・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] 、
[ 巻之下]
菜根譚(さいこんたん) 前集 151~180 洪自誠
《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》
前集151項 無理をしない
水不波則自定、鑑不翳則自明。
故心無可清。
去其混之者而清自現。
楽不必尋。
去其苦之者而楽自在。
水は波たたざれば則(すなわ)ち自(おのず)から定まり、鑑(かがみ)は翳(くも)らざれば、おのずから明らかなり。
故に心は清くすべき無し。
其の之を混(にご)らす者を去(のぞ)かば、清(せい)自(おの)ずから現わる。
楽しみは必ずしも尋ねず。
其の之を苦しむる者を去(のぞ)かば、楽しみ自(おの)ずから在(そん)す。
水は波が無ければ、自然と静かに定まり、鏡は曇らなければ自然と事実を映す。
だから、人の心はあえて清らかにすることはない。
心を曇らすものを取り省けば、本来の清らかさが自然と現れる。
同様に楽しみを外に求める必要はない。
心を苦しめるものを取り省けば、本来の楽しみは自然とそこにある。
つまり、人間の心はムクなので、汚れないようにしていれば良いので、綺麗にしようとする必要はない、ということ。
言換えれば、活人は鍛え清めるというようより、汚れないことが一番なのだ。
前集152項 たったいちどの失敗で
有一念而犯鬼神之禁、一言而傷天地之和、一事而醸子孫之禍者。
最宜切戒。
一念にして鬼神の禁を犯し、一言にして天地の和を傷(やぶ)り、一事(いちじ)にして子孫の禍いを醸(かも)す者有り。
最も宜しく切に戒(いまし)むべし。
ふとした思いが鬼神の掟を犯し、ふとした一言が世界の平和を破り、ふとした出来事が子孫に災いを及ぼす事がある。
細心の注意を心がけなさい。
つまり、極めて些細な事が、一生後悔するような大事になることがあるから、人生に油断は禁物だということ。
言換えれば、活人は何事にも慎重であれということ。
前集153項 自発的な変化を待つ
事有急之不白者、寛之或自明。
毋躁急以速其忿。
人有操之不従者、縦之或自化。
毋操切以益其頑。
事、之を急にして白(あきら)かならざる者(もの)有り、之を寛(ひろく)せば、或(ある)いは自(おのず)から明(あき)らかならん。
躁(さわ)ぎ急(いそ)ぎ以て其の忿(いか)りを速(いそぐ)くこと毋(なか)れ。
人、之を操(と)りて従(したが)わざる者有り、之を縦(はな)てば或(ある)いは自(おの)ずから化せん。
操(と)ること切(せつ)にして以て其の頑(がん)を益(ま)すこと毋(なか)れ。
物事は焦っても急き立ててもハッキリしない事があるが、ユッタリと構えれば自然とハッキリする明らかになることもある。
とにかく、事を急ぎ過ぎて相手を怒らせてはならない。
相手を操ろうとしたら反抗するが、自由にさせれば思い通りに動く者もいる。
とにかく、事を焦って意固地にさせてはならない。
つまり、時間というものは必ずしも自分と相手が同じ価値で動いているわけではないので、事を確実に成し遂げるには時間の緩急を使い分けることだ。
言換えれば、活人は以下なる時でも、観自在、自由自在であれ、ということ。
前集154項 小手先の芸
節義傲青雲、文章高白雪、若不以徳性陶鎔之、終為血気之私、技能之末。
節義は青雲に傲(おご)り、文章は白雪よりも高きも、若(も)し徳性(とくせい)を以て之を陶鎔(とうよう)せざれば、終(つい)に血気の私(し)、技能(ぎのう)の末と為(な)らん。
身の処し方は高級官僚のそれ以上で、学問や教養は「白雪の曲(高尚とされる琴の曲)」以上であっても、その人が本来もっている人間性以上を発揮していなければ、結局は私利私欲の血気にはやった行いでしかなく、技能も付け焼刃でしかない。
つまり、世渡りの術も教養も最高だとされている人は、最初から備わっている人徳以上に自分を磨き上げていないと、ただの付け焼刃をなってしまうということで、どんな人でも素養を磨き上げることが大事だということ。
言換えれば、活人は自分の強みを知って、強みを活かしている人材のことだ。
前集155項 隠退の潮時
謝事当謝於正盛之時、居身宜居於独後之地。
事を謝(しゃ)するは、当(まさ)に正盛(せいせい)の時に謝(しゃ)すべく、身を居(お)くは宜しく独後(どくご)の地に居(お)くべし。
引退(引き際)は全盛時代に行いない、職務(椅子)は取り合いの無い地位を引受なさい。
前集156項 恩を施す相手
謹徳須謹於至微之事、施恩務施於不報之人。
徳を謹(つつ)しむは、須(すべか)らく至微(しび)の事を謹しむべく、恩を施すは務めて報(ほう)ぜざるの人に施(ほどこ)せ。
人のきずかない細事についてこそ、行いを慎むべきだ。報恩を期待できない相手にこそ、恩を施すべきだ。
前集157項 山奥の老人を友としたい
交市人不如友山翁。
謁朱門不如親白屋。
聴街談巷語、不如聞樵歌牧詠。
談今人失徳過挙、不如述古人嘉言懿行。
市人(しじん)に交わるは、山翁(さんおう)を友とするに如かず。
朱門(しゅもん)に謁(えつ)するは、白屋(はくおく)に親しむに如かず。
街談巷語(がいだんこうご)を聴くは、樵歌牧詠(しょうかぼくえい)を聞くに如かず。
今人(きんじん)の失徳過挙(しっとくかきょ)を談(だん)ずるは、古人の嘉言懿行(かげんいこう)を述(の)ぶるに如かず。
町の俗人と付き合うより、山に住む老人を友達に持つ方が良い。
立派な家の偉い人に会うより、あばら家に住む庶民と交際する方が良い。
巷での世間話を聞くのは、木こりや牛飼いの歌を聞く方が良い。
現代人の失敗や功績を話し合うより、昔の賢人や聖人の言行を話した方が良い。
つまり、朱に交われば赤くなるという喩えがあるように、俗人の愚痴や成金の自慢話、一過性の経験談や一喜一憂する大衆の話は、害あって利なし。
言換えれば、活人は愚者に学び、愚者は活人に学べず、ということなのだ。。
前集158 事業を発展させる基礎
徳者事業之基。
未有基不固而棟宇堅久者。
徳(とく)は事業(じぎょう)の基(もとい)なり。
未だ基固(もとい)固(かた)からずして棟宇(とうじ)の堅久(けんきゅう)なる者有らず。
人柄は事業の基礎である。
かつて基礎が固まらないのに棟上(むねあげ)した家が長持ちしたことはない。
前集159項 子孫を繁栄させる根
心者後裔之根。
未有根不植而枝葉栄茂者
心(こころ)ある者は、後裔(こうえい)の根なり。
未だ根(ね)の植(た)たずして枝葉(えだは)の栄茂(えいも)する者有らず。
心は子孫の反映を左右する根本である。
根本である根がしっかりと張っていないのに、幹や葉が立派に成長したことはない。
つまり、何は無くても「基礎固め」ということ。
言換えれば、活人は、急いては事を仕損ずる、ということを戒めにしておきなさいということ。看脚下と同じように足元を見て心調えろということでもある。
前集160項 才能はあっても
前人云、抛却自家無尽蔵、沿門持鉢効貧児。
又云、暴富貧児休説夢、誰家竃裡火無烟。
一箴自眛所有、一箴自誇所有。
可為学問切戒。
前人(ぜんじん)云(い)う、「自家(じか)の無尽蔵(むじんぞう)を抛却(ほうきゃく)して、門に沿(そ)い鉢(はち)を持ちて貧児(ひんじ)に効(なら)う」と。
また云(い)う、「暴富(ぼうふ)の貧児(ひんじ)、夢を説(と)くことを休めよ、誰(た)が家の竃裡(そうり)か火に烟(けむり)無(な)からん」と。
一(いつ)は、自(みずか)らの所有(しょゆう)に昧(くら)きを箴(いまし)め、一(いつ)は、自(みずか)ら所有(しょゆう)に誇(ほこ)るを箴(いまし)む。
学問(がくもん)の切(せつ)なる戒(いまし)めと為(な)すべし。
昔の人は、自分の家の膨大な財産を忘れ去り、門塀に並んで乞食の子供の真似をする、と言う。
また、心の貧しい成金よ、ありもしない夢を語るのは止めよ、どこの家の台所からも食事の準備の煙が上がっている、と言う。
*五燈会元で無量崇寿禅師の言。
前者は自分に本来備わっている広大無辺の本心に気が付かないことに対する戒めで、後者は幻でしか過ぎない現世の財産を誇ることを戒めたのだ。
これらを、学問(多分に禅を指すだろう)の大切な戒めとしなさい。
つまり、目に見える幻ではなく、目に見えない現実を知らないで、学問は出来ませんよ、ということ。
言換えれば、活人は、ダイヤの原石を捨てて、金メッキの米粒を大事にするようなバカなことはするなよ、ということ。
前集161項 欠かせないもの二つ
道是一重公衆物事、当随人而接引。
学是一個尋常家飯、当随事而警惕。
道(どう)は是れ一重(いっちょう)の公衆(こうしゅう)の物事(ぶつじ)なり、当(まさ)に人に随(したが)いて接引(せついん)すべし。
学(がく)は是れ一個(いっこ)の尋常(じんじょう)の家飯(かはん)なり、当(まさ)に事に随いて警惕(けいてき)すべし。
道徳は万人に共通するものだが、人を見て導くべきである。
学問は極めて平凡なものだが、現象を見て警告すべきである。
つまり、心のレベルは人により大きく異なるので、人を観て法を説き、頭のレベルは誰しも大して違わないので、事あるごとにガンガン教え込むのが良いということ。
言い換えれば、活人は、部下に対し、知識は日常的に叩き込み、精神は相手に応じて引き出してやれ、ということだ。
前集162項 誠実とペテン
信人者、人未必尽誠、己則独誠矣。
疑人者、人未必皆詐、己則先詐矣。
人を信ずる者は、人(ひと)未(いま)だ必ずしも尽(ことごと)く誠(まこと)ならざるも、己(おのれ)は則(すなわ)ち独(ひと)り誠(まこと)なり。
人を疑う者は、人(ひと)未(いま)だ必ずしも皆(みな)詐(いつわ)らざるも、己(おのれ)則(すなわ)ち先(ま)ず詐(いつわ)れり。
他人を信じる者は、人間誰もが誠実であるとは限らないなかで、確実に誠実な人間である。
他人を疑う者は、人間誰もが不誠実とは限らないが、確実に不誠実な人間である。
つまり、他人は自分の鏡ですよ、ということ。言い換えれば、信じる人間は信じられ、疑う人間は疑われ、嘘をつく人間は嘘をつかれるのですよ、ということ。
前集163項 心の温かい人、冷たい人
念頭寛厚的、如春風煦育。
万物遭之而生。
念頭忌刻的、如朔雪陰凝。
万物遭之而死。
念頭(ねんとう)の寛厚(かんこう)なるは、春風(しゅんぷう)の煦育(くいく)するが如し。
万物(ばんぶつ)は之(これ)に遭(あ)いて生ず。
念頭(ねんとう)忌刻(きこく)なるは、朔雪(さくせつ)の陰凝(いんぎょう)するが如し。
万物は之に遭(あ)いて死す。
気持ちがゆったりとして豊かな人は、春の風が万物に息吹を吹き込み育てるように、恩恵を受けると成長する。
一方、残忍で冷酷な心の人は、北国の雪が万物を凍りつかせてしまうように、
災いに遭遇すればみな枯れて死んでしまう。
つまり、人間の価値は心の広さ温かさであり、それのみが全てを発展させる極意だということ。
言換えれば、活人の真価は心の質量で計られるということ。
前集164項 善行の成果、悪事のむくい
為善不見其益、如草裡東瓜。
自応暗長。
為悪不見其損、如庭前春雪。
当必潜消。
善を為(な)すも其の益を見ざるは、草裡(そうり)の東瓜(とうか)の如し。
自(おの)ずから応(まさ)に暗(あん)に長(ちょう)ずべし。
悪を為(な)すも其の損を見ざるは、庭前(ていぜん)の春雪(しゅんせつ)の如し。
当(まさ)に必(かなら)ず潜(ほそか)に消(き)ゆべし。
良いことをしても、その結果が見えないのは、草むらに自生するウリのようなもので、見えずとも自然に大きくなっているのだ。
これに対し、悪事を働いても、その報いが現れないのは庭先に積もった春の雪のようなもので、気が付かないうちに身を滅ぼしてゆくものだ。
つまり、良いことでも、悪いことでも、直ぐには結果が見えないことがあるが、良いことは良いことなり、悪いことは悪いことなりの結果が自然に出ますよ、ということ。
言換えれば、活人は、因果応報という法則を心に焼き付けておけということ。
前集165項 三つの心得
遇故旧之交、意気要愈新。
処隠微之事、心迹宜愈顕。
待衰朽之人、恩礼当愈隆。
故旧(こきゅう)の交(まじわり)に遇(あ)いては、意気(いき)愈(いよいよ)新(あら)たなるを要(よう)す。
隠微(いんび)の事(こと)に処(しょ)するは、心迹(しんせき)宜(よろ)しく愈(いよいよ)顕(あきらか)なるべし。
衰朽(すいきゅう)の人(ひと)を待(まつ)には、恩礼(おんれい)当(まさ)に愈(いよいよ)隆(さかん)にすべし。
昔馴染みとの関係は、互いに意気揚々となることが大事。
隠れて何かをする時は、公明正大な心で事に当たらることが大事。
老人を持て成すには、敬意と礼儀を最大化することが大事。
つまり、他人との交際は、その話しが善きにつけ、悪しきにつけ、誇張されて伝わるので、大げさにな事を考えて対処しておけということ。
言換えれば、活人には必ず尾鰭が付いてまわることを覚悟しておけということだ。
前集166項 私利をはかる道具
勤者敏於徳義。
而世人借勤、以済其貧。
倹者淡於貨利。
而世人仮、倹以飾其吝。
君子持身之符、反為小人営私之具矣。
惜哉。
勤(きん)は徳義(とくぎ)に敏(つと)む。
而(しか)るに世人(せじん)は勤(きん)を借(か)りて以(もつ)て其の貧(ひん)を済(すく)う。
倹(けん)は貨利(かり)に淡し。
而(しか)して世人(せじん)は倹(けん)を仮(か)りて以て其の吝()りんを飾(かざ)る。
君子(くんし)、身(み)を持(じ)するの符(ふ)は、反(かえ)りて小人(しょうじん)の私(わたし)を営(いとな)むの具(ぐ)と為(な)れり。
惜(お)しいかな。
勤勉ということは、道徳の実践に励むことである。
しかし、俗人は、勤勉の名を借りて、貧乏を脱出する事ばかりを考える。
倹約ということは、財産に淡白であることを言う。
しかし、俗人は、倹約の名を借りて、自分のケチを正当化する口実にしている。
人の上に立つ者にが自分を守る、この勤勉と倹約は、今や俗人の私利私欲を量(はか)る道具になってしまっている。
何とも残念なことだ。
つまり、勤勉と倹約という言葉を勝手に解釈している俗人は、自分の心の在り様を誤解し、都合の良いように言葉を使う。
言換えれば、活人は、言葉の意味を正確に知り、自分勝手に解釈しないことだ。
前集167項 思いつきは長続きしない
憑意興作為者、随作則随止。
豈是不退之輪。
従情識解悟者、有悟則有迷。
終非常明之橙。
意(い)の興(おこ)るに憑(よ)りて作為(さくい)する者は、随って作(な)さば則(すなわ)ち随(したが)って止(や)む。
豈是(あにこれ)不退(ふたい)の輪(りん)ならんや。
情(じょう)の識(し)るに従って解悟する者は、悟ること有(あ)らば則(すな)ち迷(まよ)うこと有(あ)り。
終(つい)に常明(じょうみょう)の橙(ともしび)に非(あら)ず。
気分次第で動く者は、始めれば直ぐに止めてしまう。
そんなことでは逆回転しない車輪ではない。(不退転の人間ではない)
同じように、俗人の知性レベルで悟ったかに思っている者は、偽の悟りなので一進一退で、結局は人々の常夜灯にはならない。
つまり、自分を高めようとする者は、普段から不退転を実践していないと、仮に大きな発見があり悟りに通じたとしても、それは風前の灯火でであり、ちょっと風が吹けば消えてしまう程度で、信用するに値しないということ覚えておけということ。
言換えれば、活人は、不退転の覚悟をもった人間ということだ。
前集168項 他人の苦しみを見過ごすな
人之過誤宜恕、而在己則不可恕。
己之困辱当忍、而在人則不可忍。
人の過誤(かご)は宜しく恕(ゆる)すべきも、而(しか)も己(おのれ)に在(あ)りては則(すなわ)ち恕(ゆる)すべからず。
己(おのれ)の困辱(こんじょく)は当(まさ)に忍(しの)ぶべきも、而(しか)も人に存(あ)りては則(すなわ)ち忍ぶべからず。
他人の過ちは許すようにすべきであるが、自分の過ちは許してはいけない。
自分の苦しみや辱めは耐えなければならないが、他人の苦境は黙っていてはいけない。
つまり、自分には本当の意味で厳しく、他人には本当の意味で優しくしなさいということ。
言換えると、活人は、教訓から本質を学び、上っ面の厳しさや優しさの惑わされるなということだ。
前集169項 高潔と偏屈の違い
能脱俗便是奇。
作意尚奇者、不為奇而為異。
不合汚便是清。
絶俗求清者、不為清而為激。
能(よ)く俗(ぞく)を脱(だっ)すれば、便(すなわ)ち是れ奇なり。
意(い)を作(な)して奇(き)を尚(とうと)ぶ者は、奇と為(な)さずして異(い)と為(な)す。
汚(けがれ)に合(がっ)せざれば、便(すなわ)ち是れ清(せい)なり。
俗(ぞく)を絶(た)ちて清(せい)を求(もと)むる者(もの)は、清(せい)と為(な)さずして激(げき)と為す。
俗人の世界を超越できることは非凡である。
故意に奇をてらう者は、奇人ではなく変人である。
汚れに染まらないことが高潔である。
俗人の世界を超越して高潔を求める者は、高潔ではなく過激である。
つまり、本質は身近にあり、それを知らない者は過剰反応するが、それは浅智慧で本物ではないということ。
言い換えれば、活人が人間的に向上しようとする時は、形式ではなく、日常生活での実践こそ大事だということ。
前集170項 人情の機微
恩宜自淡而濃。
先濃後淡者、人忘其恵。
威宜自厳而寛。
先寛後厳者、人怨其酷。
恩(おん)は宜(よろ)しく淡(たん)自(よ)りて濃(のう)なるべし。
濃(のう)を先(さき)にし淡(たん)を後(あと)にするは、人(ひと)其の恵(めぐみ)を忘(わす)る。
威(い)は宜(よろ)しく厳(げん)自(よ)りして寛(かん)なるべし。
寛(かん)を先(さき)にして厳(げん)を後(あと)にするは、人(ひと)其の酷(こく)を怨(うら)む。
恩恵とは最初は薄く、後を厚くすべきである。
最初は厚く、後で薄くなると、人はその恩恵を忘れる。
威厳とは最初は厳格に、後は寛大にすべきである。
最初に寛大で、後で厳格になると、人はその残酷さを怨む。
つまり、人間は最初の印象が強いので、どんな場合でも、相手にとって損から始め、徐々に得に持っていかないと好意は逆効果になるということ。
言換えれば、活人は心理学者であり、心理技術の実践者であることを要すのである。
前集171項 雑念を去る
心虚則性現。
不息心而求見性、如撥波覓月。
意浄則心清。
不了意而求明心、如索鏡増塵。
心(こころ)虚(むな)しければ則(すなわ)ち性(しょう)現(あら)わる。
心を息(とど)めずして性(しょう)を見(み)んことを求(もと)むるは、波(なみ)を撥(ひら)きて月(つき)を覓(もと)むるが如(ごと)し。
意(い)浄(きよ)ければ則(すなわ)ち心(こころ)清(きよ)し。
意(い)を了(りょう)ぜずして心(こころ)を明(あき)らかにせんことを求(もと)むるは、鏡(かがみ)を索(もと)めて塵(ちり)を増(ま)すが如し。
心を沈静して空しくすれば、本性(ほんしょう)が現れる。
心を動揺させたまま本性を見ようとするのは、波をかき分けて月を見ようとするのと同じである。
表層の意識が清ければ、本性も清い。
意識の整理をしないで本性を見ようとするのは、汚れる鏡で自分の姿を見ようとするのと同じである。
つまり、本当の自分を知ろうとするなら、先ずは意識的に心を静めてからでないと、本性は見えないということである。
言い換えれば、活人は、先ずは形式を重視して坐禅を組み、心を穏やかにして本性を見ろ、ということになる。
翻って言えば、活人は、有為自然から無為自然。形式から本質。対症療法から根本療法へという転位転換を心がけなければならない。
前集172項 人格と無関係
我貴而人奉之、奉此峨冠大帯也。
我賤而人侮之、侮此布衣草履也。
然則原非奉我、我胡為喜。
原非侮我、我胡為怒。
我(われ)貴(とうと)くして、人、之れを奉(ほう)ずるは、此の峨冠大帯(がかんだいたい)を奉(ほう)ずるなり。
我(われ)賤(いや)しくして、人、之れを侮(あなど)るは、此の布衣草履(ふいそうり)を侮(あなど)るなり。
然(しか)らば、則(すなわ)ち原(もと)より我(われ)を奉(ほう)ずるに非(あら)ず、我(われ)胡為(なんす)れぞ喜(よろこ)ばん。
原(もと)より我(われ)を侮(あなど)るに非(あら)ず、我、胡為(なんすれぞ怒(いか)らん。
私は高い地位にあって人が尊敬するのは、外見の立派さからだ。
私が低い地位であって人が軽蔑するのは、外見の貧相からだ。
そうとすれば、人は見かけを尊敬しているだけなので、どうして喜べるだろう。
また、人は見かけで軽蔑しているだけなので、どうして怒れるだろうか。
つまり、自分が他人から思われている感情は、所詮は外見や立場が与える幻想で、自分の本性に対してではないので、喜んだり悲しんだり、誇ったり蔑んだりするのはナンセンスということ。
言い換えれば、活人は、立派な服装で高給な車に乗るのではなく、立派な服装で高級な車に乗っている人が偉いと下衆な人間には見えるだけだということを知っておけということ。
前集173項 思いやりがなければ
為鼠常留飯、憐蛾不点燈。
古人此等念頭、是吾人一点生生之機。
無此便所謂土木形骸而已。
「鼠(ねずみ)の為に常に飯(めし)を留め、蛾(が)を憐(あわ)れみて燈(ともしび)を点(つ)けず」。
古人の此等(これら)の念頭(ねんとう)は、これ吾人(ごじん)の一点の生々(せいせい)の機(き)なり。
此れ無ければ、便(すなわ)ち所謂(いわゆる)土木(どぼく)の形骸(けいがい)のみ。
「ネズミの為にいつも飯を残しておき、蛾を可愛そうに思いランプをつけない」(蘇東坡「蘇軾詩集39巻」の詩)
昔の人のこのような心使いが、我々が生きてゆく上での重要な心がけである。
このような心がけが無ければ、我々は土や木で出来た人形と同じような心の無い存在なのだ。
つまり、人間として生きて行く、ということは全ての生命に畏敬の念を持つことなのだ。
言換えれば、活人は、生命を軽視する人間は、単なる人間の皮を被った抜け殻にようなものだとして排除しておくことだ。
前集174項 心にわだかまりなし
心体便是天体。
一念之喜、景星慶雲。
一念之怒、震雷暴雨。
一念之慈、和風甘露。
一念之厳、烈日秋霜。
何者少得。
只要随起随滅、廓然無碍。
便与太虚同体。
心体(しんたい)は、便(すなわ)ち是れ天体(てんたい)なり。
一念(いちねん)の喜(よろこ)びは、景星慶雲(けいせいけいうん)なり。
一念の怒(いか)りは、震雷暴雨(しんらいぼうう)なり。
一念の慈(いつく)しみは、和風甘露(わふうかんろ)なり。
一念の厳(きび)しさは、烈日秋霜(れつじつしゅうう)なり。
何者(なにもの)か少(か)き得(え)ん。
只(ただ)、随(した)って起(おこ)り随(したが)って滅(めっ)し、廓然(かくぜん)として碍(さわり)無(な)きを要(よう)せば、便(すなわ)ち太虚(たいきょ)と体(たい)を同(おな)じくす。
人間の心は、そのまま宇宙と相似である。
喜びの心は、めでたい星やめでたい雲である。
怒りの心は、轟く雷や激しい雨である。
慈しみの心は、のどかな風や恵みの雨である。
厳しい心は、照りつける太陽や秋の霜である。
どれも欠くことが出来ない。
ただ、現象すれば直ぐに消え、その後はカラリとして後を引かないので、宇宙と心は相似形といえるのである。
つまり、宇宙をマクロコスモス、心をミクロコスモスと言い、ありとあらゆる現象が相似形なので、心は大宇宙に学べるということ。
言換えれば、活人は、脳こそ正に宇宙の一部であり、宇宙こそ脳であると考えるのが合理的であることを覚えておきなさい。
前集175項 暇なとき、忙しいとき
無事時心易昏冥。
宜寂寂而照以惺惺。
有事時心易奔逸。
宜惺惺而主以寂寂。
事(こと)無(な)きの時(とき)は、心(こころ)、昏冥(こんめい)し易(や)すし。
宜(よろ)しく寂寂(せきせき)にして、照(てら)すに惺惺(せいせい)を以(もつ)てすべし。
事(こと)有(あ)るの時(とき)は、心(こころ)、奔逸(ほんいつ)し易(や)すし。
宜しく惺惺(せいせい)にして、主(しゅ)とするに寂寂(せきせき)を以(もつ)てすべし。
何の事件も起こらない時は、心がボンヤリし易い。
だから、静かで澄み切った心で見なさい。
これに反して事件が有る時は、心が常軌を逸し易い。
だから、澄み切った静かな心で見なさい、
つまり、どんな時でも、心静かに、澄み切った気持ちで居なさいということ。
言い換えれば、活人には、「平常心是道」を座右の銘にしておくことを奨める。
前集176項 議論のとき、実行のとき
議事者、身在事外、宜悉利害之情。
任事者、身居事中、当忘利害之慮。
事(こと)を議(ぎ)する者(もの)は、身(み)、事の外(そと)に在(あ)りて、宜(よろ)しく利害(りがい)の情(じょう)を悉(つく)すべし。
事に任(にん)ずる者は、身、事の中に居(あ)りて、当(まさ)に利害の慮(おもんぱかり)りを忘(わす)るべし。
物事を考える時は、我が身を客観的な立場において利害に対する判断を十分に考慮しなさい。
しかしそれを実行する時は当事者となって利害に対する打算を忘れなさい。
つまり、物事は始まるまでは多面的に考え付くし、いざ実行する段になれば、あれこれ考えずに只管行動しなさいということ。
言い換えれば、活人は、始まるまでは頭で考え尽くし、始まれば心で行動し尽くせということ。
前集177項 要職にあるとき
士君子、処権門要路、操履要厳明、心気要和易。
毋少随而近腥羶之党、亦毋過激而犯蜂蠍之毒。
士君子(しくんし)、権門要路(けんもんようろ)に処(お)らば、操履(そうり)は厳明(げんめい)なるを要(よう)し、心気(しんき)は和易(わい)なるを要(よう)す。
少(わず)かも随(ほしいまま)にして腥羶(せいせん)の党(とう)に近づくこと毋(なか)れ、亦(また)過激(かげき)にして蜂蠍(ほうたい)の毒(どく)を犯(おか)さるること毋(なか)れ。
上に立つ者は、権力を行使する重要な地位にあるときは、言行は公明正大で、心は穏やかでなければならない。
そして、フラフラと腹黒い下衆な人間に近づいてはならないし、蜂やサソリのような毒をもつ過激な輩に突き込まれてはならない。
つまり、上に立つ者は、正々堂々と立ち、軽薄な行動や、無防備な状態をつくってはならないということ。
言換えれば、活人は、軽薄で無防備になるな、さすれば組織はアッという間に壊れて下々の者は路頭に迷うということを戒めにしろということ。
前集178項 安全な生き方
標節義者、必以節義受謗、榜道学者、常因道学招尤。
故君子不近悪事、亦不立善名、只渾然和気、纔是居身之珍。
節義(せつぎ)を標(ひょうする)する者(もの)、必ず節義をもって謗(そしり)りを受け、道学(どうがく)を榜(ぼう)する者、常(つね)に道学に因(よ)りて尤(とがめ)を招(まね)く。
故(ゆえ)に君子(くんし)、悪事(あくじ)に近づかず、亦(また)善名(ぜんめい)を立てず、只(ただ)渾然(こんぜん)たる和気(わき)のみ。
纔(わず)かに是(こ)れ身(み)を居(お)くの珍(ちん)なり。
節義(建前の?)あることを自慢する者は、必ず、その節義を理由に非難され、道学に関する教養を振り回す者は、常に、その道学を理由に警告される。
故に、上に立つ者は、悪事に近づかず、良い評判も立たないようにし、只、温和で円満な気持ちを持つべきである。
それだけが、身の処し方の最上の道だろう。
つまり、上辺の礼儀作法や知的教養を売り物にする者は、同じジャンルが弱点となり突き込まれるので、上に立つ者は、能ある鷹は爪を隠し、秘すれば華、秘さざれば華ならずを戒めに、只管、柔和温和な心でいるのがベストな方法なのだということ覚えておけ。
言い換えれば、活人は、出る釘を打たれ、出ない釘は抜かれるので、中庸こそが最良の処世術だということを忘れるなということ。
前集179項 正しい道につかせる
遇欺詐的人、以誠心感動之、遇暴戻的人、以和気薫蒸之、遇傾邪私曲的人、以名義気節激礪之。
天下無不入我陶冶中矣。
欺詐(きき)の人(ひと)に遇(あ)わば、誠心(せいしん)を以(もっ)て之(これ)を感動させ、暴戻(ぼうれい)の人(ひと)に遇(あ)わば、和気(わき)を以(もっ)て之(これ)を薫蒸(くんじょう)せしめ、傾邪私曲(けいじゃしきょく)の人に遇(あ)わば、名義気節(めいぎきせつ)を以て之(これ)を激礪(げきれい)す。
天下(てんか)、我が陶冶(とうや)の中(なか)に入らざること無し。
嘘つきの人間に会ったら、真心を尽くして揺り動かし(感動)、乱暴で道を外した人にあったら、温和な心で薫蒸(善に感化)し、邪悪な捻くれ者に会ったら、大義名分と意欲で励まし。
そうすれば、世の中に自分の指導力が通用しない人間はいない。
つまり、どんな人間でも適切な対応をすれば、改心させることが出来るということ。
言い換えれば、活人は、人を観て法を説き、相手の個性上の癖に応じた固有に説得法を身に付けなさいということで、それが出来ないようでは指導力があるとはとても言えませんということを覚えておこう。
前集180項 いたわりと潔白
一念慈祥、可以?醸両間和気、寸心潔白、可以昭垂百代清芬。
一念(いちねん)の慈祥(じしょう)は、以(もっ)て両間(りょうかん)の和気(わき)を?醸(うんじょう)すべく、寸心(すんしん)の潔白(けっぱく)は、もって百代(ひゃくだい)の清芬(せいふん)を昭垂(しょうすい)す(べし)。
少しの慈悲心が、天と地の間にある人間の温和な気風を醸し出し、少しの潔白心(清心)が、百代先(永遠)まで、匂わんばかりに清々しく心を伝える。
つまり、誰某(だれそれ)、彼是(あれこれ)といった偏りの無い菩薩のような本当の慈しみや思いやり、そして清廉潔白な心は、どんな人間にも人間本来の温和か心を思い出させ、その清々しい心は永遠に伝えられるということ。
言い換えれば、活人は、「菩薩」のような人を目指しなさいということ。
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引用文献
菜根譚(さいこんたん)
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、
主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。
その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。
中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって
文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。
尊経閣文庫に明本が所蔵されている。
菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、
節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。
敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、
便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」
(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、
先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。
物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)
などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。
また実業家や政治家などにも愛読されてきた。
(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅
参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、
・[菜根譚 - Wikipedia]
善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。
江守孝三 (Emori Kozo)
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