『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。
日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。
万葉集の成立
書名の由来
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、
- やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るので、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。
そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。
編者と成立年代
『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
- 巻1の前半部分(1 -53番)…
- 原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
- 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
- 持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。
- 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
- 契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
- 残巻増補…20巻本万葉集
- 延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成したとされている。
ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。
「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説[1] などがある。
諸本と刊本
万葉集の諸本は大きく分けて、古点本、次点本、新点本に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の九割にあたる四千以上の歌が訓みをつけられた。確実な古点本は現存していないが、武田祐吉や小川靖彦によって桂本が古点の一部を存しているという見解がしめされている。ほかに久松潜一は藍紙本も古点を伝えるとの見解をしめしている。古点とつたえる資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれに当たるとの見方も山田孝雄や上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。
ともあれ、古点とは梨壺の五人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果をさし、藤原道長、大江佐国、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼、藤原基俊、藤原敦隆、藤原仲実、藤原清輔、藤原長忠、顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。このうち、廣瀬本は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集とみとめられる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊・神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名を採って廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄の春日昌預(1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克(1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行なわれている。
新点本は仙覚が校訂した諸本をさし、おおきく寛元本系統と文永本系統にわかれる。寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉や田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測がなされている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。
文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、とくに西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。
万葉集の構成と内容
全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。
歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本に基づく数え方が、歌数も種々様々の説がある。
各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。
内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三大部類になっている。
- 雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
- 相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
- 挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。
表現様式からは、
- 寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
- 正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
- 詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
- 譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現
などに分けられる。
巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総・下総・常陸・信濃四国の雑歌、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥十二国の相聞往来歌、遠江・駿河・相模・上野・陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。
歌体は、短歌・長歌・旋頭歌の三種に区別されている。[2]短い句は五音節、長い句は七音節からなる。
- 短歌は、五七五七七の五句からなるもの。
- 長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。
- 旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。
時期区分
歌を作った時期により4期に分けられる。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。
歌風と万葉仮名
「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な史料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵はこの集を評してますらをぶりと言った。
全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
- 万葉仮名で書かれた大伴家持の歌
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)
- 山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌
(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63)
万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。 そうして「平仮名」と「片仮名」が創造されたのである。
現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。
万葉集の影響
『万葉集』と方言
『万葉集』には「東風 越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻17・4017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量の方言が記録されている。即ち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。
東歌は東国地方の歌の意で、東国(今の長野県・静岡県から関東地方、東北地方南部まで含まれる)に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。90首+5首)と不明の歌(未勘国歌。140首+3首)に二分して収録している。多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。
防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、最も著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言史料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。
以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げておく。
- 昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻14・3483番)
- (昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。)
- 比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家
- 草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻20・4420番)
- (旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でお付けなさいよ、この針でもって。)
- 久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志
上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、八丈島で話される八丈方言は「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形を取ることで知られている。日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのは八丈方言など少数である。
日本古来の物語の原型説]
万葉集は『竹取物語』や浦島太郎などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、巻16「由縁ある雑歌」には竹取の翁と天女が登場する長歌があり、『竹取物語』(かぐや姫物語)との関連が指摘され、巻9の高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型とも解釈できる内容が歌われている。
万葉集の諸点
巻頭の歌
『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まっている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。
大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた)
- 籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも(巻1・1番)
- 篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
捕鯨
万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、主に鯨類をさす。そして「いさなとり」は、捕鯨を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。
「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 辺附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ
越の海の 角鹿の浜ゆ 大船の 真楫貫きおろし 「いさなとり」 海路に出でて
やすみしし わが大君の あり通ふ 難波の宮は 「いさなとり」 海片附きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 波の音(と)さわき 夕なぎに 櫂の声(おと)聞ゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干(しおひ)のむた 浦渚(す)には 千鳥妻呼び 芦辺には 鶴(たづ)が音(ね)響(とよ)む 視る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくり欲(ほ)りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れども飽かぬかも
「鯨魚取り」 海や死する 山や死する 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ[3]
外国語との関係
1960年代には安田徳太郎が『万葉集の謎』において日本語の祖語はインド北部レプチャ語であるとし、万葉集はレプチャ語で読めると主張していた[4]。
また、1980年代には、『万葉集』の言葉は古代朝鮮語と関係がある、またはそれにより解釈できるという意見が出され、一連の著作がベストセラーになったことがある。しかしながら、当時から日本語学の研究者の手によって徹底的な反論と批判[5][6]がなされている。背景としては、日本の古代文化を朝鮮半島由来とする韓国特有の民族主義(朴炳植、李寧煕など)、さらに、それに同調する日本人(藤村由加など)の言説が存在している。また李寧煕は日本で育った在日韓国人であり、韓国在住の韓国人から事実認識の誤りが指摘されている。こうした外国語との関係は金田一春彦も「万葉集の謎は英語でも解ける」と批判している[7]。
研究史
近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖、荷田春満、賀茂真淵、加藤千蔭、田安宗武、鹿持雅澄、長瀬真幸、本居宣長らが万葉集研究を展開した。
近現代には文学論や国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉、折口信夫、佐佐木信綱、土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝、武田祐吉、五味智英 、犬養孝、伊藤博、稲岡耕二、青木生子、阿蘇瑞枝、橋本達雄、中西進、多田一臣、森朝男、古橋信孝、身崎壽、坂本信幸、神野志隆光、佐竹昭広、曾倉岑、内藤明、梶川信行、上野誠、小川靖彦、鴻巣隼雄、鉄野昌弘、藤井貞和、品田悦一、三浦佑之らが万葉集研究を展開した。外国語への翻訳としてはケネス・ヤスダによる英語訳がある。
万葉集に由来する名前
脚注]
関連項目
文献情報
- 「古代萬葉集研究史稿」大久保正(北海道大学文学部紀要1961.3.20)[1]
外部リンク