はマボロシと訓(よ)むなり。天竺(てんじく)にては術師の事を幻出師(げんしゅつし)と云ふ。世界は皆からくり人形なり。幻の字を用ひるなり。(聞書第一) ……「喰ふか喰ふまいかと思ふものは喰はぬがよし、死なうか生きようかと思ふ時は死したがよし」と仕り候。(聞書第一) 大酒(たいしゅ)にて後れを取りたる人数多(あまた)なり。別して残念の事なり。(聞書第一) 芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。(聞書第一) ……武士道に於(おい)ては死狂ひなり。(聞書第一) 少し理屈などを合点したる者は、やがて高慢して、一ふり者と云はれては悦び、我今の世間に合はぬ生れつきなどと云ひて、我が上あらじと思ふは、天罰あるべきなり。(聞書第一) 若き内に立身して御用に立つは、のうぢなきものなり。発明の生れつきにても、器量熟せず、人も請け取らぬなり。五十ばかりより、そろそろ仕上げたるがよきなり。その内は諸人の目に立身遅きと思ふ程なるが、のうぢあるなり。(聞書第一)
義経(ぎけい)軍歌に、「大将は人に言葉をよくかけよ」とあり。(聞書第一)
……恋の至極は忍恋と見立て候。蓬ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死(じに)する事こそ恋の本意なれ。(聞書第二) 端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。(聞書第二) 人間一生誠に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚(おろか)なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり。(聞書第二) 少し眼見え候者は、我が長(た)けを知り、非を知りたると思ふゆゑ、猶(なほ)々自慢になるものなり。実に我が長け、我が非を知る事成り難きものの由。海音(かいおん)和尚御咄(おんはなし)なり。(聞書第二) 徳ある人は、胸中にゆるりとしたる所がありて、物毎いそがしきことなし。小人は、静かなる所なく当り合ひ候て、がたつき廻り候なり。(聞書第二) 兼好・西行などは、腰ぬけ、すくたれ者なり。武士業(わざ)がならぬ故、抜け風をこしらへたるものなり。(聞書第二) 直茂公、「当時気味よき事は、必ず後に悔む事あるものなり」と、御意(ぎょい)なされ候由。(聞書第三) 勝茂公兼々御意なされ候には、奉公人は四通りあるものなり。急だらり、だらり急、急々、だらりだらりなり。(聞書第四)
大行(たいこう)は細瑾(さいきん)をかへりみずと云ふことあり。(聞書第十一)
古典文学ガイドより
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[山本常朝とは]
江戸元禄年間の佐賀藩士。万治二年(1659)、代々鍋島家忠臣の家、山本神右衛門重澄の末子として生まれる。重澄七十歳の子である。生まれながら病弱で、父親は塩売りの子にでもくれてやろうとしたが、組頭に留められ松亀と名付けられ育てられた。九歳で藩主光茂付きの小僧として召し出され、名を不携と変える。十三歳で市十と改名、小姓役となる。二十歳で元服、権之丞と改め、御書物役手伝いを勤めた。その後、主君に一時役目を解かれ奉公を離れる。この頃、高名な儒者石田一鼎、鍋島菩提寺 高伝寺住持の湛然和尚等と親交を深め薫陶を受ける。二十八歳で再び召し出され、江戸書写物御用、京都詰緒書物役を勤めることとなる。
元禄十三年(1700)、藩主依頼の「古今伝授」を京都から佐賀の光茂へともたらす。が、光茂はこれを拝受した後、十五日で他界。常朝は主君逝去とともに剃髪して出家。以降、金立山黒土原に隠棲する。
十年後の宝永七年、葉隠筆録者、田代陣基の訪問を受ける。その後、約七年間にわたり陣基に、葉隠の原話を語って聞かせ、享保元年(1716)頃完成をみる。享保四年、六十一歳にて生涯を終える。戦のない太平の世に、古き鍋島侍の矜持を守り、「葉隠武士道」を身をもって貫いた一生であった。
[葉隠とは]
葉隠は、今から約290年前、佐賀藩士山本神右衛門常朝の物語を同藩士田代陣基が筆録・編纂した聞書体裁の佐賀鍋島武士道語録である。聞書の内容は、武士として鍋島藩士としてのあるべき姿、心構えをまず説いたものであり、歴代の藩主、鍋島侍、僧から町人にいたるまで広汎な人々の言行録を膨大な説話として収録したものである。
「武士道というは死ぬことと見つけたり」で有名なように、その激烈な論調でとかく異端視、誤解されやすい書物ではあるが、戦もなく太平の世にて戦国侍の気風が失われつつあった当時にあって、これを嘆き正しい奉公人、侍の姿を真摯に追い求めた武士道の聖典といわれる歴史的名著である。
その今日的意味はどうであろう。本文中にたびたび出る「奉公」「追腹」を、「会社勤め」「退職」と読み換えれば、そのまま現代日本の閉塞的状況を言い表しているようなリアルな視点を感じさせる。常朝がいいたかったのは、ただ嘆き告発することではなく、こうした状況をものともせず、鍋島武士としていかに恥を忘れず剛の者として生きていけばいいのか、ということだと思う。
葉隠は、全十一巻、総項目数1,299話の膨大な書物である。ただ、短いエピソードが、それほど強い関連もなく構成されているため、どこからどのように読んでも構わないようになっている。つまり評論家はわが得意の分野のみピックアップして批評を加えるため、三島由紀夫をはじめとしていかに歪曲、換骨堕胎された私葉隠論の多いことか。現在出ている現代語訳も聞書一、二の教訓部分のみを選択した「抄」がほとんどである。本文量の多さも忘れ、あっという間に読了してしまう物語的な面白さに満ち溢れた本である。誤った葉隠感を持たぬためにもぜひ、当現代語完訳を通読されることをおすすめする。
巻頭の「夜陰の閑談」を序章とし、以下十一巻の各内容。
聞書第一 教訓
聞書第二 教訓
聞書第三 鍋島藩祖、鍋島直茂の言行録、逸話。
聞書第四 初代藩主、鍋島勝茂と、嫡男忠直の言行録、逸話。
聞書第五 二代藩主、鍋島光茂、三代綱茂、従弟直之と姫達の言行録、逸話。
聞書第六 鍋島藩士の逸話と古来よりのお国ぶりについて。
聞書第七 鍋島国侍の武勇と奉公について。
聞書第八 鍋島国侍の武勇と奉公について。
聞書第九 鍋島国侍の武勇と奉公について。
聞書第十 他藩、他家の由緒、批評。
聞書第十一 以上十巻にもれた内容の雑録・補遺。
『葉隠 現代語全文完訳』著者:山本常朝、田代陣基著 水野聡訳(出版社:能文社)
「葉隠」(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録である。全11巻。葉可久礼とも書く。
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。明治中期以降、新渡戸稲造によりアメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、当時の大和魂など精神主義の風潮が高まると再評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。二人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳の事という。
浮世から何里あらうか山桜 常朝
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と曲解されあるいは解釈されている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決の一根拠だった事実もあり、戦後は「軍国主義を推奨」と評されたこともある。現在でも左翼系の文化人などに、このような解釈をする者が認められる。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の中には嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、あくびをしないようにする方法等、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、近代人が勝手に想像している『武士道』とはかけ離れた内容もある。 戦後、軍国主義的書物と云う誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。
なお、戦後も葉隠を愛好した文学者に純文学の三島由紀夫、大衆文学の隆慶一郎がおり、二人ともそれに取材した作品を書いている。三島の『葉隠入門』、隆の『死ぬことと見つけたり』(いづれも新潮文庫)である。両作品は葉隠の入門書としても知られている(ただ、三島の葉隠に対する捉え方には問題があるという葉隠研究家からの指摘もある)。