・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
菜根譚(さいこんたん) 後集 061~090 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
後集61項 自然の営みのなかで
簾高敞、看青山緑水呑吐雲煙、識乾坤之自在。
竹樹扶疎、任乳燕鳴鳩送迎時序、知物我之両忘。
簾高敞(れんろうこうしょう)、青山緑水(せいざんりょくすい)の雲煙(うんえん)を呑吐(どんと)するを看(み)ては、乾坤(けんこん)の自在(じざい)なるを識(し)る。
竹樹扶疎(ちくじゅふそ)、乳燕鳴鳩(にゅうえんめいきゅう)の時序(じじょ)を送迎(そうげい)するに任(まか)せて、物我(ぶつが)の両(ふた)つながら忘(わす)るるを知(し)る。
巻き上げられた簾越しに、見る青い山々や緑なる川から雲や霧が湧き出るのを見ていると、大自然が如何に自由自在かを知る。
竹や樹木の枝葉は、燕の子育て鳩の営みに棲家を提供し、時の移り変わりに任せている様子から、物と心という相対的な関係を両方とも忘れてしまう。
つまり、達人は、大自然に身を置き、淡々と暮らしていると、自然の本質である心身一如、物心一如が解かってくるものだ。
言換えれば、大自然こそ達人の人生最後の師といえるだろう。
後集62項 生があれば死がある
知成之必敗、則求成之心、不必太堅。
知生之必死、則保生之道、不必過労。
成(せい)の必(かなら)ず敗(やぶ)るるを知(し)らば、成(せい)を求(もと)める心(こころ)、必(かなら)ずしも太(はなは)だ堅(かた)からず。
生(せい)の必(かなら)ず死(し)するを知(し)らば、生(せい)を保(たも)つ道(みち)、必(かなら)ずしも過(す)ぎて労(ろう)せず。
成功すれば必ず失敗するということを知れば、成功したいと思う気持ちは必ずしも堅固にはならないだろう。
生まれれば必ず死ぬということを知れば、生きながらえることに、必ずしも努力しすぎることはないだろう。
つまり、達人は因果の法則を知れば、何事にも拘りが無くなるということ。
言換えれば、達観するとは、輪廻を知ることだ。
後集63項 とらわれない心
古徳云、竹影掃?塵不動。
月輪穿沼水無痕。
吾儒云、水流任急境常静。
花落雖頻意自閒。
人常持此意、以応事接物、身心何等自在。
古徳(ことく)云(い)う、
「竹影(ちきえい)、?(かい)を掃(はら)って塵(ちり)動(うご)かず」。
「月輪(げつりん)、沼(ぬま)を穿(うが)って、水(みず)に痕(あと)なし」。
吾(わ)が儒(じゅ)云(い)う、
「水流(すいりゅう)、急(きゅう)に任(まか)せて、境(きょう)常(つね)に静(しず)かなり」。
「花(はな)落(お)つること頻(しき)りなりと雖(いえ)ども、意(い)自(おの)ずから閑(かん)なり」。
人(ひと)、常(つね)に此(こ)の意(い)を持(じ)して、以(もっ)て事(こと)に応(おう)じ物(もの)に接(せつ)すれば、身心(しんしん)何等(なんら)の自在(じざい)ぞ。
禅僧 雲峰志?(うんぽう・しせん)が言うには、
「階段に映った竹の影を掃除しようとしても、ゴミひとつ綺麗にならない」
「水面に差し込んだ月は、焼き訳つけられたようでも水面に痕跡を残さない」
儒者 邵擁(しょうよう)が言うには、
「水の流れが厳しくても流れに任せ切っていれば、心境は常に穏やか」
「花がどんどん散るのを見ても、自然の様子に心は穏やか」
人は常にこのような心境を維持して、物事に対処していれば、身も心も自由自在なのだ。
つまり、達人は物事の本質である「無」を悟り、心を「空」に置き、自然体で暮らしていれば、自由自在に生きてゆけるということ。
言換えれば、この世の全ては実体ではなく現象であり、心身もまた現象なのだから、とことん自然に任せて生きれば何の苦労も心配もないということ。
後集64項 自然の最高傑作
林間松韻、石上泉声、静裡聴来、識天地自然鳴佩。
草際煙光、水心雲影、閑中観去、見乾坤最上文章。
林間(りんかん)の松韻(しょういん)、石上(せきじょう)の泉声(せいせい)、静裡(せいり)に聴(き)き来(き)たって、天地自然(てんちしぜん)の鳴佩(めいはい)を識(し)る。
草際(そうさい)の煙光(えんこう)、水心(すいしん)の雲影(うんえい)、閑中(かんちゅう)に観(み)去(さ)って、乾坤最上(けんこんさいじょう)の文章(ぶんしょう)なるを見(み)る。
林から聞こえる松風の響きや岩をの間を流れる泉の音を静かに聞いていると、それが大自然が奏でる妙なる音楽であることに気付く。
野原の果てに棚引く霞や清らかな水面に映る雲の姿は、揺ったりした気持ちで眺めていれば、大自然が描き出す最上の絵画であることに気付く。
つまり、心の余裕が美しさを発見でき、その美しさは本来の心を呼び覚ましてくれるということ。
言換えれば、達人は、先ずは心の余裕をつくり、大自然に身を任せてみることが人生の仕上げでは大事だということを覚えておこう。
後集65項 人の心は始末におえない
眼看西晉之荊榛、猶矜白刄。
身属北?之狐兎、尚惜黄金。
語云、猛獣易伏、人心難降。
谿壑易?、人心難満。
信哉。
眼(め)に西晉(せししん)の荊榛(けいしん)を看(み)て、猶(なお)白刄(しらは)を矜(ほこ)る。
身(み)は北?(ほくぼう)の狐兎(こと)に属(ぞく)して、向(なお)黄金(おうごん)を惜(お)しむ。
語(ご)云(い)う、「猛獣(もうじゅう)は伏(ふ)し易すく、人心(じんしん)は降(くだ)し易(やすく)し。
谿壑(けいがく)は?(うず)め易(やす)きも、人心(じんしん)は満(みた)しがたし」。
信(しん)なるかな。
西晉(せいしん)の廃墟を目で見ながら、なおも武力に依存する。
北?(ほくぼう)の狐や兎の餌食になる体でありながら、なおも黄金に執着する。
昔話に「猛獣を捻じ伏せるのは簡単だが、人の心を屈服させるのは難しい。」
「深い谷を埋めるのは簡単だが、人の心は満たしがたい。」
正しく。
つまり、人の心という心理現象は、物理現象に比べて計り知れないくらいに扱い辛いということ。
言い換えれば、達人はその御しにくい人の心を上手に扱え得てはじめて本物の達人と言われるだろう。
後集66項 どこにいようとも
心地上無風濤、随在皆青山緑樹。
性天中有化育、触処見魚躍鳶飛。
心地(しんじ)の上(うえ)に風濤(ふうとう)無(な)くば、在(あ)るに随(したが)いて、皆(みな)青山緑樹(せいざんりょうじゅ)なり。
性天(せいてん)の中(うち)に化育(かいく)有(あ)らば、処(ところ)に触(ふ)れて、魚(うお)躍(おど)り鳶(とび)飛(と)ぶを見(み)る。
心に波風が無ければ、どこに居ても山々と緑なす木々に囲まれているよなものだ。
本性を教育できる術があれば、魚が飛び、鳶が大空を舞っていつようなものだ。
つまり、心とは何としても扱い辛いし、教育し難いものだ。
言換えれば、達人はそれを超越して、心を御す達人であることが望ましい。
後集67項 人間らしい生
峨冠大帯之士、一旦睹軽蓑小笠飄飄然逸也、未必不動其咨嗟。
長筵広席之豪、一旦遇疎簾浄几悠悠焉静也、未必不増其綣恋。
人奈何駆以火牛、誘以風馬、而不思自適其性哉。
峨冠大帯(がかんだいたい)の士(し)、一旦(いったん)、軽蓑小笠(けいさしょうぜん)の飄々然(ひょうひょうぜん)として逸(いっ)するを睹(み)れば、未(いま)だ必(かなら)ずしも其(そ)の咨嗟(しさ)を動(うご)かさずんばあらず。
長筵広席(ちょうえんこうせき)の豪(ごう)、一旦(いったん)、疎簾浄几(それんじょうき)の悠々焉(ゆうゆうえん)として静(しず)かなるに遇(あ)えば、未(いま)だ必(かなら)ずしも其(そ)の綣恋(けんれん)を増(ま)さずんばあらず。
人(ひと)、奈何(いか)んぞ駆(か)るに火牛(かぎゅう)を以(もっ)てし、誘(さそ)うに風馬(ふうば)を以(もっ)てし、而(しか)して其(そ)の性(せい)に自適(じてき)するを思(おも)わざるや。
礼装正装の公務員が、一旦、気楽なファッションでノンビリと暮らす庶民を見れば、その気楽で気ままに見える生活を羨み溜息をつかない人間はいない。
絢爛豪華な敷物の上で暮らす大富豪が、一旦、竹簾の下の簡素な机で読書などして悠々自適に過ごしている人を見ると、羨ましく思わない人間はいない。
にも拘らず何故、俗人は、尻に火が牛を蹴り立てて盛りのついた馬を呼ぶように、功を為し名を上げ富豪になることを追い求め、自分の本性に合った生き方をしようと思わないのだろうか。
つまり、全ては「縁」を媒介に現象している社会、世界では自然体で淡々と暮らしていれば、分相応の機会に廻り合い、それを自然の流れとして一心不乱に担っていれば自然体で自己を実現できるという法則を示している。
言換えれば、達人はこの因縁果の律を知り尽くし、一日を一生と思い、今すべき事に一意専心している人間だと言える。
後集68項 自在の境地に遊ぶ
魚得水逝、而相忘乎水。、
鳥乗風飛、而不知有風。
識此可以超物累、可以楽天機。
魚(うお)、水(みず)を得(え)て逝(ゆ)き、而(しか)も水(みず)相(あ)るを忘(あい・わす)る。
鳥(とり)、風(かぜ)に乗(の)りて飛(と)び、而(しか)も風(かぜ)有(あ)るを知(し)らず。
此(こ)を識(し)らば、以(もっ)て物累(ぶつるい)を超(こ)へ、以(もっ)て天機(たんき)を楽(たの)しむべし。
魚は水があるからこそ自由に泳いでいられるのに、水があることを忘れている。
鳥は風があるからこそ自由に飛びまわれるのに、風のあることを知らない。
もし、人間がこの道理である「あるがまま」を悟れれば、心の外にしか無い上辺だけの物事への拘りから解脱でき、大自然の法則を楽しめるものを。
つまり、本質とは心の内外、即ち「空」には何も無く、ただ瞬間的に現象したり消滅したりするだけの「無」の世界であることを悟れ、と言っている。
言換えれば、達人は、この宇宙の「現象あるのみ」という本質、神や仏などはあくまで方便であること知り、「本来無一物」「を掴んだ瞬間から「日々是好日」となり、「平常心是道」を実感でき、「白雲自去来」の心境である「来るもの拒まず、去るもの追わず」を体現し、環境変化を「行雲流水」とみて「一期一会」の意味に感動し、自らが率先垂範して「直心是道場」の教師となって死の瞬間まで最高に幸せな人生である「無事是貴人」を実現させて生きている人なのだ。
翻って言えば、そんな人同士が会った瞬間に「拈華微笑」という「直指人心」が現象し「見性成仏」の中身である「色不異空・空不異色・色即是空・空即是色・受想行識・亦復如是・不生不滅・不垢不浄・不増不減・・・」と続く般若心経というこの世の秘伝書の共通理解の相乗効果が実現し、宇宙の自己実現へまた一歩近付くのである。正に、その当事者こそ「達人」であり「菩薩」なのであり、その理解の過程にあるのが「活人」なのである。
まあ、難しい事を考えず「喫茶去」、お茶を召し上がれ。
後集69項 うたかたの夢
狐眠敗砌、兎走荒台、尽是当年歌舞之地。
露冷黄花、煙迷衰草、悉属旧時争戦之場。
盛衰何常、強弱安在。
念此令人心灰。
狐(きつね)は敗砌(はいせい)に眠(ねむ)り、兎(うさぎ)は荒台(こうだい)を走(はし)り、尽(ことごと)く是(こ)れ当年(とうねん)の歌舞(かぶ)の地(ち)なり。
露(つゆ)は黄花(おうか)に冷(ひ)やかで、煙(えん)は衰草(すいそう)に迷(まよ)い、悉(ことごと)く旧時(きゅうじ)の争戦(そうせん)の場(ば)に属(ぞく)す。
盛衰(せいすい)何(なん)ぞ常(つね)あらん、強弱(きょうじゃく)安(いず)くにか在(あ)る。
此(こ)れを念(おも)えば、人心(じんしん)をして灰(はい)とならしむ。
狐は打ち壊された石畳で眠り、兎は荒れ果てた遺跡を走るは、何れも華やかなりし頃には舞姫が踊った“舞姫どもの夢の跡”である。
露が菊の花を冷やし、霧は枯れ草にさまよい纏(まつ)わる“兵どもの夢の跡”
である。
人の世の栄枯盛衰は何ゆえに変らず、強者、弱者は何故に存在するのか。
こんなことを考えると、人の心は冷え切った灰のようになってします。
つまり、この世の全ての栄枯盛衰は法則であり、昇れば必ず落ちるし、落ちれば必ず昇るもので、無理に昇らなければ、無理に降ろされることは無く、自然に上がれば自然に下がるだけなのだ。
言換えれば、達人とは、その原理原則を知りぬいた人間でなければならないということを覚えておこう。
後集70項 流れる雲のように
寵辱不驚、閑看庭前花開花落。
去留無意、漫随天外雲巻雲舒。
寵辱(ちょうじょくに)に驚(おど)かず、閑(しず)かに庭前(ていぜん)の花(はな)開(ひら)き花(はな)落(お)つるを看(み)る。
去留(きょりゅう)に意(い)無(な)く、漫(そぞ)ろに天外(てんがい)の雲(くも)巻(ま)き雲(くも)舒(の)ぶるに随(したが)う。
名誉や恥辱に驚く事無く、庭先の花の咲き落ちるを静かに見ている。
地位の変化などに心は動かず、ただ大空の雲の離合集散に従っている。
つまり、良い仕事が出来る達人とは、使命を達成させることに一心不乱となっている人を言う。
言換えれば、達人は正に自然体なのだ。
後集71項 蛾やふくろうのまね
晴空朗月、何天不可?翔、而飛蛾独投夜燭。
清泉緑卉、何物不可飲啄、而鴟?偏嗜腐鼠。
噫、世之不為飛蛾鴟?者、幾何人哉。
晴空朗月(せいくうろうげつ)、何(いず)れの天(てん)か?翔(こうしょう)すべからく、而(しか)るに飛蛾(ひが)は独(ひと)り夜燭(やしょく)に投(とう)ず。
清泉緑卉(せいせんりょくき)、何(いず)れの物(もの)か飲啄(いんたく)すべからく、而(しか)るに鴟?(しきょう)偏(ひと)えに腐鼠(ふそ)を嗜(たしな)む。
噫(ああ)、世(よ)の飛蛾鴟?(ひがしきょう)と為(な)らざる者、幾何(いくばく)の人りや。
明るい月が浮かぶよく晴れた大空は、空中のどこにでも自由自在に飛べるようなものだ、飛び回る蛾(が)は、自分から火に飛び込んでくる。
清らかな泉や緑の草花は、どれをして飲めなくもなく、食べられないものはないのに、フクロウは腐ったネズミの肉を食べる。
ああ、この世の中の人間で、あの蛾やフクロウのようにならない者が、どのくらいいるだおるか。
つまり、俗人とは、月や草花のような自然の手本があるのに、蛾やフクロウの
ような動きを殆どの人がしている。
言換えれば、達人は、俗人と共にあっても、月や草花のように自然体で在り続けれれる人ということなのだ。
後集72項 悟りを開く分かれ目
纔就筏便思舎筏。方是無事道人。
若騎驢又復覓驢、終為不了禅師。
纔(わず)かに筏(いかだ)に就(つ)くや便(すなわ)ち筏(いかだ)を舎(す)てんことを思(おも)わば、方(まさ)に是(こ)れ無事(ぶじ)の道人(どうじん)。
若(も)し驢(ろ)に騎(の)りて又復(またまた)驢(ろ)を覓(もと)むれば、終(つい)に不了(ふりょう)の禅師(ぜんじ)と為(な)らん。
いかだに乗るや否や、いかだを降りる事を心する人こそ、悟りを得た人。
ロバ乗って、その上にロバを探すようでは、到底悟りを得られない禅坊主。
つまり、自分探しと称してカルチャーセンターだ旅行だとチャラチャラしている人がいるが、看脚下、自分は自分の外になんかない。先ずは足るを知れ。
言換えれば、禅坊主は菩薩代理業、迷いの世界発、悟りの世界行きの特別快速「いかだ号」の船頭。降りては説法、乗せては降ろす。降ろしては戻り、降りて説法、また乗せて又降ろす。悟りの境地を楽しんでいる閑なんか無い。
翻って言えば、達人とは菩薩補佐。自分ひとり悟って満足していてはいけない。乗ったら降りて、乗せる側に回れということ。
後集73項 冷静な眼で判断する
権貴竜驤、英雄虎戦。
以冷眼視之、如蟻聚羶、如蠅競血。
是非蜂起、得矢蝟興。
以冷情当之、如冶化金、如湯消雪。
権貴(けんき)竜驤(りゅうじょう)し、英雄(えいゆう)虎戦(こせん)す。
冷眼(れいがん)を以(もっ)て之(こ)れを視(み)れば、蟻(あり)の羶(せん)に聚(あつ)まるが如(ごと)く、蠅(はえ)の血(ち)に競(きそ)うが如(ごと)し。
是非(ぜひ)蜂起(ほうき)し、得矢(とくひつ)蝟興(いこう)す。
冷情(れいじょう)を以(もっ)て之(こ)れに当(あた)らば、冶(や)は金(きん)を化(か)するが如(ごと)く、湯(ゆ)は雪(ゆき)を消(け)すが如(ごと)し。
権力も地位もある者が互いに勢力を争い、英雄が虎のように戦う。
これを冷静な目で観察すると、アリが生臭い物に集まり、ハエが血にたかるようなものだ。
良し悪しの議論はハチが飛び立つように始まり、損得の取り合いはハリネズミが毛を立てるように一斉に起こる。
これを冷静な心で対処すると、鋳型が金属を溶かし、湯が雪を溶かすようなものだ。
つまり、何れにしても子供じみたもので、周りで見ていれば他愛無いことが解かる。人間同士に喧嘩、企業間競争、民族紛争、地域紛争から世界大戦。とても悟った人間のする事では無い。
言換えれば、達人とは馬鹿げた競争、無益な戦争には身体を張っても止めさせる志が欲しい。
翻って言えば、達人の死に場所は、命を捨てて平和の礎となる時だ。
後集74項 物欲にしばられた悲しみ
覊鎖於物欲、覚吾生之可哀。
夷猶於性真、覚吾生之可楽。
知其可哀、則塵情立破、知其可楽、則聖境自臻。
物欲(ぶつよく)に覊鎖(きき)すれば、吾(わが)生(せい)の哀(かな)しむべきを覚(おぼ)ゆ。
性真(せいしん)に夷猶(いゆ)すれば、吾(わ)が生(せい)の楽(たの)しむべきを覚(おぼ)ゆ。
其(そ)の哀(かな)しむべきを知(し)らば、則(すなわ)ち塵情(じんじょう)は立(た)ちどころに破(やぶ)るる。
其(そ)の楽(たの)しむべきを知(し)らば、聖境(せいきょう)も自(おのず)から臻(いた)る。
物欲に縛られると、自分の人生に悲壮感が湧いて来るのを感じる。
本性に安じられと、自分の人生に爽快感が湧いて来るのを感じる。
その悲壮感を体験すれば、欲望はたちどころに破砕される。
その爽快感を体験すれば、悟りの境地には自然と導かれる。
つまり、何事も頭で考えているのではんく、体験することなのだ。
言換えれば、達人は地位、財産、名誉の全てを捨ててみることだ。そこにこそ本当の安心が生まれ、自然と悟りの境地である大安心が得られるのだ。
翻って言えば、悟ったから捨てられるのではなく、捨てたから悟れるとおいうことを肝に銘じておきなさい。
後集75項 執着が消え去る
胸中既無半点物欲、已如雪消炉焔氷消日。
眼前自有一段空明、時見月在青天影在波。
胸中(きょうちゅう)既(すで)に半点(はんてん)の物欲(ぶつよく)無(な)くば、已(すで)に雪(ゆき)の炉焔(ろえん)に消(き)え、氷(こおり)日(ひ)に消(き)ゆるが如(ごと)し。
眼前(がんぜん)自(おのず)と一段(いちだん)の空明(くうめい)有(あ)らば、時(とき)に月(つき)青天(せいてん)に在(あ)り、影(かげ)波(なみ)に在(あ)るを見る。
心に物欲の微塵も無いということは、雪がいろりの火に融け、氷が太陽にかき消された状態と同じだ。
目の前が自然に開けて明るくなるということは、月が澄みきった空に出ていて月影が波間に映るように波も静かな状態にあるということだ。
つまり、物欲を完全に無くせば、世界は完璧な状態を見せてくれるということであり、現世にいて彼岸にあるのと同じ状態を体験できるのだ。
言換えれば、物欲と決別した達人の世界は、例えそこがどんな場所でも、大安心の涅槃世界だということを理解しておこう。
後集76項 自然のなかで
詩思在灞陵橋上、微吟就、林岫便已浩然。
野興在鏡湖曲辺、独往時、山川自相映発。
詩思(しし)は灞橋(はりようきょう)の上(うえ)に在(あり)て、微吟(びぎん)の就(な)るとき、林岫(りんゆう)便(すなわ)ち已(すで)に浩然(こうぜん)たり。
野興(やきょう)は鏡湖曲(きょうこきょく)の辺(ほと)に在(あり)て、独(ひと)り往(ゆ)く時(とき)、山川(さんせん)自(おの)ずから相(あい)映発(えいはつ)す。
詩のアイデアが生まれるのは、“送別の橋(官僚が地方転勤に必ず渡る長安にあった橋)”の上で、かすかに口ずさむと周囲の風景が自然に共鳴する。
自然に親しむには、“送別の湖(吾人が君子と別れた逸話のある浙江省の湖)”のほとりで、一人たたずんでいれば、周囲の風景が親しみ其のものとなる。
つまり、物事には相応しい場所というものがある。
言換えれば、達人には達人に相応しい場所があるということを覚えておこう。
後集77項 力を蓄える
伏久者、飛必高、開先者、謝独早。
知此、可以免??之憂、可以消躁急之念。
伏(ふ)すこと久(ひさ)しき者(もの)、飛(と)ぶこと必(かな)ず高(たか)く、開(ひら)くこと先(さき)なる者は、謝(ち)ること独(ひと)り早(はや)し。
此(こ)れを知(し)らば、以(もっ)て??(そうとう)の憂(うれ)いを免(まぬが)るべく、以(もっ)て躁急(そうきゅう)の念(ねん)を消(け)すべし。
長く羽を休めていた鳥が、飛び立てば、他の鳥より例外なく高く飛ぶことができ、花の中で早く開いてしまうものは、他の花より例外なく早く散ってしまう。
このことをわきまえていれば、人生の途中で疲れ果て勢いを失う心配からは免れることができ、成功を急ぐ心は消えうせる。
つまり、人には其々に“旬”があり、大器晩成という考えが納得できていれば、人生に焦って失敗することはないことに合点がゆくだろう。
言換えれば、達人も同様で、現役の時代に旬が来なかった人でも、退職後に旬が来れば、それは一生ものと言えるかもしれない。
翻った言えば、人生には必ず旬が来るから心配しないで悠々自適に生きようではないか。
後集78項 気ずくのが遅すぎる
樹木至帰根、而後知華萼枝葉之徒栄。
人事至蓋棺、而後知子女玉帛之無益。
樹木(じゅもく)根(ね)に帰(き)するに至(いた)って、而(しか)る後(のち)華萼枝葉(かがくしよう)の徒栄(とえい)なるを知る。
人事(じんじ)棺(かん)を蓋(おお)うに至(いた)って、而(しか)る後(のち)に子女玉帛(しじょぎょくはく)の無益(むえき)なるを知(し)る。
樹木は、根だけになってはじめて、花や枝葉が一瞬の繁栄であった事に気付く。
人間は、棺桶の蓋をする時になってはじめて、子供も財産も何の役にも立たないことが解かる。
つまり、達人は、最後の最後は自分の心が如何に大安心の境地を得られるかを真剣に考えておこう。
言換えれば、子供を幾ら大事にしても、財産を如何に残したとしても、人間は必ず死ぬのが運命なのだ。
後集79項 執着もせず無視もせず
真空不空。
執相非真。
破相亦非真。
問、世尊如何発付。
在世出世、狗欲是苦、絶欲亦是苦。
聴、吾儕善自修持。
真(しん)に空(くう)ずるは空(くう)ぜず。
相(そう)に執(しゅう)するは真(しん)に非(あら)ず。
相(そう)を破(は)するも亦(また)真(しん)に非(あら)ず。
問う、世尊(せそん)は如何(いか)にか発付(はっぷ)するや。
「在世(ざいせ)出世(しゅっせ)、欲(よく)に狗(したが)うも是(こ)れ苦(く)、欲(よく)を絶(た)つも亦(また)是(こ)れ苦(く)、我儕(われ)が善(よく)自(みずか)ら修持(しゅうじ)するを聴(き)け」。
真に自由であるとは、全てを否定することではない。
現象に執着するとは、真実では無い。
現象を否定しても、真実ではない。
質問する。「釈尊は、どのように仰っておられるだろうか」
「在家の者でも、出家の者でも、欲望に従うのも、断つのも供に苦であり、この問題を解決するには、我々は自発的な心身の修養に待つしかない」と言われるだろう。
つまり、欲望に従って生きれば生きる苦労があり、欲望を捨て去って生きるのも苦労がある。同じ苦労をするなら、欲望に従い何かを手に出来たとしても、次にはもっと、ないしは無くしたくないという欲望の連鎖で苦しむより、欲望を捨てるまでは苦しいが、捨て去れば苦しみ心其のものを捨ててしまうに出から二度と苦しむことの無い人生である、多くを得てきた達人にとっては、それ以上手に入れ、無くす不安を増大させるより、捨て去る人生が、達人には似合いである。
言換えれば、そもそも達人と言われる人間は欲望極め、何が大安心なのかを解かった人間といえるかもしれない。
後集80項 欲に変わりはない
烈士譲千乗、貪夫争一文。
人品星淵也、而好名、不殊好利。
天子営家国、乞人号??。
位分霄壤也、而焦思、何異焦声。
烈士(れっし)千乗(せんじょう)を譲(ゆず)り、貪夫(どんぷ)一文(いちもん)を争(あらそ)う。
人品(じんぴん)星淵(せいえん)なり、而(しか)も名(な)を好(この)み、利(り)を好(この)むに殊(こと)ならず。
天子(てんし)家国(かこく)を営(いとな)み、乞人(きつじん)は??(ようそん)を号(さけ)ぶ。
位分(いぶん)霄壤(しょうじょう)なり、而(しか)も思(おも)いを焦(こ)すは、何(なん)ぞ声(こえ)を焦(こが)すに異(こと)ならん。
節操のある立派な人間は、小国一国を得られることを他に譲り、強欲な人間は一文の金も争って欲しがる。
両者の人格には天地の差があるが、前者は財物では無く名誉に価値を見出し、後者は財物に価値を見出していることからすれば、両者に違いはあに。
天子は万乗の国家を治め、乞食は食べ物を欲して叫ぶ。
両者の身分には天地の差があるが、天子は人民の為に苦労し、乞食は自分の為に苦労するということに、如何なる差異があるだろうか。
つまり、大は大なりに、小は小なりの苦労があるもので、自分を嘆いて他人にあこがれても意味はない。
言換えれば、達人は持てば持つなり苦労があり、持たざれば持たざるなりに苦労があるものだから、安心な心で淡々と暮らしている達人は、全てを捨て去ることが出来た人間なのだ。
翻って言えば、有る者が捨て切った心境の安定度と、元々無い物を捨てきった者ではでは、同じ「無い」という状態でも、嘗ては有った者が捨て切った方が
安定度、安心度では価値があるかもしれない。
後集81項 牛と呼ばれ馬と呼ばれても
飽諳世味、一任覆雨翻雲、総慵開眼。
会尽人情、随教呼牛喚馬、只是点頭。
世味(せみ)飽(あ)くまで諳(そら)んずれば、覆雨翻雲(ふくうへんうん)に一任(いちにん)し、総(すべ)て眼(め)を開(ひら)くに慵(ものう)し。
人情(にんじょう)を会(え)し尽(つく)くさば、牛(うし)を呼(よ)び馬(うま)と喚(よ)ぶに、随教(ずいきょう)し、只(ただ)是(これ)点頭(てんとう)す。
世間の実体を知り尽くしてしまえば、雨だ曇りだとコロコロ変る人情に触れないように、目を開いて見ることすら面倒なものだ。
人情の実体を知り尽くしてしまえば、馬だ、牛だと呼ばれても言わしておき、只只、ハイハイと、返事をしているだけ。
つまり、世の中の事、人間の事を知り尽くしてしまった達人は、一般論としては目を瞑り、頷いているだけだが、さらに修養を積むと、目を開け、生半可な質問には隠して逃げ、から返事で逃げるのっでは達人の入り口のようなもので、本当の達人は目を開いて、是々非々ははっきりしている人間だろう。
後集82項 無心の境地
今人専求無念、而終不可無。
只是前念不滞、後念不迎、但将現在的随縁、打発得去、自然漸漸入無。
今人(こんじん)専(もっぱ)ら念(ねん)を無(なく)するを求(もと)めて、而(しか)も終(つい)に無(なく)すべからず。
只(ただ)是(これ)前念(ぜんねん)滞(とどこお)らず、後念(ごねん)迎(むか)えず、但(ただ)現在(げんざい)の随縁(ずいえん)を将(もっ)て打発(だはつ)し得(え)去(さ)らば、自然(じねん)に漸々(ぜんぜん)無(む)に入(い)らん。
近頃の人間は「無」の心境を求めるているので、心境を無くす事は出来ない。
けれど、過去に囚わらず拘らず、未来に囚われず拘らず、只、因縁に随い、在るがままに受け入れ、流し出していれば、自然に無の境地となるだろう。
つまり、心は論理プログラムで動いているのであり、「無」となる心境を求めているとは、「求めない気持ちを求めている」以上は無限循環し、抜け出せないんのは自明の理。求めない状態は求めるプログラムが動いていないから、自然体で「無」なのでsる。
言い換えれば、達人はこの真理を知っている人なのだ。
後集83項 作為を捨てる
意所偶会、便成佳境、物出天然、纔見真機。
若加一分調停布置、趣味便減矣。
白氏云、意随無事適、風逐自然清。
有味哉、其言之也。
意(い)の偶会(ぐうかい)する所(ところ)、便(すなわ)ち佳境(けいきょう)を成(な)し、物(もの)は天然(てんねん)に出(い)でて、纔(わずか)に真機(しんき)を見(み)る。
もし一分(いちぶん)の調停(ちょうてい)布置(ふち)を加(くわ)うれば、趣味(しゅみ)便(すなわ)ち減(げん)ず。
白(はく)氏(し)云(い)う、「意(い)無事(ぶじ)に随(した)がいて適(てき)し、風(かぜ)自然(しぜん)を逐(お)いて清(きよ)し」。
味(あじ)有(あ)るかな、其(そ)の之(これ)を言(い)うや。
心と現実が偶然にピタリと共振した状態の場所を「桂境」といい、物が本来の状態で在り、真気が働いている。
もし仮にほんの少しでも人為的に力を加えれば、真気は乱れ、桂境は失われてしまう。
白楽天は、心は感情が動かない状態が最も良く、風は自然に吹いてくるものこそ清清しい。
何と味わいがある表現だろう。
つまり、悟りの境地とは「心が自然な状態にあり人為を加えていない状態」なのだであり、そしが心が最高の状態であり、「無事(人為的な分別が動いていない自然な状態)」こそが真理なのだ。
言換えれば、心の最高の状態とは、達人が日々ある状態を言う「無事是貴人」である。
翻って言えば、達人は貴人と同義なのだ。
後集84項 心に迷いのあるとき
性天澄徹、即饑喰渇飲、無非康済身心。
心地沈迷、縦譚談禅演偈、総是播弄精魂。
性天(せいてん)澄徹(ちょうてつ)すれば、即(すなわ)ち饑(う)えて喰(そん)し、渇(かわ)きて飲(の)むも、身心(しんしん)を康済(こうさい)するに非(あら)ざるは無(な)し。
心地(しんち)沈迷(ちんめい)せば、例(たと)い禅(ぜん)を譚(かたら)い、偈(げ)を演(の)ぶるも、総(すべ)て是(こ)れ精魂(せいこん)を播弄(はろう)す。
人間の本性が澄みきっていれば、たとえ飲まず喰わずの状態にあっても、心身を安心な状態に保てていないということは無い。
一方、人間の本性が暗く迷っていれば、たとえ禅について語り、禅心のあるべき姿を示す偈頌(げじゅ)を読み味わおうとも、それは心の無駄使いということになっている。
つまり、悟りの境地にいたる禅道は、心と生活実践であり、頭(知識)と趣味(形式)ではないということ。
言換えれば、達人は禅の修業により、禅の文化的な形式ではなく、実態的生活を体現して悟りの境地を得るのですよということ。
後集85項 自分の存在すら忘れる
人心有個真境、非絲非竹、而自恬愉。
不烟不茗、而自清芬。
須念浄境空、慮忘形釈。
纔得以游衍其中。
人心(じんしん)、個(こ)の真境(しんきょう)あらば、絲(いと)に非(あら)ず、竹(たけ)に非(あら)ず、而(しか)して自(おのず)から恬愉(てんゆ)す。
烟(えん)ならず、茗(めい)ならず、而(しか)して自(おのず)から清芬(せいふん)あり。
須(すべか)らく念(ねん)浄(きよ)く境(きょう)空(くう)じ、慮(おもんぱかり)を忘れ、形(かたち)釈(と)くべし。
纔(はじめ)て以(もっ)て其(そ)の中(なか)に游衍(ゆうえん)するを得(え)ん。
人の心には既得的に備わっている真の世界があるから、
琴や笛といった楽器が無くても、音そのものを(音楽として)楽しめる。
香を焚き、茶を点て無くても、清らかな香りに浸れる。
そのためには、心を清くして、頭で考えることも身体があることも忘れ、一切の拘り囚われを捨てた状態になって、全てを楽しみと出来るのだ。
つまり、達人とは心身一如を体現し、自然と一体になった心境を得られる事を以て究極の目標が達成できたと言え、それすら感じな無くなってはじめて達人中の達人と言えるのだろう。
後集86項 風流は世俗のなかに
金自鉱出、玉従石生。
非幻無以求真。
道得酒中、仙遇花裡。
雖雅不能離俗。
金(きん)鉱(こう)より出(いで)て、玉(たま)石(いし)より生(しょう)ず。
幻(げん)に非(あら)ずば、以(もっ)て真(しん)を求(もと)むること無(な)し。
道(みち)を酒中(しゅちゅう)に得(え)、仙(せん)に花裡(かり)に遇(あ)う。
雅(が)なりと雖(いえど)も、俗(ぞく)を離(はな)るること能(あた)わず。
金は金鉱石から取り出され、宝石も岩石の中にから発見されように、
幻しを全て否定しては、真実は探し出せないのである。
酒を飲みながら“在るべき姿”を発見し、桃の花が咲く仙人の郷(悟りの境地)に至るる一見して優雅に見える事でも、アルコール依存という最も卑しい囚われや拘りという俗世間の悪趣味から離れることはできないのだ。
つまり、全ては玉石混交であり、達人もグループと捕らえれば玉石混交で、俗世間と完全決別などはない。
言い換えれば、それを悟ってなお、欲望と依存から自立して淡々と生きているなのであり、達人が目指す達人の中の達人と言えるのだろう。
後集87項 万物はみな同じである
天地中万物、人倫万情、世界中万事。
以俗眼観、紛紛各異、以道眼観、種種是常。
何煩分別、何用取捨。
天地(てんち)の中(なか)の万物(ばんぶつ)、人倫(じんりん)の中(なかの)の万情(ばんじょう)、世界(せかい)の中(なか)の万事(ばんじ)。
俗眼(ぞくがん)を以(もっ)て観(み)れば、紛々(ふんぷん)として各(おのおの)異(こと)なるも、道眼(どうがん)を以(もっ)て観(み)れば、種々(しゅしゅ)に是(こ)れ常(じょう)なり。
何(なん)ぞ分別(ふんべつ)を煩(わずら)わし、何(なん)ぞ取捨(しゅしゃ)を用(もち)いん。
この宇宙の全ての物、人間関係における全ての感情、社会における全ての出来事は、一般人の視点から見れば様々に異なるが、悟った人の視点からみればそれらは全て普遍である。
何故に、取捨選択に悩む必要があるか。
つまり、物質も現象も、極大も極小も、表面的には様々だが、本質的には同じということが俗人には解からないが、達人には見えますよということ。
言い換えれば、達人はこの世の可視的な物質、不可視的な物質、それらが現象させる全ての事象(生物の生命現象を含む)は、原因-縁-結果-縁-原因-・・・・という無限の連鎖反応の中にあり、その内の認識するごく一部に価値付けを行い一喜一憂している人を俗人といい、解かりかけている人を活人といい解かった人を達人といい、解かった上に、それに習って暮らしている人を悟人とか菩薩とか呼ぶのである。
後集88項 内面が充実していれば
神酣、布被窩中、得天地冲和之気。
味足、藜羹飯後、識人生澹泊之真。
神(しん)酣(たけなわ)なれば、布被(ふい)の窩中(かちゅう)にも天地(てんち)の冲和(ちゅうわ)の気(き)を得(う)。
味(あじ)足(ら)らば、藜羹(れいこう)の飯後(はんご)に人生(じんせい)澹泊(たんぱく)の真(しん)を識(し)る。
精神が充実していれば、布製の粗末な寝具でも大自然の調和した真気を得る事が出来る。
味覚に満足していれば、雑穀の粗末な食事でも人生のさっぱりとした真実を知ることが出来る。
つまり、物の豊かさと心の豊かさは全く相関しないということ。
言換えれば、達人とは、欲望を捨て去ることにより得られる「大安心」を得ている人と言えるだろう。
後集89項 俗昇も仙昇となる
纏脱只在自心。
心了、則屠肆糟廛、居然浄土。
不然、縦一琴一鶴、一花一卉、嗜好雖清、魔障終在。
語云、能休塵境為真境、未了僧家是俗家。
信夫。
纏脱(てんだつ)は只(ただ)自心(じしん)に在(あ)り。
心了(しんりょう)すれば、屠肆糟廛(とし・そうてん)も居然(きょぜん)たる浄土(じょうど)なり。
然(しか)らずば、縦(たと)い一琴一鶴(いっきんいっかく)、一花一卉(いっかいっき)の、嗜好(しこう)清(きよ)しと雖(い)いえども、魔障(ましょう)終(つい)に在(あ)り。
語(ご)に云(い)う、「能(よ)く休(きゅう)すれば塵境(じんきょう)も真境(しんきょう)と為(な)り、未(いま)だ了(りょう)なれば僧家(そうけ)も是(こ)れ俗家(ぞっけ)なり」。
信(まこと)なるかな。
束縛されることも、解放されることも、自分の心の在り方にある。
悟りを開いてしまえば、肉屋や魚屋でも居ながらにして極楽浄土である。
そうでなければ、琴を奏で、鶴を飼うような隠居や花や草を育て愛でるような清心な趣味の人間でも、悟りの障害となる魔は消えうせることはない。
北宗の儒学者である邵雍が言った言葉では、「俗世間を完全に捨て切れれば、その場がそのまま理想郷となるが、悟りの開けない出家は、在家と変わりが無い」
正に。
つまり、この世の全ての現象は、結局、心の在り方一つで幸せにもなれば不幸にもなる。ところが、悟った者は、幸・不幸というような二項対立が無くなり、心が安定して大安心の状態であり続ける。
言換えれば、達人の心境とは「大安心」以外には考えられない。
後集90項 ささやかな暮らしでも
斗室中、万慮都捐、説甚画棟飛雲、珠簾捲雨。
三杯後、一真自得、唯知素琴横月、短笛吟風。
斗室(としつ)の中(なか)、万慮(ばんりょ)を都(すべ)て捐(す)つれば、甚(なん)の画棟(がとう)に雲(くも)を飛(と)ばし、珠簾(しゅれん)の雨(あめ)に捲(ま)くを説(と)かん。
三杯(さんぱい)の後(のち)、一真(いっしん)を自(みずか)ら得(え)すれば、只(ただ)素琴(そきん)月(つき)に横(よこ)たえ、短笛(たんてき)を風(かぜ)に吟(ぎん)ずるを知(し)るのみ。
窮屈な部屋の中に居ても、一切の思惑を全て捨て去れば、画棟(古い詩の引用で、豪華な建物を指す)、鮮やかな色の雲を飛ばし、雨に朱色の球暖簾(たまのれん)を撒くような豪華な御殿など要らないと説く。
たった三杯の酒を飲んだだけでも、大自然の原理原則を体現出来れば、飾り気の無い月夜に琴を奏で、短い笛を風に向けただけでも悟りの心境を知ることが出来る。
つまり、大自然の原理原則を悟ることが出来ていれば、狭いところでも狭くなく、質素な日常でも優雅な心が得られる
言換えれば、達人の在り方は、終始一貫して拘り・囚われの心を捨て去ることなのである。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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