温故知新TOP、  宝永大地震・富士山噴火

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安政の大地震  次に起こる地震は安政の大地震に類似するものかもしれないので簡単に説明しておきます。

江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震である。 世にいう「安政の大地震」は、特に1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。宝永大噴火のような富士山の大規模な噴火はなかったとされる

1854,7/9.伊賀 1854.12/23東海 1854,12/24南海 1855,11/11江戸地震

伊賀上野地震
伊賀上野地震(いがうえのじしん)は、嘉永7年6月15日(1854年7月9日)14時頃に現在の三重県伊賀市北部で発生した地震(M7.1)。 上野城の東・西大手門の石垣が崩れ、番人4名が死亡し、地滑りなどの被害も大きかった。死者は995名。うち伊賀上野付近の死者は625名、負傷者994名、家屋倒壊2270戸、蔵倒壊306件だった。その後の余震も同年7月10日(新暦8月3日)2時頃までは規模が大きいものが多かった。

安政東海地震
(規模 M8.4) 最大震度7 甲斐甲西, 駿河相良 遠江袋井 ( 津波 太平洋沿岸 特に熊野灘 最大22.7m ) 死傷者数 死者 2 - 3千人 、被害地域 畿内 東海道 北陸道 東山道
安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震である。ここでいう「東海地震」とは南海トラフ東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、東南海地震の領域も本地震の震源域に含まれていた。また、南海トラフ巨大地震の一つであり、約32時間後に発生した安政南海地震とともに安政地震、あるいは安政大地震とも総称される。 この地震の直後には宝永地震の後に起きた宝永大噴火のような富士山の大規模な噴火はなかったとされるが、小規模な火山活動を示唆するような記録も残されている。
津波
房総半島沿岸から土佐まで激しい津波に見舞われ、伊豆下田から熊野灘までが特に著しかった。波高は甲賀で 10 m、鳥羽で 5 - 6 m、錦浦で 6 m 余、二木島で 9 m、尾鷲で 6 m に達した

安政南海地震
規模 M8.4 - MW8.5 最大震度 震度6:-7: 紀伊新宮, 土佐中村 、津波 太平洋沿岸 特に紀伊水道 土佐湾 最大16.1m , 死傷者数 死者 数千人 被害地域 畿内 山陰道 山陽道 南海道 西海道
安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日(1854年12月24日16時半頃 )に発生した南海地震である。 南海トラフ巨大地震の一つであり、約32時間前に発生した安政東海地震(東南海地震含む)と共に安政地震、安政大地震とも総称される
津波
紀伊半島以西では東海地震よりさらに激しい津波が襲来し、波高は串本15m、宍喰5-6m、室戸3.3m、種崎11m、久礼で16.1mに達した。『末世之記録大地震大津浪上り』には熊野新宮(現・新宮市)より東は四日の地震にて津波が上ったと記され

安政江戸地震
規模 M6.9-7.4 最大震度 震度6:江戸 直下型地震、死傷者数 死者4000人余-1万余
安政江戸地震(あんせいえどじしん)は、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である。震源は東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部と考えられている。
津波が起きたとする記録は無い。

安政年間の地震
安政年間は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政江戸地震発生の前年である安政元年11月4日(1854年12月23日)には安政東海地震(M8.4)、その約32時間後に安政南海地震(M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には豊予海峡地震(M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年6月15日(1854年7月9日)に伊賀上野地震(M7.4)、安政2年2月1日(1855年3月18日)に飛騨地震(M6.8)、安政5年2月26日(1858年4月9日)に飛越地震(M6.7)が発生している。
ただし、伊賀上野地震(安政伊賀地震)・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震は「安政」への改元前に発生した地震である。これらの地震や黒船来航、内裏炎上などの災異が相次いだため、「嘉永」から「安政」に改元された。
次期東海地震への警戒
南海トラフ沿いの領域で起こった大きな地震には、

〇 宝永地震(1707年10月28日)、宝永富士山噴火(1707年12月16日)

安政の大地震→≪伊賀上野地震(1854年7月9日),安政東海地震(1854年12月23日),安政南海地震(1854年12月24日)≫

〇 昭和東南海地震(1944 昭和19年12月7日)、昭和南海地震(1946 昭和21年12月21日)


がある。次に起こる地震は安政の大地震に類似するものかもしれない。(ニュートン誌)

東海・東南海・南海地震震源域
南海トラフ沿いを震源とする地震は90年から150年ごとに東海(E領域、駿河湾沖)、東南海(C, D領域、熊野灘沖、遠州灘沖)、南海(A, B領域、土佐湾沖、紀伊水道沖)の領域でほぼ同時あるいは2年程度の間隔を空けて連動して起きているとされ、この地震の90年後の1944年には昭和東南海地震 (Mj = 7.9, Mw = 8.2)(C, D領域)、1946年には昭和南海地震 (Mj = 8.0, Mw = 8.4)(A, B領域)が起きたが、これらは南海トラフ沿いの地震としては比較的小規模であり、さらに依然、駿河湾沖の東海地震震源域(E領域)は歪の開放されていない空白域として残され、かつ安政東海地震から年月が経過しているため、日本の大動脈である東海道を直撃する東海地震が今後起きることが想定されている。 ただし、東海地震は過去の記録から駿河湾沖のE領域単独で起きるのではなく、安政東海地震のように東海、東南海領域(C, D, E領域)、あるいは宝永地震のように南海地震をも伴った連動型(A, B, C, D, E領域)で起きるとする説もある。
前兆
『今昔大変記』には「大地震する時は四、五年前より天気不順するものなり」とあり、約一か月前の10月1日頃には干潟が広がり異常な干潮により船を出すのに往生したという(『三災録』)。地震の3 - 5日前には海底の鳴動、地鳴り、遠音、虹が見られ、浦戸湾で現れる「孕のジャン」は古来より大地震前後に鳴動があったことで知られる。
また、ミミズが地中より這い出し死に(『三災録』)、井戸水が枯れたり濁るなどの現象(『今昔大変記』)も見られた。以上のような現象が古文書には記載されており、地殻変動による隆起と思われるものもあるが、地震との因果関係については不明な点が多い。
南海地震発生の日の朝、熊野地方や高知付近で太陽が異様に赤色や黄色に染まる現象が見られたとされるが(『古座年代史』、『嘉永土佐地震記』)、これは前兆ではなく前日の東海地震による火災の粉塵が舞い上がったことが原因と推定されている。
土佐入野において地震の前日には『桑滄談』に「朝辰刻(8時)小地震ありて長し。」との記録があり、土佐伊田(現・黒潮町佐賀地区)では『大潮大変記』には「漣(すずなみ)と言うもの入来り」とあり潮の満ち干が四五度見られ、当時この地方に壊滅的打撃を与えた南海地震津浪の前兆のように云われたが、これらは東海地震とその津波によるものと見られる。


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江守孝三(Emor ikozo)