12 聖徳太子(下)
聖徳太子が冠位をお定めになったり、憲法をお作りになったりして、国家の基本が固
められた事は、内政の上で頗る重大な御事蹟でありましたが、外交の方面でもまた目ざ
ましい御働きがありました。それまで支那は、南と北とに別々の国が建てられて対立し
ていましたが、やがてその双方が統一して、隋と云う強力な国家が作られました。その
隋の煬帝(ようだい)が、父の後を承けて王位に登ったのが西暦六〇五年、我が国では
憲法十七条の作られた翌年に当たります。煬帝は久し振りに支那大陸を統一して意気揚
々たる勢いで、年号も大業元年とつけました。その大業三年に、煬帝は日本の使節小野
妹子から国書即ち外交文書を受け取りました。支那では自分を大国として、周囲の国を
小国とし、小国は大国の前に屈従すべきものと考える習慣があるので、日本からの国書
も、必ずその様な内容又は態度であろうと期待していました。ところが開けて見て驚い
た。そこには、
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」
と、全く対当に書いてあるではありませんか。煬帝は不機嫌になって、外務の役人に向
かい、この様な無礼な外交文書は、二度と取り次がない様に、と命令した事が、これは
隋の歴史「隋書」に明瞭に記されているのです。
外交文書は気に入らなかったが、日本との通交は希望するところであったので、煬帝
はその翌年妹子が帰朝する時、外交官裴世清(はいせいせい)を添えて日本へ送りまし
た。聖徳太子は盛大に之を歓迎し優遇せられましたが、その隋に帰る時には、また小野
妹子を大使として遣わされました。この時持って行った国書は、日本書紀に載せてあり
ます。その書き出しには、
「東の天皇、敬って西の皇帝に白す。」
とあって、文字こそ違え、意味も態度も前年のものと同じであります。かように対当の
外交は、支那では非常に珍しい事で、さればこそ随書にも特に記されてあり、後々まで
も長く語りつがれたのでありますが、これは全く聖徳太子の高い御見識から出た事であ
ります。
国家としては、どのような強大な国とも、対当で交わって、決して卑屈な態度は取ら
れなかったが、しかし聖徳太子は、孤立独善を善いとは思われず、外国の学問は、之を
学び、外国の文化は、之を取り入れようとつとめられました。小野妹子が二度目の渡海
に当たって、
福因、恵明、玄理、大国、日文、請安、恵隠、広斉
以上の留学生を遣われました。これは皆帰化人もしくはその子孫であって、朝廷が外国
から帰化した人々を、あたたかく待遇された事も分かれば、それらの人々が我が国の文
化の発展に貢献した事も、これで知られましょう。またこの時の留学生八人のうち二人
は三十一年後に、別の二人は三十二年後に帰って来た事を考えますと、仕事をあわてず
に、十分研究して来る様に、と云う御方針であったろうと思われます。
太子は憲法を作り、冠位を定めて、国家の本質を純化し、制度を明確にしようとされ
ましたが、国体つまり国柄と云うものは、歴史から出てくるものですから、法制の規定
だけでは不十分で、どうしても歴史を調べ、由来を明らかにしてこなければなりません
。そこで太子は、大臣蘇我馬子と相談して、歴史の編修に力を致されました。そして天
皇記・国記を始め、主な豪族の歴史が書かれたのでありました。
いよいよ歴史を書くとなれば、必要なのは年月です。神話とか、物語とか、云うもの
は、「昔々ある時に」で済みますが、それでは歴史にならないのです。「何時、何処で
」と云う時間と空間の規定が無いのでは、歴史にはならないでしょう。然し我が国では
、長い間、いろいろの出来事が、口伝で伝わって来ただけですから、今歴史を書くに当
たって、この点で困られたに違いありません。そこへ支那の讖緯(しんい)の説が入っ
て来て、凡そ歴史と云うものは、千二百六十年で大きく変わるものだ、と主張し、殊に
その際、転回期は辛酉の年だ、と説いたでしょう。そこでその原則を採用して、推古天
皇の九年辛酉の年を、新しい時代の出発点とし、神武天皇の建国をそれより千二百六十
年前の辛酉の年に違いないときめて、伝えられた物語を、その間に配列していっただろ
うと云う事、すでに前に皇紀の条で述べました。
この推定によって、古い時代の年月が延び過ぎた事は致し方無いとして、推古天皇の
御代が、新しい時代を開くものだとの考えは、聖徳太子の輝かしい新政を目の前にして
人々にとっては、正に実感を以て迎えられたに相違ありません。殊にそれが新しい時代
と考えられたのは、仏教が公然とひろまり、寺院が美しく建てられた点に、重大なより
どころがあったでありましょう。
12a 聖徳太子(下)
仏教渡来の初め、蘇我稲目は喜んで之を迎え、物部尾興と中臣鎌子とは嫌って之に反
対した事は、前に述べた通りで、一応反対派が勝って、仏像は難波の堀江に棄てられ、
寺院は火をつけて焼かれましたが、蘇我氏はその信仰を捨てません。用明天皇の御代に
は、それぞれ親の考えをうけついで、一方は蘇我馬子、他の一方は物部守屋と中臣勝海
、双方にわかれて争いましたが、やがて勝海も守屋も殺されてしまい、蘇我氏が絶対優
勢となり、従って仏教は盛んになりました。
その仏教を深く研究せられましたのは、聖徳太子です。憲法の第二条に「篤く三宝を
敬へ」と諭された事は、すでに述べましたが、太子は宮中において、法華経や勝鬘経(
しょうまんぎょう)を御自身で講義し、説明せられました。殊に驚くべきは、お経の注
釈を作られた事です。それは、維摩経、勝鬘経、法華経の三つについて、それぞれその
義疏を作られたと云うのです。義疏とは、注釈の事です。三経の義疏の原本は、その一
部が後に失われましたが、それでも法華気疏だけは見事に残って今日に至り、ただ今は
御物(皇室の御宝物)として、宮中に安置せられてあります。それは昔から非常に重ん
ぜられ、写本もあれば、印刷本も出ましたが、今述べました御物の本は、聖徳太子の御
書きになった原本です。それが何時書かれたかは明瞭でありませんが、太子のお亡くな
りになりましたのは、推古天皇の三十年(西暦六二二年)ですから、それ以前である事
、云うまでもありません。即ち今よりかぞえて千三百五十年ばかり前のものです。金石
に文字を刻みつけたものは、これより古いのもありますけれども、紙に書かれたものと
しては、この太子の真筆法華義疏が、我が国では最古のものです。千三百五十年前と、
一口に云えば何でも無いようで、実は非常に長い長い年月です。何処の国へ行っても、
そう云う古い時代に、紙に書かれたものが残っていると云う例は、容易にありますまい
。あったとしても、それは岩窟の中や土中に秘匿されていたものでしょう。それにこの
法華義疏は、木造の建物の中に安置せられ、代々尊ばれて、千三百年を越え、千四百年
にもなろうとしているのです。日本の国柄は、こう云うところにも良く現れています。
聖徳太子の仏教御研究は、かように深かったのですが、世間一般の人の目にうつり、
その心を動かしたものは、むしろ寺院の建立であったでしょう。当時、飛鳥(奈良県)
には、蘇我馬子が法興寺を起てました。それも壮大なる堂塔をもっていたようですが、
太子が難波(大阪)にお建てになった四天王寺と、斑鳩(奈良県)に建てられた法隆寺
とは、今日に至るまで、人々の目を驚かし、深く尊ばれています。四天王寺は、仏教で
云う国土の四境(しきょう)を守る神々、即ち持国天・増長天・広目天及び多聞天を本尊
として祀り、海外交通の大切な港である難波の丘の上に建てられて、外国に対して我が
国を守ろうと云う願いをこめられたものですが、その建物は、中門・塔・金堂・講堂が、南
北一直線に列っていて、その形式は、朝鮮のものと同様ですが、法隆寺になると、前方
に中門、後方に講堂があり、その中央には、この二つを結ぶ線の、向かって左に塔、右
に金堂を建ててあります。これは外国に先例の無い配置で、全く日本独特のものであり
、太子の独創であろうと考えられてきました。
さあ、これ等の堂々たる大寺院が建てられると、人々は目を見張って之を眺め、胸を
躍らせて、その門をくぐったでしょう。我が国古来の神社は、その大きさにおいても、
気高さにおいても、決して劣るものではありませんが、すべて閑素に出来ており、それ
が神社の特色になっているのに、新しく建てられた寺院は、全然異様の意匠であり、装
飾に充ちたものであり、その中に安置される仏像は、今まで見た事も無ければ、聞いた
事も無い金銅の製作、燦然と輝いているでしょう。読経を聞けば、何の意味か分からな
いが、豊かな異国情調に、うっとりと夢の世界に誘われる想いがしたでありましょう。
建築の殊に美しいのは塔です。五重の塔が高くそばたち、その先端の九輪が、まっすぐ
に天を指してのびているのを仰ぎ見る時、人々はこの世ならぬ仏の浄土に想いを馳せた
でしょう。
かようにして推古天皇の御代、聖徳太子摂政の時は、新しい時代の始まりと考えられ
たに無理はありません。皇紀は実にこの時点において計算せられたので、それに実際の
年月との食い違いがあるとしても、歴史的意味は深いのです。
ところが不幸にして、この輝かしい時は長く続かず、国家は重大なる難関にさしかか
りました。それは聖徳太子の御病死であります。太子は、今こそ推古天皇の摂政であら
せられますが、皇太子でありますから、やがては当然御叔母天皇の御譲りを受け、即位
せらるべき予定でありました。それが推古天皇の三十年二月二十二日の夜、病気の為に
おかくれになりました。御年は四十九歳でした。日本書紀に、その時の悲しみを述べて
、
「諸王諸臣及び天下の百姓悉く、長老は愛児を失ふが如く、味口にあれども嘗めず、
わかき者は慈父母をうしなふが如く、泣きいさつる声、みちに満てり。乃ち耕す人は耜
を止め、舂く女は杵をとらず。皆いふ、日月輝を失ひ、天地すでに崩れたり、今より後
、誰をかたのまんやと。」
と記しています。高句麗の僧恵慈(えじ)の如きは、「太子がおかくれになった以上、
我ひとり生きていても仕方が無い、来年の御命日には死ぬ事にする」と云って、その通
り亡くなったと云います。
聖徳太子おかくれの後、六年たって、推古天皇もまたおかくれになりました。本来な
らば、その後をおつぎになるべき聖徳太子が、すでにいまさず、そして皇太子をおきめ
にならずに天皇もおかくれになったので、どなたが皇位をおつぎになるかが、問題にな
りました。その時、大臣は蘇我馬子の子蝦夷でありました。蘇我氏は、応神天皇御幼少
の時に朝廷のいわば大黒柱となって大功のあった武内宿禰の子孫であり、本へ遡れば孝
元天皇から出ている名門ですが、稲目の子馬子の代になると、勢力の強くなるにつれて
、驕慢になり、我侭にふるまうようになりました。用明天皇・推古天皇の御母も、稲目の
女であれば、崇峻天皇の御母も、稲目の女でありました。即ち蘇我氏は外戚(母方の親
戚)として、その勢力は他の重臣を威圧するものがありました。用明天皇おかくれの時
、馬子は推古天皇をお立てしようとして、之に反対する皇族と物部守屋とを殺しました
。崇峻天皇は、御母は蘇我氏の出ではありましたけれども、馬子のかような我侭を、非
常にお憎みになりました。その噂を漏れ聞いた馬子は、駒と云う帰化人をつかって、天
皇を弑したてまつりました。そのあと、御即位になりましたのが、推古天皇です。
そこで聖徳太子が摂政におなりの頃は、馬子全盛の時代でありました。太子の御聡明
を以てして、馬子の暴逆に気がつかれない筈はありません。しかも之を処分せられなか
ったのは、処分しきるためには、国の運命をかけなければならぬ程の危険性があったか
らでしょう。そこで憲法や冠位をお作りになって、君臣の別を明らかにし、上下の秩序
を立て、同時に仏教の力を借りて、人々に反省を求められたのでありましょう。それが
有終の美をなさずに、太子がおかくれになり、間も無く馬子の後をついだ蘇我蝦夷は、
父以上に驕慢であり、我侭であったので、問題はいよいよ深刻になりました。
蝦夷の悪事、その第一は、推古天皇の次には、山背大兄王を排除して、敏達天皇の御
孫欽明天皇をお立てしようとし、之に反対する境部摩理勢を殺した事です。聖徳太子が
生きておいでならば御即位になるべきところですから、おかくれの今は、御子山背大兄
王が御相続になるべき事と、人々は思いもしたでしょうし(日本武尊御早世の後、その
御子仲哀天皇がお立ちになったように)、御人柄からも人望の高かったのに、蝦夷は山
背大兄王を排除し、そしてその子入鹿に至っては、王の一家を攻め滅ぼしてしまったの
でした。
彼の悪事の第二は、自分の先祖を祭るのに、帝王の礼を以てし、ひろく国民を徴発し
て、自分父子の墓を造らせ、蝦夷の墓は、大陵と呼び、子の入鹿の墓は、小陵と呼ばせ
、聖徳太子の御子孫に奉仕する事にきまっていた人々を、勝手に自分の墓につかい、「
天に二つの日無く、国にふたりの王無し」と云って、蘇我のこの我侭を憤慨せられた太
子の御遺族を亡ぼしてしまった事です。
第三の悪事は、蝦夷、朝廷に出勤しないで、勝手に子の入鹿に紫の冠を授け、ほしい
ままに大臣の待遇をした事です。
その蝦夷の子が入鹿ですが、これは親の蝦夷さえあきれる程の悪逆な男で、聖徳太子
の御遺族を亡ぼした後、いよいよ思いあがって、父の家を「うえつみかど」、自分の家
を「はざまのみかど」と呼び、自分の子供を「みこ」と云いました。父の家は丘の上に
あり、自分の家は谷間に在ったのでしょうが、之を「みかど」と云うのは、僭越でしょ
う。「みかど」は御門、即ち天皇の御所の御門の事で、それから起こって、天皇を指し
奉って「みかど」と申し上げたのに、蘇我は自分の家を「みかど」と呼ばしめたのです
。そしてその家には、厳重なる防備を施し、自分の身辺には護衛兵五十人を置き、自分
の家へ出入りする者を「おやのこわらわ」と呼びました。「蘇我に対して、親分子分の
関係をもっている若者」と云う意味です。国家の紀綱は紊れた。蘇我氏の横暴に反対す
る者、今は無い。入鹿にして更に一歩を進めるならば、日本国はここに断絶しなければ
ならない情勢となりました。
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12 Prince Shoutoku [2]
Prince Shoutoku set the cap ranks and the constitution, thereby solidifying the
foundation of the nation. These were the most important accomplishments in
terms of internal governance; in international affairs, he delivered
performance of equal stature.
Until that time China was divided latitudinally into two kingdoms confronting
each other. Then came the powerful Kingdom of Sui, which unified the two. It
was 605 when Emperor Yang ascended the throne, succeeding his father. This was
the year after the Seventeen-Article Constitution was formulated in Japan.
Emperor Yang was ecstatic at his feat of unifyting the Chinese continent, so
the era was named Taiye, meaning "great accomplishment."
In the third year of the Taiye era (608), Emperor Yang received a diplomatic
document from the Japanese envoy Ono no Imoko. The custom of China was to
consider itself as the great central kingdom, regarding the surrounding countries as
minor. In this protocol, the minor country should submit to the great Kingdom
of China. Thus it expected the message to follow in content and attitude that
line of subjugation. But when the document was opened, they were aghast. Is
said:
"The son of Heaven in the land where the sun rises addresses a latter to the
Son of Heaven in the land where the sun sets. We hope you are in good health."
This was a letter from an equal to an equal. Emperor Yang was offended, and
ordered the bureaucrats of the international affairs ministry never to convey
such an insulting diplomatic document again. This is succinctly recorded in the
Histroy of Sui Dynasty (Suishu).
Even though Emperor Yang did not like the document, diplomatic ties with Japan
were desirable. So he sent a Chinese diplomat Pei Shiqing to accompany Ono no
Imoko when he returned to Japan the next year. Prince Shoutoku welcomed the
Chinese envoy, and treated him well. When the time came for Pei Shiqing to
return to Sui, the Prince sent Ono no Imoko again as the Envoy of Japan. The
diplomatic document that Ono no Imoko took this time has been also recorded in
Chronicles of Japan (Nihon Shoki). It begins:
"The Emperpr of the East respectfully address the Emperor of the West."
The phrasing was different, but the meaning and the attitude behind it was the
same as the previous year. In China, such diplomacy between equals was very
rare, and therefore the incidents were recorded in their state history, and
talked about for generations. All this was attributable to the judgement of
Prince Shoutoku.
The Prince felt that Japan should not be diplomatically submissive when
dealing with powerful neighbouring nations, but neither did he believe in
ethnocentric isolation. Thus he actively adopted the scholarship and culture of
foreign countries. When Ono no Imoko went to China for the second time, the
Prince had eight students accompany him: Fukuin, Emyou, Kuromaro, Ohkuni,
Nichimon, Shouan, Eon, Kousai. They were either immigrants themselves, or the
descendants of immigrants to Japan. This indicates that the Japanese Court
valued the immigrants, and they contributed in return to the development of
Japanese civilization. Incidentally, of these eight students, two returned to
Japan after thirty-one years, and another two after thirty-two years. The
Prince's policy must have been to let them pursue scholarship without haste, taking
time.
Thus the Prince devised the constitution and set the cap ranks, thereby
defining the internal nature of the nation and instituting the political and
legal systems. However, the essence of the nation, or the national character,
permeates through history. So devising the political and legal systems was not
enough; the history of Japan must be investigated. The Prince, assisted by Soga
no Umako, the Great Minister, set about the compilation of history. Chronicles
of Emperors (Tennouki), National History (Kokki), and histories of the major clans
were transcribed at this time.
In such an enterprise, the necessity to use dates became urgent. Myth and
tales can start with "once upon a tine," but that is not history. History is
defined by time, "when ?" and space, "where ?". In Japan, events had been
orally transmitted, lacking definition in time and space. That is why the
principles of interpreting astronomical phenomena as causes for earthly matters
were adopted from China.
According to this system, major historical changes occur every 1260 years, and
revolutionary changes occur only in kanoto-bird years. Therefore the 9th year
of Emperor Suiko (601), which was the kanoto-bird year, was calibrated as the
beginning of the new era, and the kanoto-bird year 1260 yeas previous (660
B.C.) was set as the year of founding of the nation by Emperor Jinmu. The
historical events were accordingly placed into that interval, as I explained in
chapters 3 and 4 on "Imperial History."
Because of this reasoning, the ancient periodization of Japan was necessarily
stretched out. But the idea that the reign of Empress Suiko opened up a new
era must have a basis in reality. People saw new and brilliant government led
by Prince Shoutoku, and furthermore, they saw its concrete outcome in the
construction of the beautiful and majestic temples that resulted from the
open-handed adoption of Buddhism.
When Buddhism was first transmitted to Japan, Soga no Iname welcomed it, and
Mononobe no Okoshi and Nakatomi no Kamako disliked it and opposed its adoption,
as I have explaind. Seemingly the opposition won, the statue of Buddha was sunk in
a canal in Naniwa (Ohsaka), and the temples burnt. However, the Soga clan never
abandoned the faith. During the reign of Emperor Youmei (r. 585-587), the
second generation carried on their parent's convictions: on the one side, Soga
no Umako, and on the other, Mononobe no Moriya and Nakatomi no Katsumi fought
against each other. Eventually both Nakatomi no Katsumi and Mononobe no Moriya
were murdered, and the Soga clan rose in power. The adoption of Buddhism became
more widespread as well.
It was Prince Shoutoku who studied Buddhism in depth. As mentioned previously,
in the second article of the constitution he stated: "Sincerely reverence the
There Treasures (The Law, the Buddha, and the Priesthood)." In the Palace, the
Prince lectured on the Lotus Sutra and the Queen Srimala Sutra, explaining
their contents. Surprisingly, he also wrote commentaries to the Vimalakirti
Sutra, the Queen Srimala Sutra, and the Lotus Sutra.
Later some of these commentaries were lost, but the commentary for the Lotus
Sutra has been preserved, and is stored as an imperial treasure in the Palace.
It has been valued since antiquity. There are hand-copied and printed
reproductions, but the commentary stored as the imperial treasure is the original
hand-written version by the Prince. The date of production is not clear, but
it was written before the 30th year of the reign of Empress Suiko (622), when
the Prince passed away. That makes it about 1350 years old.
There are older inscriptions where writing is engraved on metal or stone. However, the
Lotus Sutra commentaty is the most ancient writing preserved on paper in Japan.
The span of 1350 years is indeed a long time. Cases of preserving such ancient
writing on paper are rare in the world, and they were hidden in caves or
underground. This commentary was stored in a wooden building, revered by every
generation, for neary 1400 years, portraying well the national character of
Japan.
Such was the depth of Prince Shoutoku's scholarship on Buddhism. But what was
visible to the people and touched their hearts was the Buddhist temple
buildings. At that time, in Asuka (Nara Prefecture), Soga no Umako built
Houkouji-Temple. It seems the building was equipped with great halls and
towers. However, Shitennouji-Temple in Ohsaka, and Houryuuji-Temple in Ikaruga
(Nara Prefecture) which the Prince built, continue till this day astound the
people, and have been revered deeply.
122 Prince Shoutoku [2]
The main Buddhist deities worshipped at Shitennouji-Temple are the deities who
protect the land in all directions, namely the Protector of the Eastern
Continent, the Protector of the Southern Continent, the Protector of the
Western Continent, and the Protector of the Northern Continent. The temple was
situated on the hill of Naniwa (Ohsaka), a major port for overseas
transportation, with the intention that it protect the nation against foreign
invasion.
There the middle gate, the tower, the main hall and the lecture hall are
aligned in one line, from north to south. The layout is identical with Korean
temples. Houryuuji-Temple, on the other hand, has the middle gate in the front
and the lecture hall at the back. In between the tower is built to the left and
the main hall to the right of the central dividing line. This layout is not
found in other countries, so it is considered the original design of the
Prince.
When these grand temples were built, people must have been amazed at their
gigantic scale and came to worship with pounding hearts. The ancient shrines of
Japan were comparable to these temples in scale and serenity. But simplicity
was the characteristic of the shrines, while the designs of the new temples
were completely different, ornate and decorrative. Gilt bronze Buddhas rested
inside, glistening and glowing. The chant of the sutras were incomprehensible
yet inviting like a dream. It was exoticism at its height. Particularly
beautiful were the towers. The five-storied pagoda rose straight, with is
nine-ringed spire pointing up to the sky. People saw this, and their thoughts
travelled afar to the unworldly Buddhist Pure Land.
It is natural that the era of the reign of Empress Suijo, during the Regency
of Prince Shoutoku, was considered the begining of a new age. And it was at
this point that the imperial history was calculated. Though it was off from the
actual periodization, the calculation carries much historical significance.
Unfortunately, such a time of glory did not last long. A grave crisis for the
nation came: the death of Prince Shoutoku, from an illness. He was then Crown
Prince and Regent of Empress Suiko, destined to ascend to the throne when his
aunt Empress Suiko retired. But on the night of the 22nd day of the second
month of the 30th year of the reign of Empress Suiko (622), the Prince passed
away. He was forty-nine years old. Chronicles of Japan (Nihon Shoki) recoreds
the grief:
"In the middle of the night the Imperial Prince Umayado no toyotomimi no
mikoto died in the Palace of Ikaruga. At this time all the Princes and Omi, as
well as the people of the Empire, the old, as if they had lost a dear child,
had no taste for salt and vinegar in their mouths, the young, as if they had
lost a belofed parent, filled the ways with the sound of their lamenting. The
farmer ceased from his plough, and the pounding woman laid down her pestle.
They all said: - "The sun and moon have lost their brightness; heaven and earth
have crumbled to ruin: henceforward, in whom shall we put our trust ?"
The Koguryo monk Hye-cha is said to have declared:
"And now the Imperial Prince is dead . . . Now what avails it that I alone should survive ?
I have determined to die on the 5th day of the 2nd month of next year."
The monk passed away in accordance with his words.
Six years afer the death of Prince Shotoku, Empress Suiko also passed away.
The Crown Prince who should succeed to the throne was gone, and the Empress
died without instituting the next Crown Prince, so the matter of succession
became a problem. At this time, the Great Minister was Soga no Emishi (?-645),
the son of Soga no Umako (?-626). This Soga clan was descended from Takeuchi no
Sukune, the meritorious central pillar in the court when Emperoe Ohjin (r. latter
half of 4th century) was a child. Further back in time, this was an
aristocratic clan descending from Emperor Kougen. When Soga no Umako, the son
of Soga no Iname (?-570) became the head of the clan, they gradually acquired
power and their attitude became more boastful; the mothers of Emperor Youmei and
Empress Suiko were both daughters of Soga no Iname, as was Emperor Sushun. In
other words, the Soga clan was related to the imperial family on the maternal
side. Their power surpassed all other ministers in court. When Emperor Youmei
passed away, Soga no Umako, in order to institute Empress Suiko, murdered
imperial family members and Mononobe no Moriya, who opposed him. Emperor Sushun
detested the self-indulgence of Soga no Umako even though he had a Soga
mother. Hearing of this, Soga no Umako assassinated the Emperor, using as agent
an immigrant by the name of Koma. Thereupon Empress Suiko ascended the throne.
When Prince Shoutoku was Regent, the power of Soga no Umako was at its height.
It was impossible for the intelligent Prince not to notice his tyranny.
Probably the Prince did not reprimand him because so much was at stake that it
would have shaken the destiny of the nation. And that may be why he composed
the constitution and set up the cap ranks, in order to delineate the lord and
the subjects, to establish vertical social order. He further urged
selfreflection by borrowing teachings from Buddhism. But that remained
incomplete; Prince passed away, and the Soga successor Emishi was even more
conceited and disobedient than his father Umako. A serious crisis developed.
The first crime of Soga no Emishi was to remove Prince Yamashiro no Oh-e from
succession to Empress Suiko, to institute Emperor Jomei (r. 593-641), the
grandson of Emperor Bidatsu (r. 572-585). In the process he murdered Sakaibe no
Marise, who opposed him. If Prince Shoutoku were alive he would have become
Emperor, and his son Prince Yamashiro no Oh-e would have been Crown Prince.
Thus it was the consensus that this Prince should succeed to the imperial
throne (as happened with the premature passing-away of Yamato Takeru no Mikoto,
where his son was inveated as Emperor Chuuai). Prince Yamashiro no Oh-e was of
noble character and commanded respect and affection from the people, but Soga
no Emishi disposed of the Prince, and Soga no Iruka (?-645), his son,
subsequently destroyed the entire household of the Prince.
The second crime of Soga no Emishi was to consecrate his own ancestors, with
rites set apart for the imperial family. He constructed a tomb for himself and
his son by widely conscripting labour. The tomb of Soga no Emishi was called "the
grand imperial tomb" and that for the son Iruka, "the lesser imperial tomb."
The people consripted for this construction were originally sllotted for
service in Prince Shoutoku's descendant's household. Enraged by this tyrannical
behavior, Prins Shoutoku's family said:
"In Heaven there are not two suns; in a state there cannot be two sovereigns."
However, Soga no Umako set forth to destroy the family.
The third crime was that Soga no Emishi conferred the Purple Cap to his son
Iruka without reporting to the court, and by his own auhtority treated him as
Minister.
The son Soga no Iruka was so incluned towards evil and treason that he even
stunned his father Emishi. After destroying the household of Prince Shoutoku,
Iruka's conceit saw no end. He called his father's house "Upper Majesty's
Palace," and his own, "Middle Majesty's Palace." He had his own child called a
"prince." Soga no Emishi the father's house was perhaps on the hill, and
Iruka's house at the valley; however, to call it "Majesty's (mikado) Palace"
was disrespectful. The term "Majesty (mikado)" referred originally to the gate
of the imperial house, and it developed philologically to mean "Emperor." Yet
the Soga clan had their houses referred to as "Majesty's (mikado)," They
protected their houses stringently; fifty men guarded the masters constatly,
who were called "his boys (oya no ko warawa)," meaning that youngsters were
related to the Soga Clan as children.
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少年日本史 (平泉澄)
The story of Japan (Hiraizumi Kiyoshi)
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