出典: 百科事典
書経(しょきょう)または尚書(しょうしょ)は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集である。また一部、春秋時代の諸侯のものもあり、秦の穆公のものまで扱われている。甲骨文・金文と関連性が見られ、その原型は周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとし、重要な経典である五経のひとつに挙げられている。
古くは『書』とのみ、漢代以降は『尚書』と呼ばれた。『書経』の名が一般化するのは宋代以降である。
現行本『書経』58篇のテキストは「偽古文尚書」であり、その大半は偽作されたものである。
体裁
『書経』にはその体裁によって以下のようなものがある。
- 誥(こう) - 君主の臣下に対する言葉
- 謨(ぼ) - 臣下の君主に対する言葉
- 誓 - 君主が民衆に対する宣誓の言葉
- 命 - 冊命(さくめい)あるいは君主の命令の言葉
- 典 - 重要な歴史的事件のあらましが書かれたもの
また人名や内容によって篇名が付けられたものもある。
テキスト
『書』は先秦時代、他の儒教経伝や墨子をはじめとする諸子百家の書物、歴史書などに引用されており、現在見られるものとは違ったテキストがあったことが推測される。漢代以降のテキストには大きく分けて「今文尚書」「古文尚書」「偽古文尚書」の三つがある。
今文尚書
秦の焚書坑儒や楚漢の戦いの後、秦の博士だった伏生(伏勝)が壁の中に隠しておいた28篇を伝えた。当時の通行の書体である今文(隷書体)で書き写されたので「今文尚書」(きんぶんしょうしょ)」と言われる。やがて斉魯において伏生から欧陽生(欧陽和伯)・張生に伝えられた「今文尚書」は、欧陽高・夏侯勝(大夏侯)・夏侯建(小夏侯)の三家に分かれた。武帝の時には欧陽氏本に対して学官に立てられ、宣帝の時、三家とも学官に立てられた。それぞれ29篇であり、伏氏本に「太誓」1篇が加えられている。また文帝の時、詔して晁錯を伏生(当時90余歳)のもとに派遣し、『尚書』を受けさせている。これが他の3本とどう関わるかは定かではない。
後漢でも十四博士として三家が続けられたが、その後は古文学が隆盛して振るわなかった。
なお残片が少し残っている後漢の熹平石経のテキストは欧陽氏本と考えられている。
古文尚書
漢代、孔子旧宅の壁中や宮廷図書館、民間などから発見された『尚書』は、秦以前の書体で書かれていたので「古文尚書」(こぶんしょうしょ)と呼ばれる。「古文尚書」について以下のようなものがある。
- 孔安国伝本 - 司馬遷の『史記』儒林伝の記載によると、孔子の家に伝えられた『尚書』があり、孔子11世孫の孔安国が今文に読み替えたところ、「今文尚書」にない10余篇があったという。
- 壁中古文本(孔壁本・魯恭王本) - 劉?の「移太常博士書」(『漢書』楚元王伝所収)の記載によると、魯国の恭王劉余が孔子の旧宅を壊して宮殿としようとしたこところ、壁の中から古文による先秦書籍を得たという。このうち逸書は16篇であった。天漢中、孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄で行なわれることはなかったという。『史記』儒林伝を補完するような内容になっており、壁中古文本=孔安国伝本と考えられる。
- 中古文 - 宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」。班固の『漢書』芸文志の記載によると、劉向が「中古文」で欧陽氏、大小夏侯氏の「今文尚書」を校訂したところ、竹簡の脱落が「酒誥」篇に一簡、「召誥」篇に二簡あったという。これが孔安国伝本であるかは定かではない。
- 河間献王本 - 河間国の献王劉徳が伝えた「古文尚書」。『漢書』景十三王伝の記載によると、河間献王は古典収集を好み、その集めた書物は『周官』『礼』『礼記』『孟子』『老子』などであったという。その仔細は不明。
- 張覇百両篇 - 『漢書』儒林伝の記載によると、世間に伝わっていた102篇の「古文尚書」というものがあり、張覇が伝えたものであった。成帝の時、それを求めて宮中の尚書と比べたところ偽書であったという。これは孔子が『尚書』を100篇にまとめたという伝承から作られたものと考えられる。偽書ではあるが、現在に伝わる『尚書』につけられた100篇の序、いわゆる「百篇書序」との関係が指摘される。
- 杜林漆書古文本 - 新・後漢の杜林が伝えた「古文尚書」。『後漢書』杜林伝の記載によると、新末後漢初、杜林は西州(現甘粛省、隗囂の軍閥政権があった)に居たときに漆で書かれた「古文尚書」を得たという。ただし、壁中古文本のように逸書はなく、「今文尚書」と同じ29篇であった。このため杜林本は「今文尚書」を古い字体に故意に書き換えただけのものだとの指摘がある。杜林本には衛宏が『訓旨』を、徐巡が『音』を、賈逵が『訓』を、馬融が『伝』を、盧植が『章句』を、鄭玄が『注解』を作った。
古文経伝に依拠した古文学において「古文尚書」は、前漢末から後漢前期の劉?や班固らには壁中古文本として扱われていたが、後漢後期の鄭玄らになると杜林漆書古文本を指すようになっていったと考えられる。壁中古文本などは早いうちに隷書体に書き換えられたのであるから、そこで問題にされているのは「今文尚書」にない逸書があること、つまりテキストの違いであるが、漆書古文本は「今文尚書」とテキストとしては同じであるから、問題にされているのは文字の字体や用字の違いである。許慎が『説文解字』で今文(隷書)を斥けて篆書や古文による漢字分析を行ったことや魏が古文・篆書・隷書三体の石経を作ったことに後漢後期からの「古文」観が見てとれる。結局、壁中古文本にあった逸書16篇に注がつけられることはなく、「今文尚書」と同じ29篇のみが行われた。
残片が発見されている魏の三体石経のテキストは、杜林漆書古文本と考えられる。
偽古文尚書
西晋時代、永嘉の乱がおこり、「古文尚書」逸書16篇は散佚した。東晋になると預章の内史、梅?(ばいさく)が「古文尚書」58篇なるものを奏上した。現在、これを「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼んでいる。この本は「今文尚書」のうち「太誓」を除く28篇を含み、篇を分けて33篇としていた。それに加えて新出の25篇があり、合わせると漢の劉?や桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致していた。しかも、孔安国伝という注釈(偽孔伝)が付され、さらに孔安国の大序なるものと百篇書序が各篇頭につけられていた。この梅?本は東晋で早速、学官に立てられ、南朝を通じて伝えられた。やがて「偽古文尚書」「偽孔伝」に注釈をつけた梁の費?(ひかん)の『尚書義疏』が北朝出身の劉?・劉炫によって取りあげられ、唐の『尚書正義』のテキストとなった。現行本『書経』もこれに従っている。
しかし、やがて「偽古文尚書」は疑われるようになった。南宋の呉?(ごよく)、朱熹によって懐疑が起こされ、元代の呉澄、明代の梅?(ばいさく)が初歩的な論証を行った。そして、清の閻若?(えんじゃっきょ)が20年の考証の結果を『古文尚書疏証』にまとめ、25篇は偽古文であると証明した。
構成
『書経』は時代順に並べられ、虞書・夏書・商書・周書に分けられる。現行の「偽古文尚書」と伏生伝「今文尚書」28篇を比べると以下のようになる。
「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。
「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅?」、16.「冏命」であった。
「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅?本には「舜典」がなく、魏の王粛注本の「尭典」の後半部「慎徽五典…」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古…」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明…」の十六字が加えられている。他には「皐陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。
注釈
現在通行している『書経』の注釈には以下のものがある。
- 『尚書正義』 - 偽孔伝・唐の孔穎達疏。唐の『五経正義』の一つ。13巻58篇。後に『十三経注疏』に入れられた(20巻58篇)。
- 『書集伝』 - 南宋の蔡沈撰。6巻58篇。蔡沈は朱熹の弟子であり、序には「尭典」「舜典」「皐陶謨」「大禹謨」に朱熹の校閲を受けたとある。元・明・清と科挙試験の教科書として取りあげられ、広く読まれた。「蔡伝」とも呼ばれる。
- 『尚書今古文注疏』 - 清の孫星衍撰。もっぱら今文29篇について注釈し、偽孔伝を退け、漢代今文学・古文学の注釈を集め清朝考証学の成果を集めて疏をつけたもの。22年もの時間を費やし完成させた。
日本の元号
昭和や平成を始め35個の日本の元号は、この書が由来になっている。ただし、平成については出典箇所が偽古文尚書であるため、一部の専門家からは典拠としてはふさわしくないと指摘された。
森鴎外は最晩年、候補・典拠の一覧になった『元号考』(『鴎外全集 第20巻』岩波書店、所収)を作成したが、「平成」も既に江戸末期に「明治」等と並んで候補に上っている。鴎外は没した際『元号考』は未完だったので、親友吉田増蔵が、本人から依託され完成させた。なお吉田が改元に際し候補として「昭和」を勘申している。
全訳書
日本の国宝
- 古文尚書巻第六 - 1巻/紙本墨書/縦26.0cm 全長328.0cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東京国立博物館蔵
- 古文尚書巻第三、第五、第十二 - 1巻/紙本墨書/縦26.7cm 全長1138cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東洋文庫蔵
これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。唐の太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。
所々隷書体が使われており、いわゆる「隷古定尚書」と考えられている。「隷古定」とは「偽古文尚書」が生んだ字体で古文を隷書で写し取ったとされるものである。独特で奇怪な字体なので一般に「隷古奇字」ともいわれる。唐の玄宗が天宝初年に『尚書』の字体をすべて楷書に改めさせたのでそれ以後は使われていない。
他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている文字が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。
南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙(1174年 - 1188年)前後の両浙東路茶塩司刻本。
外部リンク