NHKテレビ 「100分de名著」 【菜根譚 Saikontan】を 放送 、好評 テキスト (逆境こそ自分を鍛える時だ!) (幸と不幸の境目はどこか? すべて人の心が決めるのだ) 。.。.   
    [温故知新][姉妹篇(前集)] [姉妹篇(後集)][100分de名著] 
はじめに
前集001~030 前集031~060 前集061~090 前集091~120 前集121~150 前集151~180 前集181~210 前集211~225
後集001~030 後集031~060 後集061~090 後集091~120 後集121~135
原文
巻之
原文
巻之
明刻本 清刻本

・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] [ 巻之下]

菜根譚(さいこんたん) 前集 121~150  洪自誠

《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》

前集121項 やんわりと対処する

人之短処要曲為弥縫。 如暴而揚之、是以短攻短。 人有頑的要善為化誨。 如忿而嫉之、是以頑済頑。

人の短処(たんしょ)は曲(つぶさ)に弥縫(びほう)を為(な)すを要す。 如(も)し暴(あば)きて之(これ)を揚(あ)ぐれば、是(こ)れ短(たん)を以って短(たん)を攻(せ)めるなり。 人の頑(がん)あるは善(よ)く化誨(かかい)を為(な)すを要す。 如(も)し忿(いか)りて之(これ)を嫉(にく)まば、是(こ)れ頑(がん)を以て頑(がん)を済(な)すなり。

他人の短所は上手に取り繕ってやる必要がある。 もし短所を暴いてそれを露呈するのは、自分の短所で他人の短所を責めるようなものだ。 他人の意固地は上手に諭してやる必要がある。 もし、怒って相手の意固地を憎めば、自分の頑固を相手の頑固にするようなものだ。 つまり、人間は北風ではコートを脱ぐことはなく、太陽の暖かさでコートを脱ぐということであり、人の欠点に対処する時、強硬策は逆効果ですよ、ということ。 言い換えれば、活人は太陽の様な人なのだ。


前集122項 心を許せない人

遇沈沈不語之士、且莫輸心。 見??自好之人、応須防口。

沈々(ちんちん)と語(かた)らざる士(し)に遇(あ)わば、且(しばら)く心を輸(いた)すこと莫(なか)れ。 ?々(こうこう)と自(みずか)ら好(よ)しとするの人を見(み)れば、応(まさ)に須(すべから)く口を防(ふさ)ぐべし。

沈黙して何も言わない人間には、本心を打ち明けてはならない。 怒りっぽく、自分が正しいと思い込んでいる人間には、口を開いてはならない。 つまり、変っている人だなと感じたら、自分は口を謹み、暫らくは様子を見る事だ。 言い換えれば、活人は、相手から様子を見られたなら自分を変人と思われたと悟ること。


前集123項 心のバランスをとる

念頭昏散処、要知提醒。 念頭喫緊時、要知放下。 不燃恐去昏昏之病、又来憧憧之擾矣。

念頭(ねんとう)、昏散(こんさん)の処(ところ)、提醒(ていせい)を知(しる)ことを要す。 念頭(ねんとう)、喫緊(きっきん)の時(とき)、放下(ほうげ)を知(しる)ことを要す。 然(しか)らざれば、恐らくは昏々(こんこん)の病(やまい)を去(のぞ)くも、又、憧々(しょうしょう)の擾(みだれ)れを来(まね)かん。

気分が散漫している者は、しっかりと目を覚まますことを学ばなければならない。 気分が緊張している者は、何とかなるということを学ばなければならない。 そうしなければ、散漫を退治てきても、落ち着きの無さを露呈する。 つまり、俗人には心を完全な状態にするのは至難の業ということ。 言い換えれば、活人の心は完全な状態、即ち、無為無心なのだ。


前集124項 変化の後を留めない

霽日青天、倏変為迅雷震電、疾風怒雨、倏変為朗月晴空。 気機何常、一毫凝滞。 太虚何常、一毫障塞。 人心之体、亦当如是。

霽月(せいじつ)の青天(せいてん)も、倏(たちま)ち変じて迅雷震電(じんらいしんでん)と為(な)り、疾風怒雨(しっぷうどう)、倏(たちま)ち変じて朗月(ろうげつ)の晴空(せいくう)と為(な)る。 気機(きき)何(なん)ぞ常(つね)あらんも、一毫(いちごう)の凝滞(ぎょうたい)なり。 太虚(たいきょ)何(なん)ぞ常(つね)あらんも、一毫(いちごう)の障塞(しょうそく)なり。 人心(じんしん)の体(たい)も、亦(また)当(まさ)に是(か)くの如(ごと)くなるべし。

晴れた青空も、一変、雷が鳴り響く、稲が光る空となり、強風と豪雨となったかと思えば、更に一変して、月の綺麗な夜空になる。 大自然とは何と変化に富んで、一瞬たりとも留まることはない。 大空は変化の連続であっても、大自然から観ればほんの一部でしかない。 人間の心の有様もこういありたいものだ。 つまり、何でも、大きく高く広くと視点を拡大してみれば、人間界の変化など小さいものということ。 言い換えれば、活人は、細かい事など見るな、聴くな、気にするなということ。


前集125項 自覚する能力と意志力

勝私制欲之功、有曰識不早、力不易者。 有曰識得破、忍不過者。 蓋識是一顆照魔的明珠、力是一把斬魔的慧剣。 両不可少也。

私(し)に勝(か)ち欲(よ)を制するの功(こう)は、識(し)ること早(はやか)らず、力(つと)むること易(やす)からず、と曰(い)う者有り。 識(し)り得(え)て破(やぶ)り、、忍(にん)過またずと曰(い)う者有り。 蓋(けだ)し、識(しき)は是(こ)れ一顆(いっか)の照魔(しょうま)の明珠(めいじゅ)にして、力は是れ一把(いっぱ)の斬魔(ざんま)の慧剣(けいけん)。 両(ふた)つながら少(すくな)くべからざるなり。

自分の欲望に打ち勝ち制することは、理解が遅れれば、実行するのは難しいという者がいる。 また、ある者は理解が出来ても実行し続けることが難しいという者もいる。 思うに、理解力は魔性を照らす宝石で、実行力は魔性を斬る智慧の剣で、どちらも欠くことが出来ない。 つまり、解っただけで実行できないのは困るし、解らないで実行してしまうのも問題で、解らず実行も出来ないのは最低で、理解し実行出来るのは偉大だということ。 言い換えれば、活人でも完全な人間である訳では無いのだから、頭と心を組み合して使うのが宜しいということ。


前集126項 怒りを表に現さない

覚人之詐、不形於言。 受人之侮、不動於色。 此中有無窮意味、亦有無窮受用。

人の詐(いつわり)を覚(さと)るも、言に形(あら)わさず。 人の侮(あなど)りを受(う)くるも、色に動(うご)かさず。 此の中に無窮(むきゅう)の意味有り、亦、無窮(むきゅう)の受用(じゅよう)有り。

人が騙そうとしている事に気がついても、言葉に出さない。 人から軽く見られていても顔色ひとつ変えない。 このような中に限りなく深い意味があり、限りない懐の深さがある。 つまり、本物の大人にとって、下衆の輩は手の上で遊ばしてあげているようなもので、いつでも潰せるので泰然自若としていろというところだろう。 言い換えれば、活人は孫悟空に対する釈迦の役割が出来なければならないのだ。


前集127項 人間を鍛える溶鉱炉

横逆困窮、是鍛煉豪傑的一福鑢錘。 能受其鍛煉則身心交益。 不受其鍛煉則身心交損。

横逆困窮(おうぎゃくこんきゅう)は、是れ豪傑(ごうけつ)を鍛煉(たんれん)するの一副(いっぷく)の鑢錘(ろすい)なり。 能(よ)く其の鍛煉(たんれん)を受(う)くれば、即(すなわ)ち身心(しんしん)交(こもご)も益(えき)す。 其の鍛煉(たんれん)を受(う)けざれば、即(すな)ち、身心(しんしん)交(こもご)も損(そん)す。

逆境や困窮は、十人前・百人前の人間を鍛え上げる錬金術のようなものだ。 だから、成功すれば大きな利益がとなるが、失敗すれば大損なのである。 つまり、不利な条件で育った人間は、大物かどうしようも無い人間かどちらだということ。 言い換えれば、活人には雲泥の差がある友がいる事になるので、用心用心。


前集128項 平和な世界

吾身一小天地也。 使喜怒不愆、好悪有則、便是燮理的功夫。 天地一大父母也。 使民無怨咨、物無氛疹、亦是敦睦的気象。

吾が身は一(いつ)の小天地(しょうてんち)也り。 喜怒(きど)をして愆(あやま)らず、好悪(こうお)をして則(のり)有(あ)らしめば、便(すなわ)ち是れ燮理(しょうり)の功夫(くふう)なり。 天地(てんち)は一(いつ)の大父母(だいふぼ)なり。 民(たみ)をして怨咨(えんし)無く、物をして氛疹(ふんしん)無からしめば、亦(ま)是れ敦睦(とんぼく)の気象(きしょう)なり。

自分の体は小さな宇宙である。 喜び怒ることに間違いを犯さず、好き嫌いは宇宙の法則に随えば、それが正に調和の働きである。 この世界は、一種の父母のようなものだ。 全ての大衆に不満心を持たすことなく、万物に支障が無いようにすれば、正に和合の姿なのだ。 つまり、マクロの宇宙とミクロの宇宙は相似形で、宇宙の法則や原理原則は人間の世界にも当てはまるり、それが解って実行すれば大安心の世界が完成するということ。 言い換えれば、活人は日常に世界を観る事が出来るし、世界に日常が観える人なのだ。


前集129項 思慮深く、円満な人格

害人之心不可有、防人之心不可無、此戒疎於慮也。 寧受人之欺、毋逆人之詐、此警傷於察也。 二語竝在、精明而渾厚矣。

人を害するの心は有るべからず、人を防ぐの心は無なかるべからずとは、此れ慮(おもんぱか)るに疎(うと)きを戒しむなり。 寧(むし)ろ人の欺(あざむき)を受くるも、人の詐(いつわり)を逆(むか)うること母(なか)れとは、此れ察(さつ)に傷(やぶ)るるを警(いさし)むるなり。 二語(にご)並(なら)びに在(そん)すれば、精明(せいめい)にして渾厚(こんこう)たり。

「他人に危害を与えるような心を持たず、他人からの危害を受けないような配慮が無くてはならない」という言葉は、思慮が浅い人間に向けた戒めである。 「むしろ、人から騙されても、人の嘘に逆らわない」という言葉は、思慮が深すぎる人に向けた戒めである。 前出の二つの考えがあることを明確に理解していれば大人となれる。 つまり、大人なら、下衆な人間の考える嘘や騙しに、乗らない様にするのが大事で、途中で気付いてバタバタするようでは知者とはとても言えないということ。 言い換えれば、活人は、事の始まる前に、しっかり判断し、事が進みだしたら相手を信じ尽くせということだろう。


前集130項 やってはならないこと

毋因群疑而阻独見。 毋任己意而廃人言。 毋私小恵而傷大体。 毋借公論以快私情。

群疑(ぐんぎ)に因(よ)りて独見(どっけん)を阻(こば)むこと毋(なか)れ。 己(おのれ)の意に任(まか)せて人の言を廃(はい)すること毋(なか)れ。 小恵(しょうけい)を私(わたく)して大体(だいたい)を傷(やぶ)ること毋(なか)れ。 公論(こうろん)を借りてもって私情を快(こころよ)くすること毋(なか)れ。

多数からの疑いに影響されて、自分の意見を捨ててはならない。 また、自分の意見に拘り、人の意見を排除してはいけない。 自分の小さな幸せのために、大局を損じてはならない。 大衆の人気を利用して、自分だけ良い思いをしてはならない。 つまり、立派な人間は、私利私欲を離れて、主張すべきは主張し、改めるべきは改め、自分の利益より、大衆の利益を優先する。 言い換えれば、活人の使命は社会貢献なのである。


前集131項 ほめるも不可、悪口も不可

善人未能急親、不宜預揚。 恐来讒譛之奸。 悪人未能軽去、不宜先発。 恐招媒蘗之禍。

善人、未(いま)だ急に親しむこと能(あた)わずば、宜しく預(あらかじ)め揚(あ)ぐべからず。 恐(おそ)らくは讒譛(ぎんしん)の奸(かん)を来(まね)かん。 悪人、未(いま)だ軽(かる)がるしく去ること能(あた)ずば、宜しく先ず発(あば)くべからず。 恐(おそ)らくは媒蘗(ばいけつ)の禍(わざわ)いを招(まね)かん。

相手が善人と知っていても、本当に親しくなるまでは、それを褒め称えてはならない。 さもなければ、陰口を使って仲たがいをさせて利益を得ようとする輩が現れるだろう。 相手が悪人と解ったとしても、近付かれた以上は、悪事を働く前に排除してはいけない。それをすると、反動でより大きな被害を受けるだろう。 つまり、活人は時と処し方を知っている人間なのだ。 言い換えれば、一寸先に明かりを灯せる人なのだ。


前集132項 節操と経論

青天白日的節義、自暗室屋漏中培来。 旋乾転坤的経綸、自臨深履薄処操出。

青天白日(せいてんはくじつ)の節義(せつぎ)は、暗室屋漏(あんしつおくろう)の中自(うち・よ)り培(つちか)い来(き)たる。 旋乾転坤(せんけんこんこん)の経綸(けいりん)は、臨深履薄(りんしんりはく)の処自(ところ・よ)り操(と)り出(い)だす。

晴れ渡った空のような節操は、暗く湿った部屋の中で育って来る。 国を一新するような大改革を目指す政策は、慎重で冷静な工夫の上に出来上がる。 つまり、大きな成果は、辛抱強い苦しい準備の上にのみ花開くのである。 言い換えれば、活人は、思いつ付きは所詮思い付きだ、ということを熟知している人間と言える。


前集133項 肉親の情愛

父慈子孝、兄友弟恭。 縦做倒極処、倶是合当如此。着不得一毫感激的念頭。 如施者任徳、受者懐恩、便是路人、便成市道矣。

父は慈(じ)、子は孝(こう)、兄は友し、弟は恭す。 縦(たと)い極処(きょくしょ)に做(な)し到るも、倶(とも)に是れ、合当(まさ)に此(かく)の如(ごとく)なるべく、一毫(ごう)の感激の念頭(ねんとう)も着け得(え)ざれ。 如(も)し施す者は徳に任じ、受くる者は恩を懐(おも)わば、便(すなわ)ち是(こ)れ路人(ろじん)にして便(すなわ)ち市道(しどう)と成(な)らん。

父は子を慈しみ、子は父に孝行し、兄は弟を友愛し、弟は兄を敬愛する。 たとえ、それが理想的に出来たとしても、それは当たり前のことで、ことさら感激に値しない。 もし、それを行った方が満足感を得たり、受けた方が有難た味を感じたら、それは他人同士であり、世間的な付き合いになってしまう。 つまり、家族には如何なる場合も、貸し借りの意識を感じず、愛を基盤にしていなければ他人も同然なのだということ。 言い換えれば、活人は家族との関係を特別な関係としてはならないのだ。


前集134項 美醜、清濁を超越する

有妍必有醜為之対。 我不誇妍、誰能醜我。 有潔必有汚為之仇。 我不好潔、誰能汚我。

妍(けん)有れば必ず醜(しゅう)有りありて之が対(つい)為(な)す。 我、妍(けん)に誇(ほこ)らずば、誰か能(よ)く我を醜(しゅう)とせん。 潔(けつ)有れば必ず汚(お)有りて之(これ)が仇(きゅう)を為(な)す。 我、潔(けつ)を好まずば、誰か能(よ)く我(われ)を汚(お)とせん。

美醜は必ず相対的で対をなしている。 もし自分から美しいと誇らなければ、誰からも醜いとは言われない。 清濁は必ず相対的で対をなしている。 もし自分が清潔だけを好まなければ、誰からも汚されることはない。 つまり、何事も相対的であり、偏れば反動があり、中庸は平和をもたらす。 言い換えれば、活人は、清濁は合わせて飲んでしまえる人ということだ。


前集135項 骨肉の争い

炎涼之態、富貴更甚於貧賎。 妬忌之心、骨肉尤狠於外人。 此処若不当以冷腸、御以平気、鮮不日坐煩悩障中矣。

炎涼(えんりょう)の態(たい)は、富貴(ふうき)にありて貧賎(きせん)よりも更に甚(はなはだ)し。 妬忌(とき)の心(こころ)は、骨肉(こつにく)にありて外人(がいじん)よりも尤(もっと)も狠(はなはだ)し。 此この処、若(も)し当(あ)たるに冷腸(れいちょう)を以てし、御(ぎょ)するに平気を以てせざれば、日として煩悩障中(ぼんのうしょうちゅう)に坐(ざ)せざること鮮(すく)なからん。

人情の功罪は、高貴で豊かな者の方が、貧しい者より一層激しい。 怨みつらみの心は、身内の者の方が、あかの他人に対するより一層激しい。 このようであるから、冷静な心でそれを日常的に管理調整しておかないと、一日として欲望に悩まされ、心が休まることはない。 つまり、地位の高い一族のトラブルは予想以上に大きな影響があるので、日ごろから管理しておきなさい、ということ。 言い換えれば、活人はなり上がらない事。


前集136項 部下に対応する心得

功過不容少混。 混則人懐惰堕之心。 恩仇不可大明。 明則人起携弐之志。

功過(こうか)は少しも混(こん)ずべからず。 混(こん)ずれば、人、惰堕(だき)の心(こころ)を懐(いだ)かん。 恩仇(おんきゅう)は大(はなはだ)しく明らかにすべから。 明(あき)らかにすれば、即(すなわ)ち人は携弐(けいじ)の志を起(お)こさん。

功績と過失は、明確にしておくと。 もし、不明確にしておくと人間は堕落してしまう。 恩義と遺恨は、明確にしてはいけない。 もし、明確にしてしまうと、離反するような心は呼び起こしてしまう。 つまり、上に立つ人間は、誰が見ても解り易いことは明確に、誤解しやすいことは曖昧にしておかないと裏切りがおきますということ。 言い換えれば、活人の態度はいつもはっきりとしているし、見えるのだ。


前集137項 やりすぎることへのマイナス

爵位不宜太盛。 太盛則危。 能事不宜尽畢。 尽畢則衰。 行誼不宜過高。 過高則謗興而毀来。

爵位は宜しく太(はなは)だ盛(さか)んなるべからず。 太(はなは)だ盛(さかん)んなれば危(あや)うし。 能事(のうじ)は宜しく尽(ことごと)く畢(お)うるべからず。 尽(ことごと)く畢(お)れば衰(おとろ)う。 行誼(こうぎ)は宜しく過(はなはだ)しく高(こう)なるべからず。 過(はなはだ)しく高(こう)なれば謗興(ぼうおこり)りて毀来(きき)たる。

人間は、出世しすぎない方が良い。 出世しすぎると極めて危険だ。 才能は発揮し過ぎない方が良い。 発揮し過ぎると枯渇してしまう。 品行は良すぎない方が良い。 良すぎると誹謗中傷を招いてします。 つまり、過ぎたるは及ばざるが如しで、何事も程々が一番安全で有利だということ。 言い換えれば、活人はついつい遣り過ぎる傾向があるので、それに対する警鐘と考えたい。


前集138項 悪事と善行と

悪忌陰、善忌陽。 故悪之顕者禍浅、而陰者禍深。 善之顕者功小、而陰者功大。

悪(あく)は陰(いん)を忌(い)み、善(ぜん)は陽(よう)を忌(い)む。 故に、悪の顕(あら)われたる者は、禍(わざわい)浅くして、隠(かく)れたる者は、禍(わざわい)深(ふか)し。 善(ぜん)の顕(あら)われたる者は、功(こう)小(しょう)にして、隠(かくれ)たる者(もの)は功(こう)大(だい)なり。

悪事は人目に付かないことを嫌い、善行は人目に付くことを嫌う。 故に、露呈している悪事は、わざわいの根はあさいが、隠蔽された悪事の根は深い。 露呈している善の、功績は小さいが、控え目な善の功績は大きい。 つまり、善い行いは、目立たないように、そっと行うのが良いですね、ということ。 言い換えれば、活人の善意は匿名性を本分とせよということ。


前集139項 才能は人格の召使い

徳者才之主、才者徳之奴。 有才無徳、如家無主而奴用事矣。 幾何不魍魎猖狂。

徳は才の主にして、才は徳の奴(ど)なり。 才有り徳無きは、家に主なくして、奴の事を用(もち)うるが如し。 幾何(いかん)ぞ魍魎(もうりょう)にして猖狂(しょうきょう)せざらん。

人徳は才能の主人で、才能は人徳の使用人である。 才能があるのに人徳が無いのは、主人が居ないのに間に使用人が勝手に振舞っているようなものだ。 だから、化け物出てきて騒ぎ回っても何の不思議はないのだ。 つまり、才能のある人間は、人格を高めないと暴走して手が付けられない存在になりますよ、ということ。


前集140項 逃げ道だけは残しておく

鋤奸杜倖、要放他一条去路。 若使之一無所容、譬如塞鼠穴者。 一切去路都塞尽、則一切好物倶咬破矣。

奸(かん)を鋤(す)き、倖(こう)を杜(た)つには、他の一条の去路(きょろ)を放(はな)つを要す。 若(も)し之れをして一(いつ)も容(い)るる所(ところ)無(な)からむるは、譬(たと)えば鼠穴(そけつ)を塞(ふさ)ぐが者の如し。 一切(いっさい)の去路(きょろ)、都(すべ)て塞(ふさ)ぎ尽(つ)くせば、則(すなわ)ち一切の好物は倶(とも)に咬(か)み破(やぶ)られん。

悪人を排除し、胡麻摺り者と絶縁するには、一本の逃げ道を用意してやることが必要だ。 もし、逃げ道を断ち、只の一箇所も身の置き場を無くしたら、それはネズミの通り道をふさぐのと同じだ。 全ての逃げ道を全てふさいでしまえば、本当に大事なもの全てを食いちぎられてしまう。 つまり、悪党でもとことん追い込めば、「窮鼠、猫を噛む(塩鉄論)」ように、何をしでかすか解らないので、下衆な者の悪さの追及はそこそこにしておけ、ということ。 言換えると、活人は何事に付け深追いを謹めということ。


前集141項 楽しみは相手に譲る

当与人同過、不当与人同功。 同功則相忌。 可与人共患難、不可与人共安楽。 安楽則相仇。

当(まさ)に人と過(わざわい)を同じくすべく、当(まさ)に人と功を同じくすべからず。 功を同じくすれば、則(すなわ)ち相忌(あいい)まん。 人と患難(かんなん)を共ともにすべく、人と安楽(あんらく)を共にすべからず。 安楽、共にせば、則(すなわ)ち相仇(あいあだ)とす。

他人と失敗は分かち合う方が良く、成功を分かち合うのは良くない。 成功を分かち合おうとすると、互いに相手を遠ざけ仲たがいに発展してしまう。 他人と苦労を分かち合う事は出来るが、安楽を分かち合うことは出来ない。 安楽を分かち合おうとすると、互いに相手を遠ざけ仲たがいに発展してしまう。 つまり、不味い物は皆で食べれば何とか食べられるが、美味しい物は一人で食べないと相互に不満が起きて、二度と不味い物を一緒に食べられる仲間には戻れなくなるということ。 言換えれば、活人が、友を大事にするなら、幸せな顔を見せない方が良いということ。


前集142項 君子の一言

士君子貧、不能済物者。 遇人癡迷処、出一言提醒之、遇人急難処、出一言解救之。 亦是無量功徳。

士君子(しくんし)貧(ひん)なれば、物(もの)を済(すく)うこと能(あた)わざる者なり。 人の癡迷(ちめい)の処(ところ)に遇(あ)わば、一言(いちげん)を出して之を提醒(ていせい)し、人の急難(きゅうなん)の処(ところ)に遇(あ)わば、一言を出してこれを解救(かいきゅう)す。 亦(また)是れ無量(むりょう)の功徳(くどく)なり。

立派な人というものは得てして貧乏なので、経済的に他人を救うことは出来ない。しかし、愚かにも迷っている人に会えば、一言で目を覚ませ、苦境に喘いでいる人に会えば、一言で救ってあげられる。 これもまた、計り知れない社会貢献なのだ。 つまり、人を救うことが出来いるのは「金や物」ではなく、「智慧」のみである。 言い換えれば、金や物は、人を狂わす魔物であり、智慧は人を奮い立たせてこそ菩薩なのだ。 翻って言えば、活人が長く幸せでありたいなら、銀行や証券会社に行くのではなく、高僧のいる寺に駆け込めということだ。なお、愚僧は傍にいるだけで不愉快になるから、あくまで高僧なのだ。


前集143項 人情紙風船

饑則附、飽則?、燠則趨、寒則棄。 人情通患也。

饑(う)うれば則(すなわ)ち附(つ)き、飽(あ)けば即ち?(あが)り、燠(あたたか)なれば即ち趨(おもむ)き、寒(さむ)ければ即ち棄(す)つ。 人情(にんじょう)の通患(つうかん)なり。

餓えると寄り付き、満ち足りると去り、こちらが景気が良い足を運び、悪いと背を向けている。 これが人間の一般的な欠点だ。


前集144項 軽々しく態度を変えない

君子宜当浄拭冷眼。 慎勿軽動剛腸。

君子(くんし)は宜(よろ)しく当(まさ)に冷眼(れいがん)を浄拭(じょうしょく)す。 慎(つつ)しんで軽(かる)がるしく剛腸(ごうちょう)を動かす勿(なか)れ。

上に立つ者は、沈着冷静で、真実を見抜く目を育てておきなさい。 そして、慎重に人を観て、軽々しく信念を変えてはならない。 つまり、活人は、周囲を安心させるためにも毅然としている必要があるのだ。 言換えれば、活人は何事にも動じてはいけない。


前集145項 まず見識を深める

徳随量進、量由識長。 故欲厚其徳、不可不弘其量。 欲弘其量、不可不大其識。

徳は量に随って進み、量は識(しき)に由(よ)りて長(ちょう)ず。 故に、其の徳(とく)を厚(あつ)くせんと欲(ほつ)せば、その量(りょう)を弘(ひろ)くせざるべからず。 其の量を弘くせんと欲せば、其の識を大にせざるべからず。

人間としての素晴らしさは、心の広さに随って拡張され、心の広さは考え方によって成長する。 だから、人間として完成したいのなら、先ずは心を広くもつこと。 そして、心を広げるには意識を向上させなければならない。 つまり、人間として完成しようと思ったら、心の底からの意識改革しかないということ。 言換えれば、俗人が活人となる道は、自己鍛錬、自律修養以外には無い。


前集146項 理性の光で心を照らす

一燈蛍然、万籟無声。 此吾人初入宴寂時也。 暁夢初醒、群動未起。 此吾人初出混沌処也。 乗此而一念廻光、烱然返照、始知耳目口鼻皆桎梏、而情欲嗜好悉機械矣。

一燈蛍然(いっとうけいぜん)として、万籟(ばんらい)声無し。 此れ吾人(ごじん)初めて宴寂(えんじゃく)に入(い)るの時なり。 暁夢(ぎょうむ)初めて醒め、群動(ぐんどう)未(いま)だ起こらず。 此れ吾人初めて混沌を出ずる処なり。 此れに乗じて一念光りを廻らし、烱然(けいぜん)として返照(へんしょう)せば、 始めて耳目口鼻、皆、桎梏(しつこく)にして、情欲嗜好(じょうよくしこう)は悉(ことごと)く機械たるを知る。

夜は更(ふ)け、明かりも消えかかる時、全ての物音が途絶える。 この時、私は初めて坐禅をして心身とも静かに安定し真理を探究する。 夜が明けつつも、未だに万物は動き出さない。 この時、私は初めて混沌から抜け出す。 このような状態で私は智慧を廻らせ、自分の本性を反省しつつ真実を探求すれば、感覚器官の全ては本来の心(仏心)を束縛する足かせで、煩悩(物欲・情欲)が仏心を操り惑わす仕組みであることが解る。 つまり、深夜に一人、独坐すれば、自分の本来の心と対話ができ、日常の雑多な情報こそが、煩悩を操る「魔」であることが解り、一見では価値がある情報も、仏心(自分本来の心)の活動を妨害していると体現できる。 言い換えれば、活人たる者、時に一人静かに坐禅をしないと日常の雑音に振り回される下世話な人間に成り下がってしまいますよ、ということだ。


前集147項 反省のできる人、できない人

反己者、触事皆成薬石。 尤人者、動念即是戈矛。 一以闢衆善之路、一以濬諸悪之源。 相去霄壤矣。

己れを反(かえり)みる者は、事に触れて皆薬石と成る。 人を尤(とが)むる者は、念を動かせば即(すなわ)ち是れ戈矛(かほう)なり。 一を以って衆善(しゅうぜん)の路(みち)を闢(ひら)き、一を以って諸悪の源を濬(ふか)くす。 相(あい)去ること霄壤(しょうじょう)なり。

自責の念をもつ者は、全ての出来事を良薬に出来る。 他責的な者は、その思いが、全てが自分を傷つける刃物となる。 前者の場合は善行に至る道を開き、後者の場合は悪事を働く源となる。 よって、自責と他責では、天地の差が開くのである。 つまり、謙虚な人間には学ぶ機会が多い上に、素直に学べるので成長が大きいが、高慢な人間は学ぶ機会も少なく学ぶ意志が無いので、悪くなる一方だ、ということだ。 言い換えれば、活人は、如何なる場合も最終的には謙虚な人間が勝つということを覚えておくことだ。


前集148項 滅びるものと滅びないもの

事業文章、随身銷毀、而精神万古如新。 功名富貴、逐世転移、而気節千載一日。 君子信不当以彼易此也。

事業文章は、身に随(したが)いて銷毀(しょうき)するも、而(しか)して精神は万古(ばんこ)に新たなるが如し。 功名富貴は、世を逐(お)いて転移するも、而(しか)して気節(きせつ)は千載(せんざい)に一日なり。 君子、信(まこと)に、当(まさ)に彼を以て此に易(か)うべからず。

事業や教養は、その人が死ねば無くなるが、精神は永遠に新しく生まれ変る。 地位や名声は、世の中の移ろいと共に価値が変わるが、気概(強い意志)は千年一日のように変らない。 上に立つ者は、一時的な価値と永遠な価値を交換すべきではない。 つまり、上に立つ者は、少しぐらい頭脳明晰な評判、地位、名声に目が眩んで「信念」を曲げることがあってはならない。 言い換えれば、活人は、強く正しく生きることこそ、重視に価することを忘れてはならない。


前集149項 人間の知恵

魚網之設、鴻則罹其中。 蟷螂之貪、雀又乗其後。 機裡蔵機、変外生変。 智巧何足恃哉。

魚網(ぎょもう)の設くる、鴻(おおとり)則(すなわ)ち其の中に罹(かか)る。 蟷螂(とうそう)の貪(むさぼ)るや、雀(すずめ)又、其の後(あと)に乗ず。 機裡(きり)に機を蔵(かく)し、変外(へんがい)に変(へん)を生ず。 智巧(ちこう)何ぞ恃(たの)むに足らんや。

魚取りの網を張ると、大きな雁がかかる。 カマキリが餌を取ろうしていると、そのカマキリを雀が狙う。 (世の中は)カラクリの中にカラクリが隠され、異変にも異変が生じる。 (人間の)知恵や企みなど、どうして頼りになろうか。 つまり、世の中というものは、予想に反し、利は損と紙一重だし、生と死も紙一重で、浅知恵などは及びも付かない。だから正々堂々、淡々と真面目に真っ直ぐに生きて行くのが一番良いのだ、と言うこと。 言換えれば、活人は小細工を弄しないことだ。


前集150項 誠実で円満な生き方

作人無点真懇念頭、便成個花子、事事皆虚。 渉世無段円活機趣、便是個木人、処処有碍。

人と作(な)るに点の真懇(しんこん)の念頭無くば、便(すなわ)ち個の花子(かし)と成(な)り、事々(じじ)皆(みな)虚(きょ)なり。 世を渉(わた)るに段の円活(えんかつ)の機趣(きしゅ)無くば、便(すなわ)ち是れ個(こ)の木人(ぼくじん)にして、処々(しょしょ)に碍(さわ)り有り。

一人前の人間であるためには、少しは誠実な考え方が出来ないと乞食と同じで、やることなすこと全てが偽りとなる。 世渡りは、物事を円滑に切り回す気転が利かないと、木偶(でく)人形のようで、至るところで差し障りがでる。 つまり、誠実で気転が利く人間だけが、世の中を上手に生きてゆくことができるということ。 言換えれば、活人たる者、偉くなったからといって威張り腐るなということ。

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引用文献



菜根譚(さいこんたん)

菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、 主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。

その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。 中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって 文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。 尊経閣文庫に明本が所蔵されている。

菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、 節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。

「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。 敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、 便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」

(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、 先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。 物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)

などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。 また実業家や政治家などにも愛読されてきた。

(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅

参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、


・[菜根譚 - Wikipedia]


善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。

  

江守孝三 (Emori Kozo)