このころ、藩士が熊本を訪れて横井小楠と会い、その識見に驚嘆した。嘉永4年(1856)6月に小楠は福井を訪れ、藩士たちはその講義を熱心に聴いた
海防訴える龍馬の意見に理解
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@幕末維新と松平春嶽 [単行本] 三 上 一夫 (著) \2940.- 坂本龍馬・横井小楠を世に出した福井藩主・松平春嶽の波瀾の生涯。 幕末四賢侯の一人、福井藩主松平春岳は政治の渦の中心にあり、維新史の行方を左右した。坂本竜馬、横井小楠を世に出し、真に望ましい日本近代化を追求した先覚者・春岳の波瀾の生涯と魅力ある人間像に迫る。 A松平春嶽のすべて [単行本] 三上 一夫 (編集), 舟沢 茂樹 (編集) \2520.- 激動する幕末維新期、たぐいまれなる英知と先見性を備え、近代日本に議会制統一国家という理想像を追い求めた福井藩主=松平春嶽。その波乱の生涯を描き、混迷の現代社会が求めるリーダー像を、その思想と行動に学ぶ。 |
松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、江戸時代後期の大名、第16代越前福井藩主。[1]明治時代の政治家でもある。
春嶽は号で、慶永(よしなが)が諱である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。
田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍徳川家慶の従兄弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。
江戸城田安屋敷に生まれる。中根雪江に教育を受け、天保9年(1838年)に斉善が死去すると11歳で藩主となる。同年、元服。将軍徳川家慶の一字を賜り、慶永と名乗る。正四位下、左近衛権少将・越前守に叙任。中根や由利公正、橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。嘉永4年(1851年)左近衛権中将。嘉永6年(1853年)アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬とともに海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
13代将軍徳川家定の継嗣問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の慶喜を後押しする。幕閣では将軍後継問題で紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり、将軍世子は慶福に決定する。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議し、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。橋本左内はその後の安政の大獄において死刑に処せられている。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許される。
朝廷では島津斉彬の死後、弟の島津久光が兵を率いて京都へ上洛し、政局に積極的に関わっており、久光は勅使の大原重徳とともに江戸へ下り、慶喜を将軍後見職とし、春嶽を政事総裁職とすること要求した。文久2年7月9日、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、会津藩主松平容保の守護職就任、将軍徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する(→文久の改革)。春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視した。翌文久3年(1863年)には上洛するが、京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると反対して3月2日に政事総裁職を辞任する。会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州藩が朝敵となると参預に任命されている(→参預会議)。
元治元年(1864年)2月15日には軍事総裁職に転じた容保に代わり京都守護職に就任し、翌日、越前守から大蔵大輔に転任する。しかし、4月7日には京都守護職を退いている。
慶応3年(1867年)には、島津久光や前土佐藩主の山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城らと四侯会議を開き、長州藩の処分について話し合い、春嶽は長州征伐には反対するが、2次に渡る長州征伐に至る。12月9日の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
維新後、新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督、明治2年(1869年)5月15日民部官知事、同年7月8日民部卿、8月11日には大蔵卿を兼任。8月24日には大学別当・侍読に就任。同年9月26日に正二位に叙せられた。明治3年(1870年)に政務を退く。
明治14年(1881年)勲二等旭日重光章受章。明治21年(1888年)に従一位に叙せられ、翌年勲一等旭日大綬章を受章。明治23年(1890年)に小石川の自邸で死去、享年63。墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺。死の翌年の明治24年(1891年)には佐佳枝廼社(越前東照宮)に春嶽の霊が合祀された。昭和18年(1943年)には春嶽を主祭神とする別格官幣社福井神社が創建された。
辞世の歌は「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため」。
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越前福井藩の松平春嶽と坂本龍馬のかかわりについて紹介したい。
奥田静夫
筆者の郷里は福井県である。北海道龍馬会入会を機に、越前福井藩の松平春嶽と坂本龍馬のかかわりについて紹介したい。
松平春嶽は文政11年(1828)9月、徳川御三卿の田安家3代斉匡の八男として、江戸城内の田安邸で生まれた。父の斉匡は、第11代将軍徳川家斉の弟であり、母の礼以子は、閑宮家司木村政辰の娘であった。
幼名を錦之丞、元服後の名を慶永といったが、彼が生涯最も愛用したのは「春嶽」という号であった。本稿では春嶽の呼び名で統一する。
田安家は初代宗武以来、国学に励むなどの伝統があったが、春嶽は幼いころから学問を好み、父斉匡から「羊のように紙を好む」と評されたほどであった。
春嶽の学問好きは一生続き、幕末の諸大名の中で彼ほど多くの記録を残した人はいないといわれる。天保9年(1838)9月、春嶽はわずか11歳で越前福井藩(32万石)の第16代藩主となった。これは前藩主松平斉善の病没に伴い、養継子として同家を継いだものであった。春嶽は江戸橋(東京・大手町)の福井藩邸に移り住み、中根雪江らの重臣に迎えられて藩政に取り組むことになった。
このころの福井藩は、飢饉の影響などで財政が苦しく、領民の生活も窮乏していた。中根や近習の浅井政昭らはこの幼君の資質に大きな期待を抱いてその教育に心血を注ぎ、ときには少しもはばかることなく直言した。春嶽も周囲の期待に応えて厳しく身を律し、よく諫言を聞き入れ、諫言書を一包みにして生涯大事に所持したという。
天保14年(1843)、14歳のとき、水戸徳川藩主を訪ね、藩主の心得について教えを請うた。その熱意に感銘を受けた斉昭は、自分の考えを長文の手紙にしたため、春嶽に届けている。
その後、福井に入国すると、頻繁に領内を巡回し、庶民の生活に直接触れた。
ある日、南条郡の鄙びた村を訪れたとき、道端にひれふしている老婆に向かい、毎日の食事について尋ねたところ、菜雑炊と稗団子を食べていると答えたので、これを作らせて試食してみた。しかし「難渋至極」、つまりのどに通るしろものではなかったという。
こうした巡回の経験が、のちに福井藩論を特色づける「民富めば国富む」(民冨論)という考え方を育てた。春嶽が藩重臣の人事などで主導的な役割を果たすようになったのは、17、18歳のころからであった。弘化2年(1845)5月、鈴木主税を頭取の要職に抜擢して藩政の中核に据え、守旧派の家老岡部左膳らを解任するとともに、橋本左内、三岡石五郎(のちの由利公正)らの革新的な家臣をどしどし登用した。
こうして新進気鋭の「改革派」家臣団グループが誕生し、春嶽は彼らを含め、多くの人々の意見を聴くことに意を用いた。「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」という言葉が、春嶽の詩幅として残されている。のちの龍馬との出会いも、このよい例としてあげられている。
春嶽は藩政全般にわたる経費節減につとめ、家臣の禄高を半減したりした。その一方で藩領の沿岸警備のため、洋式大砲の製造や台場(砲台)の構築などにも力を注いだ。(続く)
このころ、藩士が熊本を訪れて横井小楠と会い、その識見に驚嘆した。嘉永4年(1856)6月に小楠は福井を訪れ、藩士たちはその講義を熱心に聴いた
海防訴える龍馬の意見に理解奥田静夫
このころ、藩士が熊本を訪れて横井小楠と会い、その識見に驚嘆した。嘉永4年(1856)6月に小楠は福井を訪れ、藩士たちはその講義を熱心に聴いた。
春嶽も藩校創設にあたっての意見などを求め、これに応じた小楠は、学問の基本が、単に書物の解釈にあるのではなく、「経世済民」、つまり国を治め、民衆の生活安定を図ることにあると説いている。
安政5年(1858)には大老井伊直弼らによる弾圧で、春嶽は隠居・を命ぜられ、糸魚川藩より松平を養継子(藩主)に迎えた。
しかし、まもなく復権を果たし、文久2年(1862)7月には幕府の(大老に相当)に就任、小楠の建策を用いながら幕政改革を推進した。
春嶽は幕閣専制を「私政」と批判し、幕府と朝廷、幕府と大名といった「公論政治」の実現を目指していた。
春嶽が坂本龍馬と出会ったのは、このころであった。春嶽が江戸城に登城する日の朝、福井藩邸に突然、岡本健三郎と龍馬が、面会を求めてやってきた。そこで中根雪江に先に会わせたあと、自ら2人に会い、その話しに耳を傾けた。
龍馬のような脱藩浪人に大藩の藩主が対面したことは、まさにであった。恐らくは、横井小楠か勝海舟の紹介状があったのではないかと思われる。(ただし春嶽自身は、むしろ自分が龍馬を横井や勝に紹介したと述べている。「逸事史補」)
翌3年2月、春嶽は将軍家茂の上洛を控え、自ら公武合体に向け奔走している。
その後、龍馬は勝の門人となり、この年の5月、勝の使者として、福井にいた春嶽を訪ねた。そして神戸海軍操練所の建設資金の援助を求めた。このころの福井藩では、「挙藩上洛」問題で、議論が沸騰していた。つまり京都で気勢をあげる攘夷派を圧して政局を安定させるため、福井藩を挙げて上洛し、外国代表や諸大名を呼んで会議を開き、「公儀公論」によって打開をはかろうというのである。
こうした議論のさなかではあったが、春嶽は国全体の海防の徹底を訴えた龍馬の意見に理解を示し、藩の年間予算に匹敵する大金5千両(諸説あり)を融通している。春嶽はこの際、龍馬から京都を中心とした政治情勢、とくに尊攘運動などについて聴き、活眼を養ったに違いない。
龍馬はこの機会に、小楠の紹介で由利公正に会い、酒を酌み交わしながら懇談している。
その後、龍馬は6月と7月に京都の福井藩邸を訪れ、改革派に属する重臣村田氏寿と会っている。このときの話の中心は、尊攘運動の牙城となった長州藩や、危機に瀕した外国との関係の問題についてであったといわれる。
慶応元年(1865)の蛤御門の変や第1次長州征討では、福井藩も幕府側に立って長州藩と戦ったが、長州再征には反対した。
翌2年1月には、龍馬らの尽力で「薩長同盟」が成立し、倒幕の流れが加速している。
この年12月、徳川慶喜が15代将軍となり、慶応3年(1867)には春嶽も上洛して四侯会議(島津久光、春嶽、伊達宗城、山内容堂)に参加、兵庫開港、長州処分などを論議した。
その際、とくに久光と慶喜の歩調が合わず、春嶽は2人の間の調整役をつとめた。
しかし結果的には薩摩側は四侯会議に政権を移行させようという意図が慶喜に阻止されたものと判断し、その後は西郷隆盛、大久保利通らの画策で武力により朝廷を掌握し、長州復権による倒幕路線を推進した。
8月、春嶽は失意のうちに帰藩している。
幕末の雄藩といえば薩長土肥が有名であるが、徳川の親藩・越前藩も松平春嶽という名君によって藩の建て直しが成功している。 土佐勤皇党であった坂本龍馬は開国論者・勝海舟に会いに行き(当初暗殺が目的であった)歴史は大きく動きたが、そのきっかけは松平春嶽にあるという。 坂本龍馬は最初、春嶽に会い勝を紹介された。 郷士の階級の人間が越前の殿様に会えるということは江戸中期では考えられないことであるが、国を思う優秀な人材には身分の壁を飛び越えて接する姿勢が春嶽にはあった。 後に勝海舟が神戸に海軍操練所を造ったときに、坂本龍馬を越前藩に使者として送り運営資金の調達を行っている。 このとき海軍の育成の重要性を理解した春嶽は5000両をだした。 これは春嶽の軍師・横井小楠のアドバイスでもあり、また同志として越前藩士・由利公正を龍馬に紹介している。 由利公正も横井とともに越前藩の財政立て直しを行った人物で、龍馬は新政府の財政立て直しを懸念して由利公正に相談を持ちかけている。 坂本龍馬が近江屋において暗殺され、王政復古後由利は新政府に招かれて財政を担当したが、このときに坂本龍馬の船中八策を整理し、新政府の根本方針としたのである。 五箇条の御誓文がそれである。
優秀な政治家・松平春嶽にはもう一人橋本左内という人物がいた。 西郷隆盛折り紙つきの男である。越前藩士の子として生まれた左内は16歳で大阪の緒方洪庵の門をたたき、3年間蘭学を学ぶなかで、日本の危機的な状況を理解することとなる。 左内の主君・松平春嶽は徳川一橋派であり、 徳川13代将軍の跡目には一橋慶喜を推していた。 ところが現実には幼少ではあるが老中以下の家臣が補佐すべきとして慶福を推す守旧派が幕閣を握っている。 そこで春嶽は朝廷から慶喜推薦の勅許を示してもらおうと考え、橋本左内を京に送り込み公家たちを説いた。 しかし春嶽の最大のライバルである守旧派幕閣・井伊直弼が腹心の長野主膳を送り、関白九条尚忠を見方につけたために一橋派は敗れた。 そして井伊直弼は大老となり春嶽を隠居の身に追い込むと、橋本左内は謹慎の身となり処刑されたのである。
受入事項 複製
資料形態 マイクロフィルム
数量 6巻
旧蔵者 松平春嶽 (まつだいらしゅんがく)
旧蔵者生没年 1828−1890
旧蔵者履歴 文政11(1828).9.2東京生まれ。本名は慶永。徳川三卿の田安家出身。天保9(1838).9越前福井藩主松平斉善嗣子。天保9.12襲封・左近衛中将兼越前守、安政5(1858).7隠退、文久2(1862).7政事総裁職、元治元(1864).2京都守護職、慶応3(1867).12議定職、慶応4(1868).1内国事務総督、慶應4.2議定職内国事務局補、慶応4.6権中納言、明治2(1869).5兼行政官機務取扱、民部官知事、明治2.7民部卿、明治2.8兼大蔵卿、大学別当兼侍読、明治3(1870).7辞職・麝香間伺候、1890.6.2死去。
受入公開
1979年3月、福井県立図書館「松平文庫」より資料を選択して複製マイクロフィルム作成
主な内容 「御書翰」(春嶽書翰写 文久3(1863)年10月〜慶応3(1867)年8月)22冊、「御来翰」(春嶽宛書翰写 文久3(1863)年10月〜慶応3(1867)年8月)20冊、「春嶽より茂昭宛書翰」4冊、「諸名家書翰綴」1冊
複写のための注記 複写要許可
検索手段
松平春嶽公記念文庫史料マイクロ撮影目録(福井市立郷土歴史博物館蔵分と合綴)
原資料の所在 福井県立図書館蔵
関連資料の所在
「松平春嶽関係文書」(MF1:福井市立郷土歴史博物館蔵)(当室蔵)
「越葵文庫」(福井市立郷土歴史博物館。『松平春嶽未公刊書簡集』伴五十嗣郎編、思文閣出版、1991)
関連文献
【資料紹介】
福地惇「松平慶永」『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館、2004
「松平文庫福井藩史料目録解題」『松平文庫福井藩史料目録』、福井県立図書館、1989
国立国会図書館 http://kindai.ndl.go.jp/
松平春岳公松平巽岳公履歴略,松平家, 1890 |
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江守孝三 ( Emori Kozo)