親鸞小説、
歎異抄、
親鸞全集(春秋社)、
親鸞全集(講談社)、
親鸞小説、歎異抄、親鸞全集 宗旨 浄土真宗
内容紹介(単行本)
1浄土真宗の創始者・親鸞。苦難の生涯を描く
弾圧、非難と闘いながら、浄土真宗を創始し、あくまでも人間として生き抜いた親鸞の苦難の生涯を描く大作。
第1巻 人心は乱れ、荒廃しきった平安末期、時の権力と結託した宗教界の腐敗、形式化は止まることを知らなかった……。
皇太后宮大進・日野有範の長男として京都日野に生まれた松若麿(親鸞)は、やがて比叡山に上り、出家して範宴(はんねん)と名乗る。
やがて民衆を救う真の仏の道は南都北嶺の諸大寺にはなく、俗聖の中にこそあると考えるようになった範宴は、苦悩の末、山を下りる決意を固める。
親鸞の苦難な生涯を壮大なスケールで描く4部作の第1巻。
2人間として生きるために妻をめとる親鸞
第2巻「法難の巻」(上)では、比叡山を下りた親鸞は、今後の進むべき道を模索し、六角堂で百日参籠の修行を行う。
そして親鸞は考えに考えた末に、人間として生きるために、承子を妻に迎えることを決意する。
やがて、六角堂を出た親鸞は、吉水の法然の元に弟子入りし、浄土宗に帰依していく。
尊敬する法然の元、親鸞は自分の歩むべき道を見つけていくのだが、新興勢力である浄土宗に対して、旧来勢力の圧力の手が伸び始めていた……。
3法然との出会い……、そして越後への配流
第3巻「法難の巻」(下)では、新興勢力として日増しに影響を強める浄土宗に対して、旧来勢力の圧力により、「念仏停止、法然と高弟の流罪」という弾圧が加えられ、法然は土佐へ。そして親鸞も“肉食妻帯の破戒僧”として越後に流されることとなる。
その前夜、産後の衰弱に心労が重なった妻の承子が他界し、親鸞は傷心を抱いて越後へ旅断つ……。
4雪に閉ざされた越後で結ばれる親鸞と筑前
第4巻「越後・東国の巻」(上)では、越後へ流された親鸞は、旧知の筑前と再会し、結ばれる。束の間の安息の生活の中、親鸞は深く閉ざされた雪の中で、虐げられている農民を救う仏の道について考え悩む。「仏の前に人間は全て平等である」とする親鸞の話は、民衆に大きな衝撃を与え、熱狂的な支持を受けるようになる。
そんな時、京より越後配流の罪赦免の使者がやってくるが、親鸞は……。
5教えを広めるために東国へ旅立つ親鸞
第5巻「越後・東国の巻」(下)では、赦免された親鸞は、「法然死す」の一報を受け、師の「二か条の遺誡」により、京へ戻らず、教えを広めるために東国へ旅立つ。やがて、東国の地で親鸞は、師・法然の思想と信仰を脱し、独自の境地を開いていくのだった。
そして、越後配流より三十余年、ついに親鸞は京の都へ戻る決心をする。そこには、乳飲み子のまま別れた承子との子・善鸞との再会が待っていた……。
6東国へ善鸞を名代として下向させる親鸞
第6巻「善鸞の巻」(上)では、東国の浄土真宗に対する鎌倉幕府の弾圧から、信者を守ろうと自ら京に戻った親鸞だったが、時の移ろいの中、越後生まれの娘、そして仏門に入った息子たち、妻の筑前までが、親鸞を残し、越後へ帰っていく。
一方、長男・善鸞は父の元で学び続けてきたが、その教えをとまどい、受け入れかねてもいた。八十歳を超え東国の様子が心配になった親鸞は、自分の名代として、善鸞を東国に下向させるのだが……。
7善鸞と絶縁した親鸞に、静かな終焉が訪れる
第7巻「善鸞の巻」(下)では、親鸞の名代として東国へ下向した長子・善鸞であったが、高弟たちの冷たい仕打ちにより孤立していく。そして、父の教えを否定し、東国の念仏者たちを鎌倉幕府に告訴することとなる。これを知った親鸞は激怒し、善鸞を絶縁する。
父を尊敬しながらも、また父の境地に辿りつけない善鸞の葛藤と、告訴に至る過程、そして、息子の裏切りに苦しむ親鸞の姿など、当作品最大の見せ場。
やがて、親鸞に奇蹟も起きない静かな終焉が訪れる……。民衆と共に生き抜いた九十年の生涯を描いた長編の最終章。
著者略歴
丹羽/文雄
1904年(明治37年)11月22日‐2005年(平成17年)4月20日、享年100。三重県出身。1977年に文化勲章受章、文化功労者(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1(主な内容)
平家が全盛を誇っていた頃、十八公麿(のちの親鸞聖人)は、京都の藤原家に生まれた。平安貴族の嫡男でありながら、なぜ、わずか九歳で出家したのか。得度式の前に次の歌を詠んでいる。
明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
(今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は、桜の花よりもはかなきもの……)
比叡山で、範宴と名を改め、仏道修行へ。10年間、どれだけ勉学に励んでも、心に明かりがともらない範宴は、大和へ遊学に向かう。久しぶりに下山した京の町は、平家の滅亡とともに、変わり果てていた。人も、社会も、激しい無常の中にいることを知らされるのであった。
2(主な内容)
2巻では、なぜ激しい非難を覚悟してまで、親鸞は公然と結婚したのか、波乱の生涯が名文で描かれます。
巻頭では、4ページにわたって吉川英治記念館(東京都青梅市)を紹介しています。英治が昭和19年から28年まで暮らしていた邸宅・書斎を掲載。愛用の万年筆やメガネが机の上に置かれた書斎が再現されています。
「あの夜以来、範宴(のちの親鸞)の眸にも、心にも、常に一人の佳人が棲んでいた。追おうとしても、消そうとしても、佳人はそこから去らなかった……」
どれだけ厳しい修行に打ち込んでも、七千余巻の経典を読破しても、範宴の、無明の闇は晴れなかった。しかも一人の女性との出会いによって、苦悶の渦は極限に達していく。
煩悩から離れ切れない人間に、救いはないのか。どうすれば心の闇が晴れるのか。
六角堂での九十九夜の祈願を終え、夢遊病者のように京の町を歩く範宴に、一大転機が訪れる。
3(主な内容)
「生れかわった一日ごとの新しい呼吸であった。範宴(のちの親鸞)は死んで、範宴は生れたのである」
範宴は、二十年も学んだ比叡山を下りて、京都・吉水の法然上人の門に入り、綽空(しゃっくう)と名を改めた。
まもなく不退の決意で玉日姫と結婚。全ての人が、ありのままで救われる教えがあることを示すためであった。
浄土仏教が説かれる吉水へは、日ごとに参詣者が増えていった。急速な発展を妬んだ伝統仏教の各宗派からは、「念仏停止」「吉水を弾劾せよ」の訴えが、朝廷へ出された。
緊迫した状況の中で、若い二人の女性がとった意外な行動が、大事件に発展していく。仏教史上、例を見ない過酷な弾圧の始まりであった。
範宴は、二十年も学んだ比叡山を下りて、京都・吉水の法然上人の門に入り、綽空(しゃっくう)と名を改めた。まもなく不退の決意で玉日姫と結婚。全ての人が、ありのままで救われる教えがあることを示すためであった。浄土仏教が説かれる吉水へは、日ごとに参詣者が増えていった。急速な発展を妬んだ伝統仏教の各宗派からは、「念仏停止」「吉水を弾劾せよ」の訴えが、朝廷へ出された。緊迫した状況の中で、若い二人の女性がとった意外な行動が、大事件に発展していく。仏教史上、例を見ない過酷な弾圧の始まりであった。
4(主な内容)
「この善信(のちの親鸞)は遠国へ流さるるとても、決して、悲しんでたもるまい。念仏弘世のため、衆生との結縁のため、御仏の告命によって、わしは立つのだ。教化の旅立ちと思うてよい」
妻子と引き裂かれ、越後へ追放された善信。与えられた住まいは獄舎より粗末だった。雨が漏り、雪が吹き込み、風に揺れる一棟。しかし、全ての人が救われる、仏の大慈悲を伝える師弟は幸せだった。真の幸福は、地位、名誉、財産などの多少とは関係ないのだ。越後の悪代官、源氏の武将、親鸞を生涯の敵と怨む山伏、大酒飲みで凶暴な大工……、仏の教えに触れて、皆、生まれ変わっていく。
「親鸞 (上) (下)」 「親鸞 激動篇(上) (下) 」 「親鸞 完結篇(上) (下)」
の全6冊セットです。
『親鸞』京都を舞台に比叡山で修行に励みつつ煩悩に苦しむ、8歳から35歳の若き日の親鸞が青春群像劇として生き生きと描かれます。
『親鸞 激動篇』 越後へ追放され、そして関東を流浪する親鸞。土地の人々と交わるなかで、師の教えに追いつき追い越そうと苦悩する、36歳から61歳の姿が活写されます。
『親鸞 完結篇』 親鸞は京都へ帰還します。最も多くの業績を残したといわれる61歳から90歳までの、師を超えていく聖人の軌跡が、活気あふれる群像劇として綴られます。
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歎異抄
数多い仏教書の中でも「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった『歎異抄』の文言ほどわれわれに耳近いものはあるまい。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだ本書には難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に説かれている。段ごとに大意を付した。
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