1 空を道とし、道を空と見る
【原 文】
二刀一流の兵法の道、
空の卷として書顯す事。(1)
空と云心ハ、物毎のなき所、
しれざる事を、空と見たつる也。
勿論、空ハなきなり。
ある所をしりて、なき所をしる、是則、空なり。
世の中におゐて、悪く見れバ、
物をわきまへざる所を空と見る所、
実の空にはあらず。皆まよふ心なり。
此兵法の道におゐても、武士として
道をおこなふに、士の法をしらざる所、
空にはあらずして、色々まよひありて、
せんかたなき所を、空と云なれども、
是、実の空にはあらざる也。武士ハ、
兵法の道を慥に覚、其外、武藝を能勤、
武士のをこなふ道、少もくらからず、
心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、
心意二つの心をミがき、觀見二つの眼をとぎ、
少もくもりなく、まよひのくものはれたる所こそ、
実の空と知べき也。
実の道をしらざる間は、
佛法によらず、世法によらず、
おのれ/\ハ、慥成道とおもひ、
能事とおもへども、心の直道よりして、
世の大がねにあハせて見る時は、
其身/\の心のひいき、其目/\のひずミに
よつて、実の道にハそむく物也。
其心をしつて、直成所を本とし、
実の心を道として、兵法を廣くおこなひ、
たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて、
空を道とし、道を空とみる所也。(2)
( 空有善無惡
智者有也
理者有也
道者有也
心者空也 )(3)
正保二年五月十二日
新免武蔵玄信
在判
寺尾孫之丞殿 (4)
【現代語訳】
二刀一流の兵法の道を、空の巻として書きあらわす事。
空〔くう〕という意味は、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。もちろん、空は、無いことである。有るところを知って、無きところを知る、これがすなわち空である。
世の中において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないのを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。
この兵法の道においても、武士として(兵法の)道を行うのに、士の法〔武士のやり方〕を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである。
武士は、兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸によく励み、武士の行う道にすこしも暗からず、心の迷うところなく、毎朝、そして時々に応じて(修行を)怠らず、心意〔しんい〕二つの心を磨き、観見〔かんけん〕二つの眼を研ぎ、少しも曇り無く、迷いの雲の晴れたところこそ、それが真実の空だと知るべきである。
真実の道を知らない間は、仏の法であれ世俗の法であれ、それぞれ自分は、たしかな道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう、真っ直ぐな道〕から、世の大きなかね〔規矩・尺度〕に合せて見れば、人それぞれの心のひいき〔偏向〕、それぞれの目の歪み〔偏見〕によって、真実の道には背いているものである。
その意味を知って、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。
( 空は善有りて悪無し
智は有なり
理は有なり
道は有なり
心は空なり )
正保二年五月十二日
新免武蔵玄信
在判
寺尾孫之丞殿
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引用文献
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