「自分に自信が持てない」と悩む人たちに、伝えたいメッセージがある。『14歳からの個人主義』(大和書房)を出した、NHKエンタープライズエグゼクティブ・プロデューサーの丸山俊一さんは「夏目漱石には『私の個人主義』という講演録がある。その主張は、自分をすり減らさない生き方のヒントとして読むことができる」という――。【この記事の画像を見る】■「みんなと一緒」がクセになった日本人 文豪・夏目漱石に、『私の個人主義』と題された作品があります。今から100年以上前の、大学生たちへの講演の記録です。 「個人主義」という言葉、今では自分勝手な人、自分の都合しか考えない人を指し、非難するときに使われることが多いですよね。 しかし漱石は、この言葉に熱い思いを込め、自分自身の人生を切り開くきっかけとなった考え方について語っています。当時フランスから日本に入ってきた新しい「個人主義」に、漱石が何を見出し、どんな思いを託したのか? そこに大事な、現代につながるヒントがあります。 いつも周囲をうかがうような気分が広がり、インターネットの広大な海で、皮肉なことに「つながる」ことでむしろ孤独感を感じている人が増えています。 そんな時代だからこそ、「自分を持つ」ということの本当の意味と大事さを、漱石が唱えた「個人主義」という言葉をきっかけに、考えてみませんか? ■100年前の日本人、コロナ禍の日本人に共通する悩み 新型コロナウイルスの感染爆発の中、拡大を阻止しつつ経済をどう回すかが、日々議論となりました。「あちら立てればこちらが立たず」というジレンマと解釈され、時に「生命か 経済か」という、不思議な表現まで生みました。どちらも「生きること」を意味するのに、ちょっと考えれば、おかしな表現です。 実はこれに似たねじれた表現で、漱石も社会を描写しています。 「生きるか 生きるか」。急激な近代化がもたらす逆説への皮肉です。 明治の文明開化の時代、日本は「殖産興業」を掲げ欧米流の「近代化」に向けて走り始めました。ヨーロッパから科学技術を導入し、急速な工業化が目指されたのです。最新の世界の技術を取り入れ、追いつけ追い越せと、国をあげての号令がかかっていました。
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しかし、そうしてがんばったことで生存競争から解放されたはずの社会で、人々は本当に豊かになったのか? 漱石は人々に問いかけ、機械による効率化ばかりに目が向けられ、ゆとりを無くしていく当時の社会の状況をこう表現したのです。----------今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。(中略)現代日本の開化は皮相(ひそう)上滑(うわすべ)りの開化であるという事に帰着するのである。(『現代日本の開化』夏目漱石、太字は筆者)----------
■「生きるか 生きるか」 コロナの中での「生命か 経済か」も、現代の「生きるか 生きるか」、または「経済か 経済か」という同じ言葉の繰り返し、同語反復に聞こえたと言ったら、言い過ぎでしょうか? 効率化を目指す経済の論理でものごとを捉えることが日常化してしまい、数字で表されることばかりが重要と思われがちな現代社会。 人が生きていく上で、本当に大切なことは何か? さまざまな価値観を持つ人々が行き交う社会は、どうあるべきなのか? 大きな視野で捉え、進行中の事態の中でも人間として考えるべき本質に目を凝らしたなら当然見えるはずの重要なことが、いつの間にかどこかに抜け落ちてしまうのです。そして結果、科学的な認識がむしろ軽視され、立ち止まって考える余裕も失われ、根本にあるべき生きる上で大事な理念がないがしろにされていく状況は実に皮肉です。 漱石の深い嘆きから一世紀あまり経っても、ぼくらはいまだに、残念ながら「生きるか 生きるか」の時代を生きているということなのかもしれません。
■文豪・夏目漱石の葛藤 急激な変化の時代に違和感と葛藤を抱えていた漱石ですが、自らの進むべき道にも悩んでいました。----------私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、と言って何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度(ちょうど)霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです。(中略)あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事の出来ない人のような気持ちがするのです。私は私の手にただ一本の錐(きり)さえあれば何処か一カ所突き破ってみせるのだがと、焦燥(あせ)り抜いたのですが、生憎(あいにく)その錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるのだろうと思って、人知れず陰鬱(いんうつ)な日を送ったのであります。(『私の個人主義』夏目漱石)---------- 日本の近代化のために、イギリスで英文学を学ぶことになった漱石は大いに悩みます。国の期待を背負って留学し、かつての大英帝国の文化、社会、風土を知れば知るほどに、ある大きなジレンマに気がついてしまうのです。
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イギリスという、成り立ちがまったく異なる背景を持つ国の文学や近代化された文化を、日本に紹介するという仕事に真面目に取り組もうとするほどに、その限界を感じてしまいます。 ただ進んでいる文明だからとやみくもに日本人が学びどうがんばっても、その理解は上辺だけのものに留まり「逆効果」すら生んでしまうのではないかと、葛藤は深まるのです。 形だけ真似をしても、そこに息づく人々の精神まで考えなければ、本末転倒となってしまうと。
■「自力で作り上げるよりほかない」 西洋の外側に見えるもの、形があるものだけをただ取り入れても、その技術を生んだ思考法、背後にあった人々の思いやその理念にまでしっかり触れることができなければ意味がないと、漱石は考えました。 そもそもイギリスの人々が、自らの精神のあり方について、自らの言葉である英語で迫っていこうとする試みである「英文学」というものの本質に、日本人である自分がどこまで辿り着くことができるのか? 悩み始めます。 英語には英語の思考法があります。そして、その背景にはイギリスという国が、長い歴史の中で育んだ文化、人のあり方、個人としてのあり方などがあります。それは日本、あるいは日本語とは、まったく異なるものだと、漱石は感じていたのです。 ましてや、当時、俳句を愛し、日本的な精神による思考様式が骨の髄まで沁みこんでいた漱石です。国の背景にある文化、その基本にある精神的な土壌が異なる者が、その上澄みのところだけ取り出して理解した気になっても、誤解、誤読が生まれるばかりではないのか? 漱石の悩みは深まります。そこに生まれるズレ、ねじれ。漱石は、自分に課せられた仕事の意味がわからなくなります。周囲の人々からは、「神経衰弱」と言われるほどに、精神的にも追い詰められたと言います。 そして、独り徹底的に悩んだあげくに、英文学をただ表面的にありがたいものとして受容する姿勢を、断固拒否するのです。自分自身の道を切り開くためのある想いへと到達します。----------この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟(さと)ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、其所(そこ)いらをでたらめに漂(ただ)よっていたから、駄目であったという事に漸(ようや)く気が付いたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評(ひんぴょう)を聴いて、それを理(り)が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。(『私の個人主義』夏目漱石、太字は筆者)
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■「人真似」が自分らしさを失わせる 「人真似」をしてもだめだということ。当たり前と思うかもしれませんが、実は、意外と難しいことなのです。あなたも、人の顔色を見て、本当の気持ちや考えを心のどこかに隠してしまうことはありませんか?
ここでぼくが「人真似」と言っているのは、心の中では実は思ってもいないのに、周囲の空気やそのときの流れについ迎合してしまうことまで含めています。
人に嫌われたくない一心で、つい「人真似」をしてしまうことがクセのようになっていってしまうと、大事な決断をしなくてはいけないときにも、そこから逃げるような心の傾向が染みついてしまいます。
「人真似」は一見、楽です。 しかし、だからこそ、つい流されて、場の空気を壊さないように、波風を立てないように……、ほんの少しのことでもそんなことを繰り返していくうちに、大事な「自分」を失ってしまうのです。
それは子どもも大人も関係なく、どこの社会にもある集団心理かもしれません。 たとえば、多くの参加者がいる場で、あることについて賛成か反対か、意見を求められたときを想像してみてください。
最初の発言者から賛成という意見が続いて自分のところに回ってきた時、あなたは反対と言えますか? 賛成多数という空気、流れができている時に、それでもやっぱり、自分は反対だと確かに思っているのなら、心に正直に気持ちを口にすることができるでしょうか?
賛成と次々に口にした人たちからは、あなたは、少し変わった人だとか、面倒くさい人だとか、思われることもあるかもしれません。場の空気を壊したくない、そんな気持ちから、つい賛成と言ってしまいたくなりますね。
■他人の言葉に流され、自分をごまかしてはいけない しかし、そこが大事な分かれ目なのです。 多くの人と一緒にいるほうが楽だという気持ちに流されてしまううちに、あるいは、多くの人々に褒められたい、評価されたいと思っているうちに、つい周りに合わせてしまうとしたら。
それは、実は本当に危険なことなのです。 要領よく「長い物には巻かれて」おいたほうが楽だと頭をかすめる思いが、本当に小さな場面でも、積み重なるうちに、少しずつ、また少しずつ自分をごまかし、空しさを抱え
るようになり、最終的には、自分自身に対する自信を失う結果へとつながっていってしまうのです。
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自分を信じられなくなり、自分を嫌いになってしまうこと。 それは、無自覚に起きることです。何より怖いことだと、ぼくは思います。 多くの人の言葉に流されて、安易に自分をごまかさないこと。自分固有のものごとの感じ方考え方を信じること。漱石は自らの心の底にある想いをつかみ出すことで、自分の人生を歩み始めたのでした。
■個人主義を再考する意味――「自分を持つ」ために さて、漱石が「個人主義」に目覚めた時代から一世紀あまり。 この間、明治の開国以降、日本はある意味、「追いつけ追い越せ」という精神でがんばることが、つねに奨励される歴史だったと言えるでしょう。そして、そこには、「みんな」が一様にがんばる「集団主義」もありました。 第二次大戦の敗戦など、大きな歴史的な反省を迫られることもありましたが、いつも、どこかしら、「みんな」で一体となってがんばることがよしとされる空気がずっと基本にあって、ここまで来たように感じます。 個の軽視、目指される効率的な解決など、結果を急ぐがゆえの集団主義は、「同調圧力」と言われる空気となって深く浸透し続け、残念ながら、いまもその土壌は変わらないものがあります。 もちろん、長い歴史の中では、「個性」の大事さが叫ばれたり、教育のうえでも「ゆとり」が必要だと言われたりすることもありましたが、本来の意味での「多様な個」が尊重される方向への転換は、学校でも職場でも、あまりうまく進められているとは言えないようです。 「個性が大事だ」「多様性が大事だ」と言われても、どこかそのかけ声自体が同じように聞こえてきて、なんとなくおかしいなと感じている人もいるのではないでしょうか。 そんなあなたに、ちょっとだけ立ち止まって、本書『14歳からの個人主義』を手に取ってみてほしいのです。自らを失うことなく、社会と対話しながら、伸びやかに生きていくために。 あなたにとっての「個人主義」の始まりです。----------
丸山 俊一(まるやま・しゅんいち)NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサーNHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー、東京藝術大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1962年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。「英語でしゃべらナイト」「爆笑問題のニッポンの教養」「ニッポンのジレンマ」「ニッポン戦後サブカルチャー史」ほか数多くの教養エンターテインメント、ドキュメントを企画開発。現在も「欲望の資本主義」「欲望の時代の哲学」「世界サブカルチャー史~欲望の系譜~」などの「欲望」シリーズのほか、「ネコメンタリー 猫も、杓子も。」「魂のタキ火」など様々なジャンルの異色企画をプロデュースし続ける。著書に『14歳からの資本主義』(大和書房)『結論は出さなくていい』(光文社新書)などがある。----------
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