・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
菜根譚(さいこんたん) 前集 091~120 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
前集91項 天の意志は霊妙である
貞士無心徼福。天即就無心処?其衷。嶮人着意避禍。
天即就着意中奪其魄。可見天之機権最神。人之智巧何益。
貞士(ていし)は福を徼(もと)むるに心無し。
天、即(すなわ)ち無心の処に就(つ)きてその衷(ちゅう)を?(ひら)く。
嶮人(けんじん)は禍(わざわ)いを避(さ)くるに意(い)を着(つ)く。
天、即(すなわ)ち着意(ちゃくい)の中(うち)に就(つ)きてその魄(はく)を奪(うば)う。
見るべし、天の機権(きけん)の最(もっと)も神(しん)なるを。人の智巧(ちこう)は何の益(えき)あらん。
節操の有る者は、幸福を求めようとする心が無いので、天はその無心の者に報いるため正しい方向性を示す。
これに反して“ひねくれ者”は不幸を避けることばかりに気を取られているので、天はその執着心を砕き命を脅かして警告をする。
天の道が神秘的な働きを持っているのは明らかであり、人間の知恵など役にたつだろうか。
つまり、天は、無心で悠然としている者に味方し、下衆な臆病者には鉄槌を下すなど、人間の知恵などはるかに及ばないのである。
言い換えれば、活人はこの世の免疫力と恒常性維持力を本能的に知っている人なのかもしれない。
前集92項 人の値打ちは後半生で
声妓晩景従良、一世之?花無碍。
貞婦白頭失守、半生之清苦倶非。
語云看人只看後半截。真名言也。
声妓(せいぎ)も晩景(ばんけい)、良(りょう)に従えば、一世(いっせい)の?花(えんか)、碍(さまた)げ無し。
貞婦(ていふ)も白頭(はくとう)に守りを失わば、半生(はんせい)の清苦(せいく)、倶(とも)に非なり。
語(ご)に云(い)う、「人を看(み)るには、只後(ただのち)の半截(はんせつ)を看み)よ」真(まこと)に名言(めいげん)なり。
派手な生活をしていた歌手も年老いて良縁に恵まれれば、過去は何の妨げにならない。
ところが、貞節な女性が白髪が見立つようになってから、道を踏み外せば、苦労した半生は水泡に化してしまう。
ことわざに、人の生涯を評価するには、後半の半生を見れば十分、というが本当に名言である。
つまり、若い時や始めたばかりの時は色々とあるが、人間の真価が解かるのは「後半」を如何に生きるか、ということ。
言い換えれば、活人は、退職してからを、人生の仕上げに費やせる火とだろう。
前集93項 私恩を売るだけでは
平民肯種徳施恵、便是無位的公相。
士夫徒貪権市寵、竟成有爵的乞人。
平民(へいみん)も肯(あえ)て徳(とく)を種(う)え恵みを施(ほどこ)せば、便(すなわ)ち是れ無位(むい)の公相(こうしょう)なり。
士夫(しふ)も徒(いたず)らに権(けん)を貪(むさぼ)り寵(ちょう)を市(う)らば、竟(つい)に有爵(ゆうしゃく)の乞人(きつじん)と成る。
庶民でも自ら進んで徳の種を撒いて、社会に恵みを与えれば、公の地位の無い総理大臣みたいなもの。
ところが、議員や大臣のような地位にありながら、権力を振るい、ゴマすりをすれば、公の地位のある乞食のようなものだ。
つまり、生まれや地位に簡明なく、社会貢献をする者が素晴らしいのだ。
言い換えれば、活人は社会貢献をしている人といえる。
前集94項 祖先の苦労
問祖宗之徳沢、吾身所享者是。
当念其積累之難。
問子孫之福祉、吾身所貽者是。
要思其傾覆之易。
祖宗(そそう)の徳沢(とくたく)を問わば、吾(わ)が身に享(う)くる所の者(もの)是なり。当(まさ)に其の積累(せきるい)の難(かた)きを念(おも)うべし。
子孫(しそん)の福祉(ふくし)を問わば、吾が身に貽(のこ)す所の者、是なり。
其の傾覆(けいふく)の易(やす)きを思うことを要す。
先祖が遺した恩恵とは何かと言えば、私が今、正にある状態であり、積み重ねてゆくこそが重要だということを思っていなければならない。
子孫の幸せとは何かと言えば、私が残そうとしているものがそれで、傾き易く倒れ易いものだと思っておかなければならない。
つまり、因果応報。全てが変数だからこそ、一生懸命に生きなさいということ。
言い換えれば、活人は何事にも誠心誠意を尽くして対応する人と言える。
前集95項 偽善と変節
君子而詐善、無異小人之肆悪。
君子而改節、不及小人之自新。
君子(くんし)にして、而(しか)も善を詐(いつわる)は、小人(しょうじん)の悪を肆(ほしいまま)にするに異(ことな)ること無し。
君子(くんし)にして、而(しか)も節を改(あらた)むるは、小人の自(みずか)ら新たにするに及(およ)ばず。
上に立つ人間でありながら、偽善を行っているのは、下衆な連中が悪事をやりたい放題にしているのと変わりない。
上に立つ人間でありながら、自戒の決め事を変えるのは、下衆な人間が心を入れ替えるも及ばない。
つまり、上に立つ者は、心底から善を成し、コロコロと考えを変えるべきではないということ。今の日本の政治屋にもっとも聞かせたいようなことだ。
言い換えれば、活人は善に対して不動心をもっている人といえる。
前集96項 家族が過ちを犯したとき
家人有過、不宜暴怒、不宜軽棄。
此事難言、借他事隠諷之、今日不悟、俟来日再警之。
如春風解凍、如和気消氷、纔是家庭的型範。
家人(かじん)に過ちあらば、宜しく暴怒(ぼうど)すべからず、宜しく軽棄(けいき)すべからず。
此の事、言い難くば、他の事を借りて隠(いん)に之を諷(いき)め、今日(こんにち)悟(さと)らざれば、来日(らいじつ)を俟(ま)ちて再び之を警(いまし)めよ。
春風(しゅんぷう)の凍(こお)れるを解(と)くが如(ごと)く、和気(わき)の氷を消すが如く、纔(わずか)に是れ家庭の型範(はんけい)なり。
家族の誤りに、ことさら激しく怒ってはならないが、軽視してもいけない。
言い難いことなら、暗示をもって注意すべきで、それに気が付かなければ、後日、機会を改めて、再び暗示すべきだ。
この方法は、春の暖かい風が氷を溶かすようなもので、家庭円満の基本形なのだ。
つまり、感情で付き合う事の多い家族は、直接的に怒れば、直接的に反応し、双方が引っ込み辛くなるので、誤りや注意は気長に優しく解るように伝えのが家庭円満のコツだということ。
言い換えれば、活人は家族の要として私生活でもリーダーなのだ。
前集97項 自分の心しだいで
此心常看得円満、天下自無欠陥之世界。
此心常放得寛平、天下自無険側之人情。
此(こ)心、常に看得(ええ)て円満(えんまん)ならば、天下(てんか)自(おのず)から欠陥(けっかん)の世界無(な)からん。
此の心、常に放(はな)ち得(え)て寛平(かんぺい)ならば、天下(てんか)自(おのず)から険側(けんそく)の人情(にんじょう)無(な)からん。
皆が、自分の心をいつも監視して円満に保つようにしていれば、世界には欠陥など無くなり、自分の心を大らかで開放的にして公平観をもっていれば、世界には刺々しさ無くなり人情豊かになる。
つまり、世界平和のキーワードは、自制心、受容性、公平性ですということ。
言い換えれば、活人の心構えは、当然と言えば当然だが、価値観が違うと事を無視してボタンの掛け違いを放置していることが無い様に生きようというものだ。
前集98項 信念をむき出しにしない
澹泊之士、必為濃艶者所疑。
?飾之人、多為放肆者所忌。
君子処此、固不可少変其操履、亦不可太露其鋒芒。
澹泊(たんぱく)の士(し)は、必ず濃艶(のうえん)なる者に疑われ、?飾(けんしょく)の人(ひと)は、多くは放肆(ほうし)なる者の忌(い)まる。
君子、此れ処するに、固(もと)より少しも其の操履(そうり)を変ずべからず、亦(また)太(はなは)だ其の鋒芒(ほうぼう)を露(あら)わすべからず。
無欲な人は、派手好きからは嫌われ、厳格な人は勝手な人からは嫌われる。
上に立つ者がこれらの人間に対応しなければならない時は、自分の哲学を決して変えてはならないが、その矛先を露骨に見せてもいけない。
つまり、下々の者は感情で生きているが、上に立つ者は多少脇を広げつつ、哲学で生きて居なければならないということ。
言い換えれば、活人は、大昔から感情で動く開発途上の者は扱い辛い事を理解しつつ、それを扱える、人格者という形容詞が付いたリーダーなのだ。
前集99項 逆境は良薬、順境は凶器
居逆境中、周身皆鍼?薬石、砥節礪行而不覚。
処順境内、満前尽兵刄戈矛、銷膏靡骨而不知。
逆境(ぎゃっきょう)の中(うち)に居(お)らば、周身(しゅうしん)皆(みな)鍼?薬石(しんべんやくせき)にして、節(せつ)を砥(と)ぎ行(おこな)いを礪(みがき)くも、而(しか)して覚(さと)らず。
順境(じゅんきょう)の内(うち)に処(お)らば、満前(まんぜん)尽(ことごと)く兵刄戈矛(へいじんかほう)にして、膏(こう)を銷(と)かし骨(ほね)を靡(へ)らすも、而(しか)して知らず。
注)?:いしばり
人間が逆境にある時は心身が成長する機会の中にあるようなものだが、本人はそれを自覚できないし、順風満帆の時は心身が消耗する戦火の中にあるのだが、本人はそれに気が付かない。
つまり、「賢者は愚者の学び、愚者は賢者に学ばず」と同じように、下を向いている時も、上を向いている時も、平常心を保てない人間は成長しないのである。
言い換えると、活人の「坐禅」は、先ずは「平常心」を得ることなのだ。
前集100項 欲望は自分を焼き尽くす
生長富貴叢中的、嗜欲如猛火、権勢似烈焔。
若不帯些清冷気味、其火焔不至焚人、必将自爍矣。
富貴(ふうき)の叢中(そうちゅう)に生長(せいちょう)するは、嗜欲(しよく)、猛火(もうか)のごとく、権勢(けんせい)は烈焔(れつえん)に似たり。
若(も)し些(いささか)の清冷(せいれい)の気味(きみ)を帯(おび)ざれば、その火焔(かえん)、人を焚(や)くに至(いた)らざるも、必(かなら)ず将(まさ)に自(みずか)ら爍(や)かんとす
上流階級の集まる場所で育った人間は、欲望は猛火のようであり、権力志向は強烈な炎のようである。そのような人間は少しでも清く冷静な気持ちを醸成しないと、他人を焼かないまでも自分で自分を焼いてしまう。
つまり、育ちは環境の影を心に焼き付けてしまうので、自我に芽生えたなら、志をしっかり持たなければ、私利私欲を充足しようと競走社会を煽って自らをも滅ぼしてしまうということ。
言い換えれば、活人はアメリカの上流社会を反面教師としている人なのだ。
前集101項 人間の一念
人心一真、便霜可飛、城可隕、金石可貫。
若偽妄之人、形骸徒具、真宰已亡。
対人側面目可憎、独居則形影自?。
人心(じんしん)の一真(いっしん)、便(すなわ)ち霜(しも)をも飛(とば)ばすべく、城(しろ)をも隕(おと)すべく、金石(きんせき)をも貫(つらぬ)くべし。
偽妄(ぎぼう)の人(ひと)の若(ごと)きは、形骸(けいがい)は徒(いたずら)に具(そな)わるも、真宰(しんさい)は已(すで)に亡(ほろ)ぶ。
人に対せば則(すなわ)ち面目(めんもく)憎(にく)むべく、独居(どっきょ)すれば則(すなわ)ち形影(けいえい)自(みずから)?ず。
人の心が真実なら、夏に霜を降らし、城壁を崩し、金石も貫く。
これに対し、心が出鱈目なら、肉体で生きているだけで、肝心な心がない。
だから、人前での顔は憎たらしく、自分一人の時は自己嫌悪に陥る。
つまり、心が綺麗な人は、いざとなれば奇跡をも起こせるだろうが、卑しい人間は自分すら嫌いになるということで、人間は心の持ち方が人生を決めるということ。
言い換えれば、活人は奇跡をも起こせる人なのだ。
前集102項 最高の世界
文章做到極処、無有他奇。只是恰好。
人品做到極処、無有他異。只是本然。
文章(ぶんしょう)、極処(きょくしょ)に做(な)し到(いた)れば、他の奇(き)有ること無し。只是(ただこ)れ恰好(かっこう)。
人品(じんぴん)、極処(きょくしょ)に做(な)し到(いた)れば、他の異(い)有ること無し。ただこれ本然(ほんぜん)。
文章を書くことを極めれば、そこには新規性などなく、相応の世界がある。
人格を磨くことを極めれば、そこには特異性などなく、本質の世界がある。
つまり、何事も入れ子の構造になっているが、それが解るのは極めた人間ということ。正に「悟り」の世界そのものなのだ。
言い換えれば、活人は真実を知る者と言える。
前集103項 真実の世界
以幻迹言、無論功名富貴、即肢体亦属委形。
以真境言、無論父母兄弟、即万物皆吾一体。
人能看得破、認得真、纔可任天下之負担、亦可脱世間之?銷。
幻迹(げんせき)を以って言えば、功名富貴(こうめいふき)を論ずる無く、即(すなわ)ち肢体(したい)もまた委形(いけい)に属(ぞく)す。
真境(しんきょう)を以って言えば、父母兄弟を論ずる無く、即(すなわ)ち万物(ばんぶつ)も皆吾(みなわれ)一体なり。
人、能(よ)く看得(みえ)て破(やぶ)り、認めて得て真(しん)ならば、纔(わずか)に天下の負担に任(た)うべく、亦(ま)た世間の?銷(きょうさ)を脱すべし。
泡沫の様な現実の世界では、財を築き、名を残すことなどは勿論のこと、肉体は借り物に過ぎない。
本質である実在の世界では、父母兄弟は勿論のこと、万物は皆、自分と一体なのだ。
人はそれを観じて悟り確信したら、天下国家の大役を担えることが出来るし、俗世間の柵(しがらみ)を超越できる。
つまり、この世が二元論の幻想の世界ではなく、一元論の本質の世界であることを知らない人間は上に立つ者の資格は無いということ。
言い換えれば、活人は、坐禅などを通じて無の心境を悟っている人であり、それを知りえない下衆な人間には上に立つ資格は無いと言うことに他ならない。
前集104項 楽しみはほどほどに
爽口之味、皆爛腸腐骨之薬。五分便無殃。
快心之事、悉敗身喪徳之媒。五分便無悔。
爽口(そうこう)の味(あじわい)は、皆、欄腸腐骨(らんちょうふこつ)の薬なるも、五分(ごぶ)なれば便(すなわ)ち殃(わざわい)無し。
快心(かいしん)の事は、悉(ことごとく)、敗身喪徳(はいしんそうとく)の媒(なかだち)なるも、五分なち便(すなわ)ち悔(くい)無し。
美味しい食べ物は、胃腸をただれさせ骨をボロボロにする毒であるが、腹半分なら害はない。
楽しい出来事は、体を持ち崩し心をカサカサにする要因だが、そこそこなら後で後悔することはない。
つまり、何事も半分程度で十分だという生き方こそが生涯の幸せの基本となるということ。
言い換えれば、活人は腹八分、分相応という生き方を実践している人だろう。
前集105項 他人の思いやり
不責人小過、不発人陰私、不念人旧悪。
三者可以養徳、亦可以遠害。
人の小過(しょうか)を責(せ)めず、人の陰私(いんし)を発(あば)かず、人の旧悪(きゅうあく)を念わず。
三者(さんしゃ)は、以て徳を養うべく、亦(また)以て害に遠ざかるべし。
他人の些細な過ちを責め立てたり、秘密を暴いたり、過去の汚点を覚えておくなどは良くない。この3つをしないことで人格を上げ、逆恨みをかわないようにしなさい。
つまり、大多数の人が共通して嫌なことをするのは下衆の代名詞であり、それさえしなければ、最低限の徳は積めますということ。
言い換えれば、活人は嫌われない人でもあるのだ。
前集106項 落ち着きと闊達自在
士君子持身不可軽。
軽則物能撓我、而無悠閒鎮定之趣。
用意不可重。
重則我為物泥、而無瀟洒活溌之機。
士君子(しくんし)、身を持(じ)するに軽くするべからず。
軽くすれば、即(すなわ)ち物(もの)能(よ)く、我を撓(たわ)めて、悠閒鎮定(ゆうかんちんてい)の趣(おもむき)無し。
意(い)、用うるに重くすべからず。
重くすれば、即ち我物に泥(なず)まれ、瀟洒活溌(しょうしゃかっぱつ)の機無し。
人の上に立つ立派な人間は、軽がるしい行動は慎みなさい。
軽々しく行動すれば、自分のペースが乱され、悠々自適さを失う。
だからと言って、重々しくしていたのでは、物まみれになり、センスが良くキビキビした動きが出来なくなる。
つまり、トップの行動はタイミングが重要で、早すぎても、遅すぎても駄目ということ。
言い換えれば、活人は、適時的確適任を知り、適宜適切な支援が出来る人と言えるだろう。
前集107項 ムダに過ごすことへの恐れ
天地有万古、此身不再得。
人生只百年、此日最易過。
幸生其間者、不可不知有生之楽、亦不可不懐虚生之憂。
天地は万古(ばんこ)有るも、此の身は再び得られず。
人生ただ百年、この日最も過(すご)し易し。
幸い、その間に生まるる者は、有生(ゆうせい)の楽しみを知らざるべからず、亦(また)虚生(きょせい)の憂(うれ)いを懐(いだ)かざるべからず。
天地は永遠のものであるが、この身を再び得ることはない。
人生はせいぜい百年で、月日はどんどん過ぎてゆく。
幸いに、この世に生まれた者は、生きている楽しみを知り、無駄に過ごすことの無いように心得ていなければならない。
つまり、百年そこそこの一回きりの人生が無駄にならないように、使命を果たしつつ幸せに生きなければならないということ。
言い換えれば、活人は使命に生きている人なのだ。
前集108項 水に流してもらう
怨因徳彰。
故使人徳我、不若徳怨之両忘。
仇因恩立。
故使人知恩、不若恩仇之倶泯。
怨(うらみ)は、徳(とく)に因(よ)りて彰(あら)わる。
故に人をして我を徳とせしむるは、徳と怨みの両(ふた)つながら忘るるに若(し)かず。
仇(あだ)は、恩(おん)に因(よ)りて立(た)つ。
故に人をして恩を知(しら)しむるは、恩と仇との倶(とも)に泯(ほろ)ぼすに若(し)かず。
怨は、人徳との対比で彰(あきら)かになる。
故に、他人に徳を感じされることより、徳も怨も両方を忘れる方が良い。
仇は、恩恵との対比で立っている。
故に、他人に恩を感じさせることより、恩も仇も共々に消える方が良い。
つまり、人徳と怨み、恩と仇、善と悪、良と否、好き嫌いなどなどは一線の両端にあるものだから、どちらかに傾けば反動で反対側に振れてしまう。だから、其の両方に心を奪われなければ安心があるということ。
言い換えれば、活人は、二元論が生む不安と決別し、一元論が与える安心を得ていると言える。
前集109項 全盛期には慎重
老来疾病、都是壮時招的。
衰後罪?、都是盛時作的。
故持盈履満、君子尤兢兢焉。
老来(ろうらい)の疾病(しっぺい)は、都(すべ)て是(これ)壮時(そうじ)に招(まね)きし的(もの)なり。
衰後(すいご)の罪?(ざいげつ)は、都(すべ)て是(これ)盛時(せいじ)に作(な)せし的(もの)なり。
故に盈(えい)を持(じ)し満(まん)を履(ふ)むは、君子尤(もっと)も兢々(きょうきょう)たり。
年老いてからの病気は、血気盛んな時の不摂生が原因である。
引退してからの罪状は、隆盛の勢いの時の不節操が原因である。
故に地位も実力も頂点にある時、上に立つ者は、自分の力を重みに恐れ多きを知るべきである。
つまり、力のある時は、それが将来どんな結果を齎すかなど考えず、時を謳歌するだろうが、天があれば地もあることを知って、自重した生き方をしなさいということ。
言い換えれば、活人はイザという時を考えられる余裕のある人と言えるだろう。
前集110項 新しい友人より古い友人
市私恩不如扶公儀。
結新知不如敦旧好。
立栄名不如種隠徳。
尚奇節不如謹庸行。
私恩(しおん)を市(う)るは公儀(こうぎ)を扶(たす)くるに如(し)かず。
新知(しんち)を結ぶは旧好(きゅうこう)を敦(あつ)くするに如かず。
栄名(えいめい)を立(た)つるは隠徳(いんとく)を種(う)うるに如かず。
奇節(きせつ)を尚(たっと)ぶは庸行(ようこう)を謹(つつし)むに如かず。
個人的な恩を施す価値は、公正な議論を支援することには及ばない。
新しい友を得る価値は、旧友との付き合いを濃厚にするには及ばない。
名声を上げる価値は、匿名で奉仕することには及ばない。
並外れた行いを重視する価値は、日常の振る舞いを慎むことには及ばない。
つまり、人生において、公正であること、友を大事にすること、謙虚であること、先ずは日常を大事にすることが、庶民的であるが何より大事ということ。言い換えれば、活人は、無事是貴人と言う熟語を充分に理解している人といえるだろう。
前集111項 危うきに近寄らず
公平正論、不可犯手。
一犯則貽羞万世。
権門私竇、不可着脚。
一着則点汚終身。
公平なる正論は、手を犯すべからず。
一(ひと)たび犯さば、則(すなわ)ち羞(はじ)を万世(ばんせい)に貽(のこ)す。
権門(けんもん)の私竇(しとう)は脚(あし)を着(つ)くべからず。
一(ひと)たび着(つ)かば、即(すなわ)ち汚れを終身(しゅうしん)に点ず。
公平で正しい考えに逆らってはならない。
一度でも逆らった、その恥は末代まで残る。
権力のある個人宅には足を踏み入れてはならない。
一度でも踏み入れれば、その汚点は一生涯残る。
つまり、人生にどんなことがあろうと、不正に組みしたり、権力者に媚を売ったが最後、自分だけでなく家族や子孫までも悲しい思いをさせることになる、ということ。
言い換えれば、活人は、平常心是道と心得、公正中立を心がけなさいということだろう。
前集112項 信念を貫くこと
曲意而使人喜、不若直躬而使人忌。
無善而致人誉、不若無悪而致人毀。
意を曲げて人をして喜ばしむるは、躬(み)を直(なお)くして人をして忌(い)ましむるに若(しか)ず。
善を無くして人の誉(ほま)れを致(いた)すは、悪なくして人の毀(そし)りを致(いた)すに若(しか)ず。
信念を曲げて他人を喜ばすのは、身を正して他人に嫌われようなものだ。
善行を行わないのに褒められるのは、悪くないのに他人に非難されるようなものだ。
つまり、人生で否な思いをしたくないなら、信念を貫き、善行を積み、媚を売ったり売られたりするな、ということ。
言い換えれば、活人は決して“媚びない”を信条とすべきなのだ。
前集113項 肉親の不幸、友人の過失
処父兄骨肉之変、宜従容、不宜激烈。
遇朋友交游之失、宜剴切、不宜優游。
父兄骨肉(ふけいこつにく)の変に処(しょ)しは、宜(よろ)しく従容(じゅうよう)たるべく、宜しく激烈(げきれつ)なるべからず。
朋友交游(ほうゆうこうゆう)の失(しつ)に遇(あ)いては、宜しく剴切(がいせつ)なるべく、宜しく優游(ゆうゆう)たるべからず。
親兄弟の身の上に異変がある時は、落ち着いて対処し、感情的になってはならない。
親友や仲間が何かで失敗した時は、適切に忠告し、グズグズしてはならない。
つまり、人間、家族の異変には感情的になってしまい、知人の失敗には知らん顔をしてしまいがちだが、それはあってはならないということ。
言い換えれば、活人とは、求めず、与える人ということになる。
前集114項 立派な人物の条件
小処不滲漏、暗中不欺隠、末路不怠荒。
纔是個真正英雄。
小処(しょうしょ)に滲漏(しんろう)せず、暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)せず、末路(まつろ)に怠荒(たいこう)せず。
纔(わず)かに是れ個の真正の英雄なり。
小さな事だと等閑(なおざり)にしない。見られていないからといって誤魔化さない。どん底でも投げ出さない。
この三つが出来てはじめて、本当の英雄と言える。
つまり、小事を蔑ろにしたり陰日向があったりイザと言う時に力を出せない人間は活人と言えません。
言い換えれば、活人は、誠実で粘り強く、強い信念をもっていることを要求されます。
前集115項 わずかな施しでも
千金難結一時之歓、一飯竟致終身之感。
蓋愛重反為仇、薄極翻成喜也。
千金(せんきん)も一時の歓(かん)を結び難たく、一飯(いっぱん)も竟(つい)に終身の感を致(いた)す。
蓋(けだ)し、愛、重ければ反(かえ)りて仇(あだ)となり、薄(はく)極(きわ)まりて翻(かえ)りて喜びと成るなり。
大金を使っても、その場限りの喜びでさえ手に入れるのが難しいが、たった一回の食事が生涯の感動を齎すこともある。
思うに、情が深ければ害を及ぼすこともあり、薄情が喜びとなることもある。
つまり、過ぎたるは及ばざるが如しであり、この世の出来事は全て考え方で価値が決まるので「量」の概念では考えられない、ということ。
しかし、実は多すぎる、少なすぎるのが問題なのではなく、「過不足無い」ことこそ人生、ということだろう。
言い換えれば、活人は中庸の人といえるのだ。
前集116項 狡兎三窟
蔵巧於拙、用晦而明、寓清之濁、以屈為伸。
真渉世之一壷、蔵身之三窟也。
巧(こう)を拙(せつ)に蔵(かく)し、晦(かい)を用いて明(めい)とし、清(せい)を濁(だく)に寓(ぐう)し、屈(くつ)を以って伸(しん)と為(な)す。
真(まこと)に世を渉(わた)るの一壷(いっこ)にして、身を蔵(かく)するの三窟(さんくつ)なり。
優れた才能がありながら、つまらない人間のように振る舞い、聡明さを愚か者のように見せて、腰を低くしているようで実は伸び伸びとしている。
このような世渡り術が救命胴衣となり、身を隠す3つの隠れ家ななる。
つまり、切れ者は警戒され、愚鈍は無防備となり、自慢と派手は下衆な連中の特徴で、本当に知恵があれば擬態で生きるのが人生の安全が確保されますよ、ということ。それこそ処世術の極意ということだろう。
言い換えれば、活人の条件は、大自然に学んだ柔軟性なのだろう。
*狡兎三窟(こうとさんくつ)斉策「戦国策」にある、ズル賢いウサギは3つの隠れ家を持つという喩えからの引用だろう。
前集117項 順調なときこそ
衰颯的景象、就在盛満中。
発生的機緘、即在零落内。
故君子、居安宜操一心以慮患、処変当堅百忍以図成。
衰颯(すいさつ)の景象(けいしょう)は、就(すなわ)ち盛満(せいまん)の中(なか)に在り、発生の機緘(きかん)は、即(すなわ)ち零落(れいらく)の内(うち)に在る。
故に、君子は安(やす)きに居(お)りて、宜(よろ)しく一心(いっしん)を操(と)り、以って患(うれい)を慮(おもんぱか)り、変(へん)に処(お)りて当(まさ)に百忍(はくにん)を堅(かた)くして以って成(な)るを図(はか)るべし。
衰退の兆しは隆盛の時に始まり、芽吹きは葉が枯れて落ちる時に始まっている。
故に、上に立つ者は繁栄している時に、将来の危機管理に心を集中し、非常事態とあればしっかりと耐える準備をしておくこと。
つまり、原因は結果の中に潜んでいるし、結果は原因の中に潜んでいるので、上に立つ者は「陽」の時には「陰」をに備え、「陰」の時は「陽」に備えてくべきなのだ。
言い換えれば、活人は、因⇔縁⇔果の法則を体現している人となる。
前集118項 浅知恵
驚奇喜異者、無遠大之識、苦節独行者、非恒久之操。
奇(き)に驚(おどろ)き異(い)を喜(よろこ)ぶは、遠大(えんだい)の識(しき)無く、苦節独行(くせつどっこう)の者は、恒久(こうきゅう)の操(そう)に非(あら)ず。
珍しい事に驚き、変った事に喜ぶ者には、先見の明が無い。また極端な潔癖さで生きる者は生涯の潔癖さとは縁遠い。
つまり、一喜一憂するような浮ついた者や異常なほどに潔癖な者は長続きしないということで、平常心で暮らすのが無難ですよ、ということ。
言い換えれば、活人は自然体なのだ。
前集119項 二人の自分
当恕火慾水正騰沸処、明明知得、又明明犯着。
知的是誰、犯的又是誰。
此処能猛然転念、邪魔便為真君矣。
恕火慾水(どかようすい)の正(まさ)に騰沸(ふっとう)する処(ところ)に当たりて、明々(めいめい)に知得(ちとく)し、又(また)、明々に犯着(はんちゃく)す。
知るところ、是れ誰ぞ。犯すところ、又、是れ誰ぞ。
此の処、能(よ)く猛然(もうぜん)として念(ねん)を転(てん)ずれば、邪魔(じゃま)、便(すなわ)ち真君(しんくん)と為(なら)ん。
怒りの火と欲望の水が、正に沸き立つ場面では、解っていてもミスを犯してしまう。
解っていてもミスを犯してしまうのは何故だろう。
この点についてしっかりと考えて、発想を転換すれば、ミスを犯した心が、正しい行動をする心に変身するだろう。
つまり、業が深い人間は、意識転換すれば、悟りも大きいということ。
言い換えれば、活人候補は逸れ者の中から現れ、良縁が活人を生むのかもしれない。
前集120項 願い下げにしたいこと
毋偏信而為奸所欺。
毋自任而為気所使。
毋以己之長而形人之短。
毋因己之拙而忌人之能。
偏信(へんしん)して奸(かん)の欺(あざむ)く所(ところ)と為(な)る毋(ことなか)れ。
自任(じにん)して気(き)の使うところと為(な)る毋(ことなか)れ。
己(おのれ)の長(ちょう)を以て人の短(たん)を形(あらわ)す毋(ことなか)れ。
己(おのれ)の拙(せつ)に因(よ)りて人の能(のう)を忌(い)む毋(ことなか)れ。
一方ばかりを信じ、悪人に騙されない事。
過信して勇み足にならない事。
自分の長所を盾に、他人の短所を暴かない事。
自分の短所を棚上げに、他人の長所をねたまない事。
つまり、人間は先入観を排し、公正公平に判断をしなさい、ということ。
言い換えれば、活人の判断は公正でなければならないのだ。
[TOP]
引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
|