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宝永の大地震、
富士山大噴火
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東海・東南海・南海地震が同時発生
宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日14時頃)、中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生し、地震の規模はマグニチュード8.6と日本最大級の巨大地震と推定されている。地震による建物の倒壊と津波による被害は甚大なものがあった。宝永地震による倒壊家屋は、東海、近畿、中部、南部、四国、信濃、甲斐の国々で多く、北陸、山陽、山陰、九州にも及んだという。特に近畿地方内陸部の揺れは激しく、記録によれば倒壊家屋1800余戸、死者500余人となっているが、当時の人口からすると甚大な被害といえる。
地震後49日目に富士山が噴火(宝永の噴火)
宝永地震から49日後の宝永4年(1707年12月16日)、富士山で大噴火が起こった。武江年表によると、「富士山の根方須走り口焼ける(噴火)、天暗く雷声地震夥しく、関東白灰降りて雪の如く地を埋む、西南頻りに雷光あり、白昼暗夜の如く成り、行燈排灯をともす。(中略)この時出来たる山を宝永山といふ」と記録されている。この噴火による溶岩の流失はなかったが、約100Km離れた江戸にも大量の火山灰を降らせた。この噴火による噴出物量は、約8億立方メートルと推定されている。このときの噴火口は東南斜面に第一、第二、第三宝永火口が並んでいる。その時できた山は宝永山とも呼ばれている。
1703 元禄地震
1707.10/28 宝永地震
元禄地震(M 8.1-8.2)
元禄地震(げんろくじしん)は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。
規模 M 8.1 - 8.2, MW 8.1 -8.5 最大震度 震度7:相模,安房 津波 太平洋沿岸、特に房総半島東海岸
死傷者数 死者 6,700以上 被害地域 関東諸国:武蔵,相模,下総,上総,安房
震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点[注 1]にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている.。この地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。
津波
相模灘から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度であったという。また、鎌倉では鶴岡八幡宮の二の鳥居まで津波が押し寄せ由比浜大鳥居が破損(『基煕公記』)、伊東では川を遡った津波が水害を及ぼしたという。津波は三浦で6 - 8m、九十九里辺りで5m、江戸湾(現在の東京湾)入り口の浦賀で、4.5mに達した。江戸湾内でも津波は影響を及ぼし、本所、深川、両国で1.5m、品川、浦安で2m、横浜で3m、稲毛では3 - 4m、さらに隅田川の遡上も記録されている[24]。九十九里浜では海岸から5Km程度内陸まで到達し、現在の白子町では1000人、長生村では900人を越える犠牲者があった。
(風説)この年の2月(西暦3月)に赤穂浪士46人が切腹しており、浪士たちの恨みで起こった地震と噂された
宝永地震(M 8.4~9.3)
宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、
東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 )を震源域として発生した巨大地震。
規模 M 8.4 - 8.6, MW 8.7 -9.3 , 最大震度 震度7:遠江袋井,三河野田,河内布施,土佐室津,宿毛大島 津波 太平洋沿岸,特に遠州灘 熊野灘 土佐湾 最大25.7 m : 土佐久礼
死傷者数 死者 5,000 - 20,000人 被害地域 畿内,東海道,東山道,北陸道,南海道,山陰道,山陽道,西海道
南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、
記録に残る日本最大級の地震とされている。
激震域や津波襲来の領域が安政東海地震と安政南海地震を併せたものにほぼ相当することから、フィリピン海プレートが沈み込む南海トラフ沿いで東海地震(現代でいう東南海地震も含む)および南海地震が連鎖的にほぼ同時に起きたものと仮定される
前震
21年前の貞享3年8月16日(1686年10月3日)、遠江・三河地震 - M 6.5-7 は、宝永地震に先行して発生した内陸地震である。また、宝永地震の4年前の元禄16年11月23日(1703年12月31日)には、関東で元禄大地震 - M 8.1-8.2 が発生、富士山の噴火を呼び起こしている。 『鸚鵡籠中記』には、名古屋において前日の10月3日に発光現象と思われる記録、また、前震と思われる地震の記録が9月25、26、28日に見られる。『宮地日記』では、高知において9月3日、13日に地震の記録がみられる。
宝永大噴火(クリック)、
(動画)
1707.12/16 富士山大噴火
富士山降灰可能性図拡大図
富士山宝永火口の位置
富士山降灰可能性図拡大図:富士山火山防災マップより(出典:富士山防災協議会)上図右列中央の拡大図
南から見た富士山の宝永火口、火口の位置:1(第一火口)、2(第二火口)、3(第三火口)、4(宝永山)
宝永大噴火(クリック)
宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である。現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火となっている。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約7×108 m3[2]と推定されている。噴火による直接の死者は記録されていないが、噴出した溶岩石による火災などで甚大な被害をもたらした。
宝永地震
噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)に推定マグニチュード8.6 - 9クラスと推定される宝永地震が起こった。この地震の震源は定期的に巨大地震を起している南海トラフであり、日本最大級のものであった。遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したとの見方もあった。地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した。
宝永地震の翌日卯刻(6時頃)、富士宮付近を震源とする強い地震(宝永富士宮地震)があり、駿河、甲斐で強く感じられ、村山浅間神社付近では社領の家が残らず潰れ、11月10日(12月3日)頃から山麓で地響きが始まった。また、この4年前、元禄16年11月23日(1703年12月31日)に発生した元禄地震の後にも、12月29日(1704年2月4日)頃から山鳴りが始まったことが『僧教悦元禄大地震覚書』に記されている。
噴火の始まり
宝永地震の余震と宝永火口付近直下の浅い地震活動が続く中、11月22日(12月15日)の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード 4から5程度の比較的強めの地震が数十回起こった。23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりである。富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くした。夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が空を飛び交うのが目撃された
現代社会への教訓
富士山が噴火した場合、社会に与える影響が大きい。そこで国の防災機関や地方自治体を中心に学識経験者などが集まって「富士山ハザードマップ検討委員会」を設立し、万が一の際の被害状況を想定して避難・誘導の指針とした。ハザードマップでは過去の富士山の噴火を参考にしながら、様々な火山災害を予想している。その中で火山灰被害の例として『宝永噴火の被害想定』が詳細に検討されている。ハザードマップは中間報告(平成14年(2002年)6月)と検討報告書(平成16年(2004年)6月)の2回、調査結果をまとめた報告書が出されており、内閣府の防災部門のホームページや関係市町村のサイトで公開されている。
宝永大噴火では溶岩の流出などによる被害はなかったが、大量の火山灰が広範な地域を覆った。平成16年(2004年)6月の検討報告書では、宝永大噴火と同規模の噴火が起こった場合、火山灰が2cm以上降ると予想される地域は富士山麓だけでなく現在の東京都と神奈川県のほぼ全域・埼玉県南部・房総半島の南西側一帯に及ぶ。(右下図参照)。この範囲では一時的に鉄道・空港が使えなくなり、雨天の場合は道路の不通や停電も起こる。また長期にわたって呼吸器に障害を起す人が出るとされている。富士山東部から神奈川県南西部にかけては、噴火後に大規模な土石流や洪水被害が頻発すると想定されている。ただしこの降灰可能性図が想定した宝永大噴火は延暦21年(802年)の噴火以後では最大の降灰量だったので、次の噴火もこの範囲に降灰するという意味ではない。
細かい灰はどこにでも侵入するため、電気製品や電子機器の故障の原因となると推定されている。すなわちスイッチ類の接点不良や火山灰堆積による冷却不良が原因で過熱故障を起こすなど、様々な障害を及ぼすと予想されている。類似の例として、中東の砂漠地帯では砂埃による電子機器の故障という大きな問題が存在する。
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