[学問のすすめ YouTube]、
福沢諭吉、
[Fukuzawa Yukichi]
[an encouragement of learning],
[YouTube]
・偉人伝[独立自尊! 国家の独立は国民の独立から!(前編)]、
[(後編)]
・[100分de名著 福沢諭吉]part①②➂➃
・「福沢諭吉の名言」15話 、
・≪AI朗読 全≫学問のすすめ[福沢諭吉]《青空文庫》 、
・(学問のすすめ 初編/朗読),
(二編/朗読),
(三編/朗読),
(四編/朗読),
(五編/朗読),
(六編/朗読)、
・●福沢諭吉【学問のすすめを超わかりやすく解説】、
・●朗読 「学問のすすめ」 前半01編~10編(約3時間、
・学問のすゝめ 青空文庫,
(YouTube),
・学問のすすめ初編~十七編(慶大図書).pdf,
デジタルで読む福澤諭吉(慶大図書).pdf,
・福翁自傳(M32.6),
【国立国会図書館 福沢諭吉】
【学問のすすめ】
【学問のすすめ(現代語訳)】
【学問のすすめ(子ども向け)】
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、
「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」
とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
They say, "Heaven did not create a man above or below another man." It means that Heaven created all human beings equal and there was no difference among people. As the lords of creation, they could use all things in the world by exercising their own body and brain for their clothing, food and housing. Freely, unless they bother others, they could live comfortably. That's what Heaven created.
But now, observing human societies, there are the wise and the foolish, the poor and the rich, the noble and the plebeian. What does make these differences?
It's obvious.
The book named Jitsugo-kyou says, "A man cannot have wisdom without learning. A man without wisdom is foolish." In other words, the difference between the wise and the foolish depends on how they learned. And there are difficult work and easy work. People consider a person who does difficult work as the upper class and a person who does easy work as the lower class. The work using brain is difficult and the work using body is easy. So you can say that doctors, scholars, governmental officers, merchants who do big business and farmers who hire many peasants are the upper class.
明治24年(1891年)頃の肖像、福澤先生の実筆「独立自尊」
人物情報
福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち)
生誕:1835年1月10日、日本・摂津国大坂堂島浜
死没:1901年2月3日(満66歳没)日本・東京府三田(廟:麻布山善福寺)
学問
時代19世紀日本:学派 啓蒙思想:研究分野 蘭学,政治思想,哲学,教育:研究機関 中津藩,晩香堂.光永寺.適塾.江戸幕府外国方翻訳局、外国奉行,慶應義塾,明六社,興亜会,東京学士会院,時事新報
特筆すべき概念
国家独立,独立自尊,権理,自由,男女同等論,国民,私立,官民調和論,尚商立国論
主要な作品
『西洋事情』,『学問のすゝめ』,『文明論之概略』,『帝室論』,『福翁自伝』
福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体:福沢 諭吉、天保5年12月12日(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59年(1984年)から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。
諱は範(はん)。字は子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」[1]。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[2]。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[3]。 現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である[4]。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。
経歴
出生から中津帰藩、長崎遊学
天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目、通称 ほたるまち)にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。
父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった[5]。 百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤家に復する。体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物となる(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ[6])。
天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現・大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳頃から藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読み漁り、漢籍を修める。8歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。この頃には先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問の傍ら立身新流の居合術を習得した。
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた[7]。 したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまで遡ることが出来る。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。
安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、例えば村田蔵六(後の大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎等が来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。傍ら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。
適塾時代(大坂)
安政2年(1855年)、その山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、「大坂で蘭学を学ぶ」よう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の適塾(適々斎塾)で学ぶこととなった。ところが腸チフスを患い、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復すると一時中津へ帰国する。
安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch 1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。
安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って硫酸を製造し、頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入したワンダーベルツと題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を始めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。他にも昆布や荒布からのヨジュウムの製造、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。
江戸に出る
幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾[8]の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)頃から既に藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める。)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきた他、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。
島村鼎甫を尋ねた後、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らと共に出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現在の浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。
安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、諭吉自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。
諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだ後、蕃書調所へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。
渡米
咸臨丸難航の図(鈴藤勇次郎画)
文久2年(1862年)
パリの国立自然史博物館にて撮影)
東京大学史料編纂所蔵
福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス。万延元年(1860年)、
サンフランシスコにて。(慶應義塾福澤研究センター所蔵)
安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣することが岩瀬忠震の建言で決定した。万延元年1月19日(1860年2月10日)、諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ。翻訳途中だった『万国政表』(統計表)を、留守中に門下生が完成させている。同年5月5日(1860年6月23日)に帰国。後に諭吉は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている[9]。
諭吉と咸臨丸の指揮官を務めた勝海舟はあまり仲が良くなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた[10]。 一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後も、晩年に至るまで親密な交際を続けており、帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方(現在の外務省)に出仕することになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに子孫はいない[要出典])。諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。
帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。また、再び鉄砲洲で講義をおこなう。しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。
渡欧(幕臣時代)
文久2年(1862年)
江戸幕府使節としてヨーロッパ歴訪の際ベルリンにて。
文久2年(1862年)オランダにて。
右から柴田貞太郎、福澤諭吉、
太田源三郎、福田作太郎
文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、諭吉も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪がおり、行動を共にした。
途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪れた。
ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。なお、オランダのユトレヒトを訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された[11]。
幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、諭吉は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、フランスの青年レオン・ド・ロニーと友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。
同年12月11日(1863年1月30日)に帰国後、『西洋事情』(慶応2年(1866年)〜)などの著書を通じて啓蒙活動を開始。「幕府機構の改革を唱えた。またアメリカ独立宣言の全文を翻訳して『西洋事情』(初編 巻之二)中に「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」として掲載して日本に伝えた。『西洋事情』は「理化学・器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備について言及してある。
品川に到着した翌日の12月12日には英国公使館焼き討ち事件が起こり、文久3年(1863年)3月に入ると孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸をうけて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるという事件も起こり、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合した後に帰宅する途中、浪人と鉢合わせ、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けたことがある。この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。
文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった[12]。 また、禁門の変が起こると、長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じて、同年秋頃に塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳して諸藩の援助をした。
元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れて来た。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて、御目見以上となり、「御旗本」となった[13][14]。 慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。この見通しによって、維新後の新政権のために何の貢献もなしえないことが当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがうことが出来る。長州征伐で幕府が長州藩に敗北したと聞き、イギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳『雷銃操法』を訳し始める。続いて、戊辰戦争に際し仙台藩が諭吉に翻訳せしめた『兵士懐中便覧』は奥羽越列藩同盟藩士の多くが読んだとされる。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。
明治維新
慶応3年1月23日(1867年2月27日)には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。津田仙・尺振八が同乗していた。同年6月27日(1867年7月28日)に帰国した。現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、中島三郎助の働きかけですぐに解けた。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。この年の末(12月9日)、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、諭吉は新政府から出仕を求められたが辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった[16]。
慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる[17]。 特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門の藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェイランド『経済学原論』(The Elements of Political Economy , 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。
妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順等から出仕の勧めが来たがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、三田に移動して『帳合之法(現在の簿記)』などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿・森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現・東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。
廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した(『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は諭吉没後となった)。『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないしは初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり。」の声があるほど、明治初期までは諭吉の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。[独自研究?]
薩長藩閥との対立
明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣した他、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師では無いと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入した他、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。他、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力。
明治8年(1875年)、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談した。大久保は諭吉のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた(「面白」(流石有名に恥じず。大久保の日記。)による)が、大久保は出版検閲の権限を文部省から内務省に移管したことで、秋山恒太郎が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た福澤は、『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の加藤政之助が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる[要出典]。
そこで目を付けたのが、薩長藩閥では無い、大隈重信の存在だった。諭吉は大隈を頼りに統計院(後の内閣統計局)を設立させる[要出典]。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。
入念に門下らと憲法を思案し、大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に諭吉の影があると、放った密偵によって察知した伊藤博文は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・井上毅に一任することになる。丁度、北海道開拓使官有物払い下げ問題」で本山彦一・箕浦勝人・門田三郎兵衛らが『大阪新報』を通じて問題を糾弾。薩摩閥の怒りはピークに達し、岩倉具視・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃する明治十四年の政変が起こる事となった。諭吉は、この事件に際して2,500字に及ぶ、人生で最も長い手紙を伊藤と井上馨に送った[18]。 この手紙に対して井上は返事の手紙を返したが伊藤は返答しなかった[19]。 さらに井上毅が大日本帝国憲法・皇室典範・教育勅語・軍人勅諭の起草全てに参加したため、諭吉は伊藤と井上馨との交際を絶つこととなった。その他にも、東京府会議員副議長の辞職、東京学士会院も小幡篤次郎・杉亨二・箕作秋坪・杉田玄端ら福澤派学者と共に脱会するに至った[20]。
明治十四年の政変の影響により、政府主導で設立する予定だった『時事新報』も自らの手で創刊することになったが、明治15年(1882年)3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、『時事新報』は一定の成功を収めることとなった。『時事新報』の創刊にあたってかかげられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」と記されている[21]。 結局、明治31年(1898年)5月16日に広尾の別邸で行われた鎌田栄吉塾長就任披露の園遊会で伊藤博文が出席するまで伊藤との関係は修復されなかった。
教育支援
教育令が思った通りにならず、諭吉考案の田中不二麿や土佐藩出身の中島信行(後の自由党副総裁)の建言が、佐野常民と元田永孚、更には薩長派文部卿に転じた九鬼隆一によって潰され[要出典]、教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさと止めて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
明治13年(1880年)、西郷隆盛や板垣退助等と同じく政府に反発する者・自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた[要出典]諭吉の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋等の薩長参議が潰そうとしてきた為[要出典]、設立は困難を極め、開校式に大隈が出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を小野梓が発表するに留まった。
明治25年(1892年)には、長与専斎の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。
朝鮮改革運動支援と対清主戦論
明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた福沢は朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。福沢の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった[22]。
明治15年(1882年)7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件があり、外務卿井上薫は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結した。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、福沢はこの一連の動きに満足の意を示すとともに清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた[23]。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して福沢が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている[24]。
朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、明治17年(1884年)12月4日に甲申事変を起こすも清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた[25]。
この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが福沢だった。この頃福沢は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた[26]。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった[27]。
この時の開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿井上薫との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清そろっての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応終息した。しかし主戦論者の福沢はこの結果を清有利と看做して不満を抱いたという[28]。
日清戦争の支援[編集]
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まった[29]。福沢も金の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置している[27]。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。福沢は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した[30]。
国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。福沢は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた[31]。
また戦費の募金運動(福沢はこれを遽金と名付けた)を積極的に行い、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5000万円の公債募集を決定したのでその際に解散した)[32]。
この年は福沢の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、明治28年(1895年)12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、福沢は慶應義塾生徒への演説で明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇したと論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた[33]。
晩年
1901年(明治34年)の諭吉
諭吉邸の跡地にある福澤公園。
(明治時代にはこの場所から東京湾が一望出来た。)
諭吉の邸宅が存在した台地
(慶應義塾大学三田キャンパス内)
諭吉が馬を繋いだと伝えられる馬留石
福澤諭吉・小幡篤次郎
共著『学問のすゝめ』(初版、1872年)
日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという[34]。この頃までには慶応義塾は大学部を設けて総生徒数千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた[34]。
晩年の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したことなどがあげられる[35]。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している[32]。
明治31年(1898年)9月26日に最初に脳溢血で倒れ、一時危篤に陥るもこの時には回復した。その後、慶応義塾の『修身要領』を編纂した[36]。
明治34年(1901年)1月25日に脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している[37]。8日の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5000人の会葬者が葬列に加わった[36]。
年譜
- 1879年(明治12年):東京学士会院(現・日本学士院)初代会長就任。東京府会副議長に選出されるが辞退。『民情一新』刊。
- 1880年(明治13年):専修学校(現・専修大学)の創設に協力し、京橋区の諭吉の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。11月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、諭吉は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る[38]。
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年):日刊新聞『時事新報』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。『帝室論』刊。
- 1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。
- 1889年(明治22年):8月、「慶應義塾規約」を制定。
- 1890年(明治23年):1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。
- 1892年(明治25年):伝染病研究所の設立に尽力(北里柴三郎が初代所長となる)。
- 1893年(明治26年):土筆ヶ岡養生園開設
- 1894年(明治27年):郷里、中津の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。
- 1895年(明治28年) - 30年(1897年):箱根、京都、大阪、広島、伊勢神宮、山陽方面へ旅行に出る。
- 1898年(明治31年)
- 5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。
- 9月26日、脳出血で倒れ、いったん回復。
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)
- 1月25日、再び脳出血で倒れる。
- 2月3日、再出血し、午後10時50分死去[42]。葬儀の際、遺族は諭吉の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信が涙ながらにもってきた花を、福澤家は黙って受け取った。また、死によせて福地源一郎が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。爵位を断る。
- 2月7日、衆議院において満場一致で哀悼を決議[43]。
- 2月8日、葬儀が執り行われた。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる[44]。
墓
諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
昭和52年(1977年)、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。
福澤諭吉終焉之地 .
雪池忌
人物・思想
祓戸神社前にある福澤諭吉の像
福澤諭吉像 (三田)
福澤諭吉像 (日吉)
福澤馴染みの酒屋「津國屋」
三田に現存
アジア近隣諸国や日清戦争観
福沢は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている[45]。
とりわけ清や中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きしたうえで「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている[46]。
そのような福沢にとって日清戦争は、日本の国権拡張のための戦争であると同時に西洋学と儒教の思想戦争でもあった[47]。福沢は豊島沖海戦直後の明治27年7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した[48]。
戦勝後には山口広江に送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した[49]。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている[50][51]。
しかし福沢の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるごとく、西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった[30]。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した[27]。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉や日原昌造に送った書簡の中で福沢は「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる[27]
漢学について
福沢は漢学を徹底批判した。そのため孔孟崇拝者から憎悪されたが、そのことについて福沢は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若い頃から心がけていました。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らない風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられない」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができないと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている[52]。
『文明論之概略』では孔子と孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した[53]。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は二千余年前の野蛮草昧の時代なので天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、二千年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた[54]。
議会政治・自由民権運動について
福沢は明治12年の『民情一新』の中で、現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリスの政党政治・議会政治を大いに参考にすべしと論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた漸進論に賛成すると表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている[55]。
ただし福沢は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、自由民権運動に興じる急進派には決して同調せず、彼らの事を「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した[56]。『時事小言』の中で福沢は政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきことを強調している[57]。
また福沢が明治14年にロンドンにいる慶應義塾生の小泉信吉に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、自由民権論者の不作法も許し難いものがあったようである[58]。
諭吉の男女同等論
福沢は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した[59]。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリッヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。
福沢が女性解放思想で一番影響を受けていたのがイギリスの哲学者・庶民院議員ジョン・スチュアート・ミルであり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている[54]。
明治7年(1874年)に発足した慶應義塾幼稚舎が、同10年(1877年)以降しばらくの間、男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。
私生活
文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子供をもうけた。松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという[60]。
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ/\汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう
居合の達人
諭吉は、若年の頃より立身新流居合の稽古を積み、成人の頃に免許皆伝を得た達人であった。ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟や山岡鉄舟の思想との共通性が窺える。
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の土屋雅春は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている[61]。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記を付けており、これでは逆に健康を害すると分析されている。
明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた[62]。流行り物に対してシニカルな一面も窺える。
諭吉と勝海舟
諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、諭吉は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという[63]。
『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。なお諭吉は海舟に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある[64]。 当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた海舟に援助を求めた。だが海舟は諭吉が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却してもなお(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、諭吉は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。瘠我慢の説発表はこの後のことである。また、『福翁自伝』で諭吉は借金について以下のように語っている[65]。
「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」
海舟も諭吉と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた海舟が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげます」と言ってからかったという[66]。
しかし、海舟は諭吉のことを学者として一目置いており、自分が学んだ佐久間象山の息子の佐久間恪二郎や、徳川慶喜の十男で養子の、勝精を慶應義塾に入学させる等面倒見のよい一面もあった。
西洋医学
土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、諭吉と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。
『蘭学事始』の出版
杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、諭吉の友人神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、諭吉の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに明治23年(1890年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。
北里柴三郎への支援
明治25年(1892年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して、北里を所長に迎えた。明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、諭吉は次男・捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、諭吉と長与専斎と森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。
慶應義塾医学所の創設
明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、諭吉が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。なお、明治13年(1880年)6月、医学所は閉鎖されることになった。
しかし、諭吉の死後15年たった大正5年(1916年)12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。
その他
- 『福翁自伝』には万延元年(1860年)5月から文久元年(1861年)12月までと、元治元年(1864年)10月から慶応3年(1867年)1月までの二つの重要な幕末の時期について、言及がない。どうやら元治年間以降については、徳川慶喜を頂点としつつ大鳥圭介・小栗忠順・太田黒伴雄らを与党とする実学派(公武合体派)の人々と連携して、長州の久坂玄瑞や高杉晋作を始め、尊王攘夷派に対抗する活動に従事していたと分析されている[67]。この他にも、自伝には意図的に書かれていない活動が多く存在する。
- 同時代の思想家で、最も共通しているといわれているのは横井小楠で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と福澤の人生観が合致するとされている[68] 。
- 文久3年(1863年)春頃から『姓名録』(『慶應義塾入社帳』29冊現存)を付け始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。
- イギリスの政治体制を最も理想的な政治体制と考えており、日本の最終到着点もそこであると考えていた。イギリス議会人の代表的人物ウィリアム・グラッドストンを深く尊敬していた[69]。諭吉はしばしば、伊藤博文ら保守派が尊敬するビスマルクを「官憲主義」、グラッドストンを「民主主義」として対比して論じた[70]。1897年にグラッドストンが死去した際には『時事新報』にその死を悼む文章を載せている。その中で諭吉は、グラッドストン翁がアイルランド自治を訴えたり、アメリカ人を友視したのは、翁の目的がアングロ・サクソン人の喜びにあったためであるとし、さらに深くその意義を考えると翁の真の目的は文明進歩の一点だったとする。世界に文明を広めて人類の幸福を増す大事業はアングロサクソン人種の力によるところが最も大きいと考えていた翁は、文明進歩のためにアングロサクソン人に重きをなしていたと考えられるからというのがその理由であった。また翁がヴィクトリア女王から爵位を受けとらず生涯平民で通したことも「高節清操」と高く評価した[69]。
- 同世代の思想家を挙げると、橋本左内とは同年代、坂本龍馬は一つ年下、高杉晋作は五つ年下、吉田松陰で四つ年上。これら幕末の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる[71]。
- 第二次長州征伐では、徹底的に長州藩を討つべしと幕府に建言し、「尊王攘夷」などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎないと進言した[72]。しかしこれは福沢が彼らが強硬な攘夷論者で鎖国体制に戻すつもりだと思っていたためである。福沢は徳川幕府も早晩打倒せねばならぬと考えていたが、それに取って代わるのが鎖国主義政権では西洋化の立国が危ういと考えていた[73]。ところが福沢が攘夷主義と思っていた新政府は果断なる開国主義を採用したので、福沢もこれに驚いた。そして明治政府の進歩性を認めるに及んで民間から啓蒙運動を行って明治政府に協力することにしたのであった[74]。
- 諭吉の著書には、しばしば儒学者の荻生徂徠が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり漢学者には心酔者が多いのでだめである。と論じた[75]
- 文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた[76]。
- 期待していた水戸藩が維新前に水戸学の立原翠軒派と藤田幽谷派の内ゲバや天狗党で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他宗教的なものは一切認めないと論じた[77]。
- 徳川家康を「奸計の甚しきものを云ふ可し」としてやや批判的に論じ、豊臣秀吉を高く評価した[78]。
- 大久保利通から政体取調掛を命じられ、細川潤次郎が邸宅に赴いたとき「学者を誉めるなら 豆腐屋も誉めろ」といって明治政府の招聘を断った[79]。
- 明治政府内では大鳥圭介と後藤象二郎びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです。」と語り、福澤邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷(現在の高輪プリンスホテル周辺)には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『痩我慢の説』でも大鳥は批判されていなかった。
- 立憲改進党が結党式を挙げる際に京橋の明治会堂を大隈重信に貸し出してやったことがある。このように、後輩思いで頼まれると中々断れないというお人好しな面が強かったようである[80]
- 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は諭吉の言と誤解されることが多いが、学問のスゝメ冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と書かれており、正しくは諭吉の言ではない。出典元は諸説あるが、トーマス・ジェファーソンによって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である[81]。
- 緒方洪庵の他に自伝でも触れられている英雄の一人が江川太郎左衛門英竜(江川英龍)で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという[82]。
- 『時事新報』は、明治21年(1888年)3月23日、日本で初めて新聞紙上に天気予報を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である[83]。
- 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。
- 明治3年(1870年)5月中旬、発疹チフスを患うと、元福井藩主・松平春嶽公が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎のもとで、わが国で初めて機械によって氷を製造した[84]。
- 『文明論之概略』は新井白石の『読史余論』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、西郷南州なども通読したることになった[85]。
- 諭吉の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
- 晩年の自伝である『福翁自伝』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着(むとんじやく)。その無頓着の極(きょく)は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない。」と記している[86]。
- ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想・儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)。
- 『時事新報』に「兵論」という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した[87]。
- 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。一方で、榎本武揚や勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある(『瘠我慢の説』)。
- 幼少期より酒を嗜み、月代を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという[88]。適塾時代に禁酒を試みたが、親友の丹後宮津藩士・高橋順益から、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令(たと)い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草(タバコ)を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬ」と煙草を勧められ喫煙者になってしまい、禁酒にも失敗して「一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て」る結果に終わった[89]。三田の酒屋津國屋を贔屓との店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。
- 適塾時代に覚えた煙草を晩年まで好み、太いキセルで煙草をふかしたことから、塾生からは「海賊の親分」との愛称を貰っていたようである[90]。
- 宗教については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている[91]。
- 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。
- 会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。借方貸方という語は福澤の訳によるもの。
- 日本に近代保険制度を紹介した。諭吉は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。
- 日本銀行券D号1万円札、E号1万円札の肖像に使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。[要出典]
- 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった[92]。
- 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される[93]。
- 批判的だった「日の出新聞」からは「法螺を福沢、嘘を諭吉」とまで謗られた(明治15年8月11日付)[94]。
エピソード
- 適塾時代のエピソードには「熊の解剖」、「豚の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、他にも大坂の町人と江戸の町人の対比(大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。)や「鯛の味噌漬と欺して河豚を食わせる」、「禁酒から煙草」、など自伝には諭吉の人物像を表すエピソードが多数記されている。
- 幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」(自伝)には、恐ろしく飲んで洪庵夫妻を驚かせる、囲碁の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。
- 万延元年(1860年)、アメリカから帰国した諭吉は日本への上陸第一歩の海辺で出迎えに来た木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」という。福澤はそれをおしとどめて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老・井伊直弼)の邸に暴れこんだというようなことではないか」(自伝)と、3月3日の桜田門外の変を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、徳川斉昭の反目や安政の大獄による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。
- 経済、文明開化、動物園、また演説という表記など、和製漢語を数多く作った。自由も、著書『西洋事情』によって世間に広まった。
研究・評価史
日本における福沢研究をめぐる論争
「脱亜論」再発見から
太平洋戦争後、歴史学者服部之総や遠山茂樹らによって福沢の「脱亜論」が再発見され、諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であると批判された[95]。丸山真男は服部之総の福沢解釈を「論敵」としていたといわれる[96]。
平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家[97]」に、平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」[98]を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった。[99]
平山は、井田進也の文献分析を基礎に[100]、福沢のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる[101]。平山によれば、諭吉は支那(中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。だが、たとえば清の兵士を豚になぞらえた論説など、差別主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、諭吉のものと偽って収録したのだという。
しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない[102]。井田進也は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定作業を開始している[103]。今後の研究がまたれるところである[104]。
「時事新報」無署名論説
平山洋は、井田の分析を基に、現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の「時事新報論集」はその大部分が無署名であることを指摘したうえで、大正時代の『福沢全集』(1925〜26)と昭和時代の『続福沢全集』(1933〜34)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録している、とした。さらに現行版『全集』(1958〜64)の第一六巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している[105]。
人気度
2000年(平成12年)3月12日付で朝日新聞が企画した「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある[106]。
アメリカ合衆国における評価
台湾における評価
李登輝は、講演『学問のすゝめと日本文化の特徴』で、諭吉について、欧米を日本に紹介するだけではなく、学問のすゝめを著わすことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している[107]。
韓国における評価
大韓民国で脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは1970年以降であり[108]、1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っている[109]。
諭吉が援助した李氏朝鮮の開化派は、その中心にいた朴泳孝が日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派と見なされ、諭吉への関心もほとんど無かったものと推測される。金に対する評価は北朝鮮の方が高く[110]、それを受けた形で、歴史研究家の姜在彦が1974年(昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し[111]、諭吉に触れていて、「最近の研究で明らかにされてきているように、諭吉の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、諭吉を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は福沢に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている[112]。
現在の韓国におけるごく一般的な諭吉像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている[113]。一般的に、韓国における諭吉は、往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、神功皇后伝説や豊臣秀吉にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捉えられている。1990年代あたりから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、1996年(平成8年)の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』[114]、2006年の琴秉洞[115]『日本人の朝鮮観 その光と影』[116]を挙げることができる。
1990年代におけるこういった韓国の状況が、諭吉に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣が1992年(平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ、訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、諭吉を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに福沢研究に取り組んだという。
杵淵信雄は安川とは異なり、『福沢諭吉と朝鮮』中で、「脱亜論の宣言を注視するあまり、(諭吉は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、諭吉の侵略性を強調する立場ではないが、1997年(平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ諭吉の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している[117]。
一方、1990年代の韓国において、諭吉研究に取り組む研究者が複数現れたことを、林宗元は述べている[118]。林の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と福沢を比較するもの、福沢と朝鮮開化派との関係を追求するもの、諭吉の反儒教論を批判分析するものなど、多岐にわたっていて、否定的なものばかりではないことが注目される。
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと平行して、近代化の旗手としての福沢への一定の理解が、新聞論調にも見えはじめる[119]。 2004年(平成16年)前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっていて、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど、新しい風を巻き起こした。そんな中で同年、林宗元によって、福翁自伝が韓国語に訳され、出版されたことも、韓国における諭吉像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙は軒並み好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。
しかし、韓国において諭吉に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい[109]。2005年、ノリミツ・オオニシニューヨークタイムズ東京支局長は「日本人の嫌韓感情の根底には諭吉の脱亜論がある」[120]とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び、福沢を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり右翼の元祖」と評してもいる[121][122]。
また、稲葉継雄は、韓国で諭吉の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて[123]、韓国における諭吉像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。
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著作等
『学問のすゝめ』は最も著名で菓子の名にも冠されている
、小説 福沢諭吉(大下英治著)経済社
主な著書
著作集
『福澤諭吉著作集』(全12巻)が、慶應義塾大学出版会で2002年(平成14年)から2003年(平成15年)に刊行された。さらに著作集の一部は2009年(平成21年)に、コンパクト版(選書版)が刊行された。
- 『西洋事情』 マリオン・ソシエ・西川俊作 編、2002年5月15日。ISBN 4-7664-0877-2。
- 『世界国尽 窮理図解』 中川眞弥 編、2002年3月15日。ISBN 4-7664-0878-0。
- 『学問のすゝめ』 小室正紀・西川俊作 編、2002年1月15日。ISBN 4-7664-0879-9。
- 『文明論之概略』 戸沢行夫 編、2002年7月15日。ISBN 4-7664-0880-2。
- 『学問之独立 慶應義塾之記』 西川俊作・山内慶太 編、2002年11月15日。ISBN 4-7664-0881-0。
- 『民間経済録 実業論』 小室正紀 編、2003年5月15日。ISBN 4-7664-0882-9。
- 『通俗民権論 通俗国権論』 寺崎修 編、2003年7月15日。ISBN 4-7664-0883-7。
- 『時事小言 通俗外交論』 岩谷十郎・西川俊作 編、2003年9月30日。ISBN 4-7664-0884-5。
- 『丁丑公論 瘠我慢の説』 坂本多加雄 編、2002年9月17日。ISBN 4-7664-0885-3。
- 『日本婦人論 日本男子論』 西澤直子 編、2003年3月17日。ISBN 4-7664-0886-1。
- 『福翁百話』 服部禮次郎 編、2003年1月15日。ISBN 4-7664-0887-X。
- 『福翁自伝 福澤全集緒言』 松崎欣一 編、2003年11月17日。ISBN 4-7664-0888-8。
事典
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系図
福澤家
福澤家家系図(別)
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その他
福澤諭吉を主題とした作品
映画
- 福澤諭吉を主人公とした映画
テレビドラマ
- 福澤諭吉を主人公としたテレビドラマ
- 福澤諭吉を主題としたテレビドラマ
記念行事
脚注
^ 慶應義塾編・発行『慶應義塾百年史 中(前)』、1960、p.507
^ 余が印章に三十一谷人の五字を刻
^ 北康利 『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』 講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0。(21頁)
^ 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、理念と歴史を参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。
^ 百助が所持していた伊藤東涯の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。
^ 明治生命による
^ 福沢諭吉と亀井学の思想:福沢における「縦に慣れたる資力」とは何か
^ それまで、中津藩邸に近い木挽町にあった佐久間象山の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し上総国の姉ヶ崎で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」(111頁)を参照。近代デジタルライブラリー収録『福翁自伝』の「始めて亜米利加に渡る」の章を参照。福翁自傳 - 198 ページを参照。
併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。
^ 『福翁自伝』に航海中の海舟の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。福翁自傳 - 200 ページを参照。
勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった
^ 「福澤諭吉の新たな写真発見 オランダで」話題!‐話のタネニュース:イザ!
^ 諭吉は『福澤全集緒言』において以下のように述べている:
例えば英語のスチームを従来蒸氣と訳するの例なりしかども、何か一文字に縮めることは叶うまじきやと思付き、是れと目的はなけれども、蔵書の康熙字典を持出して唯無暗に火扁水扁などの部を捜索する中に、汽と云う字を見て、其註に水の氣なりとあり、是れは面白しと独り首肯して始めて汽の字を用いたり。但し西洋事情の口絵に蒸滊済人云々と記したるは、対句の為め蒸の一字を加えたることなり。今日と為りては世の中に滊車と云い滊船問屋と云い、誠に普通の言葉なれども、其本を尋ぬれば三十二年前、余が盲捜しに捜し当てたるものを即席の頓智に任せて漫に版本に上せたるこそ滊の字の発端なれ。又当時、コピライトの意義を含みたる文字もなし。官許と云えば稍や似寄りたれども、其実は政府の忌諱に触れずとの意を示すのみにして、江戸の慣例に拠れば、臭草紙の類は町年寄の権限内にて取捌き、其以上、学者の著述は聖堂、又飜訳書なれば蕃書調所と称する政府の洋学校にて許可するの法にして、著書発行の名誉権利は著者の専有に帰すと云うが如き私有権の意味を知る者なし。依て余は其コピライトの横文字を直訳して版権の新文字を製造したり。其他、吾々友人間にて作りたる新字も甚だ少なからず。名は忘れたり、或る学友が横文にあるドルラルの記号$を見て竪に似寄りの弗の字を用い、ドルラルと読ませたるが如き面白き思付にして、之に反し余がポストヲフヒスを飛脚場、ポステージを飛脚印と訳して郵便の郵の字に心付かず、ブックキーピングを帳合と訳して簿記の字を用いざりしは、余り俗に過ぎたる故か今日世に行わるゝを見ず。
— 福澤諭吉、『福澤全集緒言』22-24頁
^ 勝部真長 PHP研究所 ISBN 4569771882 『勝海舟』 (終章)P333
^ 福澤:元治元年/1846~外国奉行支配調訳次席翻訳御用
^ 慶應義塾ほか編集『慶應義塾創立150年記念 未来をひらく 福沢諭吉展』図録、2009年、103頁。
^ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1] 』 原書房 2013年 14ページ
^ 上田貞次郎の伝記
^ 慶應義塾(2004)、214-227頁
^ 慶應義塾(2004)、227頁
^ 森川1990 [要ページ番号]
^ 西川&山内(2002)、406頁
^ 小泉(1966) p.180-182
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^ a b 小泉(1966) p.190-191
^ 小泉(1966) p.191-192
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^ a b 小泉(1966) p.197
^ 小泉(1966) p.3/197
^
「應義塾豆百科」No.39 慶應義塾維持法案、慶應義塾。
^ 慶應義塾豆百科 No.60 「独立自尊」(慶應義塾)
^ 「世紀送迎会」(慶應義塾ステンドグラス 2000年1月1日/塾 No.223)
^ 慶應義塾豆百科 No.61 「独立自尊迎新世紀」(慶應義塾)
^ 福沢諭吉逝く新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940
^ 決議文の内容は次の通り。「衆議院ハ夙ニ開国ノ説ヲ唱ヘ力ヲ教育ニ致シタル福澤諭吉君ノ訃音ニ接シ茲ニ哀悼ノ意ヲ表ス」(片岡健吉ほか6名提出)。井上角五郎が提出者を代表して、説明のため登壇した。明治34年2月8日付「官報」号外、衆議院議事録(「第15回帝国議会・衆議院議事録・明治33.12.25 - 明治34.3.24」、国立公文書館(ref:A07050006700)。)。
^ 「慶應義塾豆百科」No.62 塾葬」、慶應義塾
^ 小泉(1966) p.126-127
^ 小泉(1966) p.193-194
^ 小泉(1966) p.192-195
^ 小泉(1966) p.194
^ 小泉(1966) p.194-195
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」(316頁)を参照。近代デジタルライブラリー収録の『福翁自伝』では547 - 548頁を参照。福翁自傳 - 565 ページを参照。
^ 小泉(1966) p.189
^ 小泉(1966) p.90-91
^ 丸山眞男「文明論之概略」を読む(中)第八講
^ a b 杉原(1995) p.40-41
^ 小泉(1966) p.153-154
^ 小泉(1966) p.32/157/172-173
^ 小泉(1966) p.161
^ 小泉(1966) p.173
^ 青空文庫の『中津留別の書』
^ 松山棟庵「故福澤翁」(慶應義塾学報 臨時増刊39号『福澤先生哀悼録』みすず書房、1987年3月、ISBN 4-622-02671-6、193-194頁)伝記作家石河幹明の策略―その2― 2.0.3項参照。
^ 『医者のみた福澤諭吉』
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「再度米国行」の章にある「刀剣を売り払う」(162頁)を参照。福翁自傳 - 285 ページを参照。
^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか諭吉と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。
^ 1878年(明治11年)4月11日の日記に記載。
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「一身一家経済の由来」の章にある「仮初にも愚痴を云わず」(270-271頁)を参照。福翁自傳 - 482 ページを参照。
^ 北康利 『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』 講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0。(226頁)
^ 『福澤諭吉』あとがき全文 平山洋
^ 『横井小楠とその弟子たち』 評論社
^ a b 杉原(1995) p.237-239
^ 杉原(1995) p.237
^ 丸山眞男「文明論之概略」を読む(上)第一講
^ 『長州再征に関する建白書』
^ 小泉(1966) p.25
^ 小泉(1966) p.26
^ 丸山眞男「文明論之概略」を読む(上)第一講
^ 『民情一新』
^ 丸山眞男「文明論之概略」を読む(上)第十一講
^ 丸山眞男「文明論之概略」を読む(中)第十一講
^ 福翁自傳-349 ページ
^ 会田倉吉 人物叢書 日本歴史学会編 第198項
^ 慶應義塾豆百科
^ 江川太郎左衛門(1)
^ 日本で初めて新聞に 天気予報 を掲載
^ 福澤先生の大病が絡んだ製氷器事始め
^ 小泉信三 『福沢諭吉』 岩波新書
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」(65頁)を参照。福翁自傳 - 118 ページを参照。
^ 時事新報史 第15回:朝鮮問題(1) 壬午事変の出兵論 都倉武之 慶應義塾大学出版会
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」(57頁)を参照。福翁自傳 - 103 ページを参照。
^ 『福翁自伝』の「禁酒から煙草」参照。
^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』P156、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」(23頁)を参照。福翁自傳 - 44 ページ を参照。
^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(7-9頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
^ 時事新報史 第4回:創刊当初の評判 慶應義塾出版会
^ 服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)(遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992
^ 東谷暁インタビュー 平山洋
^ 2001年(平成13年)4月21日付「朝日新聞」に掲載
^ 同年5月12日付同紙)
^ 平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9 なお、同著『アジア独立論者福沢諭吉』(2012、ミネルヴァ書房)には、『福沢諭吉の真実』に収められなかった社説判定の方法論についての詳しい記述がある。
^ 「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年
^ 前掲書
^ 東谷暁インタビュー 平山洋また都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜
^ 「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年
^ 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜
^ 平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉
^ 朝日新聞2000年3月12日、1位・坂本龍馬、2位・徳川家康、3位・織田信長、4位・田中角栄、5位・吉田茂、6位・豊臣秀吉、7位・福澤諭吉、8位・西郷隆盛、9位・市川房枝、10位・伊藤博文
^ 李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演 産経新聞2008年9月23日
^ ソウル大学校国際問題研究所の姜相圭による
^ a b 〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」 朝日新聞
^ 1960年代にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。
^ 『歴史と人物』4巻3号、1974年3月。
^ 姜『朝鮮の攘夷と開化 近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7
^ その典型的な例を挙げれば、2001年の中央日報、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム【噴水台】ユーロ貨の橋の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、韓国を征伐するよう主張した福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」
^ 韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年。ISBN 4-380-96291-1
^ 総連系の学者で金玉均の研究家
^ 琴秉洞著『日本人の朝鮮観 その光と影』明石書店、2006年。ISBN 4-7503-2415-9
^ 杵淵『福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に』彩流社、1997年。ISBN 4-88202-560-4
^ 韓国における福沢諭吉: 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に 林, 宗元(Lim, Jong-won)韓国関東大学校教授 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
^ 中央日報、2002年の【噴水台】ブッシュと福沢においては、「多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした」という率直な評価が述べられている。
^ Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan
^ 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖 中央日報 2009.08.12
^ 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙 中央日報 2005.11.20
^ 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に筑波大学 稲葉継雄
^ 慶應義塾 創立150年記念 未来をひらく 福沢諭吉展。
関連事項
儒学 - 国学 - 蘭学
武士 - 居合 - 立身新流
進脩館 - 適塾
慶應義塾 - 専修学校 (旧制)
明六社 - 明六雑誌
日本学士院 - 東京地学協会
興亜会
交詢社
三菱商業学校(明治義塾)
大坂
中津市
福澤諭吉旧居
幕末の人物一覧
明治の人物一覧
京都集書院
明治時代
文明政治の六条件
皇室制度
科学
経済
数学
演説
簿記
脱亜論
時事新報論集
脱亜思想
亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説
土地は併呑す可らず国事は改革す可し
支那人親しむ可し
修身要領
福澤賞
福澤心訓
高尚
文銭堂本舗
経世済民
アジア主義
甲申政変 - 開化派
長沼事件
思想史 - 近代日本思想大系 - 現代日本思想大系
仮名垣魯文
志摩三商会
ニカラグア運河
ハングル
日本の海洋国家論
一万円紙幣
親交が深かった人物・同門の人物
影響を受けた人物
影響を与えた人物
- 明治以後、福澤の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物(慶應義塾関係者を除く)。
参考文献
「福沢」「福澤」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。
外部リンク
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Fukuzawa Yukichi
From Wikipedia
Fukuzawa Yukichi 福澤 諭吉 |
|
Born |
(1835-01-10)January 10, 1835
Nakatsu, Oita, Japan |
Died |
February 3, 1901(1901-02-03) (aged 66)
Tokyo, Japan |
Other names |
Shi-I (子圍) Sanjyū-ikkoku-jin (三十一谷人) |
Fukuzawa Yukichi (福澤 諭吉, January 10, 1835 – February 3, 1901) was a Japanese author, writer, teacher, translator, entrepreneur and journalist who founded Keio University, Jiji-Shinpō (a newspaper) and the Institute for Study of Infectious Diseases.
Fukuzawa was an early Japanese civil rights activist and liberal ideologist. Fukuzawa's ideas about the government work,[clarification needed] and the structure of social institutions made a lasting impression on a rapidly changing Japan during the Meiji period.
Fukuzawa is regarded as one of the founders of modern Japan.
Early life
Monument of NAKATSU-Han warehouse and FUKUZAWA YUKICHI birthplace, at Hotaru-machi, Fukushima-ku, Osaka City, Japan.
Fukuzawa Yukichi was born into an impoverished low-ranking samurai family of the Okudaira Clan of Nakatsu (now Ōita, Kyushu) in 1835. His family lived in Osaka, the main trading center for Japan at the time.[1] His family was poor following the early death of his father, who was also a Confucian scholar. At the age of 5 he started Han learning, and by the time he turned 14 had studied major writings such as the Analects, Tao Te Ching, Zuo Zhuan and Zhuangzi.[2] Fukuzawa was greatly influenced by his lifelong teacher, Shōzan Shiraishi, who was a scholar of Confucianism and Han learning. When he turned 19 in 1854, shortly after Commodore Matthew C. Perry's arrival in Japan, Fukuzawa's brother (the family patriarch) asked Yukichi to travel to Nagasaki, where the Dutch colony at Dejima was located, in order to enter a school of Dutch studies (rangaku). He instructed Yukichi to learn Dutch so that he might study European cannon designs and gunnery.
Fukuzawa Yukichi (posing with the photographer's twelve year old daughter: Theodora Alice Shew) in San Francisco, 1860.
Fukuzawa spent the beginning of his walk of life just trying to survive the backbreaking yet dull life of a lower-level samurai in Japan during the Tokugawa period.[2] Although Fukuzawa did travel to Nagasaki, his stay was brief as he quickly began to outshine his host in Nagasaki, Okudaira Iki. Okudaira planned to get rid of Fukuzawa by writing a letter saying that Fukuzawa's mother was ill. Seeing through the fake letter Fukuzawa planned to travel to Edo and continue his studies there because he knew he would not be able to in his home domain, Nakatsu, but upon his return to Osaka, his brother persuaded him to stay and enroll at the Tekijuku school run by physician and rangaku scholar Ogata Kōan[2]. Fukuzawa studied at Tekijuku for three years and became fully proficient in the Dutch language. In 1858, he was appointed official Dutch teacher of his family's domain, Nakatsu, and was sent to Edo to teach the family's vassals there.
The following year, Japan opened up three of its ports to American and European ships, and Fukuzawa, intrigued with Western civilization, traveled to Kanagawa to see them. When he arrived, he discovered that virtually all of the European merchants there were speaking English rather than Dutch. He then began to study English, but at that time, English-Japanese interpreters were rare and dictionaries nonexistent, so his studies were slow.
In 1859, the Tokugawa shogunate sent the first diplomatic mission to the United States. Fukuzawa volunteered his services to Admiral Kimura Yoshitake. Kimura's ship, the Kanrin Maru, arrived in San Francisco, California, in 1860. The delegation stayed in the city for a month, during which time Fukuzawa had himself photographed with an American girl, and also found a Webster's Dictionary, from which he began serious study of the English language.
Political movements
Upon his return in 1860, Fukuzawa became an official translator for the Tokugawa bakufu. Shortly thereafter he brought out his first publication, an English-Japanese dictionary which he called "Kaei Tsūgo" (translated from a Chinese-English dictionary) which was a beginning for his series of later books. In 1862, he visited Europe as one of the two English translators in bakufu's 40-man embassy, the First Japanese Embassy to Europe. During its year in Europe, the Embassy conducted negotiations with France, England, the Netherlands, Prussia, and finally Russia. In Russia, the embassy unsuccessfully negotiated for the southern end of Sakhalin (in Japanese Karafuto).
The information collected during these travels resulted in his famous work Seiyō Jijō (西洋事情, "Things western"), which he published in ten volumes in 1867, 1868 and 1870. The books describe western culture and institutions in simple, easy to understand terms, and they became immediate best-sellers. Fukuzawa was soon regarded as the foremost expert on all things western, leading him to conclude that his mission in life was to educate his countrymen in new ways of thinking in order to enable Japan to resist European imperialism.
In 1868 he changed the name of the school he had established to teach Dutch to Keio Gijuku, and from then on devoted all his time to education. He had even added Public speaking to the educational system's curriculum.[2] While Keiō's initial identity was that of a private school of Western studies (Keio-gijuku), it expanded and established its first university faculty in 1890. Under the name Keio-Gijuku University, it became a leader in Japanese higher education.
After suffering a stroke on January 25, 1901, Fukuzawa Yukichi died on February 3. He was buried at Zenpuku-ji, in the Azabu area of Tokyo.[2] Alumni of Keio-Gijuku University hold a ceremony there every year on February 3.
Works
Fukuzawa's writings may have been the foremost of the Edo period and Meiji period. They played a large role in the introduction of Western culture into Japan.
English-Japanese Dictionary
In 1860, he published English-Japanese Dictionary ("Zōtei Kaei Tsūgo"). It was his first publication. He bought English-Chinese Dictionary ("Kaei Tsūgo") in San Francisco in 1860. He translated it to Japanese and he added the Japanese translations to the original textbook. In his book, he invented the new Japanese characters VU (ヴ) to represent the pronunciation of VU and VA (ヷ) to represent the pronunciation of VA. For example, the name Beethoven is written as ベートーヴェン in Japanese now.
All the Countries of the World, for Children Written in Verse
His famous textbook Sekai Kunizukushi ("All the Countries of the World, for Children Written in Verse", 1869) became a best seller and was used as an official school textbook. His inspiration for writing the books came when he tried to teach world geography to his sons. At the time there were no textbooks on the subject, so he decided to write one himself. He started by buying a few Japanese geography books for children, named Miyakoji ("City roads") and Edo hōgaku ("Tokyo maps"), and practiced reading them aloud. He then wrote Sekai Kunizukushi in six volumes in the same lyrical style. The first volume covered Asian countries, the second volume detailed African countries, European countries were discussed in the third, South American countries in the fourth, and North American countries and Australia in the fifth. Finally, the sixth volume was an appendix that gave an introduction to world geography.
An Encouragement of Learning
Between 1872 and 1876, he published 17 volumes of Gakumon no Susume ( 学問のすすめ, "An Encouragement of Learning" or more idiomatically "On Studying"[3]). In these texts, Fukuzawa outlines the importance of understanding the principle of equality of opportunity and that study was the key to greatness. He was an avid supporter of education and believed in a firm mental foundation through education and studiousness. In the volumes of Gakumon no Susume, influenced by Elements of Moral Science (1835, 1856 ed.) by Brown University President Francis Wayland, Fukuzawa advocated his most lasting principle, "national independence through personal independence." Through personal independence, an individual does not have to depend on the strength of another. With such a self-determining social morality, Fukuzawa hoped to instill a sense of personal strength among the people of Japan, and through that personal strength, build a nation to rival all others. His understanding was that western society had become powerful relative to other countries at the time because western countries fostered education, individualism (independence), competition and exchange of ideas.
An Outline of a Theory of Civilization
Fukuzawa published many influential essays and critical works. A particularly prominent example is Bunmeiron no Gairyaku ( 文明論之概略, "An Outline of a Theory of Civilization"[4]) published in 1875, in which he details his own theory of civilization. It was influenced by Histoire de la civilisation en Europe (1828; Eng. trans in 1846) by François Guizot and History of Civilization in England (1872–1873, 2nd London ed.) by Henry Thomas Buckle. According to Fukuzawa, civilization is relative to time and circumstance, as well in comparison. For example, at the time China was relatively civilized in comparison to some African colonies, and European nations were the most civilized of all.
Colleagues in the Meirokusha intellectual society shared many of Fukuzawa's views, which he published in his contributions to Meiroku Zasshi (Meiji Six Magazine), a scholarly journal he helped publish. In his books and journals, he often wrote about the word "civilization" and what it meant. He advocated a move toward "civilization", by which he meant material and spiritual well-being, which elevated human life to a "higher plane". Because material and spiritual well-being corresponded to knowledge and "virtue", to "move toward civilization" was to advance and pursue knowledge and virtue themselves. He contended that people could find the answer to their life or their present situation from "civilization." Furthermore, the difference between the weak and the powerful and large and small was just a matter of difference between their knowledge and education.
He argued that Japan should not import guns and materials. Instead it should support the acquisition of knowledge, which would eventually take care of the material necessities. He talked of the Japanese concept of being practical or pragmatic (実学, jitsugaku) and the building of things that are basic and useful to other people. In short, to Fukuzawa, "civilization" essentially meant the furthering of knowledge and education.
Criticism
Fukuzawa was later criticized[citation needed] as a supporter of Japanese imperialism because of an essay "Datsu-A Ron" ("Escape from Asia") published in 1885 and posthumously attributed to him, as well as for his support of the First Sino-Japanese War (1894–1895). Yet, "Datsu-A Ron" was actually a response to a failed attempt by Koreans to organize an effective reform faction. The essay was published as a withdrawal of his support.
According to Fukuzawa Yukichi no Shinjitsu ("The Truth of Fukuzawa Yukichi", 2004) by Yō Hirayama, this view is a misunderstanding due to the influence of Mikiaki Ishikawa, who was the author of a biography of Fukuzawa (1932) and the editor of his Complete Works (1925–1926 and 1933–1934). According to Hirayama, Ishikawa inserted anonymous editorials into the Complete Works, and inserted historically inaccurate material into his biography. In fact, says Hirayama, Fukuzawa did criticize the Chinese and Korean governments but he did not discriminate against the Chinese and Korean people. Discriminatory statements attributed to Fukuzawa, he says, were actually due to Ishikawa.
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The material in Fukuzawa Yukichi Complete Works (1958–1964) volumes 1 to 7 must be distinguished from that in volumes 8 to 16. Volumes 1 to 7 contain signed works, but the Jiji Shinpō editorials in volumes 8 to 16 are almost all unsigned works chosen by Ishikawa. Six of the editorials in volume 16 were written six months after Fukuzawa's death, and of course cannot have been written by Fukuzawa. |
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Legacy
Fukuzawa's most important contribution to the reformation effort, though, came in the form of a newspaper called Jiji Shinpō (時事新報, "Current Events"), which he started in 1882, after being prompted by Inoue Kaoru, Ōkuma Shigenobu, and Itō Hirobumi to establish a strong influence among the people, and in particular to transmit to the public the government's views on the projected national assembly, and as reforms began, Fukuzawa, whose fame was already unquestionable, began production of Jiji Shinpo, which received wide circulation, encouraging the people to enlighten themselves and to adopt a moderate political attitude towards the change that was being engineered within the social and political structures of Japan. He translated many books and journals into Japanese on a wide variety of subjects, including chemistry, the arts, military and society, and published many books (in multiple volumes) and journals himself describing Western society, his own philosophy and change, etc.
Fukuzawa was one of the most influential people ever that helped Japan modernize into the country it is today. He never accepted any high position and remained a normal Japanese citizen for his whole life. By the time of his death, he was revered as one of the founders of modern Japan. All of his work was written and was released at a critical juncture in the Japanese society and uncertainty for the Japanese people about their future after the signing of the Unequal treaties, their realization in the weakness of the Japanese government at the time (Tokugawa Shogunate) and its inability to repel the American and European influence. It should also be noted that there were bands of samurai that forcefully opposed the Americans and Europeans and their friends through murder and destruction. Fukuzawa was in danger of his life as a samurai group killed one of his colleagues for advocating policies like those of Fukuzawa. Fukuzawa wrote at a time when the Japanese people were undecided on whether they should be bitter about the American and European forced treaties and imperialism, or to understand the West and move forward. Fukuzawa greatly aided the ultimate success of the pro-modernization forces.
Fukuzawa appears on the current 10,000-yen banknote and has been compared to Benjamin Franklin in the United States. Franklin appears on the similarly-valued $100 bill. Although all other figures appearing on Japanese banknotes changed when the recent redesign was released, Fukuzawa remained on the 10,000-yen note.
Yukichi Fukuzawa's former residence in the city of Nakatsu in Ōita Prefecture is a Nationally Designated Cultural Asset. The house and the Yukichi Fukuzawa Memorial Hall are the major tourist attractions of this city.[5]
Yukichi Fukuzawa was a firm believer that Western education surpassed Japan's. However, he did not like the idea of parliamentary debates. As early as 1860, Yukichi Fukuzawa traveled to Europe and the United States. He believed that the problem in Japan was the undervalued mathematics and science.[citation needed] Also, these suffered from a "lack of the idea of independence". The Japanese conservatives were not happy about Fukuzawa's view of Western education. Since he was a family friend of conservatives, he took their stand to heart. Fukuzawa later came to state that he went a little too far.[6]
One words sums up his entire theme and that is "independence". Yukichi Fukuzawa believed that national independence was the framework to society in the West. However, to achieve this independence, as well as personal independence, Fukuzawa advocated Western learning. He believed that public virtue would increase as people became more educated.[1]
Bibliography
Original Japanese books
- English-Japanese dictionary (増訂華英通語 Zōtei Kaei Tsūgo, 1860)
- Things western (西洋事情 Seiyō Jijō, 1866, 1868 and 1870)
- Rifle instruction book (雷銃操法 Raijyū Sōhō, 1867)
- Guide to travel in the western world (西洋旅案内 Seiyō Tabiannai, 1867)
- Our eleven treaty countries (条約十一国記 Jyōyaku Jyūichi-kokki, 1867)
- Western ways of living: food, clothes, housing (西洋衣食住 Seiyō Isyokujyū, 1867)
- Handbook for soldiers (兵士懐中便覧 Heishi Kaicyū Binran, 1868)
- Illustrated book of physical sciences (訓蒙窮理図解 Kinmō Kyūri Zukai, 1868)
- Outline of the western art of war (洋兵明鑑 Yōhei Meikan, 1869)
- Pocket almanac of the world (掌中万国一覧 Shōcyū Bankoku-Ichiran, 1869)
- English parliament (英国議事院談 Eikoku Gijiindan, 1869)
- Sino-British diplomatic relations (清英交際始末 Shin-ei Kosai-shimatsu, 1869)
- All the countries of the world, for children written in verse (世界国尽 Sekai Kunizukushi, 1869)
- Daily lesson for children (ひびのおしえ Hibi no Oshie, 1871) - These books were written for Fukuzawa's first son Ichitarō and second son Sutejirō.
- Book of reading and penmanship for children (啓蒙手習の文 Keimō Tenarai-no-Fumi, 1871)
- Encouragement of learning (学問のすゝめ Gakumon no Susume, 1872–1876)
- Junior book of ethics with many tales from western lands (童蒙教草 Dōmō Oshie-Gusa, 1872)
- Deformed girl (かたわ娘 Katawa Musume, 1872)
- Explanation of the new calendar (改暦弁 Kaireki-Ben, 1873)
- Bookkeeping (帳合之法 Chōai-no-Hō, 1873)
- Maps of Japan for children (日本地図草紙 Nihon Chizu Sōshi, 1873)
- Elementary reader for children (文字之教 Moji-no-Oshie, 1873)
- How to hold a conference (会議弁 Kaigi-Ben, 1874)
- An Outline of a Theory of Civilization (文明論之概略 Bunmeiron no Gairyaku, 1875)
- Independence of the scholar's mind (学者安心論 Gakusya Anshinron, 1876)
- On decentralization of power, advocating less centralized government in Japan (分権論 Bunkenron, 1877)
- Popular economics (民間経済録 Minkan Keizairoku, 1877)
- Collected essays of Fukuzawa (福澤文集 Fukuzawa Bunsyū, 1878)
- On currency (通貨論 Tsūkaron, 1878)
- Popular discourse on people's rights (通俗民権論 Tsūzoku Minkenron, 1878)
- Popular discourse on national rights (通俗国権論 Tsūzoku Kokkenron, 1878)
- Transition of people's way of thinking (民情一新 Minjyō Isshin, 1879)
- On national diet (国会論 Kokkairon, 1879)
- Commentary on the current problems (時事小言 Jiji Shōgen, 1881)
- On general trends of the times (時事大勢論 Jiji Taiseiron, 1882)
- On the imperial household (帝室論 Teishitsuron, 1882)
- On armament (兵論 Heiron, 1882)
- On moral training (徳育如何 Tokuiku-Ikan, 1882)
- On the independence of learning (学問之独立 Gakumon-no Dokuritsu, 1883)
- On the national conscription (全国徴兵論 Zenkoku Cyōheiron, 1884)
- Popular discourse on foreign diplomacy (通俗外交論 Tsūzoku Gaikōron, 1884)
- On Japanese womanhood (日本婦人論 Nihon Fujinron, 1885)
- On men's moral life (士人処世論 Shijin Syoseiron, 1885)
- On moral conduct (品行論 Hinkōron, 1885)
- On association of men and women (男女交際論 Nannyo Kosairon, 1886)
- On Japanese manhood (日本男子論 Nihon Nanshiron, 1888)
- On reverence for the Emperor (尊王論 Sonnōron, 1888)
- Future of the Diet; Origin of the difficulty in the Diet; Word on the public security; On land tax (国会の前途 Kokkai-no Zento; Kokkai Nankyoku-no Yurai; Chian-Syōgen; Chisoron, 1892)
- On business (実業論 Jitsugyōron, 1893)
- One hundred discourses of Fukuzawa (福翁百話 Fukuō Hyakuwa, 1897)
- Foreword to the collected works of Fukuzawa (福澤全集緒言 Fukuzawa Zensyū Cyogen, 1897)
- Fukuzawa sensei's talk on the worldly life (福澤先生浮世談 Fukuzawa Sensei Ukiyodan, 1898)
- Discourses of study for success (修業立志編 Syūgyō Rittishihen, 1898)
- Autobiography of Fukuzawa Yukichi (福翁自伝 Fukuō Jiden, 1899)
- Reproof of "the essential learning for women"; New essential learning for women (女大学評論 Onnadaigaku Hyōron; 新女大学 Shin-Onnadaigaku, 1899)
- More discourses of Fukuzawa (福翁百余話 Fukuō Hyakuyowa, 1901)
- Commentary on the national problems of 1877; Spirit of manly defiance (明治十年丁丑公論 Meiji Jyūnen Teicyū Kōron; 瘠我慢の説 Yasegaman-no Setsu, 1901)
English translations
- The Autobiography of Yukichi Fukuzawa, Revised translation by Eiichi Kiyooka, with a foreword by Carmen Blacker, NY: Columbia University Press, 1980 [1966], ISBN 0-231-08373-4
- The Autobiography of Yukichi Fukuzawa, Revised translation by Eiichi Kiyooka, with a foreword by Albert M. Craig, NY: Columbia University Press, 2007, ISBN 978-0-231-13987-8
- The Thought of Fukuzawa series, (Paperback) Keio University Press
- vol.1 An Outline of a Theory of Civilization, Translation by David A. Dilworth, G. Cameron Hurst, III, 2008, ISBN 978-4-7664-1560-5
- vol.2 An Encouragement of Learning, Translation by David A. Dilworth, 2012, ISBN 978-4-7664-1684-8
- vol.3 Fukuzawa Yukichi on Women and the Family, Edited and with New and Revised Translations by Helen Ballhatchet, 2017, ISBN 978-4-7664-2414-0
- Vol.4 The Autobiography of Fukuzawa Yukichi. Revised translation and with an introduction by Helen Ballhatchet.
Notes
See also
References
- Adas, Michael; Stearns, Peter; Schwartz, Stuart (1993), Turbulent Passage: A Global History of the Twentieth Century, Longman Publishing Group, ISBN 0-06-501039-6
- Nishikawa, Shunsaku (西川俊作) (1993), "FUKUZAWA YUKICHI (1835-1901)" (PDF), Prospects: the quarterly review of comparative education, UNESCO, vol. XXIII (no. 3/4): 493–506, archived from the original (PDF) on 2015-04-15 () - French version (Archive)
Further reading
- Lu, David John (2005), Japan: A Documentary History: The Dawn of History to the Late Tokugawa Period, M.E. Sharpe, ISBN 1-56324-907-3
- Kitaoka, Shin-ichi (March–April 2003), "Pride and Independence: Fukuzawa Yukichi and the Spirit of the Meiji Restoration (Part 1)", Journal of Japanese Trade and Industry, Japan Economic Foundation, archived from the original on 2003-03-31
- Kitaoka, Shin-ichi (May–June 2003), "Pride and Independence: Fukuzawa Yukichi and the Spirit of the Meiji Restoration (Part 2)", Journal of Japanese Trade and Industry, Japan Economic Foundation, archived from the original on 2003-05-06
- Albert M. Craig (2009), Civilization and Enlightenment: The Early Thought of Fukuzawa Yukichi (Hardcover ed.), Cambridge: Harvard University Press, ISBN 978-0-674-03108-1
- Tamaki, Norio (2001), Yukichi Fukuzawa, 1835-1901: The Spirit of Enterprise in Modern Japan (Hardcover ed.), United Kingdom: Palgrave Macmillan, ISBN 0-333-80121-0
- (in French) Lefebvre, Isabelle. "La révolution chez Fukuzawa et la notion de jitsugaku Fukuzawa Yukichi sous le regard de Maruyama Masao" (Archive). Cipango. 19 | 2012 : Le Japon et le fait colonial II. pp. 79-91.
- (in French) Maruyama, Masao (丸山真雄). "Introduction aux recherches philosophiques de Fukuzawa Yukichi" (Archive). Cipango. 19 | 2012 : Le Japon et le fait colonial II. pp. 191-217. Translated from Japanese by Isabelle Lefebvre.
- (in Japanese) Original version: Maruyama, Masao. "Fukuzawa ni okeru jitsugaku no tenkai. Fukuzawa Yukichi no tetsugaku kenkyū josetsu" (福沢に於ける「実学」の展開、福沢諭吉の哲学研究序説), March 1947, in Maruyama Masao shū (丸山真雄集), vol. xvi, Tōkyō, Iwanami Shoten, (1997), 2004, pp. 108-131.
External links
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