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[温故知新]、、 武士道(新渡戸稲造)茶の本(岡倉天心)代表的日本人(内村鑑三)学問のすすめ(福沢諭吉)自助論(Smiles)自警録 国立図書館 NHKテレビ 「100分de名著」 【武士道】新渡戸稲造 を放送、好評 テキスト (日本的思考の根源を見る) ”忠義”は追従ではない。”名誉”は求める心である。  
  

自警録 (新渡戸稲造)


第1巻[武士道] 第7巻[修養・自警録] 新渡戸稲造全集 全23巻+別巻2  ルビ付 [修養]

  道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。・・・
―これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心がけは平常毎日の言行― 言行といわんよりは心の持ち方、 精神の態度である。平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶(ハンモン)の襲い来る時にあたっても、解決が案外容易にできる。 ここにおいて日々の心得、尋常平成(ジンジョウヘイセイ)の自戒をつずりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。 (【自警録】序より) ー人間道ー

目次、

第一章 男一匹
神と獣類の間に立つ人女なる言葉に含まれた道徳的意味男一匹とは何を意味するか尚武しょうぶ思想男一匹の活動伊達だての行為よりもその精神を勇は男一匹たるの要素男一匹になるには推理の力が男一匹には判断実力の力が男女両性の接近し競争する傾向弱者の保護は男一匹の要素男は強かるべし強がるべからず

第二章 一人前の人と一人前の仕事
一人前とは何を標準とした言葉か一人前と統計学者のいうノルム一人前の人と一人前の業測る標準は内にあるか外にあるか職業上の一人前と全人オールメンとしての一人前要は人はぎょうなり

第三章 強き人
つ」に含まれた二種の考え独り相撲ずもうで強い人文明時代の強き力外に強き人と内に強き人よく耐うる人は強き人いよいよという時に発する強さ戦場における日露兵の比較おのれにつものが世界に勝つ

第四章 外は柔、内は剛
英雄に現れた内外の差違怖ろしがらせるのが偉いか曲解されたる教訓剛柔ごうじゅう、分を守りて人格が円満心の持方は剛柔いずれとすべきか身を処するには剛柔がおのおの必要やわらかく握るところに人生の真味あり柔和にゅうわの心は相手の柔和の心をき出す柔和にゅうわなる者はこの世を世の中には譲って差支さしつかえないことが多い譲られぬところはあくまで固守せよこういう強みを処世上に持ちたい

第五章 心強くなる工夫
同病相憐むに出でたる余の気弱きよわ盲者蛇をおそれぬ豪胆ごうたん身体より来る気弱きよわの原因身体局部の故障より来る気弱弱点の自覚より起こる気弱容貌や秘密の暴露は恥とならぬ自分の心得こころえの最善をつくせば無作法もゆるされる「心にいまわしい点あるか」と反問せよ

第六章 怖気おじけの矯正
始めて試みた英語演説演説のふるいを止めた経験怖気おじけに処する二種の考え信じてかかれば怖気おじけない怖気おじけの根本的矯正きょうせいは自信自重にあり暗いところがあると怖気おじけ出す『失楽園』に現れた悪魔の姿勢顧みてやましからずば怖気おじけは起こらぬ

第七章 譏謗きぼうに対する態度
人に最大不快を与うるは何か英雄も聖人も悪口を気にかける世評は修養の補助悪口は一時的のものが多い譏謗きぼうの大部分は介意の価なし知らぬ人の批評には弁解が要らぬかかる悪口は自然に消える言語よりも実行をもって弁解せよ+悪口に対する理想的態度

第八章 世に蔓延はびこる者は憎まる
世に蔓延はびこる者は憎まる古今の事例はこれを示す意志の遂行すいこうと社交の遠慮はいかに調和するか所信の貫徹かんてつひそめる大苦心善事の背後にも敵がある読者中にも必ずかかる経験あらん

第九章 心の独立と体の独立
友人をなぐった少年時代の追懐心の独立と体の独立とは密着動機は立派りっぱでも年とともに堕落だらく独立とは何を意味するか使わるる者必ずしも独立を失わぬ身はしばられても心は独立心の独立と誤解しやすき考え風俗習慣に逆らうは独立にあらず

第十章 人生の成敗米国南北戦争における名将彼は成敗せいはいよりも任務の遂行につとめた義務をまっとうするところに成功ありギリシアのソクラテスを見よ成敗は世人の眼に見えぬ輿論よろんを標準として成敗は測られぬ

第十一章 人生の決勝点負けた時の用心勝った時には精神上に保険をつけよ勝つとは何を意味するか人生の勝利者一時の勝利と永久の勝利勝敗は長年月を経て始めて決定す標準高き勝利勝敗の決勝点を高きに置け

第十二章 人生表裏の判断
表と裏とは物の存立そんりつ条件表裏に善悪の区別を付する誤解人生に表裏あるはむしろ当然人の性質上の表裏悪い意味における表裏表裏の善悪を判断する標準

第十三章 広く世を渡る心がけ
好ききらいと善悪とは違うきらいで人を判断する過誤かご測る物体と測る標準とが違う反対説にも耳を傾ける度量どりょうを養え狭きおのれのきらいで世に処するは危険

第十四章 報酬以上の務め
愉快なる台湾旅行中の不快余のためにかごかついだ壮丁そうていの好意物の真価の誤れる計算法報酬以上に務むる教育者職業に当たる人の三段の区別報瓊ほうけいの志報酬ほうしゅう的思想なき夫婦の関係報酬を求むる手段としてのつとめ報酬以上の務めの真義かかる心がけがあって人生の旅は幸福

第十五章 逆上をいまし
世界の耳目じもくを集中さした共和党の大会ボストン公園に見た言論の自由前二例より帰納きのうする感情の危険つまらぬ事に逆上する国民的弱点一円の小遣いを一円の財布に投じた経験

第十六章 富貴の精神化
弁士の富論物質的米国人と思想的米国人富貴は方法なり目的にあらず富者の権利と義務経済状態と道徳的態度の変化ストライキの動機でも英人と米人とは違う黄金は土芥どかい宝珠ほうじゅ

第十七章 実業を精神化せよ
米国実業家の人生観個人的利益と国家社会の利益個人の最良なる利益はすなわち社会国家の利益国家のためという誤解の危険「国家」というよりも健全なる個人思想が大切人生を甘からしむる心がけ

第十八章 知らぬ恩人に対する感謝
英国碩学せきがくたる神道しんとうの要旨知恩ちおんは日本民族の特長恩の観念は固有か輸入か日本人ははたして恩知らずか思わぬところに恩人がひそんでいる人も知らず自身も知らずに受ける恩今もなお不明なる僕の受くる恩惨憺さんたんたる一高の入学試験入学試験中、くるまを待たした不思議の婦人見る人ごとに有難からぬ人はない

第十九章 言葉の心
名は命名者の心を表わす言葉はこれを用いる人の心を表す同じ事が弁解にもなり有罪にもなるかくの如き曲解も起こる不快の感を与うる言語邦人間に行わるる嘘の原因心からき出たものが真の言葉

第二十章 忠告の取捨
教訓を責道具せめどうぐに使うなかれ教訓を味わう力が足らない聖哲の教訓はなにゆえ凡人ぼんじんに入り難きか余らの学校時代には徳育が無い訓戒の値打ねうちを知る法抽象的の教訓も初めて具体的に会得えとくする忠告を納むるべき肥沃ひよくな畑正しき時に正しき言を放つは賢人こうそうする忠告とそうせぬ忠告

第二十一章 潔き感情と正しき思想
偉大なる思想が何ゆえに萎縮いしゅくするか女々めめしい感情皮相の感情大統領改選に現れたる米人の感情と思想我が商人は事業と人情とを混同する感情濫用らんようへいめる必要

第二十二章 感情より出た職業選択
職業とこれに従事する者の不釣合ふつりあ難を求むる職業選定の依頼感情よりする職業選択にも有利の場合あり伊藤公発憤はっぷんの動機を見よ余の友人にも同じ経験がある一時の感情か否かを判断する道感情的誤解の根本原因

第二十三章 若返りの工夫
いつも若い人回顧反省心機一転一年二回の花盛り

第二十四章 全力と余裕
かえるの筋肉の力をはかりし学者の試験最善をつくしても余力よりょくあるように思う潜伏せる余裕よゆうを示す幾多の実例余裕よゆうを存することと全力主義人の力は出せば出す程ふえる静坐せいざ黙想もくそう潜勢力せんせいりょくを増加す一日に一回でも黙想せよ

第二十五章 理想と実現
幼少時代の理想の回顧かいこ米国で僕の深く印象された米人の理想最も貴ぶべき青年時代の理想今の青年会と昔の若い衆幼年の理想は今いかにへんじたか主義を抱ける者の世渡りの覚悟理想家に対する世論の変遷

第二十六章 理想の実現は何処
犬車の前に垂れ下げた肉片理想はどこまで行っても達せられぬ理想は早晩そうばん実現せられる理想を行為に翻訳ほんやくするが人生誤って翻訳した実例最大侮辱ぶじょくを最大敬礼とした誤訳理想の翻訳を誤るものが多い理想の実行は位地の有無に関係せぬ理想は所在に現れるここにく火のけむりなりけり

第二十七章 夢の実用
夢は迷信としてしりぞくべきか夢もまた人生の一部夢とはいかなるものか睡眠中の時間も向上に用いられる夢は一種の潜在識宝船たからぶね以上の夢見る秘訣ひけつ夢と実際とは連絡することが多い夢は人間の心の鏡努力すれば高い境遇に登れる



 とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚こうしょう遠大えんだいにして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯しょうがいに一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話さわかてか、講義の題として聞くもののごとく思い流すのおそれがある。もちろん道徳の思想は高尚こうしょう、その道理は遠大えんだいであろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人ごじんの意識の中にませるところにあると思う。いにしえの賢人も道はここにありと教えた。なお賢人のうに、「げん近くしてむね遠きものは善言ぜんげんなり。守ること約にしてほどこすことひろきものは善道なり。君子くんしげんおびよりくだらずしてみちそんす」と。
 これを思えば道すなわち道徳はそのせい高くしてそのよう低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人でんぷやじんも守りるものであるらしい。
 わがくににおいては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道もおさぬ心地す。仁義礼智じんぎれいちなどとは斯道しどうの人にあらざればかいあたわぬ倫理りんりとして、素人しろうとのあえて関せざる道理のごとくみなすふうがある。これもそのはずであって、むかしは堅苦かたくるしき文字をりて、聖人せいじんにも凡人ぼんじんにも共通なる考えを言い現すくせがあった。これはただに儒学じゅがくのみでなく、仏教においても同然で、今日こんにちもなおがたき句あれば「珍聞漢ちんぷんかん」とか、あるいは「おきょうよう」なりという。また、かくのごときはひと本邦ほんぽうばかりでない、西洋においても一時はわかりきったことさえも、わざわざ自国の通用語をはいしてラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効能こうのう多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこのへいおちいりやすい。
 なるほど、なにごとにしても、理をきわめんとすれば心理学の原理に入らざるを得ないから、容易よういならざる専門的研究となるが、吾人ごじんの平常むべき道はやぶの中にあるでなし、絶壁ぜっぺき断巌だんがん沿うでもない。数千年来、数億の人々がかためてくれた、坦々たんたんたるたいらかな道である。吾人ごじんが母の胎内たいないにおいてすでに幾分か聞いて来た道である。孟子もうしの、「おもんぱからざる所にして知るものは人の良知なり」と言った通り、おもんぱからずして、ほとんど無意識に会得えとくしてある教訓きょうくんに従うを道徳と称するものでなかろうか。
 わがはいは決して道徳問題は、みなみな無造作むぞうさに解するものと言うのではない。一生の間には一回二回もしくは数回はらわたち、胸をこがすようなあらそいが心の中に起こることもある。しかしそんな難題は生涯に何回と一本か二本のゆびかぞえつくせるくらいなものである。これに反し、われわれの最もそそぐべき心掛こころがけは平常毎日の言行――言行と言わんよりは心の持ち方、精神の態度である。平常の鍛錬たんれんが成ればたまたま大々的の煩悶はんもんおそい来る時にあたっても解決が案外あんがい容易よういに出来る。ここにおいてわがはいは日々の心得こころえ尋常じんじょう平生へいぜい自戒じかいをつづりて、自己の記憶きおくを新たにするとともに同志の人々の考えにきょうしたい。

大正五年五月九日
南洋旅行の途上とじょう信濃丸しなのまる船中にて
新渡戸稲造にとべいなぞう



芭蕉クシテ耳聞イテ
  葵花クシテ眼随イテ
  . そめ色の山もなき世におのづから
     柳はみどり花はくれなゐ



神と獣類の間に立つ人

 外国語では人という名詞めいしをただちにおとこに代用するが、わがくににおいて人というのは西洋のいわゆるペルソン(人格じんかく)を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なることばはあるいは高尚こうしょうな意味に用いることもあれば、またすこぶる野卑やひなる意味をふくませることもある。たとえば、
「人と生まれてかかる事をするのははじである」
 という場合に用いられた人は、万物の霊長れいちょうであり、したがって廉恥心れんちしんも自然にそなわっているものなれば、よろしくみずかおもんずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊重そんちょうすべきを示したものである。しかるにこれに反し、
「どうせ人間にんげんだもの、このくらいのことをするのは当然だ」
 という口調くちょうを放つときは、かみならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪業ざいごうをするのはまぬかれぬと、半獣性はんじゅうせいの欠点に富めることをいいあらわすにもちいられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は獣類じゅうるいのあいだに介在かいざいするものであるから、両者の性質を兼備けんびし、自分の勝手かって都合つごうよきほうにくらべ、ある時はみずから尊者そんじゃの敬称をあまんじて受け、またある時はみずから野卑やひと称するほど謙遜へりくだる。信玄しんげんの歌に、
ひとおほひとうちにぞひとぞなき、ひととなれひとひととなせひと
 とあるは、ある人の歌に、
ひとはたゞひととならねばひとならず、ひととなれひとひととなせひと
 とあると同じく「ひと」なる観念かんねんを二つにしていることが明らかである。すなわち「人」なる字が善悪の二ように用いられている。

女なる言葉に含まれた道徳的意味

 この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「おんな」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗ひぼうする意旨いしであるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味をふうすることはしばしば見るところである。
 たとえば、
女子じょし小人しょうじんやしながたし」
 という場合、単に女子じょしという文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人しょうじんということばむすびあわせると、女子じょし卑下ひげする心持が現れている。ちょっと普通行わるることわざを見ても、
「どうせ女の事だもの」
「家の乱は女から」
「七人の子はすとも女に心を許すな」
大蛇だいじゃを見るとも女人にょにんを見るべからず」
 などと女に関する悪口あっこうがたくさんある。畢竟ひっきょういかに男子が自己のより婦人に迷ったかを自白じはくするに過ぎぬ。ことに漢字では女の字をへんまたはつくりに含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。
 たとえば女を三字集めたかん両男りょうだんの間に女を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさんだなぶる(もっともこれは女のほうより左右さゆうにある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなくいやしめるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的ちょうしょうてきに用うる人多きを見て、不愉快ふゆかいに感ずる。しかし女を卑下ひげする思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。
 かのシェークスピアの句に Woman, Frailty is thy name.(女よ心弱きとはなんじの名なり)といい、またテニソンの Woman is a lesser man.(女は小さき男なり)といえるなど、よほど女を見下げた言葉である。もしそれかかる例証れいしょうを文学中より拾い集めんとすればほとんど無数である。されば女という言葉だけで、いわゆる外面如菩薩げめんにょぼさつ内心如夜叉ないしんにょやしゃという思想を含ませることは、世界を通じて広く行われることである。
 しかし同時にまたこれと反対の意味を含ませて用うることもある。たとえば、
ぼうはさすがに女だけありて」
 といえば、もちろん弱いという意味にも用いらるるが、またしばしば柔和にゅうわで従順で廉潔れんけつなるの意を含ませて使つかわるることもある。漢字を見ても好(このむ)、妥(しずか)などは善い意味である。西洋の文学にも女といえばただちに天使てんしと同一視する例も少なしとせぬ。かくのごとく女という字だけを用いる時は、単に男と性をことにする人なりという簡単な意味にとどまらないで、善とか悪とかいう道徳的どうとくてき評価ひょうかで判断さるるものである。しかしてこの評価はその使用の場合によりあるいは高きことあれば、あるいは安きことありて、相場そうばが一定しない。

男一匹とは何を意味するか

 しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態きたいに悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅ごうきとか、あるいは大胆不敵だいたんふてき、あるいは果断かだん勇猛ゆうもう、あるいは任侠にんきょうというような一種の印象いんしょう惹起じゃっきす。
天川屋儀兵衛あまがわやぎへえは男でござる」
 と一かつすれば捕手とりての者も閉息へいそくする。
 男一ぴきなる句は一種爽快そうかいなる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女にすぐれたる男子に応用するは、一見男子を侮辱ぶじょくせるかの疑惑ぎわくうながすが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇猛ゆうもうとか任侠にんきょうとかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微妙びみょうなる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもっておぎない、豺狼虎豹さいろうこひょうも遠く及ばぬ力をたくましゅうするさまをいいあらわしたものであろう。
 右のごとく考え来たれば一ぴきなる言葉には、やはり幾分か侮辱ぶじょくの意が含まれているごとく思われる。けだし聖人せいじん君子くんし高僧こうそう等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣もうじゅうの勇気に類したもので、孟子もうしのいうところの匹夫ひっぷの勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇ちょゆうと称し、ふかく尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治ほうちの階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障ほしょうで、武勇なければ生命も財産も危険にひんするばかりである。今でも一ちょう事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為しょいに出る。沙翁さおうげんに、
「ラッパののわが耳にひびく時は吾人ごじんのまさに騎虎きこの行動をならうの時なり」
 と。暴虎馮河ぼうこひょうがには孔子こうしくみせずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服けいふくする。昔時せきじ、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。ゆうすなわちとくとくすなわちゆうと考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫ひっぷゆう以上にのぼらずとも、それがとうとかった。しかして男子としてむべきはこの種のゆうを有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直きょくちょく判別はんべつする時代にいたっても、依然としてなお匹夫ひっぷゆうとうとばれ、男をむるに一匹の言葉をもってしたものであろう。

尚武しょうぶ思想

 ヨーロッパでは耶蘇教やそきょうが普及して以来、人生観が一変した。したがって人間の評価ひょうかもまた変わってきた。柔和にゅうわなる者は幸いなりとは、基督キリスト教訓きょうくんであるが、なんじに敵する者を愛せよとか、あるいはなんじを迫害する者に復仇ふっきゅうするなかれとか、なんじに一里の道をうる者あらば二里をあゆめとか、右のほおを打つ者あらば左をもたたかせよというがごとき、柔順じゅうじゅん温和おんわの道を説き、道徳上の理想としてこれが一般社会に説かれたのである。しかしこれを実行する者はほとんど皆無であった。わずかに有志者があるいは世を去りあるいは山深くいおりを結び、あるいは市街にありてもそうとなりて俗縁を断ったものが、文字どおりにこれを実行したるに過ぎなかった。
 普通一般の人はみずから耶蘇教徒やそきょうとなりとしょうしながら、この柔和にゅうわの道を守らなかった。すなわちニーチェが耶蘇教やそきょう奴隷どれいの道徳と悪口あっこうしたのも無理ならぬことで、現時げんじの戦争にも現れているとおり、基督キリストの言葉が決してそのままに行われておらぬ、むしろその反対の勇猛ゆうもうなる教旨きょうしが、耶蘇教やそきょう以前より一貫して欧州おうしゅう盛行せいこうしている。これこそ実にニーチェのいわゆる治者ちしゃの道徳である。これは前に述べた女らしく柔順なれという基督教キリストきょうに対し、男らしかれという教訓である。こんにちの世界はこの両者相俟あいまって始めて円満なるを得るものであるが、そとに対して常にわれわれの眼を喜ばせるものは、男々おおしき男性的道徳である。

男一匹の活動

 しかしこの柔和なれとおしうるはひと耶蘇教やそきょうに限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの回々教フイフイきょうを除き、たいてい柔和にゅうわの徳を主として教えざるものはない。孔子こうしの教えのごときは、よほど俗界にゆかりの近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに遵奉じゅんぽうすれば、とかく柔弱にゅうじゃくに流れ、かえって開祖の主旨に反するおそれもある。現に基督キリストのごときは前にも述べたごとく柔和にゅうわ主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いにいきどおり、綱をもって神殿をけがした商人を放逐ほうちくしたことがある。
 この事実にちょうすれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯々諾々いいだくだく、これに盲従もうじゅうせよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主旨しゅしにもかなわなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛がこうしむるの類にとどまらぬ。しかしてこれはただに男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。
 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基督教キリストきょう柔弱にゅうじゃくに流るるを憤慨ふんがいして、いわゆる腕力的基督教マスキュラークリスチャニーチーを主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の紳士しんしは腕力をほしいままにしたのでなく、基督キリストの仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧嘩けんかがあると、職務がらの礼状を発することなく、みずからその渦中かちゅうに飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳骨げんこつを知らぬか」と名乗なのり、もってしばしば喧嘩けんかを仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男伊達だておもむきを備えた人である。

伊達だての行為よりもその精神を

 わがはいはつねに男伊達だての制度を景慕けいぼする者である。なかでも幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえのごときは、これを談話に聞いても、書籍に読んでも、じつに我が意を得たものとして尊崇そんすうせざるを得ぬ。任侠にんきょう標榜ひょうぼうするところには、些細ささいなる点においてまことに児戯じぎに似たることも少なくない。たとえば手拭てぬぐいはどう持つものとか、尺八はどう※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)すとか、帯はいかに結ぶとか、語尾はいかに発音するかというがごとき、おろかなことではあるが、その子分として用いた者が多くは無学の熊公くまこう八公はちこうるいであったから、かくのごとき紋切形コンヴェンションもうけ、これによりて統御とうぎょ便べんはかったのも、あるいは止むを得なかったことであろう。これらの些細ささいの事柄は笑うべきではあったが、まただいたいにおいて彼らのなすところ、物騒ぶっそうの傾向なきにあらざりしも、その動機においてはいかにも男性的で、子分の顔を立てるためには自分に不利益なる喧嘩けんかったこともあろう。
 自分の命を投げ出したこともあり、強きをくじき弱きをたすくるを主義とし、を見ればいかなることにも躊躇ちゅうちょしなかった。この任侠にんきょうな勇猛な性質は、勘定かんじょう高き現今げんこんの社会においておおいに珍重ちんちょうすべきものと思う。されとてわが輩は、法律もろくろく備わらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治のもとにそのままに実行することは、だんじて非なりと信ずるゆえに、たとえ当年とうねんの男伊達だての意気を思慕しぼするとはいえ、こんにちの男一匹は長兵衛そのままを写してなりとは思わぬ。争議起これば、今日こんにちはこれをおさむるために相応そうおうの法定機関がある。これによりて是非曲直ぜひきょくちょくを判断すべく、みだりに腕力を用うることを許さぬ。ゆえにわがはいは外部に表れた男伊達だての行為よりも、むしろこの行為を生み出した任侠にんきょうの心持がしいのである。すなわち、
「男は気で食え」「男前おとこまえよりは気前きまえ
 などいうところの男性的気象がしいのである。

勇は男一匹たるの要素

人にまけおのれにかちてを立てず義理を立つるが男伊達だてなり
 の一首まことに深重しんちょうの味がある。ことにかみの句の「ひとにまけ」のごときは前に述べたもろもろの宗教の教うるところで、右のほおを打たるれば左のほおを出すがごとき意を含んでいる。またそのつぎの「おのれにかちて」などは勇の最も洗練されたるものである。勇気もこの階段に達すればもはや猛勇でなく、匹夫ひっぷの勇でもない。孟子もうしのいわゆる大勇なるもので、西洋の学者のいうモーラル・カレッジ(道徳的勇気どうとくてきゆうき)である。
 男一匹たるの資格は第一に勇をふるうておのれにつにありと思う。おのれにつものはほかに勝つこともさほど難事でない。おのれにつものは世界せかいつことをと古人のえるのはこのことである。なお古い漢書にいわく、
「善く身をしょする者は、必らず世に処す。善く世に処せざるは、身をぞくする者なり。善く世に処する者は、必らずげんに身を修む。げんに身を修めざるは世にぶる者なり」
 と。決して女子は勇気なくともよいというのではないが、女子の強きところは耐忍たいにんにありとせば、男子の特長は猛進的もうしんてきなる奮闘ふんとうの力にある。このことを論ずるには多言たげんを要せぬ。動物を見てもすみやかに天意のどこにあるやはさっしられる。
 孔子こうし弟子でしなる子路しろいさましい男性的の者であって、つねに勇を好んだ。ある日孔子こうしにたずねた、
君子くんしは勇をとうとぶか」
 と、孔子は答えて、
「君子は義をもってじょうとす。君子くんし勇ありて義なければらんす。小人しょうじん勇ありて義なければとうをなす」と。
 じつにそのとおりで、古人の語に、
深沈しんちん厚重こうちょうれ第一等の資質ししつ磊落らいらく雄豪ゆうごうは是れ第二等の資質、聡明そうめい才弁さいべんは是れ第三等の資質なり」と。

男一匹になるには推理の力が

 しからば男一匹たるの資格は、勇気の有無うむのみをもって定むるかというにそうは行かぬ。勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。なんのために勇をふるうかといえば、義のためにするのである。義を見てなせばこそ勇としょうすれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれはきょうたるを免れぬ。ここにおいて男性としてくべからざる要素は事の本末ほんまつ物の軽重けいちょうを分別する力である。テニソンが「女は小さき男なり」といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。
 わが輩は脳髄のうずいにおいて女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて脳髄のうずいの作用が種類をことにするとは思わぬ。今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典にあずかるの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、腕力わんりょくの差違を含めることはいうまでもないが、思慮しりょにおいて男子の女子に優越ゆうえつなることを述べたのである。
「女さかしゅうして牛売りそこなう」「女のはなさき思案」
 などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ侮辱ぶじょくげんに聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。いな、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこのそしりをまぬかれないものもある。わがはいのいう思慮しりょとはいわゆる「ロジカル・マインド」で、推理の力のいいである。かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでもはかりやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠きおもんぱかりらす力は、今日では(将来はいざ知らず)なお男子の特長(もちろん男子にも無思慮むしりょの者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく)とも称すべきものであって、男一ぴきほこるものはものごとの利害、曲直についてとく思慮しりょする要素を備えねばならぬ。

男一匹には判断実力の力が

 思慮しりょのただ胸中きょうちゅうにあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発揮はっきしたとは言いがたい。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるをほまれとするも、女子の働きは内助ないじょにある。しかしてこの内助ないじょはただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。
 ゆえに一家に事あり、これにしょするは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。
 キングスレーのに、
Men must work and women must weep.
(かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身)
 という一がある。せんじつめれば男子の力は思慮しりょとどまらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子におとるものでない。
 かつてある学者のげんに男子の脳髄のうずい帰納的きのうてきなるも、女子は演繹的えんえきてきなりとあったが、女子は感情がまさっているから冷静に事物に接することがかたい。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇をふるうを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思慮しりょと判断の力がすぐれていたであろう。
 こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔時せきじのごとき蛮勇ばんゆうの必要はいちじるしく減少げんしょうしたけれども、思慮しりょと判断力とにおいて多々たたますます進むにあらざれば、男一匹として女子にまさるの理由を失うにいたる。

男女両性の接近し競争する傾向

 近来、人類の進歩を考うるに、女子の進歩は男子にくらべて速度が早いと思われる。知識上のことはいうまでもなく、その身体のうえにおいてさえも、近時、男子の体格上に起こる変動よりも、女子の体格に起こる変動が多い。
 ある学者はかくのごとき有様が続いたならば、世は遠からず蒲柳ほりゅうの美人がなくなるだろうというている。思慮、学問、決断において女子が男子のごとくなれば、身体までもあい類似してくる。かくなればもはや男一匹などいうことは決して男子の誇りの言葉でなくなる。昔時せきじの得意を夢み、油断していると、男子はその長所を失うて粗雑な荒くれ男のごときものとなり、さらに一歩を進めて道徳上に退化を来たしたならば、いよいよ一匹の匹が動物的男性なることを示すにいたりはせぬか。
 ある人は今後の戦争は女性との対戦ならんといった。もちろんこれは腕力わんりょくの戦いでなく、経済的の戦いである。この戦いはすでに開始せられ、工場において、学校において、商店において、事務所において、女性は一部男性に代って仕事しつつある。この競争は今後急に終るまいと思うが、今やまた知識上の競争も始まらんとしている。これを思えば男一匹の将来ははなはだ危ぶまるる。この戦争が将来いかに成りゆき、いずれが勝つか、いずれが負けるか、はたまたいずれも勝負なしに円満なる平和へいわをもって解決さるるか、それは未来の事とし、吾人ごじんの目下の務めは、男子は男子だけの性質を忌憚きたんなく発揮することにある。
 競争とか勝負とかいえば、両性のあいだに利害をことにするように聞こゆるし、またげんに経済上の競争においては利害を異にしているが、この利害を異にする関係は永遠に続くものであるか、あるいはまた男女は単に性の相違するのみで、その他の利害はことごとく共通するものではないかという問題も起こってくる。

弱者の保護は男一匹の要素

 従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉快ゆかいとした。がこの点についても今後両性があい類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推測すいそくするに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女はふじである。
 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳房ちぶさが加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時にかんがみても男子は女子を保護するの義務が天然てんねんに備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らをもてあそび、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫用らんようするのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつまもるこそ、生物界における永遠不易ふえきの法則である。
 むかしの任侠にんきょうと称する者を見ても、彼らは外見上放蕩ほうとうまいに身を持ちくずすようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里ゆうりに踏み込んでも、女子をもてあそぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。

男は強かるべし強がるべからず

 女子の保護者たる役目をまっとうするには猛勇もうゆうではかなわぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男伊達だては決して威張いばり一方では用をなさぬ。内心かたくして外部にやわらかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えていわく、
ひとごうを好めばわれじゅうをもってこれに勝つ」
 と、またいわく、
じゅうごうを制す、赤子せきしうて賁育ほんいくそのゆううしなう」と。
 男子はすべからく強かるべし、しかし強がるべからず。そと弱きがごとくしてうち強かるべし。
けて退く人を弱しと思ふなよ智恵ちえちからの強きゆえなり
 とは、しんの男子の態度であろう。男もこの点まで思慮しりょが進むと、先きに述べたる宗教のおしうる趣旨にかのうてきて、深沈しんちん重厚じゅうこう磊落らいらく雄豪ゆうごうしつとの撞着どうちゃくが消えてくる。かくなるとひつじのようにおとなしい性ととらのごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、「羊質虎皮ようしつこひ」というのがあって、外面虎皮こひをかぶりて虚勢きょせいを張り、内心ないしん卑怯ひきょうきわまる偽物にせものす成語としてあり、楊雄ようゆう(前五八―後一八)の文に、
羊質ようしつにして虎皮こひくさを見てよろこび、さいを見ておののく、其の皮のとらなるを忘るるなり」
 とあるが、草を見てよろこぶになんの悪きことがない。悪きことはさいを見ておのの臆病心おくびょうしんにあるのだから、その温順寡慾かよくなる羊質をもちながら、なおとら驍悍勁※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)ぎょうかんけいれいなる質を修めたら、すなわち廉毅忠果れんきちゅうかの性格となりてこれにゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩にいわく、
The bravest are the tenderest, ――
The loving are the daring.
勇深ゆうしんなる者は温柔おんじゅうなる者、愛情あいじょう深き者は大胆だいたんなる者なり)
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一人前とは何を標準とした言葉か

 永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは老若ろうにゃくを問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例にたがわず四十歳前後のころよりしばしば、
おのれは一人前にんまえの仕事をしたであろうか」
 を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなるりょうを指すかということである。
 一人前にんまえ、一人分にんぶん、一ととおり、人並ひとなみ、十人並にんなみ、男一ぴきの任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。反物たんもの一反あれば一人前の衣服が出来る。五ごうの米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。
 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。
 料理屋でめしを注文すれば一ごう二、三じゃくを一人前という。
 牛肉屋に肉を注文すれば二十五もんめより三十五もんめまでをもって一人前とする。
 一人前にたいしてかくのごとき標準をもうけたのは何より起こったのであるか。
 四しゃくに足らぬ男にも、六しゃくちかい大兵だいひょうにも、一たんの反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、たけの長短を斟酌しんしゃくせず一人前は一たんと定めてある。
 また小食の人も健啖家けんたんかも、にくを注文すれば同じ分量をさずけられる。ほとんど個性を無視しておとこぴき食物しょくもつ何合なんごう、衣類は何尺なんじゃくと、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。
 日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚るかから割り出したものでもない。
 それと同じく人の容貌ようぼうを評するにも、よく十人なみという言葉を使う。これはすなわち美醜びしゅうの一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼鼻めはな顔形かおかたちの寸法をはかって出来得るものでない。まして芸などについては算盤そろばんにかけることは絶対的に不可能のことである。
 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人ぶんと称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶおもむきを異にしているように思う。

一人前と統計学者のいうノルム

 大槻おおつき先生はその著『言海げんかい』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人のつらなること、尋常じんじょうと説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、かたなどと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同するおそれがあるから、僕は原語げんごのままにノルムという字をもちいたいと思う。ノルムはその語原ごげんを調べると大工だいくの使用する物指ものさしすなわち定規じょうぎである。この定規にかなったものがノルムてきすなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前のひとというのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具備そなわっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。
 これすなわちその国のノルムにかなうというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸におちいる。ゆえに同じ国人こくじんのうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムにかなわぬ。
 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実在的じつざいてき現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、れいうとなく、十もくが見、十ゆびさして、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであるとおもう。老子ろうしの有名なる語に、
みちみちとすべきはつねみちにあらず」と。
 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一ぽうとなし得はせぬか。人が普通にみちというのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出来できようか。僕はかくのごとき問題で長く頭脳ずのうを痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。

一人前の人と一人前の業

 この問題を提出したならば、何人なんぴともそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題につることは出来ぬというであろう。一人前のぎょうを客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とてもことわざにあるごとく、
田舎いなかの一しょう江戸えどでも一しょう
 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公でっちぼうこうの職にあるものならば丁稚でっちの一人前のことをなしたか、一国の宰相さいしょうなら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだけの解決はしたいものである。
 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説ぐせつを述べてみよう。
 一人前の仕事という分量は何人なんぴとが定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすくたとえれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事はさずけられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了けつりょうすることであり、一家の主婦なれば一日のあいだにすべき掃除そうじなり料理なりその他おっとに対する義務、子供に対する世話をも首尾しゅびよくしとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めをまっとうし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、
ること一日ならば、一日の好人こうじんるを要す」
 との心掛けを連日実行して、一生をつらぬけば、その人はじつに好人である。

測る標準は内にあるか外にあるか

 しかるにこの例について起こる疑問は、定規じょうぎとして用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引をまっとうするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規じょうぎなりといったが、この定規は自己以外に、世人せじんがわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人がしつつある分量であって、甲も乙もへいていやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間せけんの勤めとはこのことをいうらしい。
 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかしおれは一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。
 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手かってにならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、おれは人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十もんめなり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十もんめである。おのれはろくな教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬぎょうをすれば世間は斟酌しんしゃくせぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりやいなやはおのずから別問題である。

職業上の一人前と全人オールメンとしての一人前

 故に人をはかるについて、目方めかたをもってそれがし何貫なんがんときめることは出来る。たけをもってして某は何じゃくずんと定むることも出来る。そしてこの人の貫目かんめ、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並みすぐれて高いとか低いとか、かく別々にはかることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸尺貫目すんしゃくかんめを測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは脳髄のうずいもよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして肉附にくづきもよく大きいという関係があるかも知れぬ。
 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には頭脳ずのうの透明鋭利えいりな者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が世人せじんよりたっとばるるのもこれがためである。
 専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習をくわすぐれた者は世に貢献こうけんすることが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっともく当たることであるが、これはいわば人を幾多いくたへんに切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
 しかるに専門家中には、その専門に熱中ねっちゅうし、他の天稟てんぴんの力を発達せしめない者がたくさんある。そのおこたりたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も間々ままある。すなわちかかる人は全人オールメンとして見れば一人前に足らぬ人である。おのれの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし孔子こうしは、
君子くんしならず」
 といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし実地家じっちかの中にも同じあやまちにおちいるものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるにするどく、その成功のためにはほとんど人倫をみだすもてんとして恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかるふうあるものは人間失格者としか思われぬ。
 おそらく人間として平均の調和をうしなえるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。たとえていえば、人のうで身幹しんかんに比して何分なんぶんとか、たいてい一定した割合がある。この割合をえても不具ふぐであり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などにはの長過ぎる人があるとすれば、学者かんに短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとのそしりはまぬがれまい。

要は人はぎょうなり

 かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一にん並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂にのぼらばよろしくしつにも入るを要する。しかしてこうがその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣ぞうけいは深さ高さによりて測り、たしかにそれがしは何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことをしたとしても、その人はやはり専門については一人前のぶんをなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一にん並みであるやいなやにいたっては疑問であるといわねばならぬ。
 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をしてしゅうすぐれたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分だいぶの相違があるであろう。今日こんにちのごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果こうかさえぐるを得ば人として生まれ来た甲斐かいありと信じ、仕事に重きを置いて人となりをかえりみぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師しごとしは、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。
「文は人なり」
 というが、人格を示すものに独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人をいては事もなくぎょうもない。一人前の仕事をげんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定しがたきものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。
 これをたとえていえば、ここに数多あまたうつわがあるとする。これらのうつわ――仮りに徳利とくりとすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一こくるれば小さきものは一しゃくも容れ得ぬ。しかしいかにしょうなるも玩具がんぐにあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼びす。してみれば徳利の徳利たる所以ゆえんはある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡たかには大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴はくちでなければ、みな一人前とかぞえらるるであろう。
 しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるやいなやの問題である。四斗樽とだるだいそなえてもからなれば四升樽しょうだるにも劣る。二合徳利ごうどくりでもいっぱいにつれば一入りの空徳利からどくりさる。人もどれほど「王佐棟梁おうさとうりょう」の才であっても、これを利用もせず懶惰らんだに日を送れば、小技しょうぎ小能しょうのうなるいわゆる「※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)とそうひと」で正直につとめる者に比して、一人前と称しがたく、ただだいなる「行尸走肉こうしそうにく」たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい天賦てんぷの才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、おのれ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
自尊じそん自知じち自治じちの三は、一しょうみちびいて王者の位に達せしむるなり)
 と。太古ギリシアの神託しんたくに、
おのれをれ」
 とありしは自己の性質能力をさとり、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人をらざるをうれうる者がある。人のおのれを知らざるをうれうる者はさらに多いが、おのれを知らざるをうれうる者ははなはだ少ない。
 冒頭ぼうとうにいうがごとく僕は永く自分の身にかえりみて、我は果たして一人前の仕事をし終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は遺憾いかんながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは何人なんびとといえども、おのが身にかえりみてこの問題を提出したならば、確固かっこたる答えをし得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって世人せじんに示して欲しい。僕がここに自分のまよいの径路けいろを述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考にきょうしたいからである。
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つ」に含まれた二種の考え

 つといえばたれしもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえにつことについても、この二しゅの考えが含まれている。字引じびきを見ると、かつの字はもと家をささうる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷をになってえる意を含ませてあるとくが、これはいわゆる勝つ所以ゆえんを最もよく表したものと思う。
 つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一そうする人、もしくは破壊はかいする人と思われる。また野蛮人やばんじんの社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力をたくましゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わがはいが往年じゅくにあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強いやつと思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈ランプでもたたきこわすと、強いやつたたえられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具につことをもって偉いこととみなすのである。

独り相撲ずもうで強い人

 つまらぬことではあるが、今もなおわがはいの記憶に残れることがある。十余年以前であった。あるところに宴会えんかいが開かれ、当時議会でぶりのよい有名なぼう政治家が招待せられ、わが輩もその末席まっせきについたことがある。酒数行すうこう主客しゅかくともに興たけなわとなり、談論に花が咲き、元気とか勝気かちきとかいさましい議論の風発せるあいだに、わが輩は退席せんとして玄関に出た。某政治家も爛酔らんすいして前後もわきまえず女中の助けをかりて蹣跚まんさんとして玄関に来たが、自分の強さ加減を証拠だてるため、女中がかぶらせた帽子を、おののく手より奪いとり、玄関の柱にたたきつけ、意気揚々として車で帰ったことがある。この時までわが輩はおおいにこの政治家の人物を尊敬したが、このいわゆる強さを見て、
「ハハア、かねて聞き及べるぼう硬骨こうこつとはこのへんが程度かな。この人は古シャッポを相手につ人だナア」
 と思い、爾来じらい大いに尊敬の念を失ったことがある。この前にもその後にも、他人についてこれに類した事実じじつをしばしば目撃したが、こういうことが果たして強い証拠であろうかと思うと、何となく人を動物視したくなって来る。
 またこれに類する話であるが、われわれがしばしば出会わすことは自分の勝った手柄てがら自慢話である。おれはこういったら先方は一言もなかったとか、向うを大いにへこましたとか、最もしばしば耳にする語はこうこういってやったなどと、語る人の言によれば、いかにも先方は恐れ入ったように聞こゆるけれども、さて先方にただしてみると、一こうやられたともなんとも歯牙しがにかけないでおることがある。これらは独り相撲ずもうりきんでおる人である。

文明時代の強き力

 世には、かくのごとき児戯に類した示威しい運動によりおそれたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり日比谷ひびやの近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を威赫いかくしたり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏固きょうこなることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。
 かつまた人をおどしてつのは、みずからずべき下劣げれつなる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。
 いわゆる強さの形が変化するというは、かつの字について前の「説文せつもん」にいえるがごとく、重荷をになうて堪えること、すなわち辛苦艱難しんくかんなんに堪える、耐忍たいにんの力あることをもってその強さが計られる。他人より侮辱ぶじょくをうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者よりてにぎやかにおもしろく、見物としてはあつらえ向きである。これに反し打たれてもられてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑屈ひくつのごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。韓信かんしん市井しせいあいだまたをくぐったことは、非凡の人でなければ、張飛ちょうひ長板橋ちょうばんきょう上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは忍耐にんたいにあることを会得えとくし得ぬ。

外に強き人と内に強き人

 僕は好んでプルタークの『英雄列伝』を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気凛然りんぜんたること、いわゆる強いことに何もかも忘れてふるい上がるごとく感ずることがある。しかるに『新約聖書』を見ると、その説くところはなはだ柔和にゅうわにして強みがさらになきにかかわらず、読んで行くあいだに犯すべからざる力を感ずる。百万人が襲来しても、ごうも動かざる心の強みを与うること、『英雄列伝』の遠く及ぶところでない。もっともこれは誰れしもかく感ずるとは断言することをはばかるし、あるいはわが輩一人の所感であるかも知れぬけれども、同感の人も必ずあろうと思う。わが輩の信ずるところによれば、いわゆる世人の強いと称する匹夫ひっぷ的の勇と、霊的に強い沈勇とのあいだにはだいなる差違がある。
 絵草紙や講談師の筆記にある木村長門守きむらながとのかみが茶坊主のためにはずかしめを受けたとき、ってこれを斬りつることは、なんらのめんどう手数もなかったであろうし、また女子供らの喝采かっさいを博するためには、たちどころにこれを切り捨てたほうが勇ましくも思われたであろう。しかるに彼の精神をみ得るものは、彼が眉間みけんに傷をうけ、しかもそれを茶坊主輩の手よりうけながら、なお泰然自若たいぜんじじゃくとしていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。

よく耐うる人は強き人

 ドイツの先帝フリードリヒ陛下が不治の病気にかかりて数日間病床に呻吟しんぎんし、しかもその病気は苦痛の最もはげしいものであったので、かたわらにするもののみならず、国民全体がふかき同情をよせ、一日も早くご平癒へいゆあらんことを祈った。あまりに苦痛のはげしいときは、うなりでもすれば、幾ぶんか苦痛の気休めにもなり、また世人はよく覚えずうなりやすきものであるが、帝は決してうなられたことなく、またかつて苦しい顔色を示されたこともなく、つねに莞爾かんじとして左右に接せられた。ほとんど病苦のその身にあることを知られなかったようであった。崩御ほうぎょの数日前、今のカイゼルを枕頭ちんとうに召され、
小言こごとを言わずに、堪うることを学べ」(Lernen zu leiden ohne Klagen)
 とおしえられたが、フリードリヒ帝の強さは相応にわかった人でなければはかり得ぬことである。ドイツの植民地よりまっぱだかの黒人を連れて来て先帝の病床にせしめ、あるいは子供を左右に侍せしめたならば、かれらはおそらく先帝はなんらの苦痛もなく、やわらかい布団ふとん横臥おうがしニコニコと喜べるものと思い、しかしてかくまでにうれしそうな顔しておらるるなら、何ゆえに外出して馬にも乗り、観兵式にでも出られぬと疑ったであろう。
 かつら公爵の人格もしくは政見等については人々の考えは種々に分かれているようであるが、公のただびとならざりしことは、何人なんぴとも同意であろう。して辛抱しんぼうづよい点は公の長所であった。長日月ちょうじつげつ病床にしながら、公の身辺にべる者にさえ苦しき顔を見せなかったという。公にられぬようにこっそりのぞいて見るとさも痛そうな顔色をして痛みある局部をみずからさすっていても、誰か病室に入れば、ただちに面相めんそうを変え、痛みなきふうをよそおったという。
 戦場に死するはことの外たやすい、何故なれば死ぬように万事仕向けてある。すなわち周囲が死をうながす、ゆえに見事にぬ。しかし長らく病疾びょうしつにかかりてなお帰るがごとくたおるるは容易の業ではない。強き人はよく耐える。よく耐える人を強者という。

いよいよという時に発する強さ

 我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物をうかがうと心底しんてい強いものがたくさんある。
 残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。
知らざりきほとけと共におきふしてあけくらしける我が身なりとは
 とは光俊朝臣みつとしあそんの述懐であるが、歌の「ほとけ」という代りに武士なり丈夫ますらおなりのつよい人格の文字を用いても同じことになる。しかつめらしく具足をつけ威張いばるものは、古来いのしし武士と呼ばれている。
 これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一たん事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら泰然自若たいぜんじじゃくとして落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、従容しょうようとして船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬわざである。平生は威張いばったこともなく、おだやかに算盤そろばんはじける実業家でありながら、かくのごとくなるはじつに見上げた人々である。人の強みもここまで来なければならぬ。

戦場における日露兵の比較

 かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣如何いかんを問いしに、その人の言に、
「ロシア人は死するもくるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。ゆえに卑怯ひきょう者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人がろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。しかるに日本兵はおだてなければ働かない。決死隊と称するものも、何人なんぴとか彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった」
 と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。むしろ猛獣的の一見して人がおのれを怖れるとか、あるいはいつでも人にみつかんとする気があらわれねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でもくを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっとわかりかねるであろう。

おのれにつものが世界に勝つ

 昔のスパルタ人の教育法は無やみに武張ぶばって、勇ましくいさましくとのみ教えた。わが輩も年のわかかった頃、スパルタ式の教育法にはなはだ感服したこともあるが、しかし同国がこの教育法によりて何をなしたかと考うると、はなはだ心ぼそい結果となる。かくいったからとてわが輩は決してスパルタ式教育がことごとく悪いといわぬ。ただあれだけではいかぬというのである。すなわち精神的勇気を養わずして猛獣的に強からんことを養うはスパルタ式教育の大なる欠点である。これは今日もなお同じことである。ある青年の道徳品行を観察する人はかつてわが輩に向い、
「某県より来る学生は、上京当時はすこぶるかたい、なんとなれば某県にある時はいわゆるスパルタ式教育法を受け、猛獣的に強くなっているからである。しかして最も早くかつはげしく堕落だらくするのは彼らの仲間である。なんとなれば彼らは強さをそとに求むればなり」
 といったが、精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真につ者はおのれにつを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。
そとよりは手もつけられぬ要害を内より破るくりのいがかな
 くりのいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害にえる意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。
 真の力は内に発し、内に練られ、内に磨かれ、内に養われ、内にたくわえられ、内よりあふれて外に流れるから、十分余裕がある。ゆえに内、おのれにつものは外、世界にも勝つことが出来る。己れに克つことあたわずして世界に勝つことは、一時的に出来ぬこともなかろうが、恒久の勝利を得ることは望み難い。古人の書にいわく、
「自責の外に、人に勝つのすべなく、自強の外に人に上たるの術なし」
 と。太古、禹王うおうが、「一につ」といったが、後の学者はこの言を評して、「君子この小心なかるべからず」といっている。
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英雄に現れた内外の差違

 西郷南洲さいごうなんしゅうが始めて橋本左内さないに会うたとき、こんな柔しい男が何で国事を談ずるに足るだろうかと、心ひそかに軽蔑けいべつしたことを、後にいたって自白している。さもあったろうと思う。くところによれば橋本という人は、外見はまことに温和に柔順な好男子であったから、この人の心情を知らぬものは、この柔順らしい皮の下に、いかに燃ゆるがごとき熱血が流れつつあったかをさとることが出来なかった。また同じ西郷が藤田東湖とうこに会った後、人に向い、
追剥おいはぎみたいな人物だ」
 と評したという。これもさもあったであろう。氏は躯幹くかん長大にしてたくましく、色が黒かったそうであるから、外観を見ては、その血管にいかに柔和な心があり、しかして母の危急を救うためには自分の生命までも投げ出すことを常人は察し得ぬであろう。また南洲なんしゅう自身についていえば、ようによりては外貌がいぼうおそろしい人のようにも思われ、あるいは子供も馴染なじむような柔和にゅうわな点もあった。ちょっと見ても、その烱々けいけいとして大きくかがやく眼は怖ろしいが、その奥底にはいうべからざる愛情がこもり、近づくものをみなきつけねばやまぬおもむきがあったという。
 こういうことは決して世にまれでない。ちょっと会っては虫も殺さぬような柔和な、ほとんど女のごとき人でも、だんだん交際つきあってみるにしたがい、なかなか硬骨こうこつで、一たび言い出すと決してあとへ退かぬ人もあるし、また外部から見るといかにも凛々りりしく、ころもかんに至り袖腕そでわんに至り、鬼とも組打ちしそうな風采ふうさいをなしていても、内心柔和な女のような人を往々見受ける。
 外貌がいぼうと内実との相反することはまれでない。この柔と剛とは善い意味にも悪い意味にも解される。いま述べた女のごとくというのも、また同じく善悪両様に解される。女々めめしいとか、意気地いくじなしにもれるが、僕のここに用いた女らしいというは善意にいたので、温和おんわ柔順じゅうじゅんの意味である。

怖ろしがらせるのが偉いか

 日本従来の教訓によれば、他人におそろしく思わせるのを偉いとするふうがあった。威風いふうあたりを払うというを豪傑ごうけつの理想とし、人の近づき得ざるところを偉いとしたから、偉がるものは、なるべく人を近づけぬ工夫をなし、あるいは傍若無人ぼうじゃくぶじんにして人を馬鹿にして独りで偉がった。世人もまたかかる人物をめる傾向があったゆえ、もし肩でもいからして往来を濶歩かっぽするか、あるいは人の気にさわることでも大声にしゃべり、相手の人が、病犬がえるかと疑いければ、これはこわくて近づかぬのだと解してますますこれを行う。
 文化の進むにつれて近頃はだんだんこの豪傑気取りれんが減って来たようであり、また今後もますます減るであろう。ことに洋服でも着るようになれば、減らざるを得ない。はなはだつまらぬことながら、洋服ではころもかんに至り袖腕そでわんに至る筆法は行われない。シャツを着たり、靴を穿いたりすると、行儀も改っておとなしくなる。しかし洋服をいで日本の浴衣ゆかたにでも換えると、従来の筆法が最もあざやかに現れて来る。汽車や電車に乗ると、胸毛むなげらし太股ふとももを現すをもって英雄の肌を現すものと心得て、かえってそれを得意とするものがある。

曲解されたる教訓

 なおこれと関連して世に誤解された教訓は、「巧言令色こうげんれいしょくすくないかなじん」ということである。言語を鄭重ていちょうにしたり温和にすれば、すぐに巧言こうげんと解し、威儀をもって語れば令色れいしょくと曲解し、すぐにすくないかなじんと結論をくだす。この苛酷かこくなる判決をけるために、げんたくみにしいろくせんとする者も、つとめてあらあらしくするふうがある。心の内と外の風采ふうさいと一致せぬことは、西洋よりも日本において最もはげしい。
 僕は今このことについて善悪を議論せんとするものでない。事実がかくあると単純に剛柔ごうじゅうの区別につき一言したいのである。往事の書生が、なるべく外貌がいぼうを粗暴にし、衣はなるべく短くし、かみはなるべくくしけずらず、足はなるべく足袋たび穿かなかったような、粗暴の風采ふうさいはなさぬ人が多かろう。ゆえに外貌のことにつきここにかれこれいう必要はなかろうと思う。僕がここに剛柔を説くにも、外貌に現れた剛柔と説かんとしない。ことに実業に従事する者のうちにも、
商人あきんどの、道に賢き笑いよう
 商業のごとく客を相手にする職業にある人は損得の関係上からも外貌をなるたけ柔和にし、もって人をきつけるにつとめるから、なおさら外貌のことを述ぶる必要はあるまいと思う。これらの点に関してはむしろ学生に述ぶべきことゆえ、今はここにこれを見合わす。

剛柔ごうじゅう、分を守りて人格が円満

 さて心の剛柔ごうじゅうとは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。剛が過ぎれば剛情となり、頑固がんことなり、意気地いきじとなる。柔に過ぐれば木偶でくとなり、薄志はくし弱行となる。極端に失すればいずれもしくなるが、に過ぎぬ以上は、すべからく剛毅ごうきでなければならぬ。
 自分の所信を貫徹するためには、一たびかためた決心をげぬ、あくまでも、左右の言にも耳をさずに猛進するくらいの強いところが必要である。さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。剛柔がくその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。

心の持方は剛柔いずれとすべきか

 僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。その言にいわく、
「あのおとこはまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて不可いかぬ。あれにいっそうほねっぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに」と。
 この知人は耶蘇やそ教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。一部あたれるというは、この知人は言葉づかいと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。がかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ硬骨漢こうこつかんであったが、ひとたび信者となってからは手をくつがえしたごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。
 かつこの問題は一歩を進めると、彼のいうほねっぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、いては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれをき、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきこととおもう。

身を処するには剛柔がおのおの必要

 先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にもかめもあれば海月くらげもあり、植物にもくりもあればいちごもあるがごとくである。すでに先天的に出来ているものを、いておれはこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、天賦てんぷの性質をめ、束縛そくばくすることはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して遂行すいこうすることも出来ぬ。これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。
 人間の体躯たいくも骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば脂肪しぼうもある、腹やももが柔であるから、人体は柔であるといえぬ。つめ歯牙しががあるから剛だともいわれぬ。ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。

やわらかく握るところに人生の真味あり

 たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡船わたしぶねのごときものである。人とともにこのを渡るには、おだやかに意気地いきじばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。僕のしばしば引用する『菜根譚さいこんたん』には、
径路けいろせまきところは、一歩を留めて、人に行かしめ、滋味じみこまやかなるものは、三分を減じて人にゆずりてたしなましむ、これはれ、世をわたる一の極安楽法ごくあんらくほうなり」と。
 また、
「世に処するには一歩をゆずるを高しとなす、退しりぞくるは即ち歩を進むるの張本ちょうほん
 といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることをかえしてあるが、実にその通り。自分の権利を最大限度に要求することははなはだ卑劣におちい所以ゆえんと思う。不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。沙翁さおうの言にも、
「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」
 と、昔時せきじの物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。やわらかく握るほうがかえって多く握れる。これはむろんつかむ工合いにもよりけりであるが、ここに述べたのはあわとか米とかの例に用いたものである。鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこのにおける幸福なるものはあわ、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計につかみ得るものではあるまいか。権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味みょうみとか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度でなるべく人に譲るをもって人生の真味を味わい得るものと思う。
 前にいった宗教家なる知人が、おとなし過ぎて惜しいと批評を受けたのも、もっともなことである。基督キリスト教のごとく、柔和にゅうわむねとする宗教にては、はでなことがはなはだ少ない、喧嘩けんかも少なければ、議論も少ない。ドラマチックのことがはなはだまれなるゆえ、世の見物人より喝采かっさいを受けることなくして世を過ごすが、しかしなお華麗に世を渡るよりはこの方がかえって人生の真味を味わわれると思う。

柔和にゅうわの心は相手の柔和の心をき出す

 かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなればことわざにも、「なさけ」という通り、人情が敦厚とんこうなれば、――もっとくだいていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世はうるわしきもの、生ける甲斐かいあるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔和にゅうわにおだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心もさわりようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、
「ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし」
 と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに此奴こやつがという気が起こりやすい。世を渡るには、
御免ごめんなさい御免ごめんなさい」
 と遠慮がちなることは、必ずしも卑怯ひきょうとはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫をかぶるとか、猫なで声で人を瞞着まんちゃくするとか、西洋でいうひつじの毛をかぶおおかみのごとく、偽善の最もはなはだしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善とうるならば、それと同じく剛毅ごうきもまた偽善に供することが出来る。決してにせものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なればにせが出来るはずはない。善ければ善いほど種々のにせも出来る。猫被ねこかぶりが多いというは、取も直さず柔和は何人なんぴとでも重んずる証拠である。

柔和にゅうわなる者はこの世を

にくまれ世にはびこる」という俗諺ぞくげんがあるが、これは原因と結果とを顛倒てんとうしたことである。世にはびこるものは憎まれる、はびこらずに謙遜けんそんに柔順なるこそ真に世に処する妙法である。かつこれが持久のもといと思う。聖書に、
「柔和なる者はこの世をぐべし」
 とある。この世をけて引き継ぐ者は柔和なる者なりとは、柔順なる人は永久にこの世の継続者である。
 換言すれば柔順は永久の徳なり、こわいもの、力をもって世を圧倒するものは、たとえ一時の効はあるとも、永久には継続せぬ。けものを見ても分かる、とら獅子ししくまなどのごとき猛獣は年々その数が減じつつある。もし統計を取ることが出来れば、彼らの減少率のはなはだ迅速じんそくなることを示すであろう。こんにちの状態にて進行すれば、数年ならずしてこれらの猛獣はこの世に跡を絶つであろうと、動物学者はかえって心配し、彼らの保存法を講じている。
 しかるにこれらの猛獣より見れば、卑屈ひくつらしく女々しく思わるる牛馬羊のごときはかえって年々増殖する。すなわち柔和なる動物がこの世を継いで、烈しい猛獣は年々歳々にその跡を絶ちつつある。人間においてもまたそうと思う。野蛮時代にはばる一方で、永久に続くことは出来ぬ。喧嘩けんかして世を渡るものは喧嘩両成敗せいばいで共倒れして後がつづかぬ。
武士ものゝふのけんくゎに後家ごけ二人ふたり出来でき
 相互に殺し合うゆえに永続せぬのである。猛烈をもって勇気なりと思う時代はまだまだ野蛮時代たるをまぬかれぬ。武骨で強そうなるをもって武士道の教訓のごとく思うははなはだ幼稚なる武士道である。理想に富める武士はものの哀れを知り、仁の徳にけ、温和に柔順なものである。
 かつて英国のある子供が、その父に gentlemanly とはなんの意味かとうたとき、父は通例の書籍に書いてある文句の切り方はちがう、ふつにはジェントルマンとリーとに切る、と思うであろうが、これは文法上正しいだけで、その内容はジェントルで切り、マンリーを加え、柔和で男らしいという意味であると答えたという。

世の中には譲って差支さしつかえないことが多い

 柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志にもろく服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。柔和は意志の弱きいいでない。もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。僕の考えでは世にはげてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。
 意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる厄介者やっかいものである。たとえばころもを着るにも、縞柄しまがらからい方からようにいたるまで一々明白はっきりした意思を表示し、かつこれをつらぬかんとすれば、たいていの仕立屋したてやまたは細君さいくんは必ず手に余すであろう。三度食うめしさえもこわい柔かいがある。この浮世を渡るにめしきようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。
 僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。物を食うにもさけでもどじょうでもよい、沢庵たくあんでも菜葉なっぱでもよく、また味噌汁みそしるの実にしてもいもでも大根でもよい。ただ特別なる場合、たとえば来客らいきゃくとか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂行すいこうするも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓着とんじゃくしなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと無頓着むとんじゃくというは語弊ごへいもあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが数多あまたある。ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という所以ゆえんである。

譲られぬところはあくまで固守せよ

 譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩もげられぬこともある。しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決してぐべきことでないと思う。僕はどこまでもげよとはいわぬ。出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けばくまでもこれを固守すべきである。
 とかく人は表面に現れたことのみではかるから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついにはみぞの中にたたき込まれんとする。溝のふちまでは譲ろう。しかしみぞに叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免ごめんこうむって、あべこべにみぞに叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真のつよみが発揮される。

こういう強みを処世上に持ちたい

 これは婦人などによく見ることである。柔和にして他のいうことをれ、いくら無理をいうてもハイハイと忍ぶ。どこまでもそれに付け込んで彼女の名誉や生命にまで関渉かんしょうせんとするときには、どっこい、それは不可いかんと毅然としてこれをしりぞける。
 むかし袈裟けさが遠藤盛遠もりとおいどまれたときには、無理を忍んでハイハイと返事し、もって母の危急を防いだが、いよいよ最後の守らねばならぬ点にいたっては、身を殺してまでも毅然として自己を操持そうじした。この点にいたると婦人はあなどるべからざる強いところがある。日ごろは一つのやさしき飾りに過ぎぬ「かんざし逆手さかててば恐ろしい」。こういう強味は世に処する上において、どうしてももたなくてはならぬ。
 僕は種々なる人のなすところを見るに、とかく表面には剛毅を装うているものが、何か事に当たると、たちまちもろく倒れる、松の木が風に折れると同じである。これに反し風のまにまに動くやなぎは動きながらも本性ほんしょうを失わず、かつ折れることなくして、その一生をまっとうする。
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同病相憐むに出でたる余の気弱きよわ

 前章に僕は外柔内剛がいじゅうないごうにつき少しく述べたが、内剛については所説のいまだつくさぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫くふうはあるまいかとたずねられることがしばしばある。
 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことをめたいと思っているくらいなれば、世人せじんに対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相憐あいあわれむという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来ねんらい少しく工夫をらしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正きょうせいせんとつとめるものがあるかと思って、新たに工夫をめぐらすに至る人もあろうと思い、僕は本問題をひっさげたのである。

盲者蛇をおそれぬ豪胆ごうたん

 僕の友人に僕と同じように気の弱い、いわば臆病おくびょうの人がある。子供のときに、その親が当時有名なりしぼう将軍につれて行き、
「どうかこの子の胆力を練らせていただきたい。今のように気が弱くては、その将来が案ぜられます」
 といったとき、将軍より、
「いや臆病おくびょうなるはさほど心配がらぬ。怜悧れいりなる証拠である」
 といわれ、当人はかえって得意になり帰ったことがある。臆病者は怜悧れいりなのか、怜悧れいりなものが臆病なのか、いずれが原因で、いずれが結果であるにしても、ともかくこの二者の間には何らかの関係があるように思われる。といって僕もあながち自分が臆病なるゆえ怜悧なりという考えはないが、世にいわゆる盲者蛇で、周囲のことも、前後のことも、いっさい分からぬものはその行動がちょっと豪胆らしく見える。しかしこれは豪胆にあらずして前後左右が見えぬのである。危険あるを知って豪胆に振舞うのでなく、危険あるを知らぬゆえに豪胆ごうたんらしく振舞うのである。
 そもそも人生には明らかにあらわるる危険もあれば、両側あるいは地下に潜伏せんぷくせる危険もまた多い。この危険を幾分なりとも見得るものは、おそれざらんとしても怖れざるを得ない。すなわちある意味において臆病にならざるをないゆえに想像力の強きものはいよいよおくする。したがって臆病すなわち気の弱きを矯正きょうせいするには、盲者になったら、あるいはその目的を達するかも知れぬが、むろん我々が気弱きよわを矯正せんとするのは、各自の本体を捨て消極的に改めんとするのでない、見えることならますますく見、その危険をも見透してなおおくしないところにまで到達するが主意である。盲者になって豪胆らしく振舞うはもとよりその主意に反する。

身体より来る気弱きよわの原因

 気の弱いことをむるには、その弱い理由を考え、その理由からこれに処する方法を案出せねばならぬ。しかしてその第一の理由は身体にありと思う。しかし身体が大きく強健であるとも、必ずしもその人が強いとは限らぬ。大男にしてすこぶる健全なもので、人の前に出ると、声がふるえ、碌々ろくろく物を言えぬものもある。吹けば飛ぶような華奢きゃしゃな姿したものでも、さらに物に動ぜぬものもある。ゆえにひろく身体といわないで、狭く神経質の人はとかく気弱きよわ勝ちであるといわれるとおもう。これが前にもいった怜悧れいりなことと気弱なこととがむすびつく理由であろう。
 神経過敏にして周囲の事物に感じやすい人は、人の顔色など最も早く見分け、人のいうことの表裏をも察知する。かく神経作用の鋭いものは、すなわち怜悧れいりなるものは、目先きがよく利くため、とかく人負ひとまけするように思われる。この事も一見矛盾むじゅんの感なきにしもあらぬ。すなわちそれほど物の分かるものなれば、何物も怖るるに足らぬではないかというものもあろう。しかし、ここがすなわち智能ばかりでは事足らぬ証拠である。いわゆる鋭敏えいびんにして頭脳の明晰めいせきなるものは、この事はこうなっているから、こんどはこういうことになろう、さてそうなればおれはここに処するにいかにせばよきかと案じ出す。
 この解決が出来れば物が分かるだけ、それだけ多く臆病気おくびょうけがつく、この解決が出来なければ出来ぬで、またそれだけ多く心配の種子たねがふえるわけである。しかるにいかに怜悧れいりに物ごとに解決を下しても、未来に属することは、自分の見込み通りに行かぬゆえ、必ず危険の分子がひそんである。すなわち心配の種子たねが存在する。かくいえば怜悧れいりなるものは必ず気弱でなければならぬという結論に達するらしくおもわれるが、決してそう一定せるものとは思われない。意志さえ堅固けんごなれば、賢愚けんぐを問わず、百難前にせまっても、これをおかして断行する。
かくすればかくなるものと知りながらむに止まれぬ大和魂やまとたましひ
 おのれの行為の結果が容易ならぬものとは知りながら、なお、「やっつけろ」という強いところが欲しい。この強いところがあれば、いかに怜悧れいりなるものでも、決して臆病とならぬ。ところが一方の意志が薄弱なるときは、頭脳が明晰めいせきなれば、先の先までも見えて心配の苦を増し、はなはだしく人を臆病ならしめる。しかるに人はその身体、ことに神経の構造により、一方の智力がことさらに発達し、その他の力たとえば意志がこの智力と権衡けんこうがとれぬときは気弱きよわになる。なお身体の発育上、何歳より何歳ごろまでが智力のことさら伸張する時代であろう。そのころは臆病風おくびょうかぜの最も強く吹く期節きせつとなろう。

身体局部の故障より来る気弱

 気弱きよわは生理的原因に由来することがあるゆえ、これを矯正きょうせいするには、生理的方法によらねばならぬ。すなわち冷水浴を実行するとか、睡眠すいみんが不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するのおそれがあれば、食物しょくもつを改良するとかせねばならぬ。一般の健康状態はさてき、ある局部が不良なるために卑屈ひくつとなり引込ひっこみ勝ちとなり、憂欝ゆううつにに沈む傾向がありはせぬか。これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく帰納きのうしたく思う。
 たとえば目の不良なる人はつねに欝陶うっとうしく感じ、したがってますます不愉快ふゆかいを覚え、人の前に出るのをいとうにいたる。それが一歩を進めると、衆人しゅうじんの前に出るのを恐れるようになり、いわゆる気弱きよわとなる。また胃弱者いじゃくしゃのごときもまた同じく、気が始終苛々いらいらし、つねに人と交際するのをわずらわしく思う。わずらわしいのが進むと、おそれを生じて気弱となる。要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽をかんじ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか怖気おじけとかが取去られてしまう。
 例により僕は自分の恥曝はじさらしの経験を述べて参考に供したい。僕は少年のころ、物に怖気おじけない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。両親の友人などが来ても、臆面おくめんもなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、うちの人々の手にもてあまされた。それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように引込ひっこみ勝ちになり、人の前に出るをきらい、人に顔見られるのをおそれた。いまになってその理由を顧みると、身体の工合ぐあい、ことに目に関係したのではないかと思う。かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞きつるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か逆戻ぎゃくもどりして、怖気おじけがなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の工合ぐあいがよくなったためと思う。

弱点の自覚より起こる気弱

 自分の弱点を自覚するために怖気おじけることがある。これは世間に多く見ることで、笑われはせぬか、にくまれはせぬか、あざけられはせぬかと、つねに心にうれうるゆえに、かかるおそれある場所には成るべく欠席せんとする考えが起こる。そうでなくてさえ、人にはいかなる人にても、秘密はあるものである。もっとも秘密だからといって、決して悪いものとは限らぬ。なんらの秘密なしと称する人こそ怪しむべきである。何人なんびとも隠すべきものをもっている。秘密といえば何か悪事するごとく思い疑わんが、決してそうでない。
 処女しょじょはずかしがるは何が一番はなはだしきかというに、自分のからだにありて、親にも示すべからざるものあるがためである。これは秘密にすべきものではあるが、善悪の標準をもって論ずる限りではない。いな解剖かいぼう上よりいえば、婦人が婦人としての身体を有せぬが恥ずべきことである。ゆえに各人が秘密を有すればとて決して怪しむに足らぬ当然なことである。この秘密を発見せられはせぬかという観念が人をして怖気おじけさせるのである。
 京都のひとは、「はれがましい」という言葉ことばを使う、すなわち東京のいわゆる、「きまりが悪い」の意で、目立つ所に立ち、多数の環視かんしのもとに出ることをはれがましいといって引込ひっこむが、これは何か秘密とすることを発見されはせぬかというに起こる。しかしてこの秘すべきことに、何らかの弱点があれば、この念がいっそう深くなる。
 前にも僕は子供時代の感情を自白じはくして恥をさらしたが、子供のときから顔のみにくいことをつねに笑われ、顔がおぼんのようだとか、鼻が低いとか、色が黒いとか、眼ばかり大きいとか、お出額でこがどうとか何とか、つねに人にいわれたために、人の前に出ても、またなんか言われはせぬかという気になり、怖気おじけたのである。公然開放的の顔のことゆえなんぴとも見るのであるが、その見られるのが怖気おじけうながす。かく何か弱点があって、自分じぶん控目ひかえめになることの自覚があると怖気おじける。しかし容貌のごときは腕白小僧わんぱくこぞうにはさほどの感じもないから、幼少のころは平気に聞き流して意に介せなかった。しかるにそれが年頃としごろになると、この自覚を感じ、人の前に出ると恥かしくなり、ことに婦人の前に出ると、前に述べたる生理上の関係のみならず、容貌ようぼうしゅうなるを恥じて気が弱くなる。
 かくのごときは歯牙しがにだもかくるあたいのなき、まことに些々ささたることではあるが、世には僕と同じく気の小さなものがあり、あるいは容貌ようぼうとかあるいは身体の一部に何かの欠点あることを自覚して、はにかむものがあるように見受けるから、掲げて参考に供する。

容貌や秘密の暴露は恥とならぬ

 これが矯正きょうせい策としては、顔がみにくいとても美顔びがん術をほどこす必要もなかろう。たでう虫もある世の中にはまったくてる物はない。いかに顔が醜いとても、またそれ相応の天職もあろう。ことに容貌ようぼう解剖かいぼう的のものでなく、心の作用によりては、少なくともその表情を変えることが出来る。そして人の顔色を読むには、骨格こっかく肉付きの如何いかんよりも、むしろその表情によることが多い。米国の大統領リンカーンは有名な醜男子しゅうだんしであった。しかるに親しくこの人に接したものは、の青ざめた顔、大きな口、くぼんだ眼を忘れてその慈愛に富んだ表情にのみチャームされた。
 顔の改造は出来なくとも、心の改良は出来る。また心を改良すればただちにそれが顔に現るることなくとも、またその見分けのつかぬぐらいの人から親しみを受ける価値もないように思わるるが、何を苦しんでか外部の顔のために進取の気象をうばわれ、いたずらに卑屈ひくつ引込ひっこみ勝ちになろう、と思えば心も晴々しくなって来る。
 また外部に現れぬ秘密の事にしても、道徳上恥ずるに足らぬ秘密ならば、すなわち人にはあかせられぬが、おのれが心にあかし、あるいは天にあかして恥ずべきことでない秘密ならば、暴露ばくろしたところでこれまた一場の笑話となるか、愛嬌談あいきょうだんとなるにとどまり、これがために心を痛め、胸を苦しめ、人に顔見らるるをおそるるにあたらない。
 田舎いなかから上京した人は東京ふうを知らぬゆえに、何かにつき無礼を振舞いはせぬかとどきどきする。自分の心にたずねて人に無礼を加うる念が毛頭もうとうなければ、動作の調ととのわぬことなどは、人もゆるすであろう、また自分の良心も必ずこれをゆるすものである。

自分の心得こころえの最善をつくせば無作法もゆるされる

 事の真偽しんぎは知らぬが、明治の初年ごろに西郷さいごうはじめ維新の豪傑連ごうけつれんがはじめて御陪食ごばいしょく仰付おおせつけられたことがあったという。いずれも田舎侍いなかざむらいで、西洋料理などは見たことのない連中のみで、中には作法さほうを知らぬゆえ、いかなるご無礼ぶれいをせぬとも限らぬと、戦々兢々せんせんきょうきょうとし、むしろ御陪食のえいをご辞退申し上げんとしたものもあった。
 いよいよ当日になり、玉座ぎょくざに近き食卓につくと、ろくろく落着いて手を出すものも、口を開くものもなかった。そこで西郷さいごうって口を開き厚くご陪食の御礼を申し上げ、かつこれに加えて、
「小臣らはいずれも田舎侍いなかざむらいで、九重ここのえ御作法ごさほうにははなはだ心得がうすいもののみでござりまする。ただ一身をもって陛下へいかおんためにささたてまつることのみを心得、他には何らの心得なきものであれば、今この席においてもあるいは御作法ごさほうそむくごときことがあるかも存じませぬ。ただ陛下へいかたいたてまつる至誠にめんじてお許しを願う」
 と挨拶あいさつして席につき、スープを飲むに、両手をさらにかけてささげグイと飲んだという。
 もしこれが知っておりながら、少しく奇人をてらい、英雄を真似たとすれば、無礼のそしりをまぬかれぬが、自分の心得の最善を尽している以上は、行儀作法ぎょうぎさほうに多少の欠点ありとするも、人はこれをゆるすものである。自分は行儀ぎょうぎを知らず、作法さほうが分からぬと、自分の弱点を知ったとても、人の前に出て、決しておくすることはない。またそんなことを気にして、かれこれいうような人なれば、友として交際する価値ねうちなきものと思う。
 後藤ごとう男爵が少年のころ、何かの折りに、岩倉公いわくらこうの前にされ、菓子をもてなされた。地方からポットの男はめずおくせず、その席上でムシャムシャと菓子を食った。しかし決して岩倉公に無礼をくわうるかんがえなく、ただえといわれたから食ったまでで、いわば至当のことをなしたに過ぎぬ。しかるに後になって、かかる饗応きょうおうの前でみだりに食うものでないと言い聞かされ、だんさだめし岩倉公の御不興ごふきょうを受けたであろうと思いしが、翌日にいたりこうより昨日さくじつ来た青年は菓子がすきだと見えるというて、かえって一箱の菓子を送られたという。しかし僕は繰り返していう。かくのごときことを聞き、豪傑ごうけつ才子さいしを気取って、わざと礼儀作法を破るものがあれば、これすなわち自己と他人をあざむくものであるが、このあざむく心がなければ、たとえ自己の弱点を見られたところで、たいした恥にならぬ。したがって一向おそるべきこともない。

「心にいまわしい点あるか」と反問せよ

 またこれに関連して述べたいことは、弱点の末の末までかくし得ないことを心得れば大いに気が澄んで来る。「ひといずくん※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)かくさんや」で、※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)かくさんとする人はただ一人だがこれを見る人は幾千万人ある。また※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)かくさんと欲する心を示すものは、目、口、鼻など頭の頂上より足の爪先つまさきに至るまで、一つとして我々の性質を現す機会とならぬものはない。これを※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)かくさんとするも、これらの機関はほとんど裏切うらぎりするかのごとく、我々の心情を現すものである。かく考えると齷齪あくせくとして、あるものを無しと言い、無いものを有ると見ても、とうてい永続せぬものである。早晩その真相は暴露ばくろされるものである。
 ゆえに僕はむしろクローディアス王がその画工に対し、
「我を画かんとするなら、どこからどこまですべてを画け、いぼも何も」
 といった主義に従いたいと思う。むろんこれがために迷惑めいわくを受け、他人より多く笑われ、他人より一層多く非難されることもある。しかし常に心に戸閉とじまりし、つねにかくさんとする重荷おもにがないだけ気軽で、大なる利益がある。要するに心のうちさえさっぱり晴れているなら、何事にっても怖いことも恐ろしいこともなくなると僕は確信する。ゆえに人の前に出るにあたり怖気おじけが起こったならちょっと退しりぞいて、
おのれの心にいまわしい点があるか」
 と反問するが肝腎かんじんである。臆病おくびょうなる僕に一大興奮剤となった教訓は沙翁さおうの Be just and fear not の一言である。
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始めて試みた英語演説

 怖気おじけは自信力のとぼしい場合に起こることが多い。「自分はとうていこのにんえられぬ」と思えば、手を出すこともこわくなる。
 僕がはじめて外国で外国語の演説をしたときは、草稿をたずさえて行ったが、れぬことばで語ることでもあり、かつ聴衆は千有余人もあり、しかも燕尾服えんびふく着用で聴講料を払って入場した紳士しんし淑女しゅくじょ――一もくしても一ぺんの書生たる僕以上の人と見受けられ、加之しかのみならずこの時は僕の独り演説であったから、これらの聴衆を見ると、思わず慄然りつぜんふるえた。
 やがて司会者はって五、六分間、紹介のことばを述べた。このかんは僕にとって、生涯しょうがい忘れられぬ苦痛の瞬間しゅんかんである。じょうの中央には演壇と椅子いすがあり、その両側には市の有名なる人々が十人ばかりずつひかえ、その壮厳なる光景を見ては、なおさら怖気おじけて、手足はブルブルと戦慄せんりつした。幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。とにかくも、おののきをおさえられぬ。愚かなことをしたものかな、こんな演説を引受けねばよかった、いっそ急病と称して御免ごめんこうむろうか、何か他の理由をつけて退席せんかと思いわずらっている時、ふと浮いたかんがえが二つあった。一つは、
「ナニ此奴こやつら、服装なりこそうるわしけれ、金持ちでこそあれ、たかの知れたもののみである。ことに自分の今べんとすることは、日本に関することではないか、この点については僕は確かに彼らにすぐれている。少なくとも日本に関する知識においては、彼らはゼロ同然である、なゼロよりもかえってマイナスであろう。僕が今述ぶる問題の範囲内においては、彼らは取りも直さずまったく無知同様である。かかる人を相手として演説するに、何のおそるることかあらん、この馬鹿者奴ばかものめらがッ」
 としきりに彼らをんでかからんとつとめたが、なかなかめない。いかに心中では豪傑をてらわんとするも、真底しんそこよりの豪傑でないから、ますます怖気おじけてガタガタふるえる。

演説のふるいを止めた経験

 すでにしてまた一つの考えが起こった。
「この席に来た人々は日本に関する知識を求めに来たので、決して雄弁ゆうべん能弁のうべんを聴くつもりで来たのでない。日本人が英語をあやつるのであれば、さだめしブロークンな英語であろう。演説の良否よりも、内容が半分もわかれば、それでるくらいに思うであろう。また恐らくは傍聴ぼうちょうの半数以上は聴くよりも日本人を見に来たのであろう。僕の演説を充分に解することはその期待せぬところであろう。もし彼らが僕の演説をなかばなりとも了解し得たならば彼の人は感心によく英語を話したと思ってくれるだろう。発音のなまりや、文法の誤謬ごびゅうなどはかえって愛嬌あいきょう種子たねになるくらいのものだ。なるほどこの演説は自分にとっては責任が重い。しかし聴衆にして心あらば、任の重きに対して同情してくれるだろう。ゆえに演説中に誤りを笑うものがあるとも、そのわらいは冷笑でない。また出来そこねたからとて、あながち国名をけがすことともなるまい。ブロークンながらもめずおくせず元気よくやるがよい」と。
 かく自分勝手の理屈を考えて、覚悟をしたら、今までのふるいがとまった。わずかに五、六分間であったが、その間に頭脳あたまの考えは二回変った。しかしていよいよった時には平然として何のこともなく、草稿にない戯談じょうだんなども臨時に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)そうにゅうし、幸いに案外の喝采かっさいをうけた。

怖気おじけに処する二種の考え

 その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄えいゆう豪傑ごうけつならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人ぼうじゃくぶじんてらい、なに彼奴きゃつらがという態度をすることは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだおろかなる方法であると思った。恐らくは他人ひとにも、かかるり元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、おのれをあざむき、人を欺くげいであるから、なかなか骨が折れよう。
 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分よりすぐれた力がある。しかし彼らはこの力を濫用らんようせぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれにむくゆるに相手を軽蔑けいべつしあるいは馬鹿者視ばかものししたりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気おじけが起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。

信じてかかれば怖気おじけない

 そこで僕が自分の恥をらして物語り、怖気おじける人の参考に供したき要点は、相手をしんじてかかれということである。渡る世間におにはない、鬼でさえ頼めば人を食わぬ。窮鳥きゅうちょうふところに入れば猟夫りょうふもこれを殺さぬ。怖気おじけたり臆病おくびょうな人も、他に信じてかかればおそるることがなくなる。僕はこの一時の経験により、自分の心理状態に一大改革をたように思う。あるいは読者中には、粗雑にしてかつ乱雑なる僕の演説を聞かれた人もあろうが、こんにち日本においても聴衆の前に立ち、何らの腹案もなく述べ出す。
 学術上のことはさてき、日ごろ思っている考え、日ごろいだける感情を述ぶるに、何のおそれることもない。ありのままに口を開け、「はらわた見せる柘榴ざくろ」同然にやる。隠したところが、数百の聴衆は僕よりもいっそう鋭敏なる眼をもって見つつある。隠さんとしても隠しきれぬ。急に君子顔を装ったとて、また言葉だけにたまをつらねたとても、音調に得た所がなければ、聴衆の嘲弄ちょうろうを招くばかりである。またその場に急に英雄豪傑を真似まねたとて、その腹の底に胆力たんりょくがなければ、話しているあいだの姿勢にて暴露する。聴衆は自分よりも具眼ぐがんの士であると、かれらを信じてかかれば、かえっておそろしくなくなる。同じ獅子ししあなに入るにしても、相手がおのれを食らうなど思えばおそろしくなるが、この獅子ししみだりに人をわぬことが分かれば、恐怖の念が去る。ゆえに僕は怖気おじける人に対し特筆して注意したきことは、相手の人を疑うことなかれ、相手の人に好意をもってすれば、かれらもまた君に対し好意を懐くものであると。

怖気おじけの根本的矯正きょうせいは自信自重にあり

 右に述べたのは相手を信用してかかれという意味であるが、これに相伴って必要な一つの覚悟があると思う。それは他人のことに関せぬ自分自身の態度である。いかに他人が自分に対して好意があるだろうと信ぜんとしても、自分の心に暗いところがあれば、みずから信ずる念がとぼしくなり、したがってまたみずから重んずる念が欠ける。しかしてみずから重んぜざる人がいかにして他人より重んぜられようか。人爵的じんしゃくてき軽重けいちょうならばいざ知らず、心より発する尊敬などは自ら重んぜざる人に払うものはあるまい。
 ゆえに人を信ずるに先だち、自ら信ずる念がなければならぬ。みずから信ずるというは自分に暗いところがない、よし他人が自分を信ぜなくとも、自分は独立しても世を渡る、またいかに他人が自分をうとんじても、我はあくまでも自らおもんじて、所信をつらぬくという、みずからいさぎよしとするところがなければならぬ。僕がしばしば引用する Be just and fear not(せいを守りておそるることなかれ)というはすなわちここをいったのである。
 自分が正しいと信ずるものは、いかなる事があってもおそれない。したがって人の前に立っても怖気おじけることがない。かの宗教改革をとなえたルターが始めてその新説を発表し旧教家の反対を受けたときは、その生命いのちの安全さえもはなはだ覚束おぼつかなかった。そのころルターの友人はかれのある会合に出席せんとしたのを止め、
「今日は家にあれ、一歩戸外に出れば生命は危険である」
 といましめたが、ルターは昂然こうぜんとして、
「この町の家屋かおくかわらほどに敵が多くとも、心にやましきことなき以上は、何のおそるることかあらん」
 と言い出席したという。おそらくは怖気おじけの根本的矯正きょうせい法は自身の正しきを自覚するにありと思う。

暗いところがあると怖気おじけ出す

 これにはんし自分に最善ベストを尽しておらぬものは、何かの時に退けを取りやすい。恥ずかしいが、僕もしばしば自分でこれを経験したことがある。かようなことは相手も知っておるまいと、思って大きな顔している間に、はしなくも話頭はなしがみずから犯した罪に、すこしでも触れると、すぐにビクつき、あるいは顔色かおいろが変わり、あるいは声がふるえ、あるいはその言うことに辻褄つじつまが合わなくなり、あるいはごく上等に出来たとしても、話頭はなし漸々ぜんぜんげて自分の痛いところより遠く離さんとし、然らざれば正反対に自分の弱点を弁護するごとき議論や物語をしたりする。
 これは僕自身にそういう経験があるのみならず、また他人に逢っても、自分みたいなことをやっているわいと感じたことが間々ままあった。たとえば前年僕を訪ねて、なかなか元気よく議論したある青年があった。その挙動を見るとすこぶる傍若無人ぼうじゃくぶじんで、へやに入るやいなやいきなり趺座あぐらをかき、口角にあわを飛ばして盛んに議論する。僕はこれを見てなるほど彼は勇気精力に富むと感心した。彼が独りで暫時ざんじ議論したのち、僕にむかい、
今日こんにちの日本の青年に対し最も注意すべきものは何か」
 と質問を発した。僕はあながち彼に対してあてつけ、皮肉をいうつもりはなかったが、あたかもそのころある地方の中学を巡廻し、生徒の不行儀ふぎょうぎなることを、ことに痛切に感じていたから、僕は、
「行儀を正すことが目下の一大急務なり」
 というや、今までの豪傑は急に狼狽ろうばいしはじめた。露出した膝頭ひざがしらを気にして、衣服きものおおわんとしたり、あるいは趺座あぐらをかいた足を幾分かむすび直し、正座の姿に移らんとした。僕はこれを見て、ハハア、この人が今までの大言壮語たいげんそうごも、その磊落らいらくの行儀も、思いつかずになしたわざでなく、一こしら気焔きえんで人をおどかすつもりか、あるいは豪傑をてらってのわざであったのだな。彼の英邁えいまい奇行は道具立ての小細工こざいくたるを見て可笑おかしくなった。彼はその知れる限りの最美を尽しておらぬ。むしろ彼の最悪の行儀をなしていたのである。自分が為すべからざることと知れることを、ことさらに為していたのである。
 ゆえに一言でも話頭はなしが彼の弱点にわたると、胸中幾分か狼狽ろうばいするの風情ふぜいが現れ、今までたのもしい剛胆ごうたんなる青年と思われたものが、見すぼらしい凡人に立ち返り、勇将が一時に敗兵となった観を呈した。

『失楽園』に現れた悪魔の姿勢

 英文学に異彩をはなつと称せらるるかの有名なるミルトンの『失楽園パラダイスロスト』の主人公は、神を相手に謀叛むほんはたひるがえした悪魔の雄将サタンである。彼が戦いに敗れ地獄にち、しばらく夢中に卒倒してあった後、たちまちいきふき返して、わが身辺を見廻わすと、彼の同僚および彼のひきいたる軍勢は、何万となくいずれもあるいはつかれあるいは負傷して消ゆることなき地獄の青い火の中に、燃えもせず焼けもせず、苦しみながら横たわれるさまを見て、サタンは再び士気を鼓舞こぶして、天に逆らい再挙を計ることを、詩仙ミルトンが椽大てんだいの筆をふるってえがいている。
 しかして書中に現れた悪魔の態度の実に凛々りりしく、彼の野心の実に偉大なる、彼の度量の広闊こうかつなる、読む者をして知らず知らず神よりも悪魔を尊敬する念を起こさしむる。ゆえに英文学を論ずるものは、『失楽園』を批評するにあたり、ミルトンの神をけなし、ミルトンの悪魔をあがめぬものはない。またこの悪魔の姿は実に堂々たる風采ふうさいで、吾人ごじんの崇拝にあたいするように写してある。ことに彼が天帝にそむかんとする豪胆のこと、また大敗を受けても再び事を挙げんとする勇気のごときは、読者をしていよいよかれに尊敬を払わしめる。
 しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる身躯からだがあるいはかえるとなり、あるいは鳥となり、あるいはへびとなり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕落だらくする順序が現れている。
 僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の堕落だらくの階段が秩序的に現れているがごとくかんずる。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。
 しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと含蓄がんちくされているものが、漸々ぜんぜんに働くことを称するとおなじく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種子たねが含まれているある一種の病原が存し、この種子たねが年とともに蔓延まんえんするものである。ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの黴菌ばいきんが胸中にきざしたのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに卑劣ひれつな手段も辞せず、だんだんに堕落だらくし、ついに虫類むしけら同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。

顧みてやましからずば怖気おじけは起こらぬ

 話頭はなし岐路わきみちに入ったようであるが、自分の胸中に正しからざる種子たね潜伏せんぷくする以上は、いかに最初は勇敢なるも、いかに初対面のときに豪傑風を装うとも、いかに人に接して偉大なる感を与うることあるも、年をるにしたがい、その金箔きんぱくがだんだんにげると同時に、その人はますます小さく、臆病にかつ卑怯ひきょうになる。ゆえに僕は何か人に逢ったり、多数の前に立つ時、怖気おじけを覚ゆればすぐに自分を呼び出し、
「これ稲造いなぞうきさまは近ごろ、何かバクテリアにかかりはせぬか、どこかで病いの種子たねを宿しはせぬか」
 と自問を発し、あるいは、
なんじは人の前に立ち、少しでもよく自分を思われたいと、自分の真価以上に看板かんばんをかけたい了簡りょうけんなるか、相手の人にめられたいと思っておりはせぬか、あるいは何か求むる所があって、相手の人にお世辞せじを述べるか、あるいはみだりに自分を卑下ひげして、なさずともよいお辞儀じぎをなし、みずから五しゃくすん体躯からだを四尺三尺にちぢめ、それでも不足すれば、ミルトンの悪魔同然に鳥なりへびなりかえるなりの程度まで一身を引下げておりはせぬか」。
 かく発問すると、なるほどもっともだ、自分はかねての心がけよりも、この点において大いに堕落だらくしたと思いあたり、心をり直し、おのれに帰る心地ここちする。して己れの心をそのまま存する者はこわがりもせぬ。怖気おじけは自己の心を離るるより起こる。漢字で立心扁りっしんべんる(きょうく(ふ(ぼう[#「りっしんべん+くさかんむり/氓のへん」、U+607E、99-7])をつけてこわがるの意を現すもゆえありというべし。
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人に最大不快を与うるは何か

 人間社会で不愉快なる感を与うるものは数多あまたあるが、これを一々区別して、何が最も有力なるかをたずぬるに、貧困よりも疾病しっぺいよりも、失望よりも何よりも、他人から悪く批評されることが最も有力なものであろう。
 ある人が人間の行為として最下等なる職業をいとな数多あまたの醜業婦について、
「お前たちはこの商売していて一番イヤなことは何か」
ただしたら、お茶をひいて仲間なかまに笑われることだと答えたそうであるが、彼らは日々の飯さえ遠慮して食い、終夜一すいもせぬことしばしばなるに、身体からだの苦しきよりは、やはり四の批評のほうがつらきものと見ゆる。
 こういうと、あるいはそんな些細ささいなことがと、言い流す人もあろうが、実際においては自分の悪口を言われても、これを心にかけず平然たるくらいまで進んだ人ははなはだ少ない。中にはそんなことはかまわぬと称するひと数多あまたあるが、なにかかにか言われると、まったく無頓着むとんじゃくに聞き流す人はほとんどない。誰しも必ず心に不愉快を感ずる。ことに少しく神経過敏かびんなものになると、なおさら不愉快を深く感ずる。無頓着むとんじゃくと称される豪傑肌ごうけつはだの者でさえも、そのじつなかなか心を悩まし、自分に対する悪口に無頓着なることは出来ぬ。またズッと高く進んだ聖人さえも、全然これを無視するを得難いもののように思われる。

英雄も聖人も悪口を気にかける

 かつて故児玉こだま大将が生存中、僕は一せき大将をそのやしきに訪ねたことがある。折から外出より帰った大将は、
大層たいそうお待たせした」
 と挨拶あいさつし、
「イヤハヤ、どうも元老の爺連じじいれんがお互いに悪口言い合うを調和するは、一方ひとかたならぬ骨折りだ。今日も一日かかって、そんな骨折りをやって来た」
 と歎ぜられた。僕は、
「悪口って、どんなことを言われるのです」
「どんなことって、まるで裏長屋のばばあが井戸ばたでグズるのとことなったことはないさ」
「しかし天下を預かる英雄にはそんなこともありますまい」
「英雄は英雄でも、豪傑は豪傑でも、おれのことをこんなこと言った、しからぬやつだ、あんなことをいったが不都合だと互いに陰口かげぐちきいたのを、うらむようにこそこそと他人の悪口をいうさまは、ごうも裏長屋のばばあちがうことはない」
 と言われたが、磊落らいらくにして世評などに無頓着をてらう豪傑にしても、なおかつかかる人が多い。いわんや普通の凡人においてはなおさらである。
 また僕はかつて次のごときことを読んだことである。ソクラテスは容貌のみにくい人で、世人せじんが彼を誹謗ひぼうするときは、必ずこの点を指摘した。しかし彼自身も容貌などは、どうでもよいと思うため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分もその仲間に加わり、一緒に笑い、おのれの眼の飛び出しているは、四方八方をよく見るためであり、鼻の天井を向いているは、他人のげないものを嗅ぐためであると磊落らいらくに笑い流していたが、その死せんとするにあたり、ヘムロックのはいを取りながら、
「いよいよおれが死んだなら、もはや俺の容貌の醜きを笑う人もあるまい」
 と一ごんした。してみると、他人が彼の醜きをそしるのを気にしていたと思われるといた人の論を聞いた。この論がはたして当を得たるやいなやは別とし、いわゆる聖人なるものも他人より悪口さるれば、少なくとも不愉快の感を起こすものと思われる。まして凡人においてをや。

世評は修養の補助

 かれこれ相互の批評は人生の大部分を成しているかと思われる。むろんこれが刺激となって人生は進歩するものである。いかなる人でも、その備うる短所を批評せねばいい気になりますます得意となる。いかなるしからぬ行為あるものも、これをあばいて反省をうながさねば、ますますその暴行をたくましゅうしやすくなる。
 世間の批評が我々の行為を抑制することは、あたかもひつじの群れを監督するために羊犬シェファードドッグを付けるがごとくである。おろかなるひつじは草を食いながら、少しでも柔軟に、少しでも緑の草があるほうに進み、だいたいの方向も忘れて進み路を迷いやすい。このとき羊犬が迷った羊にえつき、各個の羊をその群れより離散せぬようにまとめると同じく、世評なるものは、我々が得意になり、あるいは岐路きろに迷わんとするとき、これをおさえて軌道きどうき着ける役目をするものと思えば、修養の一大補助ともみなされる。すなわち毀謗きぼうは社会の要求の声ともいうべきものならん。
 それについてはこれを濫用らんようせぬよう心がけることが最も必要である。してその濫用とは、
一にはその悪口をいった人をうらむこと、
二には自分の悪口されたのを聞きいかること、
三は悪口を耳にしてヤケとなること、
四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、
五には悪口のために落胆し萎縮いしゅくすること、
 等が、その主要なるものである。これらのへいおちいらぬようにするには、まず悪口に対してはいかなる態度におらねばならぬか、その度胸を定めたい。
 悪口そのものについては他所にも述べたから、ここに再び繰り返す必要はない。僕のここに言わんとすることは、悪口の目的物となり、すなわち悪口を受けるものの態度について一ごんしたい。

悪口は一時的のものが多い

 多くの悪口には一時的流言りゅうげんに過ぎずして、ほとんど一の値いなきものがある。俗諺ぞくげんにいう、「人のうわさも七十五日」。その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。すなわち新聞雑誌に掲げられる月旦げったんとか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、ぼうはかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉をくらっても※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)あきたらぬとか、ともに天をいただくを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる始末しまつ細々こまごまと記してある。
 これを読む者が真面目まじめに考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。国のためにかかる人は一刀のもとに刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしくめ立てることがある。いわゆる輿論よろんなるものは実に軽薄なものである。また我々の友人中にも甲が乙のうわさをして、はなはだしからぬやつだとののしる。その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交しても※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)あきたらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた罵詈ばりげんは、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。

譏謗きぼうの大部分は介意の価なし

 しかるに少し気の小さな人が、自分のことをうわさされ、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再びあたわざる窮地におちいるごとくなげく。かくのごとき時には、すこしく度胸を大きく持ち、今日あって明日なきことの、一風ひとかぜ吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえってために一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者なんしゃはいかなる人かと聞けば、おこったりうらんだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。
 あの男が一ぱい機嫌きげんで悪口するはアルコールの蒸発じょうはつのどよぎって来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういうげんろうするは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠とおぼえぐらいに聞こえる。ちょっとは耳にさわっても、あとに残らない。
 しかるにこれを一々真面目まじめに解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱をくほうが多いから、ために人をうらみ、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七は聞流しにすべきもの、意にかいする価値なきものと僕は信ずる。
折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん

知らぬ人の批評には弁解が要らぬ

 もっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらにわなをかけ、あちらにかきを結び、もって他をおとしいれんとする、手配り広き悪口もある。
 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれをまぬかれられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知恵ちえを絞り出してく悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵をめぐらす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳漿のうしょうを絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。
 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗きぼうの理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々ことごとしく弁解する労を取るだけの価値がない。加之しかのみならず時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、彼是かれこれ批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。
 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境きゅうきょうおちいり衣服にも窮している、どうか助力をいたいと訴えたが、彼がその窮境きゅうきょうおちいったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼のはなしさえぎり、世間が君を誤解しても、君の知己ちきが誤解しなければよいではないか。
 世間とは君を知らぬ人のいである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意にかいするに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛憎あいぞうの念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。

かかる悪口は自然に消える

 世間だの世評だのということは、はなはだばくとしたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由々ゆゆしき大事といわねばならぬ。
 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非難ひなんしても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口をき、その会社の信用を傷つけ、その店を顛覆てんぷくさせる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。
 西郷南洲さいごうなんしゅう翁が慶応けいおう年間、京都に集まった薩摩さつまの勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮撫ちんぶに取りかかったとき、日ごろ西郷にこころよからぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮撫ちんぶるが、実はこれを煽動せんどうするものであると、島津久光しまづひさみつ公に告口つげぐちした。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何人なにぴとでも差支さしつかえなきゆえ、手討てうちにせよとの命令を下した。これを聞いた大久保おおくぼはそもそも西郷を久光ひさみつ公に推薦すいせんしたのは自分である。彼が不埒ふらちを働いたとすれば、自分もまたその責任せきにんを分かたねばならぬと思い、西郷が来るやいなや、ただちに彼を兵庫ひょうごに引連れ、明日君が君公の前にすれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺しちがえて死する積りだといった時、西郷は、
「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。おれは罪を得たから死ぬが、きさまは生き残って俺の代りに君公につかえ、二人前を働いてくれ」
 といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔走ほんそうしたが、世には随分念の入った讒言ざんげん悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他をうらむことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。

言語よりも実行をもって弁解せよ

 かくいったならば、あるいは正直の人は、
「人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。なんじは軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。
 西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼をにくむ人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史をけがした。また我が国にても石田三成いしだみつなり徳川とくがわ家の御用史家により、成るべくしざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、誤謬ごびゅうを改めしむべきが本分である。なんじの言のごとくどうでもよい、放任せよというはしからぬ」
 という人もある。歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、真偽しんぎの問題である。道徳の問題でなく、歴史上の問題である。
 歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日々ひびの心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もしいて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。
 白隠和尚はくいんおしょうはその檀家だんかの娘が妊娠して和尚おしょう種子たねを宿したと白状したとき、世人からなまぐさ坊主ぼうずと非難されても、平然として、
「ああそうかい」
 と言い、生まれた後は、自分でその子をきなどしていたが、後、和尚の種子たねでなく、娘は一時のがれに和尚の名をけがしたことが明らかになった時も、また、
「ああそうかい」
 といって世間の毀誉褒貶きよほうへん[#「毀誉褒貶」は底本では「毀誉貶褒」]無頓着むとんじゃくであったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。
 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。
「何をもってそしりむる、いわ無弁むべん。何をもってうらみとどむる、いわく争わず」
 と、また、
「人の我をそしるやそのく弁ぜんよりは、るるにかず。人の我をあなどるや、そのく防がんよりは、するにかず」と。
 実に尽せる言である。

悪口に対する理想的態度

 しかしこれについてはくれぐれも心得たきことがある。すなわち白隠和尚はくいんおしょうの態度のごときはごろの修養ある者でなければ、為すべきことでない。かく言えば、前に説いたことと矛盾むじゅんするらしく思われるがそうでない。日ごろこれらの修養をく人が、ある一事にかかることを為すと、自分はともかく、他人に大なる迷惑をかけ、しかしてかえって悪事を為すことを奨励しょうれいするに傾きがちである。白隠はくいんなりしゆえ、後日に至り疑いもけ、差し支えなかったが、しかし世間では、ややもすれば白隠はくいん以外の、しかも良からぬ人が、実際自分の私生児を引きり、白隠の言葉を借用して聖人の行為を真似まねおそれが多い。
 米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らをばっせんか、おしむらくは彼らの中には有名の士君子しくんしが多く、かつこれらの人はごろ社会百般の事柄に力を尽し、世間の信用と敬愛とを受けている。法に従い罰するにしのびぬ。ゆえに止むを得ず一時の権宜けんぎとして、彼らには軍法を応用せず、兵役もめんじ、納税の義務も免じた。
 これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人のごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、ごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、ごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に都合つごうよき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。白隠はくいん和尚は日ごろ修養を積み、平生へいぜいの言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。
 ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、ごろの修養如何いかんによりてその価値がいちじるしく違う。白隠はくいんはなしは美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するをはばかる。しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、ごろの行状をつつしみ、日常の信用をあつうするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。この点に謹慎きんしんし、修養していれば、一時いかなる非難非譏ひきを受けたとても、何らの弁解を試みずしてく晴天白日の身となり得ると思う。悪口に対する吾人の理想的態度は無言むごん実行の弁解をもってすべきであると思う。いかに人はかれこれいうともおのれさえ道を蹈むことをおこたらずば、何の策をろうせずとも、いつの間にか黒白こくびゃく判然するものである。要は「本来ほんらい清浄せいじょう」を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。
ひと住まぬ山里やまざとなれど春くればやなぎはみどりはなはくれなゐ



世に蔓延はびこる者は憎まる

にくまれ世にはびこる」ということわざがあるが、わが輩はこれを顛倒てんとうして、世にはびこる者はにくまれるということも、また真実まことであると思う。いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『言海げんかい』を見ると横行、強梁きょうりょうなどいう漢字を充用し、いひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、びひろがりしげる意味である。米麦こめむぎいた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪魔じゃまになるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆をんと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的にかなわぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。
 して見ると、はびこるという文字の意味を悪くるからぬかは、これを用うる人の意によりてちがうので、豆をんとする人には、麦がしき意味にはびこるのであり、麦をんとするところに豆が茂れば、豆が同じくしき意味にはびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職をまっとうし、びるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、いなむしろすこぶる感服することがたくさんある。

古今の事例はこれを示す

 これ我が天職なり、これ我々がまさにむべき道なりとの確信のもとに働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何人なんぴとかの進路をさまたげ、人から邪魔視じゃましされる。聖人せいじん君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何人だれからか邪魔視じゃましされる。
 孔子こうしえることまたは為せることは、盗跖とうせきより見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。
 キリストが無遠慮に自分の思想の実行をつとめたから、時の官憲僧侶そうりょから邪魔視じゃましされ、耶蘇やそほどにはびこるいやなものはないと思われたればこそ、十字架じかの上にその一生を終わったのである。
 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫蕩いんとう浮華ふかなる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。
 ゆえに、「にくまれものはびこる」というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。何人だれにも可愛かあいがられるものは世にないと思う。もしかかるひとがありとすれば、そは自己の意志なきものである。何人だれにも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。
 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣笠じんがさの意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽蔑けいべつの意を含んでいる。これにはんして一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。しかるにいかなる政治家にてもその生けるあいだは敵より政治屋と罵詈讒謗ばりざんぼうせられる。ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。

意志の遂行すいこうと社交の遠慮はいかに調和するか

 人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、何人なんぴといやである。嫌だからとて「瓢箪ひょうたん川流かわながれ」のごとく浮世のまにまに流れて行くことはこころざしある者のこころよしとせざるところ、むしろずるところである。ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するにつとめねばならぬ。もちろんかくいったからとて何事につけても無遠慮ぶえんりょに勝手放題に傍若無人ぼうじゃくぶじんに行えというにあらぬ。独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。
 山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も近道ちかみちであるが、実際山より山にうつるには、一度ふもと渓間たにまに降りてまたまたけわしき峰をよじ登らねばならぬ。一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば迂廻うかいして行くだけの遠慮がなくてはならぬ。しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは卑怯ひきょうである。かれこれ言われるからとて遠慮するのも卑怯ひきょうである。
 しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。この程度は概括的に定むることは出来ぬ。周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の犠牲ぎせいとして払うべき意志は我々が衣服きものを買うときの代価のごときものである。いったい衣服きものなんぼするものかという質問に対しては何人なんぴと一口ひとくちに答えかねる。なぜなれば衣服きものにも単衣ひとえあり綿衣わたいれあり、木綿もめん物もあれば絹織物もある。和服もあれば洋服もある。具体的に個々の衣服きものについて始めてあたいがきまるのである。単に衣服きものというただけでは何とも決することが出来ぬ。それと同じく遠慮と遂行すいこうの程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。
 わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点はおのれの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間がれてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底門外漢もんがいかんの解決し得るところでないと。

所信の貫徹かんてつひそめる大苦心

 元来がんらい、義務と義務との衝突しょうとつは根底においてあり得べきものでない。義務そのものは絶対的であるとしても、個人がこれに対すれば軽重けいちょう本末ほんまつ主従しゅじゅう大小だいしょう遠近えんきん等によりて関係的相違あり、決して絶対的に同等なものでない。したがって思想的根底において衝突せぬものであるが、実行にあたっては衝突する場合がたくさんある。
 孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならずとなげくものは、独り平重盛たいらのしげもりに限らない。些細ささいなることにおいても、少しく考うると必ず衝突の問題の起こらぬことはない。朝自分の家を出て事務所なり学校なりに通わんとするに、右のほうが道がよいか左がよいか、必ず問題として考え得る。右は近いが左のほうが歩きやすいとか、右は平坦へいたんだが左道ひだりは清潔だとか何とか、たいがいのことには得失問題を起こす理由がある。そしてその判断には少なからず苦しむものである。
 むかしの英傑の伝を見るに、果断だとか、「裁決さいけつながるるがごとし」とかぞうさもなく出来るように書いてある。彼らが凡人よりも早く事物の要点を見る明晰めいせきの頭脳を有することは疑いなきも、また凡人の窺知きちし得ざる苦労をるのである。光圀卿みつくにきょうの、
見ればたゞ何の苦もなき水鳥みづとりの足にひまなきわがおもひかな
 である。
 シーザーがその留守中にローマにらんの起これるを聞き、出征先より大軍をひきいて帰国し、自国に入ろうか入るまいかとルビコン河畔かはんに立ったときは、凡人の考え得られぬ苦心があったであろう。外部より見れば、さほどに苦心もなく一しゅうしてルビコン河を越えたらしく見られるも、今もなお歴史上の分岐点わかれめとしてうたわれているほど彼の苦心の跡が世界の人心にいんしてある。
 また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心魂しんこんを痛め、あるいはひざまずいて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室をしたという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理にほだされて南軍についた。その決心をかたくするまでの苦心はいかにつらかったであろう。
 また信長のぶなが寡兵かへいとくして桶狭間おけはざまに突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また西郷南洲さいごうなんしゅう廟堂びょうどうより薩南さつなんに引退した時の決心、また多数にようせられ新政厚徳こうとくはたぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像しあたわぬ。
 またぼう碩学せきがくがかつて那須与一なすのよいち琵琶歌びわうたを聞き、さめざめと泣き出したとき、かたわらの人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方もふなばたをたたいて賞賛したこのいさおしを聞き、泣くとはその意を得ぬとなじったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源氏げんじ軍の名誉をただ一身にになって弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も賞歎しょうたんしたものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情にえぬと。実に見る人が見れば、何人だれの行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信しょしん、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。

善事の背後にも敵がある

 ついでに加えて述べたきことは、与一よいちの場合にも彼がおうぎねらうあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは平家方へいけがたのみでなかったであろう。また奥州おうしゅうより出て来たあの田舎武士いなかぶしが、御大将おんたいしょうの眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果報者かほうものだとうらやんだものもあったろう。また彼の技倆ぎりょうを疑える者は、彼がそこなえばよい、自分が代って見事にって見ようというものもあったであろう。あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。彼が成功したと同時に、大喝采だいかっさいを受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼をうらねたんだ者から見れば、彼が人目ひとめき世にはびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。
 わが輩は話にまぎれてとかく昔時むかしのことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、些細ささいなことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と衝突しょうとつしているものがあると覚悟する必要がある。僕は性来臆病おくびょうなるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは万遍まんべんなく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを数多あまた聞かねばならぬと思わぬことはない。またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることをくわだて、この善事をくつがえさんとするものがあろうと、恐れをいだかぬことはない。
 こういう考えが善いというのではない。聖人ならこんな考えなく、何のはばかるところなく善事をるであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま衷心ちゅうしんより世のためだと思うことをすると、一方に臆病おくびょうの考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。しかしてまた世上せじょう聖人君子が少なき以上、同じ経験をめるものが多いであろう。

読者中にも必ずかかる経験あらん

 仮りに読者中あわれな人にいこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠ぎきょうの心をもってしたとするも、一方にはそのことたるや偽善ぎぜんからやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、このきょに出たのであろうと疑われたものもあろう。
 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴きゃつめ親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。
 読者中病身の細君さいくんを親切に看護かんごする者あれば、これをめる者があると同時に、彼奴きゃつかかあのろいと批評された経験もあろう。
 読者中もし小児こどもに何か教えることがあれば、める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。
 また読者中繊弱せんじゃくなる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴あいつはチト怪しいと疑われたこともあろう。
 おおやけの事に奔走すれば野心家とうたがわれ、老後他人の厄介やっかいになるまいと貯蓄ちょちくこころざせば吝嗇奴りんしょくどあなどられ、一挙手きょしゅ、一投足とうそく、何事にしても、吾人ごじんのする事なす事につき非難を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしはさむことのなきものはない。これが世の中である。
 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒ひっぽうなり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといってきょくに当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、
ふえふかず太鼓たいこたゝかずしゝまひの後足あとあしとなるむねのやすさよ
 で、何事もせねば非難も憎悪ぞうおまぬかれるのである。僕の知人にして、今は故人こじんとなったが、生前公職につき藩政にあずかって大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居ちっきょのあいだに死んだが、自分の経験を一冊のしょつづりて『桜花物語おうかものがたり』と題して子孫にのこしたが、その人は常に左の古歌を愛吟あいぎんした。
かざればさくらひとらまじをさくらあだはさくらなりけり
 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人なんぴとかにうらみを受けるものである。いわゆる人から邪魔じゃまに思われるものである。
 佐藤さとうさい先生の語に、
つみなくしてあやまちを得る者は非常の人、くっして、後世こうせいぶ。罪ありてあやまちをまぬかるる者は奸侫人かんねいじんこころざし一時に得て、名後世にず。いにしえてん定まりて人に勝つとはれなり」



友人をなぐった少年時代の追懐

 この問題は永く僕の心にわだかまっているもので、今日こんにちもまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚考ぐこうを述べて世人の教えをいたい。
 話の順序として自己の恥曝はじさらしから始めたい。僕が十三、四のころであった。まだ東京英語学校に、下宿げしゅくから通学していたとき、友人ぼうが九州の親もとより来る学資金がおくれたために寄宿料、食料、月謝の支払いにとどこおりが起こり大いに当惑とうわくせるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。かくいうといかにも義侠心ぎきょうしんありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。
 それはある夜同室にまくらをならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと楠正成くすのきまさしげとの比較論が始まり、僕が楠公なんこうを愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、楠公なんこうは愛国者でなく忠臣だといった。彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の素養そようも、より多くあったので、文字のつかい方も正しく、また彼の議論も今よりかえりみれば正当であったが、なに思いけん僕は突然とこよりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄拳てっけんくらわし、
おれめしを食ってるくせに、なぜ反対するか」
 と怒鳴どなったことがある。彼は僕より躯幹くかん長大にして、活発かっぱつにかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も手向てむかいだもせず、なぐられたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の下宿げしゅくに移ったことがある。

心の独立と体の独立とは密着

 今ここにかくのごとき愚かな子供談こどもばなしをし、しかも自己のはじさらすのは、この経験がながく僕の頭に留まり、四十年後の今日もこれを追懐すれば、自分が生来せいらい短慮なりしことを明らかにすると同時に、種々の教訓を受くるのである。
 表題ひょうだいの心の独立と体の独立ということもその一つである。僕が友人に対しておれめしを食いながら反対するのはけしからんという一かつは、たしかに僕の根性こんじょうきょく曝露ばくろする。しかるにこれが十二、三歳の腕白小僧わんぱくこぞうの一時の感情にとどまるか、はたまた天下万民の心の内にもこういう考えがひそめるかと問わば、右のごとく露骨にいわずとも、人を使う人の心中深く潜伏せんぷくする考えではあるまいか。また使わるる人の心にも同じくこの思想が存在しておりはせぬか。換言すれば俸禄ほうろくをもって他人の身体をおさえる者は、心そのものをも制し得る考えをもってする者が多くありはせぬか。俸禄ほうろくを受ける者は知らず知らずのうちに心まで自分の主人のためにうばわれることはありはせぬか。
 さらに具体ぐたい的にいえば知人の恩恵によりて位地を得、俸給ほうきゅうを受くる者は、その知人あるいはその上官・社長・重役らの説に心ならずも服従し、反対説あるもこれを述ぶることをはばかり、またかれらの行動をいさぎよしとせざることあるもこれを黙認もくにんし、あるいはかえって進んでこれを弁護することありはせぬか。
 先般ある会社の重役が検挙せられたときのはなしを聞くに、部下の者は始めて日ごろよりいだいていた重役に対する不満を述べたという。日ごろそれほどその人の人格手腕しゅわんに対し疑いを有したならば、何ゆえにあらかじめ警戒しなかったかと思えば、非難する人の人格そのものもうたがわしくなる。また役所などで上官が代れば部下の者が後任者を迎うるに前任者の棚卸たなおろしをもってするは常にあることで、それほどくなければ交替前に何ゆえに前任者に注意しなかったかと思えば、陰口かげぐちをいう者の人格の下劣げれつにして、いささか俸禄ほうろくのために心の独立を失い、口に言わんと欲することを言わず、はなはだしきは心に思わんと欲することさえも、まったく思わず、機械的にいな奴隷どれい的に使われていたと思わざるを得ぬ。体の独立はなくとも、心にさえ独立していればよい、たとえ体は束縛そくばくせられていても、精神が自主的観念じしゅてきかんねんをいだいていればよいなどというが、心の自由と体の自由とは関係がすこぶる密着して離し得ぬ場合が多い。

動機は立派りっぱでも年とともに堕落だらく

 僕は子供心こどもごころに、維新いしんのころ世に名高き遊女ゆうじょはなしを敬服して聞いたことがある。それは品川しながわの遊女ぼうが外人に落籍らくせきせられんとしたことで、当時は邦人ほうじんにして外人のめかけとなれるをラシャメンと呼び、すこぶる卑下ひげしたものである。ぼうは遊女ながらもひとかど気象きしょうがあったが、如何いかんせん、商売がら外人に落籍らくせきされたので、
仮令たとへはふるあめりかにるゝともこゝろ一つはけがさゞらまし
 とんだと聞く。心と体とを別に考うることはすでに身を売る時よりおこなわるる議論で、良家の子女しじょ泥水どろみずに入る時も、たとえからだ畜生ちくしょう同然になるも、心は親のため、主人のため、おっとのためあるいは家のためなりと称し犠牲ぎせいとなった。
 しかるに、身を売る時の動機はいかに正しくとも、一度ひとたび身の独立と自由とをうしなった以上は、心もまた堕落だらくすることが多数の事実である。恐らく我が国の娼妓しょうぎとなりし人の動機と理由とを統計上より数えなば、自己の淫奔いんぽんよりする者は少なく、大多数は一家のために犠牲ぎせいとなったのであろう。身を売る時はじつにあわれむべく、また尊敬すべき動機に基づくも、爾後じご三年ないし五年の後、彼らの心理を統計に現すことを得たなら、その性格の一変し、当初とは雲泥うんでいの差あるを発見するであろう。
 僕の友人が洋行した時、ハンブルグに行ったことがある。ハンブルグは西洋に例の少ない公娼こうしょう制度の行わるる所である。ゆえに友人はその道につうなる人の案内でその制度をに行った。その時この通人つうじん数多あまたの婦人を呼び出し、友人のためにその経歴を紹介しょうかいしたが、かくするあいだについ三、四ヵ月前に来た新しき女があったが、あれはどうしたかと、通人はしきりに新参者しんざんものを求めたりしに、あにはからんや新参者は数多あまたの列座中にあったので、それが分った時の通人の驚きは一方ひとかたならなかった。わずかに百日もたぬ間にこれほどに処女しょじょと商売人とは変わるものかと、いた口がしばらくじなかった。
 僕は多く不浄のはなしをならべるようではあるが、身をしばられた例は奴隷どれい制度の廃止された今日こんにち娼妓しょうぎをもってたとうるのほかなしと思い、ここに引例したのである。がしかしその実泥水どろみずらなくとも泥水よりいっそう深きけがれに心の染まれるものが世には多くありはせぬか。身は一けん独立のごとくして、心は娼妓しょうぎよりもなお独立なく他人に依頼し、しかも他人の愛憎あいぞうによりその日を送れるものが多々たたありはせぬか。

独立とは何を意味するか

 かつてある青年が僕の友人をうて、どうぞ書生として寄寓きぐうさせてくれと頼んだ。友人はすでに家には書生もおり新たに入れる余地がないとことわり、かつまた上京するときの目的がはなはだ明らかならぬゆえ、この青年に帰国を勧告したが、彼は旅費がないから帰国されぬという。友人も、
「君とこうしてはなしするのも他生たしょうの縁であろう。君が親もとに帰る考えがあるなら失敬ながら旅費は僕が手伝おう」
 というや、青年は毅然きぜんとして、
「私は独立を重んじます。旅費などはもらいたくありません」
 と立派にいいきった。これを聞いた友人は奇異きいの思いをなし、青年に、
「君は独立をたいそう重んずるようで、まことに結構であるが、果たして独立の意味が分かっているか。一時旅費を立替たてかえてもらうのが独立をうしなうと思うはあながちとがむべきでない。それくらいの考えはむしろ持ってもらいたい。しかるにそれほど独立を重んずる君が、すでに二、三日前より毎日二、三時間をついやして僕に求むることは、決して独立を重んずる精神とは受取りがたい。君が僕の家に置いてくれと要求する意味は、雨露あめつゆを防ぐの方法を与え、三度の食事を今後一年二年ないし五年十年とも寄食きしょくさせよというのではないか。仮りに一年としてもこれを金銭に換算したら君に提供した旅費の何倍かに当たる。少額を受取れば独立を害し、多額を受ければ独立自重じちょうの心を害さぬ理由は解しがたい」
 と説いたそうである。

使わるる者必ずしも独立を失わぬ

 僕は決して先輩の家庭に寄食するをもって独立をうしなえるものとは言わぬ。僕のうちにも書生はいる。この人をもって独立なきものとは思わぬ。なんとなれば書生がうちにいることは僕の便利であり楽しみであり、いな必要であるゆえ頼んでも家にらしむる。書生もまた同じく思うゆえ、互いに申合せて同居どうきょするのである。動物学者の symbiosisシンバイオシス と称する生活を同じゅうする共棲的きょうせいてき現象である。ゆえに置く人も独立を失わず、置かるる人も独立を失う訳はない。そこで役所に使わるる者も会社に働く者も、俸給ほうきゅうを受けるからとて、必ずしもそれだけで身の独立を失うものでない。また実際の手続きとしては被傭者ひようしゃは志願し会社に入る。しかして志願すといえば一方よりのみ頼み、会社の恩恵のみを受けているように聞こゆるも、実は会社は世の有為ゆういなる青年に向かって入ってくれと頼むようにも思われる、いわゆる需要じゅよう供給きょうきゅうとの相互に応じ合ったことである。
 かくのごとき場合には契約けいやくの両者が依然として独立の心を失わぬのである。また身は一見しばられているようであるが、一方のいやというのを縛るのでなく、自由の契約である。自分の心に面白くなしとあればその契約をくことも出来る。役人も国家の命令により身をしばられるとは論ずるものの、あくまでも心の盲従もうじゅうを要求されない。いかに国家の命令とはいえ、役人にして国家の為す所にに落ちぬことがあれば、その命令をこばむことは出来なくとも、自分より進んで職をすることは出来る。

身はしばられても心は独立

 凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたるおそれがある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえなぐらるるままにはじしのんで去った。今にしてこれをかえりみれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の奴隷どれいにならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下宿げしゅくを代えたからである。彼に転宿する余裕よゆうありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根性こんじょう卑屈ひくつとなる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅固けんごなりと思うあいだは随分勝手かってな口をきき、いつめても天下を濶歩かっぽする意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことをうわさするにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。
 かくいったからとて人間の心の中に唯物ゆいぶつ拝金はいきん卑屈ひくつなる根性こんじょうがあって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五斗米とまいのために身をくっしても身をげても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の弟子でしパウロは新しき宗教を奉じたとがをもって捕縛ほばくせられむちうたれ、ごくに投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、きずだらけのからだしばられたまま、
「我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこのなわを除いてはまったく我のごとくあられんことを」
 といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。
 またむかし武田勝頼たけだかつより三河みかわ長篠城ながしのじょうを囲み、城中しょくきもはや旬日じゅんじつを支え得なかった時、鳥居強右衛門とりいすねえもん万苦ばんくおかして重囲をくぐり、徳川家康とくがわいえやすまみえて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍にとらえられ、城に向かい、援軍きたらぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公しゅこうの大軍すでに出発したれば来援らいえん三日をでぬであろう、諸君努力せよとさけんだ。ために、身は乱刀らんとう雨下うかに寸断せられたが、心の独立はついにおかされなかった。一だも動かされぬほどしばられながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口をふさぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。

心の独立と誤解しやすき考え

 ただ注意すべきはこの精神を誤解して扶持ふちをくれる人にそむき、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりをあばき、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。
 孔子こうしも子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、かくすことが国家に危害きがいあたうるならいざ知らず、会社の内幕うちまくを語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍のもとにありて、法律ほうりつの保護を受け、もって生命財産の安固あんこを保ちながら、その国の不為ふためはかるごときは、決して国民たる個人の独立行為どくりつこういといわれぬ。こんなことは売国奴ばいこくど所為しょいとして誰もいやしむ。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、かげでかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳述ちんじゅつすべきである。
 しゅう武王ぶおういん紂王ちゅうおうたんと出征したとき、民みな武王ぶおうの意を迎えたが、伯夷叔斉はくいしゅくせいのみは独立行動にでて、武王ぶおうの馬をたたいていさめた。左右の者ども両人をへいせんとした。すなわち輿論よろん伯夷叔斉はくいしゅくせいつみせんとした。このとき太公望たいこうぼうは独特の意見を述べて、
これ義人ぎじんなり」
 といってたすけて去らしめた。伯夷叔斉はくいしゅくせい太公たいこうも群衆に逆らった心の独立はみすべきであるが、もし二人の兄弟が武王ぶおうに反対して、ひそかに出版物をき散らしたり、あるいはいんに徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実をげて武王ぶおう太公たいこうの政策やら人身を攻撃こうげきしたならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子らんしんぞくしと呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは輿論よろんとは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることがかる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心にかなわぬしゅうあわを食わずとて首陽山しゅようざんかくれ、歌を詠じて餓死がししたところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。

風俗習慣に逆らうは独立にあらず

 なお心の独立と思い違いやすきことは風俗習慣に逆らいさえすれば心の独立を現すもののごとく思う一条である。通常の服より違ったころもを着れば、独特の人才じんさいにでもあるかのように思う人も少なくない。かみを長くしてみたり、赤い着物で外出したり、一本歯の下駄をいたりすることは、馬鹿でもやり得ることで、心の独立をあがめる値いはない。人が社会に住んでいるあいだは法律のほかに世俗の制裁を受けねばならぬ。もっとも世の要求することなら何でもこれに従えというではない。みずからかえりみてなおからば千万人といえども、吾れかんとの独立自重じちょうの心は誰人たれびとにもなくてはならぬけれども、いわばどちらでも好いことに角立かどだてて世俗に反抗するほどの要なきものが多い。風俗習慣の中には主義として争うに足らぬものがたくさんある。
 佐藤さとうさいの『言志げんしろく』にいわく、
寛懐かんかい俗情にもとらざるはなり、立脚りっきゃく俗情にちざるはかいなり」
 と。この簡単なる一言をもってよく吾人ごじんの世に対する関係を尽している。
 心の独立を計るに身を世俗より去る必要はない。むしろ世に入り込んで独立の実をぐべきこそ吾人も務めであれ。味わうべきは左の歌である。
山深く何かいほりを結ぶべき心の中に身はかくれけり
座禅ざぜんせば四条五条の橋の上ゆき来の人を深山木みやまぎと見て



米国南北戦争における名将

 かねて米国に遊学していたころから、見物してみたいと思っておったいわゆる南部サウス地方に、四年前しばらく滞在し、かの南北戦争の舞台とも言うべき場所を視察し、また当時、事に当たった人々の子弟にまじわって旧事を聞き、またなお今日こんにち戦争のきずえない情態を見て、種々なる感想を起こした。経済学者や社会学者・政治家・経世家のまなこをもって見たならば、学ぶべきかどが多々あろうと思う。しかし凡庸ぼんようの眼をもって視察し、平凡の耳をもって歴史を聴く僕のことであるから、やかましい議論はしばらくいて、いささか個人的の教訓に資すべき事柄をはなしたいと思う。
 なかんずく僕の心を最も強く打ったものは、南軍の総司令官でありしリー(R. E. Lee)将軍の人格である。僕はこの人の名と性格とを青年時代より聞いて、彼の伝記を読む前に、すでに彼に対する敬愛の念が深かった。正直しょうじきにいうと、僕はこの敗軍のしょうに対する同情と敬愛の念は、かれの軍を敗り、彼をして軍門にくだらしめたグラント将軍より、いっそう強く常に懐しく思っている。
 彼が三十万の兵をもって、百万の兵に当たった古戦場に足を留め、彼の破れて北軍にくだったのち、ほとんど名も無き田舎いなか中学の校長となって身を終ったその地方を巡回して、いよいよ同氏の人格の高朗なるを知って、いよいよ追慕ついぼの念が深くなった。しかし今ここにリー将軍の伝記を述べる考えはない。僕はかれのいわゆる失敗せるにかんがみて、そもそも失敗とはいかなるものであるかという事について、少しく感じたことを述べたい。

彼は成敗せいはいよりも任務の遂行につとめた

 歴史は彼をして失敗の人と命名する。みずからも敗軍の将たることを承認している。彼が前記の中学校の校長であったとき、不勉強な生徒を譴責けんせきする折があった。その節かれはこの青年に向かって、
「君はもっと勉強しないと、やりそこなう(fail)から、大いに奮発ふんぱつせんといかんぞ」
 と言ったときに、この青年が、
「将軍、あなたは、やりそこなった(failure)かたではありませんか」
 と答えた。これを聞いた将軍は、
「君の言う通りだからわが輩のごとき経験を君にさせたくない」
 と述べたという。この青年ははなはだ無礼な過言かげんを述べたように見えるが、その実、将軍に対して同情と敬畏けいいの念をあらわす考えであったという。すなわちやりそこない、失敗なるものは、恥ずるものじゃありましょうが、あなたのごとき人でも、なお失敗はまぬかれないではありませんかと言う意味であったという。どれほど深い考えをもって、この青年が自分の不勉強なることを言いわけする考えであったかわからんが、とにかく世のいわゆる失敗なるものは、英雄にも聖人にも君子にも、まぬかれ難きものであるという観念かんねんは、彼の言葉の裏にあらわれている。リー将軍がこれしきの事がわからぬではない。
 ちかごろ出版になった有名なる文豪ぶんごうページ(W. H. Page)氏のリーの伝記を見ると、幾度いくたびとなく戦場から、あるいは南方みなみがたのときの連邦大統領あるいは夫人に送った手紙の内に、
「今まではとにかくにはいも取らずに来たが、次の戦いはどうであるか、すうよりせば、我が軍はとうてい北軍に比しがたい。また兵站へいたんを考えれば、二日ふつか以後の食糧は、どこに求むべきか当てもつかず、冬が近づくが、兵士にくつのなき者が数千人、この秋風をしのぐに毛布なき者が数万人である。しかしいくさ成敗せいはいは天にる。かくのごとく我々が苦しむのは、おのれの求めてす事にあらざる以上は、何事か天意のある事ならん。天父てんぷの慈愛にって、各自の任務に忠実なるより為すべき事はない」
 と言う口調をらすことがしばしばであった。彼の考えには成と敗の区別が明らかでなかったように思われる。彼の心には勝負の考えがはなはだ弱かったごとくに思われる。ただおのれの義務と思うことを為した以上は、勝とうが負けようが、おのれの関するところでないとの考えがちていたように思われる。
 我が南洲翁なんしゅうおうもややおなじ境遇にあるの時、同じ意志を吐露とろした。翁が田原坂たばるざかの戦いのころ、大山県令おおやまけんれいに寄せた書翰しょかんいわく、
「もはや時勢もここに至りそうろうてはさらに言語口舌こうぜつをもって是非曲直ぜひきょくちょくを争いがたければ、腕力のほかこれなかるべし。しかし天下の事は成敗利鈍りどんをもって相判あいはんそうろうわけにはこれなく、小生は正をもって起こり、正をもってたおるること始めよりの目的にそうろう。ワシントン、那波翁なおう云々うんぬん中々なかなか小生はいの事にあらず、まん不幸ふこう相破あいやぶかばねを原野にさら藤原広嗣ふじわらのひろつぐとその品評ひんぴょうを同じゅうするも足利尊氏あしかがたかうじと成るを望まざるなり」

義務をまっとうするところに成功あり

 この思想はただいくさのみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗をまぬかれるためには、いかなる事をもはばからない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利めいりである。この成功あるいは具体的に言えば名利をとうとぶの結果として、人格をはかるにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、
「あの人は近ごろたいそう成功しました」
 という。
「どう成功しましたか」
 と押し返すと、
大分だいぶかねが出来ました」
 とか、
「近ごろ大分だいぶ名が聞こえて来ました」
 という。
 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物をはかる標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這入はいれば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、
「うまくやったやつえらやつ
 ということになりおわる。僕は決して名利めいりが悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、こばむべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人をきずつけたり、またおのれの本心にそむいて得るものと、天よりくだつゆのごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、おのれの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着とんじゃくすべきものではなかろう。真の成功なるものは、おのれの本心にそむかず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務をおこたるにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなかわかるものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも富貴ふうき名誉めいよを必ずしもけない、その代りことさらむかえもしない。
富貴ふうき名誉めいよ、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒徐じょじょ繁衍はんえん、功業より来たるものは※(「木+盍」、第4水準2-15-27)ぼんこうちゅうの花の如く、便たちま遷徙せんし廃興はいこうあり。若し権力をもって得たるものは、瓶鉢中へいはつちゅうの花の如く、そのえず、そのしぼむこと立って待つべし」

ギリシアのソクラテスを見よ

 むかしギリシアの哲学者ソクラテスのもとに、ある兇漢きょうかんが来て、さんざん悪口を言って帰った。かたわらに聞いておった門弟が、哲学者に向かって、
「先生あいつ、いかにもにくやつでございます」
 といったときに、哲学者は泰然たいぜんとして、
「なぜにくい」といったら、
「あんなに先生を恥ずかしめたのがにくい」
 といった。彼は笑いながら、
「お前は少し考え違いをしている。彼はわが輩を恥ずかしめた考えかも知れないが、おれはちっとも恥ずかしめられたとは思わない。自分が恥でも受けたような顔をしとったかね」
 と答えたという。失敗もその通り、世の中で何某なにがしが大いに失敗したと四面楚歌めんそかの声が聞こえても、ほんの当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある。二千四百年前に、ソクラテスがアテネの裁判所に召喚しょうかんせられ、有罪の宣告を受けて、獄屋ごくやに投ぜられたときには、アテネの者が皆々あざけり笑って、とうとうあのおしゃべりじじいも、あの年になって、本性ほんしょう露見してたたみの上でくたばりそこなったわい、と評判を立てて、もし当時アテネに新聞があったものなら、いかに当時の記者が論説やら雑報ざっぽうに忙しくかれの罪状を書き立て、彼がその日まで口に唱えた教訓はまったく偽善ぎぜんであったとか、彼の純潔なる素行はたくみに人をあざむくの方法であって、その実、彼がかくのごとき事もしたであろう、ああいう事もしたと、ありとあらゆる捏造ねつぞう説を書き立てたであろう。
 基督キリストがゴルゴタの山上で、かの非命ひめいの最期をげたごときも、世人せじんは、あの男もとうとう尻尾しっぽを現して、あのざまの死に方をしたとか、表向きには君子顔くんしがおをしておっても、かげではだいぶ不仕末ふしまつの事があったそうだ、社会主義も唱えたそうだ、某婦人と仲がよかったそうだ、謀叛むほん目論見もくろみさえしたそうだ、始終しじゅう下等な女や悪党の仲間につき合っておったそうだ、折々は魔法みたいな事をして愚民ぐみんを驚かしたそうだ、始終猫撫声ねこなでごえをして女子供おんなこどもを手なずけたそうだなど、その他あらゆる悪口をもって、彼は見事に失敗したなどといったであろう。いずくんぞ知らんけたと思った人が最後の勝利者たることを。
けて退く人を弱しと思ふなよ智恵ちゑの力の強きゆゑなり

成敗は世人の眼に見えぬ

 その他歴史に現れて失敗した人で、その実みずからは失敗せぬと思った人もたくさんあろう。成敗せいはいは実に世の眼には見えないものである。如何いかんとなれば当人の標準とする事と、世の標準とする事とたいそう違う。たとえば僕が朝起きて今日は天気もよいし、気分もいいから、一奮発ふんぱつして十里先へ遠足する、とこう心の内に十里づかを目的として出発する。夕刻に目的地に達すれば、これすなわち僕が成功したのである。自分の心に期しただけの事をげたのである。
 しかるに世間はこれを見て成功と言うか言わぬか。世間ではこれをもって失敗と笑う人もある、また成功とむる人もある。しかしてめる人のうちにもこれを僕と同じような考えをもって、まあまあ思っただけのことをやったと、平易へいいにいわばあたり前に考える人は少なかろう。如何いかんとなれば僕のその日の心持ちを知らんから、その日ことさら気分がよかった、天気が清朗であったなどということはかんがえの内に入れてくれぬから、同じく成功とみなしても、僕が思う程度に成功と思ってくれる人ははなはだ少ない。
 しかるに時には十里歩いたことをもって、非常なる成功と思って、僕は何か世にえらやつであったごとくに賞賛する人もあろう。かくのごとき人はごろ僕が歩き不精ぶしょうであるから、一里行くのもめずらしいのに十里歩いたのはエライとほめる。しからざれば自分らが足が弱くてなかなか十里の道を遠しとしている連中ならば、これまたわが輩をめるであろう。そうでなければ、わが輩が歩いた道のことをくわしく知らぬ人が、よその人から聞いて、この道は非常に悪路である、嶮岨けんそだとか、危険の多い道だとか信じている人は、わずか十里ながらもえらいところを行ったと思って、わが輩は非常なる成功をしたごとく思う人がある。しかるに実際は平坦へいたんな道を、荷物もなく折々休みながら、鼻唄はなうたうたって通ったに過ぎぬ。
 しかるに世人の多くは十里歩いた人の話を聞いて成功とはなかなか言わない。まず第一に十里ぐらいはなんだとあざけりを心にもよおす。この種類の人も僕が出立しゅったつするときに、今日は十里の散歩をしようと、心に定めたことを度外視してわが輩の遠足をはかる。して十里の道ならば子供でもゆける、車引くるまひきなどは一日に三十里もゆく、普通の人間でもせめて二十里も歩かなければ、健脚を誇る権利はないなどという。わが輩は車引くるまひきでもなく、また健脚を誇る考えのないことなどは心のうちにおかない。
 古人の言に、
燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくこころざしを知らんや」
 とて、小人しょうじんが英雄の心事を解し得ぬにたとえたが、この句はひとり人物の大小の差を示すのみにあらで、小人しょうじんと小人の間にも、大人だいじんと大人との間にも当たる言である。

輿論よろんを標準として成敗は測られぬ

 リー将軍の治績ちせきを顧みても、これに変わったことはない。彼に私淑ししゅくする者は、彼のをもって北方の衆に敵し得たとか、南軍のひんをもって北軍のとみに当たった、ぼう戦場においては某将軍を破った、某月某日ぼうげつぼうじつには某所においてみなぎる流れをおかして川越えをなしたとか、その他かくのごとき逸事いつじがある、かくのごとき軍功があると、言を極めて彼の徳と彼の力を称揚しょうようする。これらの賛辞が将軍の耳に入ったときは、十里歩いてほめられる僕の感とさらに変わった事はなかったろう。
 またこれに反しなにゆえに彼が某戦場において、某将軍を某地に向けなかったか、なにゆえに某月某日に、北方軍を某地においてかなかったか、なにゆえに彼は某所の包囲ほういの時に、かくかくの作戦をしなかったかと、岡目八目おかめはちもくや、あとから出る下司知恵げすちえを振りまわして、彼を非難する声がさかんになった時は、かれの心に起こった考えは、恐らく僕が十里以上の遠足をしなかったと非難されると同じことであったろう。
 世を渡るにはまったく輿論よろんを無視するわけにはいかぬけれども、世人せじんの考えをのみ標準として成敗をはかることは、はなはだはかなきわざである。勝つも敗くるも、失敗するも成功するも、そのもとは各自の心のうちに置いてこそ、真の成敗の味わいが分かるものである。成敗をおもんぱかるには立脚の地歩によりてどうとも考え得らるる場合が多い。これはしまったと思うことも静かに見つめ、自己の心に顧みて悪意なきをさとれば、いわゆる失敗は恥ずかしくもなければ、痛くもないことがしばしばある。自己の心のえどころこそ成敗をはか尺度しゃくどであって、この尺度ががらぬ以上は、いかなる失敗に遭遇そうぐうしても心にうれうることがない、これ霊丹れいたんりゅう、鉄をてんじてきんと成すものか。



負けた時の用心

 昔の、経験ある武士の言葉に、
「勝つ事ばかり知りてくる事を知らざれば、害その身にいたる」
 とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待にそむく事あるときはかくかくするとあらかじめ覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役せんえきにはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。孫子そんしも、
「兵に常勢じょうせいなきことは、水に常のかたちなきがごとし」
 とかえし教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命をみじこうするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。何人なんぴとも生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の奮闘ふんとうもまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間はあらかじめ負けた時のかんがえを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなおつつしみて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風情ふぜいおちいらぬ。

勝った時には精神上に保険をつけよ

 分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン拍子びょうし身代しんだいをふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。よいほどにもうけてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、何人なんぴとも知るところである。艱難かんなんなしに成功した例はない。艱難とはある意味においては失敗である。もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しきいいである。ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合をおもんぱかりてあるいは貯蓄ちょちくするなり、あるいは新事業に手を出すことをつつしむなり、あるいは繁昌にじょうじて驕奢きょうしゃを極むることをめたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき謹慎きんしんを加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の履歴りれきちょうしても、必ずその例にとぼしからざるを感ずる。
 勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、「待てよ」と一歩をひかえることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。

勝つとは何を意味するか

 勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかとたずぬると、おそらく世人せじんは奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど明瞭めいりょうなものはないと思う人が世に多い。しかし相撲すもうを見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる行司ぎょうじさえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。世人せじんが決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間々ままある。
 中にはためにするところあって、人為的じんいてき形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば相撲すもうのごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天然てんねんに定まれる一定不易ふえきけんでなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。「おおとり」と「朝潮あさしお」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいはところを換えることもあるであろう。
 むかし淮陰わいいんの少年が韓信かんしんあなどり韓信をして袴下こか匍伏ほふくせしめたことがある。まちの人は皆韓信かんしん怯懦きょうだにして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々とくとくとしたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信かんしんの名を知らぬ者が果たしてあるか。
負けて智恵ちゑちからつよさにはたれも感心するぞ韓信かんしん
 わが輩はしばしば思う、くび引きという遊戯ゆうぎは前に倒れるものが負けとまっている。しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。ある狂歌師の作にいわく、
負けて勝つ心を知れや首引くびひきのかちたる人のたふるゝを見よ
 ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人にただせば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつかたいから、石が紙に勝つというであろう。
 して見れば、勝つという語の定義ていぎを下すことは至難であるが、普通の考えでは他人にまさる、相手より超絶すぐれるの意であろう。さらばただただひとより偉いとうれしがるために勝つかとわば、決してえらがるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとはが意をげるなりと定義したい。

人生の勝利者

 こんなもので世の中でいわゆる勝負しょうぶはかる標準は、人の実力や努力どりょくの標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘ふんとうのありさまを見れば、定めて可笑おかしきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準からはかったならば、最もいやしむべきものとなりはせぬか。耶蘇やそがその弟子でしに説いた言葉に、
地上ちじょうにありて最大たりしものも、天国てんごくにありては恐らくは最小なるものならん」
 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗しょうはいを定める標準が追々おいおい違って来るかと思われる。
 この前にも述べたごとく野蛮やばんの社会においては腕力わんりょくある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩序ちつじょもとおさめられ、腕力のみをもって優劣を定めることをめて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法治国ほうちこくにおいては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよくはかるものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達とうたつしたならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。
 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番えらい勝者である。また同じくてきと称する者の中にも種類が数多あまたある。強きもあれば弱きもある。赤鬼あかおにもいれば青鬼あおおにもおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番えらい勝者である。時には敵とは称せずとも吾人ごじんの勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻子さいし朋友ほうゆうのごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心にふくさぬことがあれば、その不服ふふくの範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠正成くすのきまさしげの歌に、
われにかちみかたにちててきにかつこれを武将の三しょうといふ
 とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。

一時の勝利と永久の勝利

 こういう礼治的れいちてき社会は、まだまだ前途遼遠りょうえんなる今日の社会においては、勝利を得れば足れりと思う人も、単にいわゆる現代的なるをもって足れりとせば、これ一時の勝利者にして、ながき奮闘には負けるものと言わねばならぬ。なんとなれば世の中の思想は、我々一生涯しょうがい中にも次第に変わるものである。ことに我が国のごときは十年を一とし、おそらくは七、八年中には、思想が一変しつつあるかと思わるるほどに変化が多い。昨日のは今日のとなり、昨年のは今年のとなることは、内閣の更迭こうてつごとに起こる事実に照らしても分かるくらいである。
 またいわゆる思想に用いらるる用語を調べてみても、五年後には字書じしょに現れなかったことが、こんにち日々の新聞に見ることを考えれば、今後五年にはいかなる新熟字しんじゅくじ、新思想が世に行わるるかは想像そうぞう出来ぬ。よし新熟語が必ずしも新思想を表さなくとも、旧思想が復活ふっかつすることであるとするも、一たび死んだ思想が再び蘇生そせいし来たりて人心を動かすのであることは明らかである。

勝敗は長年月を経て始めて決定す

 僕はつねに失望する人をなぐさめんとするとき、あるいはみずから失望し落胆らくたんせんとするとき、みずから励まして、「マア十年待て」といっている。ついこの間もしばらくわなかった友人が来訪らいほうし、こういうことをいった。
「僕の友人で一時世にもてはやされ、名望めいぼう一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕をめる声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。二、三ヵ月てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には犯罪者はんざいしゃのごとき批評ひひょうを受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサイクル(循環期じゅんかんき)は十年は出ない。七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき傾向けいこうが現れんとしつつある」
 と。これは尋常じんじょうの人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非常の人物であるならば、彼に対する誤解ごかいも五年七年ではむまい。あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。富士山ふじさん測量そくりょうはいまだ綿密めんみつに出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも容易ようい凡人ぼんじんの見分け得るものでない。
 普通の人についてもその真価は即座そくざに決することは出来ぬ。まずは七、八年はかかる。むかしの人のいったごとく人生はかんおおうて始めて定まるものである。しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。真の力がより以上の真の力のために圧迫あっぱくされて始めて負けたということになる。その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の屠者としゃ韓信かんしんに勝ったといって得々とくとくたると同じである。

標準高き勝利

 かく思うと負けたことを遺憾いかんとするははなはだなりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的じんいてき、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価をきずつけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いをまねくことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。
 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみをこころよしとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合にはかれしかれ、金さえもうければ勝利者と思うふうがある。
 今日普通に成功者と称するやからの中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者はいぼくしゃと称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者をねたんで皮肉ひにくく考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことをくせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損えそこなった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いをくるため心ならずも、標準ひょうじゅんの決勝点を引下げ、いさぎよからずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨かちどきを挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意ふほんいとするにいたる。しかし誰人たれびとが不正の名利めいりかかえて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人せじんに向かっては大きな顔もしようなれ、自己にかえりみてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりてた名利すなわち勝利は、おのれの本当の心にそむいているに違いない。
 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意をぐるのいいであるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。

勝敗の決勝点を高きに置け

 わが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金をもうけるのも儲ける道を純白にし、卑怯ひきょうな方法にて儲くれば、これ奮闘ふんとうの敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台ふみだいとしたり甚だしきは友人までも売って位地をめんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北はいぼくなりと心得こころえ、よし名を挙げるにしても、卑劣ひれついやしき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚どうりょう友人がいさぎよからざる手段しゅだんろうして巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声めいせいを海外にとどろかすとも、さらにうらむにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下ひげして小さくなる必要もない。
 物質的利益に超脱ちょうだつし、名誉、地位、得喪とくそうの上に優游ゆうゆうするを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯じぎひとしきものとなる。真の勝利者は第一おのれなる者を全然破り、己れにち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗しょうはいなどのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北はいぼくのためになげかず、心つねに平々坦々たんたんとして、定めし幸福なることであろう。
 孔子こうしのいわゆる、
君子くんしたいらかにして蕩々とうとうたり、小人しょうじんとこしなえ戚々せきせきたり」
 とはこの心をいうならん。これで基督キリストはりつけになりながら、
「われてり」
 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。



表と裏とは物の存立そんりつ条件

 人生の言葉はとかく相対的になる。たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、おもてうらも、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。それゆえに口外こうがいはなつ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも間々ままある。私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという印象いんしょうを受けるものもあり、はなはだしきはものいう花と早合点はやがてんする人さえある。言葉じりとらえたり揚足あげあしを取る人ならば、花を好むというは、「戊申詔書ぼしんしょうしょ」のを去りじつくというご趣旨にそむく、違勅いちょく逆臣ぎゃくしんなりなどいうこともあろう。世の中には実際この筆法ひっぽうをもって人をつみせんとするものがたくさんある。
 また普通に甘党あまとうといえばいわゆる下戸げこを指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀づかいする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、上戸下戸じょうごげこを兼ぬる人は決して少なくない。こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。
 およそいかなる物でも物として表裏ひょうりなきものはあるまい。いかにうすき平面にてもいやしくも実物である以上は必ず表と裏とがある。表裏なき表面は、ただ幾何学きかがく上に現れた理想的の形たるにとどまる。幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針のさきでさえも一りん何分なんぶんの一というように必ずはかり得る大きさを有するものである。線にしてもまた長さのみありてはばなしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。ましてある面積を有する平面をそなうるものは必ず両面がある。雁皮紙がんぴしのごときうすい紙でも表裏はある。綿衣わたいれあわせはいうまでもなく、単衣ひとえさえも表裏がある。独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。人体においても表と裏とがあってと胸とになっている。ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。

表裏に善悪の区別を付する誤解

 しかるに表裏ひょうりという言葉を用うると、とかく従来の習慣にとらわれ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非ぜひ曲直きょくちょく善悪ぜんあくの区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方をあやまることが多い。しかも裏といえばきっとなにかきたない物なり悪き物なりを隠蔽いんぺいしてあるものとみなす。またようといえばよかれいんといえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽いんようの差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。
 実際じっさい世間せけんならわしとしてはいかにも表門おもてもんをりっぱにし裏門うらもん粗末そまつにする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽君子ぎくんしなりと判断するはこくに過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別をもうくるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。
 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。いな区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。日々ひび得意先を回る魚屋さかなや八百屋やおや豆腐屋とうふやの人々の中に裏門を通用する際、かく粗末そまつなる木戸きどをくぐらすは我々を侮辱ぶじょくするなりといきどおる民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫末ごうまつもない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。板台はんだいになざるたずさえて出入する者が一々門番に誰何すいかされ、あるいは門を出入するごとに鄭重ていちょう挨拶あいさつされるようになれば、商売はうるさくなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば簡便かんべんなる裏門をもうけ、面倒めんどうな礼をはぶくのが相互の便利とするのではあるまいか。

人生に表裏あるはむしろ当然

 人間の生計あるいは生活あるいは品行ひんこうにおいていわゆる表裏ひょうり(ことにいわゆるなる文字を使うことに注意をうながしたい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨励しょうれいせんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非難ひなんする中には、往々おうおうにして非難にあたいせぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩物しおものこうの物ぐらいでまされるが、突然の来客でもあれば、急に刺身さしみとか茶碗蒸ちゃわんむしとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。
 また家庭にありて一家団欒だんらんしている際は、寒ければ綿袍どてらを着ても用が足り、主人も気楽きらくなれば細君さいくんも衣服の節倹せっけんなりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋付もんつきに取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその態度たいどを改むることは、いて偽君子ぎくんしの行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿袍どてらを着て行き、夏の日に真裸まっぱだかで行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることをわきまえぬので、かえって世の秩序ちつじょみだすものである。
 世にはとかく、天真爛漫てんしんらんまんなどと称し、世に行わるる作法さほうに反するをもってこころよしとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振舞ふるまって得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提にとらわれたるより起こる誤解であって、幽明ゆうめいの区別を論ずる者が、ゆうとかあんとか称すれば、それだけで悪感をいだき、めいといえばそれだけで善良と信ずるにひとしい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟子もうしのいわゆる「夜気やき」は暗黒のたまものである。いにしえの学者の言に、「好悪こうあくりょう夜気やききざす」と。

人の性質上の表裏

 しからばおもて礼儀れいぎうらは礼をはぶいた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。聖賢せいけんと言わるる人は家にありて、言葉遣いもいやしくもせず、「男女七歳にしてせきおなじゅうせず」の主義で、七歳以上は自分のむすめでも同座せず、しかして早朝よりかみしもをつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不憫ふびんなものであり、また父たるその人もゆるりとくつろぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷おもにになう人生において、かかる態度は重荷おもにの上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無礼ぶれい不儀ふぎなりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。
 人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の事柄ことがらと異って、一も二もなくいやしきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽君子ぎくんしなりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。
 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば無骨ぶこつ一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追分おいわけうたう、これも一つの表裏ではあるまいか。またひげもやもやの鹿爪しかつめらしきおやじが娘の結婚の席上で舞を舞いていわうことがある。無骨ぶこつ一偏の者がはからぬ時にやさしき歌をうたうとか、石部金吉いしべきんきちと思われた者に艶聞えんぶんがあるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して矛盾むじゅんでない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨励しょうれいしたいくらいなものである。

悪い意味における表裏

 我々が各自の友人を一人ずつ挙げて考えたならすぐに両面あることを悟るであろうと思う。表と裏とは思想上においては反対と思われるも、実際においては同一物なりともいえる。反対と思えば表のなすことを裏で取消したり、裏の性質を表で消したり、相互に利益をことにするように聞こゆれども、そういうように意味を取ると、とかく性質があしざまになりて、表向きでは一てきの酒を飲まぬと言いながら、裏面ではこっそりとちびちび飲む。外では勉強べんきょうに見せて内ではなまける。表向きではすこぶる謹厳きんげんふうを装いながら、裏面ではすこぶる放蕩ほうとうする。あるいはまた表面節倹せっけんで裏面濫費らんぴする。
 こういう意味において表裏の差を生ずるはもちろん望ましからぬことで、いわゆるおおかみひつじの皮をかぶるがごときもの、俗にいうねこかぶるのである。これは前にいった一家に表門と裏門とある例とは事情をことにしている。つまり身分不相応ふそうおうに力を表門にそそぎて美麗びれい宏壮こうそうに築き上げ、人目を驚かし、しかして裏門は柱が曲り、戸がち、満足に開閉することも出来ず、出入りにも危険きけんならしむるがごときものである。これでは裏門においてかえって人に迷惑めいわくを与うるものである。表門にのみかく力を用うることは悪い意味における表裏といわねばならぬ。
 近ごろ我が国民全体が激昂げきこうしたことは、表向きでは愛国を口にし、一身の名利などはごうも眼中にない、いなむしろ名利を犠牲ぎせいに供して国防の充実を計るという看板をかけた人が、裏面においてはこれによりてひそかに私腹をこやすことがあったからである。かくのごとき事こそ悪い意味における表裏の最もはなはだしいものである。
 またある党派のために一身をささげるようなことを外部に標榜ひょうぼうしながら、内部においてはひそかに※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)かんを反対の党派に通ずることがあれば、これまた悪い意味における表裏のはなはだしきものである。こういうような実際矛盾むじゅんしている表裏的の事柄と、個人々々の性格なりあるいは生計なりにおけるいわゆる矛盾とは、よくこれを判別しなければ、人を判断するにおいて正鵠せいこうを失し、混乱をまぬかれぬ。

表裏の善悪を判断する標準

 しからば表裏という文字を仮りに用うるとして、善き意味の表裏と、悪き意味――というのが過言であるならば、少なくとも自然的表裏とは、何を標準として区別すべきか。僕はこれは表裏をそなうる人の意志によるものであると思う。僕のここにいう意志とは天性てんせいというにあい対して用いたのである。ただかたい一方と思えるものが案外弱いところもあるというのは天性てんせい両面を備うるのである。もしこの同じ人が自己のやわらかいことを仮りに他人をあざむかんがためにかくし、すなわち悪意をもって硬骨こうこつてらったならば、これ悪い意味における表裏の初段である。
 しかしもしこの人がおのれの弱点を制せんとする意志に基づいて、これをかくしあるいは包むとすれば、さほどにとがむべきことではないと思う。むしろ場合によりてはむべきで、消極的修養しょうきょくてきしゅうよう努力どりょくであると思う。元来がんらい普通の人はすべて幾分かの弱点じゃくてんを備うるものである。この弱点に打ちたんか、あるいはこれをつつまんとするは、むしろむべき努力であって、その人が果たして包みきれるか制しきれるかは別問題とし、ともかくおのれの弱点を意識し、ために過失におちいらざらんと心づくことはりょうとすべきことである。こういう目的であれば、表裏があっても、たいしてとがむべき必要なきも、一歩を進めて、裏面あるのに、なきがごとくして相手をあざむくの意志あれば、悪い意味における表裏の罪の成立する時である。
 しかしその当人が果たしてあざむく意志であるかどうかは容易よういに判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案外あんがいの驚きに打たれて、その人が故意こいに我をあざむけりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、あざむかんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落度おちどで、彼はことさらにかくしもせねば包んでもいなかったが、吾人ごじんがそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。着ている人は裏につぎはぎしていると吹聴ふいちょうすることもなく、また他人にそう思わせようともつとめず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表にまさる裏をつけているだろうと推量すいりょうし、ことさらたずねもせずに独り合点がてんしているに、真相を始めて見て、彼は長日月間我々をあざむいた、表裏のはなはだしいやつだとののしる者を多く見る。先方があざむいたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに一口ひとくちにいえば悪い意味における裏面の有無うむを判断する者は当事者とうじしゃ一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。
 近ごろ世間に海軍とやら本願寺ほんがんじとやら何々党なになにとうとやらに関して、種々しゅじゅ面白おもしろからざる表裏ばなしを聞くが、つみにくむべきも、その関係者の人については、慈悲じひの心をもって当たりたい。いわんや吾人ごじん平素へいそまじわる人々について、はからざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにもおもてうらと、そとうちと、かわにくとの別あるを心得ておきたい。



好ききらいと善悪とは違う

 子供が事柄ことがらについて判断を下すを見るに、事の曲直きょくちょく、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好ききらいという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果いんがでありますか、これが私のたしなみです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠慮えんりょ斟酌しんしゃくする言葉に過ぎぬのである。
なん因果いんがで」とか、「前世ぜんせの約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、おのれのきらうものこそぜんである、またその順序を顛倒てんとうして善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主観的作用しゅかんてきさよう事物じぶつ客観きゃっかん価値かちと一致しないゆえである。この傾向けいこうは決してひとり婦人子供のみに限らない。大人おとなにもあり、しかも学者または識者しきしゃにもあることである。自然といえばそれだけでむようなものの、ややもすればこれがために人を害し、またおのれをも傷つける危険がはなはだ多い。
 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同をきたうれいはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験をたり、あるいは若い者でも少し思慮しりょを深く用うる者であれば、このあやまちにおちいることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも唯々諾々いいだくだくと、世の風潮ふうちょうによるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷おしうつるのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の安寧あんねいはそれで持って行く。
世の中の人に心を合せけん水とうをとを見るにつけても
 しかるに何事についても消極的に世にしょすれば、どれほど広き世間もただただ狭苦せまくるしくなるのみで、
世の中が四しゃくすんになりにけり五尺のからだ置き所なし
 となげくにいたるであろう。

きらいで人を判断する過誤かご

 刺身さしみきらいな者は医師よりいかに刺身さしみの消化よきこと、滋養分じようぶんの多きことを説かれても、何とかけちをつけて毒でもあるかのごとくけなす。これに反し酒の好きな者は医師がいかにその害を説くも、百薬のちょうなりと頑張がんばって聴かぬものが多い。心のきらいと物の善悪を混同こんどうする者は実際を見るめいうしなう。
っては思案に及ばず」というが、なにか一つを好むと、その好きなものの長所のみがうつって短所は目に入らぬ。この好き嫌いをもって物を判断する標準にすると、とかく曲直きょくちょく分別ふんべつができなくなり、つまらぬことに争い、大きなことにも争いを起こす。はなはだしきは政治の問題についても有力なるぼう政治家は嫌いだと思えば、その人の政見がいかに正しくともこれをあやまれるがごとくに批評し、たまたまこれを攻撃こうげきする理論が発見されなければ、せつそのものは善きも、その説をきたす動機がはなはだいやしいとか何とかいって、説そのものをもいやしむようになる。ある外人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったことがある。

測る物体と測る標準とが違う

 わが輩はつねにこう信ずる。この世の中を渡るに嗜好しこうはなるたけ人々によりべつなるが面白おもしろけれども、善悪の標準ひょうじゅんは一様でなくてはならぬと。この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。好き嫌いを測るものは道徳的物差ものさしでない。しかるに好きなものは善い、きらいなものは悪いというように、愛憎あいぞうをもって曲直きょくちょくを決することは、ちょうど物の軽重を計るに差金さしがねを用うるがごとくである。長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。測る道具と測る品物が往々にしてことなるので、この二者を混同するとつまらぬことにあらそいが起こり、たがいに不愉快ふゆかいの念をしょうずるにいたる。ことに人に対して愛憎あいぞうの念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することをつつしまねばならぬ。
 僕のごときも今日まで幾度となくこのあやまちを繰り返しきたったもので、今にしてこれをかえりみるとまぬことをしたと思うことがたびたびある。ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思いした。しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部始終しじゅう不正のように見ゆる。また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことをあしざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、むべき人情、しからぬ人情である。人はよろしくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう超然ちょうぜんたる人情に達せねばなるまい。
 甲が乙を評するにいろいろのしき点を述ぶるのを聞くとき、その批評のあやまてることを一々指摘し説明しても甲の偏見へんけんはなかなかになおるものでない。なにゆえかといえば、批評が客観的きゃっかんてきであるものならば矯正きょうせいされる望みもあるが、多くは主観的しゅかんてきで批評する人が始めより曲解きょっかいする精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。
 たとえばぼうの衣服はよくないという。もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。赤は派手すぎると悪くいう。白くすれば幽霊ゆうれいのようだと非難する。黄色にすれば坊主ぼうずに似たりとか、紺色こんいろにすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心がめられぬ間は非難が尽きないものである。

反対説にも耳を傾ける度量どりょうを養え

 衣服とか外形上のことならば、単に非難する人の心を不愉快ならしめ、非難される人の心を不愉快にするだけにてすむが、学術あるいは政治上の説が違う場合のごときは、自分の気に入りたる説なれば、大いに怪しい点があってもこれをとし、自分が承引しょういんしかねる場合にはまったくこれを異論なるかのごとくとがむるは、その害の及ぼすところ広くかつ大きい。
 願わくは説が違ったときは、はてな、おのれの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪せいじゃの判断を下す前に一応は取調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。少しく自分の説と異なればただちに曲学阿世きょくがくあせいだとか、俗論ぞくろんだとか売国的説だとか異端いたんだとか議論はそっちのけにして、論者の動機やら人格までをかれこれ言うようなことは、度量どりょうの狭きを示すと同時に、進歩する余地なきことを自白するのである。
 前にもいった通り、説は成るたけ違うのが面白い。今日まで学問の進歩は種々のことなった説から、互いに討議とうぎし批評して得た結果にほかならぬ。昔は異説あると宗教の教えにそむくとかあるいは国家に危険なりとして圧迫を加えた。その時代は人知の最も進まぬときである。ちょっと聞いて自分の心にはなはだいやに思う説でも、一応は聞くだけの度量をやしなうことをつとめたい。さらにつとめたきことは自分のきらいと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。
 昔よりわたくしなしという言葉は公平なる態度を現すに用いられるが、無私むしというは狭い量見りょうけんのない、おのればかりが正しいのでない、またおのれの利益のためでないという意味である。たとえば孔子こうしが『春秋しゅんじゅう』を書くに私心ししんをはさまなかったとは、『春秋』に出る人物を批評するに好きだからめる、しゃくにさわるから悪く書くというのでなく、好悪こうおは論外として、自分と性質は違うとも、正しい者は正しいと公平な判断を下したからである。

狭きおのれのきらいで世に処するは危険

 僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、
「甲君、君は丙君と仲がよいか」
 と聞く。甲は、
「別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから」
 といえば、乙はやや驚いた顔して、
「何のためだろう、丙はあちこちで君の悪口わるくちを言い歩くよ」
 と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意をいだかぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは合点がてんがゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、二心ふたごころあるもので、僕に向かってはよい顔しながら、かげにまわると悪口する、はなはだいやしむべき人であると思って以来、丙を見てもロクに挨拶あいさつしなくなった。ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて翻然ほんぜんとしてさとるところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかしおのれをきらっている。おのれとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。
 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな者でも正しく見えたり、いやな者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。
 せまきおのれの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだにき世の中がいっそうくなって、人をうらおのれを恨み、天をうらみ、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一しょうを送るようなものである。



愉快なる台湾旅行中の不快

 しばしば台湾たいわんを旅行するに、その進歩の顕著けんちょなるに驚く。昨年は宿屋やどやもなく、道路も悪く、旅行に不便ふべんであったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるというふうで、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。俗諺ぞくげんにもある、
可愛かわいい子には旅をさせよ」
 というは、旅はつらい、難儀なんぎである、可愛かわいい子にはこの辛苦しんくめさせ、鍛錬たんれんさせよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦しんくという字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日こんにちは旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学にかけ、老人は保養ほように行き、壮者は新婚旅行する。
 台湾の旅行も愉快であるが、そのおもむきは他の旅行とちがっている。従来、台湾に一種の興味を有し、年々渡台とだいするものは、行くたびごとにその進歩がいちじるしいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。しかしいて何か不愉快はなきやとたずねらるれば、やはり往昔むかし、東海道を旅行した人が、雲助くもすけのために迷惑めいわくを受けた――程度は違うにしても――と同じように、轎夫きょうふが分からぬことをいって賃銭ちんせん強請ねだったり、この旦那だんなは重いとか、が多いとか、かごの中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御免ごめんとか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。言語が通ぜぬから、手真似てまねや顔色やにて不快の念を表すが多い。これが一番不愉快ふゆかいかんずることである。

余のためにかごかついだ壮丁そうていの好意

 中国式のかご不潔ふけつではあるが、読書することもできれば、眠ることもできて、僕には最も都合つごうよいが、轎夫きょうふのがやがやさわぐために大いに楽しみの程度をひくめられる。ことに天気が不良の場合に、轎夫きょうふが絶対に働かないで、途中にかごを置き去りすることがある。これは独り台湾においてのみならず、朝鮮にもあると聞くが、その不快と心細こころぼそさといったらない。
 しかるに数年前、僕は台湾旅行のさい同じ場合にって、行くにも帰るにも動きのつかなかったことがある。警官に依頼し轎夫きょうふ雇入やといいれを命令的に誘導ゆうどう的に周旋しゅうせんしてもらったが、しばしは一人の応ずるものもなく、雨曝あまざらしになって進退きわまった。この時、村の青年が三、四人、みずから進み出て、
「私どもがかつぎましょう。もっとも轎夫きょうふとしては御免ごめんですが、壮丁そうていとしてなら参りましょう」
 といった。というは、轎夫きょうふとしてかつげば、相当の賃銭ちんせんを受ける一つの商売である。しかし壮丁として行くのは公利公益のために力を尽すのである。職業としてかごになうのでなく、また賃銭ちんせんを要求するためでもない。したがって仮りに賃銭を払われてもこれを受くるをいさぎよしとせぬ。ただ官職をびて巡廻するものが、轎夫きょうふなきために一歩も進めなくては公務のためにうれうべきことである。ゆえに公務のために自分らの労力を提供したのである。
 かかることはどこでもまれなることである。台湾においてもまたまれであるから、ことに強く僕の感激を惹起ひきおこさしめた。

物の真価の誤れる計算法

 ローエルの有名なる詩中に、
「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。まるるときは産婆さんばに手数料を払い、死すときは葬儀屋そうぎや桶代おけだいを払い、死後遺産いさんゆずれば租税そぜいを払う、何ものか払わでまさるべきものかある。ただ自然の美のみはあたいなしに得らるる恩恵おんけいである。三しゅん長閑のどかなる、咲く花にさえずる鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者ふしゃ貧者ひんじゃも共にけて共に喜ぶ権利はことならない」
 と説き、さらにまた、
「この世の悪魔あくまの店にあるものは何ものもみな相応のあたいがあって売買ばいばいされるが、価なしに得らるるものは独りかみのみ」
 とさけんでいる。実にその通りである。しかしなさけないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかのむくいを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄のうずいに深くんでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念をいだくようになった。ちょうど我々骨董品こっとうひんに何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤きせんの程度はさらに分別つかぬが、道具屋どうぐやだまかされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞留たいりゅうして、教師をやといフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、くだんの教師に、
貴方あなたはスペイン語が読めるか」
 とただしたとき、
「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古けいこするに何百フランをついやした」
 と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一じょうの笑話であるが、活世界かつせかいにおいては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤そろばんるものがたくさんある。折々老人などがせがれの教育のために何千円ついやしたというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。
 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕しゅわん人格を含むような印象を与うる。この事は何人なんぴとにもあることであるが、だれもまたこころよく思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。

報酬以上に務むる教育者

 金銭を標準ひょうじゅんとして人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、世人せじんはややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して差支さしつかえないというのでない。他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。我が国の小学教師の俸給ほうきゅうは非常に低廉ていれんで、平均十五円内外ないがいである。
 おたがいの子弟していを依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。いわば霊魂たましいの教育をお頼みするのである。かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。つい乳母うばや子守を頼むような気になる。しからば教師たるものは何を標準として自己をりっするか。自分は実に薄給はっきゅうでありながらよく働く、俥夫しゃふさえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。低いものである。したがって自分は子守か乳母うばの真似をしていればよいと思うか、あるいは自分のあずかれるものは日本国をうて立つ後日ごじつの国民である。中には貴族の子もあり富豪ふごうの愛嬢もあり、また学者の後裔こうえいもある。これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向かえりみないでやるべきか。
 僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を忌憚きたんなくいた。また教師の中には悪口にあたいするものも数多あまたある。しかしだんだん彼らとつきあってみると、実に村夫子そんぷうしの中に高い人格をそなえた人が、いたる所にいるのを見て、心窃こころひそかに喜んでいる。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが報酬ほうしゅう以上のつとめをなすからである。

職業に当たる人の三段の区別

 元来がんらいいかなる職業しょくぎょうにありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬ほうしゅうだけの仕事をせぬすなわち曠職こうしょくの人。次は報酬にあたいするだけのつとめする人、いくらづいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬ばしゃうま的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事をすものにあらざれば、払ったかねも多過ぎるように思う。
 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記しょきやとったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人だれめるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円とめられるかとたずねれば、その標準ははなはだばくとして当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干じゃっかん某所ぼうしょに務めているから若干じゃっかんというのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算にれぬ。経済学者に言わすれば、これ需要じゅよう供給きょうきゅうの然らしむるところと、大雑把おおざっぱに一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当てめると、人の問題は死んだ物件ぶっけんの需要供給とは大いにちがう。
 いやしくも人格を有するものには、経済学のおしえる労銀論ろうぎんろんは決してとうを得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。
「僕は彼と同じく見られてこまる」
 とか、
「彼らの仲間と同等視どうとうしされては迷惑めいわくである」
 とかいうことはしばしば聞くところである。
 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴ふいちょうしたがるものがある。自分の学力はぼうと同じであるが、自分の字は子供のときよりみょうめられたといって筆蹟ひっせきを誇り、あるいは自分の交際術こうさいじゅつにおいては、彼らに比べられては困る、硬骨こうこつなる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らにおとらぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴ふいちょうし、したがって高値に他に売らんとする考えがある。

報瓊ほうけいの志

詩経しきょう』に、
われに投ずるに木瓜もっかもってせば、これむくゆるに※(「王+居」、第3水準1-88-3)けいきょもってせん」と。
 けい※(「王+居」、第3水準1-88-3)きょも、たまの名である。人が我におくるに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なるしなをもってすべしとの意で、かえって出来がたきことながら、この句は世を渡るに常に心得こころうべきことである。
 折々おりおり新聞に伝えられるぼう学者は何千円の俸給ほうきゅうを取るが、毎日教場きょうじょうのぞみ授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字引じびきを引いてもちょっと分かるまい、おれいてやってもよいが、しかしそれはおれの月給では勿体もったいない問題である。おれ以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。おれの月給が三千円となれば答えるという。
 これは一じょう戯談じょうだんに過ぎぬが、ともかくそういう考えが何人なんぴとにもある。もちろん今述べたごとく、露骨ろこつなる形式に現れなくとも、如何いかほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事をすにも報酬ほうしゅうだけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣等れっとうなる一部なるよくが入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、「よく二人ふたり※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)かせぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、二人ふたり※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)かせぐのでなく、いわばよくのみ※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)かせいで自分は何もせぬようなものである。
 く冷淡に事務に従事する人でも、親切に愛嬌あいきょうまたは好意を持つと持たぬのでおのずからその務めのはかどりも違う。まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの温味あたたかみがあって、始めて完美かんびするものである。してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の霊魂たましいの一部であって、金銭でむくいるわけに行かぬ。すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬にあたいするものと思う。
 とかく献身けんしんとか犠牲ぎせいとかいうと、いかにも高尚こうしょうに聞こえ、とても我々凡人ぼんじんの及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。五十円取る人が七十円の仕事をぐれば、二十円は俸給以上の働きである。これを換言かんげんして説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ犠牲ぎせいにし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。
 ただ、「おのれをつるには、そのうたがいを処するなかれ。その疑いを処すればすなわちしゃもちうるのこころざし多くず。人にほどこすにはそのほうむるなかれ。そのほうを責むれば、施すところの心をあわせて、ともになり」。

報酬ほうしゅう的思想なき夫婦の関係

 人と人との交際つきあいに趣味のあるのとないのとは、金銭や物件ぶっけん差引勘定さしひきかんじょうの出来ないところにある。いわゆる商売以外のところにある。しばしばいうことだが、世の中は法治国ほうちこくである、法律で治まるというものもあるが、世の中は法律だけで治まるものでない。法律以外の関係があればこそ、人間らしい生活が出来る。
 英国の一紳士しんしにしてながく日本に滞在し、日本の婦人を妻とせる人がすこぶる日本贔屓びいきで、種々の著述ちょじゅつもして日本を世界に紹介しょうかいした。さて数年前、有力なるぼう外人が外国の有力な新聞に一書を寄せて、外国人と日本人との雑婚を論難ろんなんし、中にもっぱら夫婦間の法律上の不備ある点を述べて、財産の監理権かんりけんあるいは遺産いさんに関する条文を説いたに対して、この紳士が答えて長文を寄せた。
 その最後の句において今まで述べたことは某に対する法律論に過ぎぬが、「他の人はいざらず、が日本の婦人を妻とする理由は男女同権論とか財産権が如何どうとか、こういう水臭みずくさい関係より偕老かいろうちぎりを結べるにあらず、夫婦間の関係は法律以外に属するものが多い。法律関係をまっとうするために同棲どうせいするものは真の夫婦にあらず」と。
 この言をあじわうと夫婦間の親密とか貞操ていそうなるものは、自分ら以外の者のほとんど知るべからざるものである。その間の務めは報酬ほうしゅうなしに、あるいは法律観念なしに行われる、すなわちあたたかき愛情よりあふれ出たもので、朝夕あさゆうこの間の関係をまっとうせんがために、こうすれば法にれる、ああすれば「民法」何条に差支さしつかえないかといっていれば、一家存在の基礎きそがどうなるであろう。またよしかくのごとく冷淡に法律的制裁せいさいのみによりて動くほどに堕落だらくしなくとも、夫婦間に報酬ほうしゅう的思想をもってつきあったとしたら、その間にいかなる社会が出来るであろうか。

報酬を求むる手段としてのつとめ

 僕の知れるぼう貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑ていしゅくをもってしょうせられているが、あるとき僕に、
「世間の人は芸妓げいぎをたいそういやしみ、悪く言いますが、私は芸妓げいぎよりもいやしいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸妓げいぎはお世辞せじ売品ばいひんとし、彼方此方あなたこなたに振りまき、やさしいことをいうて、その報酬ほうしゅうにポチをもらおうとするが、彼らはあからさまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。だまされる人は、招牌かんばん見ないで店に飛びむようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞操ていそう招牌かんばんにかけ、むろんポチだの報酬だのをおっとより受くべきはずはないが、しかし随分それを強請ねだろうと思い、衣服を買ってもらいたいがために、心にもないことをおっとに述べて目的をげる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人をあざむくもので、神仏しんぶつの目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかにおとったものと思われましょう」
 といわれたが、なになにの報酬ほうしゅうを得るがために、事をすくらいいやしいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏かんりでも、月給を得んがために、礼をもらわんがために、ボーナスにあずからんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖人せいじん君子くんしの集会でない、いな、十人中九人までは小人しょうじんである。与うるにをもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、たがいにそのつもりで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。

報酬以上の務めの真義

 各自の職務には分限ぶんげんがあって、その範囲はんいだっするをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手腕しゅわんふるわんとしても職権しょっけん以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。
 職務の分量にとどまらずして職務の品性ひんせいをよくせよというのである。十貫目かんめ荷物にもつになうものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっともになっても身体に差支さしつかえなく、またために全体に悪影響あくえいきょうの及ぶうれいがなければ、それも差支さしつかえあるまいけれども、なんらかの事由じゆうのために各自の重荷おもには十貫目をえてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上をになえとはすすめぬ。しかし十貫目を荷うににがい顔せず、喜んでにないたい。になうさまを綺麗グレースフルにし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目かつげといえば、なるべくひんよいものをかつげというのである。
 かく比喩ひゆをもってしては、あるいは意味がわからぬか知らぬが、たとええていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間にはにがい顔せず、またしかったり不愉快ふゆかいふうに教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。出勤簿しゅっきんぼには、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、にがい顔して教えてもうれしい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。
 この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても執務しつむ時間に、つくえの前にこしかけるだけは誰も同様であるが、実際仕事をさばくについても、ぶつぶつつぶやきながらすると、快活にやるとは仕事の分量においてちがいはなくとも、その品質ひんしつと、同僚どうりょうに及ぼす感情には雲泥うんでいの差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。
ほどこして必ずほうある者は、天地の定理ていりなり。仁人じんじんこれを述べてもっひとすすむ。ほどこしてほうのぞまざる者は、聖賢せいけん盛心せいしんなり。君子くんしこれそんして以てすくう」。

かかる心がけがあって人生の旅は幸福

 建物たてものを建築するに、出来方できかたは同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職工しょっこうにいたるまで面白くこころよく仕事すると、他の一方には軋轢あつれきしょう同僚どうりょうなぐれとか、ぼうがこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従事じゅうじするのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。「細工さいく流々りゅうりゅう仕上しあげ御覧ごらん」というが、物件ぶっけんならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。細工さいくする間の心持ちが大切たいせつである。左甚五郎ひだりじんごろうは恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細工さいくしているあいだも精神をめたればこそ、その霊魂たましい彫刻物ちょうこくぶつにも移ったのであろう。
 人世のことは何事なにごとにかかわらず微妙なる精神的作用さようがあって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見絞みくびり、単に物質的方法のみによって目的がげられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意識いしきなく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。価値あたいなき仕事に目をつけねばならぬ。英語に valueヴァリュー という字がある。近ごろの経済学者はこれを価値かちと訳し、これに lessレッスくわうればあたいなきもの、二そくもんあたいもない、つまらぬものという意になる。しかるに物のあたいpriceプライス と称し、学者の価格と訳するものである。これは lessレッスくわえれば前例によればあたいなきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、そのじつ意味は正反対でとても金銭かねに換算の出来ぬもの、あまりとうとくして金銭に見積もれぬものとの意である。
 最初に掲げたローエルのかみのみあたいなしに得られるというは、かみは金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった轎夫きょうふ賃銭ちんせんは金銭で計算されるが、壮丁そうていの僕に対する好意は金銭をもって換算かんさんできぬものである。しかしてこれが一番貴重きちょうなる務めである。こういうあたいなしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨曝あまざらしのなんまぬかれる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅路たびじは真の快楽かいらく幸福を増すものである。



世界の耳目じもくを集中さした共和党の大会

 大正たいしょう元年がんねんの夏のころ、僕は米国に滞留たいりゅうしていたが、そのころ日本の新聞通信にもあらわれたことで、シカゴ市における共和党きょうわとうの大会は近年にない大騒ぎで、独り米国の一大出来事できごとたるのみならず、世界の視聴しちょうもことごとくシカゴ市に集中した。僕はシカゴまでは行かなかったが、直接または間接に関係ある人のはなしを聞いたり、新聞の報道を読んだりして、いかに人心じんしんあらやいでほとんどきょうするごときさまなるかを見て、これが日本であったならば抜刀騒ばっとうさわぎになるであろう。
 米国においてもせめて、拳骨げんこつぐらいの喧嘩けんかがあるであろうと、大会の閉会になるまで、好奇心をもって種々の新聞に眼をくばっておった。さなきだに犯罪はんざいや自殺多き夏の季節に、一万四千の腕白者わんぱくものが大都会の一堂に会合したことであり、群集心理の特徴とくちょうとして逆上ぎゃくじょうしやすき時、出席者のうちの大多数は、自称じしょう政治家、みずから天下に我一人ひとりの気前の連中だからなおさらの事、一芝居ひとしばいの起こることを期待しておった。しかるになんぞはからん、開会の始めにあたり上院にその人ありと聞こえたルート氏が座長ざちょうえらばれた。この人の手腕しゅわんでも出席者の昂奮こうふんなだめ得ないであろう。なにしろ会場における不満連ふまんれんの総大将けん黒幕くろまくとしてはルーズヴェルト氏みずか采配さいはいを取っているという始末しまつであるから、我々の考えでは珍事ちんじなしには終らぬと気遣きづかったのも、今思えば杞憂きゆうに過ぎなかった。
 開会中ルート氏が座長ざちょうとなって人波ひとなみなだめた手腕はすさまじいもので、当時の記事を読んで僕がつくづく感服かんぷくしたのは、かねがね聞いているアングロサクソン人種の秩序ちつじょ的なる一点である。同氏の冷静にして、らいのごとくさわつ数千の反対者を眼前がんぜんならべて、平然とかまえて、いかに罵詈讒謗ばりざんぼうあびせても、どこのそらを風が吹くていの顔付きで落着き払って議事を進行せしめたその態度と、彼に正反対の論者ろんしゃが発言権を求めたとき、場内において発言を妨害ぼうがいせんとしたかれの同志に向かって、
「我が党の歴史をかえりみるに、反対者の発言を圧服あっぷくして勝利をたるためしなし」
 との一言をはなち、かえって反対者の喝采かっさいたところなどは、その公平無私かつ度量どりょうの寛大なるところは、ほとんどドラマチックであった。しかしルート氏には一度しか面会したことはないけれども、一もくしてわかることはその性格においてドラマチックのふしのなきことで、この点が同じ米国人でありながら、ルーズヴェルトとは大いに性格をことにしている。氏の演説であれ、氏の会話であれ、役人が平素執務しつむの際にとる態度で、いわゆるビジネス・ライクである。これがフランスじんの会合であったならば、雄弁ゆうべん能弁のうべんジェスチュアその他ドラマチックの動作どうさがさだめしみごとなものであったろうと想像さる。

ボストン公園に見た言論の自由

 同じころボストン市に逗留とうりゅう中、日曜日の夕方、かの有名なる歴史的の公園地「コンモンス」にぶらぶら散歩したところが、道傍みちばたに二、三十人の労働者あるいは店の手代てだい番頭ばんとうめかしい者が一群をなしていた。わが輩好奇心にられて近づいて見た。喧嘩けんかであろうか怪我人けがにんでもあろうか、手品師てじなしであるか物売りであるか、近づいて見ると年齢五十ぐらいの男が中心となって、地球は円形じゃない平面であるという新説をいていた。しかも演説口調くちょうをもってあるいは高々に説明するにあらずして、平生の個人と個人との会話のごとき調子で、
「ネー、そうだろう、今まで僕の言ったことは君らも学理的だと認めるじゃろう云々うんぬん
 と言いかけると、傍聴ぼうちょう者の一人で職工と思わしい若い男が、
「そりゃ君の説は勘定かんじょうが少し違うぜ、地球の曲線カーブは一マイルについていくらいくらだぜ。君の先の例に取ったなんマイル以上にある船の帆柱ほばしら云々うんぬん
 と、僕は最後まで聞き取れなかったが、数字をもってこれを駁撃ばくげきすると、先の男が手帖てちょうを出して何か計算する。その間にまた一方から、
「君の説はちょっと面白いが、学理より実験にもとるじゃないか」
 とやりめるやつがあった。僕はしばらく立って見ていたが、もの静かに思想を交換するさまは、むかしソクラテスがアテネの市場で道をいたときは、かくもあったろうかと想像そうぞうが浮かんだ。このときも我が同胞どうほうであったならば、すぐに野次馬やじうまが乗り込んで来て、
貴様きさまの説はコロンブス以前の陳腐論ちんぷろんだい。ヤイだまれ!」
 とか、
「小学校の二年級をやりなおせ」
 とか、
「ジジイ、おいぼれやがったナ」
 くらいの罵詈ばりは必ず聞こえるであろうと、つくづく物思いに沈みながら、この群集を去って旅館に帰ろうとすると、同じ公園のむこうがわに二、三百人もあろうかと思わるる群集がかたまっておったから、かたわらの青年に、むこうの群集は何をしているかとたずねると、
「あれですか、あれは社会党の人たちです。今日は日曜日なもんですから、大勢集まっているんです」
 とはなはだ尋常茶飯事じんじょうさはんじのごとき口調くちょうで答えた。これが日本ならいろいろな嫌疑けんぎも受けるであろうが、自由の天地は違うと思いながら、僕はそのほうに足を運んだ。すると二、三百人の連中は一かたまりになっていないで、二十人ないし五十人ぐらいずつ別々にむらがっている。いずれも先の地理学新説の鼓吹者こすいしゃと同じように、談話的にたがいの説を交換し合っている。
 いずれの群集を見ても少しもげきしているものはない。大言たいげんする者もなく、あざけわらう者もない。すこぶる真面目まじめでさながら親の大病の診断を医者から聞いているような顔つきであった。僕も三、四十分のあいだ甲群から乙群、丙群からてい群と彷徨ほうこうして、その様子ようすうかがったが、かたわらに巡査じゅんさがいるでなし、しかもボストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかつマサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、容易ようい逆上ぎゃくじょうせぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も享有きょうゆうすべきものと思った。

前二例より帰納きのうする感情の危険

 もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党のさわぎもなく、政治上の腐敗ふはいもなく、自治の精神が完全無欠むけつに発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、拳骨げんこつなぐり合いが会場の戸口とぐちで二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、罵詈讒謗ばりざんぼうに終ったかも知れない。あらゆる犯罪はんざいの多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不体裁ふていさいはあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他山たざん瓦礫がれきとらえ来たって、自国の璞玉たまに比してみずからかいとするのなることを信ずるから、常に他山の石をりて自分の玉をみがくの用に供したいと思う。
 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞どうほうとともにかえりみたいことは、一時の激昂げきこうられて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情をまじえることは危険である。むろん感情と一口に言っても高尚こうしょうな感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客気かっきである。とかくこの客気血気けっきがあれば考えにあやまりを生じやすい。一口ひとくちに熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほどおのれを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象きしょうがさかんだとか、あるいは勇敢ゆうかんだとか、痛快つうかいだなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、ぎょする人があればこそその方向に進んで行くが、ぎょする者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象のさかんであるのであるが、惜しいかな心を守り、気をおさえる力がないのである。古人のいわく、
「この心を敬守けいしゅすればすなわち心さだまる、その気を斂抑れんよくすれば則ちたいらかなり」と。

つまらぬ事に逆上する国民的弱点

 先を見ずにその場にて一時のかいむさぼる極めて短慮な者には、内容のさらにない雄弁をふるってみたり、あるいは大声たいせいかつ、相手の人には痛くもない讒謗ざんぼうや冷評をあびせかけて、ドラマチックに喝采かっさいを受けてうれしがるは我が国民性の一弱点である。言葉をかえて言うと、物にノボセ上がる、逆上する性質がはなはだ我が同胞の間には広がっていると思う。ゆえに何か大きなひびきのよい言葉を用いれば、おのれを忘れて飛び上がる連中がはなはだ少なくない。たとえば仁義じんぎのために死するとか、国家の責任を双肩そうけんになって立つとか、邦家ほうかのためには一身をかえりみず、知遇ちぐうのためにはいのちおとすとか、その他数多くの catchword のためにその用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならず、一身の上についても、実にまらぬことに逆上する傾向が多いことを目撃もくげきもし、また恥ずかしながら自分が経験したことがたくさんある。
 たとえば永く浪人しておった人が、仕官のにつき久しぶりにかねを手にすると、金満家きんまんかになったような気がして、一月分の月給で友人を招いて一晩に飲んでしまう。来月分も来々月分も飲んでしまって、招待したお客の追従ついしょう言葉を聞いてますます得意になって、しばらくたつうちにかえって一身およびその位置に対して不名誉ふめいよを来たしてしまうことは、わが輩知人のうちにも折々見た。あるいは会社員であると社長さんから大いに信頼のお言葉を頂戴ちょうだいするか、役人であれば上官から重大な秘密をらされでもすると、おれより信用あつき者はないような気がして、すぐにその態度が変わり昨日きのうまで同僚どうりょう交際であった者を急に見下したり、にわかに傲慢ごうまん尊大そんだいになる場合も僕はしばしば見た。あるいは学問をしている者でも、はじめのうちは謙遜けんそんに、あれも知らぬ、これも知らぬと思いつつ、研究三昧さんまいいとまない時は最も尊敬すべきときであるが、あの学位がくいを得たとか、その学位をさずけられたとかいうと、自分がいかにも偉い者にでもなったように、人の前でも何もかにも物知り顔をしておるさまは、傍観ぼうかんしても見苦しいものであるし、かつ近づく者にも、学問とはこんないや臭気しゅうきのするものかと思わしむる場合もしばしばある。
 あるいは道徳を語る人でも同じことである。あの人は品行方正ひんこうほうせいの人だとか、まことに正しいまがった事のない人だとか言われると、すぐさま君子がおになって、他人を見るに小人しょうじんをもってして、世ことごとくにごれり我独りめりていの考えに逆上する。かく言う僕も他人より賛辞を受けたことはないが、上に挙げた例の一部にあたっているかも知れないと思えば、この辺が筆をめるところであろうか。僕にしてかくのごとき弱点はさらにないという自信がさらにかたければ、もっと大胆に論じたいが、自分でかえりみて折々は逆上のぼせそうになったこともあった。終りに述べる僕の実験談は普通に言う逆上のぼせるのとは違うけれども、その性質においては同じであるし、かつ僕に取っては逆上の訓戒くんかいとしてしばしば記憶にのぼる経験であるから、はじさらしてここに述べよう。

一円の小遣いを一円の財布に投じた経験

 僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の土産みやげとして大枚だいまい金一円もらったことがある。そのころ僕の小遣銭こづかいせんは一週間に二十銭とまっていたからして、一円紙幣しへいを手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この大金たいきんるべき相当な財布さいふを得ることであった。ただちに袋物屋ふくろものやに走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、値段ねだんただすと一円ということであった。すなわち懐中かいちゅうに持参の一円紙幣を払ってからの紙入れを家に持って帰ったことがある。
 笑うにも及ばぬほどのなる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。一身をかえりみてもあるいは他人を見ても、月給が入った、金をもうけたからとて、無駄むだ浪費ろうひをしている人を見ると、彼奴きゃつめ一円取って一円の財布さいふを買っているわいと思う。大いに勢力せいりょくのある位置をたと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、彼奴きゃつ一円の勢力を得て一円だけ威張いばって、あとはからになっているわいと思う。学問なりその他の名誉めいよを得てほこる者を見ると、彼奴きゃつちかごろ一円もらったばっかりだな、ああいうふうにやっては明日の日の登る前に形無かたなしになるであろうと思う。とかく金に限らず、位置でも名誉でもおのれにするときは、油断をすれば逆上ぎゃくじょうしてこれを利用するを忘れてただ濫用らんようおちいりやすい。逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみつつしむべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なおつつしむべきものであると、かれこれの事について大いに感じたからくだんの如し。



弁士の富論

 アメリカの習慣しゅうかんうらやましく思うものは、かの大学卒業式そつぎょうしきさかんにすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して大概たいがい七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総代そうだい答辞とうじとか、あるいは卒業生の演説えんぜつとかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に掲載けいさいされ、ぼうが如何なる問題について如何なる説をいたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来をぼくする者もある。自国じこくの名誉をほこる者あれば、自国の短所をあばく者あり、実に勝手な説をいて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。
 またこの式場にのぞむ人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔をしのぶために出席し、地方の紳士淑女しんししゅくじょはいうまでもなく、遠方からもわざわざつどい来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、したしく久しぶりで二、三の卒業式にのぞみ、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過言かごんであるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主賓しゅひんになっている以上は、まねかれる弁士はただ能弁のうべんだとか悧口りこうだとかいうだけの資格では足りない。おのずからその人とり、その品性ひんせい斟酌しんしゃくして招待するからして、演説におのずから重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想にはしって実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形にあらわれるのはこの時であろう。

物質的米国人と思想的米国人

 例によって口上こうじょうが思いのほか長引いたが、先年僕の滞米たいべい中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。
 誰も言う通り米国は拝金国はいきんこくで、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物ゆいぶつ主義におちいりはせぬかとみずからおそれている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒けいかいを与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何いかんとなればとかく何事にしても弊害へいがいあれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴ずいはんする事なれば何事によらず攻撃こうげきしやすいものである。「坊主ぼうずにくけりゃ袈裟けさまでにくい」というのは、また同時に袈裟けさを憎む者は坊主ぼうず自身を憎むというへいおちいりやすい。君子くんしはそのつみにくんでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子くんしにして初めてなし得ることで、我々凡夫ぼんぷ小人しょうじんは、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしもかれ親戚しんせき友人家屋かおく生国しょうごくまでも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものをきらい、進んでは学問そのものをすらつみする傾向がある。
 ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしくあらわれる。ゆえに実業を重んずる、いな重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭をたっとび金力を尊重する結果として、不正なる方法によってとみす者も許多あまたある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏ひとまとめに纏めて攻撃のまととなし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産しさん破壊はかいして共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔こうけつなる紳士しんしのごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によってとみす者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯れんたいするものではない。不正なる行為こういは富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律義りちぎしょくで金をこしらえる者もある。
 ゆえに富貴ふうき必ずしも不正ならず、子夏が「富貴ふうきてんに在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしもあくと言えず、むしろてん賜物たまものという意に取れる。袈裟けさ坊主ぼうずが必ずしも伴うものじゃない。いわゆるそうにあらざる僧も世には許多あまたある。またその代りには袈裟けさを着た俗人もまた多い。「めるほどきたないものはちりかねなり」ということわざがあるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥ちりあくたとても貯蔵ちょぞう法よろしきを得たなら、清くする工夫くふうもあろう。黄白こうはくに至りては精励せいれい克己こっきむくいとして来たるものは決して少なくなかろう。古人こじんの言にあるごとく、
祖宗そそう富貴ふうき詩書ししょの中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。
 人の立身や家のおこるを評するにはよほど注意せねば、とかくうらやむ心にかされて判断を誤りやすい。

富貴は方法なり目的にあらず

 また本題にかえって卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴ふうきの危険を大いに警戒して、巨万のとみを積んでおのれの霊魂を埋没まいぼつするなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮はっきするために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲かねもうけを今日のごとく物質ぶっしつ的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。
 実にその通りで、数万の金をたくわえても人の人たることを忘れぬ以上は、かね邪魔じゃまにもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ふじんではない。また不仁ふじんのみ富むわけでもない。
 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付なづけて、もちろん自由業は高尚こうしょうなものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬そんけいを払って、あるいは官吏かんりあるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬をはくしていた。
 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的はかねにあるゆえに、ことさら名誉めいよをもって彼らを迎えなかった。これはあながちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可ふかとするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家そほうかはその人物の如何なるを問わず、単にかねがあるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制しがたきものになるであろう。

富者の権利と義務

 話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位階いかいさずけらるるとか、あるいは叙勲じょくんせらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とそのを選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。花もも取る者はついにみきも根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安寧あんねいあやうくするものであろうと思う。
 今日こんにちいずれの国においても財産の安固あんこ保障ほしょうしない法律はない。法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額にかさまるともとみ蓄積ちくせき占有せんゆうすることを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。この富む者はややもすればおのれの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかにっている。かつ偉大なものである。
 しかるに財産の義務なるものは、わずかにその負担ふたんする税額ぐらいにとどまって、その額も重い重いと言いながら権利にくらぶれば、案外に軽いものと思われる。ことに法文の読みようによっては、義務を忌避きひする道も随分ずいぶんある。ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる口実こうじつをもって財産の義務をことごとく負担ふたんしないものがある。現に我々が仮りに所得税の負担額をくらべて見ればただちにわかるであろうが、わずか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の何々大臣だいじん、あるいは何々しゃくにして市内市外に許多あまた高甍こうぼう宏閣こうかくかまえている人よりも以上の租税そぜいを払っている例すらある。そんなら、彼ら大尽だいじん地租ちそもくもとに多額の負担ありやとたずぬれば、彼らの園邸えんていは宅地にあらずして、山林と登録とうろくしてあるから、税率もはなはだ少ない。かくのごときは財産の権利を享有きょうゆうしながら、その義務を負担しないというものである。とみ跋扈ばっこするというと、いつも米国を例にとるが、いずくんぞ知らん日本にもその例にとぼしからぬを。
 僕がかくのごとき言を述べたならば、あるいはいたずらに人を責むるように聞こゆるであろうが、わが輩はそれがし何某なにがしなる個人を攻撃こうげきする考えは毛頭もうとうない。法文の曲解を難ずる意であって、僕は君子くんしではないが、人の罪をにくんで、その人を憎まないように心がける積りである。ゆえに富める者が不正なことをし、あるいは人を苦しめてなお蓄財ちくざいすることがあるにしても、その人よりも社会の制度が不完全ならびに輿論よろんがまだ未熟みじゅくにして、富者といわんよりは富貴ふうきの義務を自覚しないことを難じたい。

経済状態と道徳的態度の変化

 昔の経済社会とは違って近代は一国内における経済現象げんしょうさえなかなか複雑ふくざつになって来ているに、いわんや国家的経済現象に至ってはなかなか個人の力で如何いかんともできぬことがままある。したがって経済行為に対する道徳的態度は昔のように簡単に行くまい。
 たとえば昔なら物を造る者とこれを用うる者が直接に出会であって、相談のうえに物々交換ぶつぶつこうかんを行った。こういう場合には値段ねだんを定むるに両者間の承諾しょうだくの上に成るから、互いの満足のもとに終わる。こんにちでは値段を定むるに造る者と用うる者は顔など会わすことは少ない。両者の間に仲買なかがいあり卸売おろしうりあり小売こうりあり数人の媒介ばいかいて、我々の最も簡単なる需用じゅようも供給せられる。なかでも株式会社のごとき大組織の製造場において産出せらるる物品のごときに至っては、物価を定むる分子はなおさら複雑を極めて来る。
 なお進んでトラスト組織そしきの下に製作せらるる物品ぶっぴんは買い手の相談などはごうかえりみらるるものではない。この一例をもってみても諸色しょしきが上がるの下がるの、米価が騰貴とうきしたために貧民ひんみんくるしむの、あるいは暴徒が起こるの、あるいは犯罪が増すというごとき道徳的行為も昔の簡単なる組織時代と同筆法どうひっぽうで解決が出来ぬから、我々は新時代の経済界の現象げんしょうに対する道徳的態度も新たにすることはまぬかれないと思う。

ストライキの動機でも英人と米人とは違う

 世には労働問題とか経済問題とか社会問題などを、とかく道徳と別に考うべきもののごとく思っている人があるけれども、人たる観念かんねんを除いて、これらの問題は解決出来まい。しかして人たる観念の内からは道義観念を排除はいじょすることが出来ない。
 たとえば近来(第一次大戦以前)英国でしきりにストライキが流行はやる。アメリカにおいても近来あらゆる方面にストライキが行われる。しかるにある英国人の話に、英米のストライキの性質において大いに異なるものがある。米国では給料を増すことを主として要求するし、英国においては労働時間を減らすことを主とすると言った。この差の起こる所以ゆえんは、アメリカ人はもっとかねを欲しい、みずか貯蓄ちょちくして後日ごじつ安楽に暮らそうというのである。イギリス人はこんにちの制度ではほとんど家族の顔を見ることも出来ない。また人間としての娯楽ごらくを求めることも不可能である、金はらんがもっと人間らしい生活をしたいというところにあるという。両者とも根底にさかのぼれば労働者も人なりという観念かんねんから来ているために、いわゆる人の道をはなれて労働その他経済の問題の解決は覚束おぼつかない。
 しからばとていわゆる社会党(わが輩はあえていわゆるという文字を使う)の主張するように、現今の社会を目茶々々めちゃめちゃ破壊はかいしようというごとき簡単な案では、労働問題も社会問題も解決できない。今後は富貴ふうきの義務、労働の権利をば、法律以上に研究解釈かいしゃくして、前に言ったようにこれらのことを精神化するにあらざれば、現世界の安寧あんねいもまた真の進歩も望むべからざるものと思う。

黄金は土芥どかい宝珠ほうじゅ

 いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々まちまちに行われているが、なお最後の解決よりははるかにへだたっておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的現象げんしょうを人なる立脚点りっきゃくてんから見ないからである。
 かく長たらしく書いたことを回顧かいこすると、僕の平生の筆法ひっぽうとは大分だいぶん調子がちがっておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力をめたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。
 我々も、よし富豪者ふごうしゃにあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅少きんしょうであっても、その用法については大いに思慮しりょを要することで、金を路傍ろぼう土芥どかいのごとくみなすのはいかにもよくがなくいさぎよく聞こえるが、また丁寧ていねいに考えると金は決しておのれの物ではない。社会共有のもので、自分のふところに入っている間とても、なお一時社会からあずかったようなものである。いわば依託金いたくきんのごときものであるからして、これを無意味に浪費ろうひしすなわち土芥どかい同然に取り扱うことははなはだしからんこととも言える。あえて言葉とがめをするの意ではないが、金を土芥視どかいしするのも宝珠視ほうじゅしするのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物件ぶっけん所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧あんねい進歩は覚束おぼつかない。昭憲皇太后しょうけんこうたいごう御歌おんうたに、
持つ人の心によりてかはらともたまともなるはこがねなりけり



米国実業家の人生観

 かつて米国フィラデルフィアにいたころ、資本額二百万円ばかりの中ぐらいな合資会社の社長をしておる四十五、六歳の男と親しく話をする機会があって、いわゆる拝金国はいきんこくの米国の実業家にもかくのごとき考えの者があるか、いな一歩進めてこの国の実業家の中に少しくひんのよい者は、こういう考えで世を渡る者かと、つくづく感じたことがある。その談話の要領はかれの言葉のままに挙げれば、
「二十年以来の知人のことであるから、君もいくらか察しられているだろうが、僕は大学の教育も受けず、幼少の時から会社に入って、今日までで三十ヵ年にもなる。その間、社務にあくせくしているのと、かつ視力の許さぬがために読書もできず、また美術の趣味を涵養かんようすることもなく、すこぶる乾燥かんそう無味な人間になり果てて、朝から晩まで事業々々とばかり心がけて年を送った。その代りには僕が社長になってからわずか五、六年にしかならんけれども、事業の発展についてはいくらか見るべきところもある。今は四ヵ所に工場も起こし、販売係は諸所に出張さしており、配当はいとうもこの国においてはまず相当と思うだけのこともして、有難いことにはこの市内の銀行ならば僕の手紙でいくらでも金を出してくれるだけになっている。
 しかし僕は学問や技芸ぎげいに不案内であると同様に、金銭についても正直しょうじきお話するとはなはだ無頓着むとんじゃくで、毎日金勘定かねかんじょうをしながら金持になってなんになるだろうと常に思わないことはない。子供の時かられた職業であるからいまさら転職するのも好まぬし、よしまた金がらぬというてわが輩がしたならば、実際のところ社長にあたる人がない。して君の知らるる通り僕には妻もあり子供の二人もあることゆえ、自分は金がつまらないといって、山に引っ込んで妻子の苦労もかえりみぬというほど、僕はいわゆる神聖な人にはなりかねる。また妻子を苦しめて自分のみいさぎよいということがほんとの神聖とも思わない。天が我に子供を与えた以上は、彼らをして僕以上の者にするだけの義務は僕にある。また自分の妻についても、自分が世を去ったあとで寡婦かふとして暮らすばかりも気の毒であるに、衣食に不足のことがあるようでは、なんとも天に対し妻に対し妻の家族に対して申し訳がないと思えばこそ、金のとうといこともいくらか知るが、今日のところでは幸い後顧こうこうれいがないだけになったから、なんだこの金はと思う気が常に僕の頭を去らない。
 もっとも君の見らるる通り、僕の家には、装飾品もなければ骨董品こっとうひんもないし、また僕の着る着物きものは、家内のも子供のも同然、流行にはわない。友だちにもたびたび、せめて時計だけはきんのに代えよなどともいわれるけれども、この銀時計は子供のときから持ったしたわしい記念物だから、これを離すわけにはゆかぬ、もっとも二、三ヵ月前に自動車を買ったので、やはり流行にかかわると笑った人もあったが、笑う者に説明する必要はないけれども、僕の真情しんじょうかしていうと、僕の息子むすこにだけは時勢に遅れさせたくない。して自動車はもはや贅沢品ぜいたくひんではない。今後ますます発達するものと思えば、将来世に出て働く者はこれしきのことは心得ておらなければならぬし、かつ子供に器械だの物理だのの観念を養成さすには、何か彼が興味をもって当たる物を与えなければ、書物しょもつの学問だけでは実際にうとくなると思うから、僕がるような顔をして実は子供に運転と使用とをらさせるために買った云々うんぬん
 と長時間、真情を打ちけて話した。

個人的利益と国家社会の利益

 僕はこの男とかねてより親しくしている。彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも貨殖かしょくに関する態度を初めて聞き知った。僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。
 普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、おのれの身を犠牲ぎせいにして、社会に貢献こうけんするところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。おのれを捨てて社会の利益をはかるの望ましきことはいうまでもない。ことすに国家観念こっかかんねんより打算ださんするもはなはだよみすべきことである。
 その宣言せんげんを非難するわけではないが、その実際は如何いかんたずねられれば、ややもすると国家社会は言うまでもなく、おのれの友人親戚しんせきにさえも迷惑をかけて自分のみ得々とくとくとして金を作ったり、あるいは自分一個の快楽かいらくのみに金をついやしている者もすこぶる多きに驚かざるを得ない。ゆえに僕は実業にこころざす人に、社会国家をわすれろとは決して言わないけれども、口に出すことだけは遠慮えんりょするほうがよかろうとすすめたいくらいに思っている。いかなる事業でもおそらく社会に必要なる事業であれば、宣言もせずしても社会に貢献こうけんするのである。かつまたこの事業に関係する人も直接犠牲ぎせいを払うの必要はない。仮りに何か事業を起こすとする。この事業じぎょうにして果たして社会に必要あるものならば、それ相応の需要じゅようあらわれて、この会社も相応に繁昌はんじょうし、その結果相応の利益を得る。もし会社にして利益を得ないとすれば、その仕事を社会が要求しない証拠で、要求しないものを押売りしようと思えばこそ、国家事業であるから世間の人に私の品物しなものを買えとさけんで押売りするようなことになりはせぬか。
 社会の需要よりはるか進歩した事業でも、あるいは社会の指導者または模範もはんともなるような事業であっても、珠盤そろばんとなればいかに勘定かんじょうしても間に合わぬというごときものならば、かくのごときことは私人しじんのなすよりは直接あるいは間接に国家そのものがなすのが至当であろう。もっともこの問題については経済学者、財政学者の起点より見れば、解決をするに許多あまたの考慮をせねばならぬことであるから、ここで論ずる範囲はんいでないけれども、だいたいにおいて個人なりあるいは私設会社がなすべき経済行動は、国家社会のためといわんよりは、その個人その会社の利益のためだと公言しても恥ずることはないし、また実際に当たっているのである。英米独仏いずれの先進国にしても、経済上発展をげたのは個人の利益を主としたからである。

個人の最良なる利益はすなわち社会国家の利益

 かく言ったからとて僕はにくむべき意味における個人主義を唱えるものではない。西洋にいわゆる個人主義なるものには必ずしも悪い意味が入っておらぬ。すこぶる高尚こうしょうなる意味をふくましむることの出来るのは、ちょうど社会主義なる言葉の内にも必ずしもおそるべくにくむべき破壊的はかいてきなる思想をふくますべきものでなく、おだやかな高尚な建設的なる内容を、含蓄がんちくせしむることが出来ると同じである。実業家がそのぎょうにつくに、個人の利益をむねとして差支さしつかえないと断言するについても、読者の曲解きょっかいなきことをせつに望む。
 国民が※(二の字点、1-2-22)おのおの個人的の最良なる利益をはかったならば、その結果はおそらく社会と国家との利益になることであろう。僕はことさら最良なる利益なる文字に力をいれて言う。我利々々亡者がりがりもうじゃれんが他の者の事業を妨害ぼうがいしたり、競争者を中傷ちゅうしょうしたり、人身攻撃じんしんこうげきをしたり、捏造説ねつぞうせつをはいたり、その他卑劣ひれつな方法によりて得る利益は、僕のいう最良の利益とはあい反するものである。
 最良の利益とは正々堂々と人の前でいって恥ずかしくないことをいうのである。この冒頭ぼうとうに話した米人のおのれの一家のよろしきをはかるごときは、人に対して何のずるところもない。もしこの男にして一家の驕奢おごりはかり、その妻には流行の先駆者たらしめ、あるいは子女をしてだらしのない娯楽ごらくけらしむることをもって、おのれの利益とみなしたならば、これはまさしく恥ずべきことである。しかるにおのれよりは一歩進んだ人に育てあげようという目的ならば、これまさしく国家のため善良なる市民をささげるのであるから、国家のためといわないで、確かに国家の利益をはかっておる。かつまたおのれの事業にして繁昌はんじょうすれば、営業税も余計に収め、もって国家に対する負担ふたんも喜んで増し、また海外に輸出額がふえればこれまた国産に貢献こうけんすることであるからなおまた国のためになる。

国家のためという誤解の危険

 これに反し、しばしば我々が耳にするもので、しかじかの事業はおのれには不利であるが国家的事業であるから、身を犠牲ぎせいにしてこれに当たるなどいうことは、言葉を換えていうと、国家が個人に要求することのあまりに多きことを意味することになる。もちろん一たん事ある時は個人の利益や個人の財産生命も投げ出さねばならぬが、平生へいせい何事についても国民より重い犠牲ぎせいを要求するような国家は、国家の一大目的にそむいているもので、はたしてそういう国家が今日世界にあるならば、永続の覚束おぼつかない国家といわねばなるまい。
 幸いにして我が国では相当にぜいは重いとはいいながら、まだまだ個人の営業について、しばしば犠牲ぎせいを要求するほどに弱いものでないのはお互いにけいすべきことである。僕の友人が地方に巡回して農民に勧めるときに、お前たちの仕事は実に国家的の事業であって、昔から農は国のもとというたくらいであるから、いかに苦しくも、いかに利益がうすくとも、国家のために奮励ふんれいせよと説いて歩いた。かの意味は、多分農民みずからが奮励ふんれいして、農業を利益あるようにせよという意味であったろうけれども、普通農民の耳に入ったときは、やはり昔のごとく強制的に労働をして、ただおかみ運上うんじょうを収める道具になるだけのことであるという観念を与えた。
 あしたほしをいただいてで、ゆうべに月を踏んで帰るその辛苦しんくも国家のためなりと思ってあまんずればよいが、なかなか普通人情としてあまんじてのみいるものでない。しかして甘んじないときは国家がおのれを苦しめることのはなはだしいものである。こんな国家はないほうがいいという結論にも来たり得るし、また歴史上そういう結論をした国民も折々ある。

「国家」というよりも健全なる個人思想が大切

 僕はくれぐれも言うが、国家のために忠君愛国の観念かんねんとうとぶべきものにして、ひとり教育のみならず実業においても涵養かんようすべきものであると思う。この観念の涵養かんようみだりにくりかえすことによりて目的を果たし得るものでない。これを乱用すればかえって正反対の結果を来たすを恐れる。ちょうど欧米おうべいにおいて宗教の力の最もさかんな時には、何事についても上帝じょうていやキリストをかつぎ出して、その目的を果たそうとしたが、その結果を見るとかえって面白くないことが多かった。たとえば療法りょうほうにも信仰しんこうだの加持祈祷かじきとうだのを混合する。もちろん病気によってはいわゆるやまいもあるから、心の持ちようでなおる病気もあろう。してこの類の病気には信仰がいちじるしく功をそうしたろうけれども、黴菌ばいきんから起こる病いのごときに至っては、宗教が入りんではかえって療治りょうじ邪魔じゃまになることが多い。
 教育においてもそうである。僕自身は宗教なき教育は人の心髄しんずいを動かすものでないと信ずるけれども、しからばとて学校の課目に宗教を入れることは、かえって教育の目的を阻害そがいするものと思う。と同様に実業にも国家や愛国を入れることは、(僕は非常の時を言うのではない)かえって実業の邪魔じゃまにもなり、また国家愛国の観念にもきずをつけるうれいがある。
 かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。すなわちその妻子を思うの感情、一口ひとくちにいうと自家の感情である。これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。我が国のほまれとして我々は親も捨て、はなはだしきは妻子をころすまでして出陣しゅつじんした例などを物語ると、今日の西洋人の耳には野蛮やばんに聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの嘆賞たんしょうを買うものである。ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは絶叫ぜっきょうしない。しかし西洋の人は戦いに出る時も炉辺ろへんと家庭と for hearth and home を揚言ようげんする。ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国がたおれても自分の炉辺ろへん差支さしつかえなければ平気でいるかというとそうでない。
 学者は社会の進歩の秩序ちつじょとして、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、欧州おうしゅうの進歩は果たしてそういう形跡を現している。日本の歴史にして果たして西洋史とてつを同じゅうするものならば、我々もちかごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念にえないと同時に、健全なる個人的思想にびて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。

人生を甘からしむる心がけ

 今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒頭ぼうとうに掲げた米人の言うごとく、おのおのがいさぎよい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情合じょうあいに基づいて)おのれの日々ひびの事務をおこたらず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人とおのれのあずかっている職務に忠実ちゅうじつにして、なおかつ思想は高く俗界を超越ちょうえつして、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥料ひりょうほどこしても収穫しゅうかく以上に目的を置き、教師が教場に出てもこころざしを遠きにけ、役人が執務するに、俗務のために没却ぼっきゃくされない、すなわち一ごんちぢめると、吾人ごじんが人格としてまったく世をはなれた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂直的すいちょくてき関係と平面的関係との調和を始終しじゅうはかって行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにもあらわれて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。
軒冕けんべん(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。林泉りんせん田舎いなかの意)の下にりては、すべからく廊廟ろうびょう朝廷ちょうてい)の経綸けいりんいだくを要すべし」と。
 吾人ごじんは、いかなる低き、いわゆるいやしき職に従事しても心一つは高く持ちたい。



英国碩学せきがくたる神道しんとうの要旨

 先年交換教授こうかんきょうじゅとして渡米するにつき、その準備の一つとして、研究というほどの深い事もないが、少しく調査したいことがあって、神道しんとうに関する書物を読んでみた。そのうちに英国の碩学せきがく、ことに日本の古代宗教および文学に精通せるアストン先生の書中に、神道しんとう知恩ちおんと愛情の宗教なりという一句があった。これが僕の眼に大いにとまった。また同氏の説明を見てますますこの一句のあじわいが理解せられた。
 そのある友人が、日本の神道を研究するには、必ず黒住宗忠くろずみむねただの説をうかがわねばならぬと注意してくれて、ねんごろにもこの偉人に関する出版物を送ってくれた。これを読んでいっそうアストン氏のさきの言の誤らざると、いな、誤らざるどころでない、実によく穿うがっていることを感じて、その後ますます恩誼おんぎを知るの感を深めることについて、心のうちにつとめている。

知恩ちおんは日本民族の特長

 古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に固有こゆうな思想が一つでもありはせぬかと、の目たかの目で、本邦ほんぽうの制度やら歴史やらを調べると、神道しんとうだけは純粋じゅんすいなる大和やまと民族の思想であることがわかる。
 もっともこれとても、儒教じゅきょうが入って以来、その説くところやら、その儀式ぎしきがたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその教理きょうりさえも変化し、おそらくこんにち神道しんとうの名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、神道しんとう固有こゆうなものであるまいと疑う理由も確かにある。僕はさきのアストンのげんおよび黒住くろずみ氏の所説を読んで、これをげんに我が周囲に行わるるいわゆる神道しんとうに比すると、ちょうど『新約聖書しんやくせいしょ』の福音書ふくいんしょを見た目で、天主教てんしゅきょう儀式ぎしきを見たときに起こるかんよりもさらに不愉快ふゆかいなる思いを起こす。ゆえに僕は神道しんとうの純粋なる教えを重んずると同時に、その名をかぶっていろいろなる迷信をいたり、あるいは頑冥がんめい排他的はいたてき主張をほしいままにする神道しんとうの宗派をいうのではない。アストンにしても、黒住くろずみにしても、その説くところ間違いなきをし難いが、我が固有こゆうの教えは知恩ちおんの念にてるものなりとの一条はあやまちなしと信ずる。
 しかして神道しんとうが日本民族固有こゆう観念かんねんを代表するものならば、恩誼おんぎを知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。

恩の観念は固有か輸入か

 しかしここに奇態きたいに思うことは、古い言葉にはあるいはあって、僕の無学むがくのために知らぬのかははかられぬが、おんという字に和訓わくんのないことである。こういったなら、和学者わがくしゃのおしかりを受けて、こういうよみがある、ああいうよみがあるという反証はんしょうが出るかも知れぬが、それにしても、これほどな大和やまと民族の特長が、普通一般に漢音かんおんで流通していることはなさけない。
 おんの漢音はすこぶる発音はつおんに便利で、耳ざわりもよいから、ながたらしい大和やまと言葉の代りに通用するにいたったかも知れないが、実際我々がこんにち外国の言葉を用うるは簡単かんたんであるからとて用いる。単語は何か新しい思想を含んだものであって、普通にある言葉をわざわざ西洋語を借りて言い表わすことは、よしあってもまれである。
 マッチということばは今どんな田舎いなかでも用いている。しかるに僕の子供のときは早附木はやつけぎといったものだ。今はそんなことをいうものはほとんどない。早附木はやつけぎというよりもマッチというほうが簡単だからでもあろう。さらばとて単に簡単だという理由で、従来用い来たったことばなら早附木はやつけぎをマッチとえることはない。従来は附木つけぎだけはあったが「はや」なる形容詞をかぶせて通用させようとしても通用しなかった。「ランプ」を行燈あんどんとも手燭てしょくとも翻訳ほんやくしない。ペンのごときは僕らが始めて洋学ようがくおさめるころには筆またはかねの筆と訳したものだ。しかるに今は日本のすみずみに行ってもペンで通る。かねの筆というよりはペンというほうがむしろ簡便である。さればとてペンなる言葉をかりて、古来あった筆の文字に代用することはない。そこでおんという言葉も発音のやすきからとて、従来あった思想に代えたものか少しく疑いが起こる。恩なる観念はやはり儒教じゅきょう仏教ぶっきょうから入ったものでなかろうかと疑いが起こって来る。
 僕は世の言語学者に望みたきは、いま用うる文字こそ漢音かんおんなれ、思想は大和やまと民族の特長なりということを、言語のほうからも証拠を明瞭めいりょうにする一条である。

日本人ははたして恩知らずか

 単に右のごとくいうたなら、僕がアストンの説に反対の考えでも持ち、あるいは黒住くろずみの教えが黒住くろずみという個人より起こったもので、大和やまと民族の代表的思想にあらざるとでも主張するごとくに聞こゆるだろうが、僕はあくまでもおんを知ることは神道しんとうの基礎、大和やまと民族の美風なることを信じたいのである。
 西洋人はともすると、東洋人はおんを知らないという。また我々とても相互そうごに、彼奴きゃつは恩を知らぬやつだといって悪口あっこうする。恩を知るをもって大和やまと民族の特長などとほこっても、しばしば自分にかえりみないと、人から受けた親切ほど忘れやすいものはない。いな、人のしたことが、はたして親切であるか不親切であるか、その区別すらもなかなかしない。また人が我がためにしてくれたことの程度は、はなはだ鑑別かんべつしにくいものである。このへんのわきまえを誤ると、とかく他人の眼には、おん知らずの感を与える。
 ことに西洋人が日本人は恩を知らない国民なりというのは、この辺から起こっているらしい。すなわち日本人は恩を知らないのではなく先方の人がどれほどの親切でしたのかが分からぬために、有難うというべきところを言わなかったりする。すなわち事情が判然せぬために、思想までが大変違うように思わしむるおそれがある。そこで外国人の書いた書物のうちに、折々日本人の短所の中についても、恩知らずのそしりあることは、これは仮りに誤解から起こったとみなしておいて、しばらくこれは預りとしてここにははぶこう。ここではもっと手ぢかい、お互いの間の交際上、恩誼おんぎ観念かんねんについて注意すべきことを述べたい。

思わぬところに恩人がひそんでいる

 おんくに当たって、いわば恩の部類について一言したい。四おんなるものはなにかとか、あるいは中には五おんおんと数える人もある。けれどもこれは我々によきことをしてくれた相手によって分けたことで、たとえば向こうの人がきみだとか親であるとか、てんであるとかであるとか、ともだちであるとか、あるいは従僕じゅうぼくであるとか、それぞれおんほどこしてくれた相手によりて区別したるに過ぎぬ。
 受身うけみの立場からいうたら、目上めうえの人から受けたおんよりも、目下めしたの者から受けたおんのほうが大きいこともある。自分の君公くんこうからおふるかみしも頂戴ちょうだいするのは、昔では非常の恩誼おんぎとみなした。しかし自分の従僕じゅうぼくが一命を捨て自分の難を救うほうの恩誼おんぎははるかに重いと僕は思う。
 あるいはきみなるものは自分に対して常に衣食いしょくきゅうしていてごろ生命のもとである。ゆえにこれにむくゆるに常に生命いのちをもってすべきものを、自分の生命いのちを取らずにかえってかみしも一組ひとくみでもくれるというは、その物はわずかであっても、その心は我々の期待するよりはるかに以上であるから、その重きことは日ごろ給料を与えて、自分のために忠勤をぬきんずべき義務をもっている従僕が、たまたま難にって自分を救ったよりは、ものそのものはいかに軽くとも、君公くんこう賜物たまもののほうをはるかに重しとすべき議論も一通り立つから、僕とてもあながち絶対的に君公くんこう拝領物はいりょうぶつ家来けらいいのちより軽いと一般にいう訳ではないけれども、君公だとか従僕だとか、社会的の区別をすればこそ、些細ささいのことが大きく思えたり、重いことが軽く見えるが、自分のためにきを計り、自分に尽す親切の行為を計れば、思わぬところに僕の恩人おんじんひそんでいて、その人の恩誼おんぎをさらに感知しないで、見当違いのかた無闇むやみに有難がっていることもあり得ると思う。
 であるから、僕は如何なる人が、如何なるほどに、僕のために心や身をろうしてくれたか、つぶさに考えて、これを常に心にめいじておきたいと思うのである。

人も知らず自身も知らずに受ける恩

 ただこの事について心に記憶したきことは、明らかに我の耳に達したこと、あるいは我が目にうつった行為のほかに、人も知らず、我れ自身も知らないでいるおんがたくさんあることである。かくのごときめぐみが人生の中にかず限りなくあることを常に記憶にそんしておきたい。たまには誰がげるとはなしに、ふと心に有難味ありがたみを覚えて、ほとんど相手知らずにぼうだっし、ひざまずいて、有難さに、涙にむせぶこともある。誰しも必ずこの経験があるだろう。もしこの経験のない人あらば、そは不幸な人である。天の恩はいうまでもなく、朋友ほうゆうや親などのすることに、とかく秘密にわたって、受ける本人は夢にも知らぬことがしばしばある。なにか面倒めんどうな事件があって、これを処理しに出かけると、案外にもすでに半分以上解決されておったなどということがある。
 これは不思議と思って、だんだんその理由をただすと、前日友人が来てなかば以上悶着もんちゃくを解決しておいてくれたなどということが、数日あるいは時によっては数年って初めて発見されることをみずからも経験したし、世には必ず同じことを感じた人が数多あまたあろう。

今もなお不明なる僕の受くる恩

 はなはだ事が私事にわたるようで、ことに小なことで、人に語るにあたいもないか知らぬが、かほどな些細ささいなことも、好意をもってすれば、かほどに人の心を感動せしむるものであるという証拠に、ここにこれを述べる。
 僕が札幌さっぽろの郊外に一はかをもっている。札幌さっぽろの天地は僕の青年時代に学問したところで、さなきだに第二の故郷としてしたわしいが、この慕わしき念をいっそう深からしむるものは、この小さき墓地ぼちである。ゆえに折々かの石碑せきひの周囲に雑草がはびこって、見すぼらしくなりはせぬか、石が倒れて見る甲斐かいなきようになっておるまいか、悪戯いたずらの子供らが石の上に落書らくがきでもして不作法ぶさほうになってはおらぬかと、折々心をいためることがある。それゆえ友人に頼み、ついでの時に見巡みまわってもらったが、彼が墓所へ行ったつど、報告してくれるに、いつでもいつでも草はきれいにられ、周囲がすこぶる整然していると。ここにおいてあまりの不思議さに、同じ友人に依頼して誰が掃除そうじしてくれたるか、もしわかったならば礼もしたいから、住職なり番人なりにただしてくれと、いって送るけれども、友人の穿鑿せんさくではなかなかかくも墓地に対して好意を示す人を探し得ない。
 今もなお僕にはその人が知れない。しかるにこの事たる、事態は茶話さわの話題にもならぬくらいなるが、僕にとっては人情のまことに柔かきところと深きところとをうかがわしめて、感謝と喜びの念を深からしむることが少なくないのである。
 それにこの行為をなす人はおそらくただ一人であろう。しかるに誰ということのわからぬ間に、僕の心には果たして一人であるか二人であるか三人か、加之しかのみならず一人であるにしても、あの人であろうか、この人であろうかと推量すいりょうめぐらすのが大勢おおぜいの人に関するから、つまり大勢の人が僕には恩人のごとき感を与えている。渡る世間におにはない。かれこれ僕は大勢の人に非難を受けるけれども、また世には心からしての友があるという自覚を強からしめて、折々不愉快ふゆかいなことのあるあいだにも、かくのごとき小な事が、燈明とうみょうのごとく輝いて、人生のあじを甘からしめる。

惨憺さんたんたる一高の入学試験

 僕が第一高等学校に在職中ことさらに僕の感じたことがある。それはある夏学校の入学試験の際であったが、今は名も知れているけれども、これを明かすの必要もなし、あかしたならかえって迷惑めいわく種子たねともなろうから、姓名をはぶいて話そう。あるいは偶然にも話題の主の人の眼にこの書がれたならば、あの時の男は彼であったかと思わるるであろうが、僕はこれを美談と思うからかくさずに話する。
 七月の初め、一週間ばかり続いたあつさの強い日がちょうど全国の高等学校入学の試験の定日ていじつであった。中学を卒業した四月から、以来は三度の食事も省略しょうりゃくするほどに時をおしみ、夜も眠らず、眠気ねむけがさせば眼に薄荷はっかまでさして、試験の準備に余念ない三千ちかくの青年が、第一高等学校の試験場にむらがり来たり、いよいよ教室に入るその刹那せつなまで、準備をおこたらぬくらいであるからして、試験以前の十日間の勉強は実に兵士の戦闘準備どころか、実戦にとりかかっていると同じ感がする。すなわち試験以前の一旬間じゅんかん惨憺さんたんたるさまは父兄友人はいうまでもなく、少しく今日の日本の教育並びに試験の制度を知るものは、察するにあまりありというくらいである。ゆえに中には試験の始まる前に、すでに根気がつきたり、病にかかったり神経衰弱あるいは脳貧血あるいは不消化不眠症ふみんしょう等にかかるものは、おそらく百をもって数えるであろう。

入学試験中、くるまを待たした不思議の婦人

 さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。僕が各教場を通って廊下ろうかに出て、玄関げんかんの側をあゆんで来ると、ちらりと眼にうつったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている車挽くるまひきと、これをへだつること一間ばかり傍に、ふくろを手にしている四十ちかくの婦人であった。試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の見張みはり監督していても、ただ水を打ったように静寂せいじゃくを極めて、廊下ろうかの板をふむ巡視の靴音くつおとさえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごときさまであるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は小使こづかいに代って、この婦人に向い、その用をただして、
「もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の寄宿寮きしゅくりょうに御用ならば、そちらの玄関でおたずねなさい。ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです」
 と心附こころづけたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、みょうな顔をして、
「ハイ、ここで待っております」
 というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、
貴女あなたのおたずねになる方は、ここにいる人ですか」
「ハイ、いま試験しております」
「そんなら、先生ですか、生徒ですか」
「生徒でございます」
「生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。試験は十一時までですから、もう二時間もあります」
「ハイ、それも承知しております」
「そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは非道ひどいですから、あちらに休む所があります。それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったらうございましょう」
 と心附こころづけたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、
「ただこちらで待っております」
 というだけなので、僕はますます奇態きたいに思って、かつそばくるまのあることゆえ、何か容易ならぬ仔細しさいもあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第をただしたところが、
「今試験をしておりますが、昨日きのう自宅うちめまいがしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。まさかの時にはれて帰るつもりで、くるまを頼んでまいりました。それに今朝けさ飲む薬も、いそいでいて忘れましたから」
 といいながらしきりにふところの中に手を入れて、薬を出しそうにするから、
「私がその薬を飲ましてあげましょう」
 というたが、
「これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません」
「それじゃ、名はなんといいますか」
「…………」
「何番ですか」
「番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……」
「ここの試験では、毎年三、四名ぐらいめまいする者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに始終しじゅう気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても大丈夫だいじょうぶでしょう。しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい」
「…………」
「イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと監督かんとくの先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい」
 といったので、始めて何部なにぶの何番ということをげたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにもくだんの婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが判然はんぜんした。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ないさまであった。僕は係員かかりいんの先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び玄関げんかんに来たときは、母なる人の姿もくるまの影も跡が見えなかった。

見る人ごとに有難からぬ人はない

 十一時のかねが鳴ると同時に彼も教室を出て、下駄げたをはいて友人と笑いながら話をしているのを僕はみとめた。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門をずるを見送った。彼は友人とかたをたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の脳髄のうずいはただ試験の答案をもってのみたされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。しかるにいずくんぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を、その翌日もまたその翌日も無難にたことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。
 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬにとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁護ようごする母の情愛があって、始めて無難な試験をたものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。
 右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。かくのごとき恩愛おんあいは人の眼をしのんで、世にあまたあると信ずる。いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中にちていると思う。ただこの満ちている情愛にれていながら、これに感ずるににぶきわれわれの心情こそ、遺憾いかん至極である。感応の力にして鋭敏えいびんであるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。
 黒住くろずみ教の開祖宗忠むねただ翁の歌に、
りがたやかゝるめでたきでてたのしみらすひとぞ一とく
りがたやかゝるめでたきでてたのしみらすこそやすけれ
りがたやこゝろくももはれわたりうきよのくもはとにもかくにも



名は命名者の心を表わす

荘子そうじ』に「名はじつひんなり」とあるごとく、じつしゅにしてかくである。言葉も同じく考えのひん、思想のかくなりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶きっきょうありとて、ことに近ごろ姓名判断などさかんに流行はやる。しかしじつとが相伴あいともなわねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくにくはない。
 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子ろうしの言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語のようは思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事がる。遊ばせ言葉はひまつぶしでかつわずらわしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉もおのずから物や思想のじつを現すだけでようの足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すにとどまらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古人こじんいわく「言者身之文也げんはみのぶんなり」と。日本のことわざにも「言葉は立居たちいをあらわす」というが、これはただしなや育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。
 僕の知れる老人に滑稽こっけい趣味にゆたかなものがあった。封建時代には従者じゅうしゃや出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者をひやかしながら、
貴様きさまが笑うときの顔はまるでさるのようだ。これから姓名を改めてはどうだ」
 といい、真面目まじめになって猿嘉さるかという命名書を与えた。爾来じらいこの若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿嘉さるか氏を称している。また老人の親戚しんせき中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半耳はんじと命名したという。これらの命名は客観的にその人々の特徴とくちょうを言い現したものだといえば、名はたいをあらわすといわれる、いわゆる名詮自性みょうせんじしょうとやらである。しかし若者ぼうのごときは、ただ笑うときさるに似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な特徴とくちょうがあったろうと推量する。彼がいかる時はわにのごとく、った時は河童かっぱのごとく、しかしてねむった時は仏顔ほとけがおであったかも知れぬ。また半耳君はんじくんにしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、くちなりはななり業平なりひらをしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。
 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指摘してきしたのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、さるだとか、耳朶じだが半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉快ゆかいなる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。

言葉はこれを用いる人の心を表す

 用語においてはなおさらである。これは何人なんぴとでも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥うんでいの差がある。すぐれた人を評するにつけても、
「あの男はエライ」という者あり、
「エラそうだ」というもあり、また、
「エラぶる」というもある。
「まるい鶏卵たまごも切りようで四角」。
「物も言いようでかどが立つ」。
 俗に「くそ味噌みそも一しょにする」というが、味噌みそを見てくそのようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度たいどに大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。
 たとえばここにみを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、
巧言令色こうげんれいしょくの人、阿諛※(「言+稻のつくり」、第4水準2-88-72)あゆてんねいの人」
 と評するし、乙は、
「よいぐあいに世渡りする上手者じょうずもの愛嬌あいきょうを振りまく八方美人」
 という。またへいは、
「真に人に接して城壁じょうへきもうけず一視同仁いっしどうじん的の愛情の深い人だ」という。
 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚しんせき関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙のようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問をてらうと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切こんせつによく説明してくれたとしゃする。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
 こういう例をあげきたれば、何人なんぴとにもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一ぱい飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりとそしる人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露ぎょくろを出す必要はない、彼は「戊申詔書ぼしんしょうしょ」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式のぎしきの人なりとめる人もある。
 また昔時せきじシナのきさきが庭園を散歩し、ももじゅくしたのを食い、味の余りになりしに感じ、独りこれをくろうに忍びず、い残しの半分を皇帝にささげ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛ちょうあいいよいよ厚きを加えたが、その後きさきちょうおとろえたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼のけんによりてばっせられたという。寸分すんぶん異ならぬ同一事実のものでも、ようによりてはめることもできれば、しることもできる。賞することもばっすることもでき、殺すこともかすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤しょうじょうの差を生ずる。

同じ事が弁解にもなり有罪にもなる

 僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼はならずして無罪を宣告せられたが、逮捕たいほの理由は彼がある嫌疑者けんぎしゃに数千のかねを与えたというにあって、裁判官が、
「なにゆえに貴様きさまはかかる大金を彼に与えたるか」
 の尋問じんもんに対し、彼は、
「彼が嫌疑けんぎがましいことをなすにつけ、いついかなる運命におちいるかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋獄けいごくの身となるもゆることがない、ついては若干じゃっかんの金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一ぺん義侠ぎきょう、これをいなむにしのびず、彼のために出金しゅっきんした」
 と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共謀者きょうぼうしゃなりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、あわれであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいとげた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中にきいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一てきにだもあたいせずと絶叫ぜっきょうしたと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これをじょするに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。

かくの如き曲解も起こる

 また僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影しんえいに最敬礼して登壇とうだんし、今日こんにちの教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育はおこたりがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分がしかく思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいはしかく思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供にたわむれてくすぐる時は「叔父おじさんいやだ」といいながらも、めればまたからかってもらいたいふうをするごとく、真にいやなのであるかいなかわからぬのと同じである云々うんぬん、と述べた。
 すると傍聴者ぼうちょうしゃのなかに、いたくこの演説がしゃくさわった者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をもはばからず猥褻わいせつなることばを用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。
 講演者はいかなる点が猥褻わいせつであるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻わいせつの歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻わいせつと思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是がんぜなきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらくみずからしばしば唄った甚句じんく端唄はうたを思い出したのである。いかなることでも揚足あげあしをとり曲解することは容易なるわざで、口の先は偉い力を有するものである。

不快の感を与うる言語

 我がくにには西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに「何々しやあがった」というのは一つである。また「何々をしてやった」というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「あがった」というのでむしろ鄭重ていちょうな言葉と思うであろう。しかし日本人かんにありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、
何某なにがしは死にやあがった
「誰は結婚しやあがった
「勉強しやあがった
昇進しょうしんやあがった
 といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不愉快ふゆかいに思い、また人をおとしいるる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想をいだく。
 また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少ししゃくさわったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手もへこんだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士をたずねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士はいわく、
「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明瞭めいりょうにその言うところの意味がわからなかった」
 といい、進んで滔々とうとうとしてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張こちょうしていい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだろうかつ小であって、先方をこまらす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。
 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪らいほうを受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏をたずねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかにぼう重大視じゅうだいしし、某は彼に対して無頓着むとんじゃくなりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終しじゅう起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。

邦人間に行わるる嘘の原因

 そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかくうそをつくというが、悪意をもってうそを言わなくとも、事実に違ったことをく点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確をくためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえてうそをいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓りんかく円縁まるぶちであればただちに円いと言い、屈曲くっきょくさえあれば円いというも、そのまるというのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円まんまると解するゆえにまるならぬものをまるうそをいうとする。
 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実にこんじやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味いやみを付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気がくもれば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。
 これに反して鄭重ていちょうなものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。
 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜きんきの至り」などあり、西洋でも書簡文しょかんぶんには、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、
貴下きかの柔順なる忠僕ちゅうぼく
 と直訳すると、邦文ほうぶんの「頓首とんしゅ」、「再拝さいはい」よりひどく聞こゆれども、この句のみなもとはさほど卑屈ひくつの意ではなく、
貴下きかに serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」
 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語がおびただしいから、人の葬式そうしきくやみに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直しょうじきな人はまどわされる。古人のなげける一首にわく、
いつはりのなきなりせばいかばかりひとことはうれしからまし

心からき出たものが真の言葉

 用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語ぜんげんびごも不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心にあふれて言葉となる」とあるが、心からき出たものがまことの言葉である。
ことこゑこゝろのあらはれてやさしきひと底井そこゐらるゝ
 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲えんきょく巧妙こうみょうなる言葉のもとほねしょうすることもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味いやみたっぷりの文句や人をおとしいれる言いり、人に無礼ぶれいする語を用いることはなはだつつしむべきことである。僕自身が田舎いなか生まれではなはだ不謹慎ふきんしんの語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。



教訓を責道具せめどうぐに使うなかれ

 こういう僕もこれより言わんとほっすることについて、みずから反対の例となるの恐れなきにしもあらざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。
 老人らが懇々こんこん吾人ごじんに身のおさめ方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前いしんぜんの話をしているわいと、馬耳東風ばじとうふうに聞き流すことが多い。また吾人ごじんの真情や実況を一通り心得ている友人が懇切こんせつに我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだおれの腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底むなそこで笑いたくなることもある。
 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽ふきゅうの金言と称せらるる教訓にれても、うまいことをいっている、このおしえたれそれに聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地ここちすることがままある。
 ゆえに、少しく油断すると聖人せいじん君子くんしの言葉を用いて他人をむる道具とするおそれがある。さればこそ、他人を偽君子ぎくんしと呼び、不忠不義とののしり、あるいは説教するに聖人の句を引用して人をつみするごとき面白おかしいことがとかくありがちである。
 こういうふうに他人が吾人ごじんのために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢せんけんが血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯きょうがいに達しない、すなわち自己のさとらず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾人ごじん境遇きょうぐう充分じゅうぶん知らぬゆえである。

教訓を味わう力が足らない

 今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕はみずから経験したはじもさらさねばならぬ。
 たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不始末ふしまつであった。不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に迷惑めいわくかけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。これがために自分が知らないうちにふところからになったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。このことについては親戚しんせき友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに懇切こんせつに、いかに穿うがっているかを味わうことができなかった。
「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」
 とことわざにいうごとく、親が存命ぞんめいで孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながらおこたるが、親無きあとで『孝経こうきょう』を読みかえすと、初めてその「経書けいしょ」の真意が明らかになる。これ故人こじんの忠告が不足なるにもあらず、『孝経こうきょう』の悪いのでもない。ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受けれる襟度きんどのなかったためである。くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。
 また放蕩ほうとうにふけっている者も同じことで、耽溺たんできしているあいだは『論語』をもっても『法華経ほけきょう』をもってもなかなか浮かびきれない。けば説くほど自分に関係ないことのように心得て、「君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ」ていの考えでますます深みにおちいるのもわれわれはしばしば見る。しかるにこの人にして相手方が彼をあざむくか、あるいはみずかきてくると初めて目がめる。かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、『聖書』の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。

聖哲の教訓はなにゆえ凡人ぼんじんに入り難きか

 いったい聖人君子の教えと称するものは、長いかつ広い経験に基づいたことは多いとはいえ、抽象的ちゅうしょうてきのものが多くて具体的でない。いわば汎論的はんろんてきで、各論的でない。万民にべた言で個人に述べた言でないからして、とかくわれわれ凡人ぼんじんの頭には入っても腹の底にみることがうすい。
 大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる境遇きょうぐうの者にも応用できるだけに、これはおれのことだと私の意味に取ることは薄くなる。それゆえに先に述べたように、こういう文字は人をむる道具に用いるほうがむしろ多いかとおもう。彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、おれは不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。またたまたまおのれの非を自覚しても、すぐにおれはまだ某々たれたれほどに堕落だらくせぬとか、あるいはおれの場合は特別であるとみずか(justify)せんとしたがる。
 実際僕が今こうしてこのことを書きながらも、僕自身が人を責めておりはせぬか、この文をそうするよりは、むしろ退しりぞいて己れ、果たして忠なるか、己れ果たして孝なるかを考えるほうが筆取るよりも急務ではないかとまったく思わぬでもない。これを思うと同時にまた若い時につまらぬことながら僕がここに言わんと欲することを言ってくれる人があったなら、いくらか誤りも少なかったろうにと思いかえしてまた筆を取る。

余らの学校時代には徳育が無い

 決して誰彼たれかれうらむわけではないが、……もし怨むとすれば時勢を怨むというよりほかにないが、……明治十年前後、僕が学校ざかりの時分には、日本の国は教訓については(道徳とは言わぬ)沙漠さばくの時代であった。
 僕の十歳代の時を顧みると年長者なり、先輩せんぱいなり、親切に指導する者ははなはだ少なかった。有為ゆういなる人物を育てるようには、心がけた人がたくさんあったが、正しい人間を造ろうということには心のうちには、いずれも思っていたろうけれども、これを形にあらわしてみずからこれを個人に及ぼすことのはなはだ少ない時代であった。ゆえに神経質しんけいしつなる僕のごとき者は、(僕と同感の青年が何万とあったろう)すがりよって、教えを求めようとかわいていたものである。しかるに親切な人も正しい人も許多あまたあったが、時代の要求は少しは悪いやつでも役に立つ人才じんさいを要する傾向があったから、教育上道徳観念をやしなう者はほとんどなかった。ゆえにこれを求むる者はいきおい書物にったのである。
 しかるに残念なことには書物にあることは前述のごとく抽象的ちゅうしょうてきであるから、未熟の頭脳あたまには入りにくい。たまたま入れば自分をかえりみるより他人を責むる道具となる。

訓戒の値打ねうちを知る法

 そこで僕は始終しじゅう思うに、個人の訓戒を実際にほどこすには、その抽象的ちゅうしょうてき教訓を具体的に翻訳ほんやくしなければならぬ。この翻訳をするには、一つには伝記を読んで、何某だれだれがどういう誤りをして、どういう結果におちいった。そしていかなる法によって、取り返しをしたかを知るが一つ。また一つには年輩ねんぱい境遇きょうぐうも同じような親友とたがいに真情をうちあけて、おれはこういうことをした、あるいはこういう悪い考えが浮かんで困ると語り合い、また友人の実験を聞いて、実際の人生にいかなる誘惑ゆうわくのあるものか、みずから知らぬ経験けいけんを具体的に他人から聞きただすも一つの法であろうし、またみずか退しりぞいて想像して、おのれがかくのごとき場合におちいったならば、いかに身をしょするかを、考えるもまた一法であると思う。
 僕がいま最後に述べたことは、子供らしい方法で、世間の物笑ものわらいになるか知らぬが、少なくとも僕のごとき平凡なる青年にはすこぶる役に立った方法である。たとえば今に記憶に残っていることも少なくないが、十五、六のころ一人で想像して、もしおれがかくかくの困難におちいったときは、自分はどうしよう、もしおれがかくかくの誘惑にさそわれたときには、こうしようと夢みるごとくに描いた仮定が、その後しばしば役に立った。今後も役に立つであろうと信ずる。事に当たってまどうときも苦しむときもちょっと一歩退しりぞいて、
「ハハアこれはいつぞや夢に見たこういう場合に当てはまる。そのときにはこうしようと思ったが、今日その通りできぬはずがない」
 と、こう思うと大概のことには、かねての準備じゅんびがあるがごとき自信を抱いてくる。ゆえにこの想像がなかったならば狼狽ろうばいすべかりし場合にも、うんこれは例の夢が実現せられているんだと、思いきりがつく。もっとも聖人君子ならざる身であれば、事に当たって一時まどうは遺憾いかんながらあっても、そのことをかねて期待しておったとおらぬとはたいへん違う。彼の有名な業平なりひらの辞世を見ても、
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日きのふけふとは思はざりしを
 とある。業平なりひらという人は文芸に優秀なることは言うまでもないが、その人となりについてどれほど根底のたしかな人か知らんが、その臨終りんじゅうになって、「昨日きのふけふとは思はざりしを」とのこの句はちょっと不意打ふいうちをせられて、あわてたようにも聞こゆるけれども、もし彼にして「つひに行く道」をかねて聞いておらなかったならば、彼の狼狽ろうばいは定めし見苦しかったものであろう。

抽象的の教訓も初めて具体的に会得えとくする

 僕がさきに述べた、艱難かんなん誘惑ゆうわくを仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、豪傑ごうけつらは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の同僚どうりょうたる凡人ぼんじんに対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々はりょうとしてもらいたい。
 この仮想によって、抽象的ちゅうしょうてきの教えを具体的に翻訳して初めて意味が明瞭めいりょうにかつ実際的になり得る。明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんのあたいもない。そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる卑見ひけん黄金おうごんあたいを有するにいたる。それであればこそ路傍ろぼう耳朶じだに触れた一言が、自分の一生の分岐点ぶんきてんとなったり、片言かたことでいう小児しょうにの言葉が、胸中の琴線きんせんに触れて、なみだの源泉を突くことがある。老嫗ろうおう一口噺ひとくちばなしが一生涯のもといかためたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。
 釈迦しゃかが東西南北の門をで、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいはまずしき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。

忠告を納むるべき肥沃ひよくな畑

 かの英国の誇りとするシャフツベリーきょうは、身は名流であり、一家は巨万の富を積み、娯楽ごらくに世を渡る資格をそなえておりながら、中学校時代乞食こじきの葬式の途中かんから死骸しがいのおちるのを見て、十五分間に自分の生涯の方針を定めたと称している。
 しかるにわれわれもよし乞食こじきの葬式にあらずとも、これに類したることはしばしば見ている。世のき事、人生のつらいことが毎日われわれの眼にうつり耳にひびきながら、われわれの胸にはなんらの影をも落とさず、なんらの共鳴をも引き起こさない。しかるに世にいくらか仕事をなした人についてただしたならば、十に八、九までは、私の立志りっしはかくかくの時に発したと、なにか具体的な、しかも他人の耳にはつまらなく聞こゆる些細ささいな出来事を指摘するであろう。これけだし、すでに腹の畑はこやしができ、掘り起こされて土壤どじょうが柔かになり、下種かしゅの時おそしと待っているところに、空飛ぶ鳥が偶然ぐうぜんりゅうおとしたり、眼に見えない風が山の彼方かなたより種を抱いて吹き来たったりして、春にきざし、夏に花咲き、秋に実るのである。
 人の心も先に言った想像なり、あるいはそれよりはるか以上の方法をもって、準備をととのえていさえすればいかに卑近ひきんな教えでも、いかに些末さまつな忠告でも、必ずこれを受け取って発芽はつがして、花咲かせて実るものと思う。
 他人の諫言かんげん忠告をいつでもれる心の態度を有する者は真の大人たいじん、君子、英傑である。シナ太古の聖人が世をおさむる時代には朝廷ちょうてい諫鼓かんこという太鼓のような物をそなえおいて、誰人たれびとにても当局に忠告せんとする者はこれを打つと、役人が出て諫言かんげんを聴いたと伝えるが、今日は諫鼓かんこのかわりに新聞があるけれども、耳を傾ける度量は昔にくらべてどうであろう。

正しき時に正しき言を放つは賢人

 なお他人に忠告するについては、一言いちごんしたいことがある。たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ凡人ぼんじんに訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが釈迦しゃか孔子こうし耶蘇やその訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功をそうすることはおぼつかなく思う。
 友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。
 しかし忠告するあたいがあることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。友人の心のはたけたがやされているや否や、英国のことわざに賢人とは正しき時に、正しき言をはなつ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば愚人ぐじんの言にもおとる。おそらく多くの人はみな経験があるだろう。
 まじめになって、友人をいさめたためにあるいは友誼ゆうぎを破り、あるいは他人の心に反抗心をき起こさせて、いっそう彼を堕落だらくせしむるの機縁きえんとなることがある。時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、葬式そうしき祝詞しゅくじを呈し、めでたき折に泣きごとを述ぶるにひとしきことは常識にまかせてつつしみたい。
 僕のたびたび引用する『菜根譚さいこんたん』に、
「人の悪をむるははなはげんなるなかれ、その受くるにうるをおもうを要す。人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし」
 とある。

こうそうする忠告とそうせぬ忠告

 人を批評するにも、人を判断するにも、また人に忠告を与えるにも、先方の事情を深くかつ同情的にむにあらざれば、われわれの批評がけっしてその当を得ない。かえってわれわれの判断が誤りやすい、すなわちわれわれの忠告はこうそうしない。
 管仲かんちゅうが戦場でげたからとてただちにこれを卑怯ひきょうと批評し臆病者おくびょうものと判断し、しかして勇敢ゆうかんなれと忠告した者があったならば、おそらく彼は腹の底で笑うのみであったろう。彼を知る鮑叔ほうしゅくが彼をもくして臆病者とも卑怯者とも言わなかったのは、彼の人となりと、彼の事情を知っているからである。
 僕はずいぶん異なった境遇に遭遇そうぐうしたあまたの人に接して考える。教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情のうすきによると思う。約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠意誠心が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先だちて深く心に念ずるこそ順序であろう。また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外にでたるものと思えば、これ実に天の声である。
 貝原益軒かいばらえきけんがものせる『大和俗訓やまとぞっくん』の中に、忠告に関するまことに穿うがった教訓があるから、左に抜萃ばっすいする。
「およそ人をいさむるには、人の気質によりて直諫ちょっかん諷諫ふうかんの二つの法あり。知らずんばあるべからず。その心和順わじゅんにて義理明らかなる人ならば直諫ちょっかんすべし。直諫とはあやまちをいいあらわし、をすぐにのべて、是非ぜひをまげず、つよくいさむるなり。かくのごとくなれば聞く人おそれて従う。孔子こうしの法語のげんとのたまうこれなり。また気質和順わじゅんならず義理くらき人ならば、諷諫ふうかんすべし。諷諫ふうかんとはただちにその人の過悪かあくをさしあらわしていわず、まずその人のよきところをあげてめ、その人を喜ばしめ、その人の心に従いてさからわず、ただその事のそんなるとえきなるとを説きて得心とくしんせしむべし。あるいは他事によそえて善悪得失とくしつを述ぶべし。かくのごとくすれば聞く人、はらたたずしてよろこびていさめを聞きしたがう。孔子こうし巽与そんよげんとのたまえるこれなり。人をいさむる法はこの二つなり。その人の気質によりていさめの法かわるべし。直諫するこそ本意なれども、正直に強くいさめても聞く人の耳にさからいて受け用いざれば益なし。名君めいくん賢者けんじゃならでは直諫ちょっかんによろしき人はまれなり。よのつねの人ならば諷諫ふうかんすべし、諷諫をよくして人のよく聞き入れたるためし多し。是いさめのよき手だてなり。いさめの道を知らでことばをあらくして人にさからい、みだりにいえば人怒りて必ず聞きいれず。人に益なくしてわが身のわざわいとなる。ことにわが親に直諫して腹立たしめ、親よろこばざれば親子のなかうとくなる。大なる不幸なり。親をいさむるには法あり。
 えきいわく約自※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)ムスブヲイルルニマドヨリス』、まどは明らかなるところなり。たとえば家の内にある人に外より物を言い入るるに、壁越かべごしにいえば聞こえず、※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)まどよりいえば聞こゆ。いさめを言うもまたかくの如し。いかなるおろかなる人も、必ずいずくにぞかたはしに道理開けて明らかなる所あり、或いは好む所のよくあり。その所をよく見つけて言い入るれば聞き入れやすし。このいさめようのよきこといにしえもさるためし多し。ふさがりたる処を知らずして、いかにちゅうをつくしていさむとも、聞き用いざれば益なし」。



偉大なる思想が何ゆえに萎縮いしゅくするか

 いかなる文字でも、善き意味にも悪き意味にも用いらるるが、感情かんじょうなる言葉ほど、ときには善く、ときには悪く用いらるる言葉は少なかろう。人をめて言うときに、あの人は感情家であるから、言うことが活気があるとか、あるいは精神がこもっているなどという。これに反し、あの人は感情家だから、議論が学理の軌道きどうをはずれ、とかく横道に走るともいう。
 いったい感情は読んで字のごとく、われわれの感覚かんかくといわゆる人情にんじょうとの二つを含むものであるから、善くもとれるし、悪くもとれると同じく、正しきにも走り、正しからざるにも走りやすい。感情はいわば一種の力であって、感情あればこそ思想も力をえ、感情の力なければ、人の考えはとかく冷淡にして働きに現れることは少ない。よし現れても、その運動量モーメンタムが弱い。
 感情は意志や思想に力をつけるものであるゆえ、誤った思想に感情が混じると、その誤りがいっそう恐ろしくなる。ここにおいて、僕はしばしば感情の教育ということを口にするが、人の感情をして私を去っていさぎよからしめたならば、おのずから正しき思想にむすびついて、偉大なる力をき起こすものであるが、もし感情にしていやしい女々めめしいものであれば、することなすこと小さくなって、偉大なる思想さえも、小感情のために、大きなところを失ってちぢまってしまう。おたがいも折々見ることで、知り合いの人のなすことを傍観ぼうかんしても、思慮しりょはたいそうよく、すなわち思想においては間違いはなくとも、これを実行せんとするにあたり小さな感情から割り出すがために、とかく卑劣ひれつきたない挙動に終ることがままある。あるいは人の思想をまたは行動を判断するについても、小さな感情をまじえてするがために、せっかくの大きなことも善きことも充分認識にんしきせられないでしまうことが多い。
 イギリスのことわざに「いかなる英傑もかれそばはべ小姓こしょうには偉大と映じない」とある。これ英傑が偉大ならざるにあらずして、小姓こしょうが偉大ならざるがためである。それと同じく、小さなる感情をさしはさむ人には、いかに善きことも、いかにだいなることも、けっして真の性質を会得えとくしえない。僕みずから古今の英雄や豪傑ごうけつを批評するにつけて、小さなる感情よりすることをたびたび恥ずかしく思う。

女々めめしい感情皮相の感情

 僕が数年前、米国に留学していたころ僕の下宿屋の主婦とリンカーンの人物評じんぶつひょうを試みたことがある。この主婦は、もとはその家柄はいやしからぬ者で、南北戦争のさいには南軍がたであって、最もリンカーンの政策に反対した者であったためか、リンカーンの人物を評するにも、その時の感情を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしはさんで、彼に関することならば、なにごとも曲解する傾きがあった。してこの曲解に対して、わが輩が一々弁護べんごしたところが、最後の反対論として、
「だってもリンカーンという人は非常な醜男子しゅうだんしでしたもの」
 とあたかも彼の容貌ようぼうしゅうなりしことが、最大の罪悪でありしがごとく述べた。
 これほど明らかに口に出さなくとも、これにけないほどの不合理な理由から、人の批評をしたり、歴史の事実を判断するものは許多あまたある。なかんずく無学な者か、あるいは少しばかりの学問があってもことさら婦人の仲間に多いと思う。婦人が往々にして身をあやまつなどは、これと同じ筆法ひっぽうより、人を判断するからである。あるいは一せきの歌をいて、その声が善ければその音声のために感情を動かされて、他のことにはなにも眼をくれない、ついに蓄音器ちくおんきの代用たるべき者のために身を誤ったりする。一口ひとくちにいういわゆる「様子ようすがいい」人、すなわち木偶でく同然の者のために身を誤るのはすなわちこれである。
 また相応なる位置にある立派な人でも、かたわらにいる者のために、おべんちゃらをもって、あるいは御追従おついしょうをもって、その感情をやわらげられて、判断力を失うことは歴史にたくさんある。一身を誤る理由の多くあるうちにも感情ほどだいなる力はおそらく少なかろう。
 学者の説によれば人類の進歩は思想において発達するとともに、感情はいよいよにぶくなるという。ことごとくこの議論には敬服けいふくはせられぬけれども、議論にあらずして実際において、劣等人種れっとうじんしゅもしくは修養しゅうようなき者は感情ことに小さな女々めめしい感情に左右せらるること多きを思って、僕みずから感情家たるゆえか、これこそいちばん改革すべきところであると思う。

大統領改選に現れたる米人の感情と思想

 米国においては四年ごとに大統領だいとうりょうの改選が行われる。一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。したがって候補者の数も増すために、世人せじんの議論がなかなかやかましくなる。一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。
 しかるに彼らの論ずるところをはたで聞くと、地質学者ちしつがくしゃ化石かせきを科学的に攻究こうきゅうするごとき調子がある。甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこうまさるとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が極端きょくたんに走って、容易よういならぬ結果におちいるかと思えば、政治論はそれだけで、他の点においてしたしく談話をする様子ようすは、わが国においてはなかなか見えないことで、このことはひとり政治にのみ関してしかるわけではない。日々ひびの事業について、実業家がその職業をいとなむにつけても同じこと、おのれがそんしたからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に感謝かんしゃする感情もないように見受ける。

我が商人は事業と人情とを混同する

 西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品性ひんせいすなわち商業道徳なるものをなんじている。われわれとてもいかにめたくも、日本の商業道徳を西洋のそれにまさるとはいいかねる。いな大いにおとると言わざるをえない。その理由は許多あまたあるが、僕がここで言いたいことはただ一点である。
 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしはさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高尚こうしょうらしくも聞こえるけれども、それは慈善じぜんをなすときか、友人を祝うときか、霊前れいぜんそなうるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器械きかいである。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。失敗しっぱいすると、失敗のもとたりし理由を人格視パーソニファイして、あのかねのためにたたられたとか、あの機械のために一身をほろぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこのうらみせ、なんなにがしはあれほど老練ろうれんであるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩のたおるるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないようにすすめたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。
 また事業と感情とを混同する事についていうべきことは、外国ではたとえば注文ちゅうもん日限にちげんに品物ができなければ、むろん契約破棄けいやくはきとなる。日本とても法律上はそうであるけれども、東西の違うところは、西洋ならばおたがい知人のあいだでも Business is business で、わたくしの交際と取引上のこととは別として考える。日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことがもつれてくる。ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情にうったえて申し訳をすることを計る。自分が病気であったとか、あるいは親戚しんせきに不幸があったとか、子供が怪我けがをしたとか、出産したとか、取引にまったく関係なき一家のことをもって、申し訳に供しようとする。
 借財しゃくざい返済へんさいも同じことである。もっとも借財が、一家の生計のために借りた金であれば、一家の都合つごうによって返済ののう不能ふのうも定まることであるから、感情的の理由も通る場合もあまたあろうが、借財が事業のためにったものならば、一身上あるいは一家上の都合つごうは言うべきものではないと思う。かく入るるべからざるところに、感情を入れるから、人の交際が面白くなくなってしまう。せっかくの親しい友達のあいだが破れることなどもよく目撃することである。

感情濫用らんようへいめる必要

 普通にいうしゃくさわるとか、虫が好かないとか、はなはだばくとした言葉をもって、われわれの感情的の作用さようをいいあらわしているが、このしゃく、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、統計とうけいに積もると大したものであろう。
 なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ愉快ゆかいに過ごしうるだろう。合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気にさわったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生を面白くなく渡るのは、とかくまらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれはつとめてこの害をめるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのままならってふうせよとはかつても言ったこともない。また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。
 善悪正邪せいじゃはとにかく、損徳そんとくの点から打算ださんしても、なんの必要もなきところに、感情をついやすことはおろかなわざである。僕はかつて精力の貯蓄ちょちくなる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じようなせつをときたい。
 ただ読者に誤解ごかいなきよう願いたいことは、高尚こうしょうまたは有益なる感情をも殺せという意は僕にさらにない。すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきをふくましてある積りだが、ただ感情の入って邪魔じゃまになるところに、感情をるるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取引とりひきあるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者も道心どうしん人心じんしんと区別して説いたそうである。道心は人心じんしんのその正を得たる心と王陽明おうようめいは説いたが、せいを得るとは、人欲じんよくのまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。
 すなわち客観的きゃっかんてきに冷静にものの理を求むる心である。これに反し、人心とは道心のそのせいうしなったところで、我田引水がでんいんすい的に勝手しだいの理屈りくつを案ずる心理動作どうさで、自己の感情によりて万事を判断する心である。自己の希望がものの符合ふごうすればよいが、なかなかそううまくゆくことがすくないから、結局感情にられてすことは、そむくこととなりやすい。
 さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、人身攻撃じんしんこうげきのごとき、あるいは卑怯ひきょうなる言葉におちいって、自己が弁護せんとする議題をもかえってそこなわれ、加うるにおのれの人品じんぴんまで下劣にすることは往々おうおうにして見ることである。理屈においてけたならば、一本まいったと綺麗きれいければ男らしくもあり、かえって自分の主張にどろをつけないものとなるに、おのれの議論が弱いときには、その弁護に感情をふくまして、みすぼらしい論法など振りまわす。よし皮肉ひにくをもって一時勝利を得るにしても、その実は敵にけたものである。
 ことを論ずるにあたり、悪口雑言あっこうぞうごんをはさむのは、きて、自己の主張の論拠のなきを自白すると同然である、つまり負けた証拠にほかならぬ。思想と議論はあくまでも冷静たるを要す。また実行と性情せいじょうはあくまでも熱烈たるべし。ことにあたるに果断かだんなくてはならぬが、その果断も一時的感情より来たるものはあやまりやすいから、思慮しりょの上にも思慮をめぐらして、定めねばならぬ。「果断より来たる者あり、より来たる者あり、勇より来たる者あり。義と智をあわせてしかして来たる者あるは上なり。いたずらに勇のみなる者し」



職業とこれに従事する者の不釣合ふつりあ

 世の中を見渡すと、職業とこれを営む者とのあいだの釣合いが当を得たものと得ないものとがあることは、何人なんぴとも意外としないものはあるまい。両者の関係はちょうど夫婦のようなもので、世には、もの夫婦もあれば、いかにしても釣合いの説明できぬような場合も少なくない。昔の人も円きものが三角の穴に入らんとし、四角のものが円きところにはまらんとするといったが、実にそのとおりで、おそらくなんの職業にしても、これに従事せる人につきいちいちに調べたならば、もとよりその職業につく目的をもって進みきたり、かつ現在の職業にあまんずる人は百人に一人あるや否や我らは大いに疑わざるをない。
 自分の知れる人について考うるも、現在の地位に甘んじ、かつ得意でいる者ははなはだ少ない。たまたまそういう人がありとするも、そは年来の予定の行動の一部をなしたのでなく、むしろ計らずその地位にはまったという場合が多い。
 たとえば法学士にして某職にある者にただせば、中学時代よりその目的としたる位地に達したと答うる者は百人に一人もあろうか疑わしい。まして秩序的ちつじょてき教育を受けぬ人は、おのれが望むがままに今日の地位に進める人はほとんどあるまいとまで疑われる。

難を求むる職業選定の依頼

 少し年老った者は年若い者いわゆる後進者より職業選択せんたくについて相談を受けぬ者はほとんどあるまい。あるいはすでに一定の職業にある者よりしてなお他に活路かつろを求めたき希望をうったえられぬ人はなかろう。
 わが輩もかくのごとき相談を、平均したら三日に一度ぐらいの割合に受けている。はなはだしきは簡単なる手紙をもって、自分の姓名せいめいと生年月日とをしたため、これに現在の職業を書き加えて、他に発展のみちを講じたいが、何をなしたらよかろうかと、あたかも卜者ぼくしゃたずねるがごとき信書がくる。わが輩も返事にきゅう躊躇ちゅうちょしていると、三銭切手きってを封入せる以上返事をうながす権利があると催促さいそくされたことも一、二度でない。
 いったい自己の職業選定に、ごうも知らぬ他人に相談することがすでに大なるあやまりである。前述のごとき場合には、僕はつねに親はもちろん、その他親類、親友なりもしくは土地の先輩せんぱいにしてよく当人の性質をわきまえる人に相談せよと返事する。いかにくわしくしたためても、一ぺんの手紙におのれの性質をいい現すことは、とうていできることではない。よし筆はいかに達者でも、書くべき材料、すなわち自己の性質を客観的に記叙きじょすることはおそらく不可能であろう。したがって一面識めんしきだもなき人に自分の生涯しょうがいを左右する職業の選定を相談しても、けっして満足な返事は得られぬと思う。
 ある具体的の問題あり、かくすればかくなり、こうすればこうなると、理詰りづめで判断はできるが、自分はだいたいの見地けんちよりこの問題を見る力なく、取捨しゅしゃ去就きょしゅうに迷うゆえ、いわゆる先輩の判断をうというならば、知らぬ人に対しても相当の考えを立て判断を下すこともできようが、その性質および周囲の事情に深き関係を有する職業選定は、日ごろ交際ある人にあらざればなかなか判断のできるものでない。
 おそらく職業の選択せんたく細君さいくんの選択よりもいっそう困難であろう。細君の選択には往々おうおうにして媒介者ばいかいしゃの言に一任し、しかして結婚の式を挙げたのち、始めて両者の気象きしょうの合わぬことを発見し、離婚する場合がはなはだ多い。世界の文明国中で離婚数の多きこと日本のごときはなしというも、要するに選択に注意せぬためであろう。ましてさらに困難な職業を選ぶに、見ずしらずの他人を頼み、あるいは一時の感情にかられて決定することは危険のはなはだしきものである。

感情よりする職業選択にも有利の場合あり

 わが輩はいま感情にかられるといった。わが輩はあえて感情そのものが悪いというのでない。ことにあたるには熱するくらいになるがいい。熱するというのはすなわち感情の昂奮こうふんするいいである。しかしことにあたるか否かを判断するときは、すべからく感情をけ冷静に是非曲直ぜひきょくちょくの判断を下すを要する。
 折々青年にして時々の新聞を見て大いに憤慨ふんがいし、その日の感情により自分の将来の職業を定めんとする者がある。軍国の際のごときことにしかり、将軍の凱旋がいせんを見て、おのれも軍人にならんと思い、某代議士が演説に大喝采だいかっさいを得たるを聞いては、おのれもただちに代議士たらんことを思い、あるいは実業家が拝謁はいえつを賜わりたりと聞き、おのれも実業家たらんと思うように、一時の現象に眩惑げんわくされて終身しゅうしんの方針を定むることは、必ず悪い結果をもたらすとは断言されぬが、危険きけんが多いとはいいうる。
 いったい「三つたましい百までも」というがごとく、何人なんぴとにも幼少の折、漠然とした職業選定のかたむきが心に備われるものである。いわゆる学者向きであれば研究的にできており、あるいは才子的のものもあれば、あるいは事務的のものもある。人はおのおのその心の構造こうぞうを異にしている。ただ自分も判然とそれを自覚しなければ、世間の人は無論、親さえも明らかに観察かんさつすることはできない。しかるに、この混沌こんとんたる有様ありさまのなかにも、おのずから輪廓りんかくだけはぼんやりと現れている。
 鶏卵けいらんにたとえていえばちょうど黄身きみ白身しろみもまだ判然と分かれておらぬ程度である。それが月日つきひるに従い、黄身は黄身、白身は白身と分かれ、さらに進んでは頭もでき、手も足もそなわり、一つのひなするように、きわめて幼少の折から自然的に各分業的のきざしあるものである。しかるにこの観念かんねんははなはだばくとしているゆえ、前述のごとく自己の認識にのぼらぬのである。
 しかるにある外部の刺激しげきによってこの自覚が急に鮮明となることがしばしばある。天性てんせい軍人になるべき資格をはらめる者が一じつ新聞を見て始めて自己の天職てんしょくのいずれに存するかを発見するがごときはそれで、かくのごとき場合においては一時的の感情と見ゆるものがけっしていわゆる一時的感情にあらずして、先天的感情の発揮はっきである。ゆえに職業を選ぶにつき一見一時的感情とみゆる動機によりて定むることも必ずしも誤りなりとは言えぬ。

伊藤公発憤はっぷんの動機を見よ

 一じつ横山健堂よこやまけんどう氏より伊藤公に関する趣味しゅみ多きはなしを聞いた。こうがかつて吉田松陰よしだしょういん先生のじゅくにいたとき、一夜、他の塾生じゅくせいとともにを囲んで談話しているあいだに、公は時の長州藩ちょうしゅうはんの家老が人を得ないことを憤慨ふんがいした。これを聞いていた松陰しょういん先生は、平生は女子のごとくやさしくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声をはげまして、
貴様きさまの言うごとくみずから天下を料理する考えを真面目まじめに有するなら、長州家老ちょうしゅうかろう適否てきひのごとき歯牙しがにかくるにあたいなきものである。しかるにいま貴様きさまの言を聴けば、それはやはり家老どもの力をらねば、天下が治まらぬというごとき卑怯ひきょうの意志あることを自白するにほかならぬ。そんなことで天下の大勢たいせいがわかるものか」
 と叱咤しったした。つねになき激語を発したので弟子でしどもも一時はあっけにとられたという。伊藤公は多数塾生じゅくせいの面前でかくしかられ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後帰省きせいされたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。
 伊藤公が先生にしかられたその瞬間しゅんかんに起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかとただせば、その時始めて「寝耳ねみみに水」のごとくこの教訓が公の耳朶じだを打ったとは思われぬ。また松陰しょういん先生にしても誰にでもこの筆法をもって鞭撻べんたつされたとも思われぬ。日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一しんを加えたにすぎぬ。また伊藤公にとりてはこの一言を含味がんみしうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに蘊蓄うんちくされた熟慮じゅくりょを引き出させたのである。

余の友人にも同じ経験がある

 しかしこれはひとり伊藤公のみでない。ときどき凡人の間においてもまた同様である。僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。
 彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。そののち世の中の腐敗ふはいを聞き宗教家にならんとまでかんがえ込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。
 しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一けん立ての藁家わらやの前を通過せんとした。ふと隙漏すきまもる光に屋内をうかがうと、を囲める親子四、五人、一言だもかわさずぼんやりとしてあんむさぼっていた。そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この有様ありさまを見、この考えが急に一転した。というのは親子夫婦共働きょうどうし、雪をんで家に帰れば身体すでに疲憊ひはいし、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気もせ、わずかに拾ったたきぎに身をあたため、あんむさぼるがごときはいが、どうして教育や宗教などを考うる余地よちがあろう。彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食るの道を講ぜしめねばならぬ。
 さりとて衣食の充足じゅうそくのみに進ましむればただ奢侈しゃしに流るるのみである。衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その翌日よくじつより倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたというはなしを聞いた。これだけのはなしを聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、またくわしくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。

一時の感情か否かを判断する道

 以上例示れいじしたるごとく生涯しょうがいを一貫する職業選定の決心は、能力の多少、位地の上下を論ぜず、一時の些細ささいなることのために定められる場合は決して少なくないから、前述の一時の感情に迷わさるるなというに対し、この感情は果たして一時的なりや否やという問題を、みずから提供しておのれにかえりみ、しかも冷静に自己の真意を分析するを要する。
 すなわち約言すれば熱情を冷静に考えよということになる。なにゆえにおのれはこのことにつき、かく熱するかをとくと攻究したいのである。っては思案にあたわずと、古人こじんも教えている。るとは熱するのいいである。ものを思い込むと他を顧みる余地も余裕もない、ゆえにとかくあやまちを生じやすいのである。もっとも実際にことにあたるときは他を顧みず猛進せねばならぬが、ことにあたるか否かを考うるあいだはることは禁物きんもつである。しかるに青年の一大特長はものに熱するにある。二十代前後は感情のもっとも旺盛おうせいなとき、三十代前後は手腕しゅわんのもっとも発達するとき、四十前後は知識のもっとも発達するとき、しかして五十前後は思慮のもっとも深いときである。
 青年は知識にも思慮にもまた手腕しゅわんにおいても、まだまだ不足あるかわりに、ある命令のもとに仕事するときはもっとも熱してあたる。これが彼らの特長なると同時に、方向を誤ることもまたこれより起こる。彼らは思慮も熟せず判断力もかたくないから、見るもの聞くものその他すべて五感に触るるものによりて心の底までも動揺どうようされやすい。かく動揺されるときは、さなきだに思慮分別ふんべつじゅくせぬ青年はいよいよ心の衡平こうへいを失い、些事さじをも棒大ぼうだいに思い、あるいは反対に大事を針小しんしょうに誤る傾向がある。これも無理ならぬことで、実際のことにあたり責任の地位を踏めることなき者は、なかなかに自己の言行のおよぼす範囲を適当に計量けいりょうすることはできぬ。青年にこの弱点あることは青年自身も承知しょうちしている。承知しているゆえ、いわゆる先輩せんぱいの意見をたたき、職業を選定せんとするのである。
 しかし先輩がいかに思慮あるとも、いかに判断力をそなうるとも、青年がある事に熱するゆえんを容易よういに判断しうるものでない。たとえば政治家たらんと熱する者ありとせよ、なにゆえに政治家たらんと熱するかと聞かば、必ずや天下人心の腐敗ふはいとか、政党よろしきを得ぬとか、ひととおり何人なんぴと首肯しゅこうするような理由を述ぶるであろう。しかるにこういう漠然ばくぜんとしたことでは、なかなか熱心ということは起こりがたい。ゆえにさらに深く立ち入りてその理由をただせば彼の熱心せる理由は必ずしも政治に関係するものでないようなことが出てくる。
 ぼうが自分の村に政談演説したとき熱烈なる拍手喝采はくしゅかっさいを得た。それが彼の心を動かしたという場合には、彼の熱心は政治のためにあらずして拍手喝采のためである。拍手は政治にあらず。また実業家を志望する人に聞けば日本は貧乏びんぼうであるときまりきった議論を述ぶる。しからば今日急にそのことを思いつき、その方面に猛進もうしんせんとするこころざしはなにより起こりしかとただせば、これまた実業になんの関係もなきことが導火線どうかせんとなれることがある。
 たとえばぼう令嬢をしたいたるも実業家ならねばせしめぬというを聞き、実業を志望したというがごとき滑稽こっけい的動機すらも現にわが輩の耳にしたところである。かくのごときはおそらくは自分も知らずに行えるので、滑稽こっけいな動機に動けることに気づかずにいるのであろう。

感情的誤解の根本原因

 かくのごとき誤解ごかいしょうずるのは、要するに自分の一個に関する具体的の事実をば、抽象的ちゅうしょうてき文字をもって説明するから、その説明がかえって真情を離れ、世間に対する聞こえはよいが、実際にはあてはまらなくなるのである。抽象的の文字を使えば意味の範囲がひろくなり、高尚こうしょうに聞こゆるかわりに、また他の意味をも含んでき、したがって自己の場合にまったくあてはまらなくなることがある。たとえば飲みたい食いたい、それについては金をもうけたい、金を儲けるために何品なにしなを幾円で買い、これを幾円で売れば幾円をもうけるという具体的問題ありとする。この動機は飲食のよくである。これを満足する方法として商売し、商売の目的は何千百円をもうくるにある。ことを始むるときはしかく具体的に細密にもくろみするが、しかしこれを人に語るときは私は実業に従事するという。
 実業といえば抽象的文字である。したがって意味が広い。そのなかには商売のみならず、工業農業も入る。保険、運輸の事業も入る。これに従事するとなると丁稚小僧でっちこぞうとなり自転車で走ることも、炎天えんてんのもと、裸足はだしで畑に草取りするのも、自動車で会社に出勤することも含まれ、範囲が非常にひろくなる。なにを商売して何円もうけるという具体的希望が、実業従事という抽象的ちゅうしょうてき言葉にいい現されると、実際から遠いものとなる。
 物理学にいう固形体こけいたいのものを流動体りゅうどうたいに変じ、ガスたいに変ずるがごとく、かさは大きくなるけれども、つかみどころがなくなりがちである。ゆえに職業を選ぶにはそもそも自分がある職業を志願しこころざしを立てたときの具体的境遇きょうぐう情実じょうじつをしずかに考うると、その志望がいかに根底あることか、また一時の軽々しい動機に起こりしかわかるであろう。
 すなわち抽象的ちゅうしょうてきのひろい意味の言葉を用うるにいたったもとにさかのぼって、しずかに考えると思い半ばに過ぐるものがありはせぬか。大きなひろい意味の言葉を用うるときはしばしばみずかあざむくことがある。わが輩はとくに職業を選定せんとする青年に自己の動機を回顧かいこせんことをすすむ。先人の言にいわく、
およそ人事を区処くしょする、まさずその結局をおもんぱかり、しかして後に手を下すべし、かじきの舟をなかれ、まときのを発するなかれ」と。
 してかじるとき、を放つときは心静かに落ちつけて、よくよくおのれの力先きの方向に留意するを要する。



いつも若い人

 目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気象きしょうがなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっともとうとぶべき、高朗こうろうなる性情が消えるのである。「大人おとなにしてなお赤児あかごのごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気概きがいうしなわずにあるを要する。「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち生木なまきのようなる弾力だんりょくがあって、世の変遷へんせんとともに進む能力を保留している。「老木ろうぼくまがらぬ」とは邪道じゃどうに迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。
 およそ何事においても行きづまれるは見悪みにくきものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯木かれきに弾力なきにひとしく実にみすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると小成しょうせいやすんじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称しみずから安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだとうを得ないことではなかろうか。欲心よくしんと理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。
ことたればるにまかせてことたらずらでことたるこそやすけれ
 という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「ことたるこそやすけれ」というような、安心の時代はとうてい到来とうらいせぬであろう。
 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形而下けいじかのことをのみ欲するを理想と呼ぶのはだいなる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるはとうを得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。
 なんとならば月給とかその他の物質的形而下けいじか事柄ことがらについては不足をあまんずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸給ほうきゅうが上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服かんぷくできぬ。上がらなくとも喜んでいたい。いな下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「われは得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の井戸いど水枯みずがれした」のである、遼遠りょうえんなるべき前途を放棄ほうきしたのである。
 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若死わかじにをすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命ちょうめいと呼ぶ、なんの不可ふかれあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるやひとしく遼遠りょうえんなりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大ほうだいなる理想をいだくべきである。

回顧反省

 世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡人ぼんじん、あるいは凡人以下の者は、姑息こそくかは知らんが、前途をして遼遠りょうえんならしむることをつとめ、われはたしてかかる大理想ありやいなやを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子のまなこよりせばあるいは児戯じぎに等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状をいんしてこれを現今の実際と照合し、もって理想の規矩きくにあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日めいにち、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退しりぞいてははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆戻ぎゃくもどりせぬかと深くかえりみるのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。
 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人のすすめとか、時勢の変遷へんせんとか、娯楽ごらくの必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌剌はつらつたる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己にかえりみるにくはない。かえりみて退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮励ふんれい努力どりょく一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの工夫くふうである。要するに脳髄のうずいのうちに折々大掃除おおそうじを行って、すすごみあくたえだ等をみな払うことをしたい。

心機一転

 われわれの年寄るというは精力の枯れるのいいである。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老耄おいぼれたくない。よし老耄おいぼれても、愚痴ぐちだけはいいたくない。
 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老行おいゆくとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色香いろかを増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を刷新さっしんすれば、甦生こうせいするのいきおいをあらわす。死灰再燃しかいさいねん、人も同様、身体が弱れば食物しょくもつを変えたり、転地療治りょうじをしたり、温泉にゆあみしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。
山深くなにいほりむすぶべき心のうちに身はかくれけり
 一身を物的境遇より退しりぞかせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒麟きりん老ゆるも駑馬どばに劣るに至らざる工夫くふう。木は根あればすなわち栄え、根やぶるればすなわち枯る。魚は水あればすなわちき、水るればすなわち死す。ともしびあぶらあればすなわちめいあぶら尽くればすなわちめっす。人は真精しんせいなり、これをたもてばすなわち寿じゅ、これを※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)そこなえばすなわちようす。

一年二回の花盛り

 かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の津々しんしんたる興味に感嘆する。意訳すれば、
「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」
 嗚呼ああ実に然り。人生の起これる所以ゆえんのものは終りをまっとうするにあらざるか、ことに始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の発芽はつがするは花咲き、を結ぶため、人の生まるるはじゅくして死するためなれば、幼少青年時代は準備じゅんびの時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を憧憬しょうけいするはちょうを花を楽しむに異ならない。なるほど若年のころははなやかなるはいうまでもないが、頭の白きも、ひたいの波も、華化かかすることはできぬであろうか。
 俗のことわざにいう「老木おいきはなかす」とは不可能なるか。僕は『古今こきん和歌集』のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老のを放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。
色変はる秋のきくをば一年ひととせにふたゝびにほはなとこそ



かえるの筋肉の力をはかりし学者の試験

 かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろくとどろいているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の講釈こうしゃくを一度聞きにいったことがあった。医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に印象いんしょうし、今日もなお忘れない。
 試験はかえる筋肉きんにくを取ってこまやかな糸のごとき一部分をはかりにかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質をささえうるか。すなわち筋肉きんにくの力を証明する主意と心得た。この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍(何百倍?)の重さをみごとにささえたので、学生が大いに拍手喝采はくしゅかっさいして、なおいっそう僕の印象を深めた。
 たぶんこの簡単なる、また素人しろうとにも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、門外漢もんがいかんの僕には人体(試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと想像そうぞうする)の内に恐しき力の潜伏せんぷくしていることを思った。この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を発揮はっきしえたなら、おそらく今日十五、六貫目かんめの我々の五体をもって、米の四、五ひょう朝飯前あさめしまえに二、三里の道を運搬うんぱんすることができよう。
 僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは胃弱いじゃくだのと、その他種々の故障こしょうのために、天賦てんぷの力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に潜伏せんぷくせる力について深く考えたい。

最善をつくしても余力よりょくあるように思う

 たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、おれは今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。
 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれをうらまぬことはない。
 文章を書いても同じことである。
 ある問題について討議とうぎしても同じことである。おれはも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心じふしんであろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。
 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮はっきするが、第三段の深さに潜伏せんぷくする力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、
「お前はまだおれの力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」
 と物事につけてしかるような心地がする。

潜伏せる余裕よゆうを示す幾多の実例

 たぶんこの知覚ちかくについてはわが輩と経験を同じくする人が許多あまたあることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕のたくわえだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。
 おたがい、世を見渡しても、一見優雅ゆうがなる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉ふきつであるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのをめるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉きんにくに力のひそんでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、ひなやしなっている雌鶏めんどりかたわらに、犬猫いぬねこがゆくと、その時の見幕けんまく、全身の筋肉にめる力はほとんど羽衣はごろもてっして現れる。
 あるいは今にわすれぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩ほうばい三、四人と山遊やまあそびしたとき、森の内で火をいたかどをもって、近所の百姓ひゃくしょうに追われていのちからがら落ちのびたことがある。そのその場におもむき実地踏査とうさげたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流をおどりつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層にひそんでいる力を出したかと思われる。

余裕よゆうを存することと全力主義

 わが国従来の教えとして全力を出さぬことをめる。すなわち余裕よゆうしゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備がひかえているぞという態度である。
 この態度は独りわが国ばかりではない。何国人なにこくじんといえども尊敬するところである。リンカーンの年をるにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味うまみを感ずる。
 これに反し、張りきっておって、二十貫目かんめの力を二十貫目始終しじゅう手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人ごじんの深い尊敬にあたいしない。
 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力をそそぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物きんもつだというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。
 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意にそむく。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。たねまでもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕よゆうたくわえておいてこれをたねとして進みたいと思うのである。もっともこれはたとえの言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。

人の力は出せば出す程ふえる

 右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾むじゅんしないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一もんめも残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直しょうじきな男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したとなしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいったおれは第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層にまさる第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二ぶんの力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)のだいを知る。
 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾むじゅんしないことも察せられるだろう。

静坐せいざ黙想もくそう潜勢力せんせいりょくを増加す

 昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信をわらわんがために一夜墓地に散歩して石碑せきひたたいて幽霊ゆうれいがあるものならあらわれよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼ああ博士よ、君にして幽霊ゆうれいを見るの望みあるならば、なんぞ墓場はかばに行くを要せん。おのれにかえりみれば霊魂のおのれにひそんでいることが明らかでないかと論じたが、吾人ごじんも少しく心静かにおのれをかえりみると、銘々の内にひそんである力の偉大なることを感ずる。
 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するにかえりみるだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭ぼっとうする者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗しょうもうするおそれあるをみる。努力奮闘を標榜ひょうぼうする者も静坐せいざ黙想もくそうをすることは潜勢力せんせいりょくを増加するのもっとも得たるさくだと思う。

一日に一回でも黙想せよ

 いかに繁劇はんげき生涯しょうがいを送る人でも、折々いわば人生より退しりぞいて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。
 僕の祖父はかつて禅僧ぜんそうについて、いったい禅学ぜんがくというのはどんなものですとやぶから棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊主ぼうずであれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵をろう、前に進もうという考えで齷齪あくせくするあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退しりぞく余裕があれば、その突嗟とっさに敵のすきがわかる。そこで勝てる。この一歩退しりぞくところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかくたとえは不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分別ふんべつある読者は僕の真意を味わわれるであろう。
 僕のいわゆる折々退け、折々冥想めいそうせよということは、単に不精ぶしょう寝転ねころんでおれ、不精にかまえろというのとは大いに違う。また折々という文字がばくとしたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかにいそがしい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、またこいねがわくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境涯きょうがいに入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠遁いんとんせよということではない。
 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁世とんせいのごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる境遇きょうぐうにあっても平旦へいたんの気を養う機会のなきはない。松平楽翁まつだいららくおう公の書室めいいわく、「寧静ねいせいれ心をやしなう第一法」と。



幼少時代の理想の回顧かいこ

 毎春まいはる年の改まったについて、年ごとに起こる感じが再びで、おれはもう幾歳いくつになったなアと、年を数え二十年前、三十年前に比べて、どれほど進んだか思いくらべると、ただ恥ずかしきことばかり多い。青年のとき描いた理想が、いわゆる世の中の実際にれて摩滅まめつしたこともあまたある。しかし年に較べれば、自分ながらまだ理想を割合い余計にいだいておるがごとくに信ずるかどもないではない。
 僕が三十六のころ、ドイツ見物に数週間ベルリンについやしたことがあったが、その際ある文士に会って、四方山よもやまの文談を聞いたときに、話がゲーテとシラーに移って、両氏の性格および文才と、後世に及ぼせる偉業を論じた。そのとき僕はその文士にたずねた。
 カーライルが、かつてゲーテをめたなかに、青年はとかくシラーに憧憬あこがれて、ゲーテをうとんずるの傾向があるが、三十歳に至れば、思慮しりょもややじゅくし、人生のなにものたるかもいくぶんか判明し、ここにおいてかゲーテの偉大なることを認めてシラーの若気わかげを捨てるにいたると説いてあるが、僕は今日こんにち三十よりむしろ四十に近い年になるが、ゲーテとシラーのいずれを好んで読むかといえば、まだシラーを選ぶの心地ここちする。おそらく僕の精神発達のいまだ幼稚なるを証するのではあるまいかと、みずから疑うことが多いと告白したところが、かの文士は、それは君は心配するにおよばない、ドイツ人のうちにも、今日なおシラーをして、思想においてははるかにゲーテにまさるものなりと称嘆しょうたんする者はけっして少なくない。むしろシラーを好んで読む者は、精神未熟といわんより理想高き性格の高潔なるをしょうするものだ、といって僕をなぐさめてくれたことがあったが、かくいえば、あるいは新渡戸にとべやつめが自分の不足なるところを、ていよき言葉を用いて隠蔽いんぺいし、あん自慢じまんするごとくに聞こゆるでもあろうが、正直に自白すれば、近来になって僕もゲーテを尊崇そんすうするの念が、十年前にくらべて増してきた。
 しかしてゲーテ崇拝すうはいの念の増すのは、さきの某文士のげんによれば、あるいはみずか俗化ぞっかして理想の光明こうみょう追々おいおいうすらぐのそしりを受けるかも知れぬ。僕がここに話をすることはそしりを受ける受けないが問題ではない。みずから君子ぶるのをいとうがため、横道ながら注解的に右のことを述べて、再び本題に立ち返って話をすれば、年を追うに従って俗化する危険きけんあるを思うがゆえに、つとめて幼少の時にえがいた理想をやしなうことは年々歳々ねんねんさいさいれゆく心の色香いろかを新たむるの道であろうと信ずる。

米国で僕の深く印象された米人の理想

 過般かはん渡米の日、数多あまたの著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物にれ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。
 いわゆる黄金崇拝おうごんすうはい物質的の米国などと綽名あだなされてあるこの国民が奢侈しゃし贅沢ぜいたく弊害へいがいおちいる傾向が割合いに少ない。換言かんげんすれば一方には巨万のとみを積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気前きまえと精力は、この国民の大いに買ってやるべき気象きしょうである。
 わが同胞どうほうはだいたいにおいて貧乏びんぼうであるから、富貴ふうき誘惑ゆうわくなるものを知らない。貧乏人びんぼうにんが金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその誘惑ゆうわくもよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持にくらぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。

最も貴ぶべき青年時代の理想

 世界を動かすものは思想である。暴力で一時国をてることもできるし、国をほろぼすこともできる。産業で国をてることもできるし、産業で国が廃頽はいたいすることもある。学芸によって国の勃興ぼっこうすることもある、学芸によって国が惰弱だじゃくに流れることもある。あるいは思想においても方向をあやまると、いかなる極端に落ちることがないともかぎらぬが、武力でも学力でも、芸術の力でも、健全なる思想が真先まっさきに立って指導するにあらざれば、国家も社会も個人も、なんのために存在しておるかを解しないでしまう。
 して思想と一口にいうものの、世の中の欲もすなわち名誉も富貴ふうきも知らない清浄無垢むくの青年時代に起こる思想が実にとうとい。ゆえに年とともに若い思想を強めたいと思う。あるイギリスの文豪もかつて言った、
「偉大なる人物とは成熟せる脳髄のうずいをいただいて、なお幼少の心をいだくものなり」と。
 すなわち大人にして赤子あかごの心を失わない者のいいに外ならぬ。

今の青年会と昔の若い衆

 とかくに若い者といえば、むしろ青年の弱点を指す意味合いがある。近ごろこそ各地方で青年会がさかんに行われて、その目的は実によみすべきであるが、同じく青年の会合でも、三、四十年前に行われたるものは、若い衆の寄合いと称して、若い衆といえばろくでもないことをする者、思想も理想もなく、ただ放埒ほうらつに時を移す者のごとく見なして、老人もこれを許し、また青年自身もこれを許して、その言行の正しからざることがあっても、みずからも世人もとがめなかった。
 普通教育のいまだ一般にいき渡らないときは、かくのごときことも無理でない。教えてくれる設備もない時代と場所に生まれ育った者は、ただこの世に出てきたというのみで、もの言うからこそ人間に違いないが、その他の点においてはむしろ動物に近い。ゆえに動物的の行動をとっても無理ならぬことであった。
 人の動物と違うところは思想あるがためで、この思想なるものを養わない以上は、禽獣きんじゅう髣髴ほうふつたるものである。そこで人をはかるに、いずれの定規じょうぎをもってするか、動物的の標準をもってするか、向上的すなわち思想の上下をもってはかるか、用いるはかりによって人に対する観念がちがってくる。すなわち動物的の定規をもってすれば、若い衆の飲酒にふけったり夜遊びするのは、普通一般のことでめるほどのことでなくとも、とがめることではない。しかるに思想の標準をもってはかるときは、なにか一種の思慮しりょを持たぬ者は、人間のごとくにみなさない。近ごろの青年会と昔の若い衆と違うのは、高いほうの標準を使うからである。

幼年の理想は今いかにへんじたか

 ただ思想の発展にはとかくに障害物しょうがいぶつがあって、くじけやすいもので、たとえて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年る間には風も吹けばしもも降り、雨もあたればひでりもある。そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分もぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。すなわち種無しになってしまう。
 僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心にかえりみることは、幼少時代の思想と今日と、どれほどへだったかというかどである。これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。
一、幼少のおり、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘却ぼうきゃくせずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。
一、子供のときに飲んだくれの醜態しゅうたいを見て、おれは酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。して年るごとに、今日おれのなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。
一、幼少の折、学校で学問の大事なことをいて、よし学者にならなくとも、勉学読書はいとまあるごとにおこたるまいと思った。年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。
一、幼少の折、かつて、あるところで話を聞いたことによって、人をうらにくねたむことは、下品なものということを大いに感じたことがあったが、年るごとに今日ははたしておれが人をうらまないかにくまないかねたまないかと昔にくらべてみる。
一、幼少のときにある放蕩息子ほうとうむすこが身をあやまって、自分のみならず大勢の人に迷惑めいわくやら心配をかけたのをみて、婦人関係は深くつつしむべしと決心した。年たる今日において、はたしてこの思想どおり身をしょしておるか。
一、賭博とばくのよろしくないことはつくづく親の話によって承知し、いかなる誘惑ゆうわくがあるとも、賭博とばくなどには手を出すまいぞという思想をいだいた。年た今日において、はたして幼少の思想にかなう行いをするか云々うんぬん
 というように、問題をかかげていちいち実際と、思想というか理想りそうというか、かつておのれの心の、向上したときに抱いた考えと引きくらべてみると、年るにしたがって、むしろ堕落だらくしたことを発見する者が多くなかろうか。読者のなかには、僕のいうことがはなはだ子供らしい、迂遠うえんなことだ、世渡りの道を知らぬとなじる人もあろう。僕も甘んじていわゆる世渡よわたりの道にうときことを自信する。僕の世渡りの道と考えることは、低い標準の上に立って行くよりも、高い程度の所にぶら下がってゆくことにしたいと日ごろ念じている。

主義を抱ける者の世渡りの覚悟

 一種の思想をもって世渡りをくわだてる者は、同じ思想をいだいている人のうちにはもっともよく受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あるいはなんの思想をもいだかずに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ印象いんしょうを与えるがために、とかく彼此ひしの批評を受けたり、あるいは、ときにはそれがために迫害はくがいしのがねばならぬことは承知せねばならない。
 普通にいう世渡りの上手だというのは、ただ無主義で無定見むていけんで無思想で、流るるままに浮かんでゆくを称するのであるが、いやしくもいずれかの主義を抱いた者は、一時調子よいことがあっても、浮き沈みのあることは覚悟せねばならない。またこの反対の勢力の風波ふうはに会わなければ、思想も練ることはできない。
 僕がもっとも崇拝すうはいする人物はキリストのほかにソクラテスとリンカーンであるが、二人とも生きているあいだに名声さかんで、一時流行児はやりっことなって大いにもてはやされたが、ついにその最後は世人の皆知っているとおりである。

理想家に対する世論の変遷

 ルーズベルトに対する世評の動くこと、実に驚くべきものである。かつては同氏を攻撃し、ほとんどたおすばかりの語調が新聞や雑誌に表れ、また僕が直接話をした個人の言葉にもしばしばあらわれたけれども、そののち誰いうともなく、同氏の名望が再び回復されつつある。僕はまだ同氏に面会するの機会を得ないが、氏の人格と、ことに氏が思想の人であることは彼のいうことなす事々ことごとによって明らかである。彼をきらう人も、彼をむる人も、彼の人格より彼の思想について判断することを思えば、昔も今も思想家はその思想を天下に刻印するには、血をもってするの覚悟がなくてはならない。といって誤解のなきことを欲するが、われに思想あり、この思想を世に伝えんがために早くわれを殺せといわんばかりに、めざましきを好む演劇的な挙動をほしいままにして、わざと反動を招いて、かえってはなばなしくたおれることを望むのが宜いと言うのではない。できるだけ穏便おんびんに平凡に、自分の思想を実行することにつとめることが肝心なので、これがわれわれ日々の務めである。
 偉大なる凡人ぼんじんとなるは平凡なる豪傑ごうけつとなるよりも、はるかに上乗じょうじょうであると思う。米国に行きてことに感ずることは、この国には偉大なる凡人の多きことは、ほとんど日本において平凡なる豪傑の多きがごとくである。凡人をして偉大ならしむるのはそれ思想。思想ほど恐しき力はない。人の動くのはみな思想の力によるのである。すなわち世の細事大業たいぎょうも機械にたとうれば思想なる原動力の発現にほかならない。これを草木にたとうれば、みどりやなぎくれないの花と現れる世の変化も思想なる根より起こるものであるから、なにはさておき根の培養ばいようおこたれない。根さえ確かなれば、みきなり枝なり葉なり花なり自然の結果として栄える。
 誰人たれびとも経験あることならんが、だんだん年とるについても、若きとき思い込んだ思想が、なにごとについてもヒョコヒョコと胸底に浮かびで、あるいは邪魔じゃまし、あるいは手伝いし、われわれの今日の仕事に関係を絶たない。
「三つの心は百までも」「老馬みちを忘れず」という。青年時代に植えた種子たねは、よかれ、しかれ、いつまでも身辺にまといつく。
 古き書にもあるとおり、「なんじ一度ひとたび水田に種子たねけ、数日をて収穫すべし」と。われわれひとたびける種子たねむくいは、われわれ自身が刈らねばならぬ。若い時に植える種子たねは、後年植えるものよりいっそう深く根を張る。
植ゑし植ゑばあきなきときかざらんはなこそらめさへれめや
 とあるごとく、単に植えさえしておけば、秋のない年はいざ知らんが、いったい一年間に秋のなきはずはないから、必ず秋がくるに相違ない。その秋がくれば、草木の性質として花を咲かす機会到来は必定ひつじょう。けだし去年の花はしまったく散りおわっても、根さえ枯れずに健全なれば。



犬車の前に垂れ下げた肉片

 僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺やまとへんあるいは東京でもときどき見る犬車けんしゃというものがある。すなわち犬にかせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩骨けんこつの構造から考えても、車をくようにできておらぬが、とにかく方々ほうぼうで行われている。
 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬にかせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。なぐってもたたいても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪戯いたずらの小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれをおうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。
 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。

理想はどこまで行っても達せられぬ

 カーライルはかつて、「いかなるいやしい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない」といった。なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実されたあかつきにおいて始めて達せられるのである。
 しかるにその理想はけっして満足されるということはない。またないはずである。人間は一を得ると第二が欲しくなる。第二段にのぼると第三段が欲しくなる。どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。いまのカーライルの言にあるとおり、いかなるいやしい、路傍ろぼう乞食こじきでも、腹がいているときに握飯にぎりめしを与えると、「三日も食わずにいたが、これは結構」といってありがたく頂戴ちょうだいする。も一つろうとすると今度はそうありがたく思わない。
「塩加減が悪いから塩をまいていただきたい」「こうの物をつけていただきたい」
 という注文が出る。
 三つめには、「握飯にぎりめしばかりではなんですから塩引しおびきでも」という。
 四つめには「塩物ばかりではのどかわく、刺身さしみを」といいだす。乞食こじきのごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。
八百膳やおぜん」の料理をおごられても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。帝国ホテルの御馳走ごちそうでも、たびかさなればいやになる。食物だけのことを望めば、人間はいかなる酒池肉林しゅちにくりんれても永く満足はせぬものである。
 人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。また得られぬはずのものである。この乞食こじきが三日もめしを食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものはである。握飯にぎりめしでも食いたいというのが彼の理想である。彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実の理想である。腹がいっぱいになり刺身さしみが食いたいというのは、腹の理想でなく、したの理想である。あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人にめられたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、虚栄心きょえいしんたす理想である。同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれをたす物体も変ってくる。自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉にあこがれて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。

理想は早晩そうばん実現せられる

 あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。
 理想という以上は、合理的にして、分度ぶんどある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾人ごじんの在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量ではかるものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔梗ききょうでも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、桔梗ききょうの花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。
 僕はつねに思う、一の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から天女てんにょを見ると、羽衣はごろもを着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち羽根はねが交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意匠いしょうには羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。
 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、かみほとけに祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早晩そうばん達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から小判こばんの降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、欲想よくそうである。実現せられぬのは理想でなく空想である。

理想を行為に翻訳ほんやくするが人生

 理想は何人なんぴとでも、きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶蘇教やそきょうで教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。
 人はなんできているかというに、理想で活きている。ただ呼吸いきするだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯にぎりめしでも麦飯むぎめしでもよいけれども、この世に生きている甲斐かいには、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまにきていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。
 理想という原語げんごを行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。

誤って翻訳した実例

 この翻訳はなかなかかたい。原文を精確に会得えとくしなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳にまずい生活を送っている。
 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西丸にしのまる近所を通って登城とじょうするさい、外国人が乗馬でその行列のはな乗切のっきった。殿様はもとよりその従者も一方ひとかたならず憤慨ふんがいし、殿とのはただちに通訳をし、
なんじは言語もわかることであるから、あの人の無礼をただしてその場で切り捨ててこい」
 と命じた。通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、
「私の主人なんのかみという大名が登城とじょうの途中に、貴方あなたの馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋のくらが面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗人のりても見事に乗っている、あの外人にお頼みしてくらを見せてもらうことはできまいかと申します。途中でおめ申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が駕籠かごをおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕籠かごの前に来て見せてくださらぬか」
 という。外人は得意になって、駕籠かごのそばに来たりくらを見せんと下馬し脱帽して挨拶あいさつした。そのとき通訳官は、
「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にもいのちだけはおゆるしをねがいたい」
 と申し上げる。殿様も外人が下馬げばして脱帽だつぼうしわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、
「見事なおくらを拝見してありがたい。駕籠かごのなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」
 という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことははじめてで、名誉めいよなことであると喜び、再三脱帽だつぼうしたあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、
「苦しゅうない、苦しゅうない」

最大侮辱ぶじょくを最大敬礼とした誤訳

 翻訳というものはこうもできるものだ。しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。幕府ばくふ時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。
 かみをチョンまげい、かみしもけ、二本さし、オランダへ行った。これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけえ、その毛がつっ立っているそうだ。これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから宮廷きゅうてい拝謁はいえつに出かけた。何万という人々は沿道に立って異様ななりした日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。なかには吹き出すもあれば、あらゆる侮辱ぶじょくを使節に加うるもあった。おそらく日本の侮辱法ぶじょくほうの最大なるものは「しりをまくってたたく」ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。そのかわりに双手を開いてはなの前にならべて人をぐうする侮辱法がある。日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法となし、無礼の極とし、日本人がしりをまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。
 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らがはなの前へ手を当てワイワイいっている。使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、
「あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである」
 といった。そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮廷きゅうていに達し拝謁はいえつするとき、使節は玉座ぎょくざの前でみな手を鼻に当てた。陛下へいかは大いに驚き、自分に侮辱ぶじょくを加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままにはておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。陛下もなるほどそうか、それではちんも遠来の大使をぐうするに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。
 通訳というものはこういうこともできる。僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。笑うとともに思いあたることがある。すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一すんも違わぬことがありはせぬか。

理想の翻訳を誤るものが多い

 たとえば男女の心中しんじゅうのごとき、二人が夫婦になるのを理想とするが、不義ふぎの交際は親も許さず世間も認めぬ。この世で晴れて一緒になれぬなら、むしろあの世で蓮華れんげの上にということになる。
 かくのごとくその理想なるものを実行するさいにその翻訳の任にあたる自分の考え一つで、勝手かって次第に意味をとる。ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方によってははなはだもっともでない実行に現れることが間々ままある。たとい商売人でも役人でも、書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。はなはだしきは人身攻撃じんしんこうげきをする者もある。して彼らの理由をただせば、人間が世の中にいる以上は、優勝劣敗ゆうしょうれっぱいの原則にしたがい競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をする。敵をたおすにはいかなる手段方法をも用いる、うそをついてもかまわぬというは、優勝劣敗あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。
 僕はたびたび耳にすることであるが、学校で試験のとき、狡猾ずるをやる学生がある。それを呼び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。試験に不正を行ったのは一つの理想より出たことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこうこうだとあわれげな話をする。してみると君が試験に狡猾ずるをしたのは、親孝行のためにしたというのか、「そうでござります」という。こういうことは間々ままある。
 愛国忠君などということを口癖くちぐせにいう人にはこれが実行の翻訳をあやまる人が多い。愛国だといってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人がある。
 明治二十年ごろ、国粋主義こくすいしゅぎのさかんなとき、途中で外国人の婦人につばきかけた学生があった。なぜそんなことをなしたかと訊問じんもんされたとき、国体を発揮はっきするためだと答えた。愛国ということはよく聞こえるが、これを実行に翻訳するときは、オランダの通訳官と同じく勝手にする。
 むかし英国の学者ジョンソンは愛国心ほどあやしげな心はない。いかなる悪党も愛国なる言葉を用うれば、犯罪をなすことができるといった。
 明治十ねんごろまでは強盗ごうとうしたり乱暴狼藉ろうぜきした者に、なぜそんなことをしたかと聞くと、国をうれいて大いに旗上はたあげするつもりであるといった。また地租ちそ改正のとき、あっちこっちでさわいだ。このとき重税を課しては国のためにうれうべき事であると、佐倉宗吾さくらそうごを気取ったまではいいが、佐倉宗吾のように命を捨てたかといえば、なかなか捨てるどころか、かえって強盗ごうとう強姦ごうかんしたものもある。これが愛国だということはちょっとわからぬ。とかく愛国とかあるいは何々の主義だといって議論して歩くあいだはよく聞こえるけれども、これを実地に行うときは、翻訳が間違いやすいゆえにわれわれがいやしくも理想をいだくという以上、その理想なるものを実現するにあたって、理想の品位を下げぬように行為に現すにあらざれば理想でなく、妄想もうそうであることを一言したい。

理想の実行は位地の有無に関係せぬ

 近時理想ということが一つの流行語になり、成功せいこうはいうにおよばず失敗をも理想にする傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退しりぞいて、これは自分の理想を実行するのかいなかと考えたいと思う。たとえば愛国の理想をえがくならば、戦争のとき、馬背ばはいにまたがって功名こうみょう手柄てがらをするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為をげるみちはある。
 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想としてよみすべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。
 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよくただしてみると、真に教育のためにつくしたいこころざしよりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云々うんぬんというのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈たいかすまいすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬丁ばていになるのがこの人の理想にかなっている。
 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかとせんじつめると、実業家は美服をけ茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間ほうかんでも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高尚こうしょうらしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。
 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官しがくかんになる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとかたたくとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒てんとうし、下に肉月にくづきがついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまずうまいものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下女げじょ下男げなんの教育もできる。また自分の女房にょうぼう子女を教育することもできる。
 むかしの立派なる教育家貝原益軒かいばらえきけん中江藤樹なかえとうじゅ熊沢蕃山くまざわばんざん等はみなじゅくを開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。藤樹とうじゅのごときは村を散歩することが教育であった。ひとそのものが教育である。
 人が真に教育家なら笑っても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手きょしゅ、一投足とうそく、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想にち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。位地を選んで大臣、局長、課長にならねばならぬということはない。文教の職にあたった政治家は、たくさんあるけれども、なんらの功績を残さぬ者が多い。明治以来文部大臣となりし人のなかで、今日まであの人の時にこういうことをしたと記憶される人はきわめて少ない。僕は文部省を攻撃するのでなく、ただ説明の便宜に引例したのである。して僕のいうことは教育のみに限らない。他の官衙かんがにおいても同然である。
 また西洋でも同じである。各国の教育史を見てもペスタロッチ、フレーベルなどは自身で鼻汁はなじるをたらした子供を集めて教えたということは残っているが、役人になったかどうか、世人せじんは問わない。われわれの理想を翻訳するに、どの位地、どの椅子いすすわらなければできぬというものでない。位地を得ればなお良いかも知らぬが、位地ばかりが理想を達するゆえんでない。否々いないな位地を得たため、かえって理想を失するやからが多い。理想は椅子いすにあるものでないから、椅子を得たによってまっとうするとはいわれぬ。もし椅子によりてなしうるなら、人でなく椅子が働き、人は椅子の道具に化するようなものである。

理想は所在に現れる

 しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人にめられたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶるいやしむべき野卑やひなる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢おわいおおうために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹とうてつするならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。
 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕よゆうがありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地ここちのよいことがある。西郷隆盛さいごうたかもりのそばにいると心地ここちよくおう身体からだから後光ごこうでも出ているように人は感じ、おうは近づくとえりを正さねばならぬほど威厳いげんがあった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいてもれて失礼することはできぬというふうであった。これ全くおうの心のそとにあらわれたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
 理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅子いすすわらなければ理想が行われぬというは、下手へたな職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥棒どろぼうするの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。ぬすむ気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。
 聖書に「人をにくむは人を殺すなり」という意味が書いてある。人をにくむのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴きゃついややつだ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければひろうということは遠くとも従兄弟いとこ同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。
 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘惑ゆうわくおちいらんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険をだっしたということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑近ひきんな小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。

ここにく火のけむりなりけり

 昔のある皇后の御歌に、
もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝにく火のけむりなりけり
 われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐土もろこしの山のかなたに立つけむりのごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧憬あこがれているという青年男女などは、日々学課をそっち退けとし、月や星をながめ、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。
「ここにく火のけむりなりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵界じんかいを去らねばならぬものでない。われわれは山へむもよい、塵界じんかいを去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の作用さようである、実際は身体の作用である。心と身体からだとは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。
 実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信



夢は迷信としてしりぞくべきか

 年が明けて、来たるべき一年間の出来事をぼくするためか、あるいはまた過ぎた年の厄払やくばらいのためか、正月の二日に、宝船たからぶねまくらの下に敷き、めでたき初夢を結ぶことは、わが国古来の習俗で、いまもこのふうを行うものが何万の数に達するであろう。文明の今日になって、なおかくのごとき迷信が行わるるといって、これを憂うる人もあろうが、また一歩しりぞいて考えると、これを迷信と非難するものの、はたして迷信であるか否かと反問するの余地があると思う。
ゆめやゆめ、うつゝやゆめとわかぬかな、いかなるにかさめんとすらん
 とは古き人のなげきであるが、いまも同感なる者は少なくない。
 よく人は、「人生は夢の如し」などという。人生ははたして夢なるか、夢ならざるか。これは学者も名僧めいそう知識ちしきも、いまだ容易に断定を下しえない。
夢に死し夢に生まるゝ朝寝坊起きて苦を知る釈迦しゃかよりはまし
 と猩々庵原松しょうじょうあんげんしょうの狂歌にある。夢見つつねむりおるあいだが人生か、めざめたるあかつきが人生か。これは哲学者、宗教家などに問いても、夢そのものがなにものなるか、また夢と称するものの範囲がはっきりするまでは、とうてい満足な解答を与うることができぬであろう。いわんやわが輩においては、いずれが正しいか断言することをはばかるが、しかしもし夢なる文字を真実ならぬこと、事実ならぬこと、普通にいう本当でないという意味に用いるなら、僕は断じて、人生は夢でないと言いたい。
 なんとなれば人生ほど実際なるものはない。実際も実際、実際過ぎるほどに実際なるは実に人生である。米国の詩人ロングフェローが、その『向上の詩』において、それ人生は夢ならずとうたったのも、もっとも至極の観察である。

夢もまた人生の一部

 しかし夢もまた人生の一部である。ほとんど夢なきの人生はない。かりに「聖人夢なし」という句が本当なりとするも、世人せじんことごとく聖人ならざる以上は、やはり夢は人生に添えるものである。もし実際ならざることを夢と称するならば、未来も理想もすべて夢であるといわねばならぬ。しかし折々はかえって夢のほうが、普通にいう実際よりも、なお実際なることがある。明らかに夢見ているときでも
「これは本当であろうか」
「夢ではあるまいか」
 と疑うことは、普通に人のいうところである。しかるに実際の場合にもことさらにその実際なることを感ぜしむるときは、「夢ではないか」と思う。
 かりに日常普通に起こらぬ、人生のうわっつらでない事実が起こったとする。たとえば不幸の上に不幸が重なり、火災にかかった上に親をうしなうとか、子をうしなうとか、あるいは自分が急病にかかるとか、すなわち人生のあらゆる苦しみが、一時におそい来たるときはこれぞ人生の実際の実際たるゆえんであって、すなわち人生のふたけて底に達したようなときである。人はかかる場合に会うと、これは夢ではないかと思い、夢であれかしといのる。

夢とはいかなるものか

 普通にいう夢とは、自己の意識いしきの行われぬときに心にるる現象である。しかして意志の行われぬときは、普通ならば睡眠すいみん中である。ゆえに睡眠中に起こったことを夢と称している。また人生の出来事ははたして意識の行われているときにのみかぎるものであろうか。
 人間普通八時間睡眠すいみんし、しかしてその間は意志も意識も中止するなら、意識の行わるるのは、一日中三分の二しかない。人間が六十年、生きるものとすれば、四十年間は意識が行わるるも他の二十年間はまったく無意識に過す時となる。しかしはたしてこの二十年間は、全然無意識に過ぐるものであるか、またもしなんらかの意味があるとすれば、意識的の時間すなわち四十年の意識時間を休ませるだけの作用ファンクションあるものであるか。僕はこの二十年間なる長時間はかく簡単なものでないと思う。この間は単に身体を休め、精神を休むるというだけにとどまらぬと思う。もし休むとしても、その休むことは、まったくなにもなさずにいるとの意味であるまい。
 農業に休田というがある。これはその田地が単に作物を生育しておらぬだけの意味でなく、翌年の作物さくもつを生育する力を増殖ぞうしょくするために休むのである。人間の睡眠すいみん時間もまた同じく、なにもなさずにいるという消極的作用にとどまらで、起きて大いに働く力を養う時である。ゆえにこの間に結ばるる夢はいたずらに疲労ひろうせる身体のまぼろしすなわちことわざにいう五ぞうわずらいでなく、精神的営養物となるものと思う。

睡眠中の時間も向上に用いられる

 かくのごとく意識の行わるるときのみが人生でない。また知覚の存するときのみが人生のすべてでない。空々寂々くうくうじゃくじゃくに過したり、または睡眠すいみんする時もまた人生にとっては重大な時である。
 長短よりいえば、前にも述べたごとく、人生の三分の一を成しているが、この時間だけは人間の力でいかんともなしえぬとか、あるいは睡眠中は死んだも同然なりなどとは、普通に聞くところである。通常、睡眠すいみんと死とは、同一物のように思われている。さればこそ沙翁さおうの悲劇『ハムレット』にも、「死ぬるはねむるなり、眠るはことやすけれど、眠る間に夢という恐ろしきものあるなれば云々うんぬん」と死と眠りとをほとんど同一視してある。ただ時間の差異のみとみなされている。
 ゆえに人の一生を生と死との二者に分けて論ずれば、睡眠はむしろ死の部に含まれているがごとくにとなえられるが、僕は繰り返していいたい、睡眠の時間も、その間に結ばるる夢も、人生の一部をなすものであると。この間に直接の意識知覚が行われぬとしても、人生には重大なときであって、心がけによっては、この時間をも向上のために資することができると思う。古人の言に夢のたましいなどと称するものがある。
きみこふる夢のたましひゆきかへり、夢路ゆめぢをだにもわれに教へよ
 といい、また、
つらさのみまさりいくおもひやるゆめのたましひいかゞくらん
 などという歌があるが、これは睡眠中の心理的動作をすもので、今日の学者といえどもてがたい面白い詞章ししょうであると思う。

夢は一種の潜在識

 近ごろ心理学者が潜在識せんざいしきということを説く。僕は潜在識とは学問上、いかなるものなるやを知らぬが、僕の平凡見解でわかりやすく俗語で説けば、心の奥底にひそかくれ、自分がいっこう気づかぬとき、不意々々ふいふいと現るる感想をいうように思わるる。たとえばわれわれが子供のとき、母の乳房ちぶさにつけるころに見たり聞いたり、または感じたりしたことは、われわれの心の、いわば片隅かたすみかくれ、わすれられているらしく思われるが、必ずしも消滅し去るものでない。
 元来、人が事物を記憶するのは、たいがい四歳以上になって見聞したことにかぎる。しかして三歳、または二歳のころ、まったく無意識的に見たり聞いたりしたことは、根底より消え失せるかと問わば、けっしてそうでない。どこかにひそんでいて、いつかことにれ機に接して、何人なんぴとにも聞いたこともないことを想い浮かべるのは、よく各人の実験し、また他人についても見聞することである。われわれがなにかするときに、こういうことはかつて前にもあった、いつであったか、その時を忘れたが、確かにあったと思い出すことがある。またあるいはまったく新しい所、――たとえば外国に行って、その風景などもなんとなしにかつてどこかで見たように感ずることもある。しかるに実際はいかに考えても、見たはずがないというがごとき類は一種の潜在識の作用であろう。この潜在識はわれわれ個人として経験したことばかりのものにかぎらない。われわれの祖先が経験したことまでも材料となる。
 たとえばたれでも一度か二度は経験しない人はあるまいが、寝ておって、高い所から落ちる夢を見て、冷汗ひやあせをかいてざめることがある。かくのごとき夢はどこの国の人でも見る夢であって、おそらく人類共通の経験に基づいたことであろう。
 さて近ごろの学説によれば、これは人類が数万年以前、いまださるであったときか、あるいは猿のごとき生活を営んでおったころ、樹木の枝に宿り、木から木に伝わり、それこそ夢の浮き橋を渡るような交通法を行っておった際は、ことわざたがわず、折々は木から落ちることもあったに違いない。われわれの祖先にとってはこれほどこわいことはない。悪く落ちれば絶命は必定ひつじょうであるが、幸い途中の枝にでもかかれば生命だけは助かる。しかるに助かった者には永久忘れがたい恐しい経験である。したがってこのことは全身、全心にみこんで、死ぬまでも記憶に留るのみならず、子孫の記憶にまで留って人類の潜在識せんざいしきに化するにいたる。これがすなわちわれわれの代になってもなお、時々は現れ出て冷汗ひやあせをかかせる理由となる。
 これについて奇態きたいなことは、高きより落ちる夢を見て、けっして下まで落ちきった夢は見ない。いつも夢の浮き橋で中絶するというふうである。なぜなればもしまったく落ちきった祖先があったなら、必ず死んだであろう。死んだ経験の子孫に遺伝する理由はないから、落ちるだけの夢は見ても、いつも下に落ちきる前に目がさめるのである。かくのごとき夢は自身にあらざるとも、自身に関係近き者の実際なしたことに基づくものであると思う。
 一斎翁いっさいおうの言にいわく、
「およそ人心じんしんうちえてきのこと、夢寐むびあらわれず、昔人せきじんう、おとこむをゆめみず、おんなさいめとるをゆめみず、このげんまことしかり」と。
 眠る時にもこの潜在識せんざいしきはひそかに働きつつある。ゆえにこの潜在識にして、純粋、潔白、無垢むくであるならば、眠る間に働く人生もまた無垢なるものとなる。
ゆめ逆夢さかゆめ」とか、
「あたらぬものはゆめとちょぼいち」
 などいうことわざは、夢をもって未来をぼくする方法に用いんとするより起こる言であって、夢は過去の経験や思想より起こるとすれば、当たる当たらぬの論も無用で、逆夢さかゆめということもなくなって、「おもうこと寝言ねごと」なうことわざこそ事実にかなうなれ。
 杜甫とほの「夢李白りはくをゆめむ」の詩に「故人入我夢こじんわがゆめにいる我長相憶わがながくあいおもうをあきらかにす」と詠じたのも、後二条院ごにじょういんの、
こひしさのねてやわするとおもへどもまたなごりそふゆめのおもかげ
 と歌われたのも、詩仙しせんにかぎらぬ情である証拠は、われわれ凡人ぼんじんも折々経験して明らかであって、これはすなわち潜在識の作用によることが多いと思う。

宝船たからぶね以上の夢見る秘訣ひけつ

 僕の素人しろうと的の考えでは、潜在識せんざいしきは知識を、心という土蔵の奥にある葛籠つづらの中に入れて、しまいこんだように思われる。ゆえに日ごろよき考えと、しからざる考えとをおさめ入るるによって、潜在識の性質に異同をしょうずることはいうまでもない。潜在識はそのもとただせば、意志にさかのぼって、自分の力のおよばざる方面より来たる知識もあるが、その大部分は自分の希望どおりのものを選んで入れることができる。
 人に交わっても、その短所のみを見、ここが心にかなわぬとか、あのふうが気にくわぬとかいう、弱点のみを心の奥にある葛籠つづらに詰め込むか、あるいは善良なる観察かんさつと思想を入るるかは、精神の持ちよういかんによってできるものと信ずる。しかしてこの貯蔵した意識が、眠るときに、葛籠つづらより現れで、不愉快なものは不愉快な夢となってたたり、善事は善く出て、愉快ゆかいなる夢となって、おのれの心を喜ばしかつ心を養うものである。伽話おとぎばなしにある「舌切雀したきりすずめ」の葛籠つづらにいかなるものが潜在してあるかは、もらう人のあずかるところでないようなものの、その根本をただせばもらう人が入れ込むのである。欲張よくばばあさんは、みずから化物ばけもの葛籠つづらの中に潜在させたから、ふたを開くとともに醜怪しゅうかいなものがあらわれだし、正直しょうじきじいさんは宝物ほうもつ潜在せんざいさせたから、なかからあらわれ出たのがすべて財宝であった。
 それと同じく宝船たからぶねまくらの下に敷いて眠っても、ただ欲張よくばり考えで眠れば、よし宝船を夢みても遠い沖を帆走ほばしる光景を見たり、あるいはかえって宝船の難破を見たりするであろう。これに反し、得たるたから慈善的じぜんてき公共的その他の正当な使用につることをごろ念じながら夢をむすべば、おそらく宝船以上のたからの夢を得るであろう。しかしてかかる夢は普通にいう邯鄲かんたんの夢でなくして、理想とも称すべきものであり、また人生の実際の一部となるものである。僕が夢を一概に迷信として排斥はいせきすべからずといったのもこれがためである。

夢と実際とは連絡することが多い

 子供が眠るときに、おそろしい顔してしかると、子供はかつ泣き、かつふるえつつ眠ってしまう。かくのごとき夜にむすぶ夢のなかには、あるいはおにおそわれたり、あるいは化物ばけものったり、あるいはうなされたりして可愛かわゆかるべき顔にも苦痛または恐怖の念がありありとあらわれる。これに反し愛らしき物語を聞かせ、あたたかき愛情をもって、寝かしつけたときは、子供も天使に迎えられたり、あるいは極楽に連れられて楽しく遊んだりする夢を見、すやすやと眠る顔にはえみをふくみ、いわゆる「子供の寝顔」となる。かくおそろしき夢をむすぶも、吉夢きつむを見るのも、ともに子供にとっては(大人にしても、同じであるが)、一つの精神的経験を構成する分子となる。目がさめるとともにあるいはこれを忘れてしまうかも知れぬが、しかもどこかに、子供の意識となって残り、すなわちいわゆる潜在識せんざいしきとなって、なにかにつけて記憶にのぼってくるものである。
 僕もかつて病いにかかり、体温の四十度を越したとき、夢におそろしき化物ばけものを見たことがある。眼がさめたのちも、化物は眼前にちらついて残っていた。けしからぬことであると、自分ながら自分をめ、これはまったく熱が高いためであると思い、試みに検温器をかけるとはたして高熱であった。かく精神は落ち着き、自覚したのちでも化物ばけものかたちがハッキリと目にえいじていた。このとき僕は独り病室におったので、かたわらにあったランプをつけ、目をみひらき、ばかなものを見たものと思いつつ、空中をにらんだが、なおその姿が髣髴ほうふつとして眼前に残っていた。むろん、これは病的であることを、僕はよく知っていた。しかしいかに病的とはいえ、みずから明瞭めいりょうに自覚しておるにかかわらず、夢に見たことが、さめたるのちまでも、その現象げんしょうの消え去らず、連続しておった。あるいは心理学者の一笑を招くかも知れぬが、いわゆる夢なるものといわゆる実際なるものとが連続しておることをかんがえ、怪物の夢そのものよりかえっていわゆる実際のほうがおのずからおそろしくなったことがある。

夢は人間の心の鏡

 右に述べたことは、夢に見たことが、実際にも、眼前に連続したのである。これと同じく実際なることも、また夢に連続するものと思う。ゆえに目めているとき、つねに高きよいことを思うものは、夢にもまた下品げひんな、みだれたことを見ぬものである。しかるに少し油断し、修養をおこたると悪夢を結ぶか、よしそれまでに至らぬとしても吉夢を見ないようになる。孔子こうしは、
はなはだしいかな、おとろえたるや。ひさしくゆめにだも周公しゅうこうず」
 といっている。孔子こうしが油断したのか、しからざるか、僕は知らぬがこの一言は大いに考うべきことである。この言葉を裏面よりみれば、衰えぬときは、周公しゅうこうのことを夢にまでも見たということを含んでいるであろう。しからばすなわち白居易はくきょいの詩に、
平生所厚者へいぜいあつうするところのもの 昨夜夢見さくやゆめにこれをみる
 とあるように、日ごろめざめているときに高尚こうしょうな善良のことを想っていると、夢にこれを見るものならん。はたしてそうならば、睡眠すいみん中のいわゆる夢魂むこんによっていわゆる醒覚せいかく中の真意が何処いずこにありしかをうかがうこともできる。昼中ひるなか働いている間ほとんど無意識にいかなることにもっとも心を寄せていたか、かえって夜中に結ぶ夢によりて解きうるであろう。佐藤さとうさいの『言志耋録げんしてつろく』に、
かんこころ影子えいしなり、ゆめこころ画図がとなり」と、また、
ひとるはかたくしてやすく、みずかるはやすくしてかたし、ただまさにこれを夢寐むびちょうもっみずかるべし、夢寐むびみずかあざむあたわず」と。
 実にそのとおりで、良木りょうぼく良果りょうかを結ぶごとく、意識的善行は潜在的善智を結び、潜在的善智は無意識的善夢を結ぶという順序ではあるまいか。しからば夢はまた吾人ごじんの平素らず識らずに思う心のかがみと称してもよかろう。かく考えると、睡眠すいみんを利用して修養の用に供することができそうである。

努力すれば高い境遇に登れる

 わが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶然ぐうぜんなる現象にあらず、まったくくうのものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの、一歩進んでは大いに修養の資に供すべきものであるというにほかならぬ。わが輩のこの文を見る人のうちには定めし僕の思想の浅薄せんぱくなるにおどろく人もあろう。
 一般人士のむ境界をだっしていっそう高き境界きょうかいに達したならば、夢相も夢物もみな同一の虚妄きょもうにして、すべてあるところなしとさとらるるであろうことは、あたかも先に掲げた例のとおり、現時の人類がいまだ人間にならざりし時代、すなわち今日よりもなお低き境遇きょうぐうにありしころの経験を、夢の中にあるごとく、折々繰り返すことあれば、荘子そうじは高き思想界に入ってのち、自己の経験をかえりみて百年があいだ胡蝶こちょうとなって花の上にたわむれてのち驚きめたるごとく言った。形而下けいじかの世にあると、形而上けいじじょうの世にあるとは、物を夢と見なすのと、夢を物と見なすの差があろう。わが輩は凡人のなさけなさに、形而下けいじかの話をして夢を物とみなして長々しく弁じたが、形而上けいじじょうの思想の存在するをまったく心得ぬわけでもない。しかしわが輩のごとき考えをもって夢をも修養の用に供する工夫くふうをし、まじめにかつ永くつとめたなら、必ず一段も二段も高き境遇きょうぐうに進入することを得るであろう。古人の歌に、
なかゆめうつゝうつゝともゆめとも知らずありてなければ
 などいう一首の意味も、吾人ごじんの立場の高低によってどうとも取れる。なおさら修養が積んだならもう一段のぼりて王陽明おうようめいとともにかくぎんずるの日も来たらん。
人間白日醒猶睡  人間は白日にむるもなおねむるがごとく
老子山中睡却醒  老子ろうしは山中に睡るもかえって醒めたり
醒睡両非還両是  醒睡せいすいふたつながら非 また両つながら
溪雲漠漠水冷冷  溪雲けいうん漠漠ばくばくたり 水冷冷れいれいたり


 自警録終

引用文献



江守孝三(Emori Kozo)