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春秋左氏傳校本


 春秋《左氏傳》(序・杜預略傳 ・後序)

春秋左氏傳
(隱公 桓公莊公閔公)(僖公上、中、下 )(文公上、下 )(宣公上、下 )(成公上、下 )
(襄公一、二、三) (四、五、六 )(昭公一、二、三、四) (五、六、七)(定公上、下)(哀公上、下)(序杜預略傳 ・後序)

序・杜預略傳 ・後序

春秋左氏傳序 正義云、周法每國有史記、同名春秋。故昭二年及坊記稱魯春秋。按是特言魯以別他國也。
【読み】
春秋左氏傳序 正義に云う、周法每國に史記有り、同じく春秋と名づく。故に昭二年及び坊記に魯の春秋と稱す。按ずるに是れ特に魯を言いて以て他の國と別つのみ、と。

春秋者、魯史記之名也。記事者、以事繫日、以日繫月、以月繫時、以時繫年、所以紀遠近、別同異也。故史之所記、必表年以首事。年有四時。故錯舉以爲所記之名也。
【読み】
春秋とは、魯の史記の名なり。事を記す者、事を以て日に繫け、日を以て月に繫け、月を以て時に繫け、時を以て年に繫くるは、遠近を紀し、同異を別つ所以なり。故に史の記す所は、必ず年を表して以て事を首む。年に四時有り。故に錯え舉げて以て記す所の名と爲せるなり。

周禮有史官、掌邦國四方之事、達四方之志。諸侯亦各有國史、大事書之於策、小事簡牘而已。孟子曰、楚謂之檮杌、晉謂之乘、而魯謂之春秋、其實一也。
【読み】
周禮に史官有り、邦國四方の事を掌り、四方の志を達す。諸侯も亦各々國史有り、大事は之を策に書し、小事は簡牘[かんとく]にするのみ。孟子曰く、楚は之を檮杌[とうこつ]と謂い、晉は之を乘と謂い、魯は之を春秋と謂うも、其の實は一なり、と。

韓宣子適魯、見易象與魯春秋曰、周禮盡在魯矣。吾乃今知周公之德與周之所以王。韓子所見、蓋周之舊典禮經也。
【読み】
韓宣子魯に適きて、易象と魯の春秋とを見て曰く、周の禮は盡く魯に在り。吾れ乃ち今にして周公の德と周の王たる所以とを知れり、と。韓子が見る所は、蓋し周の舊典禮經ならん。

周德旣衰、官失其守、上之人不能使春秋昭明、赴告策書、諸所記注、多違舊章。仲尼因魯史策書成文、考其眞僞、而志其典禮、上以遵周公之遺制、下以明將來之法。其敎之所存、文之所害、則刊而正之、以示勸戒、其餘則皆卽用舊史。史有文質、辭有詳畧、不必改也。故傳曰、其善志。又曰、非聖人孰能脩之。蓋周公之志、仲尼從而明之。
【読み】
周の德旣に衰え、官其の守りを失い、上の人春秋をして昭明ならしむること能わずして、赴告の策書、諸々記注する所、舊章に違えること多し。仲尼魯史の策書の成文に因りて、其の眞僞を考えて、其の典禮を志[しる]し、上は以て周公の遺制に遵い、下は以て將來の法を明かせり。其の敎えの存する所にして、文の害ある所は、則ち刊[けず]りて之を正して、以て勸戒を示し、其の餘は則ち皆卽ち舊史を用ゆ。史に文質有り、辭に詳畧有るも、必ずしも改めざるなり。故に傳に曰く、其れ善志なり、と。又曰く、聖人に非ずんば孰か能く之を脩めん、と。蓋し周公の志にして、仲尼從いて之を明かせればなり。

左丘明受經於仲尼、以爲經者不刊之書也。故傳或先經以始事、或後經以終義、或依經以辯理、或錯經以合異、隨義而發。其例之所重、舊史遺文、畧不盡舉、非聖人所修之要故也。
【読み】
左丘明經を仲尼に受けて、以爲えらく、經は不刊の書なり、と。故に傳或は經に先だちて以て事を始め、或は經に後れて以て義を終え、或は經に依りて以て理を辯え、或は經に錯えて以て異を合わせ、義に隨いて發せり。其の例の重き所にして、舊史の遺文なるも、畧して盡く舉げざるは、聖人修むる所の要に非ざるが故なり。

身爲國史、躬覽載籍、必廣記而備言。其文緩、其旨遠。將令學者原始要終、尋其枝葉、究其所窮、優而柔之、使自求之、饜而飫之、使自趨之、若江海之浸、膏澤之潤、渙然冰釋、怡然理順、然後爲得也。
【読み】
身國史と爲りて、躬ら載籍を覽、必ず廣く記して備に言えり。其の文緩やかに、其の旨遠し。將に學者をして始めに原づき終わりを要め、其の枝葉を尋ね、其窮まる所を究めしめんとし、優にして之を柔にし、自ら之を求めしめ、饜[えん]して之を飫[よ]し、自ら之に趨かしめ、江海の浸し、膏澤の潤すが若くにして、渙然として冰のごとくに釋け、怡然として理順い、然して後に得たりとす。

其發凡以言例、皆經國之常制、周公之垂法、史書之舊章、仲尼從而修之、以成一經之通體。
【読み】
其の凡を發して以て例を言うは、皆經國の常制、周公の垂法、史書の舊章にして、仲尼從いて之を修めて、以て一經の通體を成せり。

其微顯闡幽、裁成義類者、皆據舊例而發義、指行事以正襃貶。諸稱書、不書、先書、故書、不言、不稱、書曰之類、皆所以起新舊發大義。謂之變例。然亦有史所不書、卽以爲義者。此蓋春秋新意。故傳不言凡、曲而暢之也。其經無義例、因行事而言、則傳直言其歸趣而已。非例也。
【読み】
其れ顯を微にし幽を闡[ひら]き、義類を裁成する者は、皆舊例に據りて義を發し、行事を指して以て襃貶を正せり。諸々書す、書せず、先ず書す、故に書す、言わず、稱せず、書して曰くと稱するの類、皆新舊を起こし大義を發する所以なり。之を變例と謂う。然れども亦史の書せざる所にして、卽ち以て義と爲す者有り。此れ蓋し春秋の新意ならん。故に傳に凡と言わずして、曲にして之を暢べたり。其の經に義例無く、行事に因りて言えるは、則ち傳は直に其の歸趣を言うのみ。例に非ざるなり。

故發傳之體有三、而爲例之情有五。一曰、微而顯。文見於此、而起義在彼。稱族尊君命。舍族尊夫人。梁亡、城緣陵之類是也。二曰、志而晦。約言示制、推以知例。參會不地、與謀曰及之類是也。三曰、婉而成章。曲從義訓、以示大順。諸所諱辟、璧假許田之類是也。四曰、盡而汙。直書其事、具文見意。丹楹刻桷、天王求車。齊侯獻捷之類是也。五曰、懲惡而勤善。求名而亡、欲蓋而章。書齊豹盜三叛人名之類是也。
【読み】
故に傳を發するの體には三つ有りて、例を爲すの情は五つ有り。一に曰く、微にして顯る、と。文此に見えて、義を起こすは彼に在るなり。族を稱するは君命を尊ぶなり。族を舍つるは夫人を尊ぶなり。梁亡ぶ、緣陵に城くの類是れなり。二に曰く、志して晦し、と。言を約にして制を示し、推して以て例を知るなり。參たび會すれば地いわず、謀に與るを及ぶと曰うの類是れなり。三に曰く、婉にして章を成す、と。曲げて義訓に從いて、以て大順を示すなり。諸々諱み辟くる所、璧もて許の田を假るの類是れなり。四に曰く、盡くして汙[ま]げず、と。其の事を直書して、文を具にして意を見すなり。楹に丹ぬり桷に刻む、天王車を求む。齊侯捷を獻ずるの類是れなり。五に曰く、惡を懲らして善を勤む、と。名を求めて亡い、蓋わんことを欲して章るなり。齊豹を盜と書し三叛人に名いうの類是れなり。

推此五體、以尋經傳、觸類而長之、附于二百四十二年行事、王道之正、人倫之紀備矣。
【読み】
此の五體を推して、以て經傳を尋ね、類に觸れて之を長くし、二百四十二年の行事に附くれば、王道の正しき、人倫の紀備われり。

或曰、春秋以錯文見義。若如所論、則經當有事同文異、而無其義也。先儒所傳、皆不其然。答曰、春秋雖以一字爲襃貶、然皆須數句以成言。非如八卦之爻、可錯綜爲六十四也。固當依傳以爲斷。
【読み】
或ひと曰く、春秋は文を錯ゆるを以て義を見せり。若し論ずる所の如くんらば、則ち經に當に事同じく文異にして、其の義無きもの有るべし。先儒傳うる所は、皆其れ然らず、と。答えて曰く、春秋は一字を以て襃貶を爲すと雖も、然れども皆數句を須ちて以て言を成せり。八卦の爻の、錯綜して六十四と爲す可きが如きに非ざるなり。固より當に傳に依りて以て斷ずることを爲すべし。

古今言左氏春秋者多矣。今其遺文可見者十數家、大體轉相祖述。進不得爲錯綜經文、以盡其變、退不守丘明之傳、於丘明之傳有所不通、皆沒而不說、而更膚引公羊・穀梁、適足自亂。預今所以爲異、專修丘明之傳以釋經。經之條貫、必出於傳、傳之義例、摠歸諸凡、推變例以正襃貶、簡二傳而去異端。蓋丘明之志也。其有疑錯、則備論而闕之、以俟後賢。
【読み】
古今左氏春秋を言う者多し。今其の遺文の見る可き者十數家なるも、大體轉[うた]た相祖述せり。進んでは經文を錯綜して、以て其の變を盡くすことを爲すことを得ず、退いては丘明の傳を守らず、丘明の傳に於て通ぜざる所有れば、皆沒して說かずして、更に公羊・穀梁を膚[あさ]く引くは、適に自ら亂るるに足れり。預が今異なりとする所以は、專ら丘明の傳を修めて以て經を釋く。經の條貫は、必ず傳より出でて、傳の義例は、摠べて諸を凡に歸し、變例を推して以て襃貶を正し、二傳を簡びて異端を去れり。蓋し丘明の志ならん。其れ疑錯有れば、則ち備にして論じて之を闕き、以て後賢を俟つ。

然劉子駿創通大義、賈景伯父子・許惠卿、皆先儒之美者也。末有潁子嚴者、雖淺近亦復名家。故特舉劉・賈・許・潁之違、以見同異、分經之年與傳之年相附、比其義類、各隨而解之、名曰經傳集解。又別集諸例、及地名譜第歷數、相與爲部。凡四十部、十五卷、皆顯其異同、從而釋之、名曰釋例。將令學者觀其所聚。異同之說、釋例詳之也。
【読み】
然れども劉子駿は創めて大義に通じ、賈景伯父子・許惠卿は、皆先儒の美なる者なり。末に潁子嚴なる者有り、淺近なりと雖も亦復家に名あり。故に特に劉・賈・許・潁の違いを舉げて、以て同異を見し、經の年と傳の年とを分けて相附け、其の義類を比べて、各々隨いて之を解き、名づけて經傳集解と曰う。又別に諸例と、地名譜第歷數とを集めて、相與に部を爲す。凡そ四十部、十五卷、皆其の異同を顯して、從いて之を釋き、名づけて釋例と曰う。將に學者をして其の聚むる所を觀せしめんとす。異同の說は、釋例之を詳らかにす、と。

或曰、春秋之作、左傳及穀梁無明文。說者以爲仲尼自衛反魯、脩春秋、立素王、丘明爲素臣。言公羊者亦云、黜周而王魯、危行言孫、以辟當時之害。故微其文、隱其義。公羊經止獲麟、而左氏經終孔丘卒。敢問所安。答曰、異乎余所聞。仲尼曰、文王旣沒、文不在茲乎、此制作之本意也。歎曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、蓋傷時王之政也。麟鳳五靈、王者之嘉瑞也。今麟出非其時、虛其應而失其歸。此聖人所以爲感也。絕筆於獲麟之一句者、所感而起、固所以爲終也。
【読み】
或ひと曰く、春秋の作れる、左傳と穀梁と明文無し。說者以爲えらく、仲尼衛より魯に反りて、春秋を脩め、素王を立てて、丘明素臣と爲る、と。公羊を言う者も亦云う、周を黜けて魯を王とし、行を危[たか]くし言孫[したが]いて、以て當時の害を辟く。故に其の文を微にし、其の義を隱す、と。公羊の經は獲麟に止まりて、左氏の經は孔丘卒すに終わる。敢て安んずる所を問う、と。答えて曰く、余が聞ける所に異なり。仲尼曰く、文王旣に沒すれども、文茲に在らずやとは、此れ制作の本意なり。歎じて曰く、鳳鳥至らず、河圖を出ださず、吾れ已んぬるかなとは、蓋し時王の政を傷めるなり。麟鳳五靈は、王者の嘉瑞なり。今麟の出づること其の時に非ず、其の應を虛しくして其の歸を失えり。此れ聖人の感ずることを爲す所以なり。筆を獲麟の一句に絕つ者は、感ずる所にして起これば、固より終わりと爲す所以なり、と。

曰、然則春秋何始於魯隱公。答曰、周平王、東周之始王也。隱公、讓國之賢君也。考乎其時、則相接、言乎其位、則列國。本乎其始、則周公之祚胤也。若平王能祈天永命、紹開中興、隱公能弘宣祖業、光啓王室、則西周之美可尋、文武之迹不隊。是故因其歷數、附其行事、采周之舊、以會成王義、垂法將來。所書之王、卽平王也。所用之歷、卽周正也。所稱之公、卽魯隱也。安在其黜周而王魯乎。子曰、如有用我者、吾其爲東周乎。此其義也。
【読み】
曰く、然らば則ち春秋は何ぞ魯の隱公に始まれるや、と。答えて曰く、周の平王は、東周の始王なり。隱公は、讓國の賢君なり。其の時を考うれば、則ち相接わり、其の位を言えば、則ち列國なり。其の始めに本づけば、則ち周公の祚胤なり。若し平王能く天の永命を祈[もと]め、中興を紹開し、隱公能く祖業を弘宣し、王室を光啓せば、則ち西周の美尋ぬ可く、文武の迹隊[お]ちず。是の故に其の歷數に因りて、其の行事を附け、周の舊を采りて、以て王義を會成して、法を將來に垂れたり。書す所の王は、卽ち平王なり。用ゆる所の歷は、卽ち周の正なり。稱する所の公は、卽ち魯の隱なり。安んぞ其の周を黜けて魯を王とするに在らんや。子曰く、如し我を用ゆる者有らば、吾れ其れ東周を爲さんか、と。此れ其の義なり。

若夫制作之文、所以章往考來。情見乎辭、言高則旨遠、辭約則義微。此理之常。非隱之也。聖人包周身之防。旣作之後、方復隱諱以辟患、非所聞也。子路欲使門人爲臣。孔子以爲欺天。而云仲尼素王、丘明素臣、又非通論也。先儒以爲制作三年、文成致麟。旣已妖妄。又引經以至仲尼卒、亦又近誣。據公羊經止獲麟、而左氏小邾射不在三叛之數、故余以爲感麟而作。作起獲麟、則文止於所起、爲得其實。至於反袂拭面、稱吾道窮、亦無取焉。
【読み】
若し夫れ制作の文は、往を章らかにし來を考うる所以なり。情の辭に見る、言高ければ則ち旨遠く、辭約なれば則ち義微なり。此れ理の常なり。之を隱すに非ず。聖人は身の防ぎに包周なり。旣に作るの後、方に復隱諱して以て患えを辟くるとは、聞ける所に非ず。子路門人をして臣爲たらしめんことを欲す。孔子以て天を欺くと爲せり。而るを仲尼は素王、丘明は素臣と云うは、又通論に非ず。先儒以爲えらく、制作すること三年、文成りて麟を致す、と。旣已に妖妄なり。又經を引いて以て仲尼卒すというに至るも、亦又誣うるに近し。公羊の經は獲麟に止りて、左氏の小邾射は三叛の數に在らざるを據として、故に余れ以爲えらく、麟に感じて作る、と。作ること獲麟に起こるときは、則ち文の起こる所に止まるとするは、其の實を得たりとす。袂を反し面を拭い、吾が道窮すと稱するに至りては、亦取ること無し、と。

(終)







杜預略傳

杜預、字元凱、京兆杜陵人也。祖畿、魏尙書僕射。父恕、幽州刺史。預、博學多通、明於興廢之道。常言德不可以企及、立功立言、可庶幾也。初其父與宣帝不相能。遂以幽死。故預久不得調。文帝嗣立、預尙帝妹高陸公主。起家拜尙書郎、襲祖爵豐樂亭侯。在職四年、轉參相府軍事。鐘會伐蜀、以預爲鎭西長史。及會反、寮佐竝遇害。唯預以智獲免。增邑千一百三十戶。
【読み】
杜預、字は元凱、京兆杜陵の人なり。祖畿は、魏の尙書僕射。父恕は、幽州の刺史たり。預、博學多通、興廢の道に明らかなり。常に言う、德は以て企及す可からず、功を立て言を立つるは、庶幾す可し、と。初め其の父宣帝と相能からず。遂に以て幽死せり。故に預久しく調[えら]ばるることを得ず。文帝嗣立し、預帝の妹高陸公主を尙す。家より起こりて尙書郎に拜せられ、祖の爵豐樂亭侯を襲ぐ。職に在ること四年、參相府軍事に轉ず。鐘會蜀を伐つとき、預を以て鎭西長史とす。會が反するに及んで、寮佐竝に害に遇う。唯預のみ智を以て免るることを獲たり。增邑千一百三十戶。

與車騎將軍賈充等定律令。旣成預爲之注解。乃奏之曰、法者蓋繩墨之斷例、非窮理盡性之書也。故文約而例直、聽省而禁簡。例直易見、禁簡難犯。易見則人知所避、難犯則幾於刑厝。刑之本在於簡直。故必審名分。審名分者、必忍小理。古之刑書、銘之鐘鼎、鑄之金石、所以遠塞異端、使無淫功也。今所注、皆網羅法意、格之以名分、使用之者執名例以審趣舍、伸繩墨之直、去析薪之理也、詔班于天下。
【読み】
車騎將軍賈充等と律令を定む。旣に成りて預之が注解を爲す。乃ち之を奏して曰く、法は蓋し繩墨の斷例にして、窮理盡性の書に非ず。故に文約にして例直く、聽省いて禁簡なり。例直なれば見易く、禁簡なれば犯し難し。見易ければ則ち人避くる所を知り、犯し難ければ則ち刑厝[けいそ]に幾し。刑の本は簡直に在り。故に必ず名分を審らかにす。名分を審らかにする者は、必ず小理を忍ぶ。古の刑書は、之を鐘鼎に銘し、之を金石に鑄りたるは、異端を遠ざけ塞いで、淫功無からしむる所以なり。今の注する所は、皆法意を網羅し、之を格すに名分を以てして、之を用ゆる者をして名例を執りて以て趣舍を審らかにし、繩墨の直を伸べ、析薪の理を去らしむこと、詔して天下に班つなり。

泰始中、守河南尹。預以京師、王化之始、自近及遠。凡所施論、務崇大體。受詔爲黜陟之課。
【読み】
泰始中は、守河南尹たり。預以えらく、京師は、王化の始めにして、近きより遠きに及ぶ、と。凡そ施論する所、務めて大體を崇めり。詔を受けて黜陟の課を爲る。

司隷校尉石鑒、以宿憾奏預免職。時虜寇隴右。以預爲安西軍司、給兵三百人、騎百匹、到長安。更除秦州刺史領東羗校尉輕車將軍、假節。屬虜兵强盛。石鑒時爲安西將軍。使預出兵擊之。預以虜乘勝馬肥、而官軍懸乏。宜幷力大運、須春進討。陳五不可、四不須。鑒大怒、復奏預擅飾城門官舍、稽乏軍興。遣御史檻車徵詣廷尉。以預尙主在八議、以侯贖論。其後隴右之事、卒如預策。是時朝廷皆以預明於籌略。
【読み】
司隷校尉石鑒、宿憾を以て預を奏して職を免れしむ。時に虜隴右に寇す。預を以て安西軍司とし、兵三百人、騎百匹を給して、長安に到らしむ。更めて秦州の刺史領東羗校尉輕車將軍に除して、節を假す。屬々の虜兵强盛なり。石鑒時に安西將軍爲り。預をして兵を出だして之を擊たしめんとす。預以えらく、虜は勝ちに乘じ馬肥えて、官軍懸乏す。宜しく力を幷せて大運し、春を須ちて進討すべし、と。五つの不可、四つの不須を陳ぶる。鑒大いに怒り、復奏す、預擅に城門官舍を飾りて、軍興を稽乏せしむ、と。御史をして檻車にて徵して廷尉に詣らしむ。預が主を尙して八議に在るを以て、侯を以て贖論せらる。其の後隴右の事、卒に預が策の如くなりき。是の時朝廷皆預を以て籌略[ちゅうりゃく]に明らかなりとす。

會匈奴帥劉猛舉兵反、自幷州西及河東平陽。詔預以散侯定計省闥。俄拜度支尙書。預乃奏立籍田、建安邊論、處軍國之要、又作人排新器、興常平倉、定穀價、較鹽運、制課調、内以利國、外以救邊者、五十餘條。皆納焉。
【読み】
會々匈奴の帥劉猛兵を舉げて反し、幷州より西のかた河東平陽に及ぶ。預に詔して散侯を以て省闥に定計せしむ。俄に度支尙書に拜せらる。預乃ち籍田を立て、安邊論、軍國を處するの要を建て、又人排の新器を作り、常平倉を興し、穀價を定め、鹽運を較べ、課調を制し、内は以て國を利し、外は以て邊を救う者、五十餘條を奏す。皆納れらる。

元皇后梓宮將遷於峻陽陵。舊制、旣葬、帝及群臣卽吉。尙書奏、皇太子亦宜釋服。預議皇太子、宜復古典以諒闇終制。從之。
【読み】
元皇后の梓宮將に峻陽陵に遷らんとす。舊制に、旣に葬れば、帝と群臣と吉に卽く、と。尙書奏す、皇太子も亦宜しく服を釋くべし、と。預議す、皇太子は、宜しく古典に復して諒闇を以て制を終うるべし、と。之に從う。

預以時曆差舛、不應晷度。奏上二元乾度曆、行於世。
【読み】
預以えらく、時曆差舛[させん]して、晷度[きど]に應ぜず、と。二元乾度曆を奏上して、世に行う。

預又以孟津渡險、有覆沒之患、請建河橋于富平津。議者以爲殷周所都、歷聖賢而不作者、必不可立故也。預曰、造舟爲梁、則河橋之謂也。及橋成、帝從百僚臨會。舉觴屬預曰、非君此橋不立也。對曰、非陛下之明、臣亦不得施其微巧。
【読み】
預又孟津の渡險にして、覆沒の患え有るを以て、河橋を富平津に建てんことを請う。議者以爲えらく、殷周の都する所にして、聖賢を歷ても作らざる者は、必ず立つ可からざる故なり、と。預曰く、舟を造[なら]べて梁とすとは、則ち河橋を謂うなり、と。橋成るに及んで、帝百僚を從えて臨會す。觴を舉げて預に屬して曰く、君に非ずんば此の橋は立たず、と。對えて曰く、陛下の明に非ずんば、臣も亦其の微巧を施すこと得ず、と。

周廟欹器、至漢東京、猶在御坐。漢末喪亂不復存、形制遂絕。預創意造成、奏上之。帝甚嘉歎焉。
【読み】
周廟の欹器[きき]、漢の東京に至るまで、猶御坐に在り。漢末の喪亂に復存せずして、形制遂に絕えぬ。預創意して造成して、之を奏上す。帝甚だ嘉歎せり。

咸寧四年秋、大霖雨、蝗蟲起。預上疏、多陳農要。事在食貨志。
【読み】
咸寧四年秋、大霖雨し、蝗蟲起こる。預上疏して、多く農要を陳ぶ。事は食貨志に在り。

預在内七年、損益萬機、不可勝數。朝野稱美、號曰杜武庫。言其無所不有也。
【読み】
預内に在ること七年、萬機を損益すること、勝げて數う可からず。朝野稱美し、號して杜武庫と曰う。其の有らざる所無きを言うなり。

時帝密存滅吳之計、而朝議多違。唯預・羊祜・張華與帝意合。祜病。舉預自代。因以本官假節、行平東將軍領征南軍司。及祜卒、拜鎭南大將軍都督荆州諸軍事。給追鋒車第二駙馬。預旣至鎭、繕甲兵、耀威武、乃簡精銳、襲吳西陵督張政大破之。以功增封三百六十五戶。政、吳之名將也。據要害之地、恥以無備取敗、不以所喪之實告于孫皓。預欲閒吳邊將、乃表還其所獲之衆於皓。皓果召政、遣武昌監劉憲代之。故大軍臨至、使其將帥移易、以成傾蕩之勢。
【読み】
時帝密かに吳を滅ぼすの計を存すれども、朝議違うもの多し。唯預・羊祜[ようこ]・張華、帝の意と合う。祜病む。預を舉げて自ら代わる。因りて本官を以て節を假し、行平東將軍領征南軍司とす。祜が卒するに及んで、鎭南大將軍都督荆州諸軍事に拜せらる。追鋒車の第二駙馬を給す。預旣に鎭に至りて、甲兵を繕して、威武を耀かし、乃ち精銳を簡びて、吳の西陵の督張政を襲いて大いに之を破る。功を以て增封三百六十五戶なり。政は、吳の名將なり。要害の地に據りて、備え無きを以て敗れを取りしことを恥じ、喪う所の實を以て孫皓に告げず。預吳の邊將を閒せんことを欲し、乃ち表して其の獲る所の衆を皓に還す。皓果たして政を召して、武昌の監劉憲をして之に代わらしむ。故に大軍の至るに臨みて、其の將帥をして移易せしめて、以て傾蕩の勢を成せり。

預處分旣定。乃啓請伐吳之期。帝報待明年方欲大舉。預表陳至計曰、自閏月以來、賊但勑嚴、下無兵上。以理勢推之、賊之窮計、力不兩完、必先認上流、勒保夏口以東、以延視息、無緣多兵西上、空其國都。而陛下過聽、便用委棄大計、縱敵患生。此誠國之遠圖。使舉而有敗、勿舉可也。事爲之制、務從完牢。若或有成、則開太平之基。不成、不過費損日月之閒、何惜而不一試之。若當須後年、天時人事、不得如常。臣恐其更難也。陛下宿議、分命臣等、隨界分進、其所禁持、東西同符、萬安之舉、未有傾敗之慮。臣心實了。不敢以曖昧之見自取後累。惟陛下察之。
【読み】
預處分旣に定まる。乃ち啓して吳を伐つの期を請う。帝報ず、明年を待ちて方に大舉せんと欲す、と。預至計を表陳して曰く、閏月より以來、賊但勑嚴して、下に兵の上る無し。理勢を以て之を推すに、賊の窮計、力兩完せられざれば、必ず先ず上流を認めて、夏口以東を勒保して、以て視息を延べんとし、多兵西上して、其の國都を空しくするに緣[よし]無からん。而るを陛下過聽して、便ち用て大計を委棄して、敵を縱[ゆる]して患えを生せり。此れ誠に國の遠圖なり。舉げて敗れ有らしめば、舉ぐること勿くして可なり。事に之が制を爲して、務めて完牢に從わんのみ。若し或は成ること有らば、則ち太平の基を開かん。成らざれば、日月の閒を費損するに過ぎず、何を惜みて一たび之を試みざる。若し當に後年を須たば、天時人事、常の如くなることを得ざるべし。臣恐れらくは其れ更に難からんことを。陛下宿議して、臣等に分命して、界に隨いて分進せしめ、其の禁持する所、東西符を同じくせば、萬安の舉にして、未だ傾敗の慮り有らず。臣が心實に了[さと]れり。敢えて曖昧の見を以て自ら後累を取らず。惟れ陛下之を察せよ、と。

預旬月之中、又上表曰、羊祜與朝臣多不同、不先博畫、而密與陛下共施此計。故益令多異。凡事當以利害相較。今此舉、十有八九利、其一二止於無功耳。其言破敗之形、亦不可得、直是計不出已、功不在身、各恥其前言。故守之也。自頃朝廷、事無大小、異意鋒起。雖人心不同、亦由恃恩不慮後難。故輕相同異也。昔漢宣帝議趙充國所上、事效之後、詰責諸議者、皆叩頭而謝、以塞異端也。自秋已來、討賊之形頗露。若今中止、孫皓怖而生計。或徙都武昌、更完修江南諸城、遠其居人、城不可攻、野無所掠。積大船于夏口、則明年之計、或無所及。
【読み】
預旬月の中、又上表して曰く、羊祜と朝臣と多く同じからずして、先ず博く畫[はか]らずして、密かに陛下と共に此の計を施す。故に益々異多からしめり。凡そ事は當に利害を以て相較ぶべし。今此の舉、十に八九の利有り、其の一二は功無きに止まるのみ。其れ破敗の形を言わんとするも、亦得可からず、直に是れ計已より出でず、功身に在らずして、各々其の前言を恥ず。故に之を守れるなり。自頃朝廷、事大小と無く、異意鋒起す。人心は同じからずと雖も、亦恩を恃みて後難を慮らざるに由る。故に輕々しく相同異するなり。昔漢の宣帝趙充國が上げる所を議せしめ、事效あるの後、諸議者を詰責せば、皆叩頭して謝せしは、以て異端を塞がんとなり。秋より已來、賊を討ずるの形頗る露[あらわ]れぬ。若し今中ごろ止めば、孫皓怖れて計を生せん。或は都を武昌に徙して、更に江南の諸城を完修し、其の居人を遠ざけば、城攻む可からず、野に掠むる所無からん。大船を夏口に積まば、則ち明年の計、或は及ぶ所無けん、と。

時帝與中書令張華圍棊。而預表適至。華推枰斂手曰、陛下聖明神武、朝野淸晏、國富兵强、號令如一。吳主荒淫驕虐、誅殺賢能。當今討之、可不勞而定。帝乃許之。
【読み】
時に帝と中書令張華と棊を圍む。而るに預が表適々至れり。華枰を推し手を斂めて曰く、陛下聖明神武、朝野淸晏、國富み兵强く、號令一の如し。吳主は荒淫驕虐、賢能を誅殺す。當今之を討せば、勞せずして定まる可し、と。帝乃ち之を許す。

預以太康元年正月、陳兵于江陵、遣參軍樊顯・尹林・鄧圭、襄陽太守周奇等率衆、循江西上、授以節度、旬日之閒、累尅城邑。皆如預策焉。
【読み】
預太康元年正月を以て、兵を江陵に陳ねて、參軍樊顯・尹林・鄧圭、襄陽の太守周奇等をして衆を率いて、江に循いて西上せしめ、授くるに節度を以てして、旬日の閒、累[しき]りに城邑に尅つ。皆預が策の如し。

又遣牙門管定・周旨・伍巢等率奇兵八百、泛舟夜渡、以襲樂郷、多張旗幟、起火巴山、出於要害之地、以奪賊心。吳都督孫歆震恐、與伍延書曰、北來諸軍、乃飛渡江也。吳之男女降者萬餘口。
【読み】
又牙門管定・周旨・伍巢等をして奇兵八百を率いて、舟を泛べて夜渡りて、以て樂郷を襲わせ、多く旗幟を張り、火を巴山に起こし、要害の地に出でて、以て賊の心を奪わしむ。吳の都督孫歆震恐し、伍延に書を與えて曰く、北來の諸軍は、乃ち江を飛び渡れり、と。吳の男女降る者萬餘口なり。

旨・巢等伏兵樂郷城外。歆遣軍出拒王濬、大敗而還。旨等發伏兵、隨歆軍而入、歆不覺。直至帳下、虜歆而還。故軍中爲之謠曰、以計代戰一當萬。
【読み】
旨・巢等樂郷の城外に伏兵す。歆軍をして出でて王濬[おうしゅん]を拒ましめ、大いに敗れて還る。旨等伏兵を發し、歆が軍に隨いて入るに、歆覺らず。直ちに帳下に至り、歆を虜にして還れり。故に軍中之が謠を爲して曰く、計を以て戰に代え一萬に當たる、と。

於是進逼江陵。吳督將伍延僞請降而列兵登陴。預攻尅之。
【読み】
是に於て進みて江陵に逼る。吳の督將伍延僞りて降を請いて兵を列ね陴に登る。預攻めて之に尅つ。

旣平上流。於是沅湘以南、至於交廣、吳之州郡、皆望風歸命、奉送印綬。預仗節稱詔而綏撫之。
【読み】
旣に上流を平らぐ。是に於て沅湘より以南、交廣に至るまで、吳の州郡、皆風を望みて歸命し、印綬を奉送す。預節に仗[よ]り詔を稱して之を綏撫す。

凡所斬及生獲、吳都督監軍十四、牙門郡守百二十餘人。又因兵威徙將士屯戍之家、以實江北南郡故地、各樹之長吏。荆土肅然、吳人赴者如歸矣。
【読み】
凡そ斬り及び生獲する所、吳の都督監軍十四、牙門郡守百二十餘人なり。又兵威に因りて將士屯戍の家を徙して、以て江北の南郡の故地に實たして、各々之が長吏を樹つ。荆土肅然として、吳人の赴く者歸するが如し。

王濬先列上得孫歆頭。預後生送歆、洛中以爲大笑。時衆軍會議。或曰、百年之寇、未可盡尅。今向暑、水潦方降、疾疫將起。宜俟來冬、更爲大舉。預曰、昔樂毅藉濟西一戰、以幷强齊。今兵威已振、譬如破竹。數節之後、皆迎刃而解、無復著手處也。遂指授群帥、徑進秣陵。所過城邑,莫不束手。議者乃以書謝之。
【読み】
王濬先に孫歆の頭を得たりと列上す。預後に生きながら歆を送らば、洛中以て大笑を爲せり。時に衆軍會議す。或ひと曰く、百年の寇、未だ盡く尅つ可からず。今暑に向かい、水潦方に降り、疾疫將に起こらんとす。宜しく來冬を俟ちて、更に大舉を爲すべし、と。預曰く、昔樂毅濟西の一戰に藉りて、以て强齊を幷せり。今兵威已に振う、譬えば竹を破るが如し。數節の後、皆刃を迎えて解け、復手を著くる處無し、と。遂に群帥に指授して、徑[ただ]ちに秣陵に進む。過ぐる所の城邑,手を束ねざること莫し。議者乃ち書を以て之を謝せり。

孫皓旣平、振旅凱入。以功進爵當陽縣侯、增邑幷前九千六百戶。封子耽爲亭侯千戶、賜絹八千疋。
【読み】
孫皓旣に平らぎ、振旅して凱入す。功を以て當陽縣侯に進爵し、增邑前を幷せて九千六百戶。子耽を封じて亭侯千戶と爲し、絹八千疋を賜う。

預旣還鎭、累陳家世吏職、武非其功、請退。不許。
【読み】
預旣に鎭に還り、家世の吏職にして、武は其の功に非ざることを累陳して、退かんことを請う。許されず。

預以天下雖安、忘戰必危。勤于講武、修立泮宮。江漢懷德、化被萬里。攻破山夷、錯置屯營、分據要害之地、以固維持之勢。又修邵信臣遺跡、激用滍涓諸水、以浸原田萬餘頃、分疆刋石、使有定分、公私同利、衆庶賴之。號曰杜父。
【読み】
預以えらく、天下安しと雖も、戰を忘るれば必ず危うし、と。講武を勤め、泮宮を修立す。江漢德に懷き、化萬里を被らせり。山夷を攻め破りて、屯營を錯え置き、要害の地に分け據りて、以て維持の勢を固くす。又邵信臣が遺跡を修め、滍涓[ぎけん]の諸水を激し用いて、以て原田萬餘頃に浸し、疆を分けて石に刋り、定分有らしめて、公私利を同じくし、衆庶之に賴る。號して杜父と曰う。

舊水道、唯沔漢達江陵、千數百里北無通路。又巴丘湖沅湘之會、表裏山川、實爲險固、荆蠻之所恃也。預乃開楊口、起夏水、達巴陵千餘里、内瀉長江之險、外通零桂之漕。南土歌之曰、後世無叛由杜翁。孰識智名與勇功。
【読み】
舊水道は、唯沔漢のみ江陵に達して、千數百里北に通路無し。又巴丘湖沅湘の會は、山川を表裏して、實に險固と爲して、荆蠻の恃む所なり。預乃ち楊口を開き、夏水を起こして、巴陵に達すること千餘里、内は長江の險を瀉ぎ、外は零桂の漕を通ず。南土之を歌いて曰く、後世叛くこと無きは杜翁に由る。孰か識らん、智名と勇功とを、と。

預公家之事、知無不爲。凡所興造、必考度始終、鮮有敗事。或譏其意碎者。預曰、禹稷之功、期於濟世。所庶幾也。
【読み】
預公家の事、知れば爲さざること無し。凡そ興造する所、必ず始終を考度して、敗事有ること鮮し。或は其の意の碎なるを譏る者あり。預曰く、禹稷の功は、世を濟うに期す。庶幾する所なり、と。

預身不跨馬、射不穿札。而每任大事、輒居將率之列。結交接物、恭而有禮、問無所隱。誨人不倦、敏於事而愼於言。旣立功之後、從容無事。乃耽思經籍、爲春秋左氏經傳集解。又參攷衆家譜第、謂之釋例。又作盟會圖、春秋長曆、備成一家之學。比老乃成。又撰女記贊。當時論者謂預文義質直、世人未之重。唯秘書監摯虞賞之曰、左丘明本爲春秋作傳、而左傳遂自孤行。釋例本爲傳設、而所發明何但左傳。故亦孤行。時王濟解相馬、又甚愛之。而和嶠頗聚斂。預常稱濟有馬癖、嶠有錢癖。武帝聞之、謂預曰、卿有何癖。對曰、臣有左傳癖。
【読み】
預身ら馬に跨らず、射札を穿たず。而れども大事を任ずる每に、輒ち將率の列に居れり。交を結び物に接わり、恭にして禮有り、問わるれば隱す所無し。人に誨えて倦まず、事に敏にして言を愼めり。旣に功を立つるの後、從容無事なり。乃ち經籍を耽思して、春秋左氏經傳集解を爲る。又衆家の譜第を參攷して、之を釋例と謂う。又盟會圖、春秋長曆を作りて、一家の學を備成す。老いる比[ころ]に乃ち成れり。又女記贊を撰す。當時の論者預が文義質直なりと謂いて、世人未だ之を重んぜず。唯秘書監摯虞之を賞して曰く、左丘明本春秋の爲に傳を作りて、左傳遂に自ら孤行せり。釋例は本傳の爲に設くれども、而れども發明する所は何ぞ但に左傳ならん。故に亦孤行せん、と。時に王濟馬を相することを解し、又甚だ之を愛す。而して和嶠は頗る聚斂す。預常に稱す、濟は馬癖有り、嶠は錢癖有り、と。武帝之を聞いて、預に謂いて曰く、卿は何の癖か有る、と。對えて曰く、臣は左傳癖有り、と。

其後徵爲司隷校尉、加位特進。行次鄧縣而卒。時年六十三。帝甚嗟悼。追贈征南大將軍開府儀同三司。諡曰成。遺令薄葬。子錫嗣。
【読み】
其の後徵して司隷校尉と爲り、位特進を加う。行きて鄧縣に次[やど]りて卒す。時に年六十三。帝甚だ嗟悼す。征南大將軍開府儀同三司を追贈す。諡して成と曰う。遺令して薄葬せしむ。子錫嗣ぐ。


後序


大康元年三月、吳寇始平、余自江陵還襄陽、解甲休兵、乃申抒舊意、修成春秋釋例、及經傳集解、始訖、會汲郡汲縣、有發其界内舊冢者、大得古書。皆簡篇科斗文字。發冢者不以爲意、往往散亂。科斗書久廢、推尋不能盡通、始者藏在秘府、余晩得見之。所記大凡七十五卷、多雜碎怪妄、不可訓知。周易及紀年、最爲分了。周易上下篇、與今正同。別有陰陽說、而無彖・象・文言・繫辭。疑于時仲尼造之於魯、尙未播之於遠國也。其紀年篇、起自夏殷周。皆三代王事、無諸國別也。唯特記晉國起自殤叔、次文侯・昭侯、以至曲沃莊伯。莊伯之十一年十一月、魯隱公之元年正月也。
【読み】
大康元年三月、吳の寇始めて平らぎ、余れ江陵より襄陽に還り、甲を解き兵を休め、乃ち舊意を申抒[しんしょ]して、春秋釋例と、經傳集解とを修成して、始めて訖[お]わるとき、會[たま]々汲郡の汲縣に、其の界内の舊冢を發[あば]く者有り、大いに古書を得たり。皆簡篇科斗の文字なり。冢を發く者以て意とせずして、往往散亂す。科斗の書久しく廢して、推尋すれども盡く通ずること能わず、始めは藏めて秘府に在り、余れ晩に之を見ることを得たり。記す所大凡七十五卷、多くは雜碎怪妄にして、訓じ知る可からず。周易と紀年と、最も分了とす。周易上下篇は、今と正に同じ。別に陰陽說有りて、彖・象・文言・繫辭無し。疑うらくは時に于て仲尼之を魯に造り、尙未だ之を遠國に播かざるならん。其の紀年篇は、夏殷周より起こる。皆三代の王の事、諸國の別無し。唯特り晉國を記して殤叔より起こし、次に文侯・昭侯、以て曲沃の莊伯に至る。莊伯の十一年十一月は、魯の隱公の元年正月なり。

皆用夏正建寅之月爲歲首、編年相次。晉國滅、獨記魏事、下至魏哀王之二十年。蓋魏國之史記也。推校哀王二十年、太歲在壬戌。是周赧王之十六年、秦昭王之八年、韓襄王之十三年、趙武靈王之二十七年、楚懷王之三十年、燕昭王之十三年、齊湣王之二十五年也。上去孔丘卒百八十一歲、下去今大康三年五百八十一歲。哀王於史記、襄王之子、惠王之孫也。惠王三十六年卒、而襄王立。立十六年卒、而哀王立。古書紀年篇、惠王三十六年改元、從一年始、至十六年而稱惠成王卒。卽惠王也。疑史記誤分惠成之世、以爲後王年也。哀王二十三年乃卒。故特不稱謚謂之今王。其著書文意、大似春秋經。推此足見古者國史策書之常也。
【読み】
皆夏正建寅の月を用いて歲首と爲して、編年相次ず。晉國滅び、獨り魏の事を記して、下魏の哀王の二十年に至る。蓋し魏國の史記ならん。哀王の二十年を推校するに、太歲壬戌に在り。是れ周の赧王[たんおう]の十六年、秦の昭王の八年、韓の襄王の十三年、趙の武靈王の二十七年、楚の懷王の三十年、燕の昭王の十三年、齊の湣王の二十五年なり。上孔丘の卒を去ること百八十一歲、下今の大康三年を去ること五百八十一歲なり。哀王は史記に於て、襄王の子、惠王の孫なり。惠王は三十六年にして卒して、襄王立つ。立ちて十六年にして卒して、哀王立つ。古書紀年篇には、惠王三十六年にして改元し、一年從り始まり、十六年に至りて惠成王卒すと稱す。卽ち惠王なり。疑うらくは史記には誤ちて惠成の世を分かちて、以て後王の年と爲すならん。哀王は二十三年にして乃ち卒す。故に特り謚を稱せずして之を今王と謂えり。其の著書文意、大いに春秋經に似たり。此を推すときは古の國史策書の常を見るに足れり。

稱魯隱公及邾莊公盟于姑蔑、卽春秋所書邾儀父、未王命。故不書爵。曰儀父、貴之也。又稱晉獻公會虞師伐虢、滅下陽、卽春秋所書虞師晉師滅下陽、先書虞、賄故也。又稱周襄王會諸侯于河陽、卽春秋所書天王狩于河陽。以臣召君、不可以訓也。
【読み】
魯の隱公と邾[ちゅ]の莊公と姑蔑に盟うと稱するは、卽ち春秋に書す所の邾の儀父、未だ王より命ぜられず。故に爵を書さず。儀父と曰うは、之を貴ぶ、と。又晉の獻公虞の師に會して虢[かく]を伐ち、下陽を滅ぼすと稱するは、卽ち春秋書す所の虞の師晉の師下陽を滅ぼす、先ず虞を書すは、賄の故なり、と。又周の襄王諸侯を河陽に會すと稱するは、卽ち春秋に書す所の天王河陽に狩す。臣を以て君を召すは、以て訓えとす可からず、と。

諸若此輩甚多。略舉數條、以明國史皆承告、據實而書時事、仲尼修春秋、以義而制異文也。又稱衛懿公及赤翟戰于洞澤。疑洞當爲泂。卽左傳所謂熒澤也。齊國佐來獻玉磬紀公之甗、卽左傳所謂賓媚人也。諸所記多與左傳符同、異於公羊・穀梁。知此二書、近世穿鑿、非春秋本意審矣。雖不皆與史記・尙書同、然參而求之、可以端正學者。
【読み】
諸々此の若きの輩甚だ多し。略々數條を舉げて、以て國史は皆告を承け、實に據りて時事を書し、仲尼の春秋を修むるは、義を以てして異文を制するを明かす。又衛の懿公と赤翟と洞澤に戰うと稱す。疑うらくは洞は當に泂[けい]に爲るべし。卽ち左傳に所謂熒澤[けいたく]なり。齊の國佐來りて玉磬紀公の甗[こしき]を獻ずとは、卽ち左傳に所謂賓媚人なり。諸々記す所多く左傳と符同して、公羊・穀梁に異なり。知る、此の二書は、近世の穿鑿にして、春秋の本意に非ざること審らかなることを。皆史記・尙書と同じからずと雖も、然れども參えて之を求むれば、以て學者を端正す可し。

又別有一卷、純集疏左氏傳卜筮事、上下次第、及其文義、皆與左傳同。名曰師春。師春似是抄集者人名也。
【読み】
又別に一卷有りて、純ら左氏傳卜筮の事を集疏して、上下の次第、及び其の文義は、皆左傳と同じ。名づけて師春と曰う。師春は是れ抄集する者の人名に似たり。

紀年又稱殷仲壬卽位居亳、其卿士伊尹。仲壬崩、伊尹放大甲于桐、乃自立也。伊尹卽位、於大甲七年、大甲潛出自桐、殺伊尹、乃立其子伊陟・伊奮、命復其父之田宅而中分之。左氏傳伊尹放大甲而相之。卒無怨色。然則大甲雖見放、還殺伊尹、而猶以其子爲相也。此爲大與尙書敍說大甲事乖異。
【読み】
紀年に又殷の仲壬位に卽き亳に居り、其れ伊尹を卿士とす。仲壬崩じ、伊尹大甲を桐に放ち、乃ち自立す。伊尹位に卽き、大甲を於[はな]つこと七年、大甲潛かに桐より出でて、伊尹を殺し、乃ち其の子伊陟・伊奮を立てて、命じて其の父の田宅を復して之を中分すと稱す。左氏傳には伊尹大甲を放ちて之に相たり。卒に怨色無し、と。然らば則ち大甲放たると雖も、還って伊尹を殺して、猶其の子を以て相とす。此れ大いに尙書の敍に大甲の事を說くと乖異すとす。

不知老叟之伏生、或致昬忘、將此古書亦當時雜記、未足以取審也。爲其粗有益於左氏、故畧記之、附集解之末焉。伊尹事見襄廿一年傳。
【読み】
知らず、老叟の伏生、或は昬忘を致せるか、將此の古書も亦當時の雜記にして、未だ以て審を取るに足らざるか。其の粗々左氏に益有るが爲に、故に之を畧記して、集解の末に附く。伊尹の事は襄廿一年の傳に見えたり。


陸氏音義

春秋序 此元凱所作、旣以釋經。故依例音之。本或題爲春秋左氏傳序者、沈文何以爲釋例序。今不用。
繫日。工帝反。別同異。彼列反。錯舉。七各反。下皆同。於策。本又作册。亦作筴。同、初革反。簡牘。徒木反。孟子。孟子、書名。姓孟、名軻。字子輿。鄹邑人。與齊宣王同時人。著此書。檮杌。五忽反。檮杌、四凶之一。之乘。繩證反。車乘也。一云兵乘。韓宣子。宣子名起。晉大夫。盡在。津忍反。後放此。以王。于況反。又如字。赴告。古毒反。一音古報反。記注。張住反。字或作註。則刊。苦旦反。削也。先經。悉薦反。後經。戶豆反。所重。直用反。又直龍反。將令。力呈反。下令學者同。要終。於遥反。究。久又反。饜。於豔反。飫。於預反。自趨。七住反。又七倶反。之浸。子鴆反。膏。古刀反。渙。呼亂反。怡。以之反。闡幽。昌善反。明也。襃。保刀反。貶。彼檢反。字林、方犯反。暢之。勑亮反。歸趣。七住反。文見。賢遍反。下同。舍族。音捨。參會。七南反。又音三。與謀。音預。婉。於阮反。諱辟。本亦作避。音同。後放此。璧假。古雅反。後不音者同。不汙。於倶反。楹。音盈。刻。音克。桷。音角。獻捷。在妾反。懲惡。直升反。所傳。直專反。錯綜。宗宋反。爲斷。丁亂反。條貫。古亂反。而去。起呂反。子駿。音俊。創通。初亮反。字書作剏。亦復。扶又反。下同。以見。賢遍反。下同。比其。毗志反。譜。本又作■(言偏に並)。同、布古反。歷數。所具反。後不音者皆同。黜。勑律反。危行。下孟反。言孫。音遜。本亦作遜。不出。如字。又尺遂反。矣夫。音扶。下若夫同。瑞。垂僞反。其應。應對之應。之祚。才路反。胤。以刃反。不隊。直類反。成王。如字。又于況反。周正。音政。讀者多音征。後皆放此。通論。力頓反。近誣。如字。舊音附近之近。誣、音無。小邾。張倶反。射。音亦。袂。緜世反。拭。音式。

後序
申抒。時汝反。又直呂反。汲郡。音急。簡編。必仙反。又布千反。下同。科斗。苦禾反。彖。吐亂反。繫。戶計反。殤叔。音傷。大歲。音泰。周赧王。女版反。齊湣王。亡謹反。一音亡巾反。足見。賢遍反。儀父。音甫。守于。手又反。本亦作狩。○鼎按今本亦狩。數。所主反。洞。大弄反。一音童。爲泂。古熒反。又音螢。又音迥。熒澤。音螢。之甗。魚輦反。又音言。一音彥。仲壬。而林反。亳。步博反。大甲。音泰。中分。竝如字。又丁仲反。而相。息亮反。下同。老叟。素口反。昬忘。亡亮反。爲其。于僞反。粗有。才故反。又音麤。


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(引用文献)


江守孝三(Emori Kozo)