48 北条時宗
北条時頼の子は時宗ですが、この時宗の時に大国難に遭遇しました。蒙古(もうこ)
の襲来がそれでありました。支那歴代の王朝は、いつでも北方の異民族に苦しめられて
きました。秦の始皇帝は戦国を統一して強大な国家を建設しましたが、それでも北方民
族を恐れて、万里の長城を築き、三十万の兵を以て、之に備えました。秦の次に立った
漢も強く盛んな国でありましたが、北方民族には常に悩まされました。彼等は月夜を選
んで攻めて来、物を分捕り、人を捕らえて奴隷としました。彼等は寒さに強く、雪を問
題にしません。漢の高祖でさえ、彼等の四十万騎に囲まれて、すでに危うい事があった
程です。
今、我が国では鎌倉時代、支那では宋の国ですが、その頃、北方に頭をもたげてきた
のは、蒙古でした。偉大なる成吉思汗(じんぎすかん・西暦一一六二〜一二二七年)が出
ましたのが、我が国では源義経の出た時分です。くわしく云えば義経より三つ年下でし
たが、この人によって俄然蒙古の名は、世界にとどろくに至りました。彼は十三歳の時
に父を失い、以後みずから四方を攻略し、一生に間に他国を滅ぼすこと四十にのぼりま
した。その後を継いだ者、皆その志を承け、世祖せいそ)に至るまで、征戦七、八十
年、戦争につぐに戦争を以てし、侵略につぐに侵略を以てし、欧・亜両大陸の大半を取り
、東は朝鮮、南は印度支那より瓜哇(ジャワ)、西は東欧一帯に跨る空前の大帝国をつ
くりあげました。
世祖が帝位につきました時、我が国では北条時頼三十四歳、その子時宗わずか十歳で
した。世祖は至る所、重い税を取り立て、之に従わなければ、物を略奪し、人を殺すか
、捕らえて奴隷とするかでしたが、その手、東にのびては先ず朝鮮が犠牲になりました
。朝鮮はこれより前、高麗の高宗(こうそう)の代から、すでに蒙古に苦しめられてき
ました。一例をあげますと、高宗の十九年に、蒙古より受けた命令は、水獺(かわうそ
)の皮一千、貴族の子弟少年五百人、少女五百人、それにいろいろの技術家を献上せよ
と云うのでありました。どれも高麗にとっては非常に困る要求で、事情を述べて之を軽
減して貰おうとしますと、その使は捕らえられて奥地へ送られてしまいましたので、高
麗では恐れて都を江華島(こうかとう)へ移しました。高宗の四十一年(我が建長六年
)には、その一年間に、蒙古に生け捕られた高麗の男女は、二十万六千八百余人にのぼ
り、殺された者は数えきれなかったとあります。
そのうちに蒙古は方針をかえ、朝鮮を苦しめる事をやめ、之を味方として手先に使い
、日本を攻めようとするに至りました。我が文永五年(西暦一二六八年)、蒙古の使、
九州の大宰府へ着き、国書を届けました。その内容は、「今や世界万国は、皆蒙古の属
国となっている、高麗なども、初めは抵抗してみたが、力尽きて臣服するに至った。日
本は小国である、早く蒙古に従うが良い」と云うのですが、具体的には属国となって、
人質を出し、貢ぎ物をたてまつれと云うのであり、その文章の最後には、
「兵を用ふるに至ると、夫れいづれか好む所ぞ。王それ之を図れ。」
とありました。即ち「降参なり、戦争なり、どちらでも選択するが良い」と云う意味で
す。時に北条時宗十八歳、ただちに之を朝廷に申し上げます。朝廷では、蒙古の無礼な
る国書に対して返事を与えない事を決定せられ、時宗は全国の御家人に触れて、決戦を
用意をさせました。
文永六年、蒙古より二度目の使が来ました。その時、今度は我が国も卑屈な態度で返
事を出すのだと云う噂が立ちました。賀茂の正伝寺の住持慧安(えあん)は之を歎いて
、「蒙古は先ず高麗を破り、次に日本を攻め、この二つの兵力を合わせて、支那と印度
とを侵略する計画であると聞いたが、今や蒙古と高麗と、双方の服装も一致しており、
また蒙古の使となって国書を持って来るのが高麗人であるところをみれば、噂は正に事
実であり、計画は着々進んでいるに違いない」と云い、「早く彼の申し出を拒否して、
神国日本の威厳を保っていただきたい」と、お祈りをしたのでした。
この時、朝廷で返書を出そうとせられたのは事実ですが、然しその返書の草案は、菅
原道真の子孫菅原長成の作ったもので、実にすばらしい威厳に充ちた文章で、「蒙古と
云う国は、これまで聞いた事も無く、全然連絡の無かった国であるから、利害の関係も
無ければ、感情のもつれも無い、それをいきなり武力に訴えて要求を通そうとするとは
、乱暴もまた甚だしい、我が国は神国であって、知を以て競う事も、力を以て争う事も
出来ない、よく考えてみるが良い」と云う意味を、美しい名文で書かれたもの、決して
慧安が心配した如き卑屈な態度では無かったのでした。ところが之を蒙古に与えようと
して、幕府に示されたところ、時宗は、蒙古の無礼を非常に憤慨して、「あのような無
礼な者に、御返事を与えられるのは勿体ない事です、武力でおどしてきた者には、武力
で答えましょう」と申し上げ、返書は取り止められたのでした。
文永八年、蒙古は国の名を元(げん)と定めました。古い書物に、「元の全盛時代に
は、その属国となって貢ぎ物を届けた国は、一千以上にのぼった、全世界が之に服属し
たと云って良いであろう」と書いてありますが、その国号を「元」と定めましたのも、
「世界を統一する国」と云う意味からでありました。この時、北条時宗は二十一歳。海
外の動きには、絶えず注意しているので、元の勢力も、目的も、行動も、手に取るよう
に知っていました。
文永十一年十月、元の大軍来襲しました。蒙古と支那の兵、合わせて一万五千、別に
高麗の兵八千、戦艦九百余艘に分乗して、先ず対馬を襲いました。守護代宗資国、八十
騎の兵をひきいて奮戦し、一家全滅します。敵は進んで壱岐を侵しました。守護代平景
隆、百騎を以て之を迎え討ち、翌日力尽きて自決します。敵軍はいよいよ九州に上陸し
ます。少弐(しょうに)・大友・島津・臼杵・松浦・菊池・原田等の諸家、奮闘して之を防ぎ
ましたが、武器も戦術も違っていたので、容易ではありません。ところが激戦のあった
二十日の夜、大風雨の為に敵の戦艦は皆砕けて沈没し、溺死する者一万三千五百人あま
り、わずかに生き残った者は、悉く逃げ帰りました。
健治元年、元より使が来ました。時宗は、その無礼を責めて之を斬り、いよいよ国防
をきびしくしました。
弘安四年(西暦一二八一年)五月、元の大軍、再び来襲します。それは二手に分けら
れました。第一軍は朝鮮より攻め来るもの、その兵四万。第二軍は揚子江方面より来る
もの、その兵十万万。南北両軍競うて九州に迫りましたが、我が軍は、文永十一年の経
験によって、敵を上陸させない方針をとり、海岸一帯に設けられた石築地(いしついじ
)に拠って、波打ち際で之を討ち取る事に努めました。敵は上陸する事が出来ない為、
仕方なしに船を連ねて海上に浮かんでいるうち、七月晦日の夜より、閏七月一日の朝に
かけて、防風起こって大波立ち、海上の艦船は大半顛覆し、士卒多く溺死しました。そ
のあと、漸く生き残って、島々に上陸していたものは、我が軍の為に掃蕩せられて、殆
ど全滅しました。范文虎(はんぶんこ)と云うのは元の第二軍の司令官ですが、元史の
中の、この人の伝を見ますと、「文虎も海に落ちて、浪に漂う事、一昼夜であったが、
幸いに一枚の船板にしがみついて、生命は助かったものの、十万に余る士卒は、日本軍
の為に殺されて、逃げ帰る者わずかに三人」と書いてあります。
48a 北条時宗
文永・弘安の両度とも、暴風が日本に幸いしたものですが、然しそれは我が軍が勇敢に
戦って、容易に敵の上陸を許さず、敵兵は仕方なしに船に留まっていたからこそ、暴風
によって顛覆したのであります。それに弘安四年の大風以後、その掃蕩戦が頗る烈しか
った事は、家々の記録に見えています。善く戦ったのは、少弐、大友、島津、秋月、菊
池、竹崎、河野、大矢野等の将士でありました。
流石の元も、二度の失敗に懲りて、日本を侵略する事は、結局思い切りました。欧・亜
の両大陸、つまり当時の全世界、どこを攻めても必ず之を征服する事の出来た元も、日
本国だけは、どうにも出来なかったのです。それには、海中に独立している天険の利も
ありますが、いかなる大軍をも恐れず、勇戦奮闘して之を撃滅した将士の功績が大きく
、更にその根本には、朝廷及び幕府の毅然たる態度があった事を忘れてはなりません。
朝廷では、亀山上皇が、御身を以て国難に代わりたいと、伊勢大神宮に御祈りになり
ました。その事は、増鏡と云う書物に見えていますが、上皇の思し召しは、次に掲げる
御歌によって、拝察する事が出来ます。
世のためも風をさまれと思ふかな 花の都の春のあけぼの
ゆくすゑもさぞな栄えむ誓いあれば 神の国なる我が国ぞかし
ちはやぶる神の定めむわが国は うごかじものをあらがねの土
命にもかへばやとおもふ心をば 知らでや花のやすく散るらむ
この世には消ゆべき法のともし火を 身にかへてこそ我は照さめ
世のために身をば惜しまぬ心とも あらぶる神は照らし見るらむ
之を、前に菅原長成に命じて作らせられた元への返書の草案と照らし合わせて考えま
す時、朝廷における国体の自信がいかに強く、愛国の誠意がいかに熱烈であったかが、
うかがわれます。
次に幕府の中心人物は、云うまでもなく北条時宗、文永五年十八歳にして執権となり
、文永十一年には二十四歳、弘安四年には三十一歳の若さで、国防の全責任を双肩に担
い、海を覆うて襲い来る元の大軍を目の前にして微動もせず、遂によく之を粉砕したの
でした。済んだあとからみれば、何でも無かったように思われるものの、実際その当時
の苦心は、生やさしいものでは無かったでしょう。時宗は、支那より徳の高い禅僧を招
いて、心を養う上の指導者としました。支那では宋の国が、元の為に亡ぼされ、世の中
乱れた時でしたから、すぐれた人物は、喜んで日本国の招きに応じ、来朝して相談相手
になってくれました。文永六年に来ました正念は、時宗に向かって説きました。
分別の念を起す勿れ。
回避する処なかれ。
第一は、あれかこれかと分別し、小さい智慧を働かせて、くよくよしてはならぬ、と
云う事です。第二は、一歩も横へよけてはならぬ、いかなる強敵の襲撃も、真正面に之
を受けて、強烈に対決するが良い、と云うのです。時宗はこの忠告を受け取りました。
時宗の足取りをみるに、大戦を避けようとして動いた形跡は少しもありません。
弘安元年十二月、時宗は元の第二回の来襲近しとみて、禅僧二人を支那に派遣し、す
ぐれたる人物を求めさせました。白羽の矢が立てられたのは、祖元でした。時宗は、祖
元に対して、途中何人にも会う事なく、まっすぐに鎌倉へ来る事を頼みました。祖元は
それを承諾しました。彼はすでに支那において、元の兵士の乱暴を経験していました。
元の兵士、彼の寺を襲い、彼の首に刀をあてました。彼は少しも恐れず、落ちついて詩
をよみました。その詩の下の句は、
珍重す、大元三尺の剣、
電光影裏、春風を斬る、
と云うのでした。驚いたのは元の兵士、大いにあやまって逃げて行ったと云います。こ
のすばらしい人物が、迎えられて鎌倉へ来たのです。弘安四年、元の第二回の来襲の前
に、時宗は祖元をたずねました。祖元は、之に何を与えたかと云いますと、「煩悩する
なかれ」と云う教えでありました。どう云う意味ですかと時宗が尋ねたところ、「いず
れ春の終わりか夏の初めに、博多で騒ぎが起こるであろうが、心配するな、じきに静ま
るから」と云いました。祖元は弘安四年の来襲を事前にあらかじめ察知していたのです
。そして時宗に教えたのは、前の正念と同じく、「くよくよするな」と云うに尽きるの
でありました。
司令官があわてたり、恐れたりしては、話になりません。船では船長、飛行機では機
長、そして幕府では執権、これが大切なのです。文永・弘安二回の大国難に当たり、時宗
が執権の座にあった事は、日本国の大幸でありました。北条氏九代、時政より高時に至
り、よくない人物つづきました中に、ひとり時宗は、大国難に遭遇して、よく国防の重
責を果たし、北条一門の罪を償おうとしました。かえりみれば源氏は、尊王と尚武との
二つの長所と、残忍刻薄と云う欠点とをもっていました。その中から尊王を抜き去って
、尚武と残忍との性格のみ伝えたものが北条氏でありました。その北条九代の中で、日
本国の為に貢献するところの大きかったのは、時宗でありました。彼にもまた、弟を討つと云う欠点はありましたが、元の来襲を撃退した事は、大きな功績としなければなり
ません。
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48 Houjou Tokimune
Houjou Tokiyori had a son called Houjou Tokimune. When he was in power as
Regent, the country fornd itself in great dander. The Mongols attempted to
invade Japan.
Throughout history, successive Chinese dynasties were threatened by the
northern tribes. Emperor Shi (259-210 BC) of the Qin Dynasty unified the
warring states of ancient China and established a thriving centralized nation.
Even so, he was so threatened by the northern tribes that he built the Great
Wall, and defended it with 300,000 soldiers. The ensuing Han Dynasty China was
powerful and prosperous, but equally bothered by the northern tribes. They
attacked on moonlit nights, looted wealth, kidnapped and enslaved people. They
were so used to cold weather that snow did not deter them. Even Emperor Gao (r.
200-194 BC) was once surrounded by 400,000 northern horsemen and barely
escaped.
During the Kamakura period in Japan, and the Song Dynasty in China, the
Mongols rose in northern China. Their leader, the Great Genghis Khan
(1162-1227), was a contemporary of Minamoto no Yoshitsune (1159-1189) in Japan.
To be exact, Genghis Khan was three years younger than Minamoto no Yoshitsune.
Genghis Khan made Mongolia known to the world. He lost his father when he was
a boy of 13; during his lifetime, he destroyed more than 40 kingdoms. This
interminable lust for conquest was inherited by his successors. Till Khubilai
Khan (1215-1294) came into power, they pursued military conquest for a period
of 70 to 80 years, acquiring half of the European and Asian continents. They
ultimately built a grand empire which reached Korea in the east, Indochina and
Java in the south, and engulfed all of eastern Europe in the west.
When Khubilai Khan ascended to the throne, Houjou Tokiyori the Regent was 34
years old, and his heir Houjou Tokimune was only 10 years of age. Khubilai Khan
imposed heavy taxes everywhere, looting, killing and enslaving those who would
not submit. Eventually the eastward Mongolian expansion reached Korea. Korea
was harrassed by the Mongols from the time of King Kojong of the Koryo dynasty.
One example was a demand made to King Kojong in the 19th year of his reign:
1,000 otter-furs, 300 aristocrat boys, 300 aristocrat girls, and a wide variety
of artisans. Every demand was difficult to fill, so the Koreans sent an envoy
to try and negotiate. But the envoy was arrested and sent to the far interior.
Frightened, the Koreans moved their capital to Kangwha Island. A record tells
that in the 41st year of King Kojong's reign, which was the 6th year of Kenchou era
in Japan (1254), more than 206,800 Koreans were captured by the Mongols, and
many more were killed.
The Mongols then changed their tactics. They stopped harassing the Koreans.
Instead, using them as their frontline soldiers, they planned an invasion of
Japan. The Mongolian envoy arrived at Dazaifu, the Government Headquarters in
Kyuushuu, in the 5th year of the Bun'ei era (1268). The envoy delivered their
sovereign's latter which said: "All kingdoms of the world are now ruled by
Mongolia. Korea tried to resist in the beginning, but now they have
surrendered. Japan is a small country. We urge your swift compliance." In real
terms, they demanded that Japan become a tributary state, hand over hostages
and send offerings. The concluding sentence was:
"Would you prefer that we use military force ? Have your King decide."
It meant: "Choose surrender, or war." Houjou Tokimune was then 18 years old.
Immediately he reported this to the imperial court, and the court decided to
ignore the impertinent letter from the Mongols. Meanwhile Houjou Tokimune
ordered the nation to prepare for war.
In the 6th year of the Bun'ei era (1269), the second envoy came to Japan. A
rumor spread that this time, Japan would capitulate. Monk E'an, the superior of
Shoudenji-Temple in Kamo of Kyouto was disheatened by this, and said: "Earlier
I heard that the Mongols first conquered Korea, then planned to attack Japan,
and combining the two armies, invade China and India. Now the Mongols and the
Koreans wear similar uniforms. And seeing that the Mongolian envoy are
Koreans, the rumor must be true. The plan must be succeeding." The monk prayed
to the Buddha that the imperial court "swiftly reject their demand, and
preserve the dignity of this divine country."
It fact, the imperial court was about to reply. However, the content of the
reply was prepared by Sugawara no Naganari, a descendan of Sugawara no
Michizane (845-903) the scholar-ststesman of the 9th century. Sugawara no
Naganari wrote a fine, dignified letter: "Japan has never heard of Mongolia, nor
received communication from it. We have nothing to gain or lose from a
relationship. To use force to assert your demands is violent in the extreme.
Japan is a divine country, where attack with strategem or military power is not
appropriate. Give this carefule consideration." The letter was written in
beautiful rhetorical verses, hardly lacking in moral courage as Monk E'an had
suspected. But when the draft of the letter was shown to the Bakufu, Houjou
Tokimune, furious at the disrespect shown by the Mongolians, suggested: "Making
a reply to such insolence is beneath the imperial court. If they threaten
force, we shall meet them with force." Thus the letter was never sent to the
Mongols.
In the 8th year of the Bun'ei era (1271), the Mongols named their empire Yuan.
Old records state that "at the height of Yuan's prosperity, there were more than
1,000 tributary kingdoms that sent offerings. It may be said that the entire
world obeyed it." They chose Yuan as the name of their empire, signifying that
they would unify the world. At this time, Houjou Tokimune was 21 years of age.
He understood international developments, and assessed the military strength of
Yuan, its purpose, and its movements.
In the 10th month of the 11th year of the Bun'ei era (1274), a great Yuan army
attacked Japan. More than 900 battleships carried 15,000 Mongolian and Chinese
armed men, as well as 8,000 Korean soldiers. First they invaded Tsushima Island. Sou
no Sukekuni, Provisional Provincial Constable, fought back with 80 men, and was
totally annihilated. The enemy force advanced to Iki Island next. The
Provisional Provincial Constable Taira no Kagetaka met them with 100 men, and
the next day, facing certain defeat, committed suicide. The Mongols then
proceeded to Kyuushuu and went ashore. Junior Assistant Governor of Kyuushuu
Headquarters, and the clans Ohtomo, Shimazu, Usuki, Matsura, Kikuchi, Harada
and so on defended as best they could, but Mongol weapons and tactics of
warfare were so different that the battles were very difficult. However, after a
fierce encounter on the night of the 20th, a great storm hit Kyuushuu. Strong wind
and rain destroyed and sank the entire enemy fleet, and more than 13,500
Mongolians were drowned. The few suvivors turned around and headed back.
In the first year of the Kenji era (1275), an envoy from Yuan was executed,
and Houjou Tokimune began to build up the national defence.
482 Houjou Tokimune
The great Mongol army struck again in the 4th year of Kouan (1281). It was
divided into two contingents. One, consisting of 40,000 men, attacked from the
Korean Peninsula. The other, a total of 100,000 men, advanced from the Yanzi
River of China. The forces swiftly advanced to Kyuushuu from north and south.
The Japanese retaliated. Based on the experience of the 11th year of the Bun'ei
era (1274), the Japanese decided to prevent them from landing, and stationed
themselves behind stone-barriers built along the shoreline. Unable to land, the
enemy floated on battleships for a few days. From the night of the 30th of the
7th month to the morning of the first day of the intercalary 7th month, a
tremendous storm hit Kyuushuu. Most of the ships capsized and numerous Mongol
soldiers drowned. Whoever managed to swim ashore were killed by the Japanese
army, and the entire Mongolian army was wiped out. About Fan Wenhu, Mongolian
Commander-in-Chief of this second campaign, the biography section of History of
Yuan records: "Wenfu also fell into the sea and floated for a day and a night.
Fortunately he hung onto a piece of ship wood and return alive. However, his
men, more than 100,000, were killed by the Japanese army and only three escaped
and returned to the homeland."
In the wars against the Mongolians during the Bun'ei and Kouan eras, the
violent storms saved Japan. This was possible because the Japanese army
prevented the enemy from landing, which forced them to stay at sea, and under
the great wind their ships keeled over and sank. Furthermore, the records of
the houses of Kyuushuu describe the fierceness of the ensuing fights after the
typhoon of the 4th year of the Kouan era (1281). These brave warriors belonged
to the Junior Assistant Governor of the Government Headquarters in Kyuushuu, as well as to the
clans of Ohtomo, Shimazu, Akizuki, Kikuchi, Takezaki, Kouno, Oh'yano and so on.
Even mighty Yuan had had enough sfter two defeats, and gave up. Yuan could
conquer any kingdom on the European and the Asian continents, which then was
the entire world. Yet Japan remained unconquered. One reason was geographical,
Japan being isolated in the sea. But we should not forget the bravery of the
warriors, who fearlessly fought against a massive enemy. And the reason for
that was the firm attitude of the imperial court and the Bakufu.
At the imperial court, Retired Emperor Kameyama prayed to the Grand Shrine of
Ise pledging that he wuold dedicate his life in the face of this national
emergency. This is recorded in a work titled The Clear Mirror (Masukagami; 14th
century). We know his intentions through the following poems:
"It is spring in the capital, with blooming cherry blossoms.
At dawn I pray:
'For the sake of the country,
may the wind subside, and peace prevail.'"
"Japan will prosper,
if we vow to endeavor.
For ours is a divine country,
protected by the Gods."
"Our land of iron
was created by the powerful Gods of antiquity.
With their markings, this land
will forever remain solid."
"Cherry blossoms scatter away,
as though they no concern.
Is it that they are ignorant
of how I am ready to offer my life ?"
"The flickering flames of justice,
about to die out in this world,
I shall keep them going,
over my own life."
"My heart resolves that
for the world, I will sacrifice myself.
may the powerful Gods see it,
and shine their benevolent light."
The draft of the reply to Yuan which Sugawara no Naganari was ordered to
cpmpose, shows that the imperial court had great confidence about the heart of
the Japanese nation, and was passionately dedicated to it.
The central figure in the Bakufu at this time was of course Houjou Tokimune.
He became Regent at age 18, and in the 11th year of the Bun'ei era (1274), he
had just turned 24. In the 4th year of the Kouan era (1281), he was still only
31 years old. Yet he took on the responsibility of defending the nation.
Totally unshaken, he was victorious in the end, even though he faced an
enormous enemy which covered the coast of Japan. In the aftermath, it seems
like a minor incident, but at that time it must have been extremely serious.
Houjou Tokimune invited virtuous Zen Buddhist monks from China and took them in
as his spiritual mentors. In China, the Song Dynasty was taken over by Yuan and
the conflicts continued. For this reason important people gladly accepted
invitations to Japan, and became consultants. Monk Shounen came in the 6th year
of Bun'ei era (1269) and preached to Houjou Tokimune:
"Do not try to discern; do not evade."
Monk Shouen meant that one should not try to choose one course over another,
using only intellect. Secondly, he taught that one should never step aside; a
major offensive from a strong enemy must be faced head on, and confronted with
force. Houjou Tokimune took the advice. The records show that that he never
tried to avoid the major wars.
In the 12th month of the first year of the Kouan era (1278), Houjou Tokimune
sent two Japanese Zen monks to China to search out more eminent monks. Monk
Sogen was their choice. Houjou Tokimune requested Sogen to come directry to
Kamakura, without meeting anyone on the way, and Sogen accepted. Previously,
Sogen had suffered the violence inflicted by the Yuan soldiers in China. At
that time they broke into Sogen's temple and held a sword against his neck.
Fearlessly, he recited a poem. The last two lines were:
"I value highly the sword of Yuan that is three shaku (90 cm) long.
So behead me, as I sit for the slashing in the spring wind."
Taken aback, the soldiers apologized and ran away. This superb monk came to
Kamakura. In the 4th year of the Kouan era (1281), just before the second
invasion by Yuan, Houjou Tokimune visited Sogen. Sogen instructed him: "Do not
brood." Asked what this meant, the monk answered: "At the end of the spring or
in the beginning of summer, there may be a disturbance in Hakata. But do not be
concerned, it will settle down shortly." Sogen had sensed the second invasion.
And his teaching was similar to that given by the previous Chinese monk
Shounen: put simply, do not worry.
A Commander-in Chief must never become alarmed, or frightened. The most important
member of a ship's crew is the captain; in an airplane, the chief pilot, and
in the Bakufu, it was thr Regent. During these two national crises, it was
Japan's good fortune that Houjou Tokimune was the Regent. For nine generations,
staring with Houjou Tokimasa and ending with Houjou Takatoki, unscrupulous
characters occupied this position. But Houjou Tokimune stands out as the one
who tried to atone for the crimes committed by the Houjou clan. In the face of
such danger, he performed his responsibility of defending the nation well. We
recall that the strength of the Genji clan lay in honoring the imperial court
and maintaining military training, while their weakness was cruelty and
blood-lust. As for the Houjou clan, they similar traits, except reverence for t
he imperial court. The Houjou inherited savagery and the preservation of
military training from the Genji. However, Houjou Tokimune single-handedly
contributed to the welfare of Japan. He had been wrong to execute his younger
brother, but repelling the Yuan invasion must be regarded as distinguished
service for the nation.
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少年日本史 (平泉澄)
The story of Japan (Hiraizumi Kiyoshi)
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