・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
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菜根譚(さいこんたん)前集 061~090 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
前集61項 春の暖かさが必要
学者有段兢業的心思、又要有段瀟洒的趣味。
若一味斂束清苦、是有秋殺無春生。
何以発育万物。
学ぶ者は、段(だん)の兢業(きょうぎょう)の心思(しんし)有(あ)り、又段(まただん)の瀟洒(しょうしゃ)の趣味有(しゅみあ)るを要(よう)す。
若(も)し一味(いちみ)に斂束清苦(れんそくせいく)なるにみならば、是れ秋殺(しゅうさつ)ありて春生(しゅんせい)無きなり、何を以(もっ)てか、万物(ばんぶつ)を発育(はついく)せん。
学問を志す者は、自分を戒める気持ちを持ったうえで、拘りのない心が必要だ。もし、自分を戒めし過ぎて、赤貧生活をしているようでは、落ち葉散る秋のようで、萌えぎ多き春には遠く、全てを活かすことは出来ない。
つまり、活人が学問で大成しようとするなら、自分を戒めし過ぎず、そこそこの生活を楽しみ、周囲の者を応援するような気持ちがなければ、大したことの無い人間で終わってしまうということ。
言い換えれば、活人は自分をも大事にする人なのだ。
前集62項 大功は功術なし
真廉無廉名。立名者正所以為貧。
大巧無巧術。用術者乃所以為拙。
真の廉(れん)には廉(れん)の名なし。正に貧(たん)となす所以(ゆえん)なり。
大巧(だいこう)は巧術(こうじゅつ)なし。術を用(もち)うるは、乃(すなわ)ち拙(せつ)と為(な)す所以(ゆえん)なり。
本当の清廉潔白な人には清廉潔白という評判は立たず、評判を立てるような人は、実は欲張りなで、本物は本物を証明しようとせず、証明しようとするようでは本物ではない。
つまり、秘すれば華、秘さざれば華ならず、ということで、二流の人間は一流に見せたがり、一流の人間は、それを表に出さない。
言い換えれば、活人は謙虚なのだ。
前集63項 満つれば欠ける
欹器以満覆、撲満以空全。
故君子寧居無不居有、寧処?不処完。
欹器(いき)は満(み)つるを以って覆(くつが)えり、撲満(ぼくまん)は空しきを以って全(まっとう)す。
故に君子は寧(むし)ろ無に居るも有に居らず、寧(むし)ろ?(けつ)に処(お)るも完に処(よ)らず。
その容器は満たしてしまうと倒れ、貯金箱は溜まると壊されてしまう。
上に立つ者は、「無」の境地に身を置き、物欲の世界は否定して、欠乏を善しとして完全を求めない。
つまり、指導者は、諸行無常を知って、適時適量適正を善しとし物欲を離れた心でなければならないということ。
言い換えれば、活人は秀でた教育者で組織経営者なのだ。
補足:欹器(いき)とは、中国古来の容器で、空では自立です、中身を満たせば倒れ、丁度良い量の時のみ役に立つ機能を有する教訓のための道具。(荀子・有坐篇にも登場する)
*撲満(ぼくまん)とは、土器製の貯金箱。
前集64項 名誉欲と功名心を去れ
名根未抜者、縦軽千乗甘一瓢、総堕塵情。
客気未融者、雖沢四海利万世、終為剰技。
名根(めいこん)の未だ抜(ぬ)けざる者は、縦(たと)い千乗(せんじょう)を軽(かろ)んじ一瓢(いっぴょう)に甘んずるとも、総(すべ)て塵情(じんじょう)に堕つ。
客気(かっき)の未だ融(と)けざる者は、四海(しかい)を沢(うるお)し万世(ばんせい)を利すと雖(いえど)も、終(つい)に剰技(じょうぎ)となる。
名誉欲を捨てきれない者は、口では謙遜して謙虚ぶっていても、周囲には全てバレている。
競争心を捨てきれない者は、たとえ世界を富ませ、後世にまで恩恵を与えたとしても、結局は無駄骨にある。
つまり、口先だけの人格者は、実際の生活が物欲まみれで、競争に現を抜かしているのはバレバレで、どんなメリットを社会与えようと、何れは捨てられる、ということ。
言い換えれば、活人の敵は活人の過去だと言える。
前集65項 心が澄んでいれば
心体光明、暗室中有青天。
念頭暗昧、白日下生厲鬼。
心体光明(しんたいこうみょう)なれば、暗室の中(うち)にも青天(せいてん)有り。
念頭暗昧(ねんとうあんまい)なれば、白日の下(もと)にも厲鬼(れいき)生ず。
心身に本物の智慧があれば、暗い部屋の中からでも青空が見えるようなもの。
本物の知識と理解力がなければ、真昼間から夜専門の悪魔が出てくるのと同じだ。
つまり、知識も智慧も理解力も本物でなければ、世の中の害になる、ということなのだ。
言い換えれば、活人の智慧は私利私欲を捨て、社会貢献のためにのみ使われるべきなのだ。
前集66項 ものは考えよう
人知名位為楽、不知無名無位之楽為最真。
人知饑寒為憂、不知不饑不寒之憂為更甚。
人は名位(めいい)の楽しみ為(た)るを知りて、名(な)無く位(くらい)無きの楽しみの最(っと)も真(しん)たるを知らず。
人は饑寒(きかん)の憂(うれ)い為(た)るを知りて、饑(う)えず寒(こご)えざるの憂いの更(さら)に甚(はなはだ)しきたるを知らず。
俗人は、地位や名誉の有る人が理想と考えることが多いが、地位も名誉も何もない人のが最も幸せだということを知らない。
俗人は、餓えや凍えが厳しいことを知って不安になることを知っていても、十分に満たされている者の不安が最も深刻であることを知らない。
つまり、隣の芝生は良く見えるが、その芝生を手に入れると幸せどころか大きな不安を手に入れることになるというようなものだ。
言い換えれば、無い物ねだりは、悲惨の極みということ。
翻って言えば、活人は無欲の大人と言える。
前集67項 善行のなかに悪の芽
為悪而畏人知、悪中猶有善路。
為善而急人知、善処即是悪根。
悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るは、悪中(あくちゅう)にも尚(なお)善路(ぜんろ)有り。
善を為(な)して人の知らんことを急(いそ)ぐは、善処(ぜんしょ)即(すなわ)ち是(これ)悪根(あっこん)なり。
悪いことをしていながら、他人に知られるのを恐れるのは、悪の中にいながらも善の道を歩ける可能性がある。
良いことをしていながら、他人に知られるのを急ぐのは、善を行った事そのものが悪の根源なのだ。
つまり、「高慢な者」より「恐れを知る者」の方が、未来に可能性があるということ。
言い換えれば、活人は、自分の本質を知っている人間と言うことだろう。
前集68項 安きに居りて危うきを思
天之機緘不測。
抑而伸、伸而抑、皆是播弄英雄、顛倒豪傑処。
君子只是逆来順受、居安思危。
天亦無所用其伎倆矣。
天の機緘(きかん)は測(はか)られず。抑(おさ)えて伸(の)べ、伸(の)べては抑(おさ)え、皆(みな)是れ英雄(えいゆう)を播弄(ばろう)し、豪傑(ごうけつ)を顛倒(てんとう)する処(ところ)なり。
君子は只だ是れ、逆に来たれば順(じゅん)に受け、安(やす)きに居りて危(あやう)きを思うのみ。天も亦(また)其の伎倆(ぎりょう)を用(もら)うる所無し。
天のカラクリは予想を超える。押さえつけたかと思えば伸ばし、伸ばしたかと思えば抑え、英雄を翻弄し、豪傑の足をすくって転ばしてしまう
しかし、上に立つ懸命な者は、向かい風が吹いた時は、追い風と受け止め、安全な時に危機を意識するの。よって、天でも、そのような者を妨害することはできない。
つまり、驕る平家は久しからず、ということであり、勝敗は絶えず流動的だから、偏らず囚われない心こそ自然界の勝利の法則だということ。
言い換えれば、活人は「克人」と買い換えることも出来るだろう。
前集69項 幸せをもたらすには
燥性者火熾、遇物則焚。寡恩者氷清、逢物必殺。
凝滞固執者、如死水腐木、生機已絶。
倶難建功業而延福祉。
燥性(そうせい)なる者、火のごとく熾(さかん)にて、物に遇(あ)わば則(すなわ)ち焚(や)く。寡恩(かおん)なる者は氷のごとく清く、物に逢えば必ず殺す。
凝滞固執(ぎょうたいこしつ)する者は、死水腐木(しすいふぼく)の如く、生機(せいき)已(すで)に絶(た)ゆ。倶(とも)に功業(こうぎょう)を建(た)てて福祉延べがたし。
心が渇いた者は、火が燃えるように激しく、出合った物をみな焼いてしまう。
情の薄い者は、氷のように冷たく、出会った者を必ず殺してしまう。
物事に強く固執する者は、澱んだ水や腐った木のように、生かす力を失っている。
このような人達は、大きな事業を起こし、人を幸福にするのは難しい。
つまり、価値のある人物とは、人間としての温かみを持ちながら、情に溺れず、拘り、囚われ、偏りのない人間ですよ、ということ。
言い換えれば、活人は心が広く情より仁を優先する人と言う事になる。
前集70項 幸福を呼びこむ
福不可徼。養喜神以為召福之本而已。
禍不可避。去殺機以為遠禍之方而已。
福は徼(もと)むべからず。喜神(きしん)を養(やしな)いて、以って福を召くの本(もと)と為(な)さんのみ。
禍(わざわい)は避(さ)くべからず。殺機(さっき)を去(のぞ)きて禍(わざわい)を遠ざくるの方と為(な)さんのみ。
幸福は求めて得られるものではない。幸福を招く原理原則は、楽しみ、喜ぶ心を養うことである。
災難は避けようとして避けられない。災難を避ける原理原則は、殺気だった心を無くすことである。
つまり、幸福や災難を避ける事は、心を豊かにする行為の結果と考えるべきで、目的にしてはならない。
言い換えれば、活人の人生目的は、心の豊な人間になることだと言えるだろう。
前集71項 多弁の落とし穴
十語九中、未必称奇、一語不中則愆尤駢集。
十謀九成、未必帰功、一謀不成則貲議叢興。
君子所以寧黙毋躁、寧拙毋巧。
十語(じゅうご)の九(きゅう)中(あた)るも、未(いま)だ必ずしも奇(き)と称せず。一語(いちご)中(あた)らざれば、則(すな)ち、愆尤駢(けんゆうなら)び集まる。
十謀(じゅうぼう)の九(きゅう)成(な)るも、未(いま)だ必ずしも功(こう)を帰せず。一謀(いちぼう)成らざれば貲議叢(しぎむらが)り興(おこ)る。
君子、寧(むし)ろ黙(もく)なるも躁(そう)なること毋(な)く、寧(むし)ろ拙(せつ)になるも巧なることなき所以(ゆえん)なり。
言っている事の90%が正しいからと言って、必ずしも優れた人間とは言えず、誤った10%の不備に非難が集まることがある。
戦略の90%が達成できたからと言って、必ずしも大きな功績があるとは言えず、10%の未達に誹謗中傷が集まる。
これが、上に立つ者は雄弁よりは寡黙で、如才ないより気が利かない方が良いという理由である。
つまり完全がないからと言って、ほぼ完全で満足していれば、粗探しされるので、賢明な指導者は、そこそこが良いということ。
言い換えれば、活人は100点を目指して、95点で嘆くより、100点を目指して80点で満足し、次の機会に120点を目指すようにしたい。
前集72項 心の暖かい人
天地之気、暖則生、寒則殺。
故性気清冷者、受享亦凉薄。
唯和気熱心之人、其福亦厚、其沢亦長。
天地の気、暖(だん)なれば則(すなわ)ち生じ、寒なれば則(すなわ)ち殺(さい)す。
故に性気(せいき)の清冷(せいれい)なる者は、受享(じゅきょう)も亦(ま)た凉薄(りょうはく)なり。
唯(た)だ、気が和らかく、心熱つき人のみ、其の福も亦(ま)た厚く、その沢(うるおい)も亦(ま)た長し。
大自然の「気」が、暖かければ生まれ、寒ければ死ぬ。
だから、人の「気」が冷たければ、受ける幸福も少ない。
よって「気」が穏やかで、暖かい人だけが、恵みを長く味わえるのだ。
つまり、幸福は穏やかな者にのみ実現するということ。
言い換えれば、活人は活き活き働きつつも、穏やかな穂とと言えるだろう。
前集73項 真理の道に遊ぶ
天理路上甚寛、稍遊心、胸中便覚広大宏朗。
人欲路上甚窄、纔寄迹、眼前倶是荊棘泥塗。
天理の路上は甚(はなは)だ寛(ひろ)く、稍(やや)心を遊ばせば、胸中は便(すなわ)ち広大宏朗(こうだいこうろう)なるを覚(おぼ)ゆ。
人欲の路上は甚(はなは)だ窄(せま)く、纔(わず)かに迹(あと)を寄すれば、眼前は倶(とも)に是れ荊棘泥塗(けいきょくでいと)なり。
真理に向かう天の道は広く、心をチョット遊ばせれば、広く伸び伸びとした感覚が湧く。
私利私欲の迷いの道は狭く、一歩でも入り込めば、いばらや、泥だらけの道であることが解かる。
つまり、清心万能、邪心万危ということ。
言い換えれば、活人は、私利を離れ、公利を目指して働く者と言える。
前集74項 持続する幸福
一苦一楽相磨練、練極而成福者、其福始久。
一疑一信参勘、勘極而成知者、其知始真。
一苦一楽(っくいちらく)して、相磨練(あいまれん)し、練極(れんきわ)まりて福(ふく)を成さば、その福始(ふくはじ)めて久(ひさ)し。
一疑一信(いちぎいっしん)して、相参勘(あいさんかん)し、勘極(かんきわ)まりて知(ち)を成(なさ)ば、其の知(と)始(はじ)めて真(しん)なり。
一喜一憂しながらも、切磋琢磨して得られた幸福は、長く続くもの。
試行錯誤しながらも、思考をを続け、真偽を考え抜きて得られた知識こそ本物である。
つまり、棚ボタの幸福は一瞬のものであり、自分で考えるのではなく、他人から教えられたような知識は知識と言えない、ということ。
言い換えれば、活人が、本物を手に入れるには、それなりの苦労が必要ということ。
前集75項 心は虚にし実にする
心不可不虚。虚則義理来居。
心不可不実。実則物欲不入。
心、虚(きょ)ならざるべからず。虚(きょ)なれば則(すなわ)ち義理来たりて居(お)る。
心、実(じつ)ならざるべからず。実なれば則(すなわ)ち物欲は入(い)らず。
心はいつでも空虚にしておく必要がある。空虚になっていれば正論は自然に解かる。
心はいつでも充実させておく必要がある。充実していれば、物欲など入る余地はない。
つまり、心の空間を「無」で満たしておけば、拝金主義は消え真理が見えるということ。
言い換えれば、活人は真理を見通せる人なのだ。
前集76項 水清ければ魚すまず
地之穢者多生物、水之清者常無魚。
故君子当在含垢納汚之量。不可持好潔独行之操。
地の穢(けが)れたるは、多く物を生じ、水の清めるは、常に魚無し。
故に君子は、当(まさ)に垢(こう)を含み汚(お)を納(い)るるの量(りょう)を在(そん)すべく、潔(けつ)を好み独り行なうの操を持(じ)すべからず。
見た目は悪いが肥沃な土地は沢山の作物が出来るが、綺麗すぎる水には魚は住まない。
だから上に立つ者は、見た目に惑わされることの無いような度量が必要で、潔癖で独りよがりな心を持ってはならない。
つまり、上に立つ者は清濁合わせ飲む懐ような心の広さと深さが必要なのだ、ということ。
言い換えれば、上に立てる者が活人で、活人はいつでも上に立っている心で生きて行くべきなのだ。
前集77項 やる気があれば進歩もする
泛駕之馬、可就駆馳。躍冶之金、終帰型範。
只一優游不振、便終身無個進歩。
白沙云、為人多病未足羞。
一生無病是吾憂。
真確論也。
泛駕(ほうが)の馬も駆馳(ちく)に就(つ)くべし。躍冶(やくや)の金(きん)も終(つい)に型範(けいはん)に帰す。
只(ただ)一(いつ)に優游(ゆうゆう)して振(ふる)わざれば、更(すなわ)ち終身(しゅうしん)個(こ)の進歩無(しんぽな)し。
白沙(はくさ)云(い)う、「人と為(な)り多病(たびょう)なるは、未だ羞(は)ずるに足らず、一生病(やまい)無きは、是れ吾(わ)が憂(うれ)いなり」と。
真(まこと)に確論(かくろん)なり。
馬車を転倒させるほどの暴れ馬でも扱えるし、扱い辛い金属も鋳型にはめられる。しかし、ブラブラしていている人間は扱い易いが、一生涯、進歩しない。
「生れながらに病弱なのを恥ずかしがることはないが、生涯病気知らずの方が心配だ」と陳白砂(明代の儒者)が言った事は本当だ。
つまり、多少問題があって解決してゆく方が進歩的で、問題の無いのは危険を内包しているので不安ですよ、ということ。
言い換えれば、活人は満ち足りてはいけないと言うことだ。
前集78項 無欲こそ宝である
人只一念貪私、便銷剛為柔、塞智為昏、変恩為惨、染潔為汚、壊了一生人品。
故古人以不貪為宝、所以度越一世。
人は只だ一念貪私(いちねんたんし)なれば、便(すなわ)ち剛(ごう)を銷(け)して柔(じゅう)となし、智を塞(ふさ)ぎて昏(こん)となし、恩を変じて惨(さん)となし、潔を染(そ)めて汚(お)となし、一生の人品を壊了(かいりょう)す。
故に古人は貪(むさぼ)らざるを以って宝(たから)となせば、一世に度を越する所以なり。
人間は欲を張ると、強みは弱みとなり、智慧は輝きを失い、優しさは残酷さに変り、潔白は汚れ、品格は地に落ちてしまう。
だから、昔の人は、「清貧こそ宝」として一生を精進した。
つまり、強欲が人生を破滅させ、清貧が成功をもたらすよ、ということ。
言い換えれば、活人が福を追えば逃げ、追わなければ来るので、「招く」という気持ちが一番ということ。招福という発想。
前集79項 内外の賊
耳目見聞為外賊、情欲意識為内賊。
只是主人翁、惺惺不昧。
独坐中堂、賊便化為家人矣。
耳目見聞(じもくけんぶん)は外賊(がいぞく)為(た)り。情欲意識(じょうよくいしき)は内賊(ないぞく)たり。
只だ是れ主人翁(しゅじんおう)にて、惺々不昧(せいせいふまい)。
中堂(ちゅうどおう)に独坐(どくざ)すれば、賊(ぞく)も便(すなわ)ち化(か)して家人(かじん)と為(な)らん。
見聞きするだけの者は盗人、欲望や浅考は、手を噛む飼い犬のようなもの。
しかし、人間に本来備わっている善なる心を「坐禅」をして守れば、汚染もされず、盗人も飼い犬も家族のような存在となるのだ。
つまり、人間は外部からの情報とそれを反映した考えが貧しい心をつくろうとするが、日々の坐禅をして修行して自分の本来心さえしっかりしておけば、卑しい人生を送らないということ。
言い換えれば、活人は拡大家族で生きる卑しさを敵としている人間と言える。
前集80項 将来の失敗に備えよ
図未就之功、不如保已成之業。
悔既往之失、不如防将来之非。
未だ就(な)らざるの功を図るは、已(すで)に成るの業を保つに如かず。
既往(きおう)の失(しつ)を悔(く)ゆるは、将来の非を防ぐに如かず。
まだ結果が出ていない仕事を考えることは、現業を継続することには及ばない。
また、既に明らかになった損害を後悔するのは、未来の損失を予防することに及ばない。
つまり、事業は現業を重視し、未来のリスクを予防することが、過去の失敗に囚わり、計画中の事業に現をぬかすより重要だということ。
言い換えれば、活人は、今を重視し、誤りの再現に心を配りながら、前に進むことが肝要ということ。
前集81項 バランス感覚
気象要高曠、而不可疎狂。
心思要?密、而不可瑣屑。
趣味要冲淡、而不可偏枯。
操守要厳明、而不可激烈。
気象(きしょう)は高曠(こうこう)なるを要(よう)するも、而(しか)して疎狂(そきょう)なるべからず。
心思(しんし)は?密(しんみつ)なるを要するも、而(しか)して瑣屑(させつ)なるべからず。
趣味は冲淡(ちゅうたん)なるを要するもし、而して偏枯(へんこ)なるべからず。
操守(そうしゅ)は厳明(げんめい)を要するも、而して激烈(げきれつ)なるべからず。
意識は高くなければならないが、世の中に疎(う)いようでは駄目だ。
心使いには注意深くなければならないが、細かすぎては駄目だ。
趣味にはのめり込まない程度でなければばらないが、偏りすぎてはは駄目だ。
意志は強く明確に打ち出しておかなければならないが、強烈すぎては駄目だ。
つまり、志は高いが現実的で、些細な事に偏らず、思い込み過ぎず偏らずというのが人生の王道だ、ということ。
言い換えれば、活人は、目的を明確にして、目標に分解して、淡々と達成しながら、何事も臨機応変に、ということだろう。
前集82項 影を留めず
風来疎竹、風過而竹不留声。
雁度寒潭、雁去而潭不留影。
故君子、事来而心始現、事去而心随空。
風、疎竹(そちく)に来たるも、風過ぎて竹に声を留めず。
雁(かり)、寒潭(かんたん)を度るも、雁去りて潭(ふち)に影を留めず。
故に、君子は事(こと)来たりて、心に始めて現われ、事去りて心随(したが)って空し。
風はまばらな竹林に吹きこんでもサラサラと音をさせるが、風が止めば静かなもの。
雁(かり)が川を飛び越えて飛んでいれば、川面の影を落とすが、通り過ぎてしまえば影は川面にない。
つまり、上に立つ立派な者は、時に及んで心を動かすが、時が過ぎればさっぱりと忘れる。
言い換えれば、活人は、その時その時、その瞬間瞬間を大事にして、過ぎたことに囚われてはいけない、ということ。一日一生として生きろということ。
前集83項 甘すぎず辛すぎず
清能有容、仁能善断。
明不傷察、直不過矯。
是謂蜜餞不甜、海味不鹹、纔是懿徳。
清(せい)なるも能(よ)く容(い)るる有り、仁(じん)なるも能(よ)く断(だん)を善(よ)くす。
明(めい)なるも察(さつ)を傷つけず、直(ちょく)なるも矯(きょう)に過ぎず。
是れを蜜餞(みつせん)甜(あま)からず、海味(かいみ)鹹(から)からずと謂(い)う。
纔(わず)かに是れ懿徳(いとく)なり。
清廉潔白でありながら受容性があり、慈悲深いが決断力もある。
頭脳明晰でありながら批判的に人を傷つけることは無く、正直だが介入的でない。
このような人物は、甘すぎないケーキであり、塩辛すぎない塩辛のようで、それでこそ立派な美徳といえる。
つまり、立派な人とは硬軟両面を持ちつつ、行き過ぎも無い人だということ。
言い換えれば、活人に過不足なしといえるかもしれない。
前集84項 貧しいなかに風情あり
貧家浄払地、貧女浄梳頭、景色雖不艶麗、気度自是風雅。
士君子、一当窮愁寥落、奈何輙自廃弛哉。
貧家(ひんか)も浄(きよ)く地を払い、貧女(ひんじょ)も浄(きよ)く頭(こうべ)を梳(くしけず)れば、景色(けいしょく)は艶麗(えんれい)ならずと雖(いえど)も、気度(きど)は自(おの)ずから是れ風雅(ふうが)なり。
士君子(しくんし)、一(ひと)たび窮愁寥落(きゅうしゅうりょうらく)に当るも、奈何(いかん)ぞ輙(すなわ)ち自(みず)から廃弛(はいし)せんや。
貧しい家でもしっかりと掃き掃除をし、貧しい女でも綺麗に髪を梳いておけば、見かけは美しいとは言えなくても、チャーミングなのだ。
だから、一人前の人間は、困難な状態に陥っても、おたおたして逃げ出さないものだ。
つまり、一人前の人間は質実剛健ということだ。
言い換えれば、活人は一人前の人間の上に立つところから、質実剛健の見本を示せる人間ということだ。
前集85項 ふだんの心がけ
閑中不放過、忙処有受用。
静中不落空、動処有受用。
暗中不欺隠、明処有受用。
閑中(かんちゅう)に放過(ほうか)せざれば、忙処(ぼうしょ)に受用(じゅよう)有り。
静中(せいちゅう)に落空(らっくう)せざれば、動処(どうしょ)に受用有り。
暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)せざれば、明処(めいしょ)に受用有り。
閑な時でもブラブラしなければ、忙しい時でも、それが役立つ。
静かな時でもポヤッとしなければ、事ある時でも、にはそれが役立つ。
誰も見ていない時でもワルサをしなければ、人前でも、それが役立つ。
つまり、日ごろから陰日向無く淡々と暮らしていれば、イザという時でも苦労はないということ。
言い換えれば、活人は小さな事にも手を抜かない人間ということだ。
前集86項 ちょっとした迷いでも
念頭起処、纔覚向欲路上去、便挽従理路上来。
一起便覚、一覚便転。
此是転禍為福、起死回生的関頭。
切莫軽易放過。
念頭(ねんとう)起(お)こる処(ところ)、纔(わず)かに欲路(よくろ)上(じょう)に向かって去るを覚(さと)らば、便(すなわ)ち挽(ひ)きて理路(りろ)上(じょう)より来(き)たせ。
一たび起(お)こらば便(すな)ち覚(さと)り、一たび覚(さと)らば便(すなわ)ち転(てん)ず。
此(これ)は是(これ)、禍(わざわい)を転(てん)じて福(ふく)と為(な)し、死(し)を起(お)こして生(せい)を回(かえ)すの関頭(かんとう)なり。
切(せつ)に軽易(けいい)に放過(ほうか)すること莫(なか)れ。
心が動いた時、欲望に傾いていると感じたら、直ぐに道理の方向に修正せよ。
チョッとでも心が動いたと感じたら、それを感じて正しい方向へ舵をきれ。
それこそが、災いを幸いに転じ、起死回生の大チャンスなのあから、軽々しく見逃すようななということ。
つまり、変化は芽が出た瞬間に対応すれば、悪い方向には行かないし、起死回生の一発だって可能だということ。
言い換えれば、活人は観自在の物事が看え、素直な心の持ち主ということだ。
前集87項 自分の心を認識する
静中念慮澄徹、見心之真体。
閑中気象従容、識心之真機。
淡中意趣冲夷、得心之真味。
観心証道、無如此三者。
静中(せいちゅう)の念慮澄徹(ねんりょちょうてつ)なれば、心(こころ)の真体(しんたい)を見る。
閑中(かんちゅう)の気象従容(きしょうしゅうよう)なれば、心の真機(しんき)を識(し)る。
淡中(たんちゅう)の意趣冲夷(いしちゅうい)なれば、心の真味(しんみ)を得(う)る。
心を観(かん)じ道(みち)を証(しょう)するは、此(こ)の三者(さんしゃ)に如(し)くは無し。静けさ中で、澄みきった思い考えが出来ていれば、心の本当の在り方が見える。
閑な時に、ゆったりと気持ちが落ち着いていれば、心の本当の動き方が見える。
穏やかな時に、わだかまり無く淡々としていれば、心の本当の味い方が見える。
本心を知り、正道を理解するには、前出の3つの方法に勝るものはない。
つまり、どんなときでも、清らかで落ち着いていて淡々としていることが悟りへの最短距離だということ。
言い換えれば、活人は人生を其れなりに悟り、日々に気付きがある人といえる。
前集88項 動中の静、苦中の楽
静中静非真静。
動処静得来、纔是性天之真境。
楽処楽非真楽。
苦中楽得来、纔見心体之真機。
静中(せいちゅう)の静(せい)は真(まこと)の静(せい)に非(あら)ず。
動処(どうしょ)に静(せい)を得(え)来たりて、纔(わずか)に是れ性天(せいてん)の真境(しんきょう)なり。
楽処(らくしょ)の楽(らく)は真(まこと)の楽(らく)に非(あら)ず。
苦中(くちゅう)に楽(らく)を得(え)来たりて、纔(わずか)に心体(しんたい)の真機(しんき)を見る。
静寂な環境で感じる物静かな心は本物の静か心でははない。
雑踏の中でも静寂な心を得られるようになれば、それが生れながらの本当の心の在り方なのだ。
安楽な環境で感じられる喜びは本物の喜びではない。
苦境の中でも喜びの心を得られるようになれば、それが生れながらの本当の心の働きなのだ。
つまり、本物というのは、それらしい状態や環境では得られず、考えられない状態や環境で得られるものが本物だということ。
言い換えれば、活人は、絶望の中で希望を知り、絶頂の中で寂しさを知ることだということ。
前集89項 返礼を期待しない
舎己毋処其疑。処其疑、即所舎之志多愧矣。
施人毋責其報。責其報、併所施之心倶非矣。
己(おのれ)を舎(す)てては、其の疑いに処(お)ること毋(なか)れ。
其の疑いに処(お)らば、即(すなわ)ち舎(す)つる所(ところ)の志も多く愧(は)ず。
人に施(ほどこ)しては、其の報(みく)いを責(せ)むること毋(なか)れ。
その報(むき)を責(せ)むれば、併(あわ)せて施(ほどこ)す所(ところ)の心も倶(とも)に非なり。
我を捨てたら、それを疑ってはならない。
何故なら、疑いが起きるということは、自分で自分を疑うのだから、自分を辱めているようなものだ。
他人に施しをしたら、見返りを求めてはならない。もし求めれば、施すという高い志を捨てることになるのだ。
つまり、自分の本心を信じ、反対給付を求めない心が出来たら、それが「悟り」というものだ。
言い換えれば、活人が目指す生き様は、自分自身を信じ切って生きるということだろう。
前集90項 天の意志をはね返す
天薄我以福、吾厚吾徳以?之。
天労我以形、吾逸吾心以補之。
天阨我以遇、吾亨吾道以通之。
天且奈我何哉。
天、我を薄くするに福を以ってせば、吾、吾が徳を厚くして以って之を?(むか)えん。
天、我を労(ろう)するに形を以ってせば、吾、吾が心を逸して以って之を補わん。
天、我を阨(やく)するに遇(ぐう)を以ってせば、吾、吾が道を亨(とお)らしめて以って之を通ぜしめん。
天も且つ我を奈何(いかん)せんや。
天が私にわずかな幸福しか与えないなら、私は私の徳行を高くすることで対処しよう。
天が私に苦労を与えるなら、私は私の心を鍛えあげて調和させよう。
天が私に災いに出合わせるなら、私は私の信じる道を貫いて天に通じさせよう。
例え天であれ、私の信じる道に対し何も出来ない。
つまり、どんな境遇や状態でも、自分の信じる道を貫こうといこと。
言い換えれば、活人は、意志が強いのだ。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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