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NHKテレビ 「100分de名著」 【維摩経】を 放送 、好評 テキスト (とらわれない、こだわらない) (古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する。)

  目次 ・維摩詰所説経巻(巻上)第一第二第三 ・(巻中)第一第二第三 ・(巻下)第一第二
      下欄に記載 ( 面白い 超訳【維摩経】)(維摩書籍)(辞典)

維摩経(巻中之第三)  とらわれない、こだわらない
    自分の枠をばらし、新たな「私」を組み立てる。

『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

維摩経動画(100分で名著1.2.3.4)他

 
①「維摩経 仏教思想の一大転換」 ②「維摩経 得意分野こそ疑え」、  維摩経義疏: 不可思議解脱経:聖徳太子 著 (島田蕃根) 「維摩経に〝今〟を学ぶ 」維摩経(動画)維摩経(YouTube)国立図書「維摩経」

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目次 ・維摩詰所説経巻上 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻中 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻下 第一  第二
維摩詰所説経巻中(第三) 維摩経(巻中之第三)

仏道品第八

佛道品第八 ・仏道品(ぶつどうぼん)第八

菩薩、非道を行う

爾時文殊師利問維摩詰言。菩薩云何通達佛道 ・その時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、『菩薩は、云何が仏道に通達する。』 維摩詰言。若菩薩行於非道。是為通達佛道 ・維摩詰言わく、『もし菩薩、非道を行ぜば、これを仏道に通達すと為す。』 又問。云何菩薩行於非道 ・また問わく、『云何が菩薩は非道を行ずる。』 答曰。若菩薩行五無間而無惱恚 ・答えて曰く、『もし菩薩、五無間(ごむげん、無間地獄に入るべき五つの罪悪、五無間業、五逆)を行ずれども、悩恚(のうい、悩みと瞋り)無く、 至于地獄無諸罪垢 ・地獄に至れども、諸の罪垢(ざいく、罪と煩悩)無く、 至于畜生無有無明憍慢等過 ・畜生に至れども、無明憍慢等の過ち有ること無く、 至于餓鬼而具足功德 ・餓鬼に至れども、功徳(衆生済度の力)を具足し、 行色無色界道不以為勝 ・色無色界の道を行ずれども、以って勝れたりと為さず、 示行貪欲離諸染著 ・貪欲を行ずることを示せども、諸の染著を離れ、 示行瞋恚於諸眾生無有恚閡 ・諸の衆生に於いて、瞋恚を行ずることを示せども、恚礙(瞋恚と罣礙)有ること無く、 示行愚癡而以智慧調伏其心 ・愚癡(ぐち、ワレとワガモノ有りとすること)を行ずることを示せども、智慧を以ってその心を調伏し、 示行慳貪而捨內外所有不惜身命 ・慳貪(けんどん、モノオシミとムサボリ)を行ずることを示せども、内外の所有(身体と財産)を捨てて身命を惜しまず、 示行毀禁而安住淨戒乃至小罪猶懷大懼 ・毀禁(ききん、犯戒)を行ずることを示せども、淨戒に安住して、すなわち小罪に至るまでも、なお大懼(だいく、大イナルオソレ)を懐き、 示行瞋恚而常慈忍 ・瞋恚を行ずることを示せども、常に慈(慈悲)と忍(忍耐)あり、 示行懈怠而懃修功德 ・懈怠(けたい、怠けること)を行ずることを示せども、懃に功徳を修め 示行亂意而常念定 ・乱意を行ずることを示せども、常に念(正念)と定(禅定)あり、 示行愚癡而通達世間出世間慧 ・愚癡を行ずることを示せども、世間と出世間の慧に通達し、 示行諂偽而善方便隨諸經義 ・諂偽(てんぎ、ヘツライとイツワリ)行ずることを示せども、よく方便して、諸の経義に随い、 示行憍慢而於眾生猶如橋梁 ・憍慢を行ずることを示せども、衆生に於いて、なお橋梁の(人の為にフミツケらるるが)如く、 示行諸煩惱而心常清淨 ・諸の煩悩を行ずることを示せども、心は常に清浄に、 示入於魔而順佛智慧不隨他教 ・魔に入ることを示せども、仏の智慧に順じて他の教えに随わず、 示入聲聞而為眾生說未聞法 ・声聞に入ることを示せども、衆生の為に、未聞の法を説き、 示入辟支佛而成就大悲教化眾生 ・辟支仏に入ることを示せども、大悲を成就して衆生を教化し、 示入貧窮而有寶手功德無盡 ・貧窮(びんぐ)に入るを示せども、宝手(ほうしゅ、財宝を出だす手)有りて功徳尽くること無く、 示入刑殘而具諸相好以自莊嚴 ・形残(ぎょうざん、身体の不具なること)に入ることを示せども、諸の相好(そうごう、仏の容貌形態、三十二相八十種好)を具え、以って自ら荘厳し、 示入下賤而生佛種姓中具諸功德 ・下賎に入ることを示せども、仏の種姓中に生じて諸の功徳を具え、(無生忍を得れば、必ず仏種を継ぐことをいう) 示入羸劣醜陋而得那羅延身。一切眾生之所樂見 ・羸劣(るいれつ、弱く劣る)醜陋(しゅうろう、容貌醜く下品をいう)に入ることを示せども、那羅延(ならえん、天の力士)の身を得て、一切衆生の見ることを楽(ねが)う所となり、 示入老病而永斷病根超越死畏 ・老病死に入ることを示せども、永く病根を断じて死の畏れを超越し、 示有資生而恒觀無常實無所貪 ・資生(ししょう、生業)有ることを示せども、無常を観じて、実に貪る所無く、 示有妻妾采女而常遠離五欲淤泥 ・妻妾、采女(さいにょ、女官)有ることを示せども、常に五欲(ごよく、色声香味触)の汚泥を遠離し、 現於訥鈍而成就辯才總持無失 ・訥鈍(とつどん、鈍きこと)を現せども、辯才をを成就し、総持(そうじ、総て持して忘れず)して失うこと無く、 示入邪濟而以正濟度諸眾生 ・邪済(じゃさい、邪道)に入ることを示せども、以って正しく諸の衆生を済度し、 現遍入諸道而斷其因緣 ・諸の道にあまねく入ることを現せども、その因縁を断じ(影響せられず)、 現於涅槃而不斷生死。文殊師利。菩薩能如是行於非道。是為通達佛道 ・涅槃を現せども、生死を断ぜず。文殊師利、菩薩は、よくかくの如く、非道を行ず、これを仏道に通達すと為す。』と。

如来の種

於是維摩詰問文殊師利。何等為如來種  ・ここに於いて維摩詰、文殊師利に問わく、『何等をか如来の種と為す。』 文殊師利言。有身為種 ・文殊師利言わく、『身(身見)有るは、為(これ)種なり。 無明有愛為種 ・無明の愛(渇愛)有るは、これ種なり。 貪恚癡為種 ・貪恚癡は、これ種なり。 四顛倒為種 ・四顛倒(してんどう、常楽我浄、顛倒せる妄想、即ち苦を楽と計り、無常を常と計り、無我を我と計り、不浄を浄と計ること)は、これ種なり。 五蓋為種 ・五蓋(ごがい、五つの本心を覆うもの、即ち貪欲、瞋恚、睡眠(心昏く身重し)、掉悔(とうかい、心が躁鬱すること)、疑(無決断))は、これ種なり。 六入為種 ・六入(ろくにゅう、眼耳鼻舌身意の六根)は、これ種なり。 七識處為種 ・七識処(しちしきじょ、七識住、衆生の心識がそこに住むことを楽う所、即ち欲界の人天、初禅、二禅、三禅、空処、識処、無所有処)は、これ種なり。 八邪法為種 ・八邪法(はちじゃほう、八正道の逆、即ち邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪精進、邪定、邪念、邪命)は、これ種なり。 九惱處為種 ・九悩処(くのうじょ、仏が受けた九つの災難)は、これ種なり。 十不善道為種 ・十不善道(殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見)は、これ種なり。 以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種 ・ 曰何謂也 ・曰く、『何の謂いぞや。』 要を以ってこれを言えば、六十二見(断見常見の二見を本に過去現在未来の色受想行識に対して起こる所の六十二種の妄見)は、これ種なり。』 答曰。若見無為入正位者。不能復發阿耨多羅三藐三菩提心。譬如高原陸地不生蓮華卑濕淤泥乃生此華。如是見無為法入正位者。終不復能生於佛法。煩惱泥中乃有眾生起佛法耳 ・答えて曰く、『もし無為を見て正位に入る者(声聞辟支仏の如き者)は、また阿耨多羅三藐三菩提心を発すこと能わず。譬えば、(清々しき)高原の陸地には蓮華は生ぜず、卑湿(ひしつ)の汚泥なれば、すなわちこの華を生ず。かくの如く、無為法を見て正位に入る者は、ついにまた仏法を生ずること能わず。煩悩の泥中に、すなわち衆生の仏法を起こすもの有るのみ。 又如殖種於空終不得生。糞壤之地乃能滋茂。如是入無為正位者不生佛法。起於我見如須彌山。猶能發于阿耨多羅三藐三菩提心生佛法矣 ・また、空に於いて種を植えるに、ついに生ずることを得ず。糞壌の地には、すなわちよく滋茂するが如し。かくの如く、無為の正位に入る者は仏法を生ぜず、我見を起こすこと須弥山の如く(高大)なるものも、なおよく阿耨多羅三藐三菩提心を発し、仏法を生ず。 是故當知一切煩惱為如來種。譬如不下巨海不能得無價寶珠。如是不入煩惱大海。則不能得一切智寶 ・この故に、まさに知るべし、一切の煩悩は、これ如来の種なりと。譬えば、巨海に下らざれば、無価の宝珠(価の付けようがない高貴なる真珠)を得ること能わざるが如し。かくの如く、煩悩の大海に入らざれば、すなわち一切智の宝を得ること能わず。』と。 爾時大迦葉歎言。善哉善哉文殊師利。快說此語誠如所言。塵勞之疇為如來種。我等今者不復堪任發阿耨多羅三藐三菩提心。乃至五無間罪。猶能發意生於佛法。而今我等永不能發 ・その時、大迦葉歎じて言わく、『善哉善哉、文殊師利、快くこの語を説くこと、誠に言う所の如し。塵労(じんろう、煩悩)の疇(たぐい、トモガラ)を如来の種と為すとは、我等は今は、また阿耨多羅三藐三菩提心を発すに堪任(たんにん、タエル)せず。すなわち五無間罪(ごむげんざい、無間地獄に堕ちる罪)に至るすら、なおよく意を発して仏法を生ずれども、今の我等は永く(永久に)発すこと能わず。 譬如根敗之士其於五欲不能復利。如是聲聞諸結斷者。於佛法中無所復益永不志願。是故文殊師利。凡夫於佛法有返復。而聲聞無也 ・譬えば、根敗(こんぱい、眼耳鼻舌身の敗壊したる)の士(声聞辟支仏等)の、それ五欲(色声香味触)に於いて、また利する(利益する)こと能わざるが如し。かくの如く、声聞の諸結(種々の煩悩)を断じたる者も、仏法の中に於いて、また益(利益)する所無く、永く志願せず。この故に、文殊師利、凡夫は仏法に於いて返復(へんぷく、復帰)すること有れども、声聞には無きなり。 所以者何。凡夫聞佛法能起無上道心不斷三寶。正使聲聞終身聞佛法力無畏等。永不能發無上道意 ・所以(ゆえ)は何(いかん)となれば、凡夫は、仏法を聞かば、よく無上道を起こして、心に三宝(さんぽう、仏法僧)断ぜず。(されど)まさに声聞をして、身を終るまで、仏法の力、無畏等を聞かしめれど、永く無上道の意(こころ)を発すこと能わず。』と。

菩薩の父母と妻子

爾時會中有菩薩名普現色身。問維摩詰言。居士。父母妻子親戚眷屬吏民知識悉為是誰。奴婢僮僕象馬車乘皆何所在 ・その時、会中のある菩薩、普現色身と名づくるもの、維摩詰に問うて言わく、『居士、父母妻子、親戚眷属(けんぞく、ミウチ)、吏民(りみん、官吏と庶民)の知識(ちしき、友人)、悉くこれ誰とか為す。奴婢僮僕、象馬車乗は、皆何れの所にか在る。』と。 於是維摩詰以偈答曰  智度菩薩母 方便以為父  一切眾導師 無不由是生  法喜以為妻 慈悲心為女  善心誠實男 畢竟空寂舍  弟子眾塵勞 隨意之所轉  道品善知識 由是成正覺  諸度法等侶 四攝為伎女  歌詠誦法言 以此為音樂  總持之園苑 無漏法林樹  覺意淨妙華 解脫智慧果  八解之浴池 定水湛然滿  布以七淨華 浴此無垢人  象馬五通馳 大乘以為車  調御以一心 遊於八正路  相具以嚴容 眾好飾其姿  慚愧之上服 深心為華鬘  富有七財寶 教授以滋息  如所說修行 迴向為大利  四禪為床座 從於淨命生  多聞增智慧 以為自覺音  甘露法之食 解脫味為漿  淨心以澡浴 戒品為塗香  摧滅煩惱賊 勇健無能踰  降伏四種魔 勝幡建道場  雖知無起滅 示彼故有生  悉現諸國土 如日無不見  供養於十方 無量億如來  諸佛及己身 無有分別想  雖知諸佛國 及與眾生空  而常修淨土 教化於群生  諸有眾生類 形聲及威儀  無畏力菩薩 一時能盡現  覺知眾魔事 而示隨其行  以善方便智 隨意皆能現  或示老病死 成就諸群生  了知如幻化 通達無有礙  或現劫盡燒 天地皆洞然  眾人有常想 照令知無常  無數億眾生 俱來請菩薩  一時到其舍 化令向佛道  經書禁咒術 工巧諸伎藝  盡現行此事 饒益諸群生  世間眾道法 悉於中出家  因以解人惑 而不墮邪見  或作日月天 梵王世界主  或時作地水 或復作風火  劫中有疾疫 現作諸藥草  若有服之者 除病消眾毒  劫中有飢饉 現身作飲食  先救彼飢渴 卻以法語人  劫中有刀兵 為之起慈心  化彼諸眾生 令住無諍地  若有大戰陣 立之以等力  菩薩現威勢 降伏使和安  一切國土中 諸有地獄處  輒往到于彼 勉濟其苦惱  一切國土中 畜生相食噉  皆現生於彼 為之作利益  示受於五欲 亦復現行禪  令魔心憒亂 不能得其便  火中生蓮華 是可謂希有  在欲而行禪 希有亦如是  或現作婬女 引諸好色者  先以欲鉤牽 後令入佛道  或為邑中主 或作商人導  國師及大臣 以祐利眾生  諸有貧窮者 現作無盡藏  因以勸導之 令發菩提心  我心憍慢者 為現大力士  消伏諸貢高 令住無上道  其有恐懼眾 居前而慰安  先施以無畏 後令發道心  或現離婬欲 為五通仙人  開導諸群生 令住戒忍慈  見須供事者 現為作僮僕  既悅可其意 乃發以道心  隨彼之所須 得入於佛道  以善方便力 皆能給足之  如是道無量 所行無有涯  智慧無邊際 度脫無數眾  假令一切佛 於無量億劫  讚歎其功德 猶尚不能盡  誰聞如是法 不發菩提心  除彼不肖人 癡冥無智者 ・ここに於いて維摩詰、偈を以って答えて曰く、 「智度(ちど、般若波羅蜜)は菩薩の母なり、方便を以って父と為す、  一切衆(衆生)の導師、これに由りて生ぜざるは無し。  法喜を以って妻と為し、慈悲心を女と為し、  善心誠実は男なり、畢竟空寂は舎なり。  弟子は衆の塵労(じんろう、煩悩)なり、意の転ずる所に随う、  道品(どうほん、修道の品目)は善知識なり、これに由りて正覚を成ず。  諸度(ど、六波羅蜜)は法の等侶にして、四摂(ししょう、布施愛語利行同事)を妓女と為し、  歌詠して法言を誦し、これを以って音楽と為す。  総持(そうじ、無忘失法)の園苑、無漏法(むろほう、真如)の林樹、  覚意の浄妙華、解脱智慧の果あり。  八解(脱)の浴池には、定水湛然(たんねん、タタウ)として満てり、  布くに七浄花を以ってし、この無垢の人を浴す。  五通を象馬として馳せ、大乗を以って車と為し、  調御するに一心を以ってし、八正(道)の路に遊ぶ。  相(三十二相)具以って容(かたち)を厳り、衆好(こう、八十種好)もてその姿を飾り、  慚愧(ざんき、ハヅルコト)の上服、深心を華鬘(けまん、髪飾り)と為す。  七財宝(信戒慚愧聞施慧)を富有して、教授して以って滋息(じそく、利息)し、  所説の如く修行して、廻向するを大利と為す。  四禅(四種の禅定)を牀座と為し、浄命より生じ、  多聞もて智慧を増し、以って自覚の音を為す。  甘露の法の食、解脱の味を漿と為し、  浄心を以って澡浴し、戒品を塗香と為す。  煩悩の賊を摧滅し、勇健にして能く踰ゆる無く、  四種の魔(五陰煩悩天魔死魔)を降伏して、勝幡を道場に建つ。  起滅(生滅)無きことを知れども、彼に示すが故に生有り、  悉く諸の国土を現ずること、日の見ざる無きが如し。  十方の無量億の如来を供養すれども、  諸仏及び己が身、分別の想有ること無し。  諸仏の国及び衆生の空なることを知ると雖も、  常に浄土を修して、群生(ぐんしょう、衆生)を教化す、  諸の有らゆる衆生の類、形声及び威儀を、  無畏力の菩薩は、一時に能く尽く現ず。  衆魔の事を覚知して、その行に随うことを示せども、  善方便の智を以って、意に随って皆能く現ず。  或は老病死を示して、諸の群生を成就し、  幻化の如くなることを了知して、通達して礙有ること無し。  或は劫尽きて焼け、天地皆洞然(どうねん、ウツロ)たることを現じて、  衆の人の常想有るに、照らして無常を知らしむ。  無数億の衆生、倶に来たりて菩薩を請ずれば、  一時にその舎に到りて、化して仏道に向かわしむ。  経書禁呪(ごんじゅ、マジナイ)の術、工巧(くぎょう、手わざ)諸の技芸、  尽くこの事を行ずることを現じて、諸の群生を饒益(にょうやく、利益)す。  世間の衆の道法の、悉く中に於いて出家すれども、  因りて以って人の惑いを解きて、邪見に堕ちしめず。  或は日月天と作り、梵王世界主となり、  或る時には地水と作り、或は復た風火と作る。  劫中に疾疫有れば、現じて諸の薬草と作る、  これを服する者有れば、病を除き衆毒を消す。  劫中に飢饉有れば、身を現じて飲食と作り、  先ず彼れの飢渇を救い、却って法を以って人に語る。  劫中に刀兵有れば、これが為に慈心を起こし、  彼の諸の衆生を化して、無諍の地に住せしむ。  もし大戦陣有れば、ここに立ちて等力を以(も)ちい、  菩薩、威勢を現じ、降伏して和安ならしむ。  一切の国土の中の、諸の有らゆる地獄の処には、  輒(たちま)ち往きて彼(かしこ)に到り、勉めてその苦悩を済う。  一切の国土の中に、畜生相い食噉(じきたん)すれば、  皆彼に生ずることを現じ、これが為に利益を作す。  五欲を受くるを示し、亦た復た禅を行ずるを示し、  魔の心をして憒乱(けらん、ミダス)し、その便りを得ること能わざらしむ。  火中に蓮華を生ずるは、これ希有なりと謂うべし、  欲に在りて禅を行ず、希有なること亦た是の如し。  或は現じて婬女と作り、諸の色を好む者を引くに、  先ず欲の鉤を以って牽き、後に仏道に入らしむ。  或は邑中の主と為り、或は商人の導と作り、  国師及び大臣と作り、以って衆生を祐利す。  諸の貧窮なる者有れば、現じて無尽蔵と作り、  因りて以ってこれを勧導して、菩提心を発さしむ。  我心憍慢の者には、為に大力士を現じ、  諸の貢高を消伏して、無上道に住せしむ。  その恐懼(くく)有るものには、前に居りて慰安し、  先ず施すに無畏を以ってし、後に道心を発さしむ。  或は婬欲を離るるを現じ、五通仙人と為り、  諸の群生を開導し、戒忍慈に住せしむ。  供を須むる者を見ては、現じて為に僮僕と作り、  既にその意を悦可して、乃ち発すに道心を以ってせしむ。  彼の須むる所に随い、仏道に入るを得しめ、  善方便力を以って、皆能く給足す。  是の如く道は無量にして、行う所は涯有ること無く、  智慧は辺際無く、無数の衆を度脱す。  たとい一切の仏、無数億劫に於いて、  その功徳を讃嘆すとも、なお尽くすこと能わじ。  誰か是の如き法を聞いて、菩提心を発さざらん、  彼の不肖の人と、癡冥無智なる者とを除く。」と。

入不二法門品第九

入不二法門品第九 ・入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん)第九

不二法門に入る

爾時維摩詰。謂眾菩薩言。諸仁者。云何菩薩入不二法門。各隨所樂說之 ・その時、維摩詰、衆の菩薩に謂って言わく、『諸仁者、云何が菩薩は不二法門(ふにほうもん)に入る。各々楽う所に随って、これを説け。』 會中有菩薩名法自在。說言。諸仁者。生滅為二。法本不生今則無滅。得此無生法忍。是為入不二法門 ・会中の有る菩薩、法自在と名づくるもの、説いて言わく、『諸仁者、生滅を二と為す。法は本より不生なれば、今すなわち滅すること無し。この無生法忍(不退転の位)を得ること、これを不二法門に入ると為す。』と。 德守菩薩曰。我我所為二。因有我故便有我所。若無有我則無我所。是為入不二法門 ・徳守菩薩曰く、『我(ワレ)と我所(ワガモノ)とを二と為す。我有るに因るが故に、すなわち我所有り。もし我有ること無ければ、すなわち我所も有ること無し。これを不二法門に入ると為す。』と。 不眴菩薩曰。受不受為二。若法不受則不可得。以不可得故無取無捨無作無行。是為入不二法門 ・不眴菩薩(ふげんぼさつ)曰く、『受(じゅ、相を取る)と不受とを二と為す。もし法を受けざれば、すなわち不可得(ふかとく、識別できない)なり。不可得なるを以っての故に、取ること無く、捨てること無く、作すこと無く、行うこと無し。これを不二法門に入ると為す。』と。 德頂菩薩曰。垢淨為二。見垢實性則無淨相順於滅相。是為入不二法門 ・徳頂菩薩曰く、『垢(く、煩悩)と浄(じょう、煩悩が無いこと)とを二と為す。垢の実性を見れば、すなわち浄相(煩悩が無くなること)無けれども、滅相(寂滅、真如の実相)に順ず。これを不二法門に入ると為す。』と。 善宿菩薩曰。是動是念為二。不動則無念。無念則無分別。通達此者。是為入不二法門 ・善宿菩薩曰く、『これ動(どう、惑心微かに起こること)、これ念(ねん、相を取りて深く執著すること)を二と為す。動かざれば、すなわち念無く、念無ければ、すなわち分別することも無し。これに通達する者、これを不二法門に入ると為す。』と。 善眼菩薩曰。一相無相為二。若知一相即是無相。亦不取無相入於平等。是為入不二法門 ・善眼菩薩曰く、『一相(平等)と無相とを二と為す。もし一相は、すなわちこれ無相なりと知れば、また無相を取らずして、平等(一相)に入る。これを不二法門に入ると為す。』と。 妙臂菩薩曰。菩薩心聲聞心為二。觀心相空如幻化者。無菩薩心無聲聞心。是為入不二法門 ・妙臂菩薩(みょうひぼさつ)曰く、『菩薩心と声聞心とを二と為す。心相(しんそう、色等の心に映ること)の空なること幻化の如しと観ずれば、菩薩心無く声聞心も無し。これを不二法門に入ると為す。』と。 弗沙菩薩曰。善不善為二。若不起善不善。入無相際而通達者。是為入不二法門 ・弗沙菩薩(ふしゃぼさつ)曰く、『善と不善とを二と為す。もし善(心)と不善(心)とを起こさず無相の際(さい、領域)に入りて、通達する者、これを不二法門に入ると為す。』と。 師子菩薩曰。罪福為二。若達罪性則與福無異。以金剛慧決了此相無縛無解者。是為入不二法門 ・師子菩薩曰く、『罪福を二と為す。もし罪性(罪業の本性)は、すなわち福と異なり無しと達して、金剛の慧を以って、この相を決了(罪福に異なり無きことを確信)して、縛無く解無き(悩み悔ゆることなく、解脱を求むることなき)者、これを不二法門に入ると為す。』と。 師子意菩薩曰。有漏無漏為二。若得諸法等則不起漏不漏想。不著於相亦不住無相。是為入不二法門 ・師子意菩薩曰く、『有漏(うろ、煩悩)と無漏(むろ、涅槃)とを二と為す。もし諸法等しき(漏と無漏と皆一相平等なり)を得れば、すなわち漏と不漏(無漏)の想を起こさず、相に於いても著せず、また無相(空)に住せず。これを不二法門に入ると為す。』と。 淨解菩薩曰。有為無為為二。若離一切數則心如虛空。以清淨慧無所礙者。是為入不二法門 ・浄解菩薩曰く、『有為(うい、衆生)と無為(むい、法身)とを二と為す。もし一切の数(すう、分別計略)を離るれば、すなわち心は虚空の如し、清浄の慧(平等大智)を以って礙(さ)うる所無き者、これを不二法門に入ると為す。』と。 那羅延菩薩曰。世間出世間為二。世間性空即是出世間。於其中不入不出不溢不散。是為入不二法門 ・那羅延菩薩(ならえんぼさつ)曰く、『世間と出世間とを二と為す。世間の性は空なれば、すなわちこれ出世間なり。その中に於いて、入らず出でず(生死なく)、溢れず散ぜず(行業因縁なし)。これを不二法門に入ると為す。』と。 善意菩薩曰。生死涅槃為二。若見生死性則無生死。無縛無解不生不滅。如是解者。是為入不二法門 ・善意菩薩曰く、『生死と涅槃とを二と為す。もし生死の性を見れば、すなわち生死無く、縛も無く解も無く、不生不滅なり。かくの如く解する者、これを不二法門に入ると為す。』と。 現見菩薩曰。盡不盡為二。法若究竟盡若不盡皆是無盡相。無盡相即是空。空則無有盡不盡相。如是入者。是為入不二法門 ・現見菩薩曰く、『尽と不尽とを二と為す。法、もしくは究竟して尽くるも、もしくは尽きざるも、皆これ尽くる相無し。尽くる相無ければ、すなわちこれ空なり。空とは、すなわち尽くると尽きざるの相有ること無し。かくの如く入る者、これを不二法門に入ると為す(法は、これ有為と見れば尽き、これ無為と見れば尽きず。有為と無為の相を離るるを空と為す)。』と。 普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我實性者不復起二。是為入不二法門 ・普守菩薩曰く、『我と無我とを二と為す。我すら、なお不可得なり、非我(無我)、何ぞ得べき。我の実の性を見る者は、また(我と無我の)二を起こさず。これを不二法門に入ると為す。』と。 電天菩薩曰。明無明為二。無明實性即是明。明亦不可取離一切數。於其中平等無二者。是為入不二法門 ・電天菩薩曰く、『明と無明とを二と為す。無明の実の性は、すなわちこれ明なり。明もまた取るべからず。一切の数(すう、分別、ハカライ)を離れて、その中に平等にして無二なる者、これを不二法門に入ると為す(無明とは癡冥なり、明は智明なれども、なお有為法を離れず)。』と。 喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門 ・喜見菩薩曰く、『色と色空とを二と為す。色とは、すなわちこれ空なり、色滅して、(然る後に)空となるに非ず。色の性は自ずから空なり。かくの如く、受想行識と(受想行)識空とを二と為す。識とは、すなわちこれ空なり、識滅して、(然る後に)空となるに非ず。識の性は自ずから空なり。その中に於いて通達する者、これを不二法門に入ると為す。』と。 明相菩薩曰。四種異空種異為二。四種性即是空種性。如前際後際空故中際亦空。若能如是知諸種性者。是為入不二法門 ・明相菩薩曰く、『四種(地水火風の四大)の異(い、特徴)と空種(空大)の異とを二と為す。四種の性とは、すなわちこれ空種の性なり。(衆生の)前際(ぜんさい、過去世)と後際(ごさい、未来世)と空なるが故に、中際(ちゅうさい、現在世)もまた空なるが如し。もしかくの如く、諸種の性を知る者、これを不二法門に入ると為す(四大は衆生を生ずる所の最大の因縁なれども、衆生にして空なれば、四大もまた空なり)。』と。 妙意菩薩曰。眼色為二。若知眼性於色不貪不恚不癡。是名寂滅。如是耳聲鼻香舌味身觸意法為二。若知意性於法不貪不恚不癡。是名寂滅。安住其中。是為入不二法門 ・妙意菩薩曰く、『眼と色とを二と為す。もし眼の性は、色に於いて、貪らず恚(いか)らず癡(おろか)ならずと知らば、これを寂滅(涅槃)と名づく。かくの如く、耳と声と、鼻と香と、舌と味と、身と触と、意と法とを二と為す。もし意の性は、法に於いて、貪らず恚らず癡ならずと知らば、これを寂滅と名づけ、その中に安住すること、これを不二法門に入ると為す。』と。 無盡意菩薩曰。布施迴向一切智為二。布施性即是迴向一切智性。如是持戒忍辱精進禪定智慧。迴向一切智為二。智慧性即是迴向一切智性。於其中入一相者。是為入不二法門 ・無尽意菩薩曰く、『布施と(仏の)一切智に廻向(えこう、善根を特定の果報に振り向ける)するとを二と為す。布施の性は、すなわちこれ一切智に廻向するの性なり。かくの如く、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と、一切智に廻向するとを二と為す。智慧の性は、すなわちこれ一切智に廻向するの性なり。その中に於いて、一相に入る者(六波羅蜜は因、一切智に廻向するは果、因果同性なることを悟れば、即ち一相に入る)、これを不二法門に入ると為す。』と。 深慧菩薩曰。是空是無相是無作為二。空即無相無相即無作。若空無相無作則無心意識。於一解脫門即是三解脫門者。是為入不二法門 ・深慧菩薩曰く、『これ空(我ナシ)と、これ無相(我ガ身心ナシ)と、これ無作(我ガ行ズル因縁ナシ)とを二と為す。空は、すなわち無相。無相は、すなわち無作なり。もし空無相無作なれば、すなわち心意識無し。一解脱門に於いて、すなわちこれ三解脱門なる者、これを不二法門に入ると為す。』と。 寂根菩薩曰。佛法眾為二。佛即是法法即是眾。是三寶皆無為相與虛空等。一切法亦爾。能隨此行者。是為入不二法門 ・寂根菩薩曰く、『仏と法と衆(僧)とを二と為す。仏は、すなわちこれ法。法は、すなわちこれ衆なり。この三宝は、皆無為の相にして、虚空と等し。一切の法もまた爾(しか)り。よくここに随うて行ずる者、これを不二法門に入ると為す。』と。 心無礙菩薩曰。身身滅為二。身即是身滅。所以者何。見身實相者不起見身及見滅身。身與滅身無二無分別。於其中不驚不懼者。是為入不二法門 ・心無礙菩薩曰く、身(五陰)と身滅(涅槃)とを二と為す。身とは、すなわちこれ身滅なり(本来不生不滅なり)。所以は何となれば、身の実の相を見る者は、身を見ること、および滅身を見ることを起こさず。身と滅身とは、二無く分別無し。その中に於いて、驚かず懼(おそ)れざる者、これを不二法門と為す。』と。 上善菩薩曰。身口意善為二。是三業皆無作相。身無作相即口無作相。口無作相即意無作相。是三業無作相即一切法無作相。能如是隨無作慧者。是為入不二法門 ・上善菩薩曰く、『身口意の業を二と為す。この三業は、皆作相(行為して他に因縁すること)無し。身に作相無ければ、すなわち口に作相無し。口に作相無ければ、すなわち意に作相無し。この三業に作相無ければ、すなわち一切の法に作相無し。よくかくの如く、無作の慧に随う者、これを不二法門に入ると為す。』と。 福田菩薩曰。福行罪行不動行為二。三行實性即是空。空則無福行無罪行無不動行。於此三行而不起者。是為入不二法門 ・福田菩薩曰く、福行と罪行と不動行(福にも罪にも非ざる行)とを二と為す。三行の実の性は、すなわちこれ空なり。空は、すなわち福行無く、罪行無く、不動行無し。この三行に於いて、起こさざる者、これを不二法門と為す。』と。 華嚴菩薩曰。從我起二為二。見我實相者不起二法。若不住二法則無有識。無所識者。是為入不二法門 ・華厳菩薩曰く、『我(が、ワレアリ)に従り、二(我と彼)を起こすを二と為す。我の実の相を見る者は、二法を起こさず。もし二法に住せざれば、すなわち識ること(認識)有ること無し。識る所の無き者、これを不二法門に入ると為す。』と。 德藏菩薩曰。有所得相為二。若無所得則無取捨。無取捨者。是為入不二法門 ・徳蔵菩薩曰く、『得る所の相(我相と彼相)を二と為す。得る所(分別)無ければ、すなわち取捨無し。取捨無き者、これを不二法門と為す。』と。 月上菩薩曰。闇與明為二。無闇無明則無有二。所以者何。如入滅受想定無闇無明一切法相亦復如是。於其中平等入者。是為入不二法門 ・月上菩薩曰く、『闇と明とを二と為す。闇無く明無ければ、すなわち二有ること無し。所以は何となれば、受想を滅する定に入れば、闇無く明無きが如し。一切の法相もまた、またかくの如し。その中に於いて、平等にして入る者、これを不二法門に入ると為す。』と。 寶印手菩薩曰。樂涅槃不樂世間為二。若不樂涅槃不厭世間則無有二。所以者何。若有縛則有解。若本無縛其誰求解。無縛無解則無樂厭。是為入不二法門 ・宝印手菩薩曰く、涅槃を楽(ねが)うと、世間を楽わざるとを二と為す。もし涅槃を楽わず、世間を厭わざれば、すなわち二有ること無し。所以は何となれば、もし縛(繫縛)有らば解(解脱)有り。もし本より縛無くんば、それ誰か解を求むる。縛無く解無ければ、すなわち楽うと厭うも無し。これを不二法門と為す。』と。 珠頂王菩薩曰。正道邪道為二。住正道者則不分別是邪是正。離此二者。是為入不二法門 ・珠頂王菩薩曰く、『正道と邪道とを二と為す。正道に住すれば、すなわちこれ邪、これ正と分別せず。この二を離るる者、これを不二法門と為す。』と。 樂實菩薩曰。實不實為二。實見者尚不見實何況非實。所以者何。非肉眼所見慧眼乃能見。而此慧眼無見無不見。是為入不二法門 ・楽実菩薩(ぎょうじつぼさつ)曰く、『実と不実とを二と為す。実に見る者も、なお実をすら見ず、何をか況や実に非ざるものをや。所以は何となれば、肉眼(にくげん、肉体付属の眼)の見る所に非ず、慧眼(えげん、よく空相を見る智慧の眼)なれば、すなわちよく見る。しかれども、この慧眼は見ること無く、見ざること無し。これを不二法門と為す。』と。 如是諸菩薩各各說已。問文殊師利。何等是菩薩入不二法門 ・かくの如く、諸の菩薩は、各々説きおわりて、文殊師利に問わく、『何等かこれ菩薩、不二法門に入る。』と。

文殊師利、不二法門を説く

文殊師利曰。如我意者。於一切法無言無說。無示無識離諸問答是為入不二法門 ・文殊師利曰く、『我が意の如きは、一切の法に於いて、言うこと無く、説くこと無く、示すこと無く、識ること無し。諸の問答を離るる、これを不二法門に入ると為す。』と。 於是文殊師利。問維摩詰。我等各自說已。仁者當說。何等是菩薩入不二法門 ・ここに於いて文殊師利、維摩詰に問わく、『我等、おのおの自ら説きおわりぬ。仁者、まさに説くべし。何等かこれ菩薩、不二法門に入る。』と。 時維摩詰默然無言 ・時に維摩詰黙然として言無し。 文殊師利歎曰。善哉善哉。乃至無有文字語言。是真入不二法門 ・文殊師利歎じて曰く、『善哉善哉、すなわち文字言語の有ること無きに至る。これ真の不二法門なり。』と。 說是入不二法門品時。於此眾中五千菩薩。皆入不二法門得無生法忍 ・この不二法門品を説く時、この衆中に於いて五千の菩薩、皆不二法門に入りて無生法忍を得たり。 維摩詰所說經卷中 ・維摩詰所説経 巻の中

引用文献


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 面白い 超訳【維摩経】

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。

「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。

【維摩経】目次
「維摩詰所説経」より

◆維摩居士、仮病を使う (方便品)

◆難色を示す仏弟子たち (弟子品)

◆ しり込みする菩薩ども (菩薩品)

◆ 文殊がゆく! (文殊師利問疾品)

◆ ミラクルパワー! (不思議品)

◆一般ピープルってどうよ? (観衆生品)

◆ ザ・ウェイ・オブ・ブッダ (仏道品)

◆相対化を超えてゆけ! (不二法門品)

◆極上のランチ (香積仏品)

◆菩薩でGO! (菩薩行品)

◆極楽を見たか? (見阿閦如来品)

◆「法」を守れ!(法供養品)

◆大団円(嘱累品)

(附録)
◆ザ・ワールド・オブ・パラダイス(仏国品)


引用文献  .



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梵漢和対照・現代語訳 維摩経 単行本 – 2011/8/27 植木 雅俊 (翻訳) 単行本: 680ページ 出版社: 岩波書店 (2011/8/27)
維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。
本書は、サンスクリット・テキスト影印版(大正大学綜合佛教研究所刊)を底本とする現代日本語訳と、綿密な校訂によるローマナイズしたサンスクリット原典テキスト、鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(漢文書き下しテキスト)を併記対照させつつ、さらに詳細な注解を施したものである。原典テキストに準拠した曖昧さを残さない正確で読みやすい訳業は、全体の半分近くを占める訳出の根拠となる綿密な注解とともに、仏典翻訳史に新たな頁を刻む画期的な達成である。

至れり尽くせりの本(事例)
『維摩経』のサンスクリット原典は既に失われているとされてきた。ところが、その写本が何と1999年に完本として発見された。本書は、その写本の影印版(2003年)を綿密に校訂し、詳細な注釈(全680頁の約半分を占める)を付して現代語訳した上で、「サンスクリット原文」、「鳩摩羅什訳」、「著者の現代語訳」を見開きで対照させるという、読者にとって極めて便利な構成で作られている。
 著者は、お茶の水女子大学に「仏教におけるジェンダー平等思想」というテーマの論文を提出し、2002年に同大で男性として初の人文科学博士の学位を取得した。そして、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店)で毎日出版文化賞に選ばれた(2008年)。まさに、サンスクリット語と仏教学の泰斗である。大学や研究機関に身を置くことはないが、大学の研究者たちの業績を遥かに凌駕する研究成果を次々に発表している。まさに、在俗でありながら十大弟子をも圧倒し、性差をも超えていた維摩居士を地で行く人というべきである。
 権威主義的な小乗仏教の女性軽視にとらわれた智慧第一の舎利弗も、天女にからかわれ、手玉にとられる。維摩詰の十大弟子に対する弾呵も手厳しいが、本書の注釈においては、過去の研究成果の矛盾点に対する著者の指弾も手厳しい。例えば、43〜46頁の長きにわたる注釈で、著者は、長尾雅人博士の一音(いっとん)説法についての無理なこじつけを槍玉にあげる。長尾氏が、「釈尊は方言で語られたが、受け取る側はそれぞれの方言で受け止めた」と解釈し、その例として「『おしん』というテレビ・ドラマが佐賀弁で話されていても全国で理解されたのと同じだ」と述べていることについて、著者は「それは全国放送なので手加減しているから理解されたのであり、鹿児島弁であったらどうなのだ」と批判する。そして、長尾氏がどうして方言にこだわられるのか、そのネタ本まで暴露している。本書の、注釈ではこのような批判が網羅されている。これまでの研究は何だったのかという思いが募る。
 古来、初めてお経を読む人に、『維摩経』はうってつけとされてきた。それには相応の理由がある。プラトンの著作が哲学である以前にドラマ(ソクラテスを主人公とする対話)として面白いのと同様、仏教経典はドラマ(主人公は世尊)としてまず面白い。別けても『維摩経』の仕掛けは無類である。経典文学の最高峰である『法華経』とならぶものである。
 インド人の想像力にはほとほと頭がさがる。一文学書として『維摩経』を捉えた時、あくまで個人的な感想であるが、その読後感はルキアノス『本当の話』に一番近い感じがした。『アラビアンナイト』や『黄金のろば』も奇想天外だが、スピードが伴わない。『維摩経』は、これらの世界文学の最高峰とならべても遜色がないのである。それが、曖昧さを残さない正確な訳文で現代に蘇った。  文学的魅力は読めば終わるが、思想を汲み取る作業は別である。ありがたいことに著者は、インド仏教史の概略、戯曲『維摩経』のあらすじ、在家の地位の歴史的変遷、積極的な利他行の原動力としての「空」――など、『維摩経』理解に欠かせない思想背景を巻末の「解説」で詳細に論じてくれている。先に「はしがき」「解説」「あとがき」に目を通してから、現代語訳の本文を読むことをお勧めしたい。
 仏教用語辞典としても使える索引の充実ぶり、梵漢和を対照させたレイアウトは、印刷業者泣かせの作業であり、サンスクリット原文の校正を考えても、5500円の定価は信じられない安さである。その“安さ”が不思議でならなかったが、「あとがき」を読んで納得した。著者自身が、コンピュータのDTP技術を駆使して完全原稿(版下)を作成していたのだ。出版社まかせでは価格が跳ね上がるだけではなく、誤植が跡を絶たない(出版社にいた経験からこのことは請け合える)。その意味でもテキストの信頼性は他を圧している。至れり尽くせりとは、この本のためにあるような言葉だ。


梵文和訳 維摩経 単行本 – 2011/1/1 高橋 尚夫 (翻訳) 西野 翠 (翻訳)単行本: 333ページ 出版社: 春秋社 (2011/1/1)
真の菩薩の生き方を鋭く初期大乗経典の『維摩経』。その梵文テキストをチベット訳や漢訳なども参照しながら、正確かつ平易な言葉で翻訳。巻末には、用語解説や梵・蔵・漢の相違点などを示した詳細な訳注を付す。


『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック 釈 徹宗 (その他) – 2017/5/25 釈 徹宗 (その他)
あらゆる枠組みを超えよ!
かの聖徳太子が日本に紹介した仏典『維摩経』。病気になった在家仏教信者・維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。この『維摩経』を現代的に読み解く面白さを、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏が解説する。


維摩経講話 (講談社学術文庫) 文庫 – 1990/3/5 鎌田 茂雄 (著)
『維摩経』は、大乗仏教の根本原理、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を最もあざやかにとらえているといわれる。迷いと悟り、理想と現実、善と悪など、全く対立するものを不二(ふに)と見なし、その不二の法門に入れば、一切の対立を超えた無対立の世界、何ものにも束縛されない自由な境地に入る。在家の信者の維摩居士が主役となって、菩薩や声聞(しょうもん)を相手に活殺自在に説法するところが維摩経の不思議な魅力といえよう。


大乗仏典〈7〉維摩経・首楞厳三昧経 (中公文庫) 文庫 – 2002/8/25 長尾 雅人 (翻訳), 丹治 昭義 (翻訳)
大金持ちの俗人維摩居士の機知とアイロニーに満ちた教えによって、空の思想を展開する一大ドラマ維摩経。人間の求道の過程において「英雄的な行進の三昧」こそ、あらゆる活動の源泉力であると力説する首楞厳三昧経。



・超訳【維摩経】・超訳【無門関】・超訳【金剛経】・超訳【夢中問答(上)】

超訳【維摩経】 超訳文庫設立の契機ともなった記念碑的作品。 初期大乗経典の傑作にして、ドタバタコントの元祖みたいな一大哲学サイキック活劇です。 気楽に読むだけで、キミも「ミラクルパワー」がゲットできる!?

超訳【無門関】 「仏」に逢ったら即、ぶっ殺せ! 「師匠」に逢ったら、やっぱりぶっ殺せ! 「親」に逢ったら? もちろんぶっ殺せ! そしてオマエは天下無敵となるのだ!! ・・・というもの凄い剣幕で語られる、48のシュールなナゾナゾたち。 快僧無門慧開の真意は何処!?

超訳【金剛経】 我らの心に平安をもたらすもの、それは「完全円満なる智慧」。 ・・・という壮大なテーマで繰り広げられる、ブッダとその弟子スブーティ(須菩提)のボケとツッコミによる究極哲学ふたり漫才! 超メジャータイトル「般若心経」と、ショートエピソード「ミラクルフラッシュ・ボーイの物語(不思議光菩薩所説経)」も同時収録! 全編とも、漢訳原典つきです!

超訳【夢中問答】(上) 「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい? 足利直義の切実な問いを受け、夢窓国師が開く「真実の法門」とは!? 室町時代のディアロゴスの軌跡が、七百年後の今に甦る!
超訳【維摩経】


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維摩経

百科事典

維摩経』 (ゆいまきょう、: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要

維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気[3]になったので、釈迦舎利弗目連迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。

  • 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
  • 般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

原典・主な訳注

主な解説講話

注・出典

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  1. ^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説説教」のこと。
  2. ^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサポタラ宮ダライ・ラマの書斎で発見された。
  3. ^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
  4. ^ 大正大学教授
  5. ^ 大正大学総合仏教研究所研究員

関連項目



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