・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
菜根譚(さいこんたん) 後集 091~120 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
後集91項 枯れたなかにも生命力
万籟寂寥中、忽聞一鳥弄声、便喚起許多幽趣。
万卉摧剥後、忽見一枝擢秀、便触動無限生機。
可見、性天未常枯槁、機神最宜触発。
万籟(ばんらい)寂寥(せきりょう)の中(うち)、忽(たちま)ち一鳥(いっちょう)の弄声(ろうせい)を聞(き)けば、便(すなわ)ち許多(きょた)の幽趣(ゆうしゅ)を喚(よ)び起(お)こす。
万卉(ばんき)の推剥(さいはく)の後(のち)、忽(たちま)ち一枝(いっし)の擢秀(たくしゅう)を見(み)れば、便(すなわ)ち無限(むげん)の生機(せいき)を触(ふ)れ動(うご)かす。
見(み)るべし、性天(せいてん)未(いま)だ常(つね)に枯槁(ここう)せず、機神(きしん)最(もっと)も宜(よろ)しく触発(しょくはつ)すべきことを。
あらゆる音が静まった中で、一羽の鳥の囀りを聞けば、味わい深い優雅を感じさせる。
あらゆる草花が萎んでしまった後で、一本にだけ花が残っているを見ると、無限の生命力を起させる。
これらの事から、人間の本性は、枯れ切らせてしまうのではなく、内に無限の生気を蓄えていてこそ素晴らしい。
つまり、悟るということは何もかもを諦めるというようなものではなく、大自然の本質を「悟る」ことであり、そこには大安心の心がイキイキと機能しているのだ。
言換えれば、達人は、内に力を秘めつつ、淡々と暮せる心境を修得していることだろう。
後集92項 ゆるめるも引き締めるも
白氏云、不如放身心冥然任天造。
晁氏云、不如収身心凝然帰寂定。
放者流為猖狂、収者入於枯寂。
唯善操身心的、?柄在手、収放自如。
白(はく)氏(し)云(い)う、「身心(しんしん)を放(はな)ちて、冥然(めいぜん)として天造(てんぞう)に任(まか)するに如(しか)ず」。
晁(ちょう)氏(し)云(い)う、「身心(しんしん)を収(おさ)めて、凝然(ぎょうねん)として寂定(じゃくじょう)に帰(き)するに如(しか)ず」。
放(はなつ)者(もの)は流(なが)れて猖狂(しょうきょう)と為(な)り、収(おさ)むる者(もの)は枯寂(こじゃく)に入(い)る。
唯(ただ)善(よ)く身心(しんしん)を操(あやつ)る的(もの)は、?柄(はへい)手(て)に在(あ)り、収放自如(しゅうほう・じじょ)たり。
白居昜(はっきょい)は、「心身を開放して、真底、大自然の原理原則に委ねてしまう事に及ぶものはない」
晁補之(ちょうはし)は「心身の働きをとことん落ち着かせて、三昧の境地に入ることに及ぶものはない」
拡散された者は無軌道になり、保全された者は枯れた状態になってしまう。
しかし、心身を一如として自己を上手に扱える者だけは、本質を捕らえて自由自在な生き方が出来る。
つまり、両極端を忘れて心身の調和を実現できる者だけが、達人の域に達することが出来るだろうと、いう事だ。
言い換えれば、達人の思考や行動は、過ぎたるは及ばざるが如し、を実践している
後集93項 心が自然と融け合う
当雪夜月天、心境便爾澄徹、遇春風和気、
意界亦自沖融。
造化人心、混合無間。
雪夜(せつや)の月天(げってん)に当(あ)たっては、心境(しんきょう)便爾(すなわ)ち澄徹(ちょうてつす。
春風(しゅんぷう)の和気(わき)に遇(あ)えば、意界(いかい)も亦(また)自(おのず)から沖融(ちゅうゆう)す。
造化(ぞうか)人心(じんしん)、混合(こんごう)して間(へだて)なし。
積雪の日の月明かりは、心を清らかで澄み切らせる。
春風の穏やかな空気に触れれば、気持ちはやわらぎ和む。
大自然の心と人間の心は分かれていて分かれられない関係で、隔たりはない。
つまり、心身一如であり、心物一如。人間は自然の一部であり、全体でもある。
言い換えれば、達人は、宇宙と人間の相似性に気付き、意味を知る事が必要だろう。
後集94項 (拙を守る)技巧を捨てる
文以拙進、道以拙成。
一拙字有無限意味。
如桃源犬吠、桑間鶏鳴、何等淳龐。
至於寒潭之月、古木之鴉、工巧中便覚有衰颯気象矣。
文(ぶん)は拙(せつ)を以(もっ)て進(すす)み、道(みち)は拙(せつ)を以(もっ)て成(なる)る。
一(いつ)の拙(せつ)の字(じ)に無限(むげん)の意味(いみ)有(あ)り。
「桃源(とうげん)に犬(いぬ)吠(ほ)え、桑間(そうかん)に鶏(けい)鳴(な)く」が如(ごとき)は、何等(なんら)の淳龐(じゅんろう)ぞ。
「寒潭(かんたん)の月(つき)、古木(こぼく)の鴉(からす)」に至(いた)りては、工巧(くこう)の中(うち)、便(すなわ)ち衰颯(すいさつ)の気象(きしょう)有(あ)るを覚(おぼ)ゆ。
文章は自然体になることで上達し、道徳は自然体であることで成就する。
この「拙」という一事は、無限の趣がある。
「桃の花の咲く里に犬が吠え、桑畑の中では鶏が鳴く」というような文は、何とも素直で味わいがある。
「寒々しい川の淵に映る月影、枯れ枝に止まるカラス」という文に至っては、技巧をこらしているが、何故か寒々しい感じがする。
つまり、自然も人の心も、人為を加えないほうが自然で清清しいが、小細工をすると、寒々しくなるということ。
言い換えれば、達人は、表面を取り繕う事より、自然体で生きていてこそ価値があるということを肝に銘じておこう。
後集95項 悠々たる態度
以我転物者、得固不喜、失亦不憂、大地尽属逍遥。
以物役我者、逆固生憎、順亦生愛、一毛便生纏縛。
我(われ)を以(もっ)て物(もの)を転(てん)ずる者(もの)は、得(とく)も個(もと)より喜(よろ)ばず、失(しつ)も亦(また)憂(うれ)えず、大地(だいち)尽(ことごと)く逍遥(しょうよう)に属(ぞく)す。
物(もの)を以(もっ)て我(われ)を役(えき)する者(もの)は、逆(ぎゃく)は固(もと)より憎(ぞう)を生(しょう)じ、順(じゅん)も亦(また)愛(あい)を生(しょう)じ、一毛(いちもう)も便(すなわ)ち纒縛(てんぱく)を生(しょう)ず。
自分が主体となって物事に働きかける者は、上手くいっても取り立てて喜ばないし、失敗しても取り立てて嘆きはせず、大地のような心境で悠然としている。
物事が主体となって自分に働きかけれれている者は、逆境になれば、他を憎み、上手く行けば執着し、極めて些細な事にでも拘り囚われ、身動きが出来ない。
つまり、人間は自立していれば自然体の世界の住人として悠然と生きてゆけるが、自立できず依存した生き方をしていれば、他責の世界の住人として一生苦しみ続けるのである。
言い換えれば、達人とは自立した自然体の世界の住人なのである。
後集96項 むだな努力
理寂則事寂。
遺事執理者、以去影留形。
心空則境空去。
境在心者、如聚羶却蚋。
理(り)寂(じゃく)なれば則(すなわ)ち事(こと)寂(じゃく)なり。
事(こと)を遺(や)りて理(り)を執(と)る者(もの)は、影(かげ)を去(さ)りて形(かた)を留(とど)むるに似(に)たり。
心(こころ)空(くう)なれば則(すなわ)ち境(きょう)空(くう)なり。
境(きょう)を去(さ)りて心(こころ)を在(そん)するは、羶(せん)を聚(あつ)めて蚋(ぜい)を却(しりぞ)くるが如(ごと)し。
真理が静寂であれば、現象もまた静寂である。
現象を捨て去り、真理に取り付かれている者は、影を無くして形を残そうとしているようなものだ。
心が空(くう)ならば、現象もまた空(くう)である。
現象を捨て去り、心を留めようとするのは、生肉を集めておいて蚊やブヨを追い払おうとするのと同じだ。
つまり、何の拘りもなく、何の囚われない、正に“あるがまま”が真理の姿であるにも関わらず、それに拘り、囚われいるのであれば、本末転倒である。
言換えれば、達人が自然体で生きていることに拘り囚われていては、最早自然体とは言えないのと同じである。
翻って言えば、真理を知って真理に囚われないのが、本物の達人と言えるだろう。
後集97項 自然流の心まかせ
幽人清事総在自適。
故酒以不勧為歓、棋以不浄為勝。
笛以無腔為適、琴以無絃為高。
会以不期約為真率、客以不迎送為坦夷。
若一牽文泥迹、便落塵世苦海矣。
幽人(ゆうじん)の清事(せいじ)は総(すべ)て自適(じてき)に在(あ)り。
故(ゆえ)に酒(さけ)は勧(すす)めざるを以(もっ)て歓(かん)と為(な)し、棋(き)争(あらそ)わざるを以(もっ)て勝(しょう)と為(な)す。
笛(ふえ)は無腔(むこう)を以(もっ)て適(てき)と為(な)し、琴(きん)は無絃(むげん)を以(もっ)て高(こう)と為(な)す。
会(かい)は期約(きやく)せざるを以(もっ)て真率(しんそつ)と為(な)し、客(きゃく)は迎送(そうげい)せざるを以(もっ)て坦夷(たんい)と為(な)す。
若(も)し一(ひと)たび文(ぶん)に牽(ひ)かれ、迹(あと)に泥(なず)まば、便(すなわ)ち塵世(じんせ)の苦海(くかい)に落(お)ちん。
達観した人の風流とは、心に悩みの無い悠々自適な生活が営まれていることである。
だから、酒を無理には勧めないことで喜びとし、碁を打っても勝負しないことを良しとしている。
笛は指穴がなく、琴には弦が無い方が上品であり、会見は日時を決めない方が率直となれるし、客人は送り迎えしない方が双方にとって気楽である。
もし、一度でも世俗の礼儀、常識、慣習に囚われ拘ると、世俗の苦痛が蘇ってしまう。
つまり、損をしたくないといつも考えるような軽薄な人間は本質を考えず、形式的な慣習に心を奪われ、それを常識として親切を押し付け、慇懃無礼を励行し、しようとしながら出来なかったことで自分を虐め、他人に気を使わせるのは本末転倒ということ。
言換えると、達人とは、人間本来の在り方を見失わず、本質を見極め、自然体で生きてゆくのが正道だと解かっている人なのだ。
後集98項 絶対の世界に遊ぶ
試思未生之前有何象貌、又思既死之後作何景色、則万念灰冷、一性寂然、自可超物外遊象先。
試(こころ)みに未(いま)だ生(しょう)ぜざるの前(まえ)に、何(なん)の象貌(しょうぼう)有(ある)かを思(おも)い、又(また)既(すで)に死(し)するの後(のち)に何(なん)の景色(けしき)を作(な)すかを思(おも)わば、則(すなわ)ち万念(ばんねん)は灰冷(かいれい)し、一性(いっしょう)は寂然(じゃくねん)として、自(おのず)から物(もの)外(そと)に超え、象(しょう)の先(さき)に遊(あそ)ぶべし。
試しに、自分が生れる前はどんな姿だったか考え、死んでしまった後はどんな姿なのかを考えれば、全ての雑念は燃え尽きて冷たくなった灰のようになり、本来の心のみが静かに自然な形で湧き上がり、物と心の二元論的考えが超越でき、現象世界の更に先にある真実の世界に生きることがきる。
つまり、禅の公案でいう「父母未生以前の本来の面目を知る」というのとほぼ同義で、この世の全ては形を変えて現象しているだけで、宇宙の原理原則は生まれ変わり死に変わりで、何も増えないし、何も減らないということ。現象の永久運動を暗喩している。正に物理学の基本法則を示している。
言換えれば、達人は、薄っぺらな知識、薄っぺらな道徳観なのに囚われ拘るのではなく、本質である万象の原理原則を理解して生きなさいと言っているのだ。
後集99項 知者は未然に知る
遇病而後思強之為宝、処乱而後思平之為福、非蚤智也。
倖福而知其為禍之本、貪生而先知其為死之因、其卓見乎。
病(やまい)に遇(お)うて後(のち)に強(きょう)の宝(たから)為(た)るを思(おも)い、乱(らん)に処(お)りて後(のち)に平(へい)の福(さいわい)為(た)るを思(おも)うは、蚤智(そうち)に非(あら)ざるなり。
福(さいわい)を倖(ねが)いて、其(そ)の禍(わざわい)の本(もと)為(た)るを知り、生(せい)を貪(むさぼ)りて先(ま)ず其(そ)の死(し)の因(いん)為(た)るを知るは、それ卓見(たっけん)なり。
病気になってはじめて健康の重要性に気付き、戦争になってはじめて平和の有難さに気付くような人は、先見の明がある人とは言えない。
幸福を願いながら、それが不幸の原因となることを知り、長生きを願い事が死の原因であることを悟ることが達観するということだ。
つまり、俗人の多くは、失わなければ、今の良さにに気が付かないし、欲望を起こせば命を縮める知らなければならないと言っている。
言換えれば、達人は「今、此処の状態」を最良として生きることが最高の生き方であることを理解しなさいと読める。
後集100項 人生もかくのごとし
優人傅粉調?、效妍醜於毫端、俄而歌残場罷、妍醜何在。
?者争先競後、較雌雄於着子、俄而局尽子収、雌雄安在。
優人(ゆうじん)、粉(ふん)を傅(つ)け?(しゅ)を調(ととの)え、研醜(けんしゅう)を毫端(ごうたん)に效(いた)すも、俄(にわか)にして歌(うた)残(のこ)り、場(ば)罷(や)まば、研醜(けんしゅう)何(なん)ぞ在(そん)せん。
?者(えきしゃ)、先(さき)を争(あらそ)い後(のち)競(きそ)い、雌雄(しゆう)を着子(ちゃくし)に較(くら)ぶるも、俄(にわか)にして局(きょく)尽(つ)き子(こ)収(おさ)むれば、雌雄(しゆう)安(いずく)にか在(あ)らん。
歌が終わり舞台が跳ねれば、美醜は跡形もない。
碁打ちが先手を争って勝負に出て、勝敗を競っていても、対極が終わり、碁石俳優に白粉を塗り、紅を注して化粧をさせて、美醜を筆先作り出しているが、を片付ければ、勝負はどこにもない。
つまり、何事も瞬間的な幻影であり、本質は本来、無対立の静かな世界だということ。
言換えれば、達人たる者は、現前する現象に一喜一憂する空しさを知っておきなさいと言える。
後集101項 自然を愛でる心のゆとり
風花之瀟洒、雪月之空清、唯静者為之主。
水木之栄枯、竹石之消長、独閒者操其権。
風花(ふうか)の瀟洒(しょうしゃ)、雪月(せつげつ)の空清(くうせい)、唯(ただ)静(せい)なる者(もの)のみ、之(これ)が主(しゅ)と為(な)る。
水木(すいぼく)の栄枯(えいこ)、竹石(ちくせき)の消長(しょうちょう)、独(ひと)り閒(かん)なる者(もの)のみ、其(そ)の権(けん)を操(と)る。
そよぐ風や咲き誇る花がさっぱりとして、積もる雪や明るく照らす月が清清しい姿は、心静かな者だけが主人公となって味わえる。
水の流れや草木の生涯や竹や石の佇(たたず)まいに見られる四季の移り変わりは、一人で、のどかでゆとりのある生活をしている者のみが、それを味わう権利を得ている。
つまり、同じ現象、同じ事実に接しても、心が穏やかでさっぱりした気分で暮して居なければ、事物事象の本来の素晴らしさと接する事は出来ないということ。
言い換えれば、達人は如何なる状態にあっても、本物の風情を楽しめる人になっていることが大事だということ。
後集102項 天性のままに生きる
田父野叟、語以黄鶏白酒、則欣然喜、問以鼎養食、則不知。
語以藥袍?褐、則油然楽、問以袞服、則不識。
其天全、故其欲淡、此是人生第一個境界。
田父野叟(でんぷやそう)は、語(かた)るに黄鶏白酒(おうけいはくしゅ)を以(もっ)てすれば、則(すなわ)ち欣然(きんぜん)として喜(よろこ)び、問(と)うに鼎養(ていよう)を以(もっ)てすれば、則(すな)わち知らず。
語(かた)るに藥袍?褐(おんぽじゅかつ)を以(もっ)てすれば、則(すなわ)ち油然(ゆうぜん)として楽(たの)しみ、問(と)うに袞服(こんぷく)を以(もっ)てすれば、則(すなわ)ち識らず。
その天(てん)は全(まった)し、故(ゆえ)に其(そ)の欲(よく)淡(あわ)し。此(これ)は是(こ)れ人生(じんせい)第一個(だいいっこ)の境界(きゅがい)なり。
田舎の素朴な農夫は、親しんできたかしわの肉や濁り酒の話で嬉々とした喜ぶが、貴人の食卓につて尋ねても知らない。
粗末な冬着や仕事着の話しをするとユッタリとして話に乗るが、高官の礼服の話を尋ねても知らない。
素朴な農夫は天性自然体で完成されていているが故に、欲望も少なく、其の状態そのままで人生の最高の境地にあるといえる。
つまり、人間本来は、汚れを知らず、それだけで人生の最高の境地にあると言えるが、世情の塵芥に汚れれば、欲望は限りなく大きくなり、決して満足することが無いので、死ぬまで不幸が続くが、欲望の海である都会の塵埃に染まらないで済んだ人は、自然体が則、悟りの境地であり、安心して不満が無い人生最高の境地にあると言える。
言換えれば、達人としては大安心の源泉である本来の心を厭い、汚れないよう自然体で生きつつ、現役時代の心の汚れをゆっくり着実に落として行くのが、人生の仕上げだと考えておくと良いでしょう。
後集103項 ことさらに求めない
心無其心、何有於観。
釈氏曰観心者、重増其障。
物本一物、何待於斉。
荘生曰斉物者、自剖其同。
心(しん)に其(そ)の心(しん)無(なく)ば、何(なん)ぞ観(かん)有(あ)らん。
釈氏(しゃくし)「心(こころ)を観(かん)ず」と曰(い)うは、重(かさ)ねて曽(そ)の障(しょう)を増(ま)すなり。
物(もの)本(もと)は一物(いちぶつ)、何(なん)ぞ斉(ひと)しくするを待(ま)たん。
荘生(そうせい)「物(もの)を斉(ひと)しくせよ」と曰いうは、自(みずか)ら其(そ)の同(どう)を剖(さ)くなり。
心には本来、煩悩(妄想分別の)は無いのだから、ことさらに心を観ずる必然性があるか。
仏教者が「心を観よ」というのは、更に妄想が増すばかり。
荘子で「万物は我と一」というのは、本来同一のもの分けさせるようなものだ。
つまり、元来、心と物は、「脳」無くして「心」無く、「心」無くして「脳」なしと言えるように色即是空、空即是色で、起源が同一で、現象に差異があるだけでなのに、ことさらに心を観じろとか、物心一如とせよとか言うのは可笑しな話しであると、性善説の漢詩特有の言い回しをして、誰の心も生れながらに完全だ、ということを強調しているのだ。
言換えれば、心という現象、物という現象、全ては「空」であるから、「無」を体現して生きなさいと言っている。
翻って言えば、達人は、達人自身の心の中に全ての原理原則が生れながらに備わっている真人であることを一時たりとも忘れてはならないということ。
後集104項 切りあげ時をを心得る
笙歌正濃処、便自払衣長往、羨達人撒手懸崕。
更漏已残時、猶然夜行不休、咲俗士沈身苦海。
笙歌(しょうか)正(まさ)に濃(こま)やか処(ところ)、便(すなわ)ち自(みずか)ら衣(ころも)を払(はら)って長(なが)く往(ゆ)く。
達人(たつじん)の手(て)を懸崕(けんがい)に撒(さん)するを羨(うらや)む。
更漏(こうろう)已(すで)に残(のこ)る時(とき)、猶然(ゆうぜん)として夜(よる)行(ゆ)きて休(やす)まず、俗士(ぞくし)の身(み)を苦海(くかい)に沈(しず)むるを咲(わら)う。
音楽や歌声が正に絶頂にある時、席を立ち振り返りもしないで帰ってしまうのは、達人が手放しで断崖絶壁を歩くようで羨ましい。
夜も更けて水時計の水が無くなったにも関わらず、悠然として夜遊びを止めないのは、俗人が身を落として滅びるように滑稽である。
つまり、達人は何時でも何処でも主体的であり、自信に満ちた滅り張りのある行動をするが、俗人は付き合いと称するように、客体的で自立心が無くズルズルとするから身を持ち崩すと言っている。
言換えれば、達人は其の人生の完成度を増し続ける人であり、俗人は其の人生を破壊し続ける人だと言える。
後集105項 修業には段階がある
把握未定、宜絶迹塵囂。
使此心不見可欲而不乱、以澄吾静体。
操持既堅、又当混迹風塵。
使此心見可欲而亦不乱、以養吾円機。
把握(はあく)未(いまだ)定(さだ)まざれば、宜(よろ)しく迹(あと)を塵囂(じんごう)に絶つべし。
此(こ)の心(こころ)を欲(ほっ)すべきを見(み)ずして、乱(みだ)れざらいしめ、以(もっ)て吾(わ)が静体(せいたい)を澄(す)ます。
操持(そうじ)既(すで)に堅(かた)くば、又(また)当(まさ)に迹(あと)を風塵(ふうじん)に混(こん)ずべし。
此(こ)の心(こころ)を欲(ほっ)すべきを見(み)て、亦(また)乱(みだれ)ざらしめ、以(もっ)て吾(わ)が円機(えんき)を養(やしな)う。
自分の心を自分のものに出来なければ(主体性が確立出来ていなければ)、(欲しい物で満ち溢れている)俗世間と断絶し、心を欲しい物から遠ざけ、心乱れる状態を作らないで、静かで綺麗な本来の心を澄ましなさい。
主体性が堅固に確立していれば、俗世間に在って、その昔なら欲しいと思ったであろうものを見ても、乱れない心を感じ、更に完全な心を取り戻しなさい。
つまり、人生が未完成なものは、欲望を抑えるより、欲望が叶わない状態に自分を追い込んで修行することで悟りのチャンスを活かし、悟ったかどうかは一度、欲望の俗世間に戻り、自分の欲望が疼くかどうか点検し続けなさい、ということ。
言換えれば、自立出来ない欲望人間は、一度は出家修行をして悟りのチャンスを活かし、そして還俗し、達人として生き続けなさいということ。
翻って言えば、それが正に達人の心と活人の技を備えた貴人といえるのです。
後集106項 動も静も忘れ去る
喜寂厭喧者、往往避人以求静。
不知、意在無人便成我相、心着於静便是動根。
如何到得人我一視、動静両忘的境界。
寂(せき)を喜(よろこ)び喧(けん)を厭(いと)う者(もの)は、往々(おうおう)にして人(ひと)を避(さ)け以(もっ)て静(せい)を求(もと)む。
意(い)、人(ひと)無(な)き在(あ)らば、便(すなわち)我相(がそう)を成(な)し、心(こころ)静(せい)に着(ちゃく)せば、便(すなわ)ち是(こ)れ動根(どうこん)なるを知らず。
如何(いかん)ぞ、人我一視(じんがいっし)、動静(どうせい)両忘(りょうぼう)の境界(きょうがい)に到(いた)り得(え)んや。
静けさを好み、騒々しさを嫌う者は、往々にして人を避けることで、静けさを得ようとする。
例えばそれは、人さえ避けられれば、心静かに居られるという環境に依存する自我が動いていることに気が付かないからである。
自他一如の本質を体現し、動と静という両極を無くするという脱二元論である悟りの境地(心身一如)には、現実を逃げ出すようなことでは到達できない。
つまり、達人は、不安と安心が止揚してしまう大安心の境地を得ようとするなら、現実に目を瞑り、山にこもるような弱者の瞑想などに逃げこまず、忙しい日常の一時でも半眼、時として目をしっかりと見開いて現実の人間と面前対峙する坐禅を行い、「現前する事実」の中に見え隠れする「気付きから本質を発見」して本来の心を取り戻し、「それを教訓」として、更なる「自分の理想像」を心にしっかりと焼付け、「自分を師」として、自分と理想像が一体となるように自分を導きなさいということを言っている。
言い換えれば、達人への道は、正に「菩薩」への道なのである。
後集107項 山林に閉居すれば
山居胸次清洒、触物皆有佳思。
見孤雲野鶴、而起超絶之想、遇石澗流泉、而動澡雪之思。
撫老檜寒梅、而勁節挺立、侶沙?麋鹿、而機心頓忘。
若一走入塵寰、無論物不相関、即此身亦属贅旒夷。
山居(さんきょ)すれば、胸次(きょうじ)は清洒(せいしゃ)にして、物(もの)に触(ふる)れて皆(みな)佳思(かし)有(あ)り。
孤雲野鶴(こうんやかく)を見(み)ては、超絶(ちょうぜつ)の想(おも)いを起(おこ)し、石澗流泉(せきかんりゅうせん)に遇(あい)ては、澡雪の思いを動かす。
老檜寒梅(ろうかくかんばい)を撫(ぶ)して、勁節挺立(けいせつていりつ)し、沙?麋鹿(さおうびろく)を侶(とも)として、機心(きしん)頓(とみ)に忘(わす)れる。
若(も)し一(ひと)たび塵寰(じんか)に走(はし)り入(い)らば、物(もの)の相関(そうかん)せざるに論(ろん)無(な)く、即(すなわ)ち此(こ)の身(み)亦(また)贅旒(ぜいりゅう)に属(ぞく)す。
俗世間を離れ深山に住むと、心は清清しくなり、見聞きし触れるものは皆、素晴らしい趣を感じさせる。
一片の雲や野生の鶴を見るにつけ、世俗を超越した思いが起こり、奇岩や
湧き出る泉を見れば心は洗い清められる思いが起きる。
檜の古木や寒中の梅に触れると、真っ直ぐな生き方が自覚され、砂浜のカモメや群れ遊ぶ鹿と戯れると、邪心を忘れる。
もし一回でも、街中の埃にまみれれば、自分と関わりのない事で、自分の立場が危険に巻き込まれてしまう。
つまり、環境というのは人間の生き方に大きな影響を与えるが、純より不純の方が強いようで、白色に黒を僅かでも混ぜれば直ぐにくすみが出るが、黒に僅かな白を混ぜても黒は容易に白くならないのと同じようだ。
言換えれば、達人は、大安心の境地を得ていても、油断すればあっという間に俗人に逆戻りすることを覚えておき、日々精進を忘れてはならないという事だ。
後集108項 そぞろに野趣を愛す
興逐時来、芳草中撒履閒行、野鳥忘機時作伴。
景与心会、落花下披襟兀坐、白雲無語漫相留。
興(きょう)、時(とき)を逐(お)いて来たれば、芳草(ぼうそう)の中(うち)、履(くつ)を撒(なげう)ちて閒行(かんこう)し、野鳥(やちょう)機(き)を忘(わす)れて時(とき)に伴(とも)為(な)す。
景(けい)、心(こころ)を与(あた)え会(かい)さば、落花(らっか)の下(もと)、襟(えり)を披(ひら)いて兀坐(ごつざ)し、白雲(はくうん)語(ご)を無(なく)して漫(そぞろ)に相(あい)留(りゅう)す。
興味が湧いてきた時、良い匂いを放つ草むらの中を裸足になって静かに歩けば、野鳥は警戒心を解いて、時には、なついて来る。
景色が心の状態にピタッと合い、花吹雪の中でリラックスして坐っていると、白雲は何も語らないが、ゆっくりと流れては留まる。
つまり、何事にも“旬”や“時期”というものがあり、時に乗じて行われるのは自然の摂理に合っているので、物事は考える以上の成果を提供してくれるということ。
言換えれば、達人が自然体で暮していれば、思いついた時が全て“旬”である、“時期”だということで、何でも上手く行き、心からの喜びを味わえということだ。
後集109項 心の持ち方によって
人生福境禍区、皆念想造成。
故釈氏云、利欲熾然、即是火坑、貪愛沈溺、便為苦海。
一念清浄、烈焔成池、一念警覚、船登彼岸。
念頭稍異、境界頓殊。
可不慎哉。
人生(じんせい)の福境禍区(ふくきょうかく)は、皆(みな)念想(ねんそう)より造成(ぞうせい)す。
故(ゆえ)に釈氏(しゃくし)云(い)う、「利欲(りよく)に熾然(しねん)ならば、即(すなわ)ち是(こ)れ火坑(かこう)なり。
貪愛(とんあい)に沈溺(ちんでき)すれば、便(すなわ)ち苦海(くかい)と為(な)る。
一念清浄(いちねんせいじょう)なれば、列焔(れつえん)も池(いけ)と成(な)り、一念警覚(いちねんきょうかく)を覚(かく)すれば、船(ふね)彼岸(ひがん)に登(のぼ)る」。
念頭(ねんとう)稍(やや)異(こと)なれば、境界(きょうかい)は頓(とみ)に殊(こと)なる。
慎(つつ)しまざるべけんや。
人生に於ける幸不幸の境界は、全て心が作り出している。
だから、釈尊は「欲望が燃え盛れば、そこは焦熱地獄であり、愛着心に沈み込めば、救いの無い苦界となる。思いが清く正しければ、燃え盛る炎は涼しげな池に変わり、貪る心は一旦悟れば、苦界を渡っていた舟は彼岸の世界に辿りつける」
心の持ち方が少し変わっただけで、立場は不幸から幸福に変る。
謹むべきである。
つまり、人間の幸不幸は、欲望の有無に従い同じ事象が起きても簡単に変動してしまうので、欲望を持つ事は謹みましょうと言っている。
言い換えれば、達人は、欲望を超越した人間の代名詞なのだ。
後集110項 ねばり強く、機を待つ
繩鋸木断、水滴石穿。
学道者須加力索。
水到渠成、瓜熟蔕落。
得道者一任天機。
繩鋸(じょうきょ)に木(き)断(た)ち、水滴(すいてき)石(いし)を穿(うが)つ。
道(みち)を学(まな)ぶ者(もの)、須(すべか)らく力索(りきさく)を加(くわ)う。
水到(すいち)に渠(みぞ)成(な)り、瓜熟(きゅうじゅく)蔕(へた)を落(おと)つ。
道(みち)を得(う)る者(もの)、一(ひとえ)に天機(てんき)に任(まか)す。
井戸の“つるべ”は長年に渡り木枠を擦っていると木が切られたようになり、
水滴も長年同じところに落ちれば石にも穴を開ける。
道を究めようと学ぶ者は、みなその様に努力をしなければならない。
水が流れて来れば溝ができ、瓜が熟せば蔕まで落ちる。
悟りを開こうとする者は、ひたすら大自然の在り方に任せるのが良い。
つまり、大自然の原則が「継続」なのだから、自然に任せるという事は「継続は悟りの命」と言っているのだ。
言換えれば、達人とは特別な事ができる人では無く、只管、大自然の法則に従い、大自然の原理原則に任せて生きている人だとも言えるのだ。
後集111項 人生もまた楽
機息時、便有月到風来、不必苦海人世。
心遠処、自無車塵馬迹、何須痼疾丘山。
機(き)息(や)む時(とき)、便(すなわ)ち月(つき)に到(いた)り風(かぜ)来(き)たる有(あ)り、必(かなら)ずしも苦海(くかい)の人世(じんせ)ならず。
心(しん)遠(とお)き処(ところ)、自(おのず)から車(くるま)に馬(うま)塵(よご)れ迹(たず)ねること無(な)く、何(なん)ぞ痼疾(こしつ)の丘山(くうざん)を須(もち)いん。
意図的に動かそうとする心が無くなると、月は清く輝き、風は清清しく吹いて来て、この世は必ずしも苦しみ世界では無くなる。
心が名誉や利益を求めないと、自然と来客が遠のくのだから、何で人里はなれた所に居を移す必要があるものだろうか。
つまり、場所の議論ではなく、心の議論なのである。
言換えれば、達人の幸不幸は、都会の喧騒の中に暮していようと、山村で隠居していようと、要は心の在り方で全て決まるということだ。
後集112項 冬来たれば春近し
草木纔零落、便露萠穎於根底。
時序雖凝寒、終回陽気於飛灰。
粛殺之中、生生之意、常為之主。
即是可以見天地之心。
草木(そうもく)纔(わずか)に零落(れいらく)すれや、便(すなわ)ち萠穎(ほうえい)を根底(こんてい)に露(あら)わす。
時序(じじょ)は凝寒(ぎょうかん)と雖(いえど)も、終(つい)に陽気(ようき)を飛灰(ひはい)に回(めぐら)す。
粛殺(しゅくさつ)の中(うち)、生々(せいせい)の意(い)、常(つね)に之(これ)主(しゅ)となる。
即(すなわ)ち是(これ)を以(もっ)て天地(てんち)の心(こころ)を見(み)るべし。
草木の葉が枯れ落ちると、そこには既に春の芽生えが始まっている。
季節は陰気の凍てつく冬であろうと、やがては陽気溢れる時が来る。
秋には草木を枯らす厳しい力が働くが、春には草木を生き生きと成長させる生命の力が働き、常にこの陰陽は循環している。
即ち、これらの自然の営みに、大自然の心を知ることができるのだ。
つまり、自然現象は全て大自然の本質である「循環」が投影されているということだ。
言い換えれば、達人は一瞬の自然現象に接して、恒久なる大自然の原理原則である「循環性」という本質に気付かなければ達人とは言えないということと同じ。
後集113項 ひとしおの風情あり
雨余観山色、景象便覚新妍。
夜静聴鐘声、音響尤為清越。
雨余に山色(うよさんすい)を観(み)れば、景象(けいしょう)便(すなわ)ち新妍(しんけん)を覚(おぼ)ゆ。
夜(よる)静(しず)かに鐘声(しょうせい)を聴(き)けば、音響(おんきょう)も清越(せいえつ)と為(な)す。
雨上がりの山を観ていると、景色に新鮮さが感じられる。
夜更けの静寂の中で、鐘の音を聞くと、その音色が、超越したように澄んで清らかである。
つまり、同じ景色や同じ音でも、時や状況が違えば印象がことなるのである。
言換えれば、達人が覚えておくべきは、印象というものは、心の状態次第で簡単に変るもので、心の為せることは何事にも絶対というものは無いとい言う事だ。
後集114項 心の洗濯
登高使人心曠、臨流使人意遠。
読書於雨雪之夜、使人神清、舒嘯於丘阜之嶺、使人興邁。
高(たか)きに登(のぼ)らば、人(ひと)をして心(こころ)曠(ひろ)からしめ、流(なが)れに臨(のぞ)めば、人(ひと)をして意(い)遠(とお)からしむ。
書(しょ)を雨雪(うせつ)の夜(よる)に読(よ)まば、人(ひと)をして神(かみ)清(きよ)からしめ、嘯(しょう)を丘阜(きゅうふ)の嶺(いただき)に舒(の)ぶれば、人(ひと)をして興(きょう)邁(まい)ならしむ。
高いところに登ると、人の心は広大になり、流れに接すれば、人の心は無辺となる。
雨や雪の日に読む書物は、人の心を崇高なものにし、小高い丘の上で詩歌を口ずさめば、人の心は深遠なものとなる。
つまり、人間は置かれた環境次第で広大無辺な心境を得られるし、頭の使い方次第で崇高深遠な心境が得られるのである。
言換えれば、達人は自分の心の置き場所や、頭の使い方を心して生きれば、有限な世界で無限な世界観を得られるということだ。
後集115項 心の広い人。狭い人
心曠則万鐘如瓦缶、心隘則一髪似車輪。
心(こころ)曠(ひろ)ければ、万鐘(ばんしょう)も瓦缶(がふ)の如(ごと)く、心(こころ)隘(せま)ければ、一髪(いっぱつ)も車輪(しゃりん)に似(に)たり。
心が広ければ高収入の意味は小さく、心が狭ければ一本の髪の毛も車輪にも値するほど意味が大きくなる。
つまり、心が広いと一般人が価値を見出すものでも、それの本質的な意味で価値判断するし、心が狭ければ上辺で解釈するので、些細なことでも一喜一憂してしまうという事。
言換えれば、達人は上辺の価値に左右される事無く、本質に注目しなさいということだ。
後集116項 物に使われない
無風月花柳、不成造化。
無情欲嗜好、不成心体。
只以我転物、不以物役我、則嗜慾莫非天機、塵情即是理境矣。
風月(ふうげつ)花柳(かりゅう)無(な)くば、造化(ぞうか)を成(な)さず。
情欲(じょうよく)嗜好(しこう)無(な)くば、心体(しんたい)を成(な)さず。
只(ただ)我(われ)を以(もっ)て物(もの)を転(てん)じ、物(もの)を以(もっ)て我(われ)を役(えき)せざれば、則(すなわ)ち嗜慾(しよく)も天機(てんき)に非(あら)ざるは莫(な)く、塵情(じんじょう)も即(すなわ)ち是(こ)れ理境(りきょう)なり。
風や月や花や木々という移ろい変化する物が無ければ、自然は成り立たない。
感情や欲望、好き嫌いが無ければ、人間の営みは成り立たない。
あくまでも、自分が主体となって物事に関われば、感情も人間として自然な
要素で無い事は無く、世俗にあっても理想郷に生きることができる。
つまり、人間は自分を取り囲んでいる物事に振り回されていれば理想郷に在っても俗世間といるように心は乱され、自分が主体となって物事に影響を与えていれば俗世間に居ても理想郷にいるのと同じことだと言っている。
言い換えれば、達人は全ての物事の主体として存在できれば何処に居ようと達理想郷であり、物事に振り回されている状態で何処に居て一喜一憂する俗世間に居るのと同じだという事を覚えておこう。
後集117項 無為にして化す
就一身了一身者、方能以万物付万物。
還天下於天下者、方能出世間於世間。
一身(いっしん)に就(つ)きて、一身(いっしん)を了(りょう)ずる者(もの)、方(はじ)めて能(よ)く万物(ばんぶつ)を以(もっ)て万物(ばんぶつ)に付(ふ)す。
天下(てんか)を天下(てんか)に還(かえ)す者(もの)は、方(はじ)めて能(よ)く世間(せけん)より世間(せけん)に出(い)ず。
自分自身、独力で悟りの境地を得た者は、それにより始めて万物の本来の在り方を観て、万物を在るがままの状態にしておける。
天下を本来在るべき姿に還した者は、それにより始めて、俗世間に在りながら俗世間を超えられる。
つまり、悟りとは自我を超え、自分を含め物全てに本質を観る事が出来、本来の在り方に委ねられ、社会を自然な流れ戻した者は、現象の内に在りながら本質の世界に生きられる。
言換えれば、達人とは、全ての事物を現象として認知し“在るがまま”を完全として受け止められる人間である。
後集118項 暇すぎても忙しすぎても
人生太閑、則別念竊生、太忙則真性不現。
故士君子不可不抱身心之憂、亦不可不耽風月之趣。
人生(じんせい)太(はなは)だ閑(かん)なれば、則(すなわ)ち別念(べつねん)竊(ひそ)かに生じ、太(はなは)だ忙(ぼう)なれば、則(すなわ)ち真性(しんせい)現(あらわ)れず。
故(ゆえ)に士君子(しくんし)、身心(しんしん)の憂(うれ)いを抱(いだか)ざる不可(べからず)、亦(また)風月(ふうげつ)の趣(おもむき)に耽(ふけ)らざる不可(べからず)。
人生が閑すぎると下衆な考えが浮かび、急がし過ぎると本性が現れない。
だから、上に立とうとする者は、適度な心配事を抱きつつ風流な趣味にも興じる必要がある。
つまり、適度な刺激がもたらすユーストレス状態こそ、その人間をその人間らしくするものなのだ。
言換えれば、達人は適度な質量の“すべき事”を持つ様にしないと心身ともに健康ではいられないということだ。
後集119項 ものみな真理の門
人心多従動処失真。
若一念不生、澄然静坐、雲興而悠然共逝、雨滴而冷然倶清、鳥啼而欣然有会、花落而瀟然自得。
何地非真境、何物無真機。
人心(じんしん)多(おお)く動処(どうしょ)真(しん)を失(うし)う。
若(もし)一念(いちねん)生(しょう)ぜず、澄然(ちょうぜん)静坐(せいざ)せば、雲(くも)興(おこ)り悠然(ゆうぜん)として共(とも)に逝(ゆ)き、雨(あめ)滴(したた)りて冷然(れいぜん)倶(とも)に清(きよ)く、鳥(とり)啼(な)いて欣然(きんぜん)として会(かい)する有(あ)り、花(はな)落(お)ちて瀟然(しょうぜん)として自得(じとく)す。
何(いず)れの地(ち)か真境(しんきょう)に非(あらざ)れば、何(いず)れの物(もの)か真機(しんき)無(な)からん。
人の心は、活動中にその本質を見失う。
もし、僅かな雑念も無く、清清しい心の状態で静坐すれば、雲が湧き上がれば雲と共に悠然と流れ、雨が降れば冷静さを得て清められ、鳥が鳴けば嬉々として鳴き声と一体化し、花が散れば大自然の営みの真理を見出せる。
どんな場所にも真理が現象していない処はなく、どのような物質にも真理が投影されている。
つまり、大自然の真理である「全ては現象である」という原理原則は宇宙といっあ極大の世界から素粒子におたる極小の世界までを貫いている。
言換えれば、達人は自分自身を極大と極小の交点と捕らえ、大自然を永遠に旅する存在と位置づける事が必要だろう。
翻って言えば、人間の生死など所詮は転換点の一種であり、取り立てて大きな問題では無いといえるだろう。だからこそ、在るがままの自然体で生きることが摂理なのだ。
後集120項 喜びも悲しみも忘れる
子生而母危、?積而盗窺、何喜非憂也。
貧可以節用、病可以保身、何憂非喜也。
故達人当順逆一視而欣戚両忘。
子(こ)生(う)れて而(すな)ち母(はは)危(あや)うく、?(きょう)積(つ)んで而(すな)わち盗(ぬすびと)窺(うかが)い、何(なん)の喜(よろ)びか憂(うれ)いに非(あら)ざらん也(や)。
貧(ひん)は以(もっ)て用(よう)を節(せつ)すべく、病(やまい)以(もつ)て身(み)を保(たも)つ可(べき)や、何(なん)の憂(うれ)いか喜(よろこ)びに非(あ)らざらん。
故(ゆえ)に達人(たつじん)は、当(まさ)に順逆(じゅうじゅん)一(いつ)に視(み)て、欣戚(きんせき)両忘(りょうぼう)すべし。
子供が生れる時、母は危険な状態となり、金が溜まれば泥棒に狙われ、どんな喜びも心配ばかりである。
貧乏は節約するようになり、病気は身体を大事にするよに、どんな心配事も不安ばかりではない。
だから、悟った者は、順境も逆境も表裏一体であることに気付き、喜び悲しみを両忘して調和できるのだ。
つまり、達人たるものは、極小である素粒子の世界も極大である宇宙の世界も、陰と陽、マイナスとプラスの調和ないし調和の僅かなズレが全て現象させていることを忘れてはならない。
言換えると、安定も揺らぎ、不安定も揺らいでいるからこそ現象は連続するという原理原則を理解しておこう。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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