・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
菜根譚(さいこんたん) 前集 211~225 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
前集211項 的確な判断
風斜雨急処、要立得脚定。
花濃柳艶処、要着得眼高。
路危径険処、要回得頭早。
風(かぜ)斜(なな)めに雨(あめ)急(きゅう)なる処(ところ)は、脚(あし)を立(た)ち得(え)て定(さだ)めんことを要(よう)す。
花(はな)濃(こま)やかに柳(やなぎ)艶(えん)なる処(ところ)は、眼(め)を着(つ)け得(え)て高(たか)らんことを要(よう)す。
路(みち)危(あや)うく径(こみち)険(けわ)しき処(ところ)は、頭(あたま)を回(めぐ)らし得(え)て早(はや)からんことを要(よう)す。
嵐が吹き荒れる所では、足をしっかり立てて踏ん張る必要がある。
花の色が鮮やかで、柳が艶(あで)やかな場所では、視線を上げる必要がある。
大きな通りでも小道でも、危険な場所なら、即断即決して行動する必要がある。
つまり、人生には危険が付き物で、リスク管理をしっかりしなさい、ということ。
言換えれば、活人のリスク管理が甘いと、周囲は皆、大きな怪我をすることを忘れるな。
前集212項 欠けたものを補う
節義之人済以和衷、纔不啓忿争之路。
功名之士承以謙徳、方不開嫉妬之門。
節義(せつぎ)の人(ひと)は、済(すく)うに和衷(わちゅう)を以(もっ)てせば、纔(わず)かに忿争(ふんそう)の路(みち)を啓(ひら)かず。
功名(こうめい)の士(し)は、承(う)くるに謙徳(けんとく)を以(もっ)てせば、方(ま)さに嫉妬(しっと)の門(もん)を開(ひら)かず。
節操のある人は、協調性を身に付ければ、トラブルの少ない生き方が開ける。
名誉を重んじる人は、謙譲心を身に付ければ、嫉妬の対象とならずに澄む。
つまり、固い人間はトラブルに巻き込まれ、大義名分を重視する人間は嫉妬心の対象になってしまうので、節操や大義というものは大切なのだが、あまりに拘り過ぎると、嫌われて足を引っ張られますよ、ということ。
言換えれば、活人は、環境を敏感に感じ取って、臨機応変に対応すべきなのだ。
前集213項 にあるとき、野にあるとき
士大夫、居官不可竿牘無節。
要使人難見、以杜倖端。
居郷不可崕岸太高。
要使人易見、以敦旧交。
士大夫(しだいふ)、官(かん)に居(い)ては竿牘(かんとう)も節(せつ)無かるべからず。
人(ひと)をして見(み)難(がた)からしめ、以(もっ)て倖端(こうたん)を杜(ふき)がんことを要(よう)す。
郷(ごう)に居(い)ては崕岸(がいがん)太(はなは)だ高(たか)くすべからず。
人(ひと)をして見(み)易(やす)からしめ、以(もっ)て旧交(きゅうこう)を敦(あつ)くせんことを要(よう)す。
身分の高い者は、公職や官職を引き受けている間は、手紙やメールを書くにも節度を意識しなければならない。
それは他人に心を見透かされ、突け込まれる隙を与えないようにためだ。
また、公職や官職を終わって地元に戻ってからは、お高く留まって偉そうにしてはならない。
それは他人からわかりやすくして、旧交を温めるようにしなければならないからだ。
つまり、公の仕事をしている時は公明正大で、旧知の共とも一線を隔していないと、利益誘導を懇願されることになり、一度でも引き受けるとズルズルとなるし、経営現場では経営の透明性を維持して旧知の共との関係を厚くしなさいということ。
言い換えると、活人は、私人と公人の処世術は異なるということを知って事前に対処しておくことだ。
前集214項 畏敬の念を持つ
大人不可不畏。
畏大人、則無放逸之心。
小民亦不可不畏。
畏小民、則無豪横之名。
大人(たいじん)は畏(おそ)れざるべからず。
大人(たいじん)を畏(おそ)るれば、放逸(ほういつ)の心(こころ)無(な)し。
小民(しょうみん)も亦(また)畏(おそ)れざるべからず。
小民(しょうみん)を畏(おそ)るれば、則(すなわ)ち豪横(ごうおう)の名(な)無(な)し。
高い人格の人に畏敬の念を持つべきである。
畏敬の念を持てば、生きていく上で、散漫になることは無い。
一般人に対してもやはり畏敬の念を持つべきである。
畏敬の念を持てば、思い上がった横暴な者という評判が立たなくなる。
つまり、人間は謙虚になれば成功しますよということ。
言換えれば、活人は、「賢者は愚者にも学び、愚者は賢者もに学べず」を座右の銘にしておきなさい。
前集215項 他と比較する
事稍払逆、便思不如我的人、則怨尤自消。
心稍怠荒、便思勝似我的人、則精神自奮。
事(こと)稍(やや)払逆(ふっぎゃく)するとき、便(すなわ)ち我(われ)に如(し)かざるの人(ひと)を思(おも)わば、則(すなわ)ち怨尤(えんゆう)自(おの)ずから消(き)えん。
心(こころ)稍(やや)怠荒(たいこう)するとき、便(すなわ)ち我(われ)より勝(まさ)れるの人(ひと)を思(おも)わば、則(すなわ)ち精神(せいしん)自(おの)ずから奮(ふる)わん。
物事が思うようにならない時、自分より劣るような人間を思い出せば、不平不満に思える心は消え、やる気を失いかけたら自分より勝る人を思い出せばやる気が出てきますよ、ということ。
言換えれば、自分とおう存在は最高でもなければ最低でもないということがしっかり認識し、結果を意識せず、目の前ある事に全力を尽くしていれば、苦しまないで済みますよということ。
翻って言えば、活人が会得しておくべき大きな技は、セルフ・ストレス・マネージメントなのだ。
前集216項 後悔のもと
不可乗喜而軽諾。
不可因酔而生嗔。
不可乗快而多事。
不可因倦而鮮終。
喜(よろこ)びに乗(じょう)じて諾(だく)を軽(かる)くすべからず。
酔(すい)に因(よ)りて嗔(いかり)を生(しょい)ずべからず。
快(かい)に乗(じょうじて)じて事(こと)を多(おお)くすべからず。
倦(けん)に因(よ)りて終(おわ)りを鮮(すく)なくすべからず。
喜びのあまり、軽はずみな許しを出してはいけない。
酔った事により、怒りを爆発させてはいけない。
楽しみのあまり、仕事を増やしてはならない。
飽きた事により、いい加減な終わり方をしてはならない。
つまり、活人は、情動や感情に任せて、合理的な判断を変えてはならない。
言換えれば、喜怒哀楽に支配されている時は、大事なことをするなということ。
前集217項 真髄に触れ本質に迫る
善読書者、要読到手舞足蹈処、方不落筌蹄。
善観物者、要観到心融神洽時、方不泥迹象。
善(よ)く書(しょ)を読(よ)む者は、手(て)舞(ま)い足(あし)蹈(ふ)む処(ところ)に読(よ)み到(いた)るを要し、方(はじ)めて筌蹄(せんてい)に落(お)ちず。
善(よ)く物(もの)を観(み)る者は、心(こころ)融(と)け神(かみ)洽(やわら)ぐの時(とき)に観(み)到(いた)らんことを要(よう)す。
方(まじ)まに迹象(せきしょう)に泥(なじ)まず。
真剣に本から学ぼうとする者は、とことん読み込んで、真実を発見して全身が躍動してしまう位まで読み深めれば、文字面に囚われなくなる。
真剣に物事を観察しようとする者は、自他一如となるまで観察し尽くせば、表面的な現象に引きずられなくなる。
つまり、何事も事を始めるからにはとことんやれば、本質が見えてきますということ。正に法門の数は無限だが、中心は一つということ。
言い換えれば、中途半端な気持ちでは時間の無駄ですよということで、これこそ「活人」のための教訓そのものなのだ。
前集218項 天の罪人
天賢一人、以誨衆人之愚。
而世反逞所長、以形人之短。
天富一人、以済衆人之困。
而世反挾所有、以凌人之貧。
真天之戮民哉。
天(てん)、一人(いちにん)を賢(けん)にして、以て衆人(しゅうじん)の愚(ぐ)を誨(おしえ)んとす。
而(しか)るに世(よ)は反(かえ)りて長(ちょう)ずる所(ところ)を逞(たくま)しくして、以(もっ)て人の短(たん)を形(あら)わす。
天(てん)、一人(いちにん)を富(と)ましめて、以(もっ)て衆人(しゅじん)の因(くるしみ)を済(すく)わん。
而(しか)して世(よ)は反(かえ)りて有(ゆう)する所(ところ)を挟(さしはさ)みて、以(もっ)て人(ひと)の貧(ひん)を凌(あなど)る。
真(まこと)に天(てん)の戮民(りょうみん)なるかな。
天は大衆から一人を選んで「賢者」として愚者を導かせようとしたが、現実の世で賢者は天の意思を無視して、その智慧を振り回し、大衆の愚のみを暴いてしまった。
天は大衆から一人を選んで「富者」として貧者を救済させようとしたが、現実の世で富者は天の意思を無視して、その財貨を振り回し、貧者の苦しみを侮(あなど)ってしまった。
このような賢者と富者は天罰を受けるべき罪人である。
つまり、偶然に賢者となり、偶然に富者となった者は、それを「使命」と理解し、活人としての自覚を以て、恵まれた才能や財産を活用して世の中に貢献すべきであるということ。
言い換えれば、活人は「自分の弱点」を嘆くのではなく、「人それぞれの強み」を発見して活かし、それを資源として認識し、社会に貢献しなければならないのだ。
前集219項 中途半端な人間
至人何思何慮、愚人不識不知。
可与論学、亦可与建功。
唯中才的人、多一番思慮知識、便多一番億度猜疑、事々難与下手。
至人(しじん)、何(なに)かを思(おも)い、何をか慮(おもんぱか)り、愚人(ぐじん)不識不知(ふしきふち)なり。
与(とも)に学(がく)を論(ろん)ずべく、亦(また)与(とも)に功(こう)を建(た)つべし。
唯(ただ)中才(ちゅうさい)の人(ひと)、一番(いちばん)の思慮知識(しりょちしき)多ければ、便(すなわ)ち一番(いちばん)の億度猜疑(おくたくさいぎ)多く、事々(じじ)与(とも)に手(て)を下(くだ)し難(がた)し。
悟りに達した人は、殊更に考えたりせず、愚かな者は最初から知識も智慧もない。
だから、悟った人とは議論が出来るし、愚かなものとは仕事ができる。
一方、中途半端な人は、やたらに考えるくせに素直に考えられないで猜疑心に囚われるので、面倒を見るのは難しい。
つまり、中途半端な人間は使い辛いですよ、という活人に対する警鐘なのだろう。
ところが、この詩は菜根譚前集222項の中で訳者として理解しがたい。理由は大半が中庸を善しとしているが、この詩は中庸を否定しているようだ。確かに、現実の社会では十分に理解は出来るが、それでは愚公の追認のようにも思える。
言い換えれば、これは活人に対する諭しではなく、「考えさせる」意味で加えられた訓だろう。
前集220項 口は心の門
口乃心之門。
守口不密、洩尽真機。
意乃心之足。
防意不厳、走尽邪蹊。
口(くち)は乃(すなわ)ち心(こころ)の門(もん)なり。
口(くち)を守(まも)ること密(みつ)ならざれば、真機(しんき)を洩(もら)し尽(つく)す。
意(い)は乃(すなわ)ち心(こころ)の足(あし)なり。
意(い)を防(ふせ)ぐこと厳(げん)ならざれば、邪蹊(じゃけい)を走(ゆ)き尽(つく)す。
口は心の「出入り口」である。
この口を慎重に守らないと、本来の心(本心)が完全に洩れて無くなってしまう。
意識こそ実は「心の足(働き)」である。
この意識を厳しく管理していないと、邪な方向に暴走してしまう。
つまり、活人を自認する者は、無駄口は使わず、しっかりと考えないと、最高の状態で生まれてきたのに、どんどん下らない人間に近づきますよということ。
言い換えれば、活人道とは、沈黙は金、「清心は万能、邪心は万危」ということ。
翻って言えば、活人お口は意識の出口だから、本心がちゃんと監査したもの意外は出さないようにということで、軽薄な思考と言動に警告を発していると考えられる。
前集221項 責任追及
責人者、原無過於有過之中、則情平。
責己者、求有過於無過之内、則徳進。
人(ひと)を責(せ)むるに、無過(むか)を有過(うか)の中(うち)に原(たず)ぬれば、則(すなわ)ち情(じょう)平(たいら)らかなり。
己(おの)れを責(せ)むるに、有過(うか)を無過(むか)の内(うち)に求(もと)むれば、則(すなわ)ち徳(とく)進(すす)むなり。
他人の責任を追及する時は、悪い所だけではなく、良い所を観れば、感情的にならないで済む。
自分の責任を追及する時は、良い所のなかにも悪い所を探し出せば、人格を向上させられる。
つまり、他人には正しい優しさを以て接すれば、問題はなくなるし、自分には厳しく接すれば人格は向上するということ。正にそれが活人道である。
言い換えれば、他人には弱みを要求しないで、強みを活かさせ、自分は強みを活かしつつも、弱みを無くすように精進せよということだ。
前集222項 人材を鍛える
子弟者大人之胚胎、秀才者士夫之胚胎。
此時、若火力不到、陶鋳不純、他日、渉世立朝、終難成個令器。
子弟(してい)は大人(たいじん)の胚胎(はいたい)にして、秀才(しゅうじん)は士夫(しふ)の胚胎(はいたい)なり。
此時(このとき)、若(も)し火力(かりょく)が到(いた)らず、陶鋳純(とうちゅう・じゅん)ならざれば、他日(たじつ)、世(よ)を渉(わた)り朝(ちょう)を立(た)つとき、終(つい)に個(こ)の令器(れいき)と成(な)り難(がた)し。
若者はオトナの卵であり、秀才は成功者の卵である。
このような状態は、陶器を焼き、金属を鋳造する時の火力不足のような事があれば、後日、生長して社会に出しても、大した器にはならないということ。
つまり、成長過程にある活人は、適正な厳しさを以て未来の人材を育成していないと、未来を支える人材を失う事になりますよ、ということ。
言換えれば、活人が未来の繁栄を願うなら、才能のある者に対し体系的で一貫した適正な教育を施しなさいということ。
前集223項 君子のたしなみ
君子処患難而不憂、当宴遊而惕慮、遇権豪而不懼、対?独而驚心。
君子(くんし)は患難(かんなん)に処(お)りて憂(うれ)えず、宴遊(えんゆう)に当(あ)たりて惕慮(てきりょ)し、権豪(ごうけん)に遇(あ)いては懼(おそ)れず、?独(けいどく)に対して心(こころ)を驚(おどろ)かす。
上に立つ立派な人材は、難局では思い悩まず、饗宴では警戒心を持ち、権力者の前では毅然とし、恵まれない者には心を痛める。
つまり、活人である本物の経営者は、窮地に追い込まれても平然と立ち向かい、酒宴では控えめにして、権力者に媚び諂うことなく、率先して社会貢献を行いなさいということ。
言い換えれば、活人であるべき経営者は、部下の模範であり、心の教育者でなければならないと言うこと。
前集224項 早熟は晩成に及ばない
桃李雖艶、何如松蒼栢翠之堅貞。
梨杏雖甘、何如橙黄橘緑之馨冽。
信乎、濃夭不及淡久、早秀不如晩成也。
桃李(とうり)は艶(えん)なりと雖(いえど)も、何(なん)ぞ松蒼栢翠(しょうそうはくすい)の堅貞(けんてい)なるに如(し)かん。
梨杏(りきょう)は甘(あま)しと雖(いえど)も、何(なん)ぞ橙黄橘緑(とうおうきつりょく)の馨冽(けいれつ)なるに如(し)かん。
信(まこと)なるかな、濃夭(のうよう)は淡久(たんきゅう)に及(およ)ばず、早秀(そうしゅう)は晩成(ばんせい)するに如(し)かざるなり。
桃やスモモの花は艶(あで)やかだが、松や柏の常緑の強さには及ばない。
梨やアンズの実は美味しいが、黄色のダイダイや緑のミカンの芳香には及ばない。
何はともあれ、艶やかでない物は、さっぱりして長続きするものには及ばないし、早熟は晩成に及ばないのは事実だ。
つまり、世間の評判がよい早熟で表面的なものは、たっぷりと時間がかかった実質的で内容の充実したものには及ばないということ。
言い換えれば、現代は、軽薄短小が持て囃されているが、重厚長大の素晴らしさを忘れてはならないということかもしれない。
翻っていれば、活人よ、蘇らせよ“製造業”とも聞こえる。
前集225項 枯淡の境地
風恬浪静中、見人生之真境、味淡声希処、識心体之本然。
風恬(かぜやす)らかに浪静(なみしず)かなる中(うち)、人生の真境(しんきょう)を見、味淡(あじあわ)く声希(こえしず)かなる処(ところ)に、心体(しんたい)の本然(ほんぜん)を識(し)る。
風も波も静かな状態で、人生を見ることが出来、贅沢をせず物静かな声を聞くようなところで、心身の本当のあり方に気付く。
つまり、騒がしい生活の中では、本来の体にも心にも気付かないということ。
言い換えれば、活人は、時に応じて坐禅を組むなど、喧騒から離れて本来の自己を確認していなければならないのだ。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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