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NHKテレビ 「100分de名著」 【維摩経】を 放送 、好評 テキスト (とらわれない、こだわらない) (古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する。)

  目次 ・維摩詰所説経巻(巻上)第一第二第三 ・(巻中)第一第二第三 ・(巻下)第一第二
      下欄に記載 ( 面白い 超訳【維摩経】)(維摩書籍)(辞典)

維摩経(巻中之第二)  とらわれない、こだわらない
    自分の枠をばらし、新たな「私」を組み立てる。

『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

維摩経動画(100分で名著1.2.3.4)他

 
①「維摩経 仏教思想の一大転換」 ②「維摩経 得意分野こそ疑え」、  維摩経義疏: 不可思議解脱経:聖徳太子 著 (島田蕃根) 「維摩経に〝今〟を学ぶ 」維摩経(動画)維摩経(YouTube)国立図書「維摩経」

(←クリック:詳細説明) (辞典)


目次 ・維摩詰所説経巻上 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻中 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻下 第一  第二
維摩詰所説経巻中(第二) 維摩経(巻中之第二) 觀眾生品第七 ・観衆生品(かんしゅじょうぼん)第七

文殊師利、衆生を問う

爾時文殊師利問維摩詰言。菩薩云何觀於眾生 ・その時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、『菩薩は、云何が衆生を観ずる。』 維摩詰言。譬如幻師見所幻人。菩薩觀眾生為若此 ・維摩詰言わく、『譬えば、幻師、所幻の人を見るが如し。菩薩の衆生を観ずることかくの若(ごと)しと為す。 如智者見水中月。如鏡中見其面像。如熱時焰。如呼聲響。如空中雲。如水聚沫。如水上泡。如芭蕉堅。如電久住。如第五大。如第六陰。如第七情。如十三入。如十九界。菩薩觀眾生為若此 ・智者の水中の月を見るが如く、鏡中にその面像を見るが如く、熱時の焔(ほのお、カゲロウ)の如く、呼ぶ声の響きの如く、空中の雲の如く、水の聚沫の如く、水上の泡の如く、芭蕉の堅き(こと無き)が如く、電(でん、イナヅマ)の久しく住するが如く、第五大(地水火風以外)の如く、第六陰(色受想行識以外)の如く、第七情(眼耳鼻舌身意以外)の如く、十三入(眼耳鼻舌身意色声香味触法以外)の如く、十九界(眼耳鼻舌身意色声香味触法眼識耳識鼻識舌識身識意識以外)の如く、菩薩の衆生を観ずるはかくの若しと為す。 如無色界色。如焦穀牙。如須陀洹身見。如阿那含入胎。如阿羅漢三毒。如得忍菩薩貪恚毀禁。如佛煩惱習。如盲者見色。如入滅盡定出入息。如空中鳥跡。如石女兒。如化人起煩惱。如夢所見已寤。如滅度者受身。如無煙之火。菩薩觀眾生為若此 ・無色界の色の如く、焦穀(しょうこく、イリゴメ)の牙(芽)の如く、須陀洹(しゅだおん、小乗の身見を除きたる位)の身見(しんけん、我が身体ありとの思い)の如く、阿那含(あなごん、小乗の再度入胎すること無きの位)の入胎の如く、阿羅漢(あらかん、小乗の三毒を除きたる位)の三毒(貪瞋癡の根本煩悩)の如く、得忍(無生忍を得たる)の菩薩の貪(貪欲)恚(瞋恚)、毀禁(ききん、戒律を破る)の如く、仏の煩悩習(ぼんのうしゅう、煩悩の余習(ナゴリ))の如く、盲者の色を見るが如く、滅尽定(めつじんじょう、六識、心、心所(しんじょ、心の働き)を滅尽する三昧)に入りて息を出入するが如く、空中の鳥跡の如く、石女(せきにょ、ウマヅメ)の児(に)の如く、化人の煩悩を起こすが如く、夢に見る所のすでに寤(さめ)たるが如く、滅度の者の身を受くるが如く、無煙の火の如く、菩薩の衆生を観ずるはかくの若しと為す。』と。

文殊師利、慈を問う

文殊師利言。若菩薩作是觀者。云何行慈 ・文殊師利言わく、『もし菩薩、この観を作さば、云何が慈を行ずる。』 維摩詰言。菩薩作是觀已自念。我當為眾生說如斯法。是即真實慈也 ・維摩詰言わく、『菩薩、この観を作しおわりて、自ら念ずらく、『我は、まさに衆生の為に、かくの如き法を説くべし。これすなわち真実の慈なり。』と。 行寂滅慈無所生故 ・寂滅(空、無相、無作)の慈を行ぜよ、生まるる所のもの無きが故に。 行不熱慈無煩惱故 ・不熱(熱悩無き)の慈を行ぜよ、煩悩無きが故に。 行等之慈等三世故 ・等(平等)の慈を行ぜよ、三世に等しきが故に。 行無諍慈無所起故 ・無諍の慈を行ぜよ、起こる所無きが故に。 行不二慈內外不合故 ・不二(自他は平等にして違い無き)の慈を行ぜよ、内外(内心外境)合せざるが故に。 行不壞慈畢竟盡故 ・不壊の慈を行ぜよ、畢竟尽くる(諸法の畢竟空なる)が故に。 行堅固慈心無毀故 ・堅固の慈を行ぜよ、心の毀(やぶ)るること無きが故に。 行清淨慈諸法性淨故 ・清浄(平等にして私心無き)の慈を行ぜよ、諸法の性は浄なる(衆生も本性は平等にして私心無し)が故に。 行無邊慈如虛空故 ・無辺の慈を行ぜよ、(衆生は)虚空の如く(無辺)なるが故に。 行阿羅漢慈破結賊故 ・阿羅漢の慈を行ぜよ、結の賊(煩悩)を破るが故に。(阿羅漢とは結賊を殺すと訳す) 行菩薩慈安眾生故 ・菩薩の慈を行ぜよ、衆生を安んずるが故に。(菩薩とは衆生を安んずと訳す) 行如來慈得如相故 ・如来の慈を行ぜよ、如の相を得るが故に。(如来とは真如の相を得と訳す) 行佛之慈覺眾生故 ・仏の慈を行ぜよ、衆生を覚らすが故に。(仏とは自覚覚他と訳す) 行自然慈無因得故 ・自然の慈を行ぜよ、無因(自然)に得るが故に。(大乗の道に師無し) 行菩提慈等一味故 ・菩提の慈を行ぜよ、等しく一味なるが故に。(菩提とは平等にして自他の区別無しと訳す) 行無等慈斷諸愛故 ・無等の慈を行ぜよ、諸愛を断ずるが故に。(無等とは平等一味なるをいう) 行大悲慈導以大乘故 ・大悲の慈を行ぜよ、導くに大乗を以ってするが故に。 行無厭慈觀空無我故 ・無厭の慈を行ぜよ、空無我を観ずるが故に。(疲厭する者無し) 行法施慈無遺惜故 ・法施の慈を行ぜよ、遺惜(いしゃく、オシムコト)無きが故に。 行持戒慈化毀禁故 ・持戒の慈を行ぜよ、毀禁(ききん、犯戒)のものを化(教化)するが故に。 行忍辱慈護彼我故 ・忍辱の慈を行ぜよ、彼と我を護るが故に。(忍辱を行う者は自他を傷けず) 行精進慈荷負眾生故 ・精進の慈を行ぜよ、衆生を荷負(かふ、ニナウ)するが故に。 行禪定慈不受味故 ・禅定の慈を行ぜよ、味(アジワイ)を受けざるが故に。(禅定により心の乱れざる者は、五欲を味わわず、また禅定の味を受けることも無し) 行智慧慈無不知時故 ・智慧の慈を行ぜよ、時を知らざること無きが故に。(時を知らずとは、行いて未だ満ぜざるに、果を求むをいう) 行方便慈一切示現故 ・方便の慈を行ぜよ、一切(の衆生の求め)に(応じて種々の相を)示現するが故に。 行無隱慈直心清淨故 ・隠すこと無き慈を行ぜよ、直心(じきしん)清浄なるが故に。 行深心慈無雜行故 ・深心(じんしん、深く信ずる)の慈を行ぜよ、雑行(ホカゴト)無きが故に。 行無誑慈不虛假故 ・誑かすこと無き慈を行ぜよ、虚仮ならざるが故に。 行安樂慈令得佛樂故。菩薩之慈為若此也 ・安楽の慈を行ぜよ、仏の楽を得しむるが故に。菩薩の慈は、かくの若しと為す。』と。

文殊師利、悲喜捨所依等を問う

文殊師利又問。何謂為悲。答曰。菩薩所作功德。皆與一切眾生共之 ・文殊師利、また問わく、『何をか謂って悲と為す。』 答えて曰く、『菩薩は、作す所の功徳を、皆一切の衆生とこれを共にす。』 何謂為喜。答曰。有所饒益歡喜無悔 ・『何をか謂って喜と為す。』 答えて曰く、『(衆生を)饒益する所有れば、歓喜して悔ゆること無し。』 何謂為捨。答曰。所作福祐無所悕望 ・『何をか謂って捨と為す。』 答えて曰く、『作す所の福祐(ふくゆう、助け)は、悕望(けもう、希望)する所無し。』 文殊師利又問。生死有畏菩薩當何所依 ・文殊師利、また問わく、『生死に畏れ有る菩薩は、まさに何(いづ)れの所にか依るべし。』 維摩詰言。菩薩於生死畏中。當依如來功德之力 ・維摩詰言わく、『菩薩は、生死の畏れの中に於いて、まさに如来の功徳の力に依るべし。』 文殊師利又問。菩薩欲依如來功德之力。當於何住。答曰。菩薩欲依如來功德力者。當住度脫一切眾生・文殊師利、また問わく、『菩薩、如来の功徳の力に依らんと欲せば、まさに何に於いてか住すべき。』 答えて曰く、『菩薩、如来の功徳の力に依らんと欲せば、まさに一切の衆生を度脱(済度して解脱せしむ)するに住すべし。』 又問。欲度眾生當何所除。答曰。欲度眾生除其煩惱 ・また問わく、『衆生を度せんと欲せば、まさに何れの所をか除くべし。』 答えて曰く、『衆生を度せんと欲せば、その煩悩を除くべし。』 又問。欲除煩惱當何所行。答曰。當行正念 ・また問わく、『煩悩を除かんと欲せば、まさに何れの所をか行ずべし。』 答えて曰く、『まさに正念を行ずべし。』 又問。云何行於正念。答曰。當行不生不滅 ・また問わく、『云何が正念に於いて行ぜん。』 答えて曰く、『まさに不生不滅を行ずべし。』 又問。何法不生何法不滅。答曰。不善不生善法不滅 ・また問わく、『何れの法か不生なる。何れの法か不滅なる。』 答えて曰く、『不善(悪法、ワルイコト)は生ぜず、善法は滅せず。』 又問。善不善孰為本。答曰身為本 ・また問わく、『善と不善は、孰(いず)れをか本と為す。』 答えて曰く、『身を本と為す。』 又問。身孰為本。答曰。欲貪為本。 ・また問わく、『身は、孰れをか本と為す。』 答えて曰く、『欲貪を本と為す(欲貪あるにより我身あるを自ら識る)。』 又問。欲貪孰為本。答曰。虛妄分別為本。 ・また問わく、『欲貪は、孰れをか本と為す。』 答えて曰く、『虚妄の分別を本と為す(虚妄の分別により自他の区別を識る)。』 又問。欲貪孰為本。答曰。虛妄分別為本。 ・また問わく、『欲貪は、孰れをか本と為す。』 答えて曰く、『虚妄の分別を本と為す(虚妄の分別により自他の区別を識る)。』 又問。虛妄分別孰為本。答曰。顛倒想為本。 ・また問わく、『虚妄の分別は、孰れをか本と為す。』 答えて曰く、『顛倒の想(我有りとの思い)を本と為す。』 又問。顛倒想孰為本。答曰。無住為本。 ・また問わく、『顛倒の想は、孰れをか本と為す。』 答えて曰く、『(心の)住すること無きを本と為す。』 又問。無住孰為本。答曰。無住則無本。文殊師利。從無住本立一切法 ・また問わく、『住すること無きとは、孰れをか本と為す。』 答えて曰く、『住すること無ければ、すなわち本無し。文殊師利、住すること無き(心)の本に従り、一切の法を立つ。』

天女、舍利弗に教える

時維摩詰室有一天女。見諸大人聞所說法便現其身。即以天華散諸菩薩大弟子上。華至諸菩薩即皆墮落。至大弟子便著不墮。一切弟子神力去華不能令去 ・時に、維摩詰が室に一(ひとり)の天女有り。諸の大人(菩薩)を見、所説の法を聞きて、すなわちその身を現し、すなわち天華を以って、諸の菩薩、大弟子の上に散(ま)く。華は、諸の菩薩に至りては、すなわち皆堕落し、大弟子に至りては、すなわち著いて堕ちず。一切の弟子、神力もて華を去らんとすれども、去らしむること能わず。 爾時天女問舍利弗。何故去華 ・その時、天女は、舍利弗に問わく、『何が故に華を去る。』 答曰。此華不如法是以去之 ・答えて曰く、『この華は、如法ならず。ここを以ってこれを去る(香華を以って身を飾るは沙門の法に非ず)。』 天曰。勿謂此華為不如法。所以者何。是華無所分別。仁者自生分別想耳 ・天曰く、『この華を謂って、如法ならずと為すことなかれ。所以は何となれば、この華は、(如法不如法の)分別する所なし。仁者(にんじゃ、アナタハ)、自ら分別の想を生ずるのみ。 若於佛法出家有所分別為不如法。若無所分別是則如法。觀諸菩薩華不著者已斷一切分別想故 ・もし仏法に於いて出家して、分別する所有らば、如法ならずと為す。もし、分別する所無くば、これすなわち如法なり。諸の菩薩を観るに、華の著かざるは、すでに一切の分別の想を断ずるが故なり。 譬如人畏時非人得其便。如是弟子畏生死故。色聲香味觸得其便也。已離畏者一切五欲無能為也。結習未盡華著身耳。結習盡者華不著也 ・譬えば、人の畏るる時には、非人(鬼神)もその便(たより、便宜)を得るが如く、かくの如き弟子も、生死を畏るるが故に、色声香味触もその便を得るなり。すでに畏れを離れたれば、一切の五欲もよく為すこと無し。結習(けつじゅう、五欲の余習(ナゴリ))、未だ尽きざれば、華身に著くのみ。結習尽くれば、華は著かざるなり。』 舍利弗言。天止此室其已久如。 ・舍利弗言わく、『天、この室に止まること、それすでに久しきか。』 答曰。我止此室如耆年解脫。舍利弗言。止此久耶。 ・答えて曰く、『我、この室に止まること、耆年(ぎねん、高僧に対する呼びかけ)の解脱の如し。』舍利弗言わく、『ここに止まりて久しきや。』 天曰。耆年解脫亦何如久。舍利弗默然不答。 ・天曰く、『耆年が解脱も、また何如が久しき。』 舍利弗、黙然として答えず。 天曰。如何耆舊大智而默。答曰。解脫者無所言說故吾於是不知所云 ・天曰く、『如何が耆旧(ぎきゅう、耆年に同じ)、大智ありて、しかも黙する。』。 答えて曰く、『解脱とは、言説する所無きが故に、吾はここに於いて云(い)う所を知らず。』 天曰。言說文字皆解脫相。所以者何。解脫者不內不外不在兩間。文字亦不內不外不在兩間 ・天曰く、『言説も文字も、皆解脱の相あり。所以は何となれば、解脱とは、内にあらず外にあらず両の間に在らず。文字も、また内にあらず外にあらず両の間に在らざればなり。 是故舍利弗。無離文字說解脫也。所以者何。一切諸法是解脫相 ・この故に舍利弗、文字を離れて解脱を説くこと無し。所以は何となれば、一切の諸法は、これ解脱の相なればなり。』 舍利弗言。不復以離婬怒癡為解脫乎 ・舍利弗言わく、『また婬怒癡(いんぬち、貪瞋癡)を離るることを以って解脱と為さずや。』 天曰。佛為增上慢人。說離婬怒癡為解脫耳。若無增上慢者。佛說婬怒癡性即是解脫 ・天曰く、『仏、増上慢(ぞうじょうまん、我覚れりと慢心すること)の人の為に、婬怒癡を離るるを解脱と為すと説きたもうのみ。もし増上慢無ければ、仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱なりと説きたもう。』 舍利弗言。善哉善哉。天女。汝何所得以何為證辯乃如是 ・舍利弗言わく、『善哉善哉(ぜんざい、ヨキカナ)、天女、汝は、何の得る所あり、何を以ってか証(証悟)と為して、辯(辯才)すなわちかくの如き。』 天曰。我無得無證故辯如是。所以者何。若有得有證者即於佛法為增上慢 ・天曰く、『我は、得ること無く証すること無きが故に、辯かくの如し。所以は何となれば、もし得ること有りて証すること有らば、すなわち仏法に於いて増上慢と為す。』 舍利弗問天。汝於三乘為何志求 ・舍利弗、天に問わく、『汝、三乗(声聞乗、辟支仏乗、大乗)に於いて、何の志求をか為す。』 天曰。以聲聞法化眾生故我為聲聞。以因緣法化眾生故我為辟支佛。以大悲法化眾生故我為大乘 ・天曰く、『声聞の法を以って衆生を化(教化)するが故に、我は声聞と為り、因縁の法(十二因縁)を以って衆生を化するが故に、我は辟支仏と為り、大悲の法を以って衆生を化するが故に、我は大乗と為る。 舍利弗。如人入瞻蔔林唯嗅瞻蔔不嗅餘香。如是若入此室。但聞佛功德之香。不樂聞聲聞辟支佛功德香也 ・舍利弗、人の瞻蔔林(せんぷくりん、香木の林)に入りて、ただ瞻蔔を嗅ぎて余香を嗅がざるが如し。かくの如く、もしこの室に入らば、ただ仏の功徳の香(か)を聞いて、声聞辟支仏の功徳の香を聞くことを楽(ねが)わず。 舍利弗。其有釋梵四天王諸天龍鬼神等入此室者。聞斯上人講說正法。皆樂佛功德之香發心而出 ・舍利弗、その釈(帝釈)梵(梵天)四天王、諸の天龍、鬼神等も、この室に入らば、この上人(しょうにん、菩薩)の正法を講説するを聞いて、皆仏の功徳の香を楽い、心(阿耨多羅三藐三菩提心)を発して(世間(一切の生死)を)出づ。 舍利弗。吾止此室十有二年。初不聞說聲聞辟支佛法。但聞菩薩大慈大悲不可思議諸佛之法 ・舍利弗、我は、この室に止まること十有二年、初めて声聞辟支仏の法を説くを聞かず、ただ菩薩の大慈大悲、不可思議なる諸仏の法を聞くのみ。 舍利弗。此室常現八未曾有難得之法 ・舍利弗、この室は、常に八の未曽有難得の法を現す。 何等為八。此室常以金色光照晝夜無異。不以日月所照為明。是為一未曾有難得之法 ・何等をか八と為す。この室は、金色の光を以って照らし、昼夜に異なり無し。日月の照らす所を以ってしても、明(あかる)しと為さず。これを、一の未曽有難得の法と為す。 此室入者不為諸垢之所惱也。是為二未曾有難得之法 ・この室に入る者は、諸垢の為に悩まされず。これを、二の未曽有難得の法と為す。 此室常有釋梵四天王他方菩薩來會不絕。是為三未曾有難得之法 ・この室には、常に釈梵四天王、他方の菩薩来会する有りて絶えず。これを、三の未曽有難得の法と為す。 此室常有釋梵四天王他方菩薩來會不絕。是為三未曾有難得之法 ・この室には、常に釈梵四天王、他方の菩薩来会する有りて絶えず。これを、三の未曽有難得の法と為す。 此室常說六波羅蜜不退轉法。是為四未曾有難得之法 ・この室には、常に六波羅蜜不退転の法を説く。これを、四の未曽有難得の法と為す。 此室常作天人第一之樂絃出無量法化之聲。是為五未曾有難得之法 ・この室には、常に天人、第一の楽(音楽)を作して、絃(いと)より無量の法化(ほうけ、法身と化身)の声を出だす。これを、五の未曽有難得の法と為す。 此室有四大藏眾寶積滿。賙窮濟乏求得無盡。是為六未曾有難得之法 ・この室には、四つの大蔵(慈悲喜捨の四無量心)有り、衆宝積満して、窮(貧窮)に賙(あた)え、乏(困乏)を済(すく)い、求め得れども尽くること無し。これを六の未曽有難得の法と為す。 此室釋迦牟尼佛.阿彌陀佛.阿[門@(人/(人*人))]佛.寶德.寶炎.寶月.寶嚴.難勝.師子響.一切利成。如是等十方無量諸佛。是上人念時。即皆為來廣說諸佛秘要法藏說已還去。是為七未曾有難得之法 ・この室には、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、阿閦仏(あしゅくぶつ)、宝徳、宝炎、宝月、宝厳、難勝、師子響、一切利成(いっさいりじょう)、かくの如き等の十方の無量の諸仏、この上人の念ずる時、すなわち為に来たりて、広く諸仏秘要の法蔵を説き、説きおわりて還り去りたもう。これを、七の未曽有難得の法と為す。 此室一切諸天嚴飾宮殿諸佛淨土皆於中現。是為八未曾有難得之法 ・この室には、一切の諸天、厳飾(ごんじき)せる宮殿、諸仏の浄土、皆中に於いて現る。これを、八の未曽有難得の法と為す。 舍利弗。此室常現八未曾有難得之法。誰有見斯不思議事。而復樂於聲聞法乎 ・舍利弗、この室は、常に八の未曽有難得の法を現す。誰か、この不思議の事を見て、また声聞の法を楽うこと有らんや。』 舍利弗言。汝何以不轉女身 ・舍利弗言わく、『汝は、何を以ってか女身を転ぜざる。』 天曰。我從十二年來。求女人相了不可得。當何所轉。譬如幻師化作幻女。若有人問何以不轉女身。是人為正問不 ・天曰く、『我は、十二年従り来(このかた)、女人の相を求めて、ついに得るべからず。まさに何の転ずる所かあるべき。譬えば、幻師の幻女を化作するが如きは、もし人の何を以ってか女身を転ぜざると問うこと有らば、この人は、正しき問いを為すや不や。』 舍利弗言。不也。幻無定相當何所轉 ・舍利弗言わく、『不(いな)なり。幻は定まれる相無し、まさに何の転ずる所かあらん。』 天曰一切諸法亦復如是無有定相。云何乃問不轉女身。即時天女以神通力。變舍利弗令如天女。天自化身如舍利弗。而問言。何以不轉女身 ・天曰く、『一切の諸法も、またかくの如く、定まれる相有ること無し。云何が、すなわち女身を転ぜずやと問う。』と。すなわち時に、天女、神通力を以って、舍利弗を変じて天女の如くならしめ、天自らは身を化して舍利弗の如くにし、しかも問うて言わく、『何を以ってか女身を転ぜず。』と。 舍利弗以天女像而答言。我今不知何轉而變為女身 ・舍利弗、天女の像(かたち)を以って、答えて言わく、『我は今、何(いか)にして転ずるかを知らずして、しかも変じて女身と為れり。』 天曰。舍利弗。若能轉此女身。則一切女人亦當能轉。如舍利弗非女而現女身。一切女人亦復如是。雖現女身而非女也。是故佛說一切諸法非男非女。即時天女還攝神力。舍利弗身還復如故 ・天曰く、『舍利弗、もしよくこの女身を転ぜば、すなわち一切の女人も、またまさによく転ずべし。舍利弗の、女に非ずして女身を現すが如く、一切の女人も、またかくの如く、女身を現すといえども、女に非ざるなり。 この故に、仏も、一切の諸法は、男に非ず女に非ずと説きたまえり。』と。 すなわち時に、天女は、また神力を摂(おさ)むれば、舍利弗が身もまた、故(もと)の如くに復す。 天問舍利弗。女身色相今何所在 ・天問わく、『舍利弗、(先の)女身の色相は、今、何所(いづく)にか在る。』 舍利弗言。女身色相無在無不在 ・舍利弗言わく、『女身の色相は、在ること無く、在らざること無し。』 天曰。一切諸法亦復如是。無在無不在。夫無在無不在者佛所說也 ・天曰く、『一切の諸法もまた、またかくの如く、在ること無く、在らざること無し。それ、在ること無きと在らざること無きとは、仏の説きたもう所なり。』と。 舍利弗問天。汝於此沒當生何所 ・舍利弗、天に問わく、『汝は、ここに於いて没し、まさに何所(いづく)にか生ずべき。』 天曰。佛化所生吾如彼生 ・天曰く、『仏化の所生(謂ゆる化仏)、吾は彼(仏化の所生)の如く生ず。』 天曰。眾生猶然無沒生也 ・天曰く、『衆生も、なお然り、沒生無し。』 舍利弗問天。汝久如當得阿耨多羅三藐三菩提 ・舍利弗、天に問わく、『汝は久しくして(イツカ)、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。』 天曰。如舍利弗還為凡夫。我乃當成阿耨多羅三藐三菩提 ・天曰く、『舍利弗が、また凡夫と為るが如く、我もすなわち、まさに阿耨多羅三藐三菩提を成ずべし。』 舍利弗言。我作凡夫無有是處 ・舍利弗言わく、『我が凡夫と作るとは、この処(ことわり、根拠)有ること無し。』 天曰。我得阿耨多羅三藐三菩提亦無是處。所以者何。菩提無住處。是故無有得者 ・天曰く、『我が阿耨多羅三藐三菩提を得ることも、またこの処無し。所以は何となれば、菩提は住処無ければなり(特定の住処無し、即ちドコニモアル)。この故に得る者も有ること無し。』 舍利弗言。今諸佛得阿耨多羅三藐三菩提。已得當得。如恒河沙。皆謂何乎 ・舍利弗言わく、『今、(現在の)諸仏、阿耨多羅三藐三菩提を得たまい、すでに(過去の諸仏)得たまいき、まさに(未来の諸仏)得たまわんこと、恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の砂の数)の如きをば、皆何と謂うや。』 天曰。皆以世俗文字數故說有三世。非謂菩提有去來今 ・天曰く、『皆、世俗の文字と数とを以っての故に、三世有りと説けども、菩提に去(過去)来(未来)今(現在)有りと謂うには非ず。』 天曰。舍利弗。汝得阿羅漢道耶 ・天曰く、『舍利弗、汝は、阿羅漢道を得たりや。』 曰。無所得故而得 ・曰く、『得る所無きが故に、しかも得たり。』 天曰。諸佛菩薩亦復如是。無所得故而得 ・天曰く、『諸の仏菩薩もまた、またかくの如く、得る所無きが故に得たもう。』と。(舍利弗の阿羅漢を得るも無所得、諸仏の菩提を得たもうも無所得なりという) 爾時維摩詰。語舍利弗。是天女已曾供養九十二億佛已。能遊戲菩薩神通。所願具足得無生忍住不退轉。以本願故隨意能現教化眾生 ・その時、維摩詰、舍利弗に語らく、『この天女は、すでにかつて九十二億の仏を供養しおわりて、よく菩薩の神通に遊戯(ゆげ、アソブ)し、所願具足し、無生忍を得て不退転に住し、本願(ほんがん、初めて心を発した時に立てた願)を以っての故に、意の隨(まま)によく現れて、衆生を教化す。』と。

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 面白い 超訳【維摩経】

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。

「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。

【維摩経】目次
「維摩詰所説経」より

◆維摩居士、仮病を使う (方便品)

◆難色を示す仏弟子たち (弟子品)

◆ しり込みする菩薩ども (菩薩品)

◆ 文殊がゆく! (文殊師利問疾品)

◆ ミラクルパワー! (不思議品)

◆一般ピープルってどうよ? (観衆生品)

◆ ザ・ウェイ・オブ・ブッダ (仏道品)

◆相対化を超えてゆけ! (不二法門品)

◆極上のランチ (香積仏品)

◆菩薩でGO! (菩薩行品)

◆極楽を見たか? (見阿閦如来品)

◆「法」を守れ!(法供養品)

◆大団円(嘱累品)

(附録)
◆ザ・ワールド・オブ・パラダイス(仏国品)


引用文献  .



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梵漢和対照・現代語訳 維摩経 単行本 – 2011/8/27 植木 雅俊 (翻訳) 単行本: 680ページ 出版社: 岩波書店 (2011/8/27)
維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。
本書は、サンスクリット・テキスト影印版(大正大学綜合佛教研究所刊)を底本とする現代日本語訳と、綿密な校訂によるローマナイズしたサンスクリット原典テキスト、鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(漢文書き下しテキスト)を併記対照させつつ、さらに詳細な注解を施したものである。原典テキストに準拠した曖昧さを残さない正確で読みやすい訳業は、全体の半分近くを占める訳出の根拠となる綿密な注解とともに、仏典翻訳史に新たな頁を刻む画期的な達成である。

至れり尽くせりの本(事例)
『維摩経』のサンスクリット原典は既に失われているとされてきた。ところが、その写本が何と1999年に完本として発見された。本書は、その写本の影印版(2003年)を綿密に校訂し、詳細な注釈(全680頁の約半分を占める)を付して現代語訳した上で、「サンスクリット原文」、「鳩摩羅什訳」、「著者の現代語訳」を見開きで対照させるという、読者にとって極めて便利な構成で作られている。
 著者は、お茶の水女子大学に「仏教におけるジェンダー平等思想」というテーマの論文を提出し、2002年に同大で男性として初の人文科学博士の学位を取得した。そして、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店)で毎日出版文化賞に選ばれた(2008年)。まさに、サンスクリット語と仏教学の泰斗である。大学や研究機関に身を置くことはないが、大学の研究者たちの業績を遥かに凌駕する研究成果を次々に発表している。まさに、在俗でありながら十大弟子をも圧倒し、性差をも超えていた維摩居士を地で行く人というべきである。
 権威主義的な小乗仏教の女性軽視にとらわれた智慧第一の舎利弗も、天女にからかわれ、手玉にとられる。維摩詰の十大弟子に対する弾呵も手厳しいが、本書の注釈においては、過去の研究成果の矛盾点に対する著者の指弾も手厳しい。例えば、43〜46頁の長きにわたる注釈で、著者は、長尾雅人博士の一音(いっとん)説法についての無理なこじつけを槍玉にあげる。長尾氏が、「釈尊は方言で語られたが、受け取る側はそれぞれの方言で受け止めた」と解釈し、その例として「『おしん』というテレビ・ドラマが佐賀弁で話されていても全国で理解されたのと同じだ」と述べていることについて、著者は「それは全国放送なので手加減しているから理解されたのであり、鹿児島弁であったらどうなのだ」と批判する。そして、長尾氏がどうして方言にこだわられるのか、そのネタ本まで暴露している。本書の、注釈ではこのような批判が網羅されている。これまでの研究は何だったのかという思いが募る。
 古来、初めてお経を読む人に、『維摩経』はうってつけとされてきた。それには相応の理由がある。プラトンの著作が哲学である以前にドラマ(ソクラテスを主人公とする対話)として面白いのと同様、仏教経典はドラマ(主人公は世尊)としてまず面白い。別けても『維摩経』の仕掛けは無類である。経典文学の最高峰である『法華経』とならぶものである。
 インド人の想像力にはほとほと頭がさがる。一文学書として『維摩経』を捉えた時、あくまで個人的な感想であるが、その読後感はルキアノス『本当の話』に一番近い感じがした。『アラビアンナイト』や『黄金のろば』も奇想天外だが、スピードが伴わない。『維摩経』は、これらの世界文学の最高峰とならべても遜色がないのである。それが、曖昧さを残さない正確な訳文で現代に蘇った。  文学的魅力は読めば終わるが、思想を汲み取る作業は別である。ありがたいことに著者は、インド仏教史の概略、戯曲『維摩経』のあらすじ、在家の地位の歴史的変遷、積極的な利他行の原動力としての「空」――など、『維摩経』理解に欠かせない思想背景を巻末の「解説」で詳細に論じてくれている。先に「はしがき」「解説」「あとがき」に目を通してから、現代語訳の本文を読むことをお勧めしたい。
 仏教用語辞典としても使える索引の充実ぶり、梵漢和を対照させたレイアウトは、印刷業者泣かせの作業であり、サンスクリット原文の校正を考えても、5500円の定価は信じられない安さである。その“安さ”が不思議でならなかったが、「あとがき」を読んで納得した。著者自身が、コンピュータのDTP技術を駆使して完全原稿(版下)を作成していたのだ。出版社まかせでは価格が跳ね上がるだけではなく、誤植が跡を絶たない(出版社にいた経験からこのことは請け合える)。その意味でもテキストの信頼性は他を圧している。至れり尽くせりとは、この本のためにあるような言葉だ。


梵文和訳 維摩経 単行本 – 2011/1/1 高橋 尚夫 (翻訳) 西野 翠 (翻訳)単行本: 333ページ 出版社: 春秋社 (2011/1/1)
真の菩薩の生き方を鋭く初期大乗経典の『維摩経』。その梵文テキストをチベット訳や漢訳なども参照しながら、正確かつ平易な言葉で翻訳。巻末には、用語解説や梵・蔵・漢の相違点などを示した詳細な訳注を付す。


『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック 釈 徹宗 (その他) – 2017/5/25 釈 徹宗 (その他)
あらゆる枠組みを超えよ!
かの聖徳太子が日本に紹介した仏典『維摩経』。病気になった在家仏教信者・維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。この『維摩経』を現代的に読み解く面白さを、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏が解説する。


維摩経講話 (講談社学術文庫) 文庫 – 1990/3/5 鎌田 茂雄 (著)
『維摩経』は、大乗仏教の根本原理、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を最もあざやかにとらえているといわれる。迷いと悟り、理想と現実、善と悪など、全く対立するものを不二(ふに)と見なし、その不二の法門に入れば、一切の対立を超えた無対立の世界、何ものにも束縛されない自由な境地に入る。在家の信者の維摩居士が主役となって、菩薩や声聞(しょうもん)を相手に活殺自在に説法するところが維摩経の不思議な魅力といえよう。


大乗仏典〈7〉維摩経・首楞厳三昧経 (中公文庫) 文庫 – 2002/8/25 長尾 雅人 (翻訳), 丹治 昭義 (翻訳)
大金持ちの俗人維摩居士の機知とアイロニーに満ちた教えによって、空の思想を展開する一大ドラマ維摩経。人間の求道の過程において「英雄的な行進の三昧」こそ、あらゆる活動の源泉力であると力説する首楞厳三昧経。



・超訳【維摩経】・超訳【無門関】・超訳【金剛経】・超訳【夢中問答(上)】

超訳【維摩経】 超訳文庫設立の契機ともなった記念碑的作品。 初期大乗経典の傑作にして、ドタバタコントの元祖みたいな一大哲学サイキック活劇です。 気楽に読むだけで、キミも「ミラクルパワー」がゲットできる!?

超訳【無門関】 「仏」に逢ったら即、ぶっ殺せ! 「師匠」に逢ったら、やっぱりぶっ殺せ! 「親」に逢ったら? もちろんぶっ殺せ! そしてオマエは天下無敵となるのだ!! ・・・というもの凄い剣幕で語られる、48のシュールなナゾナゾたち。 快僧無門慧開の真意は何処!?

超訳【金剛経】 我らの心に平安をもたらすもの、それは「完全円満なる智慧」。 ・・・という壮大なテーマで繰り広げられる、ブッダとその弟子スブーティ(須菩提)のボケとツッコミによる究極哲学ふたり漫才! 超メジャータイトル「般若心経」と、ショートエピソード「ミラクルフラッシュ・ボーイの物語(不思議光菩薩所説経)」も同時収録! 全編とも、漢訳原典つきです!

超訳【夢中問答】(上) 「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい? 足利直義の切実な問いを受け、夢窓国師が開く「真実の法門」とは!? 室町時代のディアロゴスの軌跡が、七百年後の今に甦る!
超訳【維摩経】


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維摩経

百科事典

維摩経』 (ゆいまきょう、: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要

維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気[3]になったので、釈迦舎利弗目連迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。

  • 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
  • 般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

原典・主な訳注

主な解説講話

注・出典

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  1. ^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説説教」のこと。
  2. ^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサポタラ宮ダライ・ラマの書斎で発見された。
  3. ^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
  4. ^ 大正大学教授
  5. ^ 大正大学総合仏教研究所研究員

関連項目



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