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性霊集( http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/115/ ) 奈良女子大学 坂本龍門文庫( http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/ ) 性霊集10巻.(1)性霊集10巻.(2)性霊集10巻.(3)性霊集10巻.(4)性霊集10巻.(5)
性霊集 10巻の解題 真言宗の開祖空海(弘法大師。774-835)の漢詩文集。弟子真済の編で、空海在世中に成立。ただし、巻8-10は早く失われ、現行のものは承暦3年(1079)の後補。開版の最初は鎌倉時代の高野版で、古活字版も数種ある。掲出本は巻第1、2に朱・墨の訓点、振り仮名などの書入れが多い。巻3及び4の前半にも墨書訓点がある。原表紙に「天海蔵」黒印、「下野」墨書。各冊首に印記「天海蔵」(慈眼大師天海。1536?-1643)、「松本氏図書印」(札差・蔵書家松本幸彦、号月痴。生没年未詳)、「俳諧書二酉精舎第一主萩原乙彦記」「避険危斎蔵書」(俳人・戯作者萩原乙彦。1826-86)、「榊原家蔵」(国学者榊原芳野。1832-81)。第1冊首、第5冊末に「勝鹿文庫」(松本幸彦)。
◎弘法大師 空海全集3巻(筑摩書房)・日本古典文学大系 71(岩波書店)
・性霊集. 巻第5−7 空海 著(出版者 森江佐七)【為大使與福州観察使書】、 ・国会図書近代デジタルライブラリー

遍照発揮性霊集

『性霊集』(しょうりょうしゅう)
は、空海(弘法大師)の漢詩文集。10巻。編者は弟子真済。成立年不詳。

概要
正しくは『遍照発揮性霊集』(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)。空海の詩、碑銘、上表文、啓、願文などを弟子の真済(しんぜい)が集成したもので、10巻からなる。正確な成立年は不明だが、遅くとも空海が没した承和2年(835年)をさほど下らない時期までに成立したとみられ、日本人の個人文集としては最古。10巻のうち巻八~巻十の3巻ははやくに散逸し、現『性霊集』の巻八~巻十には、承暦3年(1079年)、仁和寺の済暹が空海の遺文を収集して編んだ『続遍照発揮性霊集補闕鈔』3巻が充てられている。なお、済暹の『補闕鈔』は、散逸した巻八~巻十そのものの復元を図ったものではないし、後世の偽作と今日では判定されている作品もいくつか含んでいる。

編纂
『性霊集』の序文によれば、真済は、師空海が一切草稿を作らず、その場で書き写しておかなければ作品が失われてしまうため、空海作品を後世に伝えるべく、自ら傍らに侍して書き写し、紙数にして約500枚に及ぶ作品を収集した。そして、これに唐の人々が師とやりとりした作品から秀逸なものを選んで加え、『性霊集』10巻を編んだという。一般的には、『性霊集』の編纂過程は、この序文の内容に即して理解されている。
しかしながら、真済が15歳で出家し空海に弟子入りしたのは 弘仁5年(814年)なのに、入唐時などそれ以前の作品も『性霊集』に多数収録されている。序文には、真済が書写する以前の作品がどのように収集されたのか、説明されていない。
飯島太千雄は、空海が入唐時から、将来の文集編纂を企図して自らの作品の写しを取っていたほか、個々の作品に表題を付して10巻に編む最終的な編纂作業にも関与していたと推定している。巻五の収録作品と同じものが単体の巻子本として伝存する「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」は、筆跡などから空海真跡の控文と判定でき、さらに余白に付された表題も空海真跡とみられ、最終的な編纂作業に空海が関与していたことが窺えるという。[1]
空海は24歳のときに著した処女作『聾瞽指帰』の序文で、従来の中国と日本の文学を痛烈に批判し、文学における芸術性と真理の両立を理想として掲げている。そして、その文学改革の志は、『性霊集』巻一の冒頭「山に遊んで仙を慕ふ詩」の序でも表明されている。文学の改革者たらんとしていた空海が、自らの作品を後世に残そうとしなかったはずがないし、収録作品の選択や配列といった最終的な編纂作業に、空海が関与していた可 能性も十分考えられよう。

成立
『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代の明らかな作品で最も新しいのは、天長5年(828年)2月27日[2]の「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」(巻三)である。弘仁14年1月20日の日付をもつ「酒人内公主の為の遺言」(巻四)を、酒人内親王が没した天長6年8月のものとし、これを下限とする説もある。いずれにせよ、『性霊集』は年代順でなく作品の種類別に編集されているので、失われた巻八~巻十により年代の新しいものがあった可能性は乏しく、天長5、6年が下限と見られる。それが想定できる成立年代の上限となる。
成立年代をめぐる主な説は以下のとおり。
天長7年11月~9年3月の間[3]

『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。 天長9年から承和2年3月の間で空海在世中[4]
序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降[5]とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。 承和2年3月の空海入滅直後[6]
序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。
補注
1.^ 飯島太千雄「空海真跡の控文の出現で判明した『性霊集』の成立事情」(『密教文化』149号、1985年)
2.^ 『日本紀略』天長5年2月27日条による。
3.^ 飯島氏前掲論文
4.^ 渡辺照宏・宮坂宥勝校注『三教指帰・性霊集』解説(岩波書店、1965年)
5.^ この点に関して飯島氏は、天長9年は空海から高雄山を譲られた年であり、それ以前から真済は高雄山に住していたので不当とする
6.^ 勝又俊教「遍照発揮性霊集と高野雑筆集」(『豊山教学大会紀要』2、1974年)、『定本弘法大師全集』第8巻(密教文化研究所、1996年)の『性霊集』解説。



空海の詩文に読む「生命の秩序」

Ⅰさとりと福祉
此の法は
即ち仏(ぶつ)の心(しん)
国の鎮(ちん)なり。
氛(ふん)をはらい
祉(さいわ)いを招くの摩尼(まに)
凡(ぼん)を脱(まぬ)がれ聖に入るのキョ径(きょけい)なり。

(性霊集 巻第五)
<現代語訳>
わたくし空海が修得した仏法(密教)は
ブッダの教えの本質であり
この教えこそが国を鎮護する。
また、あらゆる災いを取りはらい
人びとの福祉を増進させ
凡夫のさとりを可能にするものである。

 空海がその生涯において創作した詩文をまとめたものが『遍照(へんじょう)発揮性霊(しょうりょう)集』である。遍照とは空海の灌頂(かんじょう)名であり、いのちのもつ無垢なる知の光りが世界を遍く照らすという梵語「ビルシャナ」の訳語。大日如来のことを指す。知の光りが発揮されたまことの心の詩文集という意味。  その性霊集の巻第五の「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」の一節である。
 中国に渡った空海は、留学一年目の春に長安の醴泉寺(れいせんじ)にいたインド僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)と牟尼室利(むにしり)三蔵から、まず、外国語(日本にいたときに、中国語は会話・文章力ともすでに身に付け、梵語もその基本をマスターしていたから、ここではインド伝来の密教をくまなく理解、修得するための梵語、すなわちサンスクリット)の実践語学力とバラモン哲学を学び、その熟達度を通して、聡明さと本人のもつその稀有な宗教的器量が認められて、青龍寺の恵果(けいか:密教第七祖)和尚からは、初夏から初秋にかけて、『大日経』と『金剛頂経』双方の教えと儀軌(ぎき)のすべてを伝授されることになった。  こうして、短期間のうちに密教の正式な相承者になった空海は、秋には、未だ日本に伝えられていなかった多くの経典を寝食を忘れて読み、書写し、その意味を学び記し、また、世界の本質を示す、胎蔵と金剛界の大曼荼羅を描き、新仏法請来のための資料づくり作業に入ることになる。  だが、恵果和尚がその年の暮れに、「早く郷国に帰って、もって国家を奉り、天下に流布して蒼生(そうせい:民衆)の福(さいわい)を増せ」と空海に遺言して入滅してしまった。  恵果の死によってインド伝来の密教第八祖になった空海は、郷国に帰って、一刻も早く師匠の命(めい)を果たさなければならないという使命を担うことになったのだ。  そうした折に、たまたま新皇帝即位のお祝いにやって来た日本国の使節が長安に入った。そこで、空海は二十年の留学期間を短縮して二年で帰国できるように申請書をもって願い出る。(そうして、空海は首尾よく帰国する船に乗ることになるー)  その帰国申請書の文面に、授かった新仏法の意義を端的に綴った一節である。
 さて、文面によると、空海の修得した最新の仏法(密教)では「人びとの福祉を増進させるということと、自己のもついのちの無垢なる知に目覚めることとは同じである」と説いているとある。  どのような理由でそうなるのか、そのことについての高木さんは、おおよそ次のような見解を述べられている。
 「わたくしの心(主体知)、そうして衆生の心(客体知)、そうして絶対者である仏の心(すべてのいのちが生まれながらにしてもつ無垢なる知、すなわち絶対知)、この三つの心はですね、本質的、本来的に、絶対に平等であるという考え方です。人間も石も木も草も、つまり自然界全部を含めたあらゆる存在は、本来的には一体であり、すべては尊厳なるいのちのもつ無垢なる知を共にしているという考え方。この考え方が基本となって「即身成仏(そくしんじょうぶつ:この身を含め、生きとし生けるものと自然界は、そのままにしていのちが共通してもつ無垢なる知によって繋がっているとさとること)」が可能になるのです。そのような「即身成仏」の理念によって、仏の心を発揮するというのが仏法の本質ですから、社会的な関わりにおいて、すべてのものの福祉(さいわい)を増すという、そういうはたらきが必ず出てくる」と。  その福祉の精神にもとづく社会事業の具体的な例が、空海の行なった万濃池(まんのういけ)の修築であり、教育の機会均等を実現した「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」という私立の大学の創設であるとも。

Ⅱ共生きる知(五智)
弟子空海
性熏(しょうくん)我れを勧(すす)めて
還源(げんげん)を思いとす。
経路(けいろ)未だ知らず
岐(ちまた)に臨(のぞ)んで幾たびか泣く。
精誠感(せいせいかん)ありて
此の秘門を得たり。
文(ぶん)に臨(のぞ)んで心昏(しんくら)く
赤県(せっけん)を尋(たず)ねんことを願う。

(性霊集 巻第七)
<現代語訳>
弟子であるわたくし空海は
自分に具(そな)わる仏性をはげまし
すべての知の根源に至る道を探してきた。
しかし、その求める道が見い出せずに
道にさ迷い、幾たび泣いたことか。
するとわたくしのまことの心が通じて
『大日経』の経典に出会った。
しかし、その教えを学ぶには高度の梵語力と儀軌の修得が不可欠であったので
中国に留学することを決意した。

 性霊集の巻第七の「四恩(しおん)の奉為(おんため)に二部の大曼荼羅を造る願文(がんもん)」の一節である。前章で空海の中国留学のことを述べたが、その留学を決意したいきさつを記したものである。  そのように苦労して日本に持ち帰った曼荼羅が描かれてから十八年を過ぎて、絹破れ、彩色落ち、諸尊図も擦れてきた。そこで多くの人びとの心を合わせて、修復することになった。  その完成時の願文である。
 (因みに、この願文の後半に次のような一節がある。「身分高き者も、賎しき者も、僧も俗人も財を喜捨し、労力をささげるはたらきを為し、ある者は筆をとって描き、ある者は針をとって表装を手伝い、木を切り、水を汲み、食事の用意をし、味をととのえた者も、すべての人びとが心からよろこび、手を合わせ、祈る」と。ここに、無垢なる知によって仏法に仕える民衆のすがたがあるー)

修行の人
すべからく本源を
了すべし。
もし本源を了ぜんずば
学法に益なし。
いわゆる本源とは
自性清浄の心なり。

(一切経開題)
<現代語訳>
道を求め修行する人は
かならず、知の根本を
求めるべきである。
もし、知の根本を求めなければ
いくら学問をやっても役に立たない。
その知の根本とは
すべてのいのちが生まれながらに具(そな)えもつ無垢なる知のことである。

 一切経開題の「一切経」とは、初期仏教経典である阿含経をはじめ、後代の大乗経典、それに律蔵と論蔵という、膨大なテキストを集めた仏典の総称である。したがって、それらの仏典を集約して解説したものが当開題となるが、その中の一節である。  本源というのは、本来のありようのことであり、それを求めるのが道であり、その真実を求めないのであれば、いくら学問をやってもそれは益のないことだと説く。では、その本源の特質とは何なのか、それが自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)であるという。  自性とは、因縁を越えてもとから具わっている本性のことであり、その本性はもともと清浄なるものなのであると。  それが無垢なる知なのである。

三昧(さんまい)の法仏(ほうぶつ)は
本(もと)より我が心(しん)に具(ぐ)し
二諦(にたい)の真俗(しんぞく)は
倶(とも)に是常住(これじょうじゅう)なり
禽獣(きんじゅう)卉木(きもく)は
皆是れ法音(ほうおん)なり

(性霊集 巻第三)
<現代語訳>
すべてのいのちが生まれながらにしてもつ無垢なる知が
わが心にも具(そな)わっているように
真実の世界と現実の世界は
一つになって常に存在している
(そのことと同じように)鳥獣草木の自然の声は
すべて、いのちのもつ無垢なる知の言葉である
(その言葉がわが心の中にもある)

 性霊集の巻第三の「中寿感興の詩」の序の一節である。中寿とは四十歳の節目を祝う当時の習わしであり、空海はその感想を次のような詩にして各方面に送っている。

黄葉索山野 黄葉山野に索(つ)くるも 
蒼蒼豈始終 蒼蒼(そうそう)豈(あに)始終あらんや
嗟余五八歳 嗟(ああ)余五八の歳 
長夜念圓融 長夜に円融を念(おも)う
浮雲何處出 浮雲何(いづ)れの処よりか出づ 
本是浄虚空 本(もと)是れ浄らかな虚空
欲談一心趣 一心の趣を談ぜんと欲すれば 
三曜朗天中 三曜天中に朗(あき)らかなり

<現代語訳>
黄に色づいた葉が山野に散り果てても
青い天空には始まりもなければ終わりもない
ああ、わたくしは四十の歳
秋の夜長に執着のない円満で融通無礙なる自然を想う
浮き雲はどこから現われたのか
本来は清らかな虚空なのに
今のわたくしの心境を語るとすれば
日と月と星がくっきりと輝く、澄み切った天空のようだ

 以上のような詩の序文に綴られたのが、「鳥獣草木の自然の声」とその奥にある「いのちのもつ無垢なる知の言葉」を説く一節である。  ここに説かれたいのちのもつ無垢なる知が、密教の説く「五智(ごち)」であり、その五智そのものの象徴が大日如来となり、法身(ほっしん)仏となった。その法身の声、あるいは法身の言葉が法音である。  その言葉が、本来わが心にも具わっているし、鳥獣草木にも具わっているという。
 では、「五智」とは何を指すのか、それを空海は以下のように分類して説く。その分類と今日の科学者の説く、生物学的な知の分類は限りなく近い。

 一、法界体性智(ほっかいたいしょうち):いのちの存在そのものを司る「生命知」
 二、大円鏡智(だいえんきょうち):生きる根幹となる呼吸・睡眠・情動を司る「生活知」
 三、平等性智(びょうどうしょうち):衣食住の生産とそれらの相互扶助を司る「創造知」
 四、妙観察智(みょうかんざっち):万象の観察・記憶・編集を司る「学習知」
 五、成所作智(じょうそさち):姿勢・運動・作業・所作・遊びを司る「身体知」

 以上の五つの知が、いのちが生まれながらに具えもつ無垢なる知なのであると。 これらの知をもつものが共に生きることによって、自然界が保たれている。

Ⅲ共に生きるいのちのすがた(法身)

法身(ほっしん)何(いず)くにか在る
遠からずして
即ち身(しん)なり。
智体(ちたい)何(いか)ん
我が心にして
甚(はなは)だ近し。

(性霊集 巻第七)
<現代語訳>
いのちのありのままのすがたを象徴するビルシャナ如来は何処におられるのか
それは遠き彼方ではなく
わが身体の中におられる。
その如来の示されるいのちの無垢なる知は、なんと
わが心の中にあり
とても近い。

 性霊集の巻第七の「平城の東大寺にして三宝(さんぽう)を供する願文」の初めの一節である。  「仏弟子の修行僧なる者、仏(いのちの無垢なる知のすがた)と法(いのちの無垢なる知)と僧(その無垢なる知にしたがって生きることを実践する共同体の人びと)の三宝に深く帰依します」の後につづくー  ここでいう法身とは東大寺のビルシャナ(梵語:光明遍照と訳す)如来を指す。
 ビルシャナ如来とは大日如来のことであり、その詳名は、
 「常住(じょうじゅう)三世(さんぜ)浄妙(じょうみょう)法身(ほっしん)法界体性智(ほっかいたいしょうち)大ビルシャナ自受用(じじゅゆう)仏」という。  すなわち、永久に過去・現在・未来にわたる存在であって、浄らかにして妙(たえ)なる法身、それはいのちそのものの存在を司る生命知であり、その知によってすべてのいのちのありのままのすがたが地上に顕われているが、その絶対的ないのちの象徴としての尊格がビルシャナである。  つまり、法身とは「すべてのいのちが共に生きるために、生まれながらに具えもつ無垢なる五つの知(五智)のはたらき」によって顕われる、いのちのすがたである。  このすがたを、空海は「五智」よりなる「四種法身(ししゅほっしん)」として説き、それは、今日の科学者の説く、生物の分類要素に似ている。

 一、自性(じしょう)法身:あらゆるもののそれ自体の本性となる、無垢なる知を発揮するいのちの存在そのもの。(そのいのちが次のようなすがたを顕わしている)
 二、受用(じゅゆう)法身:個体としてのすがた。
 三、変化(へんげ)法身:遺伝の法則によって変化していく個体のすがた。
 四、等流(とうる)法身:多様な種のすがた。
 以上の四種によって、いのちはそれぞれのさまざまなすがたかたちを顕わし、共に生きている。そのありのままのいのちの存在が「法身」なのである。

Ⅳ心と自然と言葉

乾坤(けんこん)は
経籍(けいせき)の箱なり
万象(ばんしょう)、一点に含む。

(性霊集 巻第一)
<現代語訳>
世界は
いのちのもつ無垢なる知が言葉となって綴る本箱
万象といえども、一点の言葉「ア」から出て、また、そこに帰っていく。

 性霊集の巻第一の「山に遊びて仙を慕う」の詩の一節である。
 空海が遊仙詩に託して大道を説いたものであり、その序文において、仏道の世界を指し示すとともに、俗世間の煩わしさを悲しみ、自然界に無常の思いを託そうとしたとある。  その中で、自分は山に入って自然の声を聞く、その声とはいのちのもつ無垢なる知の言葉であり、その言葉によって世界が分別され、それらに名まえが付けられたから、世界が生まれた。  その言葉、もしくは文字のすべては、「ア」の一点に帰っていく。
 つまり、言葉が先にあったのではなく、いのちのもつ無垢なる知が先にあって言葉が出てきたし、その言葉そのものは、自然の声のひびき「ア」の一点から始まったということを述べている。

夫(そ)れ境(きょう)は
心(しん)に随(したが)って変ず。
心垢(けが)れれば
即ち境濁(にご)る。
心は境を逐(お)って移る。
境閑(しずか)なれば
即ち心朗(ほが)らかなり。
心境冥会(しんきょうみょうえ)して
道徳玄(はるか)に存す。

(性霊集 巻第二)
<現代語訳>
自然環境というものは
心にしたがって変わるものなのだ。
心が汚れていれば
環境は濁るし
その濁った環境に心は引きずられる。
環境が閑(しずか)であれば
心は朗らかになり、澄んでくる。
(そのように)心と自然環境が奥深く結びついているから
いのちのもつ無垢なる知と、そのはたらきである徳とが存在することになる。

 性霊集の巻第二の「沙門勝道(しゃもんしょうどう)山水を歴(へ)て玄珠(げんしゅ)をみがくの碑」の序の一節である。
 勝道上人の日光開山の登山記を知人から頼まれ、空海が執筆したものであるが、その出だしに上記のような明解な環境論を展開している。
 このような思想は、山林修行者の心境からでしか生まれないものであり、空海自身が若き日に、山のやぶを家とし、瞑想を心として、山林に入り修行したということを述べているから、心と自然環境と関わりを空海は熟知していたのだ。  だから、本文において、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できた。そこには、上人と同じ澄んだ目と心をもって、美しい日光山に同行している空海がいたー

Ⅴ生きる行為

   閑林(かんりん)に独坐す
   草堂の暁(あかつき)
   三宝(さんぽう)の声一鳥(いっちょう)に聞く
   一鳥声あり
   人心(ひとこころ)あり
   声心雲水(せいしんうんすい)
   倶(とも)に了々(りょうりょう)

    (性霊集 巻第十)
   <現代語訳>
   閑(しずか)な山林の中の草堂に
   独(ひと)り坐っていると、明けがたのしじまを破って
   ぶっぽうそう(仏法僧*)と啼く、鳥の声が聞こえてきた
   このように、鳥ですら無垢なる知の声を発しているのだから
   人の心に無垢なる知が存在しないことがあるだろうか
   鳥の声と、人の心と、美しい天地
   それらが一体化して、今、ここにある
   *仏と法と僧、これを三宝という。

 性霊集の巻第十の「後夜(ごや)に仏法僧の鳥を聞く」詩。  明けがたに草堂で坐禅をしていると、ぶっぽうそうと啼く鳥の声(客体)を聞いた。その鳥の声に啓発されて、山中に居る自分の心(主体)に気づかされた。その瞬間、主体と客体は一体となり、そこに美しい自然(絶対空間)が広がった。そのような明瞭な心境を詠じたものである。