【徒然草(上)】、
【徒然草(中)】、
【徒然草(下)】、
(徒然草検索)、
(朗読 1/2)、
(朗読 2/2)、
NHKこころを読む(7-13/13)
、
(YouTube)、
徒然草
(上)
兼好法師(吉田兼好) Tsurezuregusa (Yoshida Kenkō)
兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた 『徒然草(つれづれぐさ)』 の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。
序段 つれづれなるままに
第一段 いでや、この世に生まれては
第二段 おろそかなるをもてよしとす
第三段 色好まざらん男は、いとさうざうし
第四段 後の世の事、心にわすれず
第五段 不幸に愁にしづめる人の
第六段 子といふ物なくてありなん
第七段 あだし野の露きゆる時なく
第八段 世の人の心まどはす事、色欲にはしかず
第九段 愛著の道
第十段 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ
第十一段 来栖野といふ所を過ぎて
第十二段 おなじ心ならん人としめやかに物語して
第十三段 ひとり灯のもとに文をひろげて
第十四段 和歌こそ、なほをかしきものなれ
第十五段 しばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ
第十六段 神楽こそ
第十七段 山寺にかきこもりて
第十八段 人はおのれをつづまやかにし
第十九段 折節のうつりかはるこそ
第二十段 なしがしとかや言ひし世捨人の
第二十一段 よろづのことは、月見るにこそ
第二十二段 なに事も、古き世のみぞしたはしき
第二十三段 おとろへたる末の世とはいへど
第二十四段 斎王の野宮におはしますありさまこそ
第二十五段 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば
第二十六段 風も吹きあへずうつろふ人の心の花に
第二十七段 御国ゆづりの節会おこなはれて
第二十八段 諒闇の年ばかりあはれなる事はあらじ
第二十九段 しづかに思へば
第三十段 人のなきあとばかり
第三十一段 雪のおもしろう降りたりし朝
第三十二段 九月廿日の比
第三十三段 今の内裏作り出だされて
第三十四段 甲香は
第三十五段 手のわろき人の
第三十六段 久しくおとづれぬ比、いかばかりうらむらんと
第三十七段 朝夕隔てなく馴れたる人の
第三十八段 名利に使はれて、しづかなるいとまなく、
第三十九段 或人、法然上人に、
第四十段 因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、
第四十一段 五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、
第四十二段 唐橋中将といふ人の子に、
第四十三段 春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、
第四十四段 あやしの竹の編戸のうちより、いと若き男の、
第四十五段 公世の二位のせうとに、良寛僧正と聞えしは、
第四十六段 柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり
第四十七段 或人、清水へまゐりけるに、
第四十八段 光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、
第四十九段 老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。
第五十段 女の鬼になりたるを率てのぼりたりといふ事ありて、
第五十一段 亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、
第五十二段 仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、
第五十三段 是も仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、
第五十四段 御室に、いみじき児のありけるを、
第五十五段 家の作りやうは、夏をむねとすべし。
第五十六段 久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、
第五十七段 人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ
第五十八段 道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交わるとも、
第五十九段 大事を思ひたたん人は、
第六十段 真乗院に盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。
第六十一段 御産のとき甑落す事は、さだまれる事にはあらず、
第六十二段 延政門院いときなくおはしましける時、
第六十三段 後七日の阿闍梨、武者をあつむる事、
第六十四段 車の五緒は、必ず人によらず、
第六十五段この比(ごろ)の冠(こうぶり)は、
第六十六段 岡本関白殿(おかもとのかんぱくどの)、盛りなる紅梅の枝に、
第六十七段 賀茂の岩本・橋本は、
第六十八段 筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなるもののありけるが、
第六十九段 書写の上人は、
第七十段 元応の清暑堂の御遊びに
第七十一段 名を聞くより、やがて面影はおしはからるる心地するを、
第七十二段 賤しげなるもの
第七十三段 世に伝ふる事、まことはあいなきにや
第七十四段 蟻のごとくに集まりて
第七十五段 つれづれわぶる人は
第七十六段 世の覚え華やかなるあたりに
第七十七段 世の中に、その比人のもてあつかひぐさに言ひあへる事
第七十八段 今様の事どものめづらしきを
第七十九段 何事も入りたたぬさましたるぞよき
第八十段 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。
(仮朗読)
(CD)
[古文] 序段.
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
[現代語訳]
手持ち無沙汰にやることもなく一日を過ごし、硯(すずり)に向かって心に浮かんでくる取りとめも無いことを、特に定まったこともなく書いていると、妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになるものだ。
[古文]1段:
いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事多かんめれ。御門(みかど)の御位(おんくらい)は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様(おおんありさま)はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方(しもつかた)は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。『人には木の端のやうに思はるるよ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢(いきほひ)まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(そうがひじり)の言いけんやうに、名聞(みょうもん)ぐるしく、仏の御教(みおしえ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣り(こころおとり)せらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ざえ)なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職(うしょく)に公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男(おのこ)はよけれ。
[現代語訳]
この世に生まれ出たからには、理想とする望ましいことは多いものだ。最高に望ましいのは天皇の位だが、これは非常に畏れ多いものである。天皇・皇族は子孫に至るまで、私たちと同じ一般の人間ではない(特別な血統である)。摂政・関白の位が私たち貴族にとっては、理想の職位である。一般の人でも、朝廷を警護する舎人(とねり)になれたらなかなか威厳があるものだ。そこから落ちぶれたとしても、孫の代までは気品があるように感じる。しかし、それよりも下の位になると、得意顔で自分の地位を自慢するのは、とても情けない(恥ずかしい)ことである。
しかし、最も羨ましくないのが僧侶(隠棲者)である。清少納言が『人から木っ端(取るに足りないもの)のように思われる』と書いたのも、本当に最もである。勢力を増して僧侶としてのし上がっても、凄いようには見えない。増賀上人が言ったように、名声欲は仏教の教義に背いているのだ。(名声・地位への欲望がない)本当の世捨人であれば、望ましい部分もあるかもしれないが。
人は容姿が優れているほうが良いと思われがちであるが、聞き苦しくない楽しい話ができて、程よい愛敬があり言葉数の少ない人のほうが、向かい合っていていつまでも飽きることがない。反対に、外見が良いように見える人の性格(心持ち)が悪くて、その(悪しき)本性が見えたときには本当に残念に思う。家柄・容姿は生得的なもので変えられないが、性格や教養は変えようと思って努力すれば変えることができる。一方、容姿と性格が良くてもそれに見合う教養がないと、醜くて下品な相手から議論で押さえ込まれてしまって不本意なことになってしまう。
理想的であるのは、本当の学問の道を修得して、漢詩・和歌・雅楽に精通しているということである。更に、朝廷の儀式・制度・慣習などの有職故実(ゆうそくこじつ)に通じている人を、人の模範となるべき凄い人物というのである。男ならば、筆で書く文字が達筆であり、音楽に合わせて上手に歌うことができ、酒も程よく飲めるというのが理想である。
[古文]
2段.
いにしへのひじりの御世の政(まつりごと)をも忘れ、民の愁(うれい)、国のそこなはるるをも知らず、万(よろず)にきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
『衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ』とぞ、九条殿の遺誡にも侍る(はんべる)。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、『おほやけの奉り物は、おろそかなるをもってよしとす』とこそ侍れ。
[現代語訳]
古代の聖人(天子)の治世を忘れて、民衆の心配や国の損失のことも考えず、すべてに華美の限りを尽くして素晴らしいなどと思い、所狭しとばかりにふんぞり返っている人は、何ともひどくて浅慮(浅はか)だと思う。
『衣冠・馬車などに至るまで、そこにあるものを用いれば良い。華美な贅沢を求めてはいけない』と、九条殿(右大臣・藤原師輔)の遺誡にも書かれている。順徳天皇が朝廷の仕儀についてお書きになったもの(『禁秘抄』)にも、『天皇のお召し物は、質素・粗末なもので良いとする』とあるのに。
[古文]
3段:
万(よろず)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉のさかづきの当(そこ)なき心地ぞすべき。露霜(つゆしも)にしほたれて、所定めずまどひ歩き、親の諌め、世の謗り(そしり)をつつむに心の暇(いとま)なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、ひたすらにたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。
[現代語訳]
すべてにおいて優れているのに、女を好まないという男は、どこか間が抜けていて、水晶(玉石)の盃(さかずき)の底が無くなっているような感じを受ける。夜露に着物を濡らしながら、行き場所もなくさまよい歩いており、親の注意も世間の非難を聞くだけの気持ちの余裕もなく、あれこれと思い悩んでいる。その結果、独りで寒々と眠ることになるのだが、その寝つけない夜というのが興趣をそそるのである。
しかし、ただ淫らに女を求め過ぎるというのもダメであり、女に軽い男と思われない程度に振る舞うのが望ましいやり方なのだ。
[古文]
4段:
後の世の事、心に忘れず、仏の道うとからぬ、心にくし。
[現代語訳]
彼岸の世界(あの世)のことを、心の中で忘れずに、仏道を軽んじないということが、奥ゆかしい。
[古文]
5段:
不幸に憂(うれえ)に沈める人の、頭(かしら)おろしなどふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに、門(かど)さしこめて、待つこともなく明し(あかし)暮したる、さるかたにあらまほし。顕基(あきもと)中納言の言ひけん、配所(はいしょ)の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。
[現代語訳]
不幸で心配に沈んでいる人(出世の望みのない貴族)でも、剃髪して出家することを軽々しく決心したのではなくて、門を閉じて自邸の中にひきこもり、やることもなく日々を暮らしている。そういう人(世捨人・隠棲者)になりたいものだ。顕基・中納言(源顕基)は『無実の罪で流された場所から月を眺めていたい』と語ったとされるが、(世俗を離れたい)私もそのように思っている。
[古文]
6段.
わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。前中書王(さきのちゅうしょおう)・九条太政大臣・花園左大臣、みな、族(ぞう)絶えん事を願ひ給へり。
染殿大臣(そめどののおとど)も、『子孫おはせぬぞよく侍る(はんべる)。末のおくれ給へるは、わろき事なり』とぞ、世継(よつぎ)の翁(おきな)の物語には言へる。聖徳太子の、御墓(みはか)をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや。
[現代語訳]
自分が高貴な身分でなくても、取るに足りない場合にも、子供というものはいないほうが良い。前の中書王(中務卿・兼明親王)も、九条の太政大臣(藤原信長)も、花園の左大臣(源有仁)も、みんな自分の血筋(血族)が絶えることを願っておられた。
『大鏡』では、染殿の大臣(藤原良房)も『子孫などいないほうが良い。ろくでなしの子ができるのは悪いことである』と語っていたそうだ。聖徳太子も自分の墓を築かせる時に『あれもいらない。これもいらない。自分は子孫を残すつもりなどはない』とおっしゃっていたと伝えられている。
[古文] 7段:
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙(けぶり)立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過す(すぐす)とも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を持ち得て、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
[現代語訳]
あだし野の墓地の露が消えないように人間が生き続け、鳥部屋の煙が消えないように人間の生命が終わらないのであれば、この世の面白み・興趣もきっと無くなってしまうだろう。人生(生命)は定まっていないから良いのである。
命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。蜻蛉(かげろう)のように一日で死ぬものもあれば、夏の蝉のように春も秋も知らずにその生命を終えてしまうものもある。その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように思う。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うだろう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老人になるまで長く生きて、一体何をしようというのか。漢籍の『荘子』では『命長ければ辱多し』とも言っている。長くても、せいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくて良いのである。
四十以上まで生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちも無くなり、人前に哀れな姿を出して世に交わろうとするだろう。死期が近づくと、子孫のことを気に掛けることが多くなり、子孫の栄える将来まで長生きしたくなってくる。この世の安逸を貪る気持ちばかりが強くなり、風流さ・趣深さも分からなくなってしまう。情けないことだ。
[古文] 8段:
世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし。
[現代語訳]
人の心を迷わすもので、色欲(性欲)に勝るものはない。人の心とは愚かなものであるな。
女の匂いなどはそれは本人の匂いではなく、服に付けた仮り初めのもの(焚きしめた香料の匂い)だと分かっていながら、いい匂いのする女に出会うと、男は必ず胸がときめくものである。久米の仙人が、洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという逸話があるが、本当にそういうことがあってもおかしくはない。女の手足・素肌のふっくらした肉付きの良さや華やかな美しさというのは、(仮り初めの香料などではなく)身体そのものの美しさ・魅力なのだから抵抗しがたい。
[古文] 9段.
女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかんめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。
ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女の、うちとけたる寝(い)もねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり。
まことに、愛著(あいぢゃく)の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくじん)の楽欲(ごうよく)多しといへども、みな厭離(おんり)しつべし。その中に、ただ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。
されば、女の髪すぢを縒れる(よれる)綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄(あしだ)にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝え侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり。
[現代語訳]
髪の美しい女こそ、男の視線を引きつけると思われているようだが、女性の魅力や風情ある心情は話をしている気配で、障子越しにも伝わってくるものだ。
何かにつけて、女はただそこにいるだけでも男の心を惑わす。女がくつろいで寝ることがなく、我が身を顧みることもなく、耐え難いことにも耐え忍べるのは、ひとえに愛欲(色欲)によるものである。
本当に、愛欲・愛着の道はその根が深くてその源ははるかに遠い。人間の心を汚す『五感・法がもたらす多くの欲望』は、仏道の修行によって遠ざけることができる。しかし、その中でも愛欲(色欲)の迷いというのは、老いも若きも愚者も賢者も捨てがたいのである。
そうであれば、巨大な象でも女の髪で編んだ綱につながれるといい、女の履いた下駄の木で作った笛の音には、必ず発情した秋の鹿が集まってくると伝えられている。男が自ら戒め恐れて控えるべきものは、この愛欲の迷いである。
[古文] 10段:
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きららかならねど、木立もの古りて(ふりて)、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、すのこ・透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工(たくみ)の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間のけぶりともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、『鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ』とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、『まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん』と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。
[現代語訳]
家構えは自分の身分に似合っているものが望ましい。家は無常の世では、一時的な仮の宿ではあるが、人の家には興味を引かれる。身分の高い人がのどかに暮らしていると、家に差し込む月の光すら、しみじみとした趣きがあるように見える。そんな風情ある家の庭は、流行を追っておらず、華やかでもないけれど、木立は程よく古びており、手を入れていない庭は自由に生い茂っている。建物や透垣(竹・細板で作った向こうが透けて見える板垣)の配置も素晴らしく、それとなく置いている調度品(家具)にも古い歴史が感じられて、気持ちが落ち着かせられる。
多くの匠(職人)が一生懸命に磨きあげ、唐物(中国からの輸入品)や大和の珍しい調度を並べたとしても、庭の植木・植物まで意図的に良く見えるように植え込んでしまうと、見苦しくなってしまい寂しいものだ。人間はどのくらい長くその家に住めるのだろう。家なんてあっという間に焼けて煙になってしまうこともあるのにと、家を見ながら思ったりもする。家の構えを見ることで、その家に住む人の人柄や考えが推し量れることもある。
後徳大寺大臣の家の屋根に、鳶(鳥のとんび)が止まれないように縄をはっていたのを、西行法師が見かけて『トンビが屋根にとまると、何か問題がありますか?この家の主人の心はそのように狭いものなのか』と言ったという。その後は、二度とその家を訪れることがなかったと聞いている。綾小路宮が住んでいる小坂殿の屋根にも、いつからかカラスを避ける縄が張られていたので、西行の逸話を思い出したのだが、『実はカラスが池の蛙を捕まえるのを見て、綾小路様が悲しまれていた』と人が言っているのを聞いた。そうであれば、素晴らしい心がけだと思う。(西行に敬遠された)後徳大寺殿にも、何か縄を張った理由があったのではないだろうか。
[古文] 11段:
神無月のころ、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋(かけい)の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
[現代語訳]
神無月(旧暦10月)の頃、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里にたずね入る事がありましたが、遥かな苔の細道を踏み分けて行くと、心細い様子で誰かが住んでいる庵があった。木の葉に埋もれる懸け樋の雫以外には、まったく音を立てるものがない。仏前に水・花を供えるための閼伽棚には菊や紅葉などが折り散らしてある。さすがに誰か住む人がいるからだろう。
こんなに荒れていても住んでいられるのかと、憐れに思って見ていると、向こうの庭に大きな蜜柑の木が、枝もたわむほどに実をならせていた。しかし、蜜柑の木の周りを厳しく囲っており、少し興ざめして、(庵の家主のケチ・吝嗇な人柄を推測させる)この木が無ければ良かったのにと思った。
[古文] 12段.
同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、ただひとりある心地やせん。
たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少し、かこつ方も我と等しからざらん人は、大方のよしなし事言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。
[現代語訳]
同じ心(気持ち)の人としんみりと世間話などして、面白い事も世のはかない事も、裏表なく話し合って慰め合えれば嬉しいのだけど、そのような人はいないだろうから、少しも違わないようにと相手に気を遣って向かい合っているのは、ただひとりでいるような孤独な気持ちである。
お互いに言おうとする事が『本当に』と聞く価値のあるものであれば良いが、少し自分の考えと違う所があるような人と『私はそう思わない』などと言い争いになることもある。『そういうことだから、そうか』ともし(お互いに譲って)語ることができれば、何となく気持ちも慰められると思うけれど。本当は少し愚痴を言う方法が自分と違っているような人は、大体、良くも悪くもない事を言っている間は良いのだが、(そういった毒にも薬にもならないやり取りは)本当の心の友とは、全く異なっているところがありそうで、何ともやりきれない。
[古文] 13段:
ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文(ふみ)は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々(まきまき)、白氏文集(はくしもんじゅう)、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
[現代語訳]
一人、明かりの下で、本(巻物)を開いていると、見たこともない昔の作者を友とする気持ちがしてきて、この上なく気持ちが慰められるのである。
本(巻物)には、『文選(全30巻)』の興趣ある文章の数々、唐の詩人・白楽天が書いた『白氏文集』、『老子』の無為自然を説くことば、南華と呼ばれる『荘子』の篇の数々がある。この国の文章博士たちが書いた物にも、古いものには、しみじみとした趣きのあるものが多い。
[古文] 14段:
和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしず・山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床(ふすいのとこ)」と言へば、やさしくなりぬ。
この比(ごろ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。貫之が、「糸による物ならなくに」といへるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知り難し。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判(しゅぎはん)の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも、ことさらに感じ、仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり。
歌の道のみいにしへに変わらぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠みあへる同じ詞・枕詞(まくらことば)も、昔の人の詠めるは、さらに、同じものにあらず、やすく、すなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の郢曲(えいきょく)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みな、いみじく聞ゆるにや。
[現代語訳]
和歌というのは、やはり情趣・風情がある。身分の低い下賎な者・山に住む木こりの所業も、歌にすればおもしろくて、恐ろしい猪でも『ふす猪の床』と言えば優しい印象になってしまう。
この頃の新しい歌は、部分的に趣深く詠めているように見えるものはあるが、どういうわけか、古い和歌のように言葉の外にある情趣の感覚を覚えることはない。紀貫之(きのつらゆき)が『糸による物ならなくに』と詠んだ歌は、『古今和歌集』の中では屑の歌(ダメな歌)と言ひ伝えられているけれど、今の世の歌人が詠めるような歌ではない。
古い歌には、『形・ことば(全体的構成・部分的な言葉遣い)』においてこういった優れた類が多いのである。この紀貫之の歌に限って悪く言われるのも、分かりにくい。源氏物語では『物とはなしに』と書いてある。新古今和歌集には『残る松さへ峰にさびしき』という歌をそのように悪く言っているが、実際、少しくだけた感じの歌にも見える。しかし、この歌も、衆議判(歌の優劣の議論を通した判定)の時には、『よい歌だ』という内容の判定があった。後に、後鳥羽院(上皇)もそのように良い歌に感じたということが、源家長の日記には書いてある。
歌の道は昔と変わらないと言う事もあるが、そうだろうか。今、歌に詠まれる同じ詞・枕詞も、昔の人が詠めば、全く同じものではない。言葉が平易で素直であり、形式も整っていて、しみじみとした深い感動が伝わってくる。
後鳥羽院が勅撰した『梁塵秘抄』の流行りの歌の言葉にも、また趣きのあるものが多い。昔の人は、日常的な言葉・話しぶりであっても、みんな素晴らしいように聞こえてしまうのだ。
[古文] 15段.
いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。 そのわたり、ここ・かしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目慣れぬ事のみぞ多かる。都へ便り求めて文やる、『その事、かの事、便宜に忘れるな』など言ひやるこそおかしけれ。
さようの所にてこそ、万に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人、かたちよき人も、常よりはおかしとこそ見ゆれ。寺・社などに忍びて籠りたるもをかし。
[現代語訳]
どこであっても、しばらくの間、旅立つということは、目がさめる心地がする。 そのあたり、ここかしこを見てまわり、田舎びた所、山里などは、本当に見慣れないことが多いだろう。都へ良い知らせを求めて手紙を送る、『(自分が旅に出かけている間に)その事、あの事、都合良く忘れるな』などと言ってやるのは面白いものだ。
そのような旅先でこそ、全てのことに心遣い(注意)をすることができるだろう。持っている調度品も良いものは良い、芸能のある人、容姿が美しい人も、いつもより興味深く見ることができる。寺や神社などに忍び込んで、ひっそりと籠るのもまた面白い。
[古文] 16段:
神楽(かぐら)こそ、なまめかしく、おもしろけれ。
おほかた、ものの音(ね)には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶(びわ)・和琴(わごん)。
[現代語訳]
(神に捧げる)神楽こそ、世俗じみていない優雅さが感じられ、情趣がある。
一般的な楽器の音というのは、笛(日本製のヤマト笛)・篳篥(中国渡来の竹の笛)だが、いつも聞きたいのは、琵琶・和琴だな。
[古文] 17段:
山寺にかきこもりて、仏に仕う(つかう)まつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。
[現代語訳]
山寺に籠もって仏にお勤め(勤行)することは、とりとめも無く、心の濁り(世俗の煩悩)も清まる感じがする。
[古文]
18段:
人は、己れをつづまやかにし、奢り(おごり)を退けて、財(たから)を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。
唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へ(たくわえ)もなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びて(むすびて)ぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(わらひとたば)ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝(あした)には収めけり。
唐土のひとは、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。
[現代語訳]
人は自分を質素にして、奢りたかぶりを退け、財を持たずに、世俗の欲望を貪らないようにすることが、素晴らしいことだ。昔から、賢人が富むのは稀なことである。
唐土(中国)の許由という人物は、自分の身に備えた貯えもろくになくて、水を手に捧げて飲んでいるのを人が見て、「なりひさこ(水筒になるひょうたん)」という物を与えた。ある時、木の枝にひょうたんを掛けていたら、風に吹かれてそれが鳴るので、音がうるさいと捨ててしまった。また、手ですくって水を飲むようになった。どんなに心が涼やかになったことだろうか。孫晨は、冬の月に衾(布団の寝具)がなくて、藁一束だけがそこにあった。夜はこの藁に寝転がって、朝はその藁を片付けた。
中国の人は、こういった質素倹約な生活を素晴らしいと思えばこそ、これを書き残して世に伝えたのだ。しかし、日本の人は、この事績を語りもしなければ伝えもしない。
[古文] 19段.
折節(おりふし)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。
『もののあはれは秋こそまされ』と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(かきねの草萌え出づるころより、やや春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘(はなたちばな)は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思い出でらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
『灌仏の比(かんぶつのころ)、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ』と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲(あやめ)ふく比(ころ)、早苗とる比、水鶏(くいな)の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火(かやりび)ふすぶるも、あはれなり。六月祓(みなづきばらえ)、またをかし。
七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。
さて、冬枯(ふゆがれ)のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀(みぎわ)の草に紅葉の散り止まりて、霜いと白うおける朝、遣水(やりみず)より烟(けぶり)の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日(はつか)余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名、荷前の使(のさきのつかい)立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事(くじ)ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(ついな)より四方拝(しほうはい)に続くこそ面白けれ。晦日(つもごり)の夜、いたう闇きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくののしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂祭る(たままつる)わざは、このごろ都にはなきを、東(あずま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。
かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとはみえねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路(おおじ)のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。
[現代語訳]
季節の移り変わりこそ、物事にしみじみとした趣きがあるものだ。
『物事の趣きの深さは秋こそ優れている』と人々は言うけれど、それは確かにそうだが、いま一層心を浮き立たせる季節は、春の景色である。鳥の声も事のほか春めいてきて、のどかな日の光に、垣根の草も萌えいずる時期から、やや春は深まり、霞がかってぼんやりとし、桜の花もようやく色づき始める。ちょうど、雨風が続いて、心が休まる暇もなく桜の花の季節が終わってしまう。桜が青葉になっていくまで、ただすべて、花のことのみに心を悩ませられるものだ。花橘は名前こそ桜に負けてはいないが、梅の匂いのほうが思い出されてくる。昔の事を振り返れば、恋しい気持ちになってくるが、山吹の清らかさ、藤のはっきりしない趣き、すべてが捨てがたいものばかりである。
『灌仏会と賀茂神社の祭りの頃の若葉が木の梢に涼しげに茂っている様子は、世の物悲しさや人の恋しさにも勝っている』と人が語るのは、本当にその通りである。五月に、邪気をはらう菖蒲の葉を屋根に葺き(ふき)、早苗を取り込む時期の、水鶏(くいな)が戸を叩くような声は、心細く感じてしまわないだろうか。六月の頃には、貧しい家に夕顔が白く咲いて、蚊遣り火がくすぶっているのもしみじみとしている。六月禊は、また興味深い。
七夕祭はなまめかしさがある。少しずつ夜が寒くなり、雁が鳴いている頃には、萩の下葉は色づくほどで、早稲(わせ)の稲刈りをして干している。取り集めて語りたい事は、秋に多いものだ。また、風が吹く明朝こそ、情緒的な趣きがある。言い続けられていることは、みんな源氏物語・枕草子などで使い古されてるのだが、同じことを、もう一度また言えないという事もないだろう。思ったことを言わないのは腹がふくれるような感じがすることだから、筆に任せながらの他愛のない遊びなので、すぐに破り捨てたほうが良いものである。人に見せるような価値はない。
さて、冬枯れの景色というのも、秋に少しも劣らないものだ。水辺の草に紅葉は散り落ちており、霜がとても白く降りている朝には、庭の小川から湯気立つのが興味深い。年も暮れて、人々が急ぎ合っている時期には、また何となくしみじみとした気持ちになる。もの寂しいと決め込んで見る人もない月は、寒々として澄んでいる。20日あたりの空というのは、心細さ・寂しさを感じるものである。懺悔・滅罪のための仏名会や朝廷の勅使の出発は、趣深くて尊いものである。公の行事が多くて、新春の準備と重なって、行事が行われている様子はとても大変である。
追儺(鬼やらい)の儀式から四方拝へと続く時期が興味深い。晦日の夜はとても暗いのに、松明をともして、夜半が過ぎるまで、人の家の門を叩いて走り回って何事なのだろうか。物々しく罵り合って足を空にぶらりとさせている。明け方から、さすがに静かになってくるが、一年を名残惜しく振り返るのは心細いものだ。亡くなった人の訪れる夜として魂を祭る行事は、最近の都では見なくなったが、日本の東方では、今でも行っている所もある。その魂をお祭りする行事は、とても情趣豊かなものではないだろうか。
このようにして明けていく空の景色は、昨日から変わっているようには見えないが、珍しい感じがする。都の大路の様子は、松を多く植えていて、華やかで気分が晴れやかであり、また趣き深いものである。
[古文]
20段:
某(なにがし)とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。
[現代語訳]
なにがしとかいう世捨て人が、『この俗世に縛り付けられるような物を持っていない身には、ただ空から受ける感動・余韻のみが惜しい』と言ったのだが、本当にそのように思ってしまう。
[古文] 21段:
万(よろず)のことは、月見るにこそ、慰むものなれ、ある人の、『月ばかり面白きものはあらじ』と言ひしに、またひとり、『露こそなほあはれなれ』と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。
月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るる水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。『元・湘、日夜、東に流れさる。愁人のために止まること小時もせず』といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。けい康(けいこう)も、『山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ』と言へり。人遠く、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。
[現代語訳]
どんなことがあっても、月さえ眺めていれば、気持ちが慰められるものだ。ある人が、『月ほど面白いものはない』と言えば、また別のひとりが、『露のほうこそ趣きがある』と言って言い争いになったのだが、これも趣深いものだった。良い時期に当たらなければ、それに趣深さがあるとは言えない(あはれと感じる事象には、それを鑑賞するのに最適の時期があるのではないだろうか)。
月・花は言うまでもないが、風も、人の心を興趣へと揺り動かすものである。岩に当たって砕ける清く流れる水の景色は、季節を問わずに素晴らしい。『元・湘(中国の川)は日夜、東に流れ去っていく。愁えている人のために流れを止めることを、少しの間もすることがない』という詩を拝見致しましたが、これは情趣がある。竹林の七賢のけい康も、(『文選』という古典の詩集の中で)『山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ』と言っている。人は遠くに出かけて、水草の清い所をさまよい歩くばかりでは、心が慰められることもないだろう。
[古文] 22段.
何事も、古き世のみぞ慕わしき。今様(いまよう)は、無下(むげ)にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物(うつわもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞(ふみのことば)などぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かかげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て(とのもりょうにんじゅたて)」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝講(さいしょうこう)の御聴聞所(みちょうもんじょ)なるをば「御講の廬(ごこうのろ)」とこそ言ふを、「講廬(こうろ)」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし。
[現代語訳]
何事も、古い世が慕わしく感じる。今風のものは、何かひどく卑俗なものになっていくようだ。あの木の職人(匠)が造った美しい器物も、古風な姿にこそ情趣があるのだ。
手紙の内容なども、昔の人が書き損じた手紙のほうがまだ素晴らしい。普段の話し言葉ですら、残念でつまらないものになっていく。昔は、「車もたげよ(牛車の轅を持ち上げよ)」、「火かかげよ(灯火の光を明るくせよ)」と言っていたのが、今では、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言っている。「主殿寮人数立て(主殿寮の役人に列席して式場を松明で照らせという命令)」と言うべきを、「松明で明るく照らせ」と言い、四大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の僧を集めて天下太平を祈る最勝講の儀式に、天皇が講義を聞かれる御座所は「御講の廬」と言うべきを「講廬」と言っている。情けないことだと、古事・慣習に通じた老人はおっしゃっている。
[古文] 23段:
衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重(ここのえ)の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。
露台(ろだい)・朝餉(あさがれい)・何殿(なにでん)・何門(なにもん)などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)・小板敷(こいたじき)・高遣戸(たかやりど)なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設(もうけ)せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿(おとど)のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿(じょうけい)の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人(しもうど)どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、ここ・かしこに睡り居たる(ねぶりいたる)こそおかしけれ。「内侍所(ないしどころ)の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺大政大臣(おおきおとど)は仰せられける。
[現代語訳]
朝廷の権威が衰えた末法の武士の世とは言っても、今なお、幾重もの門に囲まれた宮中の神々しい様子は素晴らしいものである。
板張りの廊下である露台、天皇が食事を召し上がる部屋を朝餉の間というが、何とか殿、何とか門などと聞くだけでも、神々しいもののように聞こえてしまう。どこの家にでもあるような、板組みの小窓や板の間、開き戸であっても、宮中で「小蔀・小板敷・高遣戸」と言っていれば、特別に素晴らしいもののように聞こえる。
警護の役人が「陣に夜の寝る準備をせよ」などと言っているのを聞けば、物々しい威厳を感じる。 夜に天皇の御寝所を警護する者が、明かりを灯そうとして「かいともしとうよ(油火の燈籠を早く灯せよ)」とか言うのだが、それもまた洗練されている。宮廷行事を担当する公卿が、詰め所で行事進行の命令を下すのもかっこいい。宮廷の警護の下級役人たちが、自分はよくやっているという得意顔をしているのも面白い。更に、とても寒い真冬の夜に、警護の役人たちが、そこかしこで眠り込んでしまっている様子もおかしい。「(天皇が聞くことになる)内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」と、徳大寺大政大臣(=藤原公孝)は仰っている。
[古文] 24段:
斎宮の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言ふなるもをかし。
すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもただならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰(きぶね)・吉田・大原野・松尾・梅宮。
[現代語訳]
斎宮(伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女)が、伊勢神宮に下る前に心身を清めるための野宮(仮所)に滞在しておられるご様子は、優美であり、非常に趣き深いものに感じられました。伊勢神宮の神域では、仏教や経文を忌み嫌っており、「染紙」「なかご」などと違う言葉に言い換えられていたのも趣きがある。
そのように、すべての神社は捨て難いものであり、魅惑的なものなのだ。鬱蒼と古木が生い茂った森の景色も普通ではない。石垣が張り巡らされていて、榊の木に御幣がたなびいている状況は、神秘的な情趣を感じさせる。特に素晴らしい神社は、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮である。
[古文] 25段.
飛鳥川の淵瀬(ふちせ)常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李(とうり)もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。
京極殿(きょうごくどの)・法成寺(ほうじょうじ)など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族(おおんぞく)のみ、御門の御後見(おおんうしろみ)、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言(こうぜいだいなごん)の額、兼行(かねゆき)が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。
されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟てん(おきてん)こそ、はかなかるべけれ。
[現代語訳]
飛鳥川の淵や瀬は常に姿を変えているが、この川の流れのように移り変わり続けるのが世の常であるならば、時は移り、物事は過ぎ去って、喜びも悲しみも入り交じり過去に流れ去っていく。華やかだった場所も、やがて人の住まない荒野となるが、家が残っていたとしても住む人は違う人に変わってしまう。
毎年のように花を咲かせる桃李は何も語らないので、誰に遠い昔のことを尋ねればよいのだろうか。見たこともない古代の繁栄・高貴の遺構を示す廃墟は、とても儚いものである。摂政になった藤原道長が建立した豪華な京極殿・法成寺などの跡を見ると、昔の貴人の思いが偲ばれて、今のすっかり荒れ果てて変わってしまった様子が哀れに感じる。
多くの荘園を寄進して、自らの一族(藤原家)が末代まで天皇の後見人(摂政関白)となることを望んだ道長は、その繁栄を極めている時期にこのように変わり果ててしまった状態を予測することができただろうか。法成寺の大門・金堂などは最近まであったのだが、正和の頃に南門は焼け落ち、金堂はその後に倒れたままであり、再建する目途も立っていない。無量寿院だけが、その形を今でも残しており、一丈六尺の仏様が九体、尊い姿で並んでおられる。行成大納言の書いた額、源兼行が書いた扉の絵が、今も鮮やかに残っている様子が悲しく感じられる。
法華堂などもまだ残っているが、これもいつまで持つだろうか。こういった過去の名残・記録もないような場所には、建物の土台の跡が残っているだけで、何の建物の跡だったのかを正確に知る人はいないのである。だから、自分が見ることのできない遠い子孫の代まで繁栄の基礎を築こうとするようなことは、すべて儚いのである。
[古文] 26段:
風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。
されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分かれんことを歎く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、
昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん。
[現代語訳]
風も吹き荒れていないのに散ってゆく花のように、移り変わってゆく人の心、過去に親しんだ月日のことを思うと、しみじみと感動して聞いた一つ一つの言葉が忘れられない。そんな大切な言葉を少しずつ忘れ去っていっていることは、亡くなった人との別れよりも悲しいものである。
だから、白い糸が必ず汚れることを悲しみ、道が必ず分かれる事を嘆いた人もいたのだろう。堀川院の選んだ百首の歌の中に、以下のようなものがある。
昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして
この和歌の意味は、昔の彼女の家の垣根がすっかり荒れ果てていた、茅草の中にすみれの花ばかりが咲いているというものである。この歌に詠まれた寂しい景色に、しみじみとした思いを寄せる。
[古文] 27段:
御国譲り(みくにゆずり)の節会(せちえ)行はれて、剣・璽・内侍所渡し奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
新院の、おりゐさせ給ひての春、詠ませ給ひけるとかや。
殿守(とのもり)のとものみやつこよそにして掃はぬ(はらわぬ)庭に花ぞ散りしく
今の世のこと繁きにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かかる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。
[現代語訳]
持明院統の花園上皇が、大覚寺統の後醍醐天皇に、天皇位を譲位する「御国譲りの節会」の儀式が行われた。花園上皇が、三種の神器を新天皇にお譲りになられた時には、この上なく心細い気持ちになった。
花園上皇が退位なされた年の春に詠まれた歌は、以下のようなものである。
殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく
この歌の意味は、新しい天皇の御世になって、主殿寮の役人が誰も自分の屋敷の庭掃除をしてくれないので、花が庭に敷き詰めるかのように散り落ちているというものである。権力の座を失った花園上皇の周辺のもの寂しさを表現した歌である。
現在の世俗の忙しさに紛れて、花園院の周辺には参上する人もなくて寂しげな様子である。こういった落魄(失意)の時期にこそ、人間の心(忠誠心)というものは現れてくるものだ。
[古文]
28段.
諒闇(りょうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ。
倚廬(いろ)の御所のさまなど、板敷(いたじき)を下げ、葦の御簾(あしのみす)を掛けて、布の帽額(もこう)あらあらしく、御調度(みちょうど)どもおろそかに、皆人(みなひと)の装束・太刀・平緒まで、異様なるぞゆゆしき。
[現代語訳]
諒闇の年(天皇の父母が亡くなった時に服喪する期間)ほど、悲しくつらいことはない。1319年に、後醍醐天皇の母である談天門院・藤原忠子が亡くなり、後醍醐天皇が約1年間の喪に服した。
天皇が13日間の間、喪に服する仮御所の「倚廬の御所(いろのごしょ)」の様子は、板敷を下げてあり、庶民の用いる葦の御簾を掛け、布の帽額(御簾の外側に横長に張った布)は薄墨色で粗末である。家具の品々も質素なものである。服喪している天皇にお仕えする人々の装束・太刀・平緒まで薄墨色に染めてあって、その異様な様子も厳粛で重々しい感じがする。
[古文]
29段.
静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる(やりすつる)中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手慣れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。
[現代語訳]
静かにもの思えば、すべて過ぎ去った過去のみが恋しくてどうしようもない。
人が寝静まった後には、長い夜の気慰めに、何となく身のまわりの道具を取り出して、残しておきたくない書き損じの手紙などを破り捨てている。その中に、亡き人が気ままに書き散らした文字や絵(落書き)などを見つけたのだが、それらを見ると昔のことを思い出してしまう。
まだ生きている人からの手紙でも古いものになってくると。どんな時にもらったものか、どのくらい昔にもらったものかと思い出しているうちに物悲しくなってくる。故人の使い慣れている道具は感情を持っておらず、昔と変わらずそのままの形であるのだが、それがとても悲しいのだ。
[古文]
30段:
人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたたし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたため、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆(そとば)も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽び(むせび)し松も千年を待たで薪(たきぎ)に摧かれ(くだかれ)、古き墳(つか)は犂かれて(すかれて)田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。
[現代語訳]
人が死んだ後ほど、悲しいことはない。
四十九日の間、便利の悪い狭い山寺に大勢の人がこもって、亡くなった人の追善供養をするのだが、心が落ち着かない。その日にちが速く過ぎていくのは、何とも言えない気持ちだ。四十九日の最後の日は、とても薄情に感じられる。お互いに故人について語り合うこともなく、自分本位に要領よく身の回りの品々を整理して、山寺からバラバラに帰っていく。自分たちの本邸に帰りつくと、更に悲しいことは増えてくる。「これこれのことは、あぁ恐れ多い。後のために不吉なこととして忌むことにする」などと言うのは、これほどの悲しみの中でどうしてそういうこと(故人の死が不吉だということ)を言うのかと、人間の心が非常に情けないもののように思える。
何年経っても、私は亡くなった人を忘れないが、亡くなった人は次第に周囲の人から忘れ去られてゆく。周囲の人は故人の思い出を笑い話として語るようになるが、私は臨終の時のことを覚えておこう。死骸は人気のない山奥に埋められたが、然るべき時でなければ墓を訪れる者も無く、墓は苔蒸して枯れ葉に埋まり、夕方の風と夜の月だけが語り合う縁者になっている。
故人を思い出して偲ぶ人がいなくなれば、故人の面影はなくなってしまうだろう。その子孫の世代では、墓に眠る故人のことを直接知らず、ただそのありし日の姿を伝聞によって知るのみである。そして、子孫もいなくなってしまえば、誰も墓参りをする者もなく、誰の墓かも分からなくなる。(誰のものかも分からない墓の周囲で)春の草が生い茂る様子は、風流を解する人の情趣を強く誘うだろう。嵐に堪える松も千年を待たずに枯れて、薪にされる。古い塚は鋤かれ耕かされて、田んぼにされる。そういう風に形すら残せない人間の死というものは悲しい。
[古文]
31段.
雪のおもしろう降りたりし朝(あした)、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞き入るべきかは。返す返す口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。
[現代語訳]
雪が趣深く降り積もった朝、ある人の元に伝えることがあって手紙を送ったのだが、その手紙の返事には昨晩から降り続いている雪のことが全く触れられていなかった。
その雪に感じる興趣のない返事に対して、「この雪をどのように見るのかについて、一言も書かないようなひねくれ者の言う事を聞き入れても良いものだろうか。かえすがえすも残念な気持ちです」と言っているのが面白かった。
今は亡き人のエピソードであるから、こんな事でも忘れることができない。
[古文]
32段.
九月廿日(ながつきはつか)の比(ころ)、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。
よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。
その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。
[現代語訳]
九月二十日の頃、ある人に誘われて夜明けまで月を見て歩いた。ある人が思い出した場所があるということで、私に案内させて、その家の中に入っていった。荒れた庭の生い茂る植物には露が降りており、周囲にはわざとではない焚き物の香りが漂っていて、忍びながら話している気配が非常にしみじみとした情趣を醸している。
適当な時間にある人はおいとまされたのだが、まだこの家に住んでいる女性の姿が優美に感じられて、物陰からしばらく見ていた。その女性は妻戸を少しだけ開いて、月を見ている様子だった。すぐに引きこもって戸締まりをしてしまっていたら、残念な気持ちになっただろう。(その家の女性は)まさか客人が帰った後にも自分を見ているなどとは思いもかけなかっただろう。こういった幸運は、ただ、常日頃の心がけによるものだ。
その人は、間もなく亡くなられたと聞いている。
[古文]
33段:
今の内裏作り出されて、有職(ゆうそく)の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、既に遷幸(せんこう)の日近く成りけるに、玄輝門院(げんきもんいん)の御覧じて、「閑院殿の櫛形(くしがた)の穴は、丸く、縁もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。
これは、葉の入りて、木にて縁をしたりければ、あやまりにて、なほされにけり。
[現代語訳]
新しい内裏が作られて、古来の建築様式を知る有職の方々に見てもらったところ、どこにも問題はないということで、花園天皇が新内裏に移る「遷幸の日」も近づいていた。しかし、花園天皇の祖母の玄輝門院が新内裏を御覧になって、「かつての閑院殿では、覗き窓の形が丸くて、ふちもないようだったのですが」と仰られたという。(その記憶力と情趣は)素晴らしいことだ。
この新しい覗き窓には、切り込みが入っており、木で周りに縁を作っていたのだが、これは伝統建築の誤りだったとして、直されることになった。
[古文]
34段:
甲香(こうこう)は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり。
武蔵国金沢といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。
[現代語訳]
練香のお香の材料となる「貝香(かいこう)」は、ほら貝のようであるが、小さくて口のあたりが細長く突き出た貝の蓋である。
武蔵国の金沢という浦にもあったのだが、近所の者は「へなたりと申します」と言っていた。
[古文]
35段.
手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。
[現代語訳]
文字が下手な人が、遠慮をせずに、文書(恋文など)をどんどんと書き散らすのは良い。しかし、文字が上手くないからといって(文字が下手なのを隠そうとして)、人に代筆をさせて書かせるのは見苦しい(うざったい)。
[古文]
36段.
「久しくおとづれぬ比(ころ)、いかばかり恨むらんと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女の方より、『使丁(しちょう)やある。ひとり』など言ひおこせたるこそ、ありがたく、うれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と人の申し侍りし、さもあるべき事なり。
[現代語訳]
「長い間にわたって、好きな女の家を訪ねないでいた時、どれほどその女が自分を恨んでいるだろうかと、自分の怠慢さを悔やみ、まったく弁解の余地さえないような気持ちがしていた。そんな時に女のほうから、『召使いの下僕はいますか。一人お貸しください(間接的に皮肉を効かせて好きな男のことを呼んでいる言葉)』などと(気配りして)言って手紙を送ってくれたのが、予想外の思いがけないことで嬉しかったのだ。そのような寛容な心持ちをした人は素晴らしい」と人が申し上げていたのだが、まったくその通りだ。
[古文]
37段.
朝夕、隔てなく馴れたる人(なれたるひと)の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、「今更、かくやは」など言ふ人もありぬべけれど、なほ、げにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる。
疎き人の、うちとけたる事など言ひたる、また、よしと思ひつきぬべし。
[現代語訳]
朝も夕べもすっかりうちとけて慣れていた女性が、ふとした時に、自分に気を遣い始めて、よそよそしく態度を取り繕ったりすると、『今さら、そんなことをしないでも良いではないか』と思う人もいるだろうが、これが誠実で真剣なのだから、魅力的で良い人だなと感じてしまう。
知り合ったばかりの女性が、うちとけた様子で馴れ馴れしく話しかけてくるのも、また良いものだと思うけれどね。
[古文]
38段:
名利(みょうり)に使はれて、閑か(しずか)なる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ(かい)、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり。身の後には、金をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐ(なぐ)べし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢(おごり)を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏(ひとえ)に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る(そしる)人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。
[現代語訳]
名誉や利益に使役されて、心を静かに穏やかに保つ時間もなく、一生を苦しむのは愚かである。
財産が多ければ、財産を守ることに精一杯で、自分の身を守れなくなる。財産は、害を生みだし、災いを招く媒介になってしまうこともある。自分が死んだ後に、金銭が山と積み上げられて北斗星を支えるほどの栄華があっても、残された人々に余計な厄介ごと(遺産相続の紛争)を残すだけだ。愚かな人の目を楽しませる趣味も、また虚しい。大きな車、肥えた立派な馬、宝石や黄金の飾りも、風流を解する心ある人ならば、つまらなくて愚かな俗物趣味の産物と見るだけである。金銭を山に捨てて、宝石は川に投げ捨てたほうがいい。金銭・利益に惑わされるのは、一番愚かなことである。
永遠に消えない名誉・名声を後世にまで残したいというのは、誰もがそう願うことであろう。しかし、高位高官を得た高貴な人たちが、本当に優れた人たちだと言えるだろうか。愚かで思慮が足りない人でも、それなりの名門・名家の家柄に生まれて、時流に乗ることができれば、高位高官に上り詰めて贅沢な生活ができる。反対に、並外れた才覚・人柄を持つ賢人や聖人が、卑賤な官位に留まって、時流に乗ることができずに、そのままこの世を去ってしまうことも多い。故に、高位高官に上って名声を残そうとするのは、財力を求めることの次に愚かなことである。
世間一般の人よりも優れた知恵と精神を持っていれば、知性において名誉を残したいと思うものだが、よくよく考えてみれば、知性・賢さに関する名誉を欲するということは、世間の評判を求めているだけのことである。自分を褒める人もけなす人も、共にいつかはこの世からいなくなってしまう。自分の賢さについての評判を伝え聞いていた人も、また遠からずこの世を去ってしまい、自分の名誉も消え去ってしまう。(そういった諸行無常の世において)自分の名誉を、誰に対して恥ずかしく思い、誰に認められたいと願うのだろうか。名誉は誹謗(非難)の原因でもある。死んだ後に、名誉名声が残っても何にもならない。知恵・賢さの名誉を求めようとするのは、高位高官を求めることの次に愚かなことである。
しかし、本気で知恵を求め、賢明さの獲得を願っている人に敢えて言うならば。知恵があるからこそ偽りが生まれるのである。才能とは、煩悩(欲望)の増長したものに過ぎない。人から伝え聞いて、書物で読み知ったような知識は、真の知識(知恵)ではないのだ。では、どういったものが、本当の知識と言えるのだろうか。世の中でいう可、不可とは、明確な区別があるものではなく一条の流れである。真の知性を体得した賢人には、智もなく、徳もなく、功もなく、名もない。こんな脱俗の境地を誰が知っていて、誰が伝えることができるだろうか。これは、徳性(仁徳)を隠して、愚を装うだけの境地ではない。初めから、真の賢者は、賢と愚(頭の良さの高低)・得と失(損得)を区別して満足するような相対的な境地にはいないからである。
迷いの心を持って、名誉や金銭を欲すると、全てが愚かな結末を迎えてしまう。名誉・金銭に関わる世俗の万事は、すべて否定されるべきことだ。(あなたが様々な不満・迷いを抱えているにしても)語るに足らず、願うに足りないということである。
[古文]
39段.
或人(あるひと)、法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行を怠り侍る事、いかがして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の覚めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。
また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思えば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。
[現代語訳]
ある人が、法然上人に『念仏を唱えている時に、睡魔に襲われてしまい、称名念仏の勤行を怠ってしまうのですが、どのようにして、この障害を乗り越えればよろしいのでしょうか?』と質問した。すると、法然上人は『目が覚めている時に、念仏をしなさい』と答えられた、とても尊いことである。
また、『極楽往生は、確実(必然)と思えば確実(必然)であるが、不確実(偶然)と思うならば不確実(偶然)でもある』とおっしゃられた。これもまた尊いことである。
また、『疑う気持ちがありながらも、念仏を唱えていれば極楽往生することができる』ともおっしゃった。これもまた尊いお言葉である。
[古文]
40段.
因幡国(いなばのくに)に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、ただ、栗(くり)をのみ食ひて、更に、米の類を食はざりければ、「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。
[現代語訳]
因幡国(現在の鳥取県)に、何とか入道という者の娘が、容姿端麗な美人だと評判になっていて、大勢の男が求婚をしたが、この娘は、ただ栗ばかり食べていて、まったく米・穀物の類を食べなかった。『このような変わった者は、よそ様の家の嫁にはやれない』と、親は結婚を許さなかったという。
[古文]
41段:
五月五日、賀茂(かも)の競べ馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて(ねぶりて)、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
[現代語訳]
5月5日に、上賀茂神社の競べ馬を見に行ったが、牛車の前に大衆が立ちはだかっていた見えなかったので、それぞれ車を降りて柵の側まで寄って見たのだが、人が余りに多くてそれ以上前へ行けそうにもない。
そんな状況の中で、向かいの栴檀(せんだん)の木の上に登った法師が、木の枝に座って特等席で見物している。法師はその木の枝に取り付きながら、たいそう眠たい様子で居眠りをしているのだが、『あっ、落ちそうだ』という瞬間に目を覚ましてしがみつくことを、何度も繰り返している。人々は法師のそんな様子をあざけり笑って見ていた。『バカな坊さんだな。あんな危ない木の枝の上で、安らかに熟睡できるなんて』などと言っている。
しかし、自分の気持ちの赴くままに、『私たちの生死の境目も、まさに今起こるのかもしれない(私たちも、今日死ぬことになる可能性がある)。その事を忘れて、祭り見物で一日をつぶしている。愚かなのは我らとて同じようなものだ』と言ってみると、前にいる人たちが『まことにおっしゃる通りですね。私たちも愚かなものですな』と答えてきた。みんなが自分のいる後ろを振り返り、『ここに入りなさい』と少しばかり場所を空けてくれて、競べ馬が見やすい前列へと招いてくれた。
このくらいの理屈は誰でも思いつくものだろうが、こういった状況で不意に言われると、思いがけない気持ちがして心を打たれたのだろう。人間は、非情な木石ではないので、時機・関係に応じて、いたく物事に感動することがあるのである。
[古文]
42段.
唐橋中将(からはしのちゅうじょう)といふ人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)とて、教相(きょうそう)の人の師する僧ありけり。気(け)の上る(あがる)病ありて、年のやうやう闌くる(たくる)程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面(おもて)のやうに見えけるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
かかる病もある事にこそありけれ。
[現代語訳]
唐橋中将(源雅清)という人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)という人がいた。行雅僧都は、仏教の教理・思想を学ぶ人々の先生をしている偉い僧侶だったが、気の上る病(高血圧でのぼせあがる病気)を持っていた。年齢を段々と重ねていくうちに、鼻の中がふさがって呼吸もしにくくなったので、さまざまな治療をしてみたが効果が上がらず病状は悪化していった。目・眉・額などが腫れ上がってしまい、目蓋の上に覆いかぶさって物が見えなくなる。その顔は二の舞の面のように見えたが、ただ恐ろしい形相であり、鬼の顔のようになって、目は額の方について、鼻は額のほうについてしまった。その後は、お寺の中の人にも会わなくなって暫く引きこもっていたが、長い年月が流れるうちに、更に病状が重くなり亡くなってしまった。
こんな原因不明の恐ろしい病も、ある事があるのだ。
[古文]
43段.
春の暮つ(くれつ)かた、のどやかに艶(えん)なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて(ふりて)、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。
[現代語訳]
晩春ののどかで風情のある美しい空、身分が低くないことを伺わせる立派な造りの家の奥深く、古びた趣きのある木立に、庭に散り萎れた花びらがあれば、これは見過ごしがたい情趣を感じる。その家の中に入っていって見ると、南面の格子の戸をすべて下ろしていて寂しげな様子なのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)は程よく開いている。御簾(すだれ)の破れから見てみると、容姿端麗で清らかな20歳頃の男性が、くつろいだ様子で過ごしていて、心が引き寄せられてしまう。その男性はのどかな風情で、机の上に文書を広げて読んでいるようだ。
どのような人物なのであろうか、尋ねて聞いてみたいものだ。
[古文]
44段:
あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣(かりぎぬ)に濃き指貫(さしぬき)、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門(そうもん)のある内に入りぬ。榻(しじ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止まる心地して、下人(しもうど)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。
御堂(みどう)の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意(おいかぜようい)など、人目もなき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のままに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水(やりみず)の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。
[現代語訳]
粗末な竹の網戸の中から、たいそう若い男が出てきた。おぼろげな月明かりの中では、色合いまではっきり分からないが、艶のある狩衣(貴族の日常着る服)を着て、濃い紫色の袴をつけているようだ。とても風情を感じさせる様子の男は、童子ひとりをささやかなお供に連れており、田んぼの長い細道を、笛を吹きながら歩いている。刈り入れも近い稲穂の露に濡れながら歩く男が吹いている笛の音は、とても情趣があって上手いのだが、誰もその趣き深い笛の音を聞く人もいないような田んぼ道だった。
この若い男の行き先が知りたくなって、距離を置きながらついて行くと、山際にあるお屋敷の大門の中に入っていった。牛を括りつける台がある牛車が見えたが、都にある牛車よりも目立つ感じがして、屋敷の下人に何が行われるのかを聞いてみた。『これこれという宮様がご滞在中であり、ここで仏事が執り行われるようです』と下人が答えた。
御堂のほうに法師が集まってきている。夜風に流されて薫き物の良い香りが漂ってきて、何とも言えない心地よい気分になってくる。寝殿では、女房が慌しく香を焚いて追い風を起こしながら、廊下を移動している。人目につかない山里であるにも関わらず、丁寧な心遣いが行き届いている様子である。
思いのままに生い茂った秋の草木は露に濡れており、虫の声は死者を悼むような鳴き声である。庭では遣水の音がのどかに響いている。ここの雲は、都よりも速く流れているようだ。雲の流れが速いので月が見えたり隠れたりしており、今の天気は晴れとも曇りとも定めがたい趣きのある感じである。
[古文]
45段:
公世(きんよ)の二位のせうとに、良覚僧正(りょうがくそうじょう)と聞えし(きこえし)は、極めて腹あしき人なりけり。
坊の傍(かたわら)に、大きなる榎の木(えのき)のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。
[現代語訳]
藤原公世(ふじわらのきんよ)の兄弟に、良覚僧正といわれる人がいたが、とても怒りっぽい人だった。
僧坊(僧の住居)の傍らに、大きな榎の木があったので、人が良覚のことを『榎木僧正』と呼んだ。すると、この渾名は不適切だといって、この榎の木を切ってしまわれた。しかし榎の木の切り株が残ったので、人が『きりくいの僧正』と呼ぶと、良覚はますます腹を立てて、切り株を掘り出して捨ててしまった。その掘り出した後が大きな堀になったので、良覚は『堀池僧正』と呼ばれるようになってしまった。
[古文]
46段.
柳原(やなぎはら)の辺に、強盗法印(ごうとうのほういん)と号する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。
[現代語訳]
柳原(京都市上京区柳原町)の辺りに、強盗法印と号する僧がいた。度々、強盗にあったために、この名をつけたそうだ。
[古文]
47段.
或人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応 へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立てて「やや。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はんと思えば、かく申すぞかし」と言ひけり。
有り難き志なりけんかし。
[現代語訳]
ある人が、老いた尼僧を連れて、京都の清水寺に参拝した。尼僧がその道の途中で『くさめくさめ(くしゃみをした時に、生命が弱らないように唱える呪文・まじないのようなもの)』と言いながら歩くので、『尼御前。なにをぶつぶつ言ってるのですか?』と尋ねたのですが返事がない。
なお尼僧が言いやまないので、何度も問いかけていると、尼僧は腹を立てて『あぁ、くしゃみをした時に、このようなまじないを唱えないと死んでしまうというでしょう。私が養育した若君が、比叡山で修行をしているのですが、もしも今くしゃみをしていたらと思うと心配で堪らないので、このようにくさめくさめと申し上げているのです』と答えた。
なかなか有り得ないような、ありがたい志(気持ち)ではないだろうか。
[古文]
48段:
光親卿(みつちかのきょう)、院の最勝請(さいしょうこう)奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾の中へさし入れて、罷り出で(まかりいで)にけり。女房、「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ、「有職(ゆうそく)の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(かえすがえす)感ぜさ給ひけるとぞ。
[現代語訳]
光親卿(藤原光親)は、院(後鳥羽上皇の在所する仙洞御所)で最勝講(五月に各寺の高僧を集め天下太平を祈念する儀式)の奉行としてお仕えしていた。光親は上皇の御前へ召し出されて、供御(上皇の食べかけの食事)を出されて食わされた。
さて、光親は食い散らかした衝重(料理を載せる膳)を上皇の居る御簾の中へさし入れて、退出した。女房たちは、『あぁ、汚い。誰がこれを片付けるのか?』などと愚痴を言い合ったが、後鳥羽上皇は『古来からの礼儀作法に通じた振る舞いは、並々ではない素晴らしいものだ』と、何度も繰り返し感心していらっしゃったという。
[古文]
49段:
老(おい)来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽ち(たちまち)にこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。
人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり(せまれり)』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かにつゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。
[現代語訳]
老いが迫ってきてから初めて、仏道の修行をしようというのではいけない。古い墓も、多くは少年の墓である。予想もせずに病気にかかり、間もなくこの世を去ろうとする時にこそ、過去の誤っていた行いが思い出されてくる。誤りというのは他でもない。優先して速やかにすべき事を後回しにして、後でもできる事を急いでやったということであり、こういった過去の過ちを悔しく感じるのである。しかし、死が差し迫った時に後悔しても、どうしようもない。
人間はただ諸行無常の真理の下に、死が迫ってくることをしっかり意識して、わずかの間といえども、それを忘れてはならないのである。そうすれば、俗世の煩悩も弱まっていき、仏道に精進しようという心も切実なものになっていくのだ。
禅林の永観が書いた『往生十因』には、『ある僧は人が訪ねてきても念仏をやめようとはせず、「いま火急の事があって、すでに朝夕(死)が迫り余裕がない」と答えた。そのまま、耳をふさいで念仏を唱え続けて、遂に極楽往生を果たした』とある。心戒という聖人の僧侶は、この世があまりに仮のものに過ぎないと思って、座る時にも尻をつける事がなく、常にうずくまっていたと言われている。
[古文]
50段:
応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるをゐて上りたりといふ事ありて、その比廿日(はつか)ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「ただ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言と云ふ人もなし。上下、ただ鬼の事のみ言ひ止まず。
その比、東山より安居院辺(あぐいへん)へ罷り侍りしに、四条よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町に鬼あり」とののしり合へり。今出川の辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、更に通り得べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざめりとて、人を遣りて見するに、おほかた、逢へる者なし。暮るるまでかく立ち騒ぎて、果は闘諍(とうじょう)起りて、あさましきことどもありけり。
その比、おしなべて、二三日(ふつかみか)、人のわづらふ事侍りしをぞ、かの、鬼の虚言(そらごと)は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。
[現代語訳]
応長の頃に、伊勢の国で鬼になった女を捕らえて京に上ったと言う噂が起こった。その噂が流れた頃より二十日ばかりの間は、京の都は鬼の噂でもちきりで、みんな鬼を見ようとして出歩いていた。「昨日は西園寺殿のお屋敷に鬼が連れて来られたそうだ」「今日は上皇の元へ来るのだろう」「たった今はそこそこにいたようだ」など大衆が言い合っている。本当に見たという人も、ただの虚言だと断言する人もいない。身分の高い者も低い者も、ただ鬼の噂ばかりを言い合っている。
その頃、所用があって東山から安居院のあたりまで出かけたのだが、四条から北に向かって人々が走ってくる。「今、一条室町に鬼がいる」と叫んでいる。今出川の橋の上から見ると、鴨川の桟敷の辺りまで人が群がっていて、そこを通ることもできない。これほどの騒ぎになっているので、全く根も葉もない噂ではないだろうと、供の者を遣いにやってみたが、まったく鬼に出会ったという者はいなかったという。日が暮れるまでこのような騒ぎで、喧嘩・乱闘なども起こって、感心できないつまらないことも多くあったようだ。
その頃だったか、二、三日ばかり人が発熱して苦しむ疫病が都に流行ったというのは。先ほどの鬼の虚言は、この疫病の予兆であったと言う人もいた。
[古文]
51段.
亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたずらに立てりけり。
さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて(ゆいて)参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るる事めでたかりけり。
万(よろず)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。
[現代語訳]
後嵯峨上皇が、亀山殿(仙洞院)の庭の池に引く水を、大井川から引こうとして、大井の百姓に命じて水車を作らせた。百姓たちに労賃となる銭(おあし)を沢山与えて、数日で水車の本体を作り上げさせたが、大井川に水車を設置してみたところ、まったく回らない。何とか直そうとしてみたが、結局水車は回ることがなく、無意味にそこに立てかけられたままであった。
そこで、宇治の里人たちを召しだして、水車をこしらえさせてみると、簡単に水車を組みあげて設置したのだが、思いのままに水車は良く回った。水は亀山殿の庭の池にスムーズに流れるようになり、その水車作りの技術は素晴らしかった。
何につけても、その道をよく知っている者(その道に慣れて精通している者)は、素晴らしいものである。
[古文]
52段:
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしに過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
[現代語訳]
仁和寺にいた法師が、年寄りになるまで石清水八幡宮を拝まなかったのを、残念(心残り)に思っていた。ある時思い立ち、一人で徒歩で石清水に参詣しようとした。山の麓にある極楽寺・高良神社を拝んでから、このようなものかと納得して寺に帰った。
さて、仲間の僧侶に会ったその法師は、『長年思っていたことを、果たしてきました。聞いていた以上に、石清水八幡宮は尊いところでございました。しかし、参っている人たちがみんな、山へ登っていたのは、何かあったのでしょうか?知りたかったのですが、神へお参りすることが本来の目的と思って、山までは見ませんでした』と言った。
そのみんなが登っていた山の上にある神社こそ、お参りしたかった『石清水八幡宮』なのだが、法師はそんな基本的なことも知らずに出かけていたのだ。少しの事であっても、(その道に詳しい)先達・先行者の案内はあったほうが良いということである。
[古文]
53段:
これも仁和寺(にんなじ)の法師、童(わらわ)の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎(あしがなえ)を取りて、頭に被き(かずき)たれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座(まんざ)興に入る事限りなし。
しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、頸(くび)の廻り欠けて、血垂り(たり)、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪え難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。物を言ふも、くぐもり声に響きて聞えず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言えば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。
かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
[現代語訳]
仁和寺の稚児が法師になるというので、それぞれが芸や歌で遊び楽しむお祝いの酒宴が開かれた。ある法師が酔っ払って興に乗り、側にあった足鼎を手に取ると、鼻が引っかかるような感じがしたがそのまま鼻をおしつぶして頭にかぶり踊り出した。みんなは盛り上がって大喜びしている。
その法師はしばらく踊ってから、足鼎を抜こうとしたのだが、まったく抜けない。酒宴の興趣も冷めてしまい、どうしようかと慌てふためいてしまう。何とかしようと引っ張ってみたが、首の周りの皮膚が破れて血が流れ、腫れに腫れ上がり、息が苦しくなってしまった。次は、足鼎を割ろうとしたが簡単には割れない。音が響いて苦しそうなので、割ることを諦めたが、どうしようもない。三つ足の角の上に帷子をかけて、手をひき、杖をつかせて医師の所へ向かうと、道ゆく人たちが怪しげな様子で見ている。医師の元に行って、医師と三本角が向かい合っている様子もおかしなものだったろう。
法師は医師に何か言っているが、声がくぐもってしまって聞こえない。『こんな症例は本にも書いていないし、聞いた事もない』と医師は言い、諦めてしまったので、すごすごと仁和寺に帰った。法師の母親や親しい者が集まって枕元で泣き悲しんでいたが、その悲しみの声が聞こえているのかどうかもわからない。
このような時に、ある人が言った。『たとえ耳鼻がそげ落ちようとも、命さえあれば生きていけるだろう。こうなったら、ひたすら力のばかりに引きに引いて何とか抜いてしまおう』と。そこで、足鼎と首の間にわらを詰め込んで、首もちぎれんばかりに引いたら、耳鼻が欠け落ちて穴が開いたがどうにか抜けた。命は何とか助かり、法師はしばらく病気になって寝込んでしまった。
[古文]
54段:
御室(おむろ)にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子(わりご)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情(はこふぜい)の物にしたため入れて、双の岡(ならびのおか)の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。
うれしと思ひて、ここ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じ(こうじ)にたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことごとしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくいいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。
[現代語訳]
法王の居住する「仁和寺の御室」に、すごく美しい稚児が仕えていて、仁和寺の法師たちの中に、なんとかこの稚児を誘い出して遊びに行けないだろうかと企んでいる者たちがいた。芸能ができる法師を仲間に加えて、しゃれたデザインの(食物を入れる)重箱のようなものを念入りに作って、箱のような形をしたものにその重箱を全部まとめて入れた。それを双の丘の便利の良い場所に埋めて、その上に紅葉を散らして、誰も気づかないような状態にした。御所に参った法師たちは、稚児をそそのかして連れ出した。
嬉しく感じてそこかしこを遊び回ったが、(ちょうど良い時間に)先ほど箱を埋めておいた苔が一面に生えている場所に並んで座った。「とても疲れてしまった」、「誰かもみじの葉っぱを燃やして、酒でも温めてくれないか」、「効験のある僧侶たち、試しに祈ってみよ」など互いに言い合って、箱を埋めておいた木の下を向いて、数珠をすりあわせ、手で印を結んで、無駄におおげさに振る舞ってみせた。そして、木の葉をかき分けてみたのだが、全く埋めておいた箱が見当たらない。掘るところを間違えたかと、掘らぬ場所もないぐらいに山を掘り返してみたけれど、箱は見つからない。埋めるところを誰かに見られて、御所に稚児を誘いに行っている間に盗まれたのである。法師たちは稚児へ語りかける言葉もなくしてしまい、互いに言い争って、腹を立てて帰ってしまった。
あまりに興趣ある状況を作為的に作り上げようとすることは、かえってつまらなくなるだけのことである。
[古文]
55段:
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり。
深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、蔀(しとみ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈(ともしび)暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。
[現代語訳]
家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い。冬はどんな場所にも住むことができる。しかし、夏の暑い時期は、暑さを凌げない悪い住居に住むのは耐えがたいことである。
(庭に作る小川や池にしても)深い流れは、淀んでいて涼しげがない。浅くサラサラと流れる様子が涼しげなのである。室内の小さなものを見る時には、扉を押し上げて開く窓(蔀)より、両開きの窓(遣戸)の方が明るくて良い。天井が高いと、冬は寒くて、夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。家の普請・作りは、(当面は)役に立たない場所を作ったりするほうが、見た目にも面白いし、何かのときに色々と役に立って良いと、人々が話し合っていたよ。
[古文]
56段:
久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひののしる、いとらうがはし。をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。
人の身ざまのよし・あし、才ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。
[現代語訳]
長らく会わなかった人から、その人の最近の状況を、余すところなく次々と語り続けられるのはつまらない。近くにいて慣れ親しんでいる人でも、暫く会わなければ、何となく他人のように遠慮を感じるようにならないだろうか。教養や品位に欠ける人は、ちょっとの間、外出しただけなのに、今日はこんなことがあったと言って、息継ぎもできないほどに自分ひとりで捲くし立てるように語って面白がっているものだ(そんな一方的な話を聞かされているほうは、何も面白くないんだけど)。教養と品位のある人の話は、一人に向けて語っていても、みんなが自然に耳を傾けて聞きたがるものだ。
教養のない人は誰ともなく、大勢の中に自分から出てきて、さも今見てきたかのように話すので、みんなが同じように大笑いしてひどく騒がしくなる。面白いことを言っているのにあまり面白がらず(興趣を感じず)、面白くもない事を言っているのに周囲に合わせてよく笑うというのは、その人の品性のほどが窺い知れるというものだ。
人の容姿の良し悪しを評したり、才能ある人の能力について論評したりしているのに、それらの人とまったく関係のない自分の身を引き合いに出して『自分語り(自分ならこうするという話)』をしようとするのは、とても聞き苦しくてつまらないものだ。
[古文]
57段:
人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。
[現代語訳]
人の語り出した歌物語(和歌に関する話)では、話題になっている歌が悪いことこそ、不本意である。少しはその和歌の道を知っている人なら、悪い歌についてそれをすごいと思って語ることはない。
万事において、それほど知らない道(専門)についてあれこれ語るのは、的外れでおかしいが、(知ったかぶりは)聞き苦しいものでもある。
[古文]
58段:
「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を願みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。
その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羹(あつもの)、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいえど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。
[現代語訳]
「仏道を学ぼうとする心があれば、住む所にこだわらず修行はできる。家にいても、人と交わっていても、来世の極楽浄土を願うことに何の障害があるだろうか」と言うのは、全然、来世とは何かを知らない人である。本当に、この世俗を儚んで、生死の執着を離れようとしているのに、何の意味があって、主人に仕えたり、家事に打ち込んでいたりするのか。人の心は他者との縁に引きずられて移ろうものだから、人とできるだけ交わらない静かな心境でなければ、修行に打ち込むのは難しい。
その器は昔の人には及ばない。山奥に一人で籠もっても、餓えと雨風を凌ぐ手段が無ければ生存を維持することができないので、世俗の人と同じように貪欲になることがどうして無いと言い切れるだろうか(場合によっては貪欲になってしまうこともあるだろう)。だから、「世俗を捨てた意味がない。(餓えや寒さに耐えられない)その程度ならどうして世俗を捨てたのか」というのは、無茶なことである。しかし、さすがに一度は仏の道を志した者である、たとえ僅かな望みがあろうと、世俗の貪欲な者の望みには遠く及ばないのである。紙の布団に、麻の着物、一杯の飯に、藜の汁、こんなものがどれだけ他人のものを浪費するというのか。遁世者の求めるものは得ることが容易く、その心は簡単に満足してしまう。粗末な格好をしているので、見た目を恥じるところはあるが、その生活ぶりは悪事からは遠く離れており、善・仏に近いことが多い。
人として生まれた証を立てるためには、どうにかして世俗の欲望を捨て切るということ(煩悩を捨てて遁世すること)が望ましいのである。ただ利益や欲望を貪ることばかりに努めて、悟りを得ようとしないのであれば、(その生き方は本能のままに生きる)畜生(動物)と変わる所が無いのではないだろうか。
[古文]
59段:
大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末(ゆくすえ)難なくしたためまうけて」、「年来(としごろ)もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ(のがれ)去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むめるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。
[現代語訳]
大事(出家など重要なこと)を思い立った人で、何かに囚われて離れがたかったり、心のどこかにひっかかることがあって本意を遂げられないでいるなら、その全てを捨てたほうが良い。
『もうしばらくしたら。この事が終わったら』、『同じように時間がかかるならば、あの事もきちんとし終わってから』、『しかし、これは人に笑われるだろう。笑われないように確実に準備してからでないと』、『いや待て。長年の経験の蓄積があるのだから、その結果を見届けてからにしよう、波風が立って騒がしくならないように』などと考えていると、やり終えていない事ばかりが山積みになり、それらをやり終えることはできず、大事にかかる本意(本当に重要でやるべき出家など)を遂げる日はいつまでもやってこない。
いつか出家して仏門に励もうとしている大抵の人は、みんなこのような物事に追われた状態で死(臨終)を迎えてしまう。隣の家が燃えているのに、『暫く待ってから逃げよう』なんて言うだろうか。生命が助かりたいならば恥も忘れて、財産も捨てて家事から逃げるはずだ。寿命は人の都合など待ってくれない。無常の変化が押し寄せるさまは、大火のように大水のように凄い速さであるから、その無常から逃げることなんて出来ないんだよ。死ぬ時には、捨てがたいはずの親や我が子、恩義や情愛すら、みんな捨てざるを得ないのだから。
[古文]
60段:
真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうづ)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつつ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。ただひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋(さんまんびき)を芋頭の銭(あし)と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠(がくしょう)・辯舌(べんぜつ)、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して餐膳(きょうぜん)などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎(とき)・非時(ひじ)も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。
[現代語訳]
仁和寺の真乗院に盛親僧都という、極めて頭の良い僧がいた。芋頭という食べ物を好んでおり、毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げて、膝元において食べながら、もぐもぐと口を動かしお経を読んでいた。病気をすると一~二週間は治療だと言って部屋に閉じこもり、気が済むまで良い芋を選んで、いつもよりたくさん食べてどんな病気でも治してしまった。人に芋を食べさせることはなく、いつも一人で食べていた。
極めて貧しかったが、師匠が亡くなった後に、僧坊(住居)と二百貫の財産を相続した。家を百貫で売り払って、三百貫の財産をつくると、全てを芋代にすると決めてしまった。京都にいる人にお金を預けると、十貫づつお金を下ろして、いつも芋頭が途絶えないように計画して食べていた。しかし、他に財産を使う用途もないので、すべてを芋代にしたのである。『お金もないのに、三百貫もの大金を全て芋代に使うとは、珍しい道心者(仏道修行をする者)だ』と人々は言った。
この僧都が、ある坊さんを見て『しろるうり』と名づけた。『しろるうりとは何ですか』と人に聞かれると、『そんなことは知らない。もし、そのようなものがあるなら、きっとこの坊主にそっくりなんだろう』と答えた。
この僧都は、外見・容姿が良くて、力が強く、大飯ぐらいである。書道、学問、弁論、全ての分野にも優れていて、寺でも重く用いられていた。しかし、どこか世間をバカにしている曲者でもあった。すべて好き勝手に自由にやって、人の言うことなど聞くことがない。寺の外の法事のときにも、自分の目の前にお膳があると、他の人のお膳が準備されていなくても、さっさと自分一人だけで食べてしまう。帰りたくなれば、一人で立ち上がってそのまま帰ったという。寺での食事も、周囲に配慮することもなく、自分の食べたい時には、夜中でも明け方でも食事をする(食欲を我慢することがない)。眠たい時には、昼間でも部屋に籠って寝てしまう。どんな大切な用事があっても自分が起きたくないなら起きない。目が冴えてくると、真夜中でも歌など詠みながら散歩をする。普通ではない有様であるが、人に嫌われることもなく、すべての我がままは許してもらっていた。きっとこの僧侶の徳が高いからなのだろう。
[古文]
61段:
御産(ごさん)の時、甑(こしき)落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣(おんえな)とどこほる時のまじなひなり。とどこおらせ給はねば、この事なし。
下ざまより事起りて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。
[現代語訳]
お産の時に、屋根の上から甑(こしき=土器で作られた米などを蒸す道具)を落とす風習は別に決まった事ではない。お産が滞ってなかなか赤ちゃんが産まれない時のまじないであるが、お産が難産に陥っていなければやる必要もない。
身分の低い庶民が始めた迷信なので、たいした根拠というものもない。大原の甑を取り寄せるのが、縁起が良いとされる。古い宝蔵に収納されていた絵巻には、貧しい者が子を産む時に、屋根から甑を落としている情景が描かれていた。
[古文]
第62段:
延政門院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に、御言つてとて申させ給ひける御歌、
ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる
恋しく思ひ参らせ給ふとなり。
[現代語訳]
延政門院(出家した後嵯峨天皇の皇女・悦子内親王)が、幼少の折に、院(御所)へ参上する人に言伝を頼んでお詠みになったお歌。
ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる
後嵯峨天皇のことを恋しく思っていらっしゃる気持ちが詠まれている。
一読すると意味不明な章なのだが、悦子内親王が読んだ歌は『言葉遊びのパズル』のようなものになっている。和歌にある『ふたつ文字』は平仮名の『こ』、牛の角文字は『い』、まっ直ぐな文字は『し』、ゆがみ文字は『く』を意味しており、それらを合わせると『こいしく(恋しく)』になるわけである。
[古文]
第63段:
後七日(ごしちにち)の阿闍梨(あじゃり)、武者を集むる事、いつとかや、盗人にあひにけるより、宿直人(とのいびと)とて、かくことことしくなりにけり。一年の相は、この修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵(つわもの)を用ゐん事、穏かならぬことなり。
[現代語訳]
一月八日から天下太平・五穀豊穣・国家繁栄を祈願して大内裏で行われる『後七日』の行事に、宿直人と言う武者が配置されるようになったのは、いつからだろうか。『後七日』を指導なされる阿闍梨の指示ということだが、昔、行事の最中に盗人が侵入したことがあり、このような物々しい警備になったようだ。今年一年の情勢・吉兆を占うとされる後七日の儀式に、武装した兵士を配置しているのは、穏やかではないことである(兵乱の予兆にも成りかねない不吉なことである)。
[古文]
第64段:
「車の五緒(いつつお)は、必ず人によらず、程につけて、極むる官・位に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。
[現代語訳]
『豪華な五緒の飾りを垂らした牛車は、必ずしも(身分に関係なく)優れた人が乗るというものではない。その家柄に従って、極められるまで官(役職)や位(身分)を極めた者が、乗るものなのである』と、ある人がおっしゃっていた。
[古文]
第65段:
この比(ごろ)の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶(かんむりおけ)を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。
[現代語訳]
この頃の冠は、昔よりはるかに高くなった。だから、昔の冠入れ(冠を入れるケース)を持っている人は、箱の端っこを継ぎはぎして、今でも使っているのだ。
[古文]
第66段:
岡本関白殿、盛りなる紅梅の枝に、鳥一双を添へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼(おんたかかい)、下毛野武勝(しもつけのたけかつ)に仰せられたりけるに、「花に鳥付くる術、知り候はず。一枝に二つ付くる事も、存知し候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また、武勝に、「さらば、己れが思はんやうに付けて参らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。
武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉などにも付く。枝の長さ七尺、或は六尺、返し刀五分に切る。枝の半に鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しじら藤の割らぬにて、二所付くべし。藤の先は、ひうち羽の長に比べて切りて、牛の角のやうに撓むべし。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門より振舞ひて参る。大砌(おおみぎり)の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄に寄せ掛く。禄を出ださるれば、肩に掛けて、拝して退く。初雪といへども、沓のはなの隠れぬほどの雪には、参らず。あまおほひの毛を散らすことは、鷹はよわ腰を取る事なれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。
花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月ばかりに、梅の作り枝に雉を付けて、「君がためにと折る花は時しも分かぬ」と言へる事、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。
[現代語訳]
岡本関白殿(近衛家平)は、朝廷に仕える鷹飼の下毛野武勝に、花の盛りにある紅梅の枝につがいの雉の雌雄を添えて参上するように命じた。しかし、鷹飼の下毛野は『花の咲いた枝に、鳥を取り付ける技など知りません。ましてや、一つの枝に二羽の鳥を付ける方法などは存じていません』と答えた。次に岡本関白は膳部の料理人や周囲の人々に聞いてみて、もう一度、武勝に『お前の好きなように鳥をつけて持って参れ』と命じた。すると鷹飼の武勝は、花のない梅の枝に鳥を一匹だけくくりつけて、関白の元に参上した。
鷹飼の武勝が申し上げるところによると、『柴の枝。梅の枝。つぼみのある枝と散った枝には鳥を付けることができます。五葉の松にもくっつけられます。枝の長さは七尺、あるいは六尺、枝の両端は返し刀で五分に切り落とす。枝の中ほどに鳥を付ける。鳥の頭を付ける枝と足で踏ませる枝とがあります。しじら藤の割ってない蔓で、鳥の頭と足の二カ所を枝にくくり付けます。藤の先は、火打羽の丈と同じ長さに切って、牛の角のようにふくらませる。人の家に送るのであれば、初雪の朝に、枝を肩にかついで、中門より参上します。この時に、大砌の石を伝って歩いて、雪に足跡をつけてはいけません。枝につけた鳥の風切羽を少しばかり散らしてから、御所の手すりにかけて置いておきます。送り先の家が祝儀を下さるのであれば、今度は祝儀を肩にかついで、拝礼して退きます。初雪といっても、靴の先っぽが隠れないほどの雪ならば、風情がないので行くべきではありません。風切羽を散らすというのは、鷹は鳥の風切羽のあたりを狙って捕獲するので、鷹がその鳥を狩ったという証拠になるのです』ということだ。
花の咲いた枝に、鳥をくくってはいけないというのは、どういう理由からなのだろうか。『伊勢物語』で、秋の季節に梅の造花に雉をくくって愛する人の元に送ったという故事があるのだが、造花ならば花がついた枝でも、鳥をくくっても良いものなのだろうか。
[古文]
第67段:
賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ紛へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚(よしみずのおしょう)の、
月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社(やしろ)とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられたり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。
[現代語訳]
京都・上賀茂神社の、岩本の社と橋本の社は在原業平と藤原実方を祀っている。(業平と実方は共に和歌の名人として知られる人物だが)どちらがどっちの社に祀られているのかの由縁がすでに分からなくなっていて、いつも人々は両者の社を混同してしまっている。
ある年に上賀茂神社をお詣りした時、神社にいた年老いた宮司を呼び止めて、その事について尋ねてみた。その老宮司が『藤原実方を祀る社は、御手洗の水面に影が映る社と聞いております。それでしたら、橋本の社の方が御手洗に近いと思います。歌人の吉水和尚が「月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら」と詠んだのは、岩本の社の前であったと聞いています。しかし、こういう歌人の由緒については、私ども宮司よりも歌人の方々の方がご存知ではないかと思います』と丁寧に答えてくださったことを良く覚えている。
今出川院近衛(近衛という名前で呼ばれた鷹司伊平の娘)という歌人は、多くの歌集に歌を選ばれた女性であるが、若い頃から、常に百首の歌を詠むような才媛で、岩本と橋本の社の前の水で墨をすって歌を書いて、神社に奉納していた。この神社の本当に素晴らしいご利益があって、人の口にのぼるような良い歌を多く詠んだという。今出川院近衛は、作文や漢詩の序文なども上手に書く優れた人であった。
[古文]
第68段:
筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。
或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失せにけり。
深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。
[現代語訳]
九州の筑紫国に、押領使の役職に就いていたなにがしという人物がいた。この人は、大根を何にでも効く素晴らしい薬だと信じて、長年にわたって、毎朝二本ずつ焼いて食べ続けていた。
ある時、押領使が所管する館の中に兵がいない隙を見計らって、敵が襲ってきた。敵にすっかり取り囲まれていたのだが、館の中に二人の兵士が現れ、命も惜しまずに戦って、敵をみんな、追い返してしまった。押領使はとても不思議に思って、『日頃、この館で見ない者たちだが、ここまで懸命に戦うとは、どんな人物なのか?』と聞いた。すると、『あなたが長年信じてきて、毎朝召し上がっている大根でございます』と答えて、その勇敢な兵士は消えうせてしまった。
(何の役にも立ちそうにないものでも)深く信心をしていれば、このような徳もあるものだ。
[古文]
第69段:
書写の上人は、法華読誦(ほっけどくじゅ)の功積りて、六根浄(ろくこんじょう)にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻(から)を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞こえる。
[現代語訳]
書写山円教寺の性空上人(しょうくうしょうにん)は、法華経を読誦し続けた功徳によって、仏教経典でいう『六根』が清浄になり悟りを開いた人物であった。旅の仮屋に立ち寄った時に、豆のカラを炊いて豆を煮ている音がつぶつぶと鳴るのを聞いたところ、『(豆のカラと豆の関係で)親密であるべき、己らたちも、恨めしくも、我(豆)を煮て、つらい目に遭わせるつもりなのか』と豆が言っている。火で炊きつけられている豆ガラのばらばらと鳴る音は、『私が心から好きでやっていることと思うか。焼かれることはどれほどか堪えがたいことだけど、どうしようもないことなのだ。そんなに俺たち「豆カラ」のことを恨んでくれるな』とか聞こえた。
『六根』というのは人間の不確実で錯覚の多い感覚機能のことで、『眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根』の6つのことを指している。現代風に言い直せば、『視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意志力(こころの働き)』の6つの感覚と意志の機能のことであるが、仏教ではこれらの六根を清らかにして真理に目ざめることで『悟りの境地』に到達できると教えている。
[古文]
第70段:
元応(げんおう)の清暑堂(せいしょどう)の御遊(ぎょゆう)に、玄上(げんじょう)は失せにし比、菊亭大臣(きくていのおとど)、牧場(ぼくば)を弾じ給ひけるに、座に著きて(つきて)、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供(じんぐ)の参る程によく干て(ひて)、事故(ことゆえ)なかりけり。
いかなる意趣かありけん。物見ける衣被(きぬかづき)の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。
[現代語訳]
後醍醐天皇即位の前祝いの席で、琵琶の名器『玄上』が盗まれていた時期だったが、菊亭大臣(琵琶の名手とされた藤原兼季)が琵琶を弾くことになった。菊亭大臣は同じく琵琶の名器とされる『牧場』で音楽を弾くことになった。演奏の座についた菊亭大臣は、まず琵琶の柱を探って確認をしてみたが、琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまった。しかし、懐にノリ(糊)を持っていたので、それで支柱をくっつけて、神へ供え物を捧げる儀式の間にすっかりノリが乾いたので、事故にはならなかった。
どんな恨みがあったのだろうか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄ってきて、支柱を放り投げて(支柱をひきちぎって)、元のように戻したんだと言われている。
[古文]
第71段:
名を聞くより、やがて、面影は推し測らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。
また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
[現代語訳]
その人の名前を聞くと、すぐにその人相まで想像できる感じがするが、実際に会ってみると思い出したままの顔をしている人はいない。昔の物語を聞いても、昔の人の家が今ではその辺にあるのだろうかと思い、昔の人物にしても、今いる人々に重ねて想像してしまうが、誰もがそのように思っているのだろうか。
また、ふとした時に、たった今、人の言った事も、目で見た物も、自分の心の中でこういった事が以前にあったぞと思ったりする。それがいつだったのかは思い出せないんだけど、本当にこれらのことが過去にも確かにあったはずだと感じるのは、私だけがそう思うのだろうか。
現代風に解釈するのであれば、これは『デジャヴュ(既視感)』についてのエピソードである。
[古文]
第72段:
賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。
[現代語訳]
卑しくて下品に見えるものは、座っている周囲に道具が多いこと。硯に筆が多く入っていること。寺院の持仏堂に仏像が多いこと。庭に石や植木が多いこと。家の中に子・孫が多いこと。人に会った時に言葉が多いこと。神仏に祈願する文書に、善行を為す方法(造寺・造仏・写経・布施・禁欲など)を多く書き記していること。
多くても見苦しくないのは、文車(書物を運搬する車)に積んだ本(書物)、ゴミ捨て場のゴミである。
[古文]
第73段:
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の者の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。
かつあらはるるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。
とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍らしからぬ事のままに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。
[現代語訳]
世に語り伝えられていることは、本当のことは面白くないのだろうか、その多くはみんな嘘である。
実際にあったこと以上に人は大袈裟に言うが、ましてや、年月が過ぎて、国境も隔たってしまえば、言いたい放題(書きたい放題)に語り伝えて、書物にも記録されることになると、やがてその誇張された嘘が真実として定まってしまう。その道の専門家が書いた本になると、その方面に明るくない人は神のごとくにその内容を信じるが、その道をよく知る者であれば簡単には信じない。聞くのと見るのとでは、何事も大違いなのである。
すぐに嘘がばれることも気にせず、口に任せて虚言を言い散らせば、そのうち、根も葉もない嘘だと分かってしまう。また、(その虚言を聞いた者が)内心ではありえないことだと思いながらも、人から聞いたままに、鼻を動かして興奮しながら語るのは、その人本人のつく嘘ではない。
いかにも本当らしくところどころを曖昧にしながら、肝心の部分は良く知らないふりをして、さりげなくつじつまを合わせて語る虚言は、(世の中を乱すという意味で)恐ろしいものである。 自分の面目を立てて名誉にもなる虚言には、人々は全く否定しようとしない。みんなが面白がっている嘘に対しては、自分ひとりだけが『そうではない』と言っても仕方が無くて、そのまま聞いているうちに、自分が虚言の証人にすらされてしまい、そのまま虚言が事実になってしまう。
とにもかくにも、虚言の多い世の中である。人の言うことなど、当たり前で珍しい事などあるはずもないと思っていれば、虚言に流される事もない。世間で噂される虚言は、驚くようなものばかりだが、まともな人間は真偽の怪しいことを語らない。
とは言うものの、仏陀の伝記や、神仏の奇跡については、信心もあって信じないわけにはいかないだろう。世間の虚言をまともに信じることはバカらしいが、仏教の説話については『こんなことがない』といっても仕方がないことである。大体、本当のことだろうと思いながらも、むやみに信じないことが大切だが、だからといって、疑ったり嘲ったりすべきものでもないのだ。
[古文]
第74段:
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起る。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速やかにして、念々の間に止らず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。
[現代語訳]
蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に走る人々。身分の高いアリ、身分の低いアリ。老いたアリ、若いアリ。行く所があって、帰る家がある。夜に寝て、朝に起きる。行列の先には何があるのか。生を貪って、利益を求めて、とどまることがない。
健康のために養生して、何を待っているのか。ただ、苦の原因となる老いと死が待っているだけである。老いと死は速やかにやってきて、瞬間瞬間の思いの間にも止まっていることがない。
これを待つ間に、何の楽しみがあるのか。心が惑いのうちにあるものは、死をも恐れない。名声や利益に溺れて、死が近づいていることを顧みないからだ。愚かな人は、死を悲しむ。人は永遠には生きられないことを知って、諸行無常を理解しなければならない。
[古文]
第75段:
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。
[現代語訳]
手持ち無沙汰な生活(孤独)を寂しく思う人は、どんな気持ちなのだろう。寂しさを紛らわす方法もなく、ただ一人でいるのが良い。
世俗に従えば、心は外界の塵(欲得)に埋もれて汚れてしまい、他人と交流すれば、他人の言葉に従うことになって、自分の心が自分のものでは無くなってしまう。人と戯れ遊び、物を巡って争い、ある時は恨んで、ある時には喜ぶ。世俗では、心が定まるということがないのだ。好き嫌いの分別がやたらと湧き起こってしまい、損得の感情がやむこともない。惑いを感じて、目先の利害で酔っ払ってしまう。酔いの中で夢を見る。走って忙しくしたり、ぼんやりとして大切なことを忘れてしまう、世俗の人はみんな、このようなものである。
まだ、本当の道を知らなくても、血縁・友人の縁を離れて一人になること、そして、周囲の雑事に関わらずに、心を安らかにすることが、仮初めといえども楽しむことだと言えるのである。「生活・人事・伎能・学問等をすっかりやめてしまえ(余計な雑事や知識なんて忘れてしまえ)」と、天台宗の教典である『摩訶止観』にも書いているのだから。
[古文]
第76段:
世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交じりて、言ひ入れ、たたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。
[現代語訳]
世の覚えが華やか権力者(権勢家)の家に、不幸や祝い事があって、人が多く訪れて弔意・祝意を示している。その中に、世捨て人の聖法師が交じっており、案内を申し込み、門口でたたずんでいるが、そのようにしなくても良いのにと思う。
然るべき理由があっても、世を捨てた法師(遁世者)というものは、世俗の人とは疎遠であって欲しいものである。
[古文]
第77段:
世中に、その比、人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。
[現代語訳]
その頃、世の中に、人が世間話(噂話)の話題として言い合っていることについて、そういった噂話に関わるべきではない人が、よくその内情を知っていて、人に語り聞かせているのは、どうにも納得できない。特に、山奥に引きこもっているはずの法師が、世間話を我が事のように尋ねたり聞いたりして、どうしてそこまで知っているのかと思われるほどに、周囲に言い散らかしているようだ。
[古文]
第78段:
今様の事どもの珍しきを、言ひ広め、もてなすこそ、またうけられね。世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。
いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得たるどち、片端言い交し、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世慣れず、よからぬ人の必ずある事なり。
[現代語訳]
珍しい最近の事柄を、もてはやして、言い広めるのも、また納得できないことだ。世間で言い古されるまで、知らないでいる人は魅力がある。
今、新しく来た人がいる時に、仲間内で話し慣れている話題や物の名前などを話し、そのことを良く知っている仲間だけに分かるように、話の一部分だけを語り合ったり、顔を見合わせて笑ったりする。(そうやって内輪向けの話に終始して)事情を良く知らない人に嫌な思いをさせるのは、世間知らずの立派ではない人たちがよくやることである。
[古文]
第79段:
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。
よくわきまえたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。
[現代語訳]
何事にも、深く知っている振りをしないのが良い。教養のある人は、知っていることだからといって、そんなに物知り顔で言うだろうか。田舎から出てきたような無教養な人こそ、すべての道に精通している様子で知ったかぶって受け答えをするものである。だから、世の中には恥ずかしい知ったかぶりの人もいるものだが、自分では凄いだろうと思っている様子が、何ともみっともない。
よく知っている道であっても、口を重くして軽々しく語らず、問われない限りは自分からは言わない、そういった態度こそ素晴らしい。
[古文]
第80段:
人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は、兵(つわもの)の道を立て、夷(えびす)は、弓ひく術知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管絃を嗜み(たしなみ)合へり。されど、おろかなる己れが道よりは、なほ、人に思ひ侮られぬべし。
法師のみにもあらず、上達部・殿上人・上ざままで、おしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、未だ、武勇の名を定め難し。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽き、矢窮りて(きわまりて)、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名を顕はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近き振舞、その家にあらずは、好みて益なきことなり。
[現代語訳]
人は自分とは関係の無い事を好むようだ。法師は武道を志して、東国の武士は弓の引き方も知らないで、仏法を知っているような様子を見せて、連歌を詠んだり、管絃(楽器)を楽しんだりしている。しかし、自分自身の実力がない本業の道よりも、趣味的な事柄のほうが相手に軽侮されないだろう。
法師だけではなく、皇族や上級貴族、役人に至るまで武術・武道を好む人は多かった。しかし、百回戦って百回勝っても、武勇の名誉は定まらないだろう。気運に乗じて敵を打ち破れば、誰もがその人を勇者というだろう。だが、兵が尽きて矢が無くなったような状況で、敵に降伏せず死を恐れずに戦って初めて、武人としての名誉が得られるのである。(死を恐れて)生きようとしているようでは、武勇を誇ってはならない。戦争は人倫の道(正しい生き方)に遠く、禽獣に近い振舞いをするということだ。武門の家に生まれたのでなければ、好んでするだけの価値があることではない。
引用文献、
原文全巻
|
|