史 記
『史記(しき)』について
中国最初の紀伝体の通史。二十四史の一つ。前漢の司馬遷著。紀元前91年頃完成。上古の黄帝から前漢の武帝までの歴史を記す。本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻から成る。後世、正史の模範とされた。
『史記』全体に貫かれている思想は「天道是か非か」であると言われている。天の道、すなわちこの世に行われるべき正しき道が本当に存在しているのかどうかということである
目次
五帝本紀第一 ・
楚元王世家第二十 ・
司馬穣苴列伝第四 ・
田単列伝第二十二
五帝本紀(ごていほんぎ)第一
[ 黄帝]
[ 顓頊]
[ 高辛]
[ 堯帝]
[ 舜帝]
[黄帝]
黄帝者、少典之子。姓公孫、名曰軒轅。生而神靈、弱而能言、幼而徇齊、長而敦敏、成而聰明。
「
黄帝は少典の子なり。姓は公孫(こうそん)、名は軒轅(けんえん)という。生まれて神霊(しんれい)、弱(じゃく)にしてよく言い、幼(よう)にして徇斉(じゅんせい)、長じて敦敏(とんびん)、成(ひととな)りて聡明(そうめい)なり。
」
軒轅之時、神農氏世衰。諸侯相侵伐、暴虐百姓。而神農氏弗能征。於是軒轅乃習用干戈、以征不享。諸侯咸來賓從。而蚩尤最爲暴、莫能伐。炎帝欲侵陵諸侯。諸侯咸歸軒轅。軒轅乃修徳振兵、治五氣、蓺五種、撫萬民、度四方、教熊羆貔貅貙虎、以與炎帝戰於阪泉之野。三戰、然後得其志。蚩尤作亂、不用帝命。於是黄帝乃徴師諸侯、與蚩尤戰於涿鹿之野、遂禽殺蚩尤。而諸侯咸尊軒轅為天子。代神農氏。是為黄帝。
「
軒轅(けんえん)のとき、神農氏(しんのうし)の世(よ)衰(おとろ)う。諸侯あい侵(おか)し伐(う)ち、百姓(ひゃくせい)を暴虐(ぼうぎゃく)す。しこうして神農氏征(せい)するあたわず。ここにおいて軒轅(けんえん)すなわち干戈(かんか)を用うることを習い、もって不享(ふきょう)を征(せい)す。諸侯咸(みな)来(きた)りて賓従(ひんじゅう)す。しかして蚩尤(しゆう)もっとも暴をなすも、よく伐(う)つものなし。炎帝(えんてい)諸侯を侵陵(しんりょう)せんと欲す。諸侯みな軒轅(けんえん)に帰す。軒轅(けんえん)すなわち徳を修め兵を振(ととの)え、五気を治め、五種を蓺(う)え、万民を撫(な)で、四方を度(はか)り、熊(ゆう)・羆(ひ)・貔(ひ)・貅(きゅう)・貙(ちゅ)・虎(こ)に教え、もって炎帝と阪泉(はんせん)の野(や)に戦う。三(み)たび戦いて、しかる後(のち)その志を得(う)。蚩尤(しゆう)乱を作(な)し、帝(てい)の命を用いず。ここにおいて黄帝すなわち師を諸侯に徴(ちょう)し、蚩尤(しゆう)と涿鹿(たくろく)の野に戦い、ついに蚩尤を禽殺(きんさつ)す。しこうして諸侯咸(みな)軒轅を尊びて天子となす。神農氏(しんのうし)に代わる。これを黄帝(こうてい)となす。」
天下有不順者、黄帝從而征之、平者去之。披山通道、未嘗寧居。東至于海、登丸山、及岱宗。西至于空桐、登雞頭。南至于江、登熊、湘。北逐葷粥、合符釜山、而邑于涿鹿之阿。遷徙往來無常處、以師兵爲營衞。官名皆以雲命、爲雲師。置左右大監、監于萬國。萬國和、而鬼神山川封禪與爲多焉。獲寶鼎、迎日推筴。舉風后、力牧、常先、大鴻以治民。順天地之紀、幽明之占、死生之説、存亡之難。時播百穀草木、淳化鳥獸蟲蛾、旁羅日月星辰水波土石金玉、勞勤心力耳目、節用水火材物。有土徳之瑞、故號黄帝。
「
天下に順(したが)わざる者あれば、黄帝従ってこれを征し、平(たいら)げばこれを去る。山を披(ひら)きて道を通じ、いまだかつて寧居(ねいきょ)せず。東は海に至り、丸山(がんざん)に登り、岱宗(たいそう)に及ぶ。西は空桐(くうとう)に至り、雞頭(けいとう)に登る。南は江(こう)に至り、熊(ゆう)・湘(しょう)に登る。北は葷粥(くんいく)を逐(お)い、符(ふ)を釜山(ふざん)に合わせて、涿鹿(たくろく)の阿(くま)に邑(ゆう)す。遷徙(せんし)往来して常処(じょうしょ)なく、師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)となす。官の名はみな雲をもって命じ、雲師(うんし)となす。左右(さゆう)大監(たいかん)を置き、万国を監(かん)せしむ。万国和(やわら)ぎ、しこうして鬼神(きしん)山川(さんせん)の封禅(ほうぜん)は与(ゆる)して多(た)なりとなす。宝鼎(ほうてい)を獲(え)、日を迎え筴(さく)を推(お)す。風后(ふうこう)・力牧(りょくぼく)・常先(じょうせん)・大鴻(たいこう)を挙げ、もって民を治めしむ。天地の紀(き)、幽明(ゆうめい)の占(せん)、死生(しせい)の説、存亡(そんぼう)の難に順(したが)う。時に百穀(ひゃっこく)草木を播(し)き、鳥獣蟲蛾(ちゅうが)を淳化(じゅんか)し、日月・星辰・水波・土石・金玉を旁羅(ほうら)し、心力耳目を労勤(ろうきん)し、水火材物を節用(せつよう)す。土徳(どとく)の瑞(ずい)あり、ゆえに黄帝と号(ごう)す。」
黄帝二十五子、其得姓者十四人。黄帝居軒轅之丘、而娶於西陵氏之女、是爲嫘祖。嫘祖爲黄帝正妃、生二子、其後皆有天下。其一曰玄囂、是爲青陽、青陽降居江水。其二曰昌意、降居若水。昌意娶蜀山氏女、曰昌僕、生高陽、高陽有聖悳焉。黄帝崩、葬橋山。其孫昌意之子高陽立、是爲帝顓頊也。
「
黄帝二十五子あり、その姓を得たる者十四人。黄帝、軒轅(けんえん)の丘におりて、西陵氏の女(じょ)を娶(めと)り、これを嫘祖(るいそ)となす。嫘祖(るいそ)は黄帝の正妃(せいひ)たり、二子(にし)を生む、その後(のち)みな天下を有(たも)つ。その一(いつ)を玄囂(げんごう)という、これを青陽(せいよう)となす、青陽は降(くだ)りて江水におる。その二を昌意(しょうい)という、降(くだ)りて若水(じゃくすい)におる。昌意(しょうい)、蜀山氏(しょくざんし)の女(じょ)を娶(めと)る、昌僕(しょうぼく)という、高陽(こうよう)を生む、高陽、聖徳(せいとく)あり。黄帝崩(ほう)ず、橋山(きょうざん)に葬(ほうむ)る。その孫(まご)、昌意の子なる高陽立つ、これを帝(てい)顓頊(せんぎょく)となす。」
[TOP]
[顓頊(せんぎょく)]
帝顓頊高陽者、黄帝之孫而昌意之子也。靜淵以有謀、疏通而知事、養材以任地、載時以象天、依鬼神以制義、治氣以教化、潔誠以祭祀。北至于幽陵、南至于交阯、西至于流沙、東至于蟠木。動靜之物、大小之神、日月所照、莫不砥屬。
「
帝(てい)顓頊(せんぎょく)高陽(こうよう)は、黄帝(こうてい)の孫にして、昌意(しょうい)の子なり。静淵(せいえん)にしてもって謀(はかりごと)あり、疏通(そつう)にして事(こと)を知り、材を養いてもって地に任じ、時を載(おこな)いてもって天に象(かたど)り、鬼神(きしん)に依りてもって義を制し、気を治めてもって教化し、潔誠(けっせい)にしてもって祭祀(さいし)す。北のかた幽陵(ゆうりょう)に至(いた)り、南のかた交阯(こうし)に至り、西のかた流沙(りゅうさ)に至り、東のかた蟠木(はんぼく)に至(いた)る。動静(どうせい)の物、大小の神(かみ)、日月(じつげつ)の照す所、砥属(しぞく)せざるはなし。」
帝顓頊生子、曰窮蝉。顓頊崩。而玄囂之孫高辛立。是爲帝嚳。
「
帝(てい)顓頊(せんぎょく)子を生む、窮蝉(きゅうせん)という。顓頊(せんぎょく)崩(ほう)ず。しこうして玄囂(げんごう)の孫(まご)高辛(こうしん)立つ。これを帝(てい)嚳(こく)となす。」
[TOP]
[高辛(こうしん)]
帝嚳高辛者、黄帝之曾孫也。高辛父曰蟜極、蟜極父曰玄囂、玄囂父曰黄帝。自玄囂與蟜極、皆不得在位、至高辛即帝位。高辛於顓頊爲族子。
「
帝(てい)嚳(こく)高辛(こうしん)は、黄帝の曾孫(そうそん)なり。高辛(こうしん)の父を蟜極(きょうきょく)といい、蟜極(きょうきょく)の父を玄囂(げんごう)といい、玄囂(げんごう)の父を黄帝という。玄囂(げんごう)と蟜極(きょうきょく)とより、みな位(くらい)にあるを得ず、高辛に至りて帝位に即(つ)く。高辛の顓頊(せんぎょく)における族子(ぞくし)たり。」
高辛生而神靈、自言其名。普施利物、不於其身。聰以知遠、明以察微、順天之義、知民之急、仁而威、惠而信、脩身天下服。取地之財而節用之、撫教萬民而利誨之、曆日月而迎送之、明鬼神而敬事之。其色郁郁、其徳嶷嶷。其動也時、其服也士。帝嚳漑執中而徧天下、日月所照、風雨所至、莫不從服。
「
高辛生れて神霊(しんれい)なり、みずからその名を言う。あまねく施(ほどこ)して物を利(り)し、その身においてせず。聡(そう)にしてもって遠きを知り、明(めい)にしてもって微なるを察し、天の義に順(したが)い、民の急を知り、仁にして威(い)あり、恵にして信あり、身を脩(おさ)めて天下服(ふく)す。地(ち)の財(ざい)を取りてこれを節用(せつよう)し、万民を撫教(ぶきょう)してこれを利誨(りかい)し、日月(じつげつ)を暦(れき)にしてこれを迎送(げいそう)し、鬼神を明らかにしてこれに敬事(けいじ)す。その色は郁郁(いくいく)たり、その徳は嶷嶷(ぎょくぎょく)たり。その動くや時(とき)あり、その服や士(し)なり。帝(てい)嚳(こく)、漑(すで)に中(ちゅう)を執(と)りて天下に徧(あまね)く、日月(じつげつ)の照す所、風雨(ふうう)の至る所、従服(じゅうふく)せざるなし。」
帝嚳娶陳鋒氏女、生放勛。娶娵訾氏女、生摯。帝嚳崩、而摯代立。帝摯立、不善。崩。而弟放勳立、是爲帝堯。
「
帝(てい)嚳(こく)、陳鋒氏(ちんほうし)の女(じょ)を娶(めと)り、放勛(ほうくん)を生む。娵訾氏(しゅしし)の女(じょ)を娶(めと)り、摯(し)を生む。帝(てい)嚳(こく)崩(ほう)じて、摯(し)代(かわ)りて立つ。帝(てい)摯(し)立ちて、不善(ふぜん)なり。崩(ほう)ず。しこうして弟(おとうと)放勳(ほうくん)立つ、これを帝(てい)堯(ぎょう)となす。
[TOP]
[堯帝]
帝堯者放勳、其仁如天、其知如神。就之如日、望之如雲。富而不驕、貴而不舒。黄收純衣、彤車乘白馬。能明馴徳、以親九族。九族既睦、便章百姓。百姓昭明、合和萬國。
「
帝(てい)堯(ぎょう)は放勲(ほうくん)、その仁は天のごとく、その知は神(しん)のごとく、これに就(つ)くこと日のごとく、これを望むこと雲(くも)のごとし。富めども驕(おご)らず、貴(たっと)けれども舒(あなど)らず。黄収(こうしゅう)純衣(じゅんい)、彤車(とうしゃ)にして白馬に乗る。よく馴徳(じゅんとく)を明らかにし、もって九族(きゅうぞく)を親しむ。九族すでに睦(むつ)まじくして、百姓(ひゃくせい)を便章(べんしょう)す。百姓昭明(しょうめい)にして、万国を合和(ごうわ)す。
乃命羲、和、敬順昊天、數法日月星辰、敬授民時。分命羲仲、居郁夷、曰暘谷。敬道日出、便程東作。日中、星鳥、以殷中春。其民析、鳥獸字微。
「
すなわち羲(ぎ)、和(か)に命じ、敬(つつし)みて昊天(こうてん)に順(したが)い、日月(じつげつ)星辰(せいしん)を数え法(のっと)り、敬みて民に時を授(さず)けしむ。分(わか)ちて羲仲(ぎちゅう)に命じて、郁夷(いくい)におらしむ、暘谷(ようこく)という。敬(つつし)みて日の出(い)ずるを道(みちび)き、東作(とうさく)を便程(べんてい)す。日(ひ)は中(ちゅう)、星は鳥(ちょう)、もって中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す。その民は析(わか)れ、鳥獣は字微(じび)す。」
申命羲叔、居南交。便程南爲、敬致。日永、星火、以正中夏。其民因、鳥獸希革。申命和仲、居西土、曰昧谷。敬道日入、便程西成。夜中、星虚、以正中秋。其民夷易、鳥獸毛毨。申命和叔、居北方、曰幽都。便在伏物。日短、星昴、以正中冬。其民燠、鳥獸氄毛。歳三百六十六日、以閏月正四時。信飭百官、衆功皆興。
「
申(かさ)ねて羲叔(ぎしゅく)に命じて、南交(なんこう)におらしむ。南為(なんい)を便程(べんてい)し、敬(つつし)みて致す。日は永(なが)く、星は火(か)、もって中夏(ちゅうか)を正(ただ)す。その民は因(よ)り、鳥獣は希革(きかく)す。申(かさ)ねて和仲(わちゅう)に命じて、西土(せいど)におらしむ。昧谷(まいこく)という。敬(つつし)みて日の入(い)るを道(みちび)き、西成(せいせい)を便程(べんてい)。夜(よ)は中(ちゅう)、星は虚(きょ)、もって中秋(ちゅうしゅう)を正(ただ)す。その民は夷易(いい)し、鳥獣は毛毨(もうせん)す。申(かさ)ねて和叔(かしゅく)に命じて、北方(ほくほう)におらしむ。幽都(ゆうと)という。伏物(ふくぶつ)を便在(べんざい)す。日は短く、星は昴(ぼう)、もって中冬(ちゅうとう)を正(ただ)す。その民は燠(あたた)まり、鳥獣は氄毛(じょうもう)す。歳(とし)三百六十六日、閏月(じゅんげつ)をもって四時(しいじ)を正(ただ)す。信(まこと)に百官(ひゃっかん)を飭(ととの)え、衆功(しゅうこう)みな興(おこ)る。」
堯曰、誰可順此事。放齊曰、嗣子丹朱開明。堯曰、吁、頑凶、不用。堯又曰、誰可者。讙兜曰、共工旁聚布功、可用。堯曰、共工善言、其用僻。似恭漫天。不可。堯又曰、嗟、四嶽、湯湯洪水滔天、浩浩懷山襄陵、下民其憂、有能使治者。皆曰、鯀可。堯曰、鯀負命毀族、不可。嶽曰、异哉、試不可用而已。堯於是聽嶽用鯀。九歳功用不成。
「
堯(ぎょう)曰く、たれかこの事(こと)に順(したが)うべき、と。放斉(ほうせい)曰く、嗣子(しし)丹朱(たんしゅ)開明(かいめい)なり、と。堯曰く、吁(ああ)、頑凶(がんきょう)なり、用(もち)いられず、と。堯(ぎょう)また曰く、たれか可なる者ぞ、と。讙兜(かんとう)曰く、共工(きょうこう)は旁(あまね)く聚(あつ)めて功(こう)を布(し)かん、用(もち)うべし、と。堯曰く、共工はよく言えども、その用うるや僻(へき)す。恭(きょう)に似たれども天を漫(あなど)る。不可なり、と。堯(ぎょう)また曰く、嗟(ああ)、四岳(しがく)、湯湯(しょうしょう)たる洪水(こうずい)天に滔(はびこ)り、浩浩(こうこう)として山を懐(つつ)み陵(おか)に襄(のぼ)る、下民それ憂う、よく治めしむる者あらんや、と。みな曰く、鯀可(こんか)なり、と。堯曰く、鯀(こん)は命に負(そむ)き族を毀(やぶ)る、不可なり、と。岳(がく)曰く、异(あ)げんかな、試みて用うべからずんば而(すなわ)ち已(や)めん、と。堯ここにおいて岳(がく)に聴きて鯀(こん)を用(もち)う。九歳まで功用(こうよう)成らず。」
堯曰、嗟、四嶽、朕在位七十載、汝能庸命、踐朕位。嶽應曰、鄙悳、忝帝位。堯曰、悉舉貴戚及疏遠隱匿者。衆皆言於堯曰、有矜在民閒、曰虞舜。堯曰、然、朕聞之。其何如。嶽曰、盲者子。父頑、母嚚、弟傲、能和以孝、烝烝治不至姦。堯曰、吾其試哉。於是堯妻之二女、觀其徳於二女。舜飭下二女於媯汭、如婦禮。堯善之。
「
堯(ぎょう)曰く、嗟(ああ)、四岳(しがく)、朕(われ)、位(くらい)にあること七十載(しちじっさい)、なんじよく命を庸(もち)う、朕(わ)が位を践(ふ)め、と。岳(がく)応(こた)えて曰く、鄙徳(ひとく)なり、帝位を忝(はずか)しめん、と。堯(ぎょう)曰く、ことごとく貴戚(きせき)および疏遠(そえん)隠匿(いんとく)の者を挙(あ)げよ、と。衆みな堯に言いて曰く、矜(やもめ)ありて民間にあり、虞舜(ぐしゅん)という、と。堯曰く、しかり、朕(われ)もこれを聞けり。それいかん。岳曰く、盲者(もうしゃ)の子。父は頑(がん)に、母は嚚(ぎん)に、弟は傲(ごう)なるも、よく和(やわら)ぐるに孝をもってし、烝烝(じょうじょう)として治めて姦(かん)に至(いた)らしめず、と。堯(ぎょう)曰く、われ、それ試(こころ)みんかな、と。ここにおいて堯はこれに二女(にじょ)を妻(めあわ)せ、その徳の二女におけるを観(み)る。舜(しゅん)、二女を媯汭(きぜい)に飭(ととの)え下し、婦(ふ)の礼のごとくす。堯、これを善(よ)みす。」
乃使舜慎和五典、五典能從。乃徧入百官、百官時序、賓於四門、四門穆穆、諸侯遠方賓客皆敬。堯使舜入山林川澤、暴風雷雨、舜行不迷。堯以爲聖、召舜曰、女謀事至、而言可績三年矣。女登帝位。舜讓於徳、不懌。正月上日、舜受終於文祖。文祖者堯大祖也。於是帝堯老、命舜攝行天子之政、以觀天命。
「
すなわち舜(しゅん)をして慎(つつし)みて五典(ごてん)を和(やわら)げしむ、五典よく従う。すなわち徧(あまね)く百官(ひゃっかん)に入(い)らしむ、百官時(こ)れ序(じょ)し、四門に賓(ひん)せしむ、四門穆穆(ぼくぼく)たり、諸侯、遠方の賓客(ひんかく)、みな敬す。堯、舜をして山林・川沢(せんたく)に入らしむ、暴風・雷雨にも、舜行(ゆ)きて迷わず。堯もって聖となす、舜を召して曰く、女(なんじ)、事を謀ること至れり、しこうして言(げん)、績(せき)とすべきこと三年。女(なんじ)、帝位に登れ、と。舜、徳に譲り、懌(よろこ)ばず。正月上日(じょうじつ)、舜、終(おわり)を文祖(ぶんそ)に受く。文祖とは堯の大祖(たいそ)なり。ここにおいて帝(てい)堯老(ろう)し、舜に命じて天子の政(まつりごと)を摂行(せっこう)せしめ、もって天命を観(み)る。
舜乃在璿璣玉衡、以齊七政。遂類于上帝、禋于六宗、望于山川、辯于羣神。揖五瑞、擇吉月日、見四嶽諸牧、班瑞。歳二月、東巡狩、至於岱宗、祡、望秩於山川。遂見東方君長、合時月、正日、同律度量衡、脩五禮、五玉三帛二生一死爲摯、如五器、卒乃復。
「
舜(しゅん)すなわち璿璣(せんき)玉衡(ぎょくこう)を在(あきら)かにし、もって七政(しちせい)を斉(ととの)う。ついに上帝に類(るい)し、六宗(りくそう)に禋(いん)し、山川に望(ぼう)し、群神(ぐんしん)に弁(べん)す。五瑞(ごずい)を揖(おさ)め、吉月日(きつげつじつ)を択(えら)び、四岳(しがく)・諸牧(しょぼく)を見、瑞を班(わか)つ。歳(とし)の二月、東に巡狩(じゅんしゅ)し、岱宗(たいそう)に至り、祡(さい)し、山川を望秩(ぼうちつ)す。ついに東方の君長(くんちょう)を見、時月(じげつ)を合わせ、日を正(ただ)しゅうし、律(りつ)度量衡(どりょうこう)を同じゅうし、五礼を修め、五玉・三帛(さんぱく)・二生・一死を摯(し)となし、五器を如(ひと)しゅうし、卒(おわ)ればすなわち復(かえ)す。
五月、南巡狩、八月、西巡狩、十一月、北巡狩。皆如初。歸至于祖禰廟、用特牛禮。五歳一巡狩、羣后四朝。徧告以言、明試以功、車服以庸。肇十有二州、決川。象以典刑、流宥五刑、鞭作官刑、扑作教刑、金作贖刑、眚烖過赦、怙終賊刑。欽哉、欽哉、惟刑之靜哉。
「
五月、南に巡狩(じゅんしゅ)し、八月、西に巡狩し、十一月、北に巡狩す。みな初(はじめ)のごとし。帰りて祖禰(そでい)の廟(びょう)に至り、特牛(とくぎゅう)の礼を用う。五歳に一たび巡狩し、群后(ぐんこう)四たび朝(ちょう)す。徧(あまね)く告ぐるに言をもってし、明らかに試みるに功をもってし、車服(しゃふく)は庸(よう)をもってす。十有二州を肇(はじ)め、川を決(けっ)す。象(しょう)するに典刑(てんけい)をもってし、流(りゅう)して五刑を宥(ゆる)し、鞭(むち)を官刑と作(な)し、扑(ぼく)を教刑と作し、金を贖刑(とくけい)と作し、眚(せい)、烖(さい)の過(あやまち)は赦(ゆる)し、怙終(こしゅう)の賊をば刑す。欽(つつし)めよや、欽めよや、これ刑をこれ静(しず)かにせんかな、と。 」
讙兜進言共工、堯曰不可。而試之工師、共工果淫辟。四嶽舉鯀治鴻水、堯以爲不可、嶽彊請試之、試之而無功、故百姓不便。三苗在江淮、荊州數爲亂。於是舜歸而言於帝、請流共工於幽陵、以變北狄、放驩兜於崇山、以變南蠻、遷三苗於三危、以變西戎、殛鯀於羽山、以變東夷、四辠而天下咸服。
「
讙兜(かんとう)、共工(きょうこう)を進め言う、堯(ぎょう)曰く、不可なり、と。しこうしてこれを工師に試(こころ)む、共工果(はた)して淫辟(いんぺき)なり。四岳、鯀(こん)をあげて鴻水(こうずい)を治めしめんとす、堯、もって不可となす、岳、彊(し)いてこれを試みんと請(こ)う、これを試みたれども功なし、ゆえに百姓、便とせず。三苗(さんびょう)、江(こう)・淮(わい)・荊州(けいしゅう)にありてしばしば乱をなす。ここにおいて、舜帰りて帝(てい)に言い、請(こ)うて共工を幽陵(ゆうりょう)に流し、もって北狄(ほくてき)に変じ、驩兜(かんとう)を崇山(すうざん)に放ち、もって南蛮(なんばん)に変じ、三苗を三危(さんき)に遷(うつ)し、もって西戎(せいじゅう)に変じ、鯀(こん)を羽山(うざん)に殛(きょく)し、もって東夷(とうい)に変ず、四辠(しざい)して天下みな服す。」
堯立七十年得舜、二十年而老、令舜攝行天子之政、薦之於天。堯辟位凡二十八年而崩。百姓悲哀、如喪父母。三年、四方莫舉樂、以思堯。堯知子丹朱之不肖、不足授天下。於是乃權授舜。授舜、則天下得其利、而丹朱病、授丹朱、則天下病而丹朱得其利。堯曰、終不以天下之病而利一人。而卒授舜以天下。
「
堯(ぎょう)立ちて七十年にして舜(しゅん)を得(え)、二十年にして老(ろう)し、舜をして天子の政(まつりごと)を摂行(せっこう)せしめ、これを天に薦(すす)む。堯、位を辟(さ)けておよそ二十八年にして崩(ほう)ず。百姓悲哀し、父母を喪(うしな)うがごとし。三年、四方(しほう)、楽(がく)を挙ぐるなく、もって堯を思う。堯、子の丹朱(たんしゅ)の不肖(ふしょう)にして、天下を授(さず)くるに足らざるを知る。ここにおいてすなわち権(はか)りて舜に授く。舜に授くれば、すなわち天下その利を得て、丹朱(たんしゅ)病(や)まん、丹朱に授くれば、すなわち天下病みて丹朱(たんしゅ)その利を得ん。堯曰く、ついに天下の病をもって一人を利(り)せじ、と。しこうして卒(つい)に舜に授くるに天下をもってす。」
堯崩、三年之喪畢、舜讓辟丹朱於南河之南。諸侯朝覲者不之丹朱而之舜、獄訟者不之丹朱而之舜、謳歌者不謳歌丹朱而謳歌舜。舜曰、天也夫。而後之中國踐天子位焉、是爲帝舜。
「
堯崩(ほう)じ、三年の喪(も)畢(おわ)り、舜、譲(ゆず)りて丹朱を南河の南に辟(さ)く。諸侯の朝覲(ちょうきん)する者、丹朱に之(ゆ)かずして舜に之(ゆ)き、獄訟(ごくしょう)する者、丹朱に之(ゆ)かずして舜に之(ゆ)き、謳歌(おうか)する者、丹朱を謳歌せずして舜を謳歌す。舜曰く、天なるかな、と。しこうして後(のち)、中国に之(ゆ)き、天子の位を践(ふ)む、これを帝(てい)舜となす。」
[TOP]
[舜帝]
虞舜者、名曰重華。重華父曰瞽叟、瞽叟父曰橋牛、橋牛父曰句望、句望父曰敬康、敬康父曰窮蝉、窮蝉父曰帝顓頊、顓頊父曰昌意。以至舜七世矣。自從窮蝉以至帝舜、皆微爲庶人。
「
虞舜(ぐしゅん)は、名は重華(ちょうか)という。重華の父は瞽叟(こそう)といい、瞽叟の父は橋牛(きょうぎゅう)といい、橋牛の父は句望(こうぼう)といい、句望の父は敬康(けいこう)といい、敬康の父は窮蝉(きゅうせん)といい、窮蝉の父は帝(てい)顓頊(せんぎょく)といい、顓頊の父は昌意(しょうい)という。もって舜に至るまで七世(しちせい)なり。窮蝉(きゅうせん)自従(よ)りもって帝(てい)舜に至るまで、みな微(び)にして庶人(しょじん)たり。
舜父瞽叟盲、而舜母死、瞽叟更娶妻而生象、象傲。瞽叟愛後妻子、常欲殺舜。舜避逃。及有小過、則受罪。順事父及後母與弟、日以篤謹、匪有解。
舜の父瞽叟(こそう)は盲(もう)にして、舜の母死し、瞽叟、更に妻を娶(めと)りて象(しょう)を生む、象傲(おご)る。瞽叟、後妻(こうさい)の子を愛し、常に舜を殺さんと欲す。舜、避(さ)け逃(のが)る。小過(しょうか)あるに及べば、すなわち罪を受く。父および後母(こうぼ)と弟とに順事(じゅんじ)すること、日にもって篤謹(とくきん)にして、解(おこた)ることあらず。
舜、冀州之人也。舜耕歴山、漁雷澤、陶河濱、作什器於壽丘、就時於負夏。舜父瞽叟頑、母嚚、弟象傲、皆欲殺舜。舜順適不失子道。兄弟孝慈、欲殺不可得。即求嘗在側。
「
舜は冀州(きしゅう)の人なり。舜、歴山(れきざん)に耕(たがや)し、雷沢(らいたく)に漁(ぎょ)し、河浜(かひん)に陶(とう)し、什器(じゅうき)を寿丘(じゅきゅう)に作り、時に負夏(ふか)に就く。舜の父瞽叟(こそう)は頑(がん)に、母は嚚(ぎん)に、弟(おとうと)象(しょう)は傲(おご)り、みな舜を殺さんと欲す。舜、順適(じゅんてき)して子道(しどう)を失(うしな)わず。兄弟(けいてい)孝慈(こうじ)、殺さんと欲すれども得(う)べからず。即(も)し求むれば嘗(つね)に側(かたわら)にあり。
舜年二十以孝聞。三十而帝堯問可用者。四嶽咸薦虞舜曰、可。於是堯乃以二女妻舜、以觀其内、使九男與處、以觀其外。舜居媯汭、内行彌謹。堯二女不敢以貴驕事舜親戚、甚有婦道。堯九男皆益篤。舜耕歴山、歴山之人皆讓畔。漁雷澤、雷澤上人皆讓居。陶河濱、河濱器皆不苦窳。一年而所居成聚、二年成邑、三年成都。
「
舜、年(とし)二十にして孝をもって聞(きこ)ゆ。三十にして帝(てい)堯、用(もち)うべき者を問う。四岳、咸(みな)虞舜(ぐしゅん)を薦(すす)めて曰く、可なり、と。ここにおいて、堯すなわち二女(にじょ)をもって舜に妻(めあわ)せ、もってその内を観(み)、九男(きゅうだん)をしてともに処(お)らしめ、もってその外を観(み)る。舜、媯汭(きぜい)におり、内行(ないこう)いよいよ謹む。堯の二女、あえて貴(たっと)きをもって舜の親戚に驕事(きょうじ)せず、はなはだ婦道(ふどう)あり。堯の九男(きゅうだん)みなますます篤(あつ)し。舜、歴山(れきざん)に耕す、歴山の人みな畔(あぜ)を譲る。雷沢(らいたく)に漁(ぎょ)す、雷沢の上(ほとり)の人みな居(きょ)を譲る。河浜(かひん)に陶(とう)す、河浜の器(き)みな苦窳(こゆ)せず。一年にしておるところ聚(しゅう)をなし、二年にして邑(ゆう)をなし、三年にして都(と)をなす。
堯乃賜舜絺衣、與琴、爲築倉廩、予牛羊。瞽叟尚復欲殺之、使舜上塗廩、瞽叟從下縱火焚廩。舜乃以兩笠、自扞而下去、得不死。後瞽叟又使舜穿井。舜穿井爲匿空旁出。舜既入深。瞽叟與象共下土實井。舜從匿空出去。瞽叟、象喜、以舜爲已死。象曰、本謀者象。象與其父母分。於是曰、舜妻堯二女、與琴、象取之。牛羊倉廩予父母。象乃止舜宮居、鼓其琴。舜往見之。象鄂不懌曰、我思舜正鬱陶。舜曰、然、爾其庶矣。舜復事瞽叟愛弟彌謹。於是堯乃試舜五典百官。皆治。
「
堯、すなわち舜に絺衣(ちい)と琴(きん)とを賜(たま)い、ために倉廩(そうりん)を築(きず)き、牛羊(ぎゅうよう)を予(あた)う。瞽叟(こそう)、なおまたこれを殺さんと欲し、舜をして上りて廩(りん)を塗(ぬ)らしめ、瞽叟(こそう)下より火を縦(はな)ちて廩(りん)を焚(や)く。舜、すなわち両笠(りょうりゅう)をもって、みずから扞(ふせ)ぎ下(くだ)り去り、死せざるを得たり。のち、瞽叟また舜をして井(い)を穿(うが)たしむ。舜、井を穿ち、匿空(とくこう)の旁出(ぼうしゅつ)せるを為(つく)る。舜すでに入(い)ること深し。瞽叟、象(しょう)とともに土を下し井に実たす。舜、匿空(とくこう)より出で去る。瞽叟・象(しょう)喜び、舜をもってすでに死せりとなす。象曰く、もと謀(はか)る者は象なり、と。象、その父母とともに分たんとす。ここにおいて曰く、舜の妻(つま)なる堯の二女(にじょ)と琴(きん)とは象これを取らん。牛羊(ぎゅうよう)倉廩(そうりん)は父母に予(あた)えん、と。象すなわち舜の宮(きゅう)に止まりおりて、その琴を鼓(こ)す。舜往(ゆ)きてこれを見る。象、鄂(がく)として懌(よろこ)ばずして曰く、われ舜を思い、まさに鬱陶(うっとう)たり、と。舜曰く、しかり、なんじそれ庶(ちか)し、と。舜、また瞽叟に事(つか)え、弟を愛していよいよ謹めり。ここにおいて、堯すなわち舜を五典(ごてん)百官(ひゃっかん)に試(こころ)む。みな治まれり。
昔高陽氏有才子八人。世得其利、謂之八愷。高辛氏有才子八人。世謂之八元。此十六族者、世濟其美、不隕其名至於堯。堯未能舉。舜舉八愷、使主后土、以揆百事。莫不時序。舉八元、使布五教于四方。父義、母慈、兄友、弟恭、子孝、内平外成。
「
昔(むかし)、高陽氏(こうようし)に才子(さいし)八人あり。世(よ)、その利を得(う)、これを八愷(はちがい)という。高辛氏(こうしんし)に才子(さいし)八人あり。世、これを八元(はちげん)という。この十六族の者、世々(よよ)その美を済(な)し、その名を隕(おと)さずして堯に至る。堯、いまだ挙(あ)ぐることあたわず。舜、八愷(はちがい)を挙げ、后土(こうど)を主(つかさど)らしめ、もって百事(ひゃくじ)を揆(はか)る。時に序(つい)でざるはなし。八元(はちげん)を挙げ、五教を四方(しほう)に布(し)かしむ。父は義、母は慈(じ)、兄は友(ゆう)、弟は恭(きょう)、子は孝、内(うち)平(たいら)かに外(そと)なる。
昔帝鴻氏有不才子。掩義隱賊、好行凶慝。天下謂之渾沌。少皞氏有不才子。毀信惡忠、崇飾惡言。天下謂之窮奇。顓頊氏有不才子。不可教訓。不知話言。天下謂之檮杌。此三族世憂之、至于堯。堯未能去。縉雲氏有不才子。貪于飲食、冒于貨賄。天下謂之饕餮。天下惡之、比之三凶。舜賓於四門、乃流四凶族、遷于四裔、以御螭魅。於是四門辟。言毋凶人也。
「
昔(むかし)、帝鴻氏(ていこうし)に不才子(ふさいし)あり。義を掩(おお)い賊を隠し、好みて凶慝(きょうとく)を行なう。天下、これを渾沌(こんとん)という。少皞氏(しょうこうし)に不才子にあり。信を毀(やぶ)り忠を悪(にく)み、悪言を崇飾(すうしょく)す。天下、これを窮奇(きゅうき)という。顓頊氏(せんぎょくし)に不才子あり。教訓すべからず。話言(かいげん)を知らず。天下、これを檮杌(とうこつ)という。これ三族は世々(よよ)これを憂え、堯に至る。堯いまだ去ることあたわず。縉雲氏(しんうんし)に不才子あり。飲食を貪(むさぼ)り、貨賄(かかい)を冒(むさぼ)る。天下、これを饕餮(とうてつ)という。天下、これを悪(にく)み、これを三凶(さんきょう)に比(ひ)す。舜、四門に賓(ひん)し、すなわち四凶族(しきょうぞく)を流(りゅう)して、四裔(しえい)に遷(うつ)し、もって螭魅(ちみ)を御(ふせ)ぐ。ここにおいて四門辟(ひら)く。凶人(きょうじん)なきをいうなり。
舜入于大麓、烈風雷雨不迷。堯乃知舜之足授天下。堯老、使舜攝行天子政、巡狩。舜得舉用事二十年、而堯使攝政。攝政八年而堯崩。三年喪畢、讓丹朱。天下歸舜。而禹、皋陶、契、后稷、伯夷、夔、龍、倕、益、彭祖、自堯時而皆舉用、未有分職。於是舜乃至於文祖、謀于四嶽、辟四門、明通四方耳目。命十二牧。論帝徳、行厚徳、遠佞人、則蠻夷率服。
「
舜、大麓(たいろく)に入(い)り、烈風・雷雨にも迷わず。堯すなわち舜の天下を授(さず)くるに足るを知る。堯老(お)い、舜をして天子の政(まつりごと)を摂行(せっこう)し、巡狩(じゅんしゅ)せしむ。舜、挙(あ)げらるるを得(え)、事を用(もち)うること二十年にして、堯、政(まつりごと)を摂(せっ)せしむ。政を摂すること八年にして堯崩(ほう)ず。三年の喪(も)畢(おわ)り、丹朱(たんしゅ)に譲(ゆず)る。天下、舜に帰す。しこうして禹(う)・皐陶(こうよう)、契(せつ)、后稷(こうしょく)、伯夷(はくい)、夔(き)、龍(りょう)、倕(すい)、益(えき)、彭祖(ほうそ)、堯のときよりみな挙用(きょよう)せられたれども、いまだ分職(ぶんしょく)あらず。ここにおいて舜すなわち文祖(ぶんそ)に至り、四岳に謀(はか)り、四門を辟き(ひら)、明らかに四方の耳目(じもく)を通ず。十二牧(じゅうにぼく)に命ず。帝徳を論じ、厚徳を行ない、佞人(ねいじん)を遠ざくるときは、すなわち蛮夷(ばんい)率(ひき)いて服(ふく)せん、と。
舜謂四嶽曰、有能奮庸美堯之事者、使居官相事。皆曰、伯禹爲司空、可美帝功。舜曰、嗟、然、禹、汝平水土。維是勉哉。禹拜稽首、讓於稷、契與皋陶。舜曰、然、往矣。舜曰、弃、黎民始飢、汝后稷播時百穀。舜曰、契、百姓不親。五品不馴。汝爲司徒、而敬敷五教、在寛。舜曰、皋陶、蠻夷猾夏、寇賊姦軌。汝作士、五刑有服、五服三就、五流有度、五度三居。維明能信。舜曰、誰能馴予工。皆曰垂可。於是以垂爲共工。舜曰、誰能馴予上下草木鳥獸、皆曰益可。於是以益爲朕虞。益拜稽首、讓于諸臣朱虎、熊羆。舜曰、往矣、汝諧。遂以朱虎、熊羆爲佐。
「
舜、四岳に謂いて曰く、よく庸(よう)を奮(ふん)にし、堯の事を美(よ)くする者あらば、官に居り、事を相(たす)けしめん、と。みな曰く、伯禹(はくう)、司空(しこう)とならば、帝(てい)の功を美(よ)くすべし。舜曰く、嗟(ああ)、然(しか)り、禹(う)、なんじ水土(すいど)を平(たいら)にせよ。これこれ勉めよや、と。禹(う)拝稽首(はいけいしゅ)し、稷(しょく)・契(せつ)と皐陶(こうよう)とに譲る。舜曰く、然り、往(ゆ)けよ、と。舜曰く、弃(き)、黎民(れいみん)はじめて飢(う)う、なんじ稷(しょく)に后(きみ)となり、ときに百穀(ひゃくこく)を播(ま)け、と。舜曰く、契(せつ)、百姓親(した)しまず。五品馴(したが)わず。なんじ司徒(しと)となりて、敬(つつし)みて五教を敷(し)き、寛(かん)にあれ、と。舜曰く、皐陶(こうよう)、蛮夷(ばんい)、夏を猾(みだ)り、寇賊(こうぞく)姦軌(かんき)あり。なんじ士となり、五刑は服あり、五服は三就(さんしゅう)し、五流は度(たく)あり、五度(ごたく)は三居し、これ明らかによく信なれ。舜曰く、たれかよく予(よ)が工(こう)に馴(したが)わん、と。みな曰く、垂(すい)可(か)なり、と。ここにおいて垂をもって共工(きょうこう)となす。舜曰く、たれかよく予が上下(しょうか)の草木鳥獣に馴(したが)わん、と、みな曰く、益(えき)可なり、と。ここにおいて益をもって朕(わ)が虞(ぐ)となす。益、拝稽首(けいしゅ)し、諸臣(しょしん)、朱虎(しゅこ)・熊羆(ゆうひ)に譲(ゆず)る。舜曰く、往(ゆ)け、なんじ諧(やわら)げよ、と。ついに朱虎・熊羆をもって佐(さ)となす。
舜曰、嗟、四嶽、有能典朕三禮。皆曰伯夷可。舜曰、嗟、伯夷、以汝爲秩宗。夙夜維敬、直哉。維靜絜。伯夷讓夔、龍。舜曰、然。以夔爲典樂、教穉子。直而温、寛而栗、剛而毋虐、簡而毋傲。詩言意、歌長言、聲依永、律和聲。八音能諧、毋相奪倫、神人以和。夔曰、於、予撃石拊石、百獸率舞。舜曰、龍、朕畏忌讒説殄僞、振驚朕衆。命汝爲納言。夙夜出入朕命、惟信。舜曰、嗟、女二十有二人、敬哉、惟時相天事。三歳一考功、三考絀陟。遠近衆功咸興。分北三苗。
「
舜曰く、嗟(ああ)、四岳、よく朕(わ)が三礼を典(つかさど)るものあらんか、と。みな曰く、伯夷(はくい)可なり、と。舜曰く、嗟(ああ)、伯夷、なんじをもって秩宗(ちつそう)となす。夙夜(しゅくや)これ敬(つつし)み、直なれや。これ静絜(せいけつ)なれ、と。伯夷、夔(き)・龍(りょう)に譲る。舜曰く、然り、と。夔(き)をもって典楽となし、稚子(ちし)を教えしむ。直(ちょく)にしてしかも温、寛にしてしかも栗(りつ)、剛にしてしかも虐(ぎゃく)するなく、簡にしてしかも傲(おご)るなかれ。詩は意をいい、歌は言(げん)を長くし、声は永(なが)きにより、律は声を和(わ)す。八音(はちいん)よく諧(やわら)ぎ、倫(りん)をあい奪うことなくんば、神人(しんじん)もって和せん、と。夔(き)曰く、於(ああ)、予(われ)、石(せき)を撃ち石を拊(う)てば、百獣率(ひき)いて舞(ま)わん、と。舜曰く、龍(りょう)、朕(われ)、讒説(ざんせつ)の偽(い)を殄(た)ち、朕(わ)が衆を振驚(しんけい)するを畏忌(いき)す。なんじに命じて納言(のうげん)となす。夙夜(しゅくや)朕(わ)が命を出入して、これ信なれ、と。舜曰く、嗟(ああ)、なんじ二十有二人、敬(つつし)めよや、これ時(こ)れ天事を相(たす)けよ、と。三歳に一たび功を考え、三考して絀陟(ちゅつちょく)す。遠近の衆功みな興(おこ)る。三苗(さんびょう)を分北(ぶんばい)す。
此二十二人咸成厥功。皋陶爲大理平、民各伏得其實。伯夷主禮、上下咸讓。垂主工師、百工致功。益主虞、山澤辟。弃主稷、百穀時茂。契主司徒、百姓親和。龍主賓客、遠人至。十二牧行而九州莫敢辟違。唯禹之功爲大。披九山、通九澤、決九河、定九州。各以其職來貢、不失厥宜。方五千里、至于荒服、南撫交阯、北發、西戎、析枝、渠廋、氐羌、北山戎、發、息慎、東長、鳥夷、四海之内咸戴帝舜之功。於是禹乃興九招之樂、致異物、鳳皇來翔。天下明徳、皆自虞帝始。
「
この二十二人、みなその功をなす。皐陶(こうよう)、大理(たいり)となり平(たいら)かに、民おのおの伏してその実(じつ)を得(う)。伯夷(はくい)、礼を主(つかさど)り、上下(しょうか)みな譲(ゆず)る。垂(すい)、工師を主(つかさど)り、百工(ひゃくこう)功を致す。益、虞(ぐ)を主(つかさど)り、山沢辟(ひら)く。弃(き)、稷(しょく)を主(つかさど)り、百穀(ひゃくこく)ときに茂る。契(せつ)、司徒を主(つかさど)り、百姓(ひゃくせい)親和す。龍(りょう)、賓客(ひんかく)主(つかさど)り、遠人(えんじん)至る。十二牧(じゅうにぼく)行きて、九州あえて辟違(ひい)するものなし。ただ禹(う)の功を大なりとなす。九山を披(ひら)き、九沢(きゅうたく)を通じ、九河(きゅうか)を決し、九州を定む。おのおのその職をもって来貢(らいこう)し、その宜(よろ)しきを失わず。方(ほう)五千里、荒服に至るまで、南は交阯(こうし)・北発(ほくはつ)、西は戎(じゅう)・析枝(せっし)・渠廋(きょしゅう)・氐羌(ていきょう)、北は山戎(さんじゅう)・発(はつ)・息慎(そくしん)、東は長(ちょう)・鳥夷(ちょうい)を撫(ぶ)し、四海のうち、みな帝(てい)舜の功を戴(いただ)く。ここにおいて禹(う)すなわち九招(きゅうしょう)の楽(がく)を興(おこ)し、異物を致し、鳳皇(ほうおう)来たり翔(かけ)る。天下徳を明らかにする、みな虞帝(ぐてい)より始まる。
舜年二十以孝聞、年三十堯舉之、年五十攝行天子事。年五十八堯崩、年六十一代堯踐帝位。踐帝位三十九年、南巡狩、崩於蒼梧之野。葬於江南九疑。是爲零陵。舜之踐帝位、載天子旗、往朝父瞽叟。夔夔唯謹、如子道。封弟象爲諸侯。舜子商均亦不肖。舜乃豫薦禹於天。十七年而崩。三年喪畢、禹亦乃讓舜子、如舜讓堯子。諸侯歸之。然後禹踐天子位。堯子丹朱、舜子商均、皆有彊土、以奉先祀。服其服、禮樂如之、以客見天子。天子弗臣、示不敢專也。
「
舜、年(とし)二十にして孝をもって聞え、年三十にして堯これを挙(あ)げ、年五十にして天子の事(こと)を摂行(せっこう)す。年五十八にして堯崩(ほう)ず。年六十一にして堯に代りて帝位を践(ふ)む。帝位を践(ふ)むこと三十九年、南に巡狩(じゅんしゅ)し、蒼梧(そうご)の野(や)に崩(ほう)ず。江南の九疑(きゅうぎ)に葬(ほうむ)る。これを零陵(れいりょう)となす。舜、帝位を践(ふ)むや、天子の旗を載(の)せ、往(ゆ)きて父瞽叟(こそう)に朝(ちょう)す。夔夔(きき)としてただ謹み、子(こ)の道のごとくす。弟の象(しょう)を封(ほう)じて諸侯となす。舜の子商均(しょうきん)もまた不肖(ふしょう)なり。舜すなわち豫(あらかじ)め禹(う)を天に薦(すす)む。十七年にして崩(ほう)ず。三年の喪(も)畢(おわ)り、禹(う)もまたすなわち舜の子に譲(ゆず)ること、舜の堯の子に譲(ゆず)れるがごとくす。諸侯これに帰す。しかるのち禹(う)天子の位を践(ふ)む。堯の子丹朱(たんしゅ)、舜の子商均(しょうきん)、みな彊土(きょうど)を有(たも)ち、もって先祀(せんし)を奉(ほう)ず。その服を服し、礼楽(れいがく)かくのごとくし、客(かく)をもって天子に見(まみ)ゆ。天子、臣とせざるは、あえて専(もっぱ)らにせざるを示(しめ)すなり。
自黄帝至舜、禹、皆同姓。而異其國號、以章明徳。故黄帝爲有熊、帝顓頊爲高陽、帝嚳爲高辛、帝堯爲陶唐、帝舜爲有虞、帝禹爲夏后。而別氏、姓姒氏。契爲商、姓子氏。弃爲周、姓姫氏。
「
黄帝より舜・禹(う)に至るまで、みな同姓なり。しこうしてその国号を異(こと)にし、もって明徳を章(あきら)かにす。ゆえに黄帝を有熊(ゆうゆう)となし、帝(てい)顓頊(せんぎょく)を高陽となし、帝(てい)嚳(こく)を高辛となし、帝堯を陶唐(とうとう)となし、帝舜を有虞(ゆうぐ)となし、帝禹(う)を夏后(かこう)となす。しこうして氏(し)を別って、姓は姒氏(じし)。契(せつ)を商となす、姓は子氏(しし)。弃(き)を周となす、姓は姫氏(きし)。
太史公曰、學者多稱五帝尚矣。然尚書獨載堯以來。而百家言黄帝、其文不雅馴。薦紳先生難言之。孔子所傳宰予問五帝徳及帝繫姓、儒者或不傳。余嘗西至空桐、北過涿鹿、東漸於海、南浮江淮矣。至長老皆各往往稱黄帝、堯、舜之處、風教固殊焉。總之、不離古文者近是。予觀春秋、國語、其發明五帝徳、帝繫姓章矣。顧弟弗深考。其所表見皆不虚。書缺有閒矣。其軼乃時時見於他説。非好學深思、心知其意、固難爲淺見寡聞道也。余并論次、擇其言尤雅者、故著爲本紀書首。
「
太史公(たいしこう)曰く、学者多く五帝を称(しょう)すること尚(ひさ)し。しかるに尚書はひとり堯以来を載(の)するのみ。しこうして百家の黄帝を言うもの、その文雅馴(がじゅん)ならず。薦紳(しんしん)・先生これを言うを難(はばか)る。孔子の伝うるところの宰予問(さいよもん)五帝徳(ごていとく)、および帝繫姓(ていけいせい)は、儒者あるいは伝えず。余(われ)かつて西のかた空桐(くうとう)に至り、北のかた涿鹿(たくろく)を過ぎ、東のかた海に漸(いた)り、南のかた江淮(こうわい)に浮(うか)ぶ。長老みなおのおの往往(おうおう)黄帝・堯・舜を称するのところに至るに、風教(ふうきょう)固(まこと)に殊(こと)なり。これを総(す)ぶるに、古文を離れざる者是(ぜ)なるに近し。予(われ)、春秋・国語を観るに、その五帝徳(ごていとく)・帝繫姓(ていけいせい)を発明すること章(あきら)かなり。顧(おも)うに弟(ただ)深く考えざるのみ。その表見(ひょうけん)するところ、みな虚(きょ)ならず。書缺(か)けて間(かん)あり。その軼(いつ)せるはすなわち時時(じじ)他説に見(み)ゆ。学を好み思(おもい)を深くし、心にその意を知るものにあらずんば、固(まこと)に浅見(せんけん)・寡聞(かぶん)のために道(い)いがたきなり。余(われ)、并(あわ)せて論次(ろんじ)し、その言のもっとも雅(が)なる者を択(えら)び、故(ことさら)に著わして本紀の書の首(はじめ)となす。
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楚元王世家(そげんおうせいか)第二十
楚元王劉交者、高祖之同母少弟也。字游。高祖兄弟四人。長兄伯。伯蚤卒。始高祖微時、嘗辟事、時時與賓客過巨嫂食。嫂厭叔。叔與客來、嫂詳爲羹盡櫟釜。賓客以故去。已而視釜中尚有羹。高祖由此怨其嫂。及高祖爲帝、封昆弟、而伯子獨不得封。太上皇以爲言。高祖曰、某非忘封之也。爲其母不長者耳。於是乃封其子信爲羹頡侯、而王次兄仲於代。
「
楚(そ)の元王(げんおう)劉交(りゅうこう)は、高祖の同母(どうぼ)少弟(しょうてい)なり。字(あざな)は游(ゆう)。高祖は兄弟(けいてい)四人あり。長兄(ちょうけい)は伯(はく)。伯は蚤(はや)く卒(しゅつ)す。始め高祖微(び)なる時、かつて事(こと)を辟(さ)け、ときどき賓客(ひんかく)とともに巨嫂(きょそう)に過(よぎ)りて食(しょく)す。嫂(あによめ)、叔(しゅく)を厭(いと)う。叔、客(かく)とともに来たるときは、嫂(あによめ)、詳(いつわ)りて羹(あつもの)尽きたりとなし、釜を櫟(れき)す。賓客(ひんかく)、故(ゆえ)をもって去る。すでにして釜中(ふちゅう)を視るに、なお羹(あつもの)あり。高祖、これによりてその嫂(あによめ)を怨む。高祖帝(てい)となるに及びて、昆弟(こんてい)を封(ほう)ず。しかるに伯の子のみひとり封(ほう)ぜらるるを得ず。太上皇(たいじょうこう)、もって言をなす。高祖曰く、「某(それがし)、これを封(ほう)ずることを忘れたるにあらざるなり。その母が長者(ちょうじゃ)ならざるがためなるのみ」と。ここにおいて、すなわちその子信(しん)を封(ほう)じて羹頡侯(こうかつこう)となし、しこうして次兄(じけい)仲(ちゅう)を代(だい)に王(おう)とす。
高祖六年、已禽楚王韓信於陳、乃以弟交爲楚王。都彭城。即位二十三年卒。子夷王郢立。夷王四年卒。子王戊立。王戊立二十年冬、坐爲薄太后服私姦、削東海郡。春戊與呉王合謀反。其相張尚太傅趙夷吾諫、不聽。戊則殺尚夷吾、起兵與呉西攻梁、破棘壁、至昌邑南。與漢將周亞夫戰。漢絶呉楚糧道。士卒飢。呉王走、楚王戊自殺。軍遂降漢。
「
高祖六年、すでに楚王(そおう)韓信(かんしん)を陳(ちん)に禽(とりこ)にし、すなわち弟交(こう)をもって楚王(そおう)となす。彭城(ほうじょう)に都(みやこ)す。位(くらい)に即(つ)きて二十三年にして卒(しゅつ)す。子夷王(いおう)郢(えい)立つ。夷王(いおう)、四年にして卒(しゅつ)す。子の王戊(ぼう)立つ。王戊(ぼう)立ちて二十年冬(ふゆ)、薄太后(はくたいこう)のために服し、ひそかに姦(かん)するに坐し、東海郡を削(けず)らる。春、戊(ぼう)、呉王と謀(はかりごと)を合わせて反(はん)す。その相(しょう)張尚(ちょうしょう)・太傅(たいふ)趙夷吾(ちょういご)諫(いさ)むれども、聴かず。戊(ぼう)すなわち尚(しょう)・夷吾(いご)を殺し、兵を起(お)こし、呉とともに西(にし)して梁を攻め、棘壁(きょくへき)を破り、昌邑(しょうゆう)の南に至る。漢の将(しょう)周亜夫(しゅうあふ)と戦う。漢、呉・楚の糧道(りょうどう)を絶つ。士卒飢(う)う。呉王(ごおう)走り、楚王戊(ぼう)は自殺す。軍ついに漢に降(くだ)る。
漢已平呉楚、孝景帝欲以徳侯子續呉、以元王子禮續楚。竇太后曰、呉王老人也。宜爲宗室順善。今乃首率七國、紛亂天下。柰何續其後。不許呉。許立楚後。是時禮爲漢宗正。乃拜禮爲楚王、奉元王宗廟。是爲楚文王。文王立三年卒。子安王道立。安王二十二年卒。子襄王注立。襄王立十四年卒。子王純代立。王純立、地節二年、中人上書、告楚王謀反。王自殺。國除入漢、爲彭城郡。
「
漢すでに呉・楚を平(たいら)げ、孝景帝(こうけいてい)、徳侯(とくこう)の子をもって呉を続(つ)がしめ、元王(げんおう)の子礼(れい)をもって楚を続(つ)がしめんと欲す。竇太后(とうたいこう)曰く、「呉王は老人なり。よろしく宗室(そうしつ)のために順善(じゅんぜん)なるべし。今すなわち首(しゅ)として七国を率いて、天下を紛乱(ふんらん)せり。いかんぞその後(のち)を続(つ)がしめん」と。呉を許さず。楚の後(のち)を立つるを許す。このとき、礼は漢の宗正(そうせい)たり。すなわち礼を拝して楚王となし、元王(げんおう)の宗廟を奉ぜしむ。これを楚の文王となす。文王立ちて三年にして卒(しゅつ)す。子安王道(あんおうどう)立つ。安王、二十二年、卒(しゅつ)す。子襄王(じょうおう)注(ちゅう)立つ。襄王(じょうおう)、立ちて十四年にして卒(しゅつ)す。子王純(おうじゅん)代りて立つ。王純(おうじゅん)立ち、地節(ちせつ)二年、中人(ちゅうじん)上書(じょうしょ)し、「楚王、反(はん)を謀(はか)る」と告ぐ。王(おう)自殺す。国除(のぞ)かれて漢に入(い)り、彭城郡(ほうじょうぐん)となる。
趙王劉遂者、其父高祖中子、名友、諡曰幽。幽王以憂死。故爲幽。高后王呂祿於趙。一歳而高后崩。大臣誅諸呂呂祿等。乃立幽王子遂爲趙王。
「
趙王(ちょうおう)劉遂(りゅうすい)は、その父は高祖の中子(ちゅうし)、名は友(ゆう)、謚(おくりな)して幽(ゆう)と曰う。幽王(ゆうおう)、憂(うれい)をもって死す。ゆえに幽となす。高后(こうこう)、呂禄(りょりょく)を趙(ちょう)に王とす。一歳にして高后崩(ほう)ず。大臣、諸呂(しょりょ)・呂禄(りょりょく)等(ら)を誅(ちゅう)す。すなわち幽王の子遂(すい)を立てて趙王(ちょうおう)となす。
孝文帝即位二年、立遂弟辟彊、取趙之河閒郡、爲河閒王、以爲文王。立十三年卒。子哀王福立。一年卒。無子絶後。國除入于漢。
「
孝文帝(こうぶんてい)位(くらい)に即(つ)きて二年、遂(すい)の弟辟彊(へききょう)を立て、趙(ちょう)の河間郡(かかんぐん)を取り、河間王(かかんおう)となし、もって文王となす。立ちて十三年にして卒(しゅつ)す。子哀王(あいおう)福(ふく)立つ。一年にして卒(しゅつ)す。子なく後(のち)を絶つ。国除(のぞ)かれ漢に入(い)る。
遂既王趙二十六年、孝景帝時、坐鼂錯、以適削趙王常山之郡。呉楚反、趙王遂與合謀起兵。其相建徳内史王悍諫、不聽。遂燒殺建徳王悍、發兵屯其西界、欲待呉與倶西、北使匈奴與連和攻漢。漢使曲周侯酈寄撃之。趙王遂還、城守邯鄲、相距七月。呉楚敗於梁、不能西。匈奴聞之、亦止、不肯入漢邊。欒布自破齊還、乃并兵引水灌趙城。趙城壞。趙王自殺。邯鄲遂降。趙幽王絶後。
「
遂(すい)すでに趙(ちょう)に王たること二十六年、孝景帝(こうけいてい)のとき、鼂錯(ちょうそ)に坐し、適(たく)をもって趙王(ちょうおう)の常山(じょうざん)の郡を削(けず)る。呉・楚反(はん)するとき、趙王遂(すい)、ともに謀(はかりごと)を合わせて兵を起こす。その相(しょう)建徳(けんとく)、内史(だいし)王悍(おうかん)諫(いさ)むれども、聴かず。遂(すい)、建徳(けんとく)・王悍(おうかん)を焼殺し、兵を発してその西界(せいかい)に屯(とん)し、呉を待ちてともに倶(とも)に西(にし)し、北のかた匈奴(きょうど)に使(つかい)して、ともに連和(れんわ)して漢を攻めんと欲す。漢、曲周侯(きょくしゅうこう)酈寄(れきき)をして、これを撃たしむ。趙王遂(すい)還(かえ)り、邯鄲(かんたん)を城守(じょうしゅ)し、相(あい)距(ふせ)ぐこと七月。呉・楚、梁に敗(やぶ)れ、西(にし)することあたわず。匈奴(きょうど)これを聞き、また止(とど)まり、漢の辺(へん)に入(い)るを肯(がえん)ぜず。欒布(らんぷ)、斉を破りてより還(かえ)り、すなわち兵を并(あわ)せ、水を引きて趙城(ちょうじょう)に灌(そそ)ぐ。趙城壊(やぶ)る。趙王(ちょうおう)自殺す。邯鄲(かんたん)ついに降(くだ)る。趙の幽王(ゆうおう)、後(のち)を絶(た)つ。
太史公曰、國之將興、必有禎祥、君子用而小人退。國之將亡、賢人隱、亂臣貴。使楚王戊毋刑申公、遵其言、趙任防與先生、豈有簒殺之謀、爲天下僇哉。賢人乎、賢人乎。非質有其内、惡能用之哉。甚矣、安危在出令、存亡在所任。誠哉是言也。
「
太史公(たいしこう)曰く、国のまさに興(おこ)らんとするや、必ず禎祥(ていしょう)あり、君子用(もち)いられて小人退(しりぞ)く。国のまさに亡(ほろ)びんとするや、賢人隠(かく)れ、乱臣貴(たっと)し。楚王戊(ぼう)をして申公(しんこう)を刑(けい)するなくして、その言に遵(したが)わしめ、趙をして防与(ぼうよ)先生に任(にん)ぜしめば、あに簒殺(さんし)の謀(はかりごと)ありて、天下の僇(りく)とならんや。賢人なるかな、賢人なるかな。質(しつ)その内(うち)に有(ゆう)するにあらずんば、いずくんぞよくこれを用(もち)いんや。甚(はなは)だしきかな、安危(あんき)は令(れい)を出(い)だすにあり、存亡(そんぼう)は任(にん)ずるところにありと。誠(まこと)なるかなこの言(げん)や。
」
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司馬(しば)穣苴(じょうしょ)列伝(れつでん)第四
司馬穰苴者、田完之苗裔也。齊景公時、晉伐阿甄、而燕侵河上。齊師敗績。景公患之。晏嬰乃薦田穰苴曰、穰苴雖田氏庶孽、然其人文能附眾、武能威敵。願君試之。景公召穰苴與語兵事、大説之、以爲將軍、將兵扞燕晉之師。穰苴曰、臣素卑賤。君擢之閭伍之中、加之大夫之上、士卒未附、百姓不信、人微權輕。願得君之寵臣、國之所尊、以監軍乃可。於是景公許之、使莊賈往。
「
司馬(しば)穣苴(じょうしょ)は、田完(でんかん)の苗裔(びょうえい)なり。斉(せい)の景公(けいこう)のとき、晋(しん)、阿(あ)・甄(けん)を伐(う)ち、しかも燕(えん)、河上(かじょう)を侵(おか)す。斉の師敗績(はいせき)す。景公(けいこう)、これを患(うれ)う。晏嬰(あんえい)すなわち田(でん)穣苴(じょうしょ)を薦(すす)めて曰く、「穣苴(じょうしょ)は、田氏(でんし)の庶孽(しょげつ)なりといえども、しかれどもその人、文はよく衆を附(つ)け、武はよく敵を威(おど)す。願わくは君(きみ)、これを試みよ」と。景公、穣苴(じょうしょ)を召し、ともに兵事(へいじ)を語り、大いにこれを説(よろこ)び、もって将軍となし、兵を将(ひき)いて燕(えん)・晋(しん)の師を扞(ふせ)がしむ。穣苴曰く、「臣はもと卑賤なり。君(きみ)、これを閭伍(りょご)の中(うち)より擢(ぬき)んで、これを大夫の上に加うるも、士卒いまだ附かず、百姓(ひゃくせい)信ぜず、人は微にして権は軽(かろ)し。願わくは君(きみ)の寵臣(ちょうしん)、国の尊ぶところを得て、もって軍を監(かん)せしめば、すなわち可ならん」と。ここにおいて景公これを許し、荘賈(そうか)をして往(ゆ)かしむ。」
穰苴既辭、與莊賈約曰、旦日、日中會於軍門。穰苴先馳至軍、立表下漏待賈。賈素驕貴。以爲將己之軍、而己爲監不甚急。親戚左右送之、畱飮。日中而賈不至。穰苴則仆表決漏、入行軍勒兵、申明約束。約束既定。夕時莊賈乃至。穰苴曰、何後期爲。賈謝曰、不佞。大夫親戚送之。故畱。穰苴曰、將受命之日、則忘其家、臨軍約束、則忘其親、援枹鼓之急、則忘其身。今敵國深侵、邦内騷動、士卒暴露於境。君寢不安席、食不甘味。百姓之命、皆懸於君。何謂相送乎。召軍正問曰、軍法期而後至者云何。對曰、當斬。莊賈懼、使人馳報景公請救。
「
穣苴(じょうしょ)すでに辞し、荘賈(そうか)と約して曰く、「旦日(たんじつ)、日中に軍門に会せん」と。穣苴(じょうしょ)先ず馳(は)せて軍に至り、表(ひょう)を立て漏(ろう)を下(くだ)し賈(か)を待つ。賈(か)はもと驕貴(きょうき)なり。将(しょう)はすでに軍にゆき、しかもおのれは監(かん)たりと以為(おも)い、はなはだしくは急がず。親戚左右これを送るに、留飲(りゅういん)す。日中にして賈(か)至らず。穣苴(じょうしょ)すなわち表(ひょう)を仆(たふ)し漏(ろう)を決し、入りて軍を行(めぐ)り兵を勒(ろく)し、約束を申明(しんめい)す。約束すでに定まる。夕時(せきじ)、荘賈(そうか)すなわち至る。穣苴(じょうしょ)曰く、「何(なん)ぞ期に後るるをなす」と。賈(か)謝して曰く、「不佞(ふねい)なり。大夫の親戚これを送る。ゆえに留まる」と。穣苴(じょうしょ)曰く、「将(しょう)、命(めい)を受くるの日には、すなわちその家を忘れ、軍に臨(のぞ)み約束せば、すなわちその親を忘れ、枹鼓(ふこ)を援(と)ること急なればすなわちその身を忘る。いま敵国深く侵(おか)し、邦内(ほうない)騒動し、士卒(しそつ)、境(さかい)に暴露す。君(きみ)、寝(い)ねて席に安んぜず、食(くら)いて味(あじわい)を甘(うま)しとせず。百姓(ひゃくせい)の命(いのち)みな君(きみ)に懸(かか)る。何ぞ相(あい)送ると謂わんや」と。軍正(ぐんせい)を召して問うて曰く、「軍法に期(き)して後れて至る者はいかん」と。対(こた)えて曰く、「斬(ざん)に当る」と。荘賈(そうか)懼(おそ)れ、人をして馳(は)せて景公に報じ、救いを請(こ)わしむ。
」
既往、未及反。於是遂斬莊賈、以徇三軍。三軍之士、皆振慄。久之、景公遣使者持節赦賈。馳入軍中。穰苴曰、將在軍君令有所不受。問軍正曰、軍中不馳。今使者馳、云何。正曰、當斬。使者大懼。穰苴曰、君之使、不可殺之。乃斬其僕、車之左駙、馬之左驂、以徇三軍。遣使者還報、然後行。
「
すでに往(ゆ)き、いまだ反(かえ)るに及ばず。ここにおいてついに荘賈(そうか)を斬り、もって三軍に徇(とな)う。三軍の士、みな振慄(しんりつ)す。これを久しくして、景公、使者を遣(つか)わし、節を持し賈(か)を赦(ゆる)さしむ。馳(は)せて軍中に入る。穣苴(じょうしょ)曰く、「将(しょう)、軍にありては君(きみ)の令(れい)も受けざるところあり」と。軍正(ぐんせい)に問うて曰く、「軍中には馳(は)せず。今、使者馳(は)するはいかん」と。正(せい)曰く、「斬(ざん)に当る」と。使者大いに懼(おそ)る。穣苴(じょうしょ)曰く、「君(きみ)の使いは、これを殺すべからず」と。すなわちその僕(ぼく)と車の左駙(さふ)と馬の左驂(ささん)を斬り、もって三軍に徇(とな)う。使者を遣(つか)わし還(かえ)り報ぜしめ、しかるのち行(ゆ)く。
軍中不馳。今使者馳、云何 … 中華書局本では「馳三軍法何」に作る。
」
士卒次舎、井竈飮食、問疾醫藥、身自拊循之、悉取將軍之資糧享士卒、身與士卒平分糧食、最比其羸弱者。三日而後勒兵、病者皆求行、爭奮出爲之赴戰。晉師聞之、爲罷去。燕師聞之、度水而解。於是追撃之、遂取所亡封内故境、而引兵歸。未至國、釋兵旅、解約束、誓盟而後入邑。景公與諸大夫郊迎、勞師成禮、然後反歸寢。既見穰苴、尊爲大司馬。
「
士卒(しそつ)の次舎(じしゃ)、井竈(せいそう)飲食、疾(しつ)を問い医薬すること、身みずからこれを拊循(ふじゅん)し、ことごとく将軍の資糧(しりょう)を取り士卒に享(きょう)し、身は士卒と糧食を平分(へいぶん)し、もっともその羸弱(るいじゃく)なる者に比(ひ)す。三日にしてのち、兵を勒(ろく)するに、病者もみな行かんことを求め、争い奮(ふる)い出(い)でこれがために戦いに赴(おもむ)かんとす。晋(しん)の師これを聞き、ために罷(や)め去る。燕(えん)の師これを聞き、水を度(わた)りて解(と)く。ここにおいてこれを追撃(ついげき)し、ついに亡(うしな)う所の封内(ほうない)の故境(こきょう)を取りて、兵を引きて帰る。いまだ国に至らざるに、兵旅(へいりょ)を釈(と)き、約束を解(と)き、誓盟(せいめい)してのち邑(ゆう)に入(い)る。景公、諸大夫(しょたいふ)と郊(こう)に迎え、師を労(ねぎら)い礼を成し、しかるのち反(かえ)りて帰寝(きしん)す。すでに穣苴(じょうしょ)を見、尊(たっと)びて大司馬(だいしば)となす。
」
田氏日以益尊於齊。已而大夫鮑氏高國之屬害之、譖於景公。景公退穰苴。苴發疾而死。田乞田豹之徒、由此怨高國等。其後及田常殺簡公、盡滅高子國子之族。至常曾孫和、因自立爲齊威王。用兵行威、大放穰苴之法。而諸侯朝齊。齊威王使大夫追論古者司馬兵法、而附穰苴於其中。因號曰司馬穰苴兵法。
「
田氏(でんし)日にもってますます斉に尊(たっと)し。すでにして大夫鮑氏(ほうし)・高(こう)・国(こく)の属(ぞく)これを害(ねた)み、景公に譖(しん)す。景公、穣苴(じょうしょ)を退く。苴(しょ)、疾(やまい)を発して死す。田乞(でんきつ)・田豹(でんひょう)の徒、これにより高(こう)・国等(こくら)を怨む。そののち、田常(でんじょう)、簡公(かんこう)を殺すに及び、ことごとく高子(こうし)・国子(こくし)の族を滅(ほろ)ぼす。常(じょう)の曾孫(そうそん)和(わ)に至り、因(いん)みずから立ち、斉の威王(いおう)となる。兵を用(もち)い威を行なうに、大いに穣苴(じょうしょ)の法に放(なら)う。しこうして諸侯、斉に朝(ちょう)す。斉の威王(いおう)、大夫をして古(いにしえ)の司馬の兵法(へいほう)を追論(ついろん)せしめ、しこうして穣苴(じょうしょ)をその中(うち)に附(ふ)す。よりて号(なづ)けて司馬穣苴(じょうしょ)の兵法(へいほう)と曰(い)う。
」
太史公曰、余讀司馬兵法、閎廓深遠、雖三代征伐、未能竟其義。如其文也、亦少裦矣。若夫穰苴區區爲小國行師、何暇及司馬兵法之揖讓乎。世既多司馬兵法。以故不論。著穰苴之列傳焉。
「
太史公(たいしこう)曰く、余(よ)、司馬の兵法(へいほう)を読むに、閎廓(こうかく)深遠、三代の征伐といえども、いまだその義を竟(つ)くすあたわず。その文のごとくなるや、また少しく褒(ほう)す。かの穣苴(じょうしょ)の区区(くく)として小国のために師を行(や)るがごときに、何ぞ司馬の兵法(へいほう)の揖譲(ゆうじょう)に及ぶ暇(いとま)あらんや。世(よ)、すでに司馬の兵法(へいほう)多し。ゆえをもって論ぜず。穣苴(じょうしょ)の列伝を著(あらわ)す。
」
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田単(でんたん)列伝第二十二
田單者、齊諸田疏屬也。湣王時、單爲臨菑市掾、不見知。及燕使樂毅伐破齊、齊湣王出奔、已而保莒城。燕師長驅平齊、而田單走安平。令其宗人盡斷其車軸末、而傅鐵籠。已而燕軍攻安平、城壞。齊人走爭塗。以轊折車敗、爲燕所虜。唯田單宗人、以鐵籠故得脱、東保即墨。燕既盡降齊城。唯獨莒・即墨不下。燕軍聞齊王在莒、并兵攻之。淖齒既殺湣王於莒、因堅守距燕軍、數年不下。燕引兵東圍即墨。即墨大夫出與戰、敗死。城中相與推田單曰、安平之戰、田單宗人、以鐵籠得全。習兵。立以爲將軍、以即墨距燕。
「
田単(でんたん)は、斉(せい)の諸田(しょでん)の疏属(そぞく)なり。湣王(びんおう)のとき、単(たん)、臨菑(りんし)の市掾(しえん)となりしが、知られず。燕(えん)の、楽毅(がくき)をして伐(う)って斉を破(やぶ)らしむるに及び、斉の湣王(びんおう)、出奔し、すでにして莒城(きょじょう)に保(お)れり。燕の師、長駆(ちょうく)して斉を平(たい)らげ、しこうして田単(でんたん)、安平(あんぺい)に走(に)ぐ。その宗人(そうじん)をしてことごとくその車軸の末(すえ)を断ちて鉄篭(てつろう)を傅(つ)けしむ。すでにして燕軍(えんぐん)、安平(あんぺい)を攻め、城壊(やぶ)る。斉人(せいひと)走(に)げて塗(みち)を争う。轊(えい)折れ、車敗(やぶ)るるをもって、燕(えん)の虜(とりこ)にするところとなる。ただ田単の宗人(そうじん)のみ、鉄篭(てつろう)をもってのゆえに脱(のが)るるを得(え)、東(ひがし)して即墨(そくぼく)に保(お)り。燕(えん)すでにことごとく斉の城を降(くだ)す。ただひとり莒(きょ)・即墨(そくぼく)のみ下(くだ)らず。燕軍、斉王の莒(きょ)にあるを聞き、兵を并(あわ)せこれを攻む。淖歯(とうし)すでに湣王(びんおう)を莒(きょ)に殺し、よりて堅く守りて燕軍を距(ふせ)ぎ、数年下(くだ)らず。燕、兵を引き東(ひがし)して即墨(そくぼく)を囲(かこ)む。即墨の大夫出(い)でてともに戦い、敗(やぶ)れ死す。城中相(あい)ともに田単を推(お)して曰く、「安平(あんぺい)の戦いに、田単の宗人(そうじん)は鉄篭(てつろう)をもって全(まった)きを得たり。兵に習う」と。立ててもって将軍となし、即墨(そくぼく)をもって燕(えん)を距(ふせ)ぐ。
」
頃之燕昭王卒、惠王立。與樂毅有隙。田單聞之、乃縱反閒於燕、宣言曰、齊王已死。城之不拔者二耳。樂毅畏誅而不敢歸。以伐齊爲名、實欲連兵南面而王齊。齊人未附。故且緩攻即墨、以待其事。齊人所懼、唯恐他將之來、即墨殘矣。燕王以爲然、使騎劫代樂毅。
「
頃之(けいし)して燕の昭王卒(しゅつ)し、恵王立つ。楽毅(がくき)と隙(げき)あり。田単これを聞き、すなわち反間(はんかん)を燕に縦(はな)ち、宣言して曰く、「斉王すでに死す。城の抜かざる者は二つのみ。楽毅(がくき)、誅(ちゅう)を畏(おそ)れあえて帰らず。斉を伐(う)つをもって名となせども、実は兵を連(つら)ね南面して斉に王たらんと欲す。斉人(せいひと)いまだ附(したが)わず。ゆえにしばらく緩(ゆる)く即墨(そくぼく)を攻め、もってその事(こと)を待つ。斉人(せいひと)の懼(おそ)るるところは、ただ他の将(しょう)の来りて、即墨の残(そこな)われんを恐るるなり」と。燕王(えんおう)もって然(しか)りとなし、騎劫(ききょう)をして楽毅(がくき)に代(か)わらしむ。
」
樂毅因歸趙、燕人・士卒忿。而田單乃令城中人、食必祭其先祖於庭。飛鳥悉翔舞城中、下食。燕人怪之。田單因宣言曰、神來下教我。乃令城中人曰、當有神人爲我師。有一卒曰、臣可以爲師乎。因反走。田單乃起引還、東郷坐、師事之。卒曰、臣、欺君。誠無能也。田單曰、子勿言也。因師之。毎出約束、必稱神師。乃宣言曰、吾唯懼、燕軍之劓所得齊卒、置之前行、與我戰、即墨敗矣。燕人聞之、如其言。城中人、見齊諸降者盡劓、皆怒堅守、唯恐見得。單、又、縱反閒曰、吾懼燕人掘吾城外冢墓僇先人。可爲寒心。燕軍盡掘壟墓燒死人。即墨人、從城上望見、皆涕泣、倶欲出戰、怒自十倍。
「
楽毅(がくき)よりて趙(ちょう)に帰し、燕人(えんぴと)・士卒(しそつ)忿(いか)る。しこうして田単すなわち城中(じょうちゅう)の人をして食するに必ずその先祖を庭に祭らしむ。飛鳥(ひちょう)ことごとく城中に翔舞(しょうぶ)して下(くだ)り食(は)む。燕人(えんぴと)これを怪しむ。田単よりて宣言して曰く、「神来(きた)り下(くだ)りてわれに教う」と。すなわち城中の人に令(れい)して曰く、「まさに神人(しんじん)ありてわが師となるべし」と。一卒(そつ)ありて曰く、「臣(しん)もって師となるべきか」と。よりて反(かえ)り走る。田単すなわち起(た)ち引き還(かえ)して、東郷(とうきょう)に坐せしめ、これに師事す。卒曰く、「臣、君(きみ)を欺(あざむ)けり。誠(まこと)は能(のう)なきなり」と。田単曰く、「子(し)言うなかれ」と。よりてこれを師とし、約束を出(い)だすごとに、必ず神師(しんし)と称す。すなわち宣言して曰く、「われただ懼(おそ)るるは、燕軍の得るところの斉の卒を劓(はなき)り、これを前行(ぜんこう)に置き、われと戦い、即墨の敗(やぶ)れんことなり」と。燕人(えんぴと)これを聞き、その言(げん)のごとくす。城中の人、斉のもろもろの降(くだ)れる者のことごとく劓(はなき)らるるを見て、みな怒りて堅く守り、ただ得らるるを恐る。単(たん)また反間(はんかん)を縦(はな)ちて曰く、「われ、燕人(えんぴと)のわが城外の冢墓(ちょうぼ)を掘り先人を僇(はずかし)めんことを懼(おそ)る。寒心(かんしん)をなすべし」と。燕軍ことごとく壟墓(りょうぼ)を掘り、死人を焼く。即墨の人、城上より望見(ぼうけん)して、みな涕泣(ていきゅう)し、ともに出(い)でて戦わんと欲し、怒りおのずから十倍(じゅうばい)す。
」
田單知士卒之可用、乃身操版插、與士卒分功、妻妾編於行伍之閒、盡散飮食饗士。令甲卒皆伏、使老弱女子乘城、遣使約降於燕。燕軍皆呼萬歳。田單又收民金得千溢、令即墨富豪遺燕將曰、即墨即降、願無虜掠吾族家妻妾、令安堵。燕將大喜許之。燕軍由此益懈。
「
田単(でんたん)、士卒の用(もち)うべきを知り、すなわちみずから版挿(はんそう)を操(と)り、士卒と分功(ぶんこう)し、妻妾(さいしょう)を行伍(こうご)の間(あいだ)に編(あ)み、ことごとく飲食を散じて士を饗(きょう)す。甲卒(こうそつ)をしてみな伏(ふく)せしめ、老弱(ろうじゃく)女子をして城に乗(のぼ)らしめ、使いを遣(つか)わして降(くだ)るを燕に約す。燕の軍、みな万歳と呼ぶ。田単また民の金を収めて千溢(せんいつ)を得、即墨の富豪をして燕の将(しょう)に遺(おく)らしめて曰く、「即墨もし降(くだ)らば、願わくはわが族家(ぞくか)妻妾(さいしょう)を虜掠(りょりゃく)するなく、安堵(あんど)せしめよ」と。燕の将(しょう)大いに喜び、これを許す。燕の軍これによりますます懈(おこた)る。
」
田單乃收城中得千餘牛。爲絳繒衣、畫以五彩龍文、束兵刃於其角、而灌脂束葦於尾、燒其端、鑿城數十穴、夜縱牛。壯士五千人隨其後。牛尾熱、怒而奔燕軍。燕軍夜大驚。牛尾炬火光明炫燿。燕軍視之皆龍文、所觸盡死傷。五千人因銜枚撃之、而城中鼓譟從之、老弱皆撃銅器爲聲。聲動天地。燕軍大駭敗走。齊人遂夷殺其將騎劫。燕軍擾亂奔走。齊人追亡逐北、所過城邑、皆畔燕而歸田單。兵日益多乘勝、燕日敗亡、卒至河上。而齊七十餘城、皆復爲齊。乃迎襄王於莒、入臨菑而聽政。襄王封田單、號曰安平君。
「
田単(でんたん)すなわち城中に収めて千余(せんよ)牛(ぎゅう)を得(え)たり。絳繒(こうそう)の衣(ころも)を為(つく)り、画(えが)くに五彩(ごさい)の龍文(りょうもん)をもってし、兵刃(へいじん)をその角(つの)に束(つか)ね、しこうして脂(あぶら)を灌(そそ)ぎ、葦(あし)を尾(お)に束(つか)ね、その端(はし)を焼き、城に数十穴を鑿(うが)ちて、夜、牛を縦(はな)つ。壮士(そうし)五千人、その後(しりえ)に随う。牛は尾(お)熱し、怒りて燕の軍に奔(はし)る。燕の軍夜(よる)大いに驚く。牛尾(ぎゅうび)の炬火(きょか)の光明、炫耀(げんよう)たり。燕の軍これを視(み)るにみな龍文(りょうもん)にして、触(ふ)るるところことごとく死傷す。五千人よりて枚(ばい)を銜(ふく)みこれを撃ち、しこうして城中鼓(こ)譟(そう)してこれに従い、老弱(ろうじゃく)、みな銅器を撃(う)ちて声をなす。声、天地を動かす。燕軍大いに駭(おどろ)き、敗走(はいそう)す。斉人(せいひと)ついにその将(しょう)騎劫(ききょう)を夷殺(いさつ)す。燕軍擾乱(じょうらん)奔走(ほんそう)す。斉人(せいひと)亡(に)ぐるを追い北(に)ぐるを逐(お)い、過(す)ぐるところの城邑(じょうゆう)、みな燕に畔(そむ)き田単に帰す。兵日(ひ)にますます多く勝ちに乗ず。燕は日に敗亡(はいぼう)し、ついに河上(かじょう)に至る。しこうして斉の七十余城、みなまた斉となる。すなわち襄王(じょうおう)を莒(きょ)より迎え、臨菑(りんし)に入れて政(まつりごと)を聴かしむ。襄王(じょうおう)、田単を封(ほう)じ、号して安平君(あんぺいくん)と曰(い)う。
」
太史公曰、兵以正合、以奇勝。善之者、出奇無窮、奇正還相生、如環之無端。夫始如處女適人開戸、後如脱兔、適不及距、其田單之謂邪。
「
太史公(たいしこう)曰く、兵は正(せい)をもって合い、奇をもって勝つ。これを善くする者は、奇を出(い)だすこと窮(きわ)まりなく、奇・正還(めぐ)りて相(あい)生ずること、環(たまき)の端(はし)なきがごとし。それ始めは処女のごとく、適人(てきじん)戸を開く、のちには脱兎(だっと)のごとく、適(てき)、距(ふせ)ぐに及ばずとは、それ田単の謂(い)いか。
」
初淖齒之殺湣王也、莒人求湣王子法章、得之太史嬓之家。爲人灌園。嬓女憐而善遇之。後法章私以情告女。女遂與通。及莒人共立法章爲齊王、以莒距燕、而太史氏女遂爲后。所謂君王后也。
「
初め淖歯(とうし)の湣王(びんおう)を殺すや、莒人(きょひと)湣王(びんおう)の子法章(ほうしょう)を求め、これを太史嬓(きょう)の家に得たり。人のために園に灌(そそ)ぐ。嬓女(きょうじょ)憐(あわ)れみて善くこれを遇(ぐう)す。のち、法章(ほうしょう)ひそかに情をもって女(じょ)に告ぐ。女(じょ)ついにともに通ず。莒人(きょひと)ともに法章(ほうしょう)を立てて斉王となし、莒(きょ)をもって燕を距(ふせ)ぐに及び、太史氏の女(じょ)ついに后(こう)となる。いわゆる君王后(くんおうこう)なり。
」
燕之初入齊、聞畫邑人王蠋賢、令軍中曰、環畫邑三十里無入。以王蠋之故。已而使人謂蠋曰、齊人多高子之義。吾以子爲將、封子萬家。蠋固謝。燕人曰、子不聽、吾引三軍而屠畫邑。王蠋曰、忠臣不事二君。貞女不更二夫。齊王不聽吾諫、故退而耕於野。國既破亡、吾不能存。今又劫之以兵。爲君將、是助桀爲暴也。與其生而無義、固不如烹。遂經其頸於樹枝、自奮絶脰而死。齊亡大夫聞之曰、王蠋布衣也。義不北面於燕。況在位食祿者乎。乃相聚如莒、求諸子立爲襄王。
「
燕の初め斉に入るや、画邑(かくゆう)の人王蠋(おうしょく)の賢(けん)を聞き、軍中に令(れい)して曰く、「画邑(かくゆう)を環(めぐ)りて三十里、入(い)ることなかれ」と。王蠋(おうしょく)のゆえをもってなり。すでにして人をして蠋(しょく)に謂(い)わしめて曰く、「斉人(せいひと)多く子(し)の義を高しとす。われ、子(し)をもって将(しょう)となし、子(し)を万家(ばんか)に封(ほう)ぜん」と。蠋(しょく)固く謝(しゃ)す。燕人(えんぴと)曰く、「子(し)聴かずんば、われ三軍を引きて画邑(かくゆう)を屠(ほふ)らん。王蠋(おうしょく)曰く、「忠臣は二君(にくん)に事(つか)えず。貞女(ていじょ)は二夫(にふ)を更(か)えず。斉王、わが諫(いさ)めを聴かず、ゆえに退きて野(や)に耕す。国すでに破亡(はぼう)し、われ、存することあたわず。今またこれを劫(おびや)かすに兵をもってす。君(きみ)の将(しょう)となるは、これ桀(けつ)を助けて暴(ぼう)をなすなり。その生きて義なきよりは、固より烹(に)られんにしかず」と。ついにその頚(くび)を樹枝に経(か)け、みずから奮(ふる)い脰(うなじ)を絶ちて死す。斉の亡大夫(ぼうたいふ)これを聞きて曰く、「王蠋(おうしょく)は布衣(ふい)なり。義として燕に北面せず。いわんや位(くらい)にあり禄(ろく)を食(は)む者をや」と。すなわち相(あい)聚(あつ)まり、莒(きょ)に如(ゆ)き、諸子を求めて、立てて襄王(じょうおう)となす。
」
史 記 終
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