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NHKテレビ 「100分de名著」 【維摩経】を 放送 、好評 テキスト (とらわれない、こだわらない) (古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する。)

  目次 ・維摩詰所説経巻(巻上)第一第二第三 ・(巻中)第一第二第三 ・(巻下)第一第二
      下欄に記載 ( 面白い 超訳【維摩経】)(維摩書籍)(辞典)

維摩経(巻中之第一)  とらわれない、こだわらない
    自分の枠をばらし、新たな「私」を組み立てる。

『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

維摩経動画(100分で名著1.2.3.4)他

 
①「維摩経 仏教思想の一大転換」 ②「維摩経 得意分野こそ疑え」、  維摩経義疏: 不可思議解脱経:聖徳太子 著 (島田蕃根) 「維摩経に〝今〟を学ぶ 」維摩経(動画)維摩経(YouTube)国立図書「維摩経」

(←クリック:詳細説明) (辞典)


目次 ・維摩詰所説経巻上 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻中 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻下 第一  第二
維摩詰所説経巻中(第一) 維摩経(文殊師利問疾品第五) 維摩詰所說經卷中 姚秦三藏鳩摩羅什譯 ・維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)巻の中  姚秦三蔵(ようしんのさんぞう)鳩摩羅什(くまらじゅう)訳す

文殊師利、維摩詰の疾を問う

文殊師利問疾品第五 ・文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)第五 文殊師利白佛言。世尊。彼上人者難為詶對。深達實相善說法要。辯才無滯智慧無礙。一切菩薩法式悉知。諸佛祕藏無不得入降伏眾魔遊戲神通。其慧方便皆已得度。雖然當承佛聖旨詣彼問疾 ・文殊師利、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、彼の上人(しょうにん、上徳の人)は、酬対(しゅうたい、応対)なし難く、深く実相に達して、よく法の要(かなめ)を説き、辯才(べんざい、弁舌の才能)滞ることなく、智慧無礙(むげ、自由自在)なり。一切の菩薩の法式(ほっしき、作法儀式)悉く知り、諸仏の秘蔵に入ること得ざるは無く、衆魔を降伏(ごうぶく、制圧)し、神通(じんつう、神通力)に遊戯(ゆげ、アソブ)し、その慧(智慧)と方便(衆生済度の手段)は、すなわち皆すでに度(わたる、得ること)を得て、しかりといえども、まさに仏の聖旨(しょうじ、オオセ)を承(う)けたてまつり、彼れに詣りて、疾を問うべし。』と。 於是眾中諸菩薩大弟子釋梵四天王等咸作是念。今二大士文殊師利維摩詰共談。必說妙法。即時八千菩薩五百聲聞。百千天人皆欲隨從 ・ここに於いて、衆中の諸の菩薩、大弟子、釈(帝釈天)梵(梵天)四天王(四天王天)等、ことごとく、この念(ねん、オモイ)を作さく、『今、二(ふたり)の大士(だいじ、菩薩の通称)、文殊師利と維摩詰共に談(かたら)わば、必ず妙法を説かん』と。即時に八千の菩薩と五百の声聞、百千の天人も皆随従せんんと欲す。 於是文殊師利與諸菩薩大弟子眾及諸天人恭敬圍繞入毘耶離大城 ・ここに於いて、文殊師利は、諸の菩薩、大弟子衆、および諸の天人のために恭敬(くぎょう、ウヤウヤシク)囲繞(いにょう、トリカコマレ)せられて、毘耶離大城(びやりだいじょう)に入る。 爾時長者維摩詰心念。今文殊師利與大眾俱來。即以神力空其室內。除去所有及諸侍者。唯置一床以疾而臥 ・その時、長者維摩詰は、心に念(おも)わく、『今、文殊師利、大衆と倶(とも)に来たる』と。すなわち神力を以って、その室内を空しくし、所有および諸の侍者を除きて、ただ一の床を置き、疾を以って臥せり。 文殊師利既入其舍。見其室空無諸所有獨寢一床 ・文殊師利、すでにその舎(いえ)に入り、その室の空にして、諸の所有なく、(維摩詰)独り一床に寝(い)ぬるを見る。 時維摩詰言。善來文殊師利。不來相而來。不見相而見 ・時に、維摩詰言わく、『善来(ぜんらい、ヨクイラッシャイマシタ)、文殊師利。(汝は)不来の相にて来たり。(我は)不見の相にて見る。(実相から見れば、我と彼と無し。故に、来と不来、見と不見も無し)』と。 文殊師利言。如是居士。若來已更不來。若去已更不去。所以者何。來者無所從來去者無所至所可見者更不可見。且置是事 ・文殊師利言わく、『かくの如し(ソノトオリ)、居士。来たりおわるが若(ごと)ければ更に来たらず(実相から見れば、すでに来ているのであるから、更に来ることはない)、去りおわるが若ければ更に去らず。所以(ゆえ)は何(いかん)となれば、来たる者は、従りて来たる所無く、去る者は、従りて至る所無し。見るべき所の者は更に見るべからず。しばらく、この事は置かん。 居士。是疾寧可忍不。療治有損不至增乎。世尊慇懃致問無量。居士。是疾何所因起。其生久如。當云何滅 ・居士、この疾は、むしろ忍ぶべしや不(いな)や。療治は、(疾を)損ずること有りや不や、増すに至らんや。世尊、慇懃に問いを致すこと無量なり。居士、この疾は、何の因起する所ぞ。それ生じて久しきなりや。まさに云何が滅すべき。』と。

菩薩の病

維摩詰言。從癡有愛則我病生。以一切眾生病是故我病。若一切眾生病滅則我病滅 ・維摩詰言わく、『癡(ち、愚癡、実相を知らざること)に従りて、愛(愛著)有れば、すなわち我が病生ず。一切の衆生病むを以っての故に、我病む。もし一切の衆生の病滅すれば、すなわち我が病も滅す。 所以者何。菩薩為眾生故入生死。有生死則有病。若眾生得離病者。則菩薩無復病 ・所以は何となれば、菩薩は、衆生の為の故に、生死に入る。生死有れば、すなわち病有り。もし衆生、病を離るることを得ば、すなわち菩薩また病むこと無からん。 譬如長者唯有一子其子得病父母亦病。若子病愈父母亦愈 ・譬えば、長者に、ただ一子のみ有りて、その子病を得ば、父母もまた病み、もし子の病癒えなば、父母もまた癒えんが如し。 菩薩如是。於諸眾生愛之若子。眾生病則菩薩病。眾生病愈菩薩亦愈 ・菩薩もかくの如し。諸の衆生に於いて、これを愛すること子の若し。衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ。 又言。是疾何所因起。菩薩病者以大悲起 ・また、『この疾は、何の因起する所ぞ』と言えるには、菩薩の病は、大悲を以って起こる。』と。 文殊師利言。居士。此室何以空無侍者 ・文殊師利言わく、『居士、この室は、何を以ってか空にして侍者無き。』 維摩詰言。諸佛國土亦復皆空 ・維摩詰言わく、『諸仏の国土も、またまた皆空なり。』 又問。以何為空。答曰。以空空 ・また問う、『何を以ってか空と為す。』 答う、『空なるを以って空なり(その外に所以なし)。』 又問。空何用空。答曰。以無分別空故空 また問う、『空に何ぞ空を用うる(諸法の本性は空なることは当然、何故いまさらに空を用いる)。』 ・答えて曰く、『無分別の空を以っての故に空なり(空を用いて説明したのではない。説明を絶したものが空なのだ)。』 又問。空可分別耶。答曰。分別亦空 また問う、『空は分別すべきや。』 ・答えて曰く、『分別もまた空なり(何物も分別すること能わず)。』 又問。空當於何求。答曰。當於六十二見中求 また問う、『空は、まさに何に於いてか求むべき。』 ・答えて曰く、『まさに六十二見(断常二見を本として、過去現在未来に亘り、色受想行識によりて起こる所の六十二の邪見)の中に於いて求むべし。』 又問。六十二見當於何求。答曰。當於諸佛解脫中求 また問う、『六十二見は、まさに何に於いて求むべし。』 ・答えて曰く、『まさに諸仏の解脱の中に於いて求むべし(六十二見の外に諸仏の解脱なし、諸仏の解脱の外に六十二見なし)。』 又問。諸佛解脫當於何求。答曰。當於一切眾生心行中求。又仁所問何無侍者。一切眾魔及諸外道皆吾侍也。所以者何。眾魔者樂生死。菩薩於生死而不捨。外道者樂諸見。菩薩於諸見而不動 ・また問う、『諸仏の解脱は、まさに何に於いて求むべし。』 答えて曰く、『まさに一切の衆生の心の行(ぎょう、働き)の中に於いて求むべし(一切衆生の心行は、即ち諸仏の解脱なることをいう)。また仁(なんじ)の問う所の、『何ぞ侍者無きや』とは、一切の衆魔、および諸の外道、皆、吾が侍(者)なり。所以は何となれば、衆魔は生死を楽(ねが)い、菩薩は生死に於いて、しかも捨てず。外道は諸見を楽い、菩薩は諸見に於いて、しかも動ぜず。』 文殊師利言。居士所疾。為何等相 ・文殊師利言わく、『居士が疾む所は、何等の相と為す(疾は、痛みますか、熱がありますか、渇きますか)。』 維摩詰言。我病無形不可見 ・維摩詰言わく、『我が疾は、形無し、見るべからず。』 又問。此病身合耶心合耶。答曰。非身合身相離故。亦非心合心如幻故 ・また問う、『この病は、身と合するや、心と合するや。』 答えて曰く、『身と合するに非ず、(病は)身の相を離るるが故に。また心と合するにも非ず、心は幻の如きなるが故に。』 又問。地大水大火大風大。於此四大何大之病。答曰。是病非地大亦不離地大。水火風大亦復如是。而眾生病從四大起。以其有病是故我病 ・また問う、『地大、水大、火大、風大、この四大に於いて、何(いづ)れの大の病なりや。』 答えて曰く、『この病は、地大に非ず、また地大を離れず。水火風大も、またまたかくの如し。しかれども、衆生の病は、四大従り起こる。それ(衆生)に病有るを以って、この故に我病む。

有疾の菩薩を慰喩する

爾時文殊師利問維摩詰言。菩薩應云何慰喻有疾菩薩 ・その時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、『菩薩は、まさに云何が疾有る菩薩を慰喩(いゆ、ナグサメサトス)すべき。』 維摩詰言。說身無常不說厭離於身 ・維摩詰言わく、『身は無常なりと説けども、身を厭離(えんり、イトイハナレル)することは説かざれ。 說身有苦不說樂於涅槃 ・身は苦有りと説けども、涅槃を楽(ねが)えとは説かざれ。 說身無我而說教導眾生 ・身は無我なりと説いて、しかも衆生を教え導けと説け。 說身空寂不說畢竟寂滅 ・身は空寂(くうじゃく、空)なりと説けども、畢竟寂滅(涅槃に在る)なりとは説かざれ。 說悔先罪而不說入於過去 ・先罪を悔いよとは説けども、しかも過去に入れよとは説かざれ。 以己之疾愍於彼疾。當識宿世無數劫苦。當念饒益一切眾生 ・己の疾を以って、彼の疾を愍(あわれ)み、まさに宿世(過去世)の無数劫の苦を識るべし。まさに一切の衆生を饒益(にょうやく、利益)することを念ずべし。 憶所修福。念於淨命。勿生憂惱 ・修むる所の福を憶(おも)い、浄命(じょうみょう、浄い生活)を念じ、憂悩を生ずることなかれ。 常起精進。當作醫王療治眾病。菩薩應如是慰喻有疾菩薩令其歡喜 ・常に精進を起こして、まさに医王と作りて衆病を療治すべし。菩薩は、まさにかくの如く、疾有る菩薩を慰喩して、それをして歓喜せしむべし。』と。

有疾の菩薩、その心を調伏する

文殊師利言。居士。有疾菩薩云何調伏其心 ・文殊師利言わく、『居士、疾有る菩薩は、云何がその心を調伏(ちょうぶく、制御)せん。』 維摩詰言。有疾菩薩應作是念。今我此病皆從前世妄想顛倒諸煩惱生。無有實法誰受病者。所以者何。四大合故假名為身。四大無主身亦無我 ・維摩詰言わく、『疾有る菩薩は、まさにこの念(おもい)を作すべし、『今、我がこの病は、皆前世の妄想、顛倒(てんどう、有無見などの実相に反する見解)、諸の煩悩より生じて、実の法有ること無し。誰か病を受くる者ぞ。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、四大(しだい、地大水大火大風大)合するが故に、仮に名づけて身と為す。四大は主無く、身もまた我も無し。 又此病起皆由著我。是故於我不應生著。既知病本即除我想及眾生想。當起法想 ・またこの病の起こるは、皆我(が、我ありとの思い)に著(じゃく、執著)するに由る。この故に、我に於いて、まさに著を生ずべからず。すでに病の本を知れば、すなわち我想(がそう、我ありとの思い)、および衆生想(しゅじょうそう、衆生ありとの思い)を除いて、まさに法想(ほうそう、単なる物と思うこと)を起こすべし。』と。 應作是念。但以眾法合成此身。起唯法起滅唯法滅。又此法者各不相知。起時不言我起。滅時不言我滅 ・(即ち)まさにこの念を作すべし、『ただ衆法(しゅほう、イロイロナモノ)を以ってこの身を合成す。起こるは、ただ法(ほう、モノ)の起こるなり。滅するは、ただ法の滅するなり。また、この法は、おのおの相い知らず、起こる時、我起こると言わず、滅する時、我滅すと言わず。』と。 彼有疾菩薩為滅法想。當作是念。此法想者亦是顛倒。顛倒者是即大患。我應離之 ・彼の疾有る菩薩は、法想を滅せんが為に、まさにこの念を作すべし、『この法想は、またこれ顛倒なり。顛倒は、これすなわち大患なり。我、まさにこれを離るべし。 云何為離。離我我所。云何離我我所。謂離二法。云何離二法。謂不念內外諸法行於平等 ・云何なるをか離るると為す。我(ワレ)と我所(ワガモノ)とを離るるなり。云何なるか我と我所とを離るる。二法を離るるを謂う。云何なるか二法を離るる。内外の諸法を念(おも)わず、平等(空)に行ずることを謂う。 云何平等。為我等涅槃等。所以者何。我及涅槃此二皆空 ・云何なるか平等なる。我等しく涅槃等しきと為す。所以は何となれば、我および涅槃は、この二つは、皆空なればなり。 以何為空。但以名字故空 ・何を以ってか空と為す。ただ名字を以っての故に空なり。(ただ名あるのみ、実に物あるに非ず) 如此二法無決定性。得是平等無有餘病。唯有空病空病亦空 ・かくの如く、二法は決定の性無し。この平等を得れば、余病有ること無く、ただ空病のみ有り。空病もまた空なり。』 是有疾菩薩以無所受而受諸受。未具佛法亦不滅受而取證也 ・この疾有る菩薩は、受くる所無きを以って、しかも諸受(苦受(クルシミ)、楽受(タノシミ)、捨受(空平等を感ずること)の三受)を受け、未だ仏法を具(具足)せざるも、また受(三受)を滅せずして、しかも証を取るなり。(証を取る:証文を受け取る、ここでは涅槃に入ることをいう) 設身有苦念惡趣眾生起大悲心。我既調伏亦當調伏一切眾生。但除其病而不除法。為斷病本而教導之 ・もし身に苦有らば、悪趣(あくしゅ、地獄餓鬼畜生)の衆生を念(おも)いて、大悲心を起こす、『我すでに(我が疾を)調伏せり、またまさに一切の衆生を調伏すべし、ただその病を除いて法(諸法)は除かず、病の本を断ぜんが為に、これを教え導かん』と。 何謂病本。謂有攀緣。從有攀緣則為病本。何所攀緣謂之三界。云何斷攀緣以無所得。若無所得則無攀緣。何謂無所得。謂離二見。何謂二見。謂內見外見是無所得 ・何をか病の本と謂う。攀縁(はんえん、対象ニシガミツクコト)有るを謂う。攀縁有るに従りて、すなわち病の本と為る。何の所にか攀縁する。これを三界(世間)と謂う。云何が攀縁を断ずる。無所得(むしょとく、持つモノ無しの心)を以ってす。もし無所得なれば、すなわち攀縁無し。何をか無所得と謂う。二見を離るるを謂う。何をか二見と謂う。内見(自らの身心)と外見(外境)は、これ(を離るることは)無所得なり。 文殊師利。是為有疾菩薩調伏其心。為斷老病死苦是菩薩菩提。若不如是己所修治為無慧利。譬如勝怨乃可為勇。如是兼除老病死者菩薩之謂也 ・文殊師利、これ疾有る菩薩のその心を調伏し、為に老病死の苦を断ずと為す。これ菩薩の菩提なり。もしかくの如くせずんば、己が修治(修行対治)する所の慧利(智慧と利益)無しと為す。譬えば、怨(うらみ、敵)に勝ちて、すなわち勇(勇者)と為すべきが如し。かくの如くして、老病死を兼ねて除く者、菩薩の謂いなり。 彼有疾菩薩應復作是念。如我此病非真非有。眾生病亦非真非有。作是觀時。於諸眾生若起愛見大悲。即應捨離。所以者何。菩薩斷除客塵煩惱而起大悲 ・彼の疾有る菩薩は、まさにまたこの念を作すべし、『我がこの病の如きは、真に非ず有(う、仮有、仮名)に非ず。衆生の病もまた真に非ず、有に非ず。』と。この観(かん、観察)を作す時、諸の衆生に於いて、愛見(あいけん、愛著の念)の大悲を起こさば、すなわちまさに捨離すべし。所以は何となれば、菩薩は客塵煩悩(かくじんぼんのう、心が外縁に遭遇して起こる煩悩)を断除して、大悲を起こすべし。 愛見悲者則於生死有疲厭心。若能離此無有疲厭。在在所生不為愛見之所覆也。所生無縛能為眾生說法解縛 ・愛見の悲とは、すなわち生死に於いて、疲厭(ひえん、ツカレイトウコト)の心有り。もしこれを離るれば、疲厭有ること無し。在在に生まるる所、愛見の覆う所と為らず。生まるる所に縛(ばく、煩悩の異名、愛著に同じ)無ければ、よく衆生の為に法を説いて、縛を解かん。

方便の縛と解

如佛所說。若自有縛能解彼縛無有是處。若自無縛。能解彼縛斯有是處。是故菩薩不應起縛 ・仏の所説の如く、もし自ら縛有りて、よく彼の縛を解くこと、この処(ことわり)有ること無し。もし自ら縛無くして、よく彼の縛を解くこと、これはこの処有り。この故に、菩薩はまさに縛を起こすべからず。 何謂縛何謂解。貪著禪味是菩薩縛。以方便生是菩薩解 ・何をか縛と謂い、何をか解と謂う。禅味に貪著すること、これ菩薩の縛なり。方便を以って生ずる(衆生を済度せんが為に生まれる)こと、これ菩薩の解なり。 又無方便慧縛。有方便慧解。無慧方便縛。有慧方便解 ・また、方便無き慧は縛なり。方便有る慧は解なり。慧無き方便は縛なり。慧有る方便は解なり。 何謂無方便慧縛。謂菩薩以愛見心。莊嚴佛土成就眾生。於空無相無作法中而自調伏。是名無方便慧縛 ・何の謂いぞ、方便無き慧は縛なりとは。謂わく、菩薩は、愛見の心を以って、仏土を荘厳(しょうごん、飾り立てること)し、衆生を成就(衆生に覚らしめること)し、空(ワレナシ)、無相(ワガスガタナシ)、無作(ワガナスベキコトナシ)の法の中に於いて、自ら調伏す、これを方便無き慧は縛なりと名づく 何謂有方便慧解。謂不以愛見心莊嚴佛土成就眾生。於空無相無作法中。以自調伏而不疲厭。是名有方便慧解 ・何の謂いぞ、方便有る慧は解なりとは。謂わく、愛見の心を以って、仏土を荘厳し、衆生を成就せず、空、無相、無作の法の中に於いて、以って自ら調伏して、(生死を遊歴して)疲厭せず。これを方便有る慧は解なりと名づく。 何謂無慧方便縛。謂菩薩住貪欲瞋恚邪見等諸煩惱。而植眾德本。是名無慧方便縛 ・何の謂いぞ、慧無き方便は縛なりとは。謂わく、菩薩は貪欲、瞋恚、邪見等の諸の煩悩に住して、しかも衆(もろもろ)の徳本(とくほん、善根、諸善行は仏果菩提の根本)を植う。これを慧無き方便は縛なりと名づく。 何謂有慧方便解。謂離諸貪欲瞋恚邪見等諸煩惱。而植眾德本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。是名有慧方便解 ・何の謂いぞ、慧有る方便は解なりとは。謂わく、諸の貪欲、瞋恚、邪見等の諸の煩悩を離れて、しかも衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏国土を成就し、仏と作ること)に廻向(えこう、善根を振り向けて目的を成就すること)す。これを慧有る方便は解なりと名づく。 文殊師利。彼有疾菩薩應如是觀諸法 ・文殊師利、彼の疾有る菩薩は、まさにかくの如く、諸法を観ずべし。 又復觀身無常苦空非我。是名為慧 ・また、また身の無常、苦、空、非我なるを観ず。これを名づけて慧と為す。 雖身有疾常在生死。饒益一切而不厭倦。是名方便 ・身に疾有りといえども、常に生死に在りて、一切(衆生)を饒益(にょうやく、利益)し、厭倦(えんけん、アキウムコト)せず。これを方便と名づく。 又復觀身身不離病病不離身。是病是身非新非故。是名為慧 ・また、また身を観ずるに、身は病を離れず、病は身を離れず、この病この身は、新たなるものに非ず、故(もと)のものに非ずとす。これを名づけて慧と為す。 設身有疾而不永滅。是名方便 ・たとい身に疾有れども、永滅(ようめつ、寂滅)せず。これを方便と名づく。

菩薩の行

文殊師利。有疾菩薩應如是調伏其心不住其中。亦復不住不調伏心。所以者何。若住不調伏心是愚人法。若住調伏心是聲聞法。是故菩薩不當住於調伏不調伏心。離此二法是菩薩行 ・文殊師利、疾有る菩薩は、まさにかくの如く、その心を調伏しても、その中には住せず、また、また調伏せざる心にも住すべからず。 所以は何となれば、もし調伏せざる心に住せば、これ愚人の法なり。もし調伏せる心に住せば、これ声聞の法なり。 この故に、菩薩は、まさに調伏せると、調伏せざるとの心には住すべからず。この二法を離るる、これ菩薩の行なり。 在於生死不為污行。住於涅槃不永滅度。是菩薩行。 ・生死に在りて、汚行を為さず。涅槃に住して、永く滅度せず。これ菩薩の行なり。 非凡夫行非賢聖行。是菩薩行 ・凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ず(空無相無作の三解脱門を行じて、しかも涅槃の楽を取らず)。これ菩薩の行なり。 非垢行非淨行。是菩薩行 ・垢行に非ず、浄行に非ず。これ菩薩の行なり。 雖過魔行。而現降眾魔。是菩薩行 ・魔の行(欲魔身魔死魔天魔の四魔をいう)を過ぐといえども、衆魔を降伏することを現ず。これ菩薩の行なり。 求一切智無非時求。是菩薩行 ・(仏の)一切智を求めて、時に非ざれば求むること無し。これ菩薩の行なり。(一切智未だ成ぜずして声聞縁覚の如く中道にして証を求むること無きをいう) 雖觀諸法不生而不入正位。是菩薩行 ・諸法の不生なることを観ずといえども、正位(しょうい、証を取る位)に入らず。これ菩薩の行なり。 雖觀十二緣起而入諸邪見。是菩薩行 ・十二縁起を観ずといえども、諸の邪見に入る。これ菩薩の行なり。 雖攝一切眾生而不愛著。是菩薩行 ・一切の衆生を摂(摂取)すといえども、愛著せず。これ菩薩の行なり。 雖樂遠離而不依身心盡。是菩薩行 ・(身心の繫縛を)遠離することを楽(ねが)うといえども、身心の尽くることに依らず。これ菩薩の行なり。 雖行三界而不壞法性。是菩薩行 ・三界を行(現生)ずるといえども、法性(ほっしょう、真如、空平等)を壊せず。これ菩薩の行なり。 雖行於空而植眾德本。是菩薩行 ・空を行ずるといえども、衆の徳本を植う。これ菩薩の行なり。 雖行無相而度眾生。是菩薩行 ・無相を行ずるといえども、衆生を度す。これ菩薩の行なり。 雖行無作而現受身。是菩薩行 ・無作を行ずるといえども、現れて身を受く。これ菩薩の行なり。 雖行無起而起一切善行。是菩薩行 ・無起(無因生果)を行ずるといえども、一切の善行を起こす。これ菩薩の行なり。 雖行六波羅蜜而遍知眾生心心數法。是菩薩行 ・六波羅蜜を行ずるといえども、あまねく衆生の心と心数(しんしゅ、心所、心の働き)の法を知る。これ菩薩の行なり。(六波羅蜜は衆生を分別せずに行うことをいう) 雖行六通而不盡漏。是菩薩行 ・六通(神足、天眼、天耳、他心智、宿命、漏尽通)を行ずるといえども、漏を尽くさず。これ菩薩の行なり。 雖行四無量心而不貪著生於梵世。是菩薩行 ・四無量心(慈、悲、喜、捨無量の心)を行ずるといえども、梵世(四禅天)に生ずることに貪著せず。これ菩薩の行なり。 雖行禪定解脫三昧而不隨禪生。是菩薩行 ・禅定(四禅)、解脱(八解脱)、三昧(空無相無作)を行ずるといえども、禅に随うて生ぜず。これ菩薩の行なり。(行ずる所の禅に相応した処に生まれることを求めない) 雖行四念處而不永離身受心法。是菩薩行 ・四念処(しねんじょ、身は不浄なり、心はこれ苦なり、心は無常なり、法は無我なりと観ずる)を行ずるといえども、永く身受心法(しんじゅしんぽう、身と感覚と心と物事)を離れず。これ菩薩の行なり。(この四念処より八聖道までの三十七道品は、浅法を学んで、深法に入ることをいう) 雖行四正勤而不捨身心精進。是菩薩行 ・四正勤(ししょうごん、已生の悪は永く断えしめ、未生の悪は生ぜざらしめ、已生の善は忘れざらしめ、未生の善は生ずるを得しむ)を行ずるといえども、身心精進を捨てず(無為に入らず)。これ菩薩の行なり。 雖行四如意足而得自在神通。是菩薩行 ・四如意足(しにょいそく、欲、念、進、慧如意足)を行ずるといえども、自在神通を得。これ菩薩の行なり。 雖行五根而分別眾生諸根利鈍。是菩薩行 ・五根(ごこん、信、進、念、定、慧根)を行ずるといえども、衆生の諸根の利鈍を分別す。これ菩薩の行なり。 雖行五力而樂求佛十力。是菩薩行 ・五力(ごりき、信、進、念、定、慧力)を行するといえども、楽(ねが)いて仏の十力(じゅうりき)を求む。これ菩薩の行なり。 雖行七覺分而分別佛之智慧。是菩薩行 ・七覚分(しちかくぶん、念、択、進、喜、軽安、定、捨覚分)を行ずるといえども、仏の智慧を分別す。これ菩薩の行なり。 雖行八聖道而樂行無量佛道。是菩薩行 ・八聖道(はっしょうどう、正見、正思惟、正語、正業、正精進、正定、正念、正命)を行ずるといえども、楽いて無量の仏道を行ず。これ菩薩の行なり。 雖行止觀助道之法而不畢竟墮於寂滅。是菩薩行 ・止(し、定)観(かん、慧)助道の法を行ずるといえども、畢竟じて寂滅に堕せず。これ菩薩の行なり。 雖行諸法不生不滅而以相好莊嚴其身。是菩薩行 ・諸法の不生不滅を行ずるといえども、相好(そうごう、三十二相八十種好)を以って、その身を荘厳す。これ菩薩の行なり。 雖現聲聞辟支佛威儀而不捨佛法。是菩薩行 ・声聞辟支仏の威儀を現ずるといえども、仏の法(大乗)を捨てず。これ菩薩の行なり。 雖隨諸法究竟淨相而隨所應為現其身。是菩薩行 ・諸法の究竟の浄相(無相)に随うといえども、応ずる所に随うて(六道の何れの処にも)、その身を現す。これ菩薩の行なり。 雖觀諸佛國土永寂如空而現種種清淨佛土。是菩薩行 ・諸仏の国土は永く寂(寂静)して空(虚空)の如しと観ずるといえども、種々に清浄の仏土を現す。これ菩薩の行なり。 雖得佛道轉于法輪入於涅槃而不捨於菩薩之道。是菩薩行 ・仏道を得て、法輪を転じ、涅槃に入るといえども、菩薩の道を捨てず。これ菩薩の行なり。』と。 說是語時文殊師利所將大眾。其中八千天子皆發阿耨多羅三藐三菩提心 ・この語を説く時、文殊師利に将(ひきい)られたる大衆の、その中の八千の天子、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。

不思議品第六

不思議品第六 ・不思議品(ふしぎぼん)第六

法を求める

爾時舍利弗。見此室中無有床座。作是念。斯諸菩薩大弟子眾當於何坐。長者維摩詰知其意。語舍利弗言。云何仁者。為法來耶求床座耶 ・その時、舍利弗、この室中に床座有ること無きを見て、この念(おもい)を作さく、『この諸の菩薩、大弟子の衆は、まさに何に於いてか坐すべき。』 長者維摩詰、その意を知りて、舍利弗に語りて言わく、『云何に、仁者(にんじゃ、アナタハ)、法の為に来たるや、床座を求むるや。』と。 舍利弗言。我為法來非為床座。維摩詰言。唯舍利弗。夫求法者不貪軀命。何況床座 ・舍利弗言わく、『我は、法の為に来たり、床座の為に非ず。』 維摩詰言わく、『唯(ゆい、モシ)、舍利弗、それ法を求むる者は、躯命(くみょう、身命)を貪らず。何をか況や床座をや。 夫求法者。非有色受想行識之求。非有界入之求。非有欲色無色之求 ・それ法を求むる者は、色受想行識の求め有るに非ず、界(かい、十八界)入(にゅう、十二入)の求め有るに非ず、欲色無色(三界)の求め有るに非ず。 唯舍利弗。夫求法者。不著佛求不著法求不著眾求 ・唯、舍利弗、それ法を求むる者は、仏に著せずして求め、法に著せずして求め、衆(僧)に著せずして求む。 夫求法者。無見苦求無斷集求。無造盡證修道之求 ・それ法を求むる者は、苦(苦諦)を見ること無くして求め、集(集諦)を断ずること無くして求め、尽証(滅諦)を造り、道を修むる(道諦)こと無くして求む。 所以者何。法無戲論。若言我當見苦斷集證滅修道。是則戲論非求法也 ・所以(ゆえ)は何(いかん)となれば、法には戯論(けろん、憶念取相分別より生ずる無益の論議)無ければなり。もし我、まさに苦を見、集を断じ、滅を証し、道を修むべしと言わば、これすなわち戯論なり、法を求むるに非ざるなり。 唯舍利弗。法名寂滅。若行生滅是求生滅非求法也 ・唯、舍利弗、法は、寂滅と名づく。もし生滅を行ぜば、これ生滅を求むるなり。法を求むるには非ざるなり。 法名無染。若染於法乃至涅槃。是則染著非求法也 ・法は、染まること無しと名づく。もし法に染まば、すなわち涅槃に至るまで、これすなわち染著なり。法を求むるには非ず。 法無行處。若行於法是則行處非求法也 ・法は、行処(ぎょうしょ、行為)無し。もし法を行ぜば、これすなわち行処なり。法を求むるには非ず。 法無取捨。若取捨法是則取捨非求法也 ・法は、取捨無し。もし法を取捨せば、これすなわち取捨なり。法を求むるには非ず。 法無處所。若著處所。是則著處非求法也 ・法は、処する所無し。もし処する所に著せば、これすなわち処することに著す。法を求むるには非ず。 法名無相。若隨相識是則求相非求法也 ・法は無相と名づく。もし相に随うて識らば、これすなわち相を求む。法を求むるには非ず。 法不可住。若住於法是則住法非求法也 ・法は住すべからず。もし法に住せば、これすなわち法に住するなり。法を求むるには非ず。 法不可見聞覺知。若行見聞覺知。是則見聞覺知非求法也 ・法は見聞覚知すべからず。もし見聞覚知を行ぜば、これすなわち見聞覚知なり。法を求むるには非ず。 法名無為。若行有為是求有為非求法也 ・法は無為と名づく。もし有為を行ぜば、これ有為を求むるなり。法を求むるには非ず。 是故舍利弗。若求法者。於一切法應無所求。說是語時。五百天子於諸法中得法眼淨 ・この故に、舍利弗、もし法を求めん者は、一切の法に於いて、まさに求むる所無し。』と。この語を説く時、五百の天子、諸法の中に於いて、法眼浄(ほうげんじょう、四諦の理を正しく見ること)を得たり。

不可思議解脱

爾時長者維摩詰問文殊師利。仁者。遊於無量千萬億阿僧祇國。何等佛土有好上妙功德成就師子之座。文殊師利言。居士。東方度三十六恒河沙國有世界。名須彌相。其佛號須彌燈王。今現在。彼佛身長八萬四千由旬。其師子座高八萬四千由旬嚴飾第一 ・その時、長者維摩詰、文殊師利に問わく、『仁者(にんじゃ、アナタハ)、無量千万億阿僧祇(あそうぎ、無数)の国に遊び、何等の仏土にか、好き上妙の功徳成就せる師子の座ある。』 文殊師利言わく、『居士、東方に三十六恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の砂の数)の国を度(こ)えて、世界有りて、須弥相と名づく。その仏は、須弥灯王と号し、今現に在(ま)します。彼の仏の身長(ミノタケ)は八万四千由旬(ゆじゅん、帝王の一日の行軍の里程)なり。その師子座は、高さ八万四千由旬にて厳飾(ごんじき、荘厳飾好)第一なり。 於是長者維摩詰。現神通力。即時彼佛遣三萬二千師子座高廣嚴淨。來入維摩詰室。諸菩薩大弟子釋梵四天王等昔所未見。其室廣博悉皆包容三萬二千師子座。無所妨礙。於毘耶離城及閻浮提四天下。亦不迫迮。悉見如故 ・ここに於いて、長者維摩詰、神通力を現せば、即時に彼の仏は、三万二千の師子座の高広にして厳浄なるを遣わして、維摩詰の室に来たり入れしむ。 諸の菩薩、大弟子、釈梵四天王等も、昔より未だ見ざる所なり。その室は、広博にして、悉く皆三万二千の師子座を包み容(い)れ、妨礙(ぼうげ、サマタグ)する所無し。毘耶離城および閻浮堤、四天下(してんげ、須弥山の四方に在る地、即ち閻浮堤とその他をいう)も、また迫迮(はくさく、セバマル)せずして、悉く故(もと)の如くに見ゆ。 爾時維摩詰語文殊師利。就師子座。與諸菩薩上人俱坐。當自立身如彼座像。其得神通菩薩即自變形。為四萬二千由旬坐師子座。諸新發意菩薩及大弟子皆不能昇 ・その時、維摩詰、文殊師利に語らく、『師子の座に就き、諸の菩薩、上人(しょうにん、声聞を敬っていう)と倶(とも)に坐し、まさに自ら身を立て、彼の座像の如く(須弥灯王仏の坐したもうが如く)なるべし。』と。 その神通を得たる菩薩は、すなわち自ら形を変じて、四万二千由旬と為り、師子の座に坐せども、諸の新発意(しんほつい、新入の)の菩薩および大弟子は、皆昇ること能わず。 爾時維摩詰語舍利弗。就師子座。舍利弗言。居士。此座高廣吾不能昇。維摩詰言。唯舍利弗。為須彌燈王如來作禮乃可得坐。於是新發意菩薩及大弟子。即為須彌燈王如來作禮。便得坐師子座 ・その時、維摩詰、舍利弗に語らく、『師子の座に就け。』 舍利弗言わく、『居士、この座は高広にして、吾は昇ること能わず。』 維摩詰言わく、『唯、舍利弗、須弥灯王如来の為に礼を作さば、すなわち坐ることを得べし。』と。ここに於いて、新発意の菩薩および大弟子、すなわち須弥灯王如来の為に礼を作して、すなわち師子の座に坐することを得たり。 舍利弗言。居士未曾有也。如是小室乃容受此高廣之座。於毘耶離城無所妨礙。又於閻浮提聚落城邑及四天下諸天龍王鬼神宮殿。亦不迫迮 ・舍利弗言わく、『居士、未曽有なり。かくの如き小室に、すなわちこの高広の座を容受して、毘耶離城に於いても、妨礙する所なく、また閻浮堤の聚落(じゅらく)、城邑(じょうゆう)、および四天下、諸天龍王鬼神の宮殿に於いても、また迫迮(はくさく、セバマル)せざること。』 維摩詰言。唯舍利弗。諸佛菩薩有解脫名不可思議。若菩薩住是解脫者。以須彌之高廣內芥子中無所增減。須彌山王本相如故。而四天王忉利諸天。不覺不知己之所入。唯應度者乃見須彌入芥子中。是名住不思議解脫法門 ・維摩詰言わく、『唯、舍利弗、諸仏菩薩に解脱あり、不可思議と名づく。もし菩薩にして、この解脱に住する者は、須弥(山)の高広なるを以って、芥子(けし、ケシツブ)の中に内(い)れて、増減する所無し。須弥山王の本(本来)の相は故(もと)の如く、しかも四天王、忉利(とうり)の諸天も覚らずして、己(おのれ)の入れられたることを知らず。ただまさに度すべき者(仏等)のみ、すなわち須弥の芥子中に入るを見る。これを不思議解脱の法門に住すと名づく。 又以四大海水入一毛孔。不嬈魚鱉黿鼉水性之屬。而彼大海本相如故。諸龍鬼神阿修羅等不覺不知己之所入。於此眾生亦無所嬈 ・また、四大海の水を以って、一毛孔(もうく)に入れ、魚、鱉(べつ、スッポン)、黿(げん、大スッポン)、鼉(だ、ワニ)の水性の属を嬈(みだ、乱)さずして、しかも彼の大海の本の相は故の如く、諸龍、鬼神、阿修羅等も、覚らずして、己(おのれ)の入れられたることを知らず。この衆生に於いても、また嬈す所無し。 又舍利弗。住不可思議解脫菩薩。斷取三千大千世界。如陶家輪著右掌中。擲過恒河沙世界之外。其中眾生不覺不知己之所往。又復還置本處。都不使人有往來想。而此世界本相如故 ・また舍利弗、不可思議解脱に住する菩薩は、三千大千世界を断ち取ること、陶家の輪(陶器を造るとき使うロクロ)の如く、右の掌中に著けて、恒河沙の世界の外に過ぎて擲(なげう)つに、その中の衆生は覚らずして、己の往く所を知らず。また、また本の処に還し置くけば、すべて人をして、往来の想有らしめずして、しかもこの世界の本の相は故の如し。 又舍利弗。或有眾生樂久住世而可度者。菩薩即延七日以為一劫。令彼眾生謂之一劫。或有眾生不樂久住而可度者。菩薩即促一劫以為七日。令彼眾生謂之七日 ・また舍利弗、或いは衆生、久しく世に住することを楽(ねが)いて、度(済度)すべき者有らば、菩薩は、すなわち七日を延ばして、以って一劫と為し、彼の衆生をして、これを一劫と謂(おも)わしむ。或いは衆生、久しく住することを楽わずして、度すべき者有らば、菩薩は、すなわち一劫を促(ちぢ)めて、以って七日と為し、彼の衆生をして、これを七日と謂わしむ。 又舍利弗。住不可思議解脫菩薩。以一切佛土嚴飾之事。集在一國示於眾生。又菩薩以一佛土眾生置之右掌。飛到十方遍示一切。而不動本處 ・また舍利弗、不可思議解脱に住する菩薩は、一切の仏土の厳飾の事を以って、一国に集め在(お)き、衆生に示す。また菩薩は、一仏土の衆生を以って、右の掌に置きて、十方に飛び到り、遍く一切を示して、しかも本の処を動かず。 又舍利弗十方眾生供養諸佛之具。菩薩於一毛孔皆令得見。又十方國土所有日月星宿。於一毛孔普使見之 ・また舍利弗、十方の衆生が諸仏を供養するの具を、菩薩は、一毛孔に於いて、皆見ることを得しむ。また、十方の国土の、あらゆる日月星宿を、一毛孔に於いて、あまねくこれを見しむ。 又舍利弗。十方世界所有諸風。菩薩悉能吸著口中而身無損。外諸樹木亦不摧折。又十方世界劫盡燒時。以一切火內於腹中。火事如故而不為害。又於下方過恒河沙等諸佛世界。取一佛土舉著上方。過恒河沙無數世界。如持鍼鋒舉一棗葉而無所嬈 ・また舍利弗、十方の世界の、あらゆる諸の風を、菩薩は、悉くよく吸いて、口中に著け、しかも身を損ずること無く、外の諸の樹木も、また摧折(さいせつ、オレル)せず。また十方の世界の劫尽き(世界の滅亡すること)て焼くる時、一切の火を以って、腹中に内(い)れて、火事は故の如くにして、しかも(腹中に)害を為さず。また下方に恒河沙等の諸仏の世界を過ぎて、一仏土を取りて、上方に挙げ著(お)き、恒河沙無数の世界を過ぐるに、鍼鋒(しんぶ、ハリノサキ)を持して一の棗(ナツメ)の葉を挙ぐるが如くにして、しかも嬈(みだ)す所無し。 又舍利弗。住不可思議解脫菩薩。能以神通現作佛身。或現辟支佛身。或現聲聞身。或現帝釋身。或現梵王身。或現世主身。或現轉輪王身。又十方世界所有眾聲。上中下音皆能變之令作佛聲。演出無常苦空無我之音。及十方諸佛所說種種之法。皆於其中。普令得聞 ・また舍利弗、不可思議解脱に住する菩薩は、よく神通を以って現して、仏身と作る。或いは辟支仏の身を現し、或いは声聞の身を現し、或いは帝釈の身を現し、或いは梵王の身を現し、或いは世主の身を現し、或いは転輪王の身を現す。また十方の世界の、あらゆる衆(もろもろ)の声を、上中下の音、皆よくこれを変じて、仏の声と作し、無常、苦、空、無我の音を演出せしめ、および十方の諸仏の説きたもう所の、種々の法を、皆その中に於いて(その声の在る場所に於いて)、あまねく聞くことを得しむ 舍利弗。我今略說菩薩不可思議解脫之力。若廣說者窮劫不盡 ・舍利弗、我は、今、略して菩薩の不可思議解脱の力を説く。もし広く説かば、劫を窮むとも、尽きじ。 是時大迦葉。聞說菩薩不可思議解脫法門。歎未曾有。謂舍利弗。譬如有人於盲者前現眾色像非彼所見。一切聲聞聞是不可思議解脫法門。不能解了為若此也。智者聞是。其誰不發阿耨多羅三藐三菩提心。我等何為永絕其根。於此大乘已如敗種。一切聲聞聞是不可思議解脫法門。皆應號泣聲震三千大千世界。一切菩薩應大欣慶頂受此法。若有菩薩信解不可思議解脫法門者。一切魔眾無如之何。大迦葉說是語時。三萬二千天子皆發阿耨多羅三藐三菩提心 ・この時、大迦葉(だいかしょう)、菩薩の不可思議解脱の法門を説くを聞き、未曽有と歎じて、舍利弗に謂わく、『譬えば有る人の、盲者の前に於いて、衆(もろもろ)の色像を現せども、彼が見る所には非ざるが如く、一切の声聞も、この不可思議解脱の法門を聞きて、解了することの能わざること、かくの若しと為す。智者なれば、これを聞きて、それ誰か阿耨多羅三藐三菩提心を発さざらん。我等は、何すれぞ永くその根(菩薩の根本)を断ちて、この大乗に於いて、すでに敗種(はいしゅ)の如きなる。一切の声聞、この不可思議解脱の法門を聞いて、皆まさに号泣し声を三千大千世界に震(ふる)うべし。一切の菩薩は、まさに大いに欣慶して、この法を頂受すべし。もし菩薩、不可思議解脱の法門を信解する者有らば、一切の魔衆もこれを如何(いかん)ともする無けん。』と。 大迦葉、この語を説く時、三万二千の天子は、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。 爾時維摩詰語大迦葉。仁者。十方無量阿僧祇世界中作魔王者。多是住不可思議解脫菩薩。以方便力教化眾生現作魔王 ・その時、維摩詰、大迦葉に語らく、『仁者、十方の無量阿僧祇(あそうぎ、無数)の世界の中に魔王と作る者も、多くは、これ不可思議解脱に住する菩薩なり。方便力を以って、衆生を教化し、現じて魔王と作る。 又迦葉。十方無量菩薩。或有人從乞手足耳鼻頭目髓腦血肉皮骨聚落城邑妻子奴婢象馬車乘金銀琉璃車磲馬瑙珊瑚琥珀真珠珂貝衣服飲食。如此乞者多是住不可思議解脫菩薩。以方便力而往試之令其堅固 ・また迦葉、十方の無量の菩薩も、或いは有る人、(菩薩)従(よ)り、手足、耳鼻、頭目、髄脳、血肉、皮骨、聚落、城邑、妻子、奴婢、象馬、車乗、金銀、瑠璃、車磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠、珂貝(かばい)、衣服、飲食を乞うときは、この乞う者の如きは、多くは、これ不可思議解脱に住する菩薩なり。方便力を以って往きて、これを試し、それをして堅固ならしむ。 所以者何。住不可思議解脫菩薩。有威德力故現行逼迫。示諸眾生如是難事。凡夫下劣無有力勢。不能如是逼迫菩薩。譬如龍象蹴踏非驢所堪。是名住不可思議解脫菩薩智慧方便之門 ・所以は何となれば、不可思議解脱に住する菩薩は、威徳力有るが故に、現れて逼迫することを行い、諸の衆生に、かくの如き難事を示す。凡夫は下劣にして、力勢有ること無ければ、かくの如く、菩薩を逼迫すること能わず。譬えば、龍象の蹴踏(しゅうとう)するは、驢(ろ、ロバ)の堪うる所に非ざるが如し。これを不可思議解脱に住する菩薩の智慧方便の門と名づく。』と。

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 面白い 超訳【維摩経】

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。

「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。

【維摩経】目次
「維摩詰所説経」より

◆維摩居士、仮病を使う (方便品)

◆難色を示す仏弟子たち (弟子品)

◆ しり込みする菩薩ども (菩薩品)

◆ 文殊がゆく! (文殊師利問疾品)

◆ ミラクルパワー! (不思議品)

◆一般ピープルってどうよ? (観衆生品)

◆ ザ・ウェイ・オブ・ブッダ (仏道品)

◆相対化を超えてゆけ! (不二法門品)

◆極上のランチ (香積仏品)

◆菩薩でGO! (菩薩行品)

◆極楽を見たか? (見阿閦如来品)

◆「法」を守れ!(法供養品)

◆大団円(嘱累品)

(附録)
◆ザ・ワールド・オブ・パラダイス(仏国品)


引用文献  .



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梵漢和対照・現代語訳 維摩経 単行本 – 2011/8/27 植木 雅俊 (翻訳) 単行本: 680ページ 出版社: 岩波書店 (2011/8/27)
維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。
本書は、サンスクリット・テキスト影印版(大正大学綜合佛教研究所刊)を底本とする現代日本語訳と、綿密な校訂によるローマナイズしたサンスクリット原典テキスト、鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(漢文書き下しテキスト)を併記対照させつつ、さらに詳細な注解を施したものである。原典テキストに準拠した曖昧さを残さない正確で読みやすい訳業は、全体の半分近くを占める訳出の根拠となる綿密な注解とともに、仏典翻訳史に新たな頁を刻む画期的な達成である。

至れり尽くせりの本(事例)
『維摩経』のサンスクリット原典は既に失われているとされてきた。ところが、その写本が何と1999年に完本として発見された。本書は、その写本の影印版(2003年)を綿密に校訂し、詳細な注釈(全680頁の約半分を占める)を付して現代語訳した上で、「サンスクリット原文」、「鳩摩羅什訳」、「著者の現代語訳」を見開きで対照させるという、読者にとって極めて便利な構成で作られている。
 著者は、お茶の水女子大学に「仏教におけるジェンダー平等思想」というテーマの論文を提出し、2002年に同大で男性として初の人文科学博士の学位を取得した。そして、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店)で毎日出版文化賞に選ばれた(2008年)。まさに、サンスクリット語と仏教学の泰斗である。大学や研究機関に身を置くことはないが、大学の研究者たちの業績を遥かに凌駕する研究成果を次々に発表している。まさに、在俗でありながら十大弟子をも圧倒し、性差をも超えていた維摩居士を地で行く人というべきである。
 権威主義的な小乗仏教の女性軽視にとらわれた智慧第一の舎利弗も、天女にからかわれ、手玉にとられる。維摩詰の十大弟子に対する弾呵も手厳しいが、本書の注釈においては、過去の研究成果の矛盾点に対する著者の指弾も手厳しい。例えば、43〜46頁の長きにわたる注釈で、著者は、長尾雅人博士の一音(いっとん)説法についての無理なこじつけを槍玉にあげる。長尾氏が、「釈尊は方言で語られたが、受け取る側はそれぞれの方言で受け止めた」と解釈し、その例として「『おしん』というテレビ・ドラマが佐賀弁で話されていても全国で理解されたのと同じだ」と述べていることについて、著者は「それは全国放送なので手加減しているから理解されたのであり、鹿児島弁であったらどうなのだ」と批判する。そして、長尾氏がどうして方言にこだわられるのか、そのネタ本まで暴露している。本書の、注釈ではこのような批判が網羅されている。これまでの研究は何だったのかという思いが募る。
 古来、初めてお経を読む人に、『維摩経』はうってつけとされてきた。それには相応の理由がある。プラトンの著作が哲学である以前にドラマ(ソクラテスを主人公とする対話)として面白いのと同様、仏教経典はドラマ(主人公は世尊)としてまず面白い。別けても『維摩経』の仕掛けは無類である。経典文学の最高峰である『法華経』とならぶものである。
 インド人の想像力にはほとほと頭がさがる。一文学書として『維摩経』を捉えた時、あくまで個人的な感想であるが、その読後感はルキアノス『本当の話』に一番近い感じがした。『アラビアンナイト』や『黄金のろば』も奇想天外だが、スピードが伴わない。『維摩経』は、これらの世界文学の最高峰とならべても遜色がないのである。それが、曖昧さを残さない正確な訳文で現代に蘇った。  文学的魅力は読めば終わるが、思想を汲み取る作業は別である。ありがたいことに著者は、インド仏教史の概略、戯曲『維摩経』のあらすじ、在家の地位の歴史的変遷、積極的な利他行の原動力としての「空」――など、『維摩経』理解に欠かせない思想背景を巻末の「解説」で詳細に論じてくれている。先に「はしがき」「解説」「あとがき」に目を通してから、現代語訳の本文を読むことをお勧めしたい。
 仏教用語辞典としても使える索引の充実ぶり、梵漢和を対照させたレイアウトは、印刷業者泣かせの作業であり、サンスクリット原文の校正を考えても、5500円の定価は信じられない安さである。その“安さ”が不思議でならなかったが、「あとがき」を読んで納得した。著者自身が、コンピュータのDTP技術を駆使して完全原稿(版下)を作成していたのだ。出版社まかせでは価格が跳ね上がるだけではなく、誤植が跡を絶たない(出版社にいた経験からこのことは請け合える)。その意味でもテキストの信頼性は他を圧している。至れり尽くせりとは、この本のためにあるような言葉だ。


梵文和訳 維摩経 単行本 – 2011/1/1 高橋 尚夫 (翻訳) 西野 翠 (翻訳)単行本: 333ページ 出版社: 春秋社 (2011/1/1)
真の菩薩の生き方を鋭く初期大乗経典の『維摩経』。その梵文テキストをチベット訳や漢訳なども参照しながら、正確かつ平易な言葉で翻訳。巻末には、用語解説や梵・蔵・漢の相違点などを示した詳細な訳注を付す。


『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック 釈 徹宗 (その他) – 2017/5/25 釈 徹宗 (その他)
あらゆる枠組みを超えよ!
かの聖徳太子が日本に紹介した仏典『維摩経』。病気になった在家仏教信者・維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。この『維摩経』を現代的に読み解く面白さを、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏が解説する。


維摩経講話 (講談社学術文庫) 文庫 – 1990/3/5 鎌田 茂雄 (著)
『維摩経』は、大乗仏教の根本原理、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を最もあざやかにとらえているといわれる。迷いと悟り、理想と現実、善と悪など、全く対立するものを不二(ふに)と見なし、その不二の法門に入れば、一切の対立を超えた無対立の世界、何ものにも束縛されない自由な境地に入る。在家の信者の維摩居士が主役となって、菩薩や声聞(しょうもん)を相手に活殺自在に説法するところが維摩経の不思議な魅力といえよう。


大乗仏典〈7〉維摩経・首楞厳三昧経 (中公文庫) 文庫 – 2002/8/25 長尾 雅人 (翻訳), 丹治 昭義 (翻訳)
大金持ちの俗人維摩居士の機知とアイロニーに満ちた教えによって、空の思想を展開する一大ドラマ維摩経。人間の求道の過程において「英雄的な行進の三昧」こそ、あらゆる活動の源泉力であると力説する首楞厳三昧経。



・超訳【維摩経】・超訳【無門関】・超訳【金剛経】・超訳【夢中問答(上)】

超訳【維摩経】 超訳文庫設立の契機ともなった記念碑的作品。 初期大乗経典の傑作にして、ドタバタコントの元祖みたいな一大哲学サイキック活劇です。 気楽に読むだけで、キミも「ミラクルパワー」がゲットできる!?

超訳【無門関】 「仏」に逢ったら即、ぶっ殺せ! 「師匠」に逢ったら、やっぱりぶっ殺せ! 「親」に逢ったら? もちろんぶっ殺せ! そしてオマエは天下無敵となるのだ!! ・・・というもの凄い剣幕で語られる、48のシュールなナゾナゾたち。 快僧無門慧開の真意は何処!?

超訳【金剛経】 我らの心に平安をもたらすもの、それは「完全円満なる智慧」。 ・・・という壮大なテーマで繰り広げられる、ブッダとその弟子スブーティ(須菩提)のボケとツッコミによる究極哲学ふたり漫才! 超メジャータイトル「般若心経」と、ショートエピソード「ミラクルフラッシュ・ボーイの物語(不思議光菩薩所説経)」も同時収録! 全編とも、漢訳原典つきです!

超訳【夢中問答】(上) 「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい? 足利直義の切実な問いを受け、夢窓国師が開く「真実の法門」とは!? 室町時代のディアロゴスの軌跡が、七百年後の今に甦る!
超訳【維摩経】


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維摩経

百科事典

維摩経』 (ゆいまきょう、: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要

維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気[3]になったので、釈迦舎利弗目連迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。

  • 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
  • 般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

原典・主な訳注

主な解説講話

注・出典

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  1. ^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説説教」のこと。
  2. ^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサポタラ宮ダライ・ラマの書斎で発見された。
  3. ^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
  4. ^ 大正大学教授
  5. ^ 大正大学総合仏教研究所研究員

関連項目



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